現代児童文学

国内外の現代児童文学史や現代児童文学論についての考察や論文及び作品論や創作や参考文献を、できれば毎日記載します。

逆走

2018-12-17 09:04:12 | 作品
 ママの運転する車が、駅前の広いロータリーにゆっくりと入っていく。まだ時間が早いせいか、ロータリーにはほとんど他の車はいなかった。客待ちのタクシーが、ポツンと一台止まっているだけだ。
 塾へ行くときには、いつもママが駅まで車で送ってくれる。ぼくの家から駅まではバスで十分ぐらいだったけれど、この時間帯は本数が少なかった。
 これから、電車で二つ先のターミナル駅の駅前にある大手進学塾へいくのが、月曜日から金曜日までのぼくの習慣だ。塾の特進コースにも通っているので、毎日授業がある。月水金が普通クラスで、火木が特進クラスだった。
「それじゃ、帰りのメールを送ってね」
 ぼくが後ろの席のドアを開けたとき、ママが言った。連絡するのはいつもの決まりきったことなのに、ママは必ずこう確認する。帰りは、塾を出たときに、LINEで連絡することになっていた。その時間に合わせてスマホで電車の到着時間を検索して、ママはまたこの駅まで車で迎えに来てくれるのだ。
「わかった。じゃあ、行ってきます」
 これもいつものせりふ。四年生になって塾へ通うようになって以来、こんなママとのやりとりが、ずっと繰り返されている。
 階段を下りる前に、ぼくは後ろを振り返った。
 ママの車は、ロータリーをまわって大急ぎで引き返していく。これから、私立中学に通うにいさんやパパの夕食の準備をするのだろう。
 ぼくは、ハンバーグとサラダの早めの夕ご飯をすでに食べていた。これから、九時過ぎまで、がんばって勉強をしなければならない。ぼくが受ける私立中学の入試は、もう三ヵ月後に迫っていた。

 ぼくの第一志望は、東大合格者数一位の中高一貫校だ。二つ年上の兄は、この学校に見事に受かっている。だから、ぼくはかなりプレッシャーを感じていた。
 残念ながら、ぼくの成績はにいさんよりはだいぶ悪いので、滑り止めも含めて全部で六校も受験する予定だ。ただし、最終目標はあくまで大学受験の時の東大合格なので、私立大学の付属校は受けない予定だった
 ぼくの塾では、成績別のクラス編成になっている。ぼくは、一番上の難関私立受験クラスに入っていた。
 しかし、ぼくは、ここにきて成績が伸び悩んでいた。そのため、受験に失敗したらどうしようかと悩んでいる。なんだか、六つとも落ちてしまうような気がするのだ。
 駅までおかあさんが車で送り迎えしてくれるのは、にいさんが受験した時と同じだ。これも、ぼくにとっては、けっこうプレッシャーになっていた。
 ぼくにとっての唯一の息抜きは、往き帰りの電車の中でやる携帯ゲームだ。今は、恋愛シミュレーションゲームをやっている。ゲームの中では、仮想のガールフレンドである美月と付き合っていた。キーボードと画面を通して美月と会話している間だけは、ぼくはホッとできた。塾のクラスに、美月に少し似た女の子の薫がいた。ぼくは薫に声をかけたいといつも思っていたが、大事な受験前なので我慢していた。それに、薫は女子校を、ぼくは男子校を受けるので、中学になったらどうせお別れなのだ。

 グィーーン。
 階段まで走っていくと、下りのエスカレーターが動き出した。センサーで検知して、人が来たときだけ動くようになっている。動いているエスカレーターを、そのままとまらずにかけおりていった。
 下まで降りると、だだっぴろい駅の構内に出られる。頭の上は、サッカースタジアムの入り口のような白い吊り天井でおおわれていた。
 でも、ここにもまだ人の姿はまばらだった。この駅は、造成中の新興住宅地にできた新しい駅で、数年前に開業したばかりだ。将来の乗降客の増加に合わせて、どこもゆったりと作られている。
 でも、まだ周辺に空き地の目立つ現在では、なんだかそれも間が抜けて感じられた。
 駅の自動改札のセンサーに、SUICAをかざす。
 バタン。
 いきおいよく開閉扉が開いた。修平は、小走りに改札を抜けた。
 電光掲示板には、上りと下りの電車が表示されている。
(次は17時23分か)
 ぼくの乗る上りの電車には、まだ時間があった。
 構内には、小規模のコンビニがある。ぼくは店の中に入っていった。
 雑誌売り場では、立ち読みしている人たちがいた。
 でも、ぼくには、マンガ雑誌を立ち読みするほどの時間の余裕はない。つきあたりの冷蔵の棚から、ダイエットコークを一本取り出した。さいわい、レジにはお客が並んでいなかった。
「百四十七円です」
「SUICAでお願いします」
 ぼくはレジのおねえさんにそういうと、端末にSUICAをかざした。

 ホームに向かう階段にも、上下ともにエスカレーターが完備されている。今度は走らずに、ゆっくりとホームへ降りていった。
 ホームでは、ぼくが乗る上りの方には、もう待っている人がいた。
 でも、反対の下り側にはいつものように誰もいなかった。通勤や通学と逆方向になるからだ。だから、いつでも車内はガラガラのようだった。
 もう九月もなかばだというのに、今日は暑い一日だった。ぼくは、プラスチックのベンチに腰をおろした。
 バッグから、さっき買ったばかりのダイエットコークを取り出す。
 シュッ。
 キャップをひねると、炭酸の泡の音がした。
 ゴクゴクとのどを鳴らして、一気に三分の一ぐらいを飲み干す。
「プハーッ」
 冷たさと炭酸とで、のどがキューンとする。いっぺんでかわきがいやされた。
 ホームの時計を見上げると、五時二十二分になっている。発車時刻が近づいているので、まわりに人が増えてきた。
 ぼくは、ダイエットコークのボトルをまたバッグにしまうと、ベンチから立ち上がった。

 発車時刻になっても、上りの電車はなかなか姿を見せなかった。
 待っている人たちが、ザワザワしはじめていた。もう五分も遅れている。
 みんな、列車の来る方向をながめていた。近くにある高校の生徒なのか、同じ制服の人たちが多い。
 その時、駅員のアナウンスがホームに流れた。
「……、途中のM駅で人身事故が発生したため、上り電車は運転を見合わせています。お急ぎのところ、まことに申し訳ありませんが、……」
(人身事故かあ)
 アナウンスを聞いて、嫌な気持ちがした。
「人身事故って、本当は飛び込み自殺のことなんだよ」
って、塾で同じクラスのキーちゃんから聞いたことがある。今日も、M駅で誰かが飛び込み自殺をしたのかもしれない。その人はどんな悩みを抱えていたのだろう。
 アナウンスによると、いつ発車するか見込みが立たないとのことだった。このままだと、塾に遅刻してしまうのは確実だった。
(後から一人で教室に入っていくのか)
 そう思うと、なんだかうんざりした気分だった。

 と、そのとき、今度は録音されたアナウンスがホームに流れた。
「まもなく下り線に電車が到着します。黄色い線まで、……」
 電車が停まっていたのは上り電車だけで、下りはまだ動いていたのだろう。
 ぼくは、ホームの反対側にまわった。ホームから体を乗り出して、電車の来る方向をながめた。
 ファーーン。
 運転士が軽く警笛をならした。ぼくに対する警告だろう。あわてて体を引いた。こんな所で事故ったら眼もあてられない。
 でも、もしそのまま電車にはねられていたら、やはり「人身事故」として処理されるのだろう。
そして、明日の新聞の地方欄に、
『小学生が飛び込み自殺、中学受験を苦にしてか?』
と、見出しに書かれてしまうかもしれない。
 やがて、ウグイス色の電車がホームにすべり込んできた。だんだんにスピードが落ちていく。それにつれて、なぜかぼくの心臓はドキドキしてきた。
(この電車に乗ったら、どうなるのだろう?)
 急に、今日だけは塾へ行きたくなくなった。
 完全に停車すると同時に、電車のドアが開いた。パラパラと、数人の乗客が降りてきたけれど、乗る人はだれもいない。
「まもなく発車します」
 ピリピリピリ。
 ドアが閉まる寸前に、ぼくは反射的に電車に飛び乗ってしまった。 

 電車はゆっくりとスピードをあげていく。車内は思ったとおりガラガラで、ぼくは七人がけの広い座席を独り占めしていた。
 上半身をひねって窓の外を見ると、見慣れぬ風景が流れていく。こちらの方向の電車には、あまり乗ったことがなかった。
 ぼくは、ぼんやりとその風景をながめていた。もう夕方なのにカラフルな洗濯物が干されたままになっているマンションや、ところどころに古い建物があるだけの広い敷地の工場などが続いている。
 電車は、見知らぬ駅にいくつかとまった。腕時計を見ると、六時を過ぎたところだ。塾では、一時間目の授業が始まっているだろう。

 ぼくはまた、少し薄暗くなり始めた外の風景をながめながら、最近の自分のことを考えていた。
 半年前に少年野球チームをやめてから、たしかに塾でのぼくの成績は上がった。それまで野球のために今までは出られなかった火曜と木曜の特進クラスや、土曜や日曜の模擬テストを、受けられるようになったせいかもしれない。
 ぼくの入っていた少年野球チームは、五月の郡大会で敗れてしまって、夏の県大会への道は閉ざされてしまっていた。それをきっかけにして、ぼくはチームをやめたのだった。
 本当は、六年生は毎年秋の町の大会まではチームに残ることになっていた。そのため、このときにやめたのは、ぼく一人だった。ぼくは主力選手だったので監督やコーチは残念がっていたが、最後には受験勉強をがんばるようにと励ましてくれた。

 少年野球をやめたおかげか、塾の勉強に百パーセント集中できていた。
 ぼくの通っている塾では、成績別にクラスが分かれている。全部で七クラスがあって、一番上のクラスは、国立や最難関私立を受験するクラスだ。
 少年野球をやめるまでは、ぼくは上から三番目か四番目のクラスにいた。
 でも、今では、一番上の難関私立受験クラスまであがっていた。
 ぼくの、いやママのといった方が正しいかもしれないが、第一志望校は、東大合格数一位の最難関私立校だった。
 この間の、塾の三者面談では、今の成績ではまだ難しいといわれている。第二、第三志望は、成績上位ならば東大合格も可能な難関私立校だった。そこだったら、たぶん大丈夫だろうというところまではきていた。
 でも、実際には滑り止めの学校も受けるので、全部で六校を受験することになっていた。
 ママは、私立中学受験にぼくたち兄弟以上に熱心だった。月に四万円以上かかるぼくの塾代を出すために、ぼくが学校に行っている時間はパートで働いている。さらに、私立中学に受かったら、授業料のためにフルタイムにするといっていた。塾の父母会にも欠かさず出席して、ぼくの成績の上下に一喜一憂していた。

 T駅で、たくさんの人たちが乗り込んできた。高校生たちにまじって、サラリーマンやOLも増えている。みんな勤めの帰りなのだろう。そろそろ、帰宅ラッシュの時間に近づいたのかもしれない。
 外はだんだん暗くなり始めている。ぼくは、もう風景を眺めることもせずに、まっすぐ前を向いて腰をおろしていた。
 とうとう電車が終点の駅に着いた。大勢の人たちが降りていく。
 でも、ぼくはそのまま座っていた。
 電車は車庫に入らすに、折り返し運転になるらしい。ぼくは、そのまま引き返すことにした。
 その時、アナウンスが流れた。
「お急ぎのところ、まことに申し訳ありませんが、M駅で発生した人身事故により、上り電車はダイヤが大変乱れております。時間調整のため、しばらく発車を見合わせます。また、状況がわかりしだい、……」
(どのくらい遅れるのだろう。あまり遅くなって、塾が終わる時間を過ぎたらまずいな)
と、思った。おかあさんに、塾をさぼったことを感づかれてしまうかもしれない。
 しばらくして、電車はようやく逆方向に走りだした。ぼくはホッとした気分だった。
 でも、まだノロノロ運転だ。まあ普通に走ったのでは、自分が降りる駅に早く着き過ぎてしまうので、ぼくにはちょうど良かったけれど。
 ぼくはもう一度振り返って外を眺めた。空はもう真っ暗になっていて、建物の明かりが輝いている。
 電車は、また人々を乗せたりおろしたりしながら、ゆっくりと走っていく。ぼくは、もう外を眺めることなく、ぼんやりと腰を下ろしていた。

 もうすぐぼくの駅に到着するとき、スマホで時間を見た。うまい具合にちょうど塾が終わる時刻だった。
(迎えに来て)
 ぼくは、ママ宛てに帰りのLINEを送った。LINEのメールだと場所がわからないから、ママにはどこに行っていたかはわからない。
 電車がぼくの降りる駅に着いた。
 ぼくは、ホームから走り去っていく電車を見送った。
(明日からは、またあの塾に向かう電車に乗るのだろう)
 そう思いながら、ぼくはゆっくりと階段を登り始めた。


中学受験「必笑法」 (中公新書ラクレ)
クリエーター情報なし
中央公論新社




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キャプテン佐藤とスーパーキッズ

2018-12-16 12:58:06 | 作品
 隆志の家族にとって、世界の中心は真子ねえさん(マコネー)だ。
 マコネーを真っ青な空に輝く太陽としたら、隆志なんか、夜空の月。いや、ダンボールで拵えたただのペーパームーンかもしれない。
 小さい頃から、可愛くて、しかも賢いマコネーは、とうさんやかあさんの自慢の種だった。
七五三の時だけでなく、毎年、写真スタジオで撮ったマコネーの写真のパネルが、居間の周りをグルリと取り囲んでいる。アイドルのような派手な衣装を着ても、不思議なくらい似合ってしまう。いや、本物のアイドルなんかより、よっぽど可愛かったかもしれない。
(何かのグッズにプリントして売り出したら、爆発的に売れたりして)
 七年後に、ヒョッコリと隆志が生まれてからも、マコネーの王座は微塵も揺らがなかった。ちょうど小学校に上がったばかりのマコネーは、今度はクラスや学校中の人気者になっていた。
 禿げちゃびんで泣いてばかりの赤ん坊なんて、両親にとっては単なるオマケの様な物だったかもしれない。隆志にとって唯一の赤ちゃんの時の写真パネル(隆志が生まれた産婦人科医院では、院長先生がそこで出産した赤ちゃんは全員、記念に写真を撮って小さなパネルにしてくれていた)は、食器棚の上でホコリを被っている。
 家ばかりではない。卒業してもう六年以上もたつのに、マコネーは若葉小学校では、今だに「生ける伝説」として語り継がれている。
 児童会長にして、文化祭の劇では作者兼演出家兼ヒロイン。運動会では、応援団長兼騎馬戦の大将兼対抗リレーのアンカーを務めて、赤組を勝利に導いた。ミニバスケットチームでは、市大会の得点王でチームを優勝させてMVPに選ばれた。その他、数え切れないほどの栄光に包まれたマコネーの小学校時代。さらに、若葉小学校では誰も受かった事のない最難関私立中に、塾にも通わずにあっさり合格してしまったのだ。
(なんで、隆志がマコネーの小学校時代について、こんなに詳しいかって?) 
 だって運の悪い事に、マコネーの六年の時の担任だったのが、今の校長先生なのだ。
 今日もこんな事があった。
 隆志は啓太やジュンくんと一緒に、いつもの様に廊下をドタドタと走り回っていた。
 ガラガラガラッ。
 いきなり校長室の戸が開いた。禿げ頭の校長先生(もちろんあだなはピカチューだ)が、顔を覗かせた。
「うるさいなあ。廊下を走っちゃだめだろ。ちょっとこっちに来なさい」
 気が付くと、啓太もジュンくんも、もう姿が見えない。ほんとにすばしっこい奴らだ。
 しょうがないので、隆志は一人でピカチューのもとにスゴスゴと歩いていった。
「また、石川くんか」
 ピカチューは、呆れたような顔をしていた。
「すみません」
と、隆志が頭を下げると、
「本当に君は落ち着きがないねえ。それに引き替え、君のおねえさんは、……」
 また始まった。今日だけじゃない。隆志の顔を見るたびに、
(いかに石川くんのおねえさんが素晴らしかった)
かを、長々と話し出すのだ。
こうして隆志は、たっぷりとさっきいったような伝説的な思い出話を、聞かされてしまう事になる。しかも、そんな時、ピカチューは、遠くを見つめるようなうっとりした表情まで浮かべているのだからたまらない。

 2月のある晩、隆志は居間のテレビの前で「スーパープロ野球」をやっていた。お年玉で買った新しいゲームソフトだ。
「タカちゃん、見つけてあげたよ」
 大学から帰ってきたマコネーが、居間に入ってくるなり隆志に向かって言った。
「お帰り、ところで何を見つけたの?」
「何って、あなたたちの監督じゃない」
「監督?」
「ヤングリーブスのよ」
 ヤングリーブスっていうのは、隆志が入っている少年野球チームだ。
「どうして?」
「だって、捜していたじゃない?」
 マコネーは、さっさと二階の自分の部屋へ行こうとしている。
「誰?」
 隆志は跳ね起きると、階段の下まで付いていった。
「佐藤くんよ」
「佐藤くんって?」
 でも、マコネーはトントンと階段を登っていくと、そのまま部屋に入ってしまった。さすがの隆志も部屋の中までは付いていけない。なにしろマコネーは、自分の部屋に入るなり、ほとんど全裸同然の格好になるからだ。

 大学に入るまでマコネーが熱中していたのは、なんと「受験勉強」だった。さすがのマコネーも、今回は塾に通わないで受験するのは無理な様だった。高校生になってからというもの、放課後には毎日熱心に予備校に通っていた。
 でも、これはいわゆる「ガリ勉」といった様な、悲壮感の漂ったものではなかった。純粋に「受験勉強」に興味をそそられた様なのだ。そして、ここでも持ち前の集中力を発揮して、成績をグングン伸ばしてしまった。なにしろ、どこの大学でも合格間違いなしという、全国模擬試験で百番以内の常連になってしまったのだ。もちろん予備校でも大人気で、「模試の女王」というニックネームまでゲットしていた。そして、あっさりと現役で、一番偏差値が高いと言われている大学に合格してしまった。
 大学に入ると、マコネーは一転して今度は「恋愛ごっこ」に熱中し始めた。当然すごくもてるから、すぐにいっぱいボーイフレンドができた。そして、家に連れてくる相手は、毎月クルクルと変わっていた。
ジャニーズ系のイケメン。ポルシェを乗り回している金持ちのボンボン。医者や弁護士志望の優等生。……。様々なタイプの男の人たちがいた。
 でも、どの人もすぐに飽きてしまうみたいだ。気に入らなくなると、マコネーはあっさりとみんなふってしまった。
 佐藤くんも、そんな新しいボーイフレンドなんだろう。
(今度は、どんな人なんだろう?)
 いささかうんざりした気分だった。
「だって、タカちゃん。あんたの所、監督のなり手がいないんでしょ」
 マコネーは着替えて部屋を出てくると、隆志に言った。
「うん、まあね」
 隆志たちのチーム、ヤングリーブスが新しい監督を必要としているのは本当だ。そればかりか、チーム自体がつぶれかかっていたのだ。

 先月、それまで20年以上もチームを率いていた監督が辞めてしまった。監督がいなくなっただけではない。打撃コーチも、ピッチングコーチも、スコアラーも、チームを支えてくれていた人たちは、みんないっせいに辞めてしまったのだ。それらの人たちは、監督が頼んだりかつての教え子だったりで、監督を慕って手伝ってくれていた人たちばかりだった。
 残った大人たちは、チームメンバーのおとうさんやおかあさんたちだけだ。その中には、野球をよく知っている人は、まったくいなかった。
 そのためもあって、次のチームの監督がなかなか決まらなかった。監督だけでなく、打撃コーチも、ピッチングコーチも決まっていないから、だれもメンバーに野球を教えてくれなかった。
 いなくなったのは大人たちばかりではない。肝心のチームの子どもたちも、監督たちが辞めてからずいぶん減ってしまった。みんな、指導者のいないチームに見切りをつけて、次々と辞めてしまったのだ。
 今では、五年生は隆志を入れてたった三人しかいない。四年生も五人しかいなかったから、試合をするのには三年生までメンバーに入れなければならない。その下級生たちも減って、三年生が四人、二年生が二人、一番年下の一年生も二人しかいない。チームは、ぜんぶで十六人しかいなくなってしまった。これでは、紅白戦もできやしない。
(なんで、こんな事になったかって?)
 実は元々の事件の発端は、隆志に原因があったのだ。
 去年の十一月、隆志たちのチームは、ライオンズカップというシーズン最後の大会に参加していた。チームの調子は最高で、順調に勝ち進んで決勝戦を迎えていた。
 今さら言っても仕方がないけれど、今年のチームは結成以来最強といわれていた。10月に新チームになってから、郡の新人戦でも優勝していたし、ライオンズカップでも優勝候補の筆頭だった。
 最終回の表に勝ち越し点をあげて、一点のリード。その裏の相手の攻撃も、四球でランナーが一人出たものの簡単にツーアウトを取っていた。あと一人で二大会連続の優勝だ。
 次のバッターの当たりはライトフライ。いい当たりだったものの、ライトを守る隆志の正面だった。
 なんなくキャッチと思った瞬間、河川敷のグランドの向こうに傾きかけていた太陽が目に入ってしまった。
(あっ!)
 あわててグラブで光を遮ったけれど、間に合わなかった。打球は見失った隆志のグラブをかすめて、頭の上を越していってしまった。いわゆる「バンザイ」って奴だ。
あわてて追っかけたけれど、球はそのままどこまでもころがっていく。
 土手の手前でようやく追いついて振り返った。
 でも、ランナーはとっくにサードを回っていて、もうスピードをゆるめている。ランニングツーランホームランで、逆転サヨナラ負けをしてしまったのだ。
 相手ベンチでは、総出でバッターを迎え入れて大騒ぎだ。ハイタッチしたり、バッターのヘルメットを殴り付けたりして喜んでいた。

「ありがとうございましたあ」
試合後の挨拶をして、ベンチに戻ってきた時だった。
 バシーン。
 ピッチャーの康平が、グローブをベンチに叩き付けた。
「ヘボ野郎」
 そうつぶやくと、隆志を睨みつけた。何を言われても仕方がないので、隆志は黙っていた。周りのメンバーは、二人を遠巻きにして黙っている。
「おい、康平」
(いけねえ。監督に聞こえてしまった)
 バチーン。
 あっという間に、監督は康平をビンタしていた。康平は、ホッペタを押さえたまま立ちすくんでいる。まわりのみんなも、凍り付いた様にその場を取り囲んでいた。
「試合にミスはつきものなんだ。終わってしまったものを、グズグズ言うんじゃない」
 監督は真っ赤になって怒鳴っていたけれど、康平はプイとふてくされた様な顔をしていた。
(まずいなあ)
 その時、隆志はそう思った。試合に負けただけでなく、チームの雰囲気まで最悪になってしまった。

 ビンタ事件をきっかけに、監督と一部の親たちが対立してしまった。
(体罰をするような暴力監督は辞めろ)
と、いう訳だ。ちょうど、全国的に部活やスポーツクラブでの体罰が問題になっているときだった。
騒いでいたのは、ビンタされたエースの康平、キャプテンの淳一などの親たちが中心だ。隆志の親なんかは、監督が辞めることには反対だった。今まで、ずっとチームを指導してくれていたのに、たった一度のビンタで辞めさせろというのは、いきすぎだというのだ。
 何度も大人たちで話し合いが持たれた様だったけれど、なかなからちがあかなかった。
「辞めろ」
「辞めるな」
で、チームを二分して揉め続けた。
 次第に、話は監督の選手起用法にも飛び火した。監督は練習では厳しかったが、試合での選手起用は温情的で、下手でも上級生や普段の練習に真面目に出ている子たちを優先して出場させていた。実は隆志もその温情のおかげでレギュラーになっていたのかもしれない。反対派の親たちは、学年などに関係なく実力主義でレギュラーを選ぶべきだと主張した。そうすれば、この間のエラー(隆志のだ)なんかで、負ける事はなくなると言うのだ。
メンバーたちも、オチオチ練習をやっていられるような雰囲気ではなかった。とりあえず、監督は練習に参加する事を自粛していたので、チームにはいつもの緊張感がなかった。
 すったもんだしたあげく、結局監督は先月辞任する事になった。そして、それと同時に監督が頼んでいたコーチたちも、みんな辞めてしまった。
それからさっきも言った様に、次の監督がなかなか決まらなかったのだ。
 そうこうしているうちに、今度は康平や淳一たち中心選手が、硬式野球のボーイズリーグのチームへ移っていってしまった。騒ぎの当事者だった癖に、さっさとチームを見限ったって訳だ。監督を辞めさせた彼らの親たちは、どんなつもりだったのだろうか。
残された隆志たち、普通のメンバーにとっては、
(なんのこっちゃ)
って、感じだった。
自分たちで騒ぐだけ騒いでおいて、チームが苦しくなったらあっさり辞めてしまう。まったく身勝手な奴らだ。
(ひどいなあ)
って、隆志も思っていた。
 そうは言っても、とりあえず野球の練習は続けなければならないので、親たちが交替でチームの指導をしていた。
 でも、誰もあまり野球を知らないので、チームはぜんぜん盛り上がらなかった。今まで、いかに監督やコーチたちに頼り切っていたかがよく分かる。
その後も、時々は練習試合はやっていたのだが、いつも大差を付けられてボロ負けだった。チームの戦力も士気もガタ落ちだったから、それも無理はなかったが。
そして、だんだんに他の人たちも辞めてしまい、本格的な野球シーズンを前にして、このままではチームは潰れてしまいそうだった。

「みんな、こんにちわー」
 マコネーが、チームのメンバーににこやかに挨拶した。
「こ、こんちわ」
 みんなは、気の抜けたような返事をしていた。一応、全員が顔を揃えているけれど、もう十六人しかいない。
「それでは、ヤングリーブスの新しい監督を紹介します。佐藤俊一さんです」
 マコネーは、そんなことには少しも構わずにニコニコしている。
「こんちは」
 隣にいた男の人が一歩前に進み出て、挨拶した。
 マコネーのボーイフレンドだから、
(どんなカッコいい人かが来るのだろう)
と、思っていた。
 ところが、その人は、髪の毛がボサボサのさえない感じの人だった。
「みんな、野球が好きかな?」
 佐藤さんは、こちらもニコニコしながらみんなに尋ねた。
 その時、ぼくは、佐藤さんが笑顔になると、なんとも言えずいい感じになるのに気が付いた。イケメンじゃないけれど、(いい人)って、感じがするんだ。もしかすると、マコネーも、そこの所が気に入っていたのかもしれない。
「ふぁーい」
 みんなからは、なんだかさえない返事だった。ここの所のゴタゴタで、みんなは野球もチームもかなり嫌になっている所だったのだ。
「そうか、そうか」
 それでも、佐藤さんはまだ一人でニコニコしていた。
 あの後、マコネーは、まず隆志の両親に、佐藤さんを新しい監督に推薦した。
 マコネーの言う事ならなんでも信用する両親は、もちろん賛成した。そして、連絡網を使って、他の親たちに電話で連絡した。
 この話に、ヤングリーブスの選手の親たちは、一も二も無く飛びついた。正直言って、野球をよく知らない親たちは、ヤングリーブスの練習の面倒を見るのを、完全に持て余していたのだ。古い言葉でいえば、まさに「渡りに船」っていうやつだ。
 それに、もしかすると、佐藤さんがマコネーと同じ偏差値の一番高いと言われる大学の学生だというのも、賛成の理由だったかもしれない。大人たちにとって、あの大学の名前は、魔法の呪文みたいに凄い威力があるらしいのだ。
 全員の賛成を取り付けた隆志の両親は、改めてマコネーに佐藤さんへ正式に監督を依頼するように頼んだ。
 今日は、佐藤さんの初めての練習だというので、校庭の隅には大人たちが大勢集まっている。おかあさんたちはほとんど全員が来ているし、おとうさんたちも結構来ていた。
(佐藤さんって、どんな人なんだろう)
と、みんな興味津々なのだ。
 ペチャクチャとそんな事をおしゃべりしているおかあさんたちの話し声が、隆志たちにも聞こえてきた。
「それじゃあ、まずウォーミングアップをやろう。キャプテンは誰?」
「……」
 佐藤さんが聞いても誰も答えない。淳一が辞めてからは、ちゃんとしたキャプテンは決めていなかった。ただ試合の時なんかにキャプテンがいないと困るので、一応隆志がキャプテン役を代わりに務めていた。
「あれ、キャプテンはお休み?」
「えーと、キャプテンが辞めちゃったので、一応代理という事で、……」
 隆志がおずおずと手を上げると、
「OK。じゃあ、ランニングから始めて」
「分かりました」
 隆志は、みんなを学年順に二列に並べると、
「行くぞっ」
 声をかけて走り出した。
「ヤンリー、ファイトッ」
「フ、ファイト」
「ファイトッ」
「フ、ファイト」
 気合の入らない声を出しながら、みんなはヨロヨロと走り出した。それでも、佐藤さんは相変わらずニコニコしながらみんなを見送っていた。

「みんな、野球じゃ、何が好きかな?」
 ウォーミングアップのランニングと体操とキャッチボールが終わると、佐藤さんはまたみんなを集めてたずねた。
「バッティング!」
「バッティング!」
 みんなが、餌をついばもうとするヒナがピーチクパーチクする様に、口々に叫んだ。
「よーし、それじゃあ、今日はバッティングだけをやろう。みんな思い切り打っていいぞ」
「わーい」
 みんな大喜びだ。面白くない守備の練習なんかより、バッティングの方が断然楽しい。
「じゃあ、打順通りに打っていこう」
 打順って言っても、最近はレギュラーがごっそり抜けたから特に決まっていない。みんなが困ってモジモジしていると、
「それなら、背番号順にしようか」
「えーっと」
 それでも結構困る。一桁の番号を付けていたレギュラーが、ごっそり抜けていたからだ。
「あっ、ぼくが最初だ」
 なんという事はない。残っている一番小さな番号は9番。つまり隆志だった。
「じゃあ、他の人は守備位置について」
 そこでも、レギュラーがみんないなくなっていたから混乱したけれど、やっとみんなが守備位置についた。
 佐藤さんはピッチャーマウンドに歩いていくと、控えピッチャー(いや、今はエースだけど)の耕太に言った。
「俺が投げるから、どこかの守備について」
 耕太はボールを佐藤さんに渡すと、外野の方へ走って行った。
「お願いしまーす」
 隆志は帽子を脱いでペコリと頭を下げると、バッターボックスに入った。
「次の背番号の子は、素振りをしていて」
 佐藤さんが振り返ってそう言うと、背番号11番の健介がこちらに走ってきた。

 佐藤さんが新監督になって、はじめての練習が終わった。
 みんなは、満足して家路についていた。もうゲップがくるくらいたっぷり、バッティングをやらしてもらったからだ。
 佐藤さんが投げてくれたフリーバッティングは最高だった。びっくりするくらいコントロールが良かったのだ。二、三球でそれぞれのバッターの得意なコースを探り当てると、後はそこに続けて投げてくれる。だから、みんな急にうまくなった様に、快音を響かせていた。
 佐藤さんは投げるだけでなく、守備にも目を光らせていて、誰かがエラーすると練習を中断して、丁寧に捕り方を教えてくれた。
「いいかあ、腰を落としてグラブの先を地面すれすれにするんだ。そのままグラブを上下させないで、すり足で左右に移動してキャッチするんだぞ」
 佐藤さんはエラーした子の後ろに回って、実際に取るポーズをさせながら丁寧に教えていた。
だから、この練習は、バッティングだけでなく守備の練習にもなっていたのだ。
 シートバッティングが全員終わると、それからは、三箇所に分かれての、トスバッティング。今度は、まわりで見ていたおとうさんたちの出番だった。みんなが交代で、たっぷりとトスボールを上げてくれた。
 佐藤さんは、ここでもあちこちに回って、バッティングや守備の指導をしていた。
 みんなが嫌いな守備専用の練習は、最後にみんなを自分の守備位置につかせてのシートノックをちょっぴりやっただけだった。

「ねえ、佐藤さんって、いったい何者?」
 隆志は、帰り道でマコネーに聞いてみた。
「そうねえ。私も、最近付き合い始めたんでよく知らないんだけど。どこか東北の方の県の出身じゃなかったかしら」
 マコネーは、少し首を傾げながら答えた。佐藤さんは練習が終わると、アルバイトがあるとかで急いで帰っていた。
「野球がすごくうまいね」
 隆志がほめると、
「そうね。高校の時に野球部のキャプテンだったって、言ってたな」
 マコネーも、自分の事のように嬉しそうに話している。
「ふーん。甲子園に出ていたりして」
「残念だけど、甲子園には出られなかったみたい。でも、進学校の弱小チームを、キャプテンとして県大会の決勝にまで導いたのよ」
「そんなに野球をやったのに、マコネーと同じ大学なの?」
「そう。野球部を引退してから猛勉強したみたいよ。うちの大学に、現役で受かっているぐらいだから」
 マコネーは、特に自慢そうでもなく、あっさりと言っていた。きっと自分も現役で合格しているから、たいしたことだと思っていないのだろう。

 ヤングリーブスのメンバー全員は、たった一度の練習で佐藤さんの魅力にまいってしまった。佐藤さんは、一度に十六人もの崇拝者を獲得した事になる。
 佐藤さんを気に入ったのは、子どもたちだけではなかった。メンバーの親たちも同様だった。野球を教えるのがうまいだけでなく、あの偏差値が一番高いといわれる大学に一発で合格してしまった勉強での実績も、魅力だったに違いない。
「ねえ、野球だけでなく勉強も教えてもらえないかしら」
 啓太のおかあさんから、隆志のおかあさんに電話がかかってきた。啓太のおかあさんだけではない。他の親たちからも同じ様な依頼が殺到した。
結局、みんなで相談して、佐藤さんに野球だけでなく勉強も見てもらうように、マコネーから頼んでもらう事になったのだ。
 もちろん、こっちの方は無料という訳にはいかない。なにしろ家庭教師は佐藤さんのもともとのバイトなのだ。
けっきょく、チームの会費とは別に、一人月五千円ずつ佐藤さんにアルバイト料を出す事になった。これでも、学習塾なんかに行くよりはずっと安い。
 十六人分で合計月八万円になるから、貧乏学生でアルバイトに追われている佐藤さんにとっては、結構な収入だった。
 さっそくマコネーは、佐藤さんにみんなの希望を伝えた。他ならぬマコネーの頼みとあっては、佐藤さんも断るわけにはいかなかったろう。佐藤さんは今までやっていたアルバイトはすべて辞めて、子どもたちの勉強も引き受けてくれる事になった。
 佐藤さんとメンバーの親たちとの話し合いで、スケジュールが決められた。
 平日は四時から六時までが野球で、六時から七時までが勉強、週末は一時から六時までが野球で、六時から七時までが勉強という事になった。
(えっ、勉強の時間が少ないんじゃないかって)
 今言ったのは、晴れの日のスケジュールだ。雨の日は勉強の時間はもっと多くなる。もちろん遊びの時間もあるけれど。
 佐藤さんはこのスケジュールの事を、古い言葉の「晴耕雨読」をもじって、「晴球雨勉」とよんでいた。晴れた日は野球で雨の日は勉強という意味だ。
佐藤さんが来るのは、もちろん毎日というわけにはいかない。佐藤さんが授業や他の用事があって来られない時は、親たちが交代で面倒を見る自習や自主練習という事になる。
それでも、佐藤さんは途中からでもなるべく来ると約束してくれた。なにしろ下宿からこちらまでの回数券を買ったほどなのだ。
子どもたちも、全員が毎日参加するわけではない。みんなこれを機会に学習塾は辞めたものの、スイミングやピアノなどの習い事に行っている子たちもけっこういたからだ。
親たちは、野球のためには小学校の校庭や地域のグラウンドを確保した。勉強の方は自治会館や公民館でやる事になった。
佐藤さんは、勉強を教えるのも抜群にうまかった。やり方も独特で、塾のようにいっせいの授業をやるのではなく、みんなにそれぞれが持ってきた問題集をやらせるのだ。
それも、子どもたちがやるのは、算数でも、社会でも、国語でも、理科でもなんでもいい。佐藤さんは、それを一年生から六年生まで、いっぺんに教えてくれるのだ。
みんなは1ページ終わるごとに、佐藤さんの所へ問題集を持っていく。そうすると、佐藤さんは解答集も見ずに、あっという間に丸付けをしてくれた。そして、間違えた所を丁寧に説明してくれる。
(すげえ!)
と、隆志は思った。
佐藤さんはまるで魔法使いみたいだった。佐藤さんには、小学生の問題なんて一瞬で答えが分かっちゃうみたいなのだ。
 この野球&勉強塾(?)は、たちまち学校で評判になった。入会者が殺到して、すぐにメンバーは三十人以上にもなった。今ではヤングリーブスの人数が減り始める前より多いくらいだ。
中には、一度チームを辞めたのに、ちゃっかり戻ってきたメンバーもかなりいた。
 でも、佐藤さんは、そういう子たちも分け隔てなく、チームに加えていった。こうして、佐藤さんの収入も、メンバーが増えるにつれて十五万円以上にもなっている。
でも、佐藤さんがチームを引き受けたのは、お金のためだけではない。他ならぬマコネーに頼まれたからだろう。

 佐藤さんは、練習や授業に来た時には、夕食を隆志の家で食べていく様になった。佐藤さんは地方出身者だったので、都内のアパートに住んでいる。もっとも、みんなとしゃべる時は標準語でしゃべっているので、地方出身者だとは分からなかったけれど。よく注意して聞いてみると、かすかに東北地方のなまりがあるようだった。
アパートでは一人で自炊しているので、佐藤さんには我が家での夕食は魅力的だったようだ。一方、隆志のかあさんは、毎日はりきってご馳走をこしらえている。マコネーも、もう夜遊びはせずに夕食に顔を見せるようになった。
 もしかすると、佐藤さんにとっては、夕食よりもマコネーに会えるのが魅力だったのかもしれなかった。平日は、隆志とマコネーとかあさんと佐藤さんの四人で、夕食を食べる事が多くなった。隆志のとうさんは、会社からの帰りが遅くて参加できなかったのを残念がっていた。どうやら、今までのマコネーのボーイフレンドたちに比べて、古い言葉でいえば朴訥とした雰囲気のある佐藤さんのことを気に入っているようだ。
話題はチームの事が多く、みんな最近メキメキうまくなっているとほめてくれるので、隆志はすっかりいい気分だった。幸いな事に、勉強の方の話は出ないので、あまり一所懸命やっていない隆志としては大助かりだった。
 土日には、夕食に隆志のとうさんも加わった。
佐藤さんはまだ未成年なのに、
「まあまあいいから」
などと言って、ビールを勧めていた。佐藤さんはあまりお酒が強くないらしく、コップ一杯のビールで真っ赤になっていた。とうさんがもう一杯注ごうとすると、佐藤さんは、
「もうけっこうです」
と、コップの上を手で覆った。
「私も」
 マコネーが、自分のコップをとうさんに差し出した。
「なんだ、お前、酒なんか飲むのか?」
「もちろん。だって、大学って新歓コンパなんかで、一年生だって飲むのよ」
「しょうがねえなあ」
 とうさんが、渋々ビールを注ぐと、マコネーがグビグビと一気に飲み干した。
「プハーッ、うめえ。お代わり」
 マコネーがまたとうさんにコップを出すと、
「何よ、お行儀の悪い」
と、かあさんが顔をしかめていた。

 ある日、佐藤さんが、グループの名前をみんなに決めさせる事になった。もうすでに、佐藤さんのもとに集まっているグループは、単なる野球チームというよりは、勉強や遊びも含めた少年団の様になっていたかもしれない。それには、手垢のついた「ヤングリーブス」という名前は似合わない。
「じゃあ、みんな、どんどんアイデアを出して」
 佐藤さんは、まわりにみんなを座らせて言った。
 みんなは、次々といろいろな名前を提案した。
「ドラゴンモンスターがいいな」
そう言ったのは、五年生の麻生ちゃんだ。
「それなら、スペシャルファンタジーの方がいいよ」
四年の誠が言い返した。なんだか、どちらもゲームの名前のようだ。
「若葉ビクトリーズはどう?」
三年の章吾が言った。
「城山ジャイアンツ」
 四年の純もいった。ようやく、野球チームらしいものが出てきた。
でも、それでは、今のグループの名前には相応しくない。
 その時、隆志の頭の中にひらめくものがあった。
「スーパーキッズってのは、どう?」
「いいね、それ」
「なんかかっこいい」
 すぐにみんなの賛同が得られた。
「でも、ちょっと短くないかなあ」
「うん」
「なんとかとスーパーキッズっていうのは?」
「それ、いただき」
「佐藤さんとスーパーキッズは?」
「なんか、かっこ悪いよ」
「じゃあ、キャプテン佐藤とスーパーキッズでどう?」
「うん、いい。いい」
最終的に、その「キャプテン佐藤とスーパーキッズ」に決まった。
ただ、これでは少年野球チームの登録名としてはおかしいので、そのときはたんに「スーパーキッズ」とする事にした。

 キャプテン佐藤は、小学生の男の子たちを魅了するあらゆる魅力を持っていた。
 まず、なんといっても野球がうまい。今までのチームでは、バッティングとピッチングは違うコーチがいた。
 でも、キャプテン佐藤は、バッティングでも、ピッチングでも、守備でも、走塁でもなんでも上手だった。だから、一人で全部を教えられるのだ。
キャプテン佐藤は、高校時代はピッチャーと外野を守っていたらしい。
でも、中学時代は内野手だったし、少年野球時代にはキャッチャーの経験もあるそうだ。そして、何よりも、自分がうまいだけでなく、教えるのが上手だった。こんなところには、弱小チームをキャプテンとして引っ張っていた経験が生きているようだ。
 教える事に関しては、勉強も同様だった。教え方がユーモアたっぷりで、学校や塾の先生よりだんぜん面白かった。
 勉強や野球だけでなく、キャプテン佐藤は遊びにも卓越していた。驚いた事に、キャプテン佐藤はあらゆるビデオゲームの名人だったのだ。おかげで、たちまちのうちにみんなの尊敬を集めてしまった。
キャプテン佐藤は、ビデオゲームだけでなくモノポリーやカタンなどのボードゲームにも詳しかった。アパートにたくさんのボードゲームを持っていて、雨の日には自治会館に持ってきてゲーム大会を開いてくれた。
 さらに、屋外の遊びにもめちゃくちゃくわしかった。「Sケン」とか「すいらいかんちょう」など、みんなの知らない遠い昔の遊びをたくさん教えてくれた。今の大学に受かるための勉強や、野球の練習をたくさんしなくてはならなかったはずなのに、どうしてこんなに遊ぶ事に詳しくなれたのか不思議でならない。
 前にも言ったけれど、キャプテン佐藤は見た目にはかっこいい人には見えなかった。特に、女の人には、ぜったいもてそうなタイプではなかった。身長は、百六十センチちょっとしかないんじゃないかな。チームで一番のっぽの大樹よりも低いくらいだ。
一方、マコネーは百六十八センチの八頭身美人だ。特に、マコネーがヒールの高い靴をはいてキャプテン佐藤と一緒にいると、完全に見下ろすような感じになってしまっていた。
 キャプテン佐藤は、上半身は肩幅が広くがっちりとしていて、筋肉がよく発達している。いかにもスポーツマンって感じだ。でも、残念ながら足がすごく短いのだ。
 キャプテン佐藤の短めの髪の毛はボサボサで、ぜんぜんつやがなかった。隆志は、いつも(ムースか何かを使えばいいのになあ)と、思っていた。
 口のまわりやあごには、びっしりとぶしょうひげが生えていた。
 キャプテン佐藤は、古い形の黒ぶちの眼鏡をかけている。着ている物も、ジャージやフリースの様な物が多く、あまり構わない様だった。美人でスタイルのいいマコネーと歩いていると、「美女と野獣」って感じだった。誰が見ても、不釣合いなカップルに見えただろう。
 でも、そんなのは外見だけの判断だ。キャプテン佐藤の魅力は、内面にこそあるのだ。そこの所が、マコネーにも良く分かっていたのだろう。

 キャプテン佐藤が監督になって一ヶ月がたった。スーパーキッズは初めての試合をやることになった。
 対戦相手は、城山ジャガーズ。同じ町の城山小学校のチームだ。町の春季大会の前哨戦といったところだ。
 去年の新人戦では、7対4で勝っているが、こちらのメンバーは、その時からだいぶ主力が抜けている。もっともキャプテン佐藤が監督になってからは、前よりも練習量を増えているし内容もいいので、全体にはかなりレベルアップしているとも思えた。
 その前の日、キャプテン佐藤は練習の後で、みんなを集めて明日のメンバーを発表した。
「一番、センター、孝治」
「はい」
 名前を呼ばれた者はその場にしゃがむ。
「二番、ショート、章吾」
「はい」
「三番、キャッチャー、……」
「……」
 次々と発表されていく。
「六番、サード、隆志」
「はい」
 隆志も大きな声で返事した。去年まではライパチだったから、だいぶ昇格したことになる。
「隆志、今までは代理だったけれど、明日から正式にキャプテンをやってくれ」
「はい」
 隆志はもう一度返事したけれど、はたして、大所帯になったチームをまとめていけるか、あまり自信がなかった。硬式野球チームに移った連中を除いては、レギュラーをやっていた人たちも戻ってきていたので、隆志より野球のうまいメンバーも多かった。

「キャプテン」
 主審が両チームに声をかけた。
隆志は、初めそれが自分のことだと思わなかった。うちのチームでは、みんなが監督のことを「キャプテン」とか、「キャプテン佐藤」って呼んでいるからだ。
「タカちゃん、主審が呼んでるよ」
 隣にいた孝治に注意されて、初めて気が付いた。
 主審が呼んでいたのは、試合前のメンバー表の交換のためだった。隆志はキャプテン佐藤からメンバー表を受け取ると、小走りに主審の方へ向かった。
「じゃあ、握手して」
 主審にうながされて、隆志は相手のキャプテンと握手した。相手のキャプテンは隆志より頭一つ大きい。
「お願いしまーす」
 隆志は、相手とメンバー表を交換した。
「最初はグー、ジャンケンポン」
 隆志がチョキで、相手がパーだ。幸先良くジャンケンに勝った。
「先攻でお願いします」
 ねらいどおりに先攻が取れた。
「先攻だそお」
三塁側の ベンチに戻りながら怒鳴ると、
「オーッ」
 キャッチボールをしていたみんなからも歓声が起きた。
「ベンチ前集合」
 隆志が声をかけると、みんなはキャッチボールをやめて集まってきた。
 みんなは右足を一歩前に出して足先を揃えて整列する。隆志は一番左端で、みんなとは逆に左足をみんなに揃えて一歩出している。
「集合」
 主審が両チームに声をかけた
「行くぞお」
 隆志が叫ぶと、
「オーッ」
 みんなが答えて、いっせいにホームベース横に駆けていった。反対側からは城山ジャガーズが走ってくる。
 両チームは、ホームベースをはさんで整列した。城山ジャガーズは元々大きなチームだったが、今ではスーパーキッズも人数だったら負けない。
「キャプテン、握手して」
「お願いしまーす」
 隆志は、背の高い城山ジャガーズのキャプテンとまた握手をした。
「それでは試合を開始します、礼」
「お願いしまーす」
 みんなが大声で叫んで、いよいよゲームが始まった。

 一回の表、ツーアウト満塁。
 いきなり絶好のチャンスに、六番の隆志に打順が回ってきた。隆志は緊張で少し足が震えながら、バッターボックスに向かう。
 と、その時だ。
「タイム」
 キャプテン佐藤が叫んだ。隆志の方に手招きしている。
 隆志がベンチのキャプテン佐藤のところへ走っていくと、
「いいか、隆志。お前は、この一ヶ月間、誰よりも練習をやってきたんだ。昔のライパチのお前とは違うんだからな」
(そうだ!)
 本当にこの一ヶ月間は、隆志は熱心に練習をやってきた。それというのも、キャプテン佐藤が大好きだったからだ。キャプテン佐藤の言うとおりにやれば、きっとうまくなれると固く信じていた。
 隆志は、ジーッとキャプテン佐藤の目を見つめていた。
 キャプテン佐藤は、ぼくを後ろ向きにすると肩をもむようにしてから、最後にポンと尻を叩いて言った。
「よし、自信持っていけ」
 隆志は、小走りにバッターボックスに向かった。もう足は震えていなかった。
「いくぞーっ」
 隆志は気合を入れて叫びながら、ピッチャーをにらみつけた。
 相手ピッチャーが、一球目を投げ込んできた。
「ボール」
 外角高めにはずれた。
(よし!)
 隆志はボールが良く見えていた。相手ピッチャーは制球に苦しんで、この回二つも四球を出している。
(このまま打たずに、フォアボールをねらおうか)
 一瞬、そんな弱気な考えが、隆志の頭をかすめた。
 と、その時だ。
「隆志、フォアボールなんかねらわずに強気でいけ。いい球が来たら、思い切り叩いてやれ」
 まるで隆志の心の中を読んだように、キャプテン佐藤に言われてしまった。
 第二球。
 四球を嫌がった相手投手のボールは、ど真ん中の直球。
(今だ!)
 隆志は、思いっきりバットを振った。
 ガキッ。
 鈍い音を立てて、小飛球を打ち上げてしまった。
(しまった)
 隆志は、懸命に一塁に向かって走った ボールは、フラフラとセカンドの後方へあがっていく。ジャガーズのセカンドとセンターとライトが、ボールを追っていく。
 でも、幸運にも三人の間に、ボールはポトリと落ちた。ツーアウトだったのでスタートを切っていた三塁ランナーはもちろん、二塁ランナーまでホームインして二点を先制した。一塁ランナーも三塁まで到達して、チャンスは続いている。
「隆志、よくやった」
 ベンチから、キャプテン佐藤が声をかけてくれた。

 試合の後で、自治会館の部屋で反省会が開かれた。城山ジャガーズとの練習試合は、惜しくも6対9で敗れていた。
キャプテン佐藤とベンチ入りした四年生以上のメンバーが集まった。それから記録係として、マコネーが参加した。マコネーはいつの間にかスコアブックのつけ方を完璧にマスターしていて、スーパーキッズのスコアラーをやるようになっていた。
「今日の試合はどうだった」
 キャプテン佐藤がみんなにたずねた。
「リードしたのに逆転されて惜しかった」
「負けて悔しかった」
「城山ジャガーズは強かった」
 みんなが口々に言った。
「うんうん」
 キャプテン佐藤は、そのひとつひとつにうなずいていた。
 そして、みんなが言い終わると、優しい声で話し出した。
「まず、バッティングだけど、今日の相手のピッチャーはどうだった?」
「そんなにスピードは速くなかった」
「コントロールもそれほど良くなかった」
 みんなが口々に答える。
「そうだな。うちのチームも、ヒットやフォアボールですいぶん攻められていたよな。でも、点が六点しか取れなかった。それはなぜだろう」
 こうやって、キャプテン佐藤はみんなに自分たちに欠けていたことを考えさせた。
 みんなは、自分の考えをどんどん出していった。その結果を、最後にキャプテン佐藤は、みんなの発言の記録を取っていたマコネーと一緒に、黒板にまとめてくれた。
1. 攻撃
・バントの失敗が多かった。最後までよくボールを見なかった。
・ランナーを先に進める進塁打(右方向に打つこと)ができなかった。右バッターはサード側に引っ張りすぎていた。
・初球から積極的に打っていかなかった。
・見逃しの三振が多かった。自信がなくて積極的に打っていけなかった。
・盗塁が少なかった。自信がなくて、フリーのサイン(走れると思ったら自分の判断で走ってよい)が出ていても走れなかった。
・サインの見逃しが多かった。緊張しすぎていた。
2.守備
・ピッチャーは、耕太に頼り過ぎ。きちんと投げられるピッチャーがあと三人は必要。特に大会になったら、一日二試合あるから、同じ日に投げられるピッチャーの人数が大事だ。
・相手の盗塁をぜんぜん防げなかった。二塁までボールの届くキャッチャーを作らなければならない。
・牽制球やスクイズを外して、相手ランナーをはさんだときに、それからどうするかがわからない。そういったランダンプレーの時の約束事ができていない。
・ベースカバーができていない。エラーに備えた行動を忘れている。
・ダブルプレーができなかった。連携プレーの練習が足りない。
・相手にバントを決められすぎた。バントの守備陣形ができていない。
 キャプテン佐藤は、これらを説明した後でみんなに言った。
「今までは、前からのポジションをやっていたけれど、今日、みんなの基本的な体力測定をやった後で、それぞれに適したポジションに割り振りし直そう。それから、今までは基本プレーの練習だけをやっていたけれど、平日は連係プレーを中心にやる。それから、試合に慣れるために、土日は練習試合をできるだけやろう」
 みんなは真剣な顔をして、キャプテン佐藤の話を聞いていた。
「それから、みんな約束して欲しい。基本プレーの不足を補うために各自が、素振り百回とキャッチボールを百球、毎日やって欲しい。キャッチボールの相手の見つからない人は壁当て(家の石垣や塀にボールを投げて、跳ね返ったボールをキャッチする練習)でもOKだ。いいかな?」
「はい」
 みんな大きな声で返事した。こうして、スーパーキッズの新しいチーム作りが始まった。

 次の練習日に、みんなは校庭に集まった。
 まずは、50メートル走のタイム測定だ。キャプテン佐藤はマコネーに手伝ってもらって、巻尺とライン引きで50メートル走のコースを作った。そして、キャプテン佐藤のホイッスルを合図に、一人ずつ全力で走って、マコネーがストップウォッチで計測する。一人二回ずつ計っていい方のタイムを取ることになった。
 次は、遠投だ。
 これも巻尺とライン引きで距離をはかれるようにして、一人二回ずつ投げることになった。
 意外だったのは、隆志の遠投力だ。なんとチームでトップであることがわかったのだ。これには隆志自身が一番びっくりしてしまった。
 キャプテン佐藤は、最後にノックでみんなの守備力をチェックしていた。

 その次の日、さっそくキャプテン佐藤から、新しいポジションが発表された。
 まず、ピッチャー。新六年からは、エースの耕太となんともう一人は隆志が選ばれた。隆志が選ばれたのは、肩の強さを見込まれたからに違いない。五年生からは章吾が、四年生からは慎太郎が、ピッチャーをやることになった。彼らは、六年生たちの控えであるとともに、五年生以下でBチームを組むときのエースにもなる。
キャッチャーには、隆志が選ばれた。つまりぼく以外がピッチャーをやるときは、必ずキャッチャーをやることになる。隆志が投げるときには、耕太がキャッチャーをやることになった。これも肩の強さを重視した人選だと、キャプテン佐藤はみんなに説明した。とにかく本塁から二塁までボールが届かなくては、相手に盗塁されっぱなしになって話にならない。
ファーストには、チームで一番のっぽの六年の大樹が選ばれた。大樹は背が高いだけでなくキャッチングもうまかったので、ファーストには向いている。
セカンドは小柄な五年生の徹だった。肩はあまり強くないが、動きが敏捷だった。
サードは六年の竜介だ。ボールを怖がらないので強い打球が多いサードにうってつけだ。
ショートは、五年生の章吾。ピッチャーの控えもやる章吾は、小柄だが肩が強く守備もうまい。それに一年生からチームに入っていたので、野球を良く知っている。
外野は、全員足が速くて守備範囲が広い子たちが選ばれた。
こうして、新生スーパーキッズのレギュラーが定まった。

 それ以来、練習は、四年生以上と三年生以下に、分かれて行われるようになった。
 キャプテン佐藤が四年生以上の子たちと校庭で正式練習をやっている時には、おとうさんたちが何人かついて三年生たちを隣の公園に連れて行く。そこで二チームに分かれてミニゲームをやっている。
(三年生以下は野球をただ楽しめばいい)
というのが、キャプテン佐藤の方針だった。
「ワアーッ」
 公園の方からは、時々歓声があがる。なかなか楽しそうだ。おとうさんたちも、一緒に試合に入ってやっているようだった。
 上級生たちの正式練習で、キャプテン佐藤が真っ先に取り組んだ練習はバントだ。
 送りバント、スクイズバント、セーフティバント、……。
少年野球では、いろいろなシーンでバントが使われる。これがうまいかどうかで、得点力はずいぶん変わってしまう。
この前の試合では、スーパーキッズはバント失敗を何回もしてしまっていた。もし成功していたら、試合に勝っていたかもしれない。
 バント練習は、三人一組になって、ピッチャー、バッター、キャッチャーを交代しながら行う。十本ずつを十セット。合計百本もバントの練習を繰り返した。これを毎日やり続ける
 練習の間は、キャプテン佐藤が見回っているから、みんな真剣に取り組んでいた。
 隆志も、キャプテン佐藤から教わったバントの注意事項を頭に浮かべながら練習していた。
体をボールが来る方向に対して、きちんとまっすぐむける。足の間隔はやや広くして、ゆったりと構える。両手をにぎりこぶし二つ分離して、ボールの勢いに負けないようにしっかりと握る。バットはできるだけ目の高さに近づけ、ボールが来ても腕だけでバットを上下させない。高さの調整は、腕ではなくひざの屈伸を使って行う。
これらを注意してやると、だんだんうまくなっていくのが実感できた。
 ビュッ。
 カッ。
 コロコロ。
 ビュッ。
 カッ。
 コロコロ。
 ……。
 ほとんど百発百中で、バントを決められるようになってきた。
 隆志だけではない。みんなも上手になったから、これで試合でもバントをうまく使っていけそうだ。
 みんながうまくバントをできるようになると、キャプテン佐藤はランナー一塁の送りバント、ランナー二塁の送りバント、ランナー三塁のスクイズバントなど、状況ごとのバントの練習も始めた。みんなを守備位置につけ、実際にランナーを置いていろいろなバントの練習をした。
 盗塁の練習もたくさんやった。
「この前の試合、相手のキャッチャーの送球は山なりだったんだぞ。あれなら、セカンドまではフリーパスだったのに。盗塁のサイン出しても走らない奴もいたぞ」
 キャプテン佐藤は、少し悔しそうに言った。
「例えばな、ノーアウトの時にフォアボールで出塁するとするだろ。これをバントで送ったらうまくいってもワンアウト二塁だ。ところが、相手のキャッチャーの肩が弱ければ、黙っていても盗塁で二塁までいける。これをバントで送ればワンアウト三塁だ。これならスクイズだって、パスボールだって、外野フライだって、一点取れちゃうんだぞ。もったいないと思わないか」
 これからは、相手の投球練習の最後にキャッチャーがセカンドへ送球するを見ていて、届かなかったり山なりだったりしたら、ノーサインで全員が二盗することになった。三盗と相手のキャッチャーの肩が強いときは、今までどおりにキャプテン佐藤のサインで走る。
「ただ、ピッチャーの牽制球だけには気をつけろ」
 キャプテン佐藤はそう言って、牽制球を投げる時のピッチャーのプレートからの足のはずし方を実地に何度もやって見せた。
「要は相手の左足だけを見ていればいいんだ。それがプレートに平行に上がった時は、牽制球だからな。足がホームの方を向いたら投球だから、スタートを切っていい。もし、それでピッチャーが牽制球を投げたら、ボークになるから、黙っていても二塁まで行ける」
 キャプテン佐藤は、ピッチャー役の耕太に実際に投げさせて、みんなに盗塁のスタートの切り方を練習させた。キャッチャー役はキャプテン佐藤自身がやって、牽制か投球かのサインを出すことになった。ファースト役には、レギュラーの大樹がついている。
 効率良くやるために、ランナーは一人ではなく、ファーストベースの前後に一人ずつ立って、合計三人が同時に練習する。
「おーい、他の連中もピッチャーの左足を良く見てろよ」
 監督が大声でみんなに言った。
「それじゃ、始めるぞ」
「リーリーリー」
 隆志はファーストベースから離れてリードしながら、耕太の左足に注目した。他の二人も、前後でリードを取っている。
 耕太の左足が上がった。
(投球だ)
 隆志は、素早くスタートを切った。
 ところが、他の二人は、ベースの方に戻ってしまった。
 隆志の予想通りに、耕太はキャッチャー役のキャプテン佐藤に投球した。
「はーい。正解は隆志だけ。他の二人は失敗だ」
 キャプテン佐藤が叫んだ。みんなが習得するのは、なかなか難しいようだ。二盗の練習が終わったら、今度は三盗もやらなくてはならない。
「連携プレーも少し練習しておこう。まずランダンプレーだな」
 ある日、キャプテン佐藤がいった。
 ランダンプレーの練習は面白い。まるで鬼ごっこのようだった。
 ランダンプレーというのは、塁間にはさんだランナーを、キャッチボールをしながら追い詰めていってアウトにするプレーだ。前の試合では、このやり方がわからなくって、せっかくスクイズをはずして三塁ランナーをはさんだのに、逆にこちらが大慌てになってしまい、ミスが出てホームインされてしまった。
 キャプテン佐藤は、ランダンプレーを、順を追ってていねいに説明しながら、ランナーの殺し方を教えてくれた。
 まず、最初に練習したのは、やはり三本間でのランダンプレーだった。これは失敗したばかりだったので、みんなも真剣な顔つきになっている。
 三本間の場合は、キャッチャーと三塁手で追い詰める。このとき三塁ベースはショートが、ホームベースはピッチャーがカバーする。さらに、三塁ベースの後ろにはレフトが二重にカバーする。これはランダンプレーが、三塁ベース寄りの所で行われることが多いからだ。
 基本的には、キャッチャーが三塁ベースの方に向かってランナーを追い詰めていく。これなら失敗しても、ランナーは元の塁へ戻るだけで進塁できない。
 これが逆にホームベースの方へ追い詰めると、へたをするとランナーにホームインされてしまう危険がある。
こういったことを、三本間、二三塁間、一二塁間のそれぞれについて、実地に何度も繰り返して練習した。
頭ではわかったつもりでも、実際にやってみると、焦ってしまってなかなかうまくいかない。
「練習で百パーセントできるようにならないと、実戦では使い物にならないぞ」
キャプテン佐藤はそう言って、みんなにはっぱをかけた。
「連携プレーには、まだダブルプレーとか、中継プレーとか、ピックオフプレーとか、いろいろあるけれど、いっぺんにやると混乱するから、今はこのくらいにしておこう」
 キャプテン佐藤はそう言ってから、最後に付け加えた。
「バントと盗塁。それさえきっちりやれば、少年野球は絶対勝てるから。しっかり練習しようぜ」
「はい」
 みんなは大きな声で返事をした。
「逆の言い方をすると、相手にバントと盗塁をさせなければ、なかなか点が取られないってことになる。それには、バッテリー、おまえたちの腕にかかっているからな」
 キャプテン佐藤は、みんながバッティング練習をやっているときに、ぼくと耕太には、牽制球の投げ方や盗塁のときのスローイングをつきっきりで教えてくれた。
「この前は、フォアボールが多かったな。それを減らせば、ぐっとピンチの回数を減らせる」
 ぼくと耕太、それに五年生の章吾と四年生の慎太郎、スーパーキッズの投手陣全員に交代でバッティング練習のときのピッチャーをやるように、監督は指示した。
 バッティング投手は、すべてストライクを投げなければならない。コントロールをつけるには絶好の練習だった。
 それと、一日百回のシャドーピッチングのノルマが、素振りとキャッチボールに付け加えて、投手陣のノルマになった。シャドーピッチングとは、ボールの代わりにタオルを握って、投球練習をすることだ。
 隆志は、一日も欠かさず、素振りとキャッチボール(相手がいないときは壁あて)、それにシャドーピッチングを繰り返した。

 毎週、土曜日と日曜日には、練習試合が組まれた。対戦相手は、同じ町内のチームのことが多かったが、時には近隣の地域にまで遠征することもあった。そんな時は、メンバーのおとうさんたちが車で送り迎えをしてくれた。
キャプテン佐藤は、スーパーキッズの町のある郡や隣のS市の少年野球協会に連絡を取って、近くにあるチームの連絡先を調べていた。そして、片っぱしから電話をかけて、練習試合の日程を組んでいた。
時には、違うチームとダブルヘッダーを組むこともあった。例えば、午前中はホームグラウンドである若葉小学校の校庭で同じ町のチームと試合をする。試合後、急いでお昼ごはんを食べると、隣のS市のチームのグラウンドまで急いで車で移動する。午後は、そのチームと練習試合をやった。
一日に二試合やるのは、大会に備えてだ。当面のスーパーキッズの目標は、五月の下旬に行われる郡大会だった。ここで、ベストファイブに入れば、夏休みに行われる県大会のどれかに出場できる。大会では一日に二試合行われることもあるから、練習試合でもダブルヘッダーに慣れておく必要があった。
ダブルヘッダーでは、第一試合はエースの耕太が、第二試合は隆志が先発した。章吾や慎太郎は、リリーフピッチャーに使われていた。これも大会に備えてのことだった。
こうして、週に3、4ゲームも練習試合が行われた。
初め、練習試合ではなかなか勝てなかった。
しかし、練習の成果が出てきたのか、そのうちに勝ったり負けたりするようになってきた。

「宣誓! 日頃の練習の成果を発揮して、スポーツマン精神にのっとり、正々堂々プレーすることを誓います。20XX年10月22日。選手代表、スーパーキッズ主将、石川隆志!」
 久々に晴れ上がった空に、堂々とした隆志の声が響いた。
 キャプテン佐藤とスーパーキッズが結成されてから初めての大会、郡大会の開会式が行われていた。大会に参加する郡内四町からの18チームが、グラウンドに整列している。
 隆志は、一礼すると駆け足でヤングリーブスの列に戻った。
 いよいよ県大会出場をかけたトーナメントが始まる。
 隆志は、興奮と期待で胸が高鳴っていた。隆志だけではない。チームメンバー全員が、自信を持って大会にのぞんでいる。
 もう四か月前のつぶれかかっていた弱小ヤングリーブスではない。キャプテン佐藤の指導の下に、一から生まれ変わったスーパーキッズの初陣なのだから。

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2018-12-15 14:41:31 | 作品
「じゃあ、最初は三段にして」
 担任の村岡先生の指示で、みんなで用具室から運んできた跳び箱の高さを三段にして、マットの向こうに置いた。
 今日の体育の授業は、五年生になってから初めての跳び箱だった。
ジャンプ力に自信のある翔太にとっては、体育の中でも得意種目のひとつだったので、朝から楽しみにしていた。四年の時の最高記録は七段だったから、今年は最低でも八段を跳びたいと思っている。
 久しぶりの跳び箱だったので、まずはウォーミングアップとして、誰でも跳べそうな三段にセットされている。それから、一段ずつだんだんに高くしていくのだろう。
 ピッ。
 先生の笛の合図で、男子から次々に跳んでいく。
 五年生には三段はさすがに低すぎるので、みんな軽々と跳べている。このあたりはまだ余裕だから、あまり緊張しないせいか、待っている列ではおしゃべりしている子たちもいた。
 翔太の番が来た。
 ピッ。
 翔太も、軽く助走して跳ぼうとした。
(あっ!)
 踏み切り板を強く蹴りすぎたのか、跳び箱が低すぎて前につんのめりそうになった。手首が逆に曲がりそうになってヒヤリとしたが、何とかバランスを立て直して着地した。
(ちぇっ、低すぎるよ)
 翔太は思わず舌打ちした。この高さなら、一年生だって跳べるだろう。

「あーあっ!」
 みんなから歓声とため息が同時に起こった。翔太の次の石井くんが、初めて跳びそこなったのだ。
 お尻を跳び箱の角に、ガツンとぶつけてしまった。踏み切りまでの助走の勢いがぜんぜん足りなかったので、身体が十分に前に進まなかった。
 石井くんは、顔をしかめながら戻ってくる。
(ふーん、こんな高さでも跳べない子もいるんだ?)
 跳びすぎだった翔太は、少し優越感に浸りながら、お尻をさすりながら戻ってきた石井くんを見ていた。
 それからも、何人か跳び越すのを失敗した。みんな、運動の苦手な子ばかりだ。五年生だというのに、こんなに三段を跳べない子がいるとは、翔太にはすごく意外に思えた。

 横山くんの番になった。クラスで一番やせっぽちで、この子も運動が苦手だった。
 バン、…、バチーン。
 横山くんは、跳び箱に手をついたまま前のめりになり、向こう側へ倒れてしまった。助走のスピードや踏み切りはよかったのだが、腰が高く上がりすぎて前につんのめったようだ。
「大丈夫かあ!」
 村岡先生が、あわてて横山くんに駆け寄った。
「いたーい!」
 横山くんは、両腕を上に差し伸べて、床に倒れたままうめいている。
「大変だ。誰か、職員室の他の先生を呼んできて」
 村岡先生に言われて、学級委員の石戸谷くんが全速力で走っていった。

 ピーポ、ピーポ、…。
 外からサイレンが聞こえてくる。
 翔太が教室の窓からのぞくと、救急車が赤いライトを点滅させながら校庭から走り出していく。横山くんを運んでいるのだろう。村岡先生も付き添って病院へ行くことになったので、翔太たちのクラスは代わりに教頭先生が来て自習をしていた。体育の授業は、あのまま打ちきりになっていた。

 次の日、先生の説明によると、横山くんの怪我は、翔太たちが予想していたよりもずっと重かった。骨折、それも両腕の手首を同時に骨折してしまっていたのだ。しばらくの間は、そのまま入院しなければならないだろう。
 横山くんの怪我は、極度の運動不足のたせいのようだった。たしかに、横山くんは、いつも携帯ゲーム機やトレーディングカードばかりで遊んでいて、ぜんぜん運動をしていなかった。
 先生の話によると、使わないために両腕の手首の関節が固くなっていて、もともと十分に曲がらなかったようだ。そこへ、跳び箱で両手をついた時に、踏み切りが三段にしては強すぎたために、腰だけ上がってつんのめってしまい、全体重が手首の骨にかかって支えきれずに折れてしまったのだ。
 その話を聞いて、翔太は自分も手首が逆に曲がりそうになってヒヤリとしたことを思い出した。
(五年生に三段なんて、低すぎる設定にしたのがいけないんだ)
 翔太はそう思ったけれど、その三段も飛べない子がいたのだから仕方がなかったのかもしれない。

 横山くんの事故は、学校内だけでなく、市の教育委員会の方でも問題になってしまった。横山くんの両親が、今回の怪我について、教育委員会へ強くクレームをつけたためだ。
「息子の事故は、怪我の防止について、学校側の注意が足りなかったからだ」
と、主張している。場合によっては、学校や村岡先生の責任が問われかねない。
 教育委員会では、今回の事故の原因究明のために、緊急に調査委員会を設置した。
 その一環として、市の小中学校では、児童や生徒の運動時間や生活習慣について、大掛かりな調査が行われることになった。
 そんなまわりの大騒ぎを、翔太は他人事のように感じていた。自分は、ふだんからたくさん運動をしているから大丈夫だと思っていたのだ。
 翔太は、一年生からサッカーのスポーツ少年団に入っている。ポジションはゲームをコントロールするミッドフィルダーで、六年生たちにまじってレギュラーをまかされている。ミッドフィルダーは、攻撃も防御もする忙しいポジションなので、一番運動量が多い。
 少年団では平日は週三回も練習があるし、週末も試合などが行われることが多かった。少年団が休みの日にも、翔太はチームメイトとの自主練にいつも参加して、河川敷にある市のグラウンドまでおかあさんに車で送ってもらって、ボールを追っかけている。

 翔太は、横山くんとはクラスで同じ班だったので、班のメンバーの人たちと一緒に、クラスを代表して病室へお見舞いに行くことになった。みんなの寄せ書きの色紙や、手作りの千羽鶴(百羽ぐらいしかいなかったけれど)を持っていった。
 病室に入って驚いたことには、横山くんはベッドの上でも携帯ゲームをやっていた。横になったまま、ギブスをはめた両腕を上に伸ばして、器用にゲーム機を操作している。どうやら、骨折していても指はよく動くようだった。まったく懲りない奴だ。
「なんだよ。ここでもゲームかよ」
 翔太が言うと、横山くんはさすがに少し恥ずかしそうな顔をしていた。

 お見舞いの帰りに、病院のホールで、翔太たちは隣のクラスの竹下くんに出会った。
「どうしたの?」
と、翔太がたずねると、
「うん、ひじを痛めちゃってさあ」
と、竹下くんはサポーターをした右腕を上げて見せた。
 竹下くんは、主に翔太の学校の子どもたちで構成されている少年野球チームで、エースピッチャーをやっている。
「ふーん」
「ここの整形外科に通ってるんだ」
 竹下くんの話だと、ピッチングのやりすぎでひじの腱を痛めてしまったようだ。先月の市大会の時に、試合で連投して、無理をしたのがいけなかったみたいだ。
(ふーん)
 対照的な横山くんと竹下くん。どうやら運動のしなさすぎでもダメだし、やりすぎてもダメなようだ。
 翔太は、なんだか自分までが不安になってしまった。

 横山くんや竹下くんのような身体の機能性障害のことは、ロコモティブ症候群と呼ばれている。本来は高齢者が加齢や運動不足で陥る状態のことだが、最近は子どもたちにもその予備軍が増えている。あまり運動をしないために、手首やひじや肩や足首やひざなどの関節やそのまわりの筋肉の柔軟性が失われたり、逆に特定の運動ばかりやりすぎていて、その部分を痛めてしまったりすることによって起きていた。
 子どもたちのロコモティブ症候群を防ぐためには、鬼ごっこ、木登り、石蹴り、縄跳び、ゴム段などの、昔からの多様な外遊びで体中の関節や筋肉を使うことが必要だった。以前と違って、そういった外遊びをする環境は、翔太たちのまわりではほとんど失われてしまっていた。学校の休み時間は短すぎたし、下校時間になったらさっさと学校を追い出されてしまう。校長や教師たちが、学校での事故を極度に恐れているからだ。もっとも、今回の横山くんの骨折のような件があることを考えると、あながち学校側の態度だけを責められないかもしれない。
 近くの公園には、滑り台やブランコなどのもっと小さな子どもたちのための遊具がたくさんあって、小学校高学年の子どもたちが自由に遊べる空間はあまりなかった。そのうえ公園では、木登りやボール遊びは禁止されている。ここでも、事故とそれに伴うクレームを極度に恐れる行政サイドの姿勢が表れている。
 しかし、仮に自由に遊べる場所があったとしても、肝心の子どもたちが少なすぎるので、人数が必要な外遊びが成立しないのも事実だった。昔に比べて子どもの絶対数が圧倒的に少ないし、その希少動物のような子どもたちも、いろいろな習い事や塾などに追われていて、自由に遊べる時間がすごく少なかった。だから、たまに暇があっても、少人数で遊べる携帯ゲーム機、スマホ、トレーディングカードなどでしか遊べないのだった。
 今の子どもたちが身体を動かそうとしたら、竹下くんや翔太のように、野球、サッカー、ミニバスケットボール、バレーボール、水泳、体操などのクラブに入らなければならない。
 でも、そこでは、同じ種目だけを長時間やることが多いので、逆に身体の特定部位の使いすぎで、関節や腱などを痛めてしまったり、特定の場所に筋肉がつきすぎて体全体の柔軟性が失われてしまったりする危険性があった。

 翔太のクラスでも、ロコモティブ症候群の調査のための問診表が配られた。一週間の運動時間や内容を記入するようになっている。
「みんな、家族の人たちにも聞いて、きちんと記入して、今週中に提出してください!」
 教壇では、村岡先生が、真剣な表情で声をからしている。今やロコモティブ症候群は、翔太の学校ばかりではなく市全体でも大きな問題になっている。
 翔太は、おかあさんに確認しながら、家で問診表を記入してみた。
 運動時間は予想通りにけっこう長かったが、サッカーだけに偏っていることがわかった。驚いたことには、それ以外の運動時間は、一週間合計で一時間にも満たなかったのだ。

 翔太の学校では、問診表の提出に続いて、クラスごとに交代で体育館に集められて、身体の柔軟性を調べる検査が行われた。
 最初の立位体前屈は、翔太はOKだった。手のひらまでは着かなかったけれど、指先は楽に床に着いた。
 しかし、まるで床に着かない子も多い。中には、ふざけているんじゃないかと思うほど、身体が曲がらない子もいる。指先が床から30センチ以上も離れている。
 でも、逆に余裕で手のひら全体がペッタリと床に着く女の子たちもいた。彼女たちの身体は、折り畳みナイフのように、ぴったりと二つ折りになっている。そんな子は、たいてい新体操かバレエを習っていた。
 次の検査に移った。かかとを浮かさずにそのまましゃがみこむテストだ。
「あっ!」
ショックなことには、翔太は足の裏をつけたままだと、きちんとしゃがむことができなかった。どうしてもバランスを崩して後ろに倒れてしまう。
 サッカーで走りすぎて、足に筋肉がつきすぎているせいかもしれない。翔太自慢の太ももの太さが仇になっている。膝や腰の関節の柔軟性が、太ももの太さに追いついていなかった。
 内心恐れていたことが事実になった。翔太自身も、ロコモティブ症候群予備軍だったのだ。

 市内の小学校の検査結果がまとまった。
 実に20パーセント以上の子どもたちが、なんらかの機能障害を抱えていることがわかった。ロコモティブ症候群予備軍は、知らないうちに子どもたちの間に蔓延していたのだ。
 その後、市では、大学の先生の指導の元に、ロコモティブ症候群を予防するためのストレッチを、すべての学校で導入することになった。体育の授業では、初めに、ラジオ体操に続いて、このロコモティブ症候群対策ストレッチを、必ずやるようになった。
「このストレッチは狭いところでもできるから、家でもやるように」
 村岡先生は、口を酸っぱくしてクラスのみんなに言っていた。横山くんのような事故を再発しないようにと、先生たちも必死だったのかもしれない。
 翔太も、学校だけでなく、サッカーをする前などにも、このストレッチをやるようになった。なんとか、ロコモティブ症候群予備軍の汚名を晴らしたかった。

「転ばぬ体操」で100歳まで動ける! 主婦の友生活シリーズ
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主婦の友社
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ぼくのバブル

2016-11-22 10:45:09 | 作品
「おとうさん、バブルって、なに?」
 朝食の時、ぼくはおとうさんにたずねた。
「えっ、なんだって?」
 おとうさんは読んでいた朝刊から目を上げて、ぼくの方に顔をむけた。
「バ、ブ、ル。テレビでいってるよ」
 テレビのニュースでは、土地の値下がりの話をしているところだった。
「ああ、そのバブルか? バブルってのは、本当は泡って意味なんだ。でも、土地や株が馬鹿みたいに値上がりすることもそういうんだよ」
「ふーん」
「そのあと、パチーンと泡がはじけるみたいに値下がりするんで、そのことをバブルっていうんだよ」
「株って、なに?」
 ぼくが首をかしげながらたずねると、
「うーん、また、芳樹のなになに病が始まった。早く食べないと、登校班に遅れるぞ」
と、おとうさんにいわれてしまった。
「ごちそうさま」
 となりで食べていたにいちゃんが立ち上がった。ぼくは、あわててトーストと目玉焼きに取りかかった。

 タララッタターン。
 にぎやかなファンファーレとともに、ゲームが終わった。
クリスマスにもらったゲームを、とうとう全面クリアしてしまったのだ。
ぼくはなごりおしそうに、プロデューサーやデザイナーの名前が流れているエンディングの画面をみつめていた。
 去年のクリスマスプレゼントは、にいちゃんの分は新しいゲーム機だ。そして、ぼくの分のプレゼントがこのソフトだった。
 二人とも、他にはソフトをひとつも持っていない。
 かといって、先に「全クリ」していたにいちゃんのようには、古いゲーム機に戻ってゲームをする気はおきなかった。
新しいゲーム機のスピード感あふれる3Dゲームをやった後では、もう元の世界には戻れない。
(あーあ、新しいソフトが欲しいなあ)
 ぼくの家では、誕生日のプレゼントは勉強やスポーツで使う物だけしかもらえなかった。
 お年玉も、全額郵便貯金にさせられているから自由には使えない。通帳もはんこも、おかあさんにがっちりにぎられている。
 今はまだ三月。今年のクリスマスまでは、絶望的に遠かった。

 ゲーム機をしまうと、昼ご飯の後かたづけをしているおかあさんの所へいった。
「おかあさん、ぼくの今月のおこづかいは?」
「あら、もう二十三日?」
 おかあさんは、すぐにさいふから百円玉を三個取り出した。
「はい、今月分。この前みたいに、一日で使っちゃだめよ」
 ぼくのおこづかいは、月にたったの三百円。
(ちびまる子ちゃんの時代だって、一日三十円だったというのに、なんてケチなんだろう)
って、いつも思っている。クラスには、月に千円以上もらっている人が多い。
 三百円ぽっちじゃ、ミシマヤでジュースをのんだり紙飛行機を買ったりしたら、あっという間になくなってしまう。
 でも、おかあさんに文句をいってもむだだ。なんていわれるかは、もうわかっている。
(おやつだって、コロコロコミックだって、みんなおかあさんが買ってあげてるのよ。まるちゃんとは条件が違うでしょ。一年生は月百円、二年生は二百円。学年ごとに百円ずつ増えるのが、うちの決まりなんだから。三年生の芳樹は三百円、五年生の正樹は五百円。おにいちゃんなんか、一度ももんくをいったことないわよ)
 にいちゃんとくらべられたら、もうおしまいだ。とにかく、ぜんぜんおこづかいを使わないんだから。たまにミシマヤへいっても、さんざん迷ったあげくに、十円のガムやあめを買うだけだ。五十円の水風船なんか、ぼくと二十五円ずつにして、二人で一袋しか買わない。

「おかあさん、ぼくも」
 ソファーにねころんで、コロコロコミックを読んでいたにいちゃんがやってきた。
「はい、今月分。あなたのほうは、もっと使いなさいね」
 おかあさんは、にいちゃんに百円玉を五つ手渡した。にいちゃんは、それをさいふの中の分と一緒にテーブルの上にならべて数えはじめた。
「千、百、二百、……」
 横目でそっとのぞくと、五百円玉、百円玉、十円玉、……。ずいぶんたまっている。
「えーっと、千八百七十三円。やったー!」
 にいちゃんは、うれしそうに叫んだ。
そして、その中から、五百円玉をひとつと百円玉を五つひろいあげると、
「おかあさん、また千円を郵便局へ入れておいて」
なんて、いっている。まったく、信じられないやつだ。
「まさちゃん、自分で考えてお金を使うのも勉強のうちよ」
 おかあさんもあきれ顔だ。
「いいの、いいの。それより、ぼくの通帳みせて」
 にいちゃんは郵便貯金の通帳を受け取ると、ニヤニヤしながらながめ始めた。

 その時、頭の中にいいアイデアがひらめいた。
「おにいちゃーん」
 こんな時だけは、ふしぎと猫なで声がでる。
「ぼくも『全クリ』しちゃったから、いっしょにお金を出し合って、次のソフトを買わない?」
「いいけどぉ。でも、いったいおまえ、いくら持ってるんだよ」
 にいちゃんは、疑わしそうな目つきでこちらを見ている。
 しかたがないので、おさいふをさかさまにしてふってみせた。もちろん、中からは今入れたばかりの三百円しか出てこない。
「なーんでぇ、たったそんだけかよ。話になんねえよ」
 まるで犬でも追い払うように、シッシッとぼくにむかって手をふった。
 しかたがないので、ぼくもにいちゃんとならんでコロコロコミックを読み出した。
 でも、この雑誌にもいろいろな新作ソフトの紹介が載っている。
(いいなあ、ぼくも好きなソフトを自由に買えたらなあ)
 そんことを考えていたら、
「あっ、そうだ、忘れてた」
と、いいながら、おかあさんが台所からやってきた。
 そして、電話台の引き出しから、ポチ袋をふたつ取り出した。
「この間、二人が学校に行っていた時に、茅ヶ崎のおばさんがいらしてね。二人におこづかいだって、おいてってくださったの」
「やったー!」
 急いで受け取ると、中からは折りたたんだ千円札が一枚出てきた。
「なーんだ、芳樹といっしょじゃねえか」
 すばやく自分の分をのぞいたにいちゃんは、少し不服そうな顔をしている。
「なーんだじゃないでしょ、おばさんにありがとは?」
「ありがとう!」
 二人は声をそろえて、はるか遠くのおばさんにお礼をいった。

「よお、カメちゃん」
 にいちゃんは、入り口近くにいた同じ五年生の友だちに声をかけた。カメちゃんは、そこに一台だけ置かれたUFOキャッチャーを、熱心にやっている。
「やあ、マサちゃん」
 カメちゃんは、マシンから顔も上げずに答えた。
 ぼくとにいちゃんは、さっそく自転車をとばして、イセザキ書店へやってきていた。ここは近所で一番大きな本屋で、CDやビデオのレンタルもやっているので、みんなのたまり場になっている。
「中古、中古と」
 どうせ高くて買えない入り口近くの新品の棚はすっとばして、奥の中古ソフトのコーナーへ急いだ。
 パッケージにはられた対応するゲーム機の名前とゲーム名、それに値段を目で追いながらさがしていった。
 中には、ニ、三百円の値札のついたプロレスゲームやサッカーゲームもあった。
 でも、そんなのは、すごくつまらないか、もう何年も前のソフトだ。
 ひとつのソフトの前にきた時、ぼくは立ち止まった。
 『アストロマン、バトル&チェイス』、本体価格は二千六百円。人気アニメのキャラ(キャラクター)たちが、カーレースをやりながら、秘密兵器を使って戦うゲームだ。まだ、半年ぐらい前に発売されたばかりのはずだ。定価は五千円ぐらいだったから、ずいぶん安くなっている。
 今はそうでもないけど、幼稚園のころは、ぼくも熱心にテレビのアストロマンを見ていた。何をかくそう、勉強机の正面についている大きな絵もアストロマンだった。
 ぼくは、あたりをキョロキョロ見回して、にいちゃんをさがした。
 にいちゃんは、一列向こうの棚の前で、何かのソフトのパッケージを見ている。
「おにいちゃーん」
 また、得意技の猫なで声だ。
「これにしよう? これなら、ちょうど半分ずつだし」
 ぼくは、『アストロマン、バトル&チェイス』のパッケージをふってみせた。
「どれどれ?」
 にいちゃんがそばまでやってきたので、『アストロマン、バトル&チェイス』を手渡した。
「えーっ、本体二千六百円。おまえ、千三百円しかもってないんだろ。消費税はどうするんだよ、消費税は!」
 にいちゃんは、パッケージにはってある税込みの値段のシールを確認しながらいった。
(ばれたか。ほんとに細かいやつだなあ)
 でも、気を取り直してもうひとがんばりねばってみた。
「その分は、来月まで貸しといてくんない」
「だめだめ、絶対だめ!」
 にいちゃんはまたシッシッと手をふって、ぼくを追い払った。
 それからまた、(もっと安くて面白いのがないか)と、ぼくは店の中を歩きまわった。
 でも、面白そうなのは、みんな『アストロマン、バトル&チェイス』よりもずっと高い。三千円とか、四千円もしては、ぼくにはぜんぜん手が出せない。
「よっちゃん、こっちにしない?」
 向こうの棚から、にいちゃんがパッケージを手にしながらやってきた。今度は、向こうが猫なで声だ。
にいちゃんが持ってきたゲームは、「人生ゲーム」のテレビゲーム版だった。もちろんこれも中古品で、本体価格は三千二百円。
「これにするなら、おまえが出すのは千三百円だけでいいよ。あとは、消費税も含めてぜんぶおれの方が出すからさ」
 よっぽど気に入っているのか、めずらしく太っ腹だ。
「こんなの、ぜんぜんおもしろくないよ。ただボードゲームをソフトにしただけなんだから。それに、本物の「人生ゲーム」も家にはあるし」
 ぼくが文句を言うと、
「じゃあ、いいよ。もう、やめやめ。おまえが買いたいっていうから、つきあってやったんだぜ。おれはべつに買わなくってもいいや」
 にいちゃんはふくれっつらをして、店の外へずんずんと歩いていってしまった。

「じゃあ、いってきまーす」
 翌日も半日授業だったので、お昼ごはんを食べるとすぐに家をでた。かたくり公園で、やすゆきくんと待ちあわせていた。
「二十五、二十六、…」
 ひとますずつ数えながら、ぼくは歩道の縁をバランス取って歩いていた。
ところどころ植え込みなんかが出っ張っているので、時々車道におっこちてしまう。すぐそばを車が通っているので、けっこうスリルがある。
 二丁目のかどをまがったときだった。
車道との境に、枯れ葉のようなものが風に吹かれているのが見えた。
 バランス歩きを止めて、急いで近づいてみた。着物をきたおじさんの絵が、おもてには描かれている紙きれだった。
(もしかして?)
 ひろい上げてみたら、1の後に0が四個ついている。やっぱり一万円札のようだった。
お日様にかざしてみると、ちゃんとすかし模様もはいっている。まるで、本物のお金のように見えた。
(でも、まさかなあ?)
 あたりを見わたしてみたけれど、だれもいなかった。ぼくは、なにげなくそれをポケットにつっこんでいた。

 公園には、やすゆきくんが先にきていた。
「やあ」
 ぼくは、ブランコにすわっていたやすゆきくんに声をかけた。
「じゃあ、行こうか」
 やすゆきくんはそういって、すぐに立ち上がった。これから、二人でミシマヤへいって、水風船を買って遊ぶ約束だった。
 水風船は、公園の水道で水を入れて、すべり台の上から落としたり、ぶつけっこをするとすごく楽しい。水を入れすぎなければ、ホワーンとはねかえって、簡単にはわれなかった。
 学校のむこう側にあるミシマヤに近づいたとき、やすゆきくんがさりげなくいった。
「ぼくって、最近けっこうよっちゃんにおごってあげてるよね。今日は、あんまりお金がないんだなあ」
 思わず、ドキッとしてしまった。たしかに、先月のおこづかいを一日で使いはたしてしまってから、五回ぐらいはおごってもらっている。
 やすゆきくんだけではない。けんたくんやたけしくんにも、何回かおごってもらっていた。
 といっても、三十円で三個のガムを一個だったり、五十円で十五枚入りの水風船を五枚ぐらいにすぎないけれど。
 でも、さいふには三百円しか入っていなかった。
例のおばさんの千円は、
「二人で話がつくまで、あずかっておきます」
って、おかあさんにとりあげられてしまっている。
 もし、やすゆきくんたちにおごり返したりしたら、たちまちまたからっぽになってしまう。今日は、久しぶりに自分専用の水風船を買い、うまい棒やガムも食べようと思っていたのに。

 ぼくたちは、ミシマヤのそばまでやってきた。
 何気なくポケットに手をつっこんだら、何かがゆびさきにふれた。取り出してみたら、さっきの「一万円札」だった。
「これ、本物かなあ?」
 ぼくは、それをやすゆきくんに見せた。
「どうしたの、これ?」
 やすゆきくんは、目を丸くしておどろいている。
「うん、道路におっこちてんだよ」
 ぼくは、それをひろったことを正直に話した。
「すげえなあ。今日のよっちゃんって、大金持ちじゃん」
 やすゆきくんは、すごくうらやましそうな顔をしていた。
「まさかあ。きっと、にせものだよ。本物が道に落ちているはずないじゃない」
 ぼくがそういうと、
「うーん、じゃあ、ぼくが確かめてきてやるよ」
 やすゆきくんは、一万円札をぼくの手からサッと取った。そして、ミシマヤの隣の酒屋さんに入っていってしまった。
 ぼくは、店先の自動販売機の前でドキドキしながら、やすゆきくんを待っていた。
 しばらくして、やすゆきくんがニコニコして出てきた。
「やっぱり、本物だった。ほらっ」
「あっ!」
 びっくりしたことには、やすゆきくんが差し出したのはぼくが渡した一万円札ではなかった。十枚の千円札に変わっていたのだ。
「自動販売機を使うっていったら、かんたんにくずしてくれたよ」
 やすゆきくんは、得意そうな顔をしていた。
「いいのかなあ?」
 ぼくは、まだふんぎりがつかなかった。
「えっ、だって、使っちゃうつもりだったんだろ」
 やすゆきくんが、少しムッとしたようにいった。
「うーん」
 そこまでは、ぜんぜん考えてなかった。
 でも、さっきの一万円札と違って、見慣れた千円札を目の前に差し出されると、急に使ってみたくなってしまった。

 ミシマヤは小さな文房具屋だ。
 でも、一個五円から買えるガムやあめ、うまい棒などの駄菓子も売っている。それに、水風船や紙飛行機のような値段の安いオモチャもおいてあった。みんなぼくたちのこづかいで買えるものばかりだ。だから、近所の小学生たちのたまり場になっている。
 ミシマヤは、今日も大勢の子どもたちでにぎわっていた。
「おばちゃん、あてくじね」
「ラムネをちょうだい」
「こっちが先だよ」
 みんなが口々に、ミシマヤのおばさんに頼んでいる。
 ぼくはおしあいへしあいしているみんなをかきわけて、ようやく前の方に出られた。
「30円ガム一個と20円ガムを二個ください」
 ぼくはおそるおそる千円札を、ミシマヤのおばさんに差し出した。残りの九千円は、しっかりと左のポケットにいれてある。
「はい、おつり」
 おばさんは、あっさりと九百三十円のおつりをくれた。
「あ、ありがとう」
ぼくは、それを今度は右のポケットにつっこんだ。
 ぼくはミシマヤを出ると、そばの公園に急いだ。
やすゆきくんは、そこでぼくの帰りを待っていた。いっしょに行こうといったのに、やすゆきくんはミシマヤについてこなかったのだ。
「はい、これ」
 ぼくは、買ってきたガムを、やすゆきくんと山分けにした。
「ありがとう」
 やすゆきくんは、そういってすぐにガムをうけとった。
 でも、まだなんだか物足りなそうな顔をしている。もしかすると、もっといろいろな物を買ってくると思っていたのかもしれない。
「これも、いいよ」
 あわてて一個を除いて、残りの全部のガムを、やすゆきくんにあげた。
「いいの?」
 やすゆきくんは、ようやくうれしそうな顔をした。
 ガムを口にほうり込んで、力いっぱいブランコをこぎはじめた。右のポケットで、さっきつっこんだおつりが、ジャランとなった。
 その時、ぼくの胸の中で、小さなバブルがふくらんでしまった。

 ぼくたちは、またミシマヤへ戻ってきていた。
「じゃあ、これ使っていいよ」
 店に入る前に、やすゆきくんには百円玉を一枚あげた。
「ありがとう」
 やすゆきくんは、大喜びでミシマヤに先にたって駆け込んでいく
「おばさん、こおったジュースとコーラガムとひもグミね」
 やすゆきくんは、あっという間にぜんぶ使ってしまった。
(よーし、負けるもんか)
 ぼくは、シゲキックスとすいかグミと七十円コーラを買った。ぜんぶで二百二十円だ。
「よっちゃん、来てたんだ」
 それぞれのおかしをかかえてミシマヤを出た時、いきなり声をかけられた。けんたくんとたけしくんだった。
「みんな、いいところにきた。よっちゃんったら、すごーくお金を持ってるんだぜ」
 とめる間もなく、やすゆきくんがみんなに話してしまった。
「すげーえ」
 けんたくんが感心したようにいったので、
「みんなにも、おごってあげるよ」
 つい、そういってしまった。

 ターン、ターン、タタン。
 夕方五時のチャイムがなった。これがなったら、家へ帰らなくてはいけないことになっている。
ぼくはミシマヤの前で、やすゆきくんたちと別れた。
 でも、いったん家に戻ると、今度は自転車に乗ってイセザキ書店へ向かった。
 店内は、今日も大勢の人たちで込み合っていた。
でも、さいわい、その中には知っている子は一人もいなかった。
 左のポケットにはまだ八千円が、右のポケットにもジャラジャラとコインが入っている。
 ぼくは、すぐに中古ソフトの売り場に向かった。『アストロマン、バトル&チェイス』は、今日もそこにあった。今だったら、一人でこのソフトを買える。いや、ここにある他のどんなソフトだって、買うことができるかもしれない。
 左手をポケットにつっこんで、ぼくはお札をにぎりしめていた。
頭の中で、アストロマンは愛車でレース場をぶっとばしている。秘密メカで、敵と戦っている姿が浮かんでくる。
(キキーッ)
タイヤのきしむ音が聞こえたような気もした。
 ぼくは、おそるおそる右手を、パッケージの方にのばしていった。
 でも、その手をすぐにひっこめた。どうしても、ポケットから左手ににぎりしめていたお金を出すことはできなかったのだ。
 けっきょく、ぼくは何も買わずにイセザキ書店を後にした。

「ほら、よっちゃん、見てごらん。ここにも、この前いってたバブルのつめあとがあるから」
 翌日の朝食の時、おとうさんが新聞にはさまっていたちらしを差し出した。どうやら、中古住宅売り出しの広告らしい。
「若葉町三丁目? うちのそばじゃない」
「あら、また売りに出てるの? どこのお宅かしら?」
 おかあさんものぞきこんできた。
「また、値段が下がってるんだ。ほんとにいやになっちゃう。こっちはローンで苦しんでいて、こづかいも減らしてるってのに」
「ローンって?」
 ぼくがたずねると、
「子供には関係ないの。さて、今日も会社か。ずるいなあ、小学生は。今日も半日授業なんだろ。もうすぐ春休みなんだし」
「だけど、おとうさんだって、三十年前は小学生だったんでしょ」
 だまって朝ごはんを食べていたにいちゃんが口をはさむと、
「はは、そりゃそうだな」
 おとうさんはわらいながら、コーヒーを飲みほして立ち上がった。
 朝食を食べ終わると、にいちゃんがいないことを確認してから、子供部屋に戻った。
 昨日、イセザキ書店から戻ってから、部屋の中でお金の隠し場所をけんめいに探した。
(ベッドの下は、ふとんをたたまれちゃうからだめだ。タンスの引き出しも、おかあさんが開けてしまうし)
 かといって、ランドセルに入れておくこともできない。ぜんぶのお金を学校へ持っていくなんて、こわくてとてもできなかった。けっきょく、机の一番上の引き出しにお金を入れた。上からは、ポケモンのシールブックをかぶせて見えないようにしておいた。
 ぼくは少し迷ってから、引き出しから半分の四千円とコインだけを取り出して、ポケットにつっこんだ。残りの四千円はそのままにして、またポケモンのシールブックを上にかぶせた。
「おかあさん、ぼくの机の引き出し開けないでね」
 台所に戻って、おかあさんにいった。
「なんで?」
「どうしても」
「だから、なんでよ。変な子ねえ」
「うーんと、……。書きかけの、書きかけの手紙が入ってるから」
「ふーん、そんなの勝手に読んだりしないわよ。それより、登校班に遅れるわよ」
 ぼくはようやく安心して、先に行ってしまったにいちゃんの後を追いかけた。

「ねえ、よっちゃん、ゲームをやってもいい?」
 やすゆきくんが、ぼくにねだるようにいった。
「いいよ、いいよ」
 ぼくが、きまえよくこたえる。
「わーい」
 やすゆきくんがかんせいをあげながら、けんたくんといっしょに走っていく。向かっているのは、ミシマヤの店先にあるゲーム機だ。
 そのあとをおいかけながら、ついニコニコとしてしまう。
 やすゆきくんとけんたくんといえば、いつもはクラスでも中心の二人だ。それが、今日はきそってぼくの機嫌を取ろうとしてペコペコしている。
 学校の帰りに、ぼくはそっとミシマヤにさそった。二人とも、すぐによろこんでついてきた。
 でも、たけしくんだけは、一緒に来ようとはしなかった。
「塾があるから」
って、いっていたけれど、なんだか本当はいきたくなかったのかもしれない。そういえば、昨日もコーラガムとぶどうガムをひとつぶずつ受け取っただけだった。それ以上は、どんなにすすめても決しておごられようとしなかった。

 ぼくは昨日よりも早いペースで、どんどんお金を使っていった。やすゆきくんとけんたくんにも、いっぱいおごってあげている
「ぼく、そんなにお金を使っていいの?」
 一度だけ、ミシマヤのおばさんがたずねた。
「うん、茅ヶ崎のおばさんが、いっぱいおこづかいをくれたんだ。みんなつかってもいいって、おかあさんもいってた」
 自分でもおどろいたことに、そんなうそがすらすらと口から出た。
 そして、自分だけは、百円の高いほうのジュースまで買うようになった。やすゆきくんとけんたくんには、三十円のこおったジュースしかおごってあげなかった。
 高いジュースをふたりに見せびらかしながら、チビチビと飲んだ。ふたりともうらやましそうにしていたので、一口ずつのましてあげた。そうすると、まるで二人を子分にしたようないい気持ちになれるのだった。
 とうとうぼくは、店先の値段の高い方のガチャポンの前に立った。これは、なんと一回二百円もする。もちろん、今までに一度もやったことがない。やすゆきくんとけんたくんも、うらやましそうに見ている。
 お金を入れて、いきおいよくハンドルをまわす。
 ガチャン。
 大きな音を立てて、オレンジ色のカプセルが転がり出てきた。

 ミシマヤから、イセザキ書店にまわることになった。
今日は、やすゆきくんたちと一緒だ。いったん別れてから、かたくり公園に集合した。みんな、それぞれの家に戻って、自転車でやってきた。
 イセザキ書店は、今日もこみあっていた。同じ学校の子もたくさんいる。
 でも、もう誰がお店にいようとかまわない。昨日のように、ビクビクしなくなっている。
 ぼくは、すぐに『アストロマン、バトル&チェイス』の前に立った。
 まだ、ポケットには買えるだけのお金が、充分に残っている。今日はぜんぜんためらわずに、まっすぐパッケージに手をのばした。
「いいなあ」
 やすゆきくんが、うらやましそうな声を出している。
「ぼくにもやらしてよ」
 けんたくんも、頼み込むようにいった。
「もちろん」
 ぼくは、得意満面だった。
「よし、いこう」
 ぼくは、『アストロマン、バトル&チェイス』を持って、レジにむかった。
「これおねがいします」
 ぼくは、思い切って、レジにパッケージを差し出した。
「お包みしますか?」
 レジのおねえさんがたずねた。
「いえ、ふくろに入れてくれればいいです」
「はい、おかんじょうは、2,730円です」
 ぼくは右のポケットから、残っていた全部のお札を取り出した。
「まず二千円」
 左からは、ジャラジャラとコインをつかみ出した。
「それから、七百、三十円と」
 ぼくは、おねえさんにピッタリお金をはらった。 
 ミシマヤでけっこう使っていたから、右ポケットには、もうほとんどお金が残らなかった。しかもポケットにコインを入れたまま遊んでいたから、少しは落としちゃったかもしれない。
 でも、家に帰れば、まだ四千円も残っている。
(明日は何に使おうか?)
 考えただけでもワクワクしてきた。

 イセザキ書店から、三人で自転車を並べて帰っていった。
「じゃあ、また明日ね」
「今度、ゲーム貸してね?」
「バーイ」
「バイバーイ」
 ぼくは、かたくり公園でやすゆきくんとけんたくんに別れを告げた。
 家の近くまで戻ったとき、はたと気がついた。
(ソフトのことをどうやって説明しよう?)
 お金を持っていないのに、いきなり新しいゲームを持って帰ったら、おかあさんにあやしまれてしまう。
(やすゆきくんに借りたことにすれば、どうだろうか?)
 たぶんおかあさんだったら、この言い訳でいけるだろう。
(いや、だめだ。)
 にいちゃんがいる。にいちゃんには、『アストロマン、バトル&チェイス』を買おうとしていたことが、ばれてしまっている。きっと、あやしまれるに違いない。
 玄関わきに自転車をとめると、いつものようにビニールシートをかぶせた。
「ただいまあ」
大きな声でいうと、
「おかえりなさい」
 おかあさんが、食堂から出てきた。
「おにいちゃんは?」
 声をひそめて、おかあさんにたずねた。
「なんだよ。おれになんか用か?」
(まずい!)
 なんとおにいちゃんが、玄関横の子供部屋から出てきてしまったのだ。なんておそろしい地獄耳なんだろう。
「ううん、なんでもない」
 ぼくは、あわててソフトの包みを体で隠した。そして、そのままの姿勢で、子供部屋の方へ逃げていった。
(早く机にゲームを隠さなくては)
 チラッと振り返ったら、にいちゃんは「あやしいぞ光線」を目から発射しながらこちらを見送っていた。

 翌朝、ぼくは引き出しから残りの四千円を左のポケットにつっこんだ。すべてのコインも、右ポケットにジャラジャラ入れた。ポケットはずっしりと重くなった。
ぼくは、今日こそ、これらをぜんぶ使いきってしまうつもりだった。
 お金のかわりに、『アストロマン、バトル&チェイス』を引き出しに隠した。もちろん、上にはポケモンのシールブックをかぶせておいてある。
 昨日は、けっきょく、『アストロマン、バトル&チェイス』をやるチャンスはなかった。
 ぼくは、にいちゃんが子供部屋へ行く隙をずっとうかがっていた。
 ところが、どういうわけかゲーム機をつないである居間のテレビのまわりを、ずっと離れなかったのだ。
(あーあ、やすゆきくんみたいに、自分の部屋があって専用のテレビもあればなあ)
 ぼくは思わずため息をついた。
「おかあさん、ぼくの机の引き出し開けないでね」
 念のために、今日もおかあさんにいっておいた。
「開けないわよ、あんたの引出しなんて。昨日だって、ぜんぜん開けなかったじゃない」
 ふと気がつくと、にいちゃんがそんなやりとりに耳をそばだてていた。いつもなら、さっさと先に登校班に行ってしまうくせに。今日に限って、玄関でぼくが来るのを待っている。
 ぼくは、にいちゃんがまた「あやしいぞ光線」を発しているのに気がついた。

「今日もミシマヤに行こう?」
 学校が終わるとすぐに、やすゆきくんとけんたくんをさそった。
 やすゆきくんは二つ返事でOKだった。
 でも、けんたくんの方は、(あんまりおごってもらってばかりじゃ悪い)って、一緒に来なかった。
「『アストロマン、バトル&チェイス』は、おもしろかった?」
 下駄箱のところで、やすゆきくんがたずねた。
「じつは、まだやってないんだ」
「どうして?」
「うん、ちょっと」
 ちょうどそのとき、校門のあたりから、にいちゃんがじっとこちらをうかがっているのに気がついた。
「早く終わらせて、ぼくにもやらせてね」
 やすゆきくんは、まわりにも聞こえるような大声を出している。
「裏門の方から行こう」
 ぼくは、あわててやすゆきくんを引っ張るようにして、にいちゃんから離れていった。ミシマヤへは裏門からの方が遠まわりになるので、やすゆきくんは不思議そうな顔をしていた。
 でも、ぼくはズンズン先に立って裏門にむかった。
 途中でそっとふりかえったら、にいちゃんの姿はもう見えなかった。ぼくは、ようやくホッとしていた。

「100円ガムに、シゲキックスに、70円コーラ、ちょうだい」
 ぼくはミシマヤに入るなり、そうおばちゃんにいった。
「ひもグミに、レモンガムに、100円ジュースね」
 やすゆきくんも負けずにたのんだ。
 ぼくは千円札を一枚左のポケットから出して、二人分のお金をはらった。おつりは、例によって反対の右のポケットにつっこんだ。
 さらに、紙飛行機と水風船をたくさん買ってから、ようやくミシマヤを出た。
 それからは、飲み物をのんだりおかしを食べたりしながら、二人でかたくり公園で遊んだ。
 紙飛行機は、スイスイと青空をどこまでも飛んでいった。滑り台から落とした水風船は、何度もはでに破裂していた。
 しばらくして、そんな遊びにもあきると、ぼくたちはまたミシマヤに舞い戻った。
 おかしや飲み物を、どんどん買いまくっていく。
 さらに、50円のゲームや100円と200円のガチャポンもやりまくった。
 そして、最後には、一回50円の当てくじを、二人交代で引き続けた。当てくじの特等は、何千円もしそうなエアガンだった。
 でも、そんなすごいのが当たるくじが、本当に中に入っているなんて、誰も信じていない。だって、エアガンはもうずっとそこに飾ったままで、ほこりをかぶっていたからだ。
 それでもかまわずにどんどんくじを引きまくっていると、だんだん頭の後ろの方がジーンとしびれてきた。なんだか、夢の中にいるようなうっとりするような気分だった。
 ふと気がつくと、もうポケットには30円しか残っていなかった。
「これで最後だ」
 ぼくは30円ガムを買ってミシマヤを出ると、やすゆきくんと半分ずつにわけた。
(とうとう使い切ってしまった!)
 なんだか満足したような、少しさびしいような不思議な気分だった。
 次の瞬間、
「芳樹っ!」
 うしろから、急に大声で名前をよばれた。
 ふりむくと、おかあさんがこわい顔をして立っていた。
(ばれた!)
 おかあさんの様子を見れば、誰にだってわかる。ぼくは、天国から一転して地獄に突き落とされたような気分だった。
 とっさに、どこかに逃げようかと、まわりをみまわした。
 でも、どこにも逃げられそうもない。
 おかあさんは、ズンズンと近づいてくる。ぼくは、その場に立ちすくんでいた。
「ちょっと、家に来なさい」
 おかあさんは、ひきずるようにしてぼくの腕を引っ張り始めた。ぼくは、うなだれておかあさんに従っていた。
 ふと気がつくと、やすゆきくんがそばにいない。
(いつのまに、ぼくのそばを離れたのだろう)
 振り向くと、やすゆきくんは、ミシマヤの店先にいた。けんめいに、アイスクリームのケースをのぞいているふりをしていた。

  家に戻ると、つくえの引き出しが開けられていた。そして、『アストロマン、バトル&チェイス』のパッケージが、机の上に出されてしまっている。
「なんだよ。開けないって、約束したじゃないか」
「何いってるのよ。手紙だなんて、うそついて。このソフトはどうしたのよ」
「うーんと、借りてるんだ」
「だれに?」
「や、やすゆきくんに」
「うそおっしゃい。おにいちゃんが、学校であなたの方がやすゆきくんに貸す約束してたって、いってたわよ」
 やっぱりあの時に、にいちゃんに聞かれてしまっていたんだ。
「この前、自分で買ったんだ」
 ぼくは、しぶしぶイセザキ書店で買ったことを認めた。
「お金はどうしたのよ?」
「うーん、知らないおじさんにもらったんだ」
「何、でたらめいってるのよ」
「でたらめじゃないよ」
 一瞬、おかあさんは芳樹をにらみつけると、いきなり大声で泣き出した。
(やばい)
 泣くのはおかあさんの得意技だ。あとは、おとうさんにいいつけるにきまっている。
 案の定、おかあさんは、すぐにおとうさんの会社に電話をかけて、泣きながら話し始めた。

 その日の夕方、いつになくおとうさんが早く帰ってきた。きっと、おかあさんが電話したからだ。
「芳樹、ちょっと部屋においで」
 おとうさんは、上着もぬがずに言った。すごく真剣な顔をしている。おとうさんについて、ぼくは子供部屋へいった。
 そこでは、にいちゃんがベッドにねころんでコロコロコミックスを読んでいた。
「正樹は、あっちへいってなさい」
「どうしたの?」
 にいちゃんは、興味しんしんって感じだった。
 でも、おとうさんがこわい顔をしているので、あわてて部屋を出ていった。
 おとうさんはふすまをピシャンとしめると、にいちゃんのいすにすわった。ぼくはうなだれて、自分のいすにこしをおろした。
「芳樹、おとうさんはいつでも芳樹の味方だろ。ぜんぶ正直に話してごらん」
(やばい)
と、また思った。
 おこっているときにわざとやさしい声を出すのは、おとうさんの得意技だ。もう逃げられない。
 それから、二時間近くかけて、すべてを白状させられてしまった。

 『一日目
 ・30円ガム(3個入り)(やすゆき2.5個、よしき0.5個)
 ・20円ガム(3個入り)2個(やすゆき4個、よしき2個)
 ・やすゆきくんに100円あげた。
 ・シゲキックス(100円、よしき)
 ・すいかグミ(50円)2個(よしき、やすゆき)
 ・70円コーラ(よしき、やすゆき(ひと口))
 ・20円コーラガム2個(みんな)
 ・10円ぶどうガム4個(みんな)
 ・30円レモンガム(よしき、やすゆき、けんた)
 ・凍ったジュース(30円、よしき)
 ・ひもグミ(50円、よしき)
 ・ひこうき(63円)3個(よしき、やすゆき、けんた)
 ・ゲーム(50円)3回(よしき、やすゆき、けんた)
 ・けんたくんが買った126円のボールのうち、26円をだしてあげた。
 二日目
 ・ 100円ジュース(よしき)
 ・ こおったジュース(30円)2個(やすゆき、けんた)
 ・ ゲーム(50円)3回(よしき、やすゆき、けんた)
 ・ ガチャポン(200円、よしき)
 ・ ひもグミ(50円)2個(よしき、やすゆきとけんたは1個を半分ずつ)
 ・ シゲキックス(100円)(よしき)
 ・ 100円ガム(よしき、やすゆき、けんた)
 ・ 10円あめ2個(よしき、やすゆき)
 ・ 10円ガム3個(よしき、やすゆき、けんた)
 ・ 20円ガム2個(よしき、やすゆきとけんたは1個を半分ずつ)
 ・ 30円ガム3個(よしき、やすゆき)
 ・ ひこうき(63円)2個(よしき、やすゆき。けんただけは、昨日買ってあげたひこうきを家から持ってきた)
 ・ やすゆきとけんたに100円ずつあげた。
 ・アストロマン、バトル&チェイス(2,730円)
三日目
 ……』

「すげえなあ! 信じられないよ」
 おとうさんは、この三日間に、買ったり、おごったりしたものをぜんぶリストにすると、あきれたようにいった。
 でも、合計すると、どうしても一万円分にはならなかった。
「まだあるんじゃなにのか?」
 そういわれても、それ以上は思い出せない。
「ポッケにコインを入れたまま遊んでいたから、少し落としちゃったかもしれない」
 ぼくがそういうと、おとうさんはあきれたような顔をしていた。
 おとうさんとの話し合いの結果、一万円は、「おばさんの千円」や郵便貯金のお年玉で、弁償することになった。
 『アストロマン、バトル&チェイス』は、まだ封を切っていなかった。
「これは、イセザキ書店の返品できるな」
 おとうさんに、ズバリといわれてしまった。もうこれで、新しいソフトを手に入れるのは、完全にパーになってしまった。ぼくの胸の中の小さなバブルが、プチンとはじけたような気がした。
「それで、こんなに買いまくったときの気分はどうだった?」
 おとうさんが、最後にたずねた。
「うーん、やっぱりすごーく気持ちがよかった」
 ぼくは小さな声でそう答えた。
「そうか、気持ちよかったか」
 おとうさんはそういうと、ぼくの頭をゴシゴシとこすった。

ぼくのバブル
クリエーター情報なし
平野 厚
コメント

ジャッジ

2016-11-15 08:24:03 | 作品
 一回の表、相手チームの攻撃中だった。ツーアウトながら、二塁にランナーが出ていた。ワンアウトから四球で出してしまったランナーを、手がたく送りバントで二塁に進められてしまったのだ。
「ボール」
 次の投球が高めにはずれて、ツーストライクスリーボール。打席に四番バッターをむかえて、ピッチャーの正平はすっかり慎重になっていた。緊張したときのくせで、上くちびるをペロペロなめている。
「タイム!」
 芳樹は審判に声をかけると、キャッチャーマスクをはずしながらマウンドにむかった
「正平、打たせろ、打たせろ。まだ一回だから、ヒットを打たれたってかまわないから」
 芳樹はミットで口をおおって、まわりには聞こえないようにしてから正平に声をかけた。
 バッターは、背番号10番、少年野球ではキャプテンがつける番号だ。しかも、メンバー表によるとポジションはピッチャー。つまり、エースで四番でキャプテンってやつだ。どうやら一回戦の対戦相手は、この選手のワンマンチームらしい。最初から敬遠したりして、調子づかせたくない。
「わかった。じゃあ、例のやつでいこうか」
 正平もグローブで口をおおって、芳樹にささやいた。
「そうだな。ためしてみるか」
 芳樹はそう答えると、小走りにホームにもどった。
(よし、来い)
芳樹はミットの下に右手をやって、すぐに次のボールのサインをおくった。
正平は深々とうなずくと、セットポジションを取って、セカンドランナーに視線を送った。
と、一転して、すばやい動作で次の球を投げ込んできた。
(速球か?)
ところが、動作とは裏腹に、投球はやまなりの超スローボール。打ち気まんまんだったバッターは、つんのめるように体を乗り出しながらボールを見送っている。スローボールは、高めからストンとどまんなかに決まった。
(やったあ、見逃しの三振)
 思わずミットをたたいてベンチに戻ろうとしたとき、
「ボール、フォア」
 意外にも、主審はバッターに一塁を指し示している。
あっけに取られていると、審判はマウンドの正平に近寄っていった。
「スローボールは変化球と判定して、全部ボールにするからね」
 少年野球では、ピッチャーのひじや肩を保護するために、変化球は禁止されている。審判は、スローボールは変化球とまぎらわしいから、ボールと判定するというのだ。
「タイム!」
 味方のベンチから、監督が抗議に飛び出してきた。

「正平、キャッチボール」
 そう声をかけてから、芳樹は正平に軽くボールを投げた。監督が抗議をしている間に、ピッチャーである正平の肩を冷やさないためだ。第一試合だったので、まだ九時を過ぎたばかり。もう十一月なので、太陽は出てはいるものの、河川敷のグラウンドはかなり寒かった。
監督は、主審や立会いの人たちとまだ話し合っている。
「ちぇっ、スローボールが禁止なんて、聞いてないよ」
 正平は、ボールを投げながらぼやいていた。
 今日、芳樹たち少年野球チーム、ヤングリーブスは、厚木市まで遠征して今シーズン最後の大会に参加していた。8チームだけの小さなローカル大会。一日で決勝戦までが行われるワンデイトーナメントだ。自分たちの町の大会と違って、審判や立会人たちも知らない人ばかりだった。
「ただのスローボールじゃないか」
「早く始めろ」
 ヤングリーブスの応援席から、やじが飛び始めた。
「静かに、静かに」
 石田コーチがベンチから出て、応援の人たちをなだめている。あまりやじったりすると、審判の心証を悪くしてかえってこちらに不利になってしまう。
 ふと見ると、他のチームメンバーは、手持ちぶさたな様子でそれぞれの守備位置に立っている。
「おーい、ベンチ。外野や内野にもボールを送ってくれえ」
 キャプテンでもある芳樹は、味方のベンチにむかってどなった。
「いくぞお」
補欠の選手たちが、いくつか練習ボールを出してみんなに投げている。内外野もキャッチボールさせて、ウォーミングアップさせておきたかった。
内野は四人だからちょうどいい。ファーストとセカンド。ショートとサード。それぞれが組になってキャッチボールを始めた。
外野は三人なので、補欠の選手が一人ファールグラウンドに走っていった。ライトとセンター。レフトと補欠の選手。この組み合わせで、遠投をはじめた。
 でも、ちょうどそのとき、監督が抗議をやめてしまった。案外あっさりとあきらめたようだった。小走りにベンチへ戻っていく。
「ボール、バック」
芳樹はまた大声で叫んで、みんなにボールをベンチへ戻させた。ベンチのみんなは次々と戻ってくるボールをキャッチするのにおおわらわだった。
芳樹と正平は、また急いで守備位置につこうとした。
と、その時、
「バッテリー、ちょっとおいで」
 監督にベンチから呼ばれた。
芳樹が正平と一緒に、監督のところに小走りにかけよっていくと、
「厚木市じゃ、カーブとまぎらわしいてんで、今年からスローボールは禁止にしてるんだと」
 監督が苦笑いしながらいった。
「そんなあ」
 正平が悲鳴をあげた。ピッチャーとしては小柄な正平は、スローボールをまぜた緩急をつけた投球が持ち味だ。特に、今日のような身体が大きい選手のそろった強打のチーム相手には、超スローボールは有効だった。
「まあ、厚木の大会だからな、しゃあないよ。ホームタウンアドバンテージってやつだな」
 監督は、二人をなだめるようにいった。
「なんですか、ホームタウンアドバンテージって?」
 芳樹がたずねると、
「地元のチームに有利に、ってことだ」
 監督は、声をひそめていった。
「そんなの、フェアプレーじゃないよ」
 芳樹がふくれっつらをすると、
「まあな。でも、世の中なんか、そんなものだよ」
 監督は、笑いながらいった。
「ちぇっ」
 やっぱり、そんなの不公平で納得がいかない。 
「それより、この審判はどこが好きだ?」
 監督は急にまじめな顔をすると、手で口をおおいながらささやいた。
「低めです」
 正平も、グローブでしっかり口をかくしながら答えた。相手チームや審判の人たちに、聞こえないようにするためだ。
「それに外角寄り」
 芳樹も、キャッチャーマスクをかぶりなおしてから付け加えた。かなり低めの外角の球をストライクに取ってくれるので、けっこう助かっている。逆に高めや内角球には辛いようだ。
「なーんだ、芳樹。それがわかってるなら、なんとかしろよ、キャプテン」
 監督はポンと芳樹の肩をたたいて、さっさとベンチの中に戻ってしまった。
(そうだ)
 監督のいうとおりだった。どんな審判でも、必ずジャッジのくせがある。それは、人間が判定するゲームである野球にはつきもののことだ。そのくせを早いうちにつかんで、自分たちに有利に生かすことが大事なのだ。それに、芳樹はキャッチャーだ。一球ごとに、相手チームだけでなく、審判ともかけひきをやっていかなければいけないポジションだった。いちいち審判の判定に動揺しているより、ピッチャーの正平をうまくリードしなければならない。

 一回の表は、なんとか無得点におさえた。スローボールが使えないから、正平にはコーナーぎりぎりをつかせて相手の攻撃をかわした。
その裏、芳樹がバッターボックスに入っていたときだ。カウントはツースリー。
次のボールは内角高めにはずれた。
(しめた、フォアボールだ)
 芳樹は自信をもって、ボールを見送った
「ストライーック、バッターアウト」
 審判が叫んだ。
(えっ?)
 完全なボール球をストライクに判定されて、三振になってしまった。審判は、正平の時はこのコースはボールに判定していた。芳樹は不満げに首を振りながら、ベンチに戻っていった。
「よっちゃん、ドンマイ、ドンマイ」
 ベンチの中から、型どおりにはげましの声がかかった。
 でも、本当はみんなも不服なのだ。きわどいボールをストライクにされていたのは、芳樹だけじゃなかった。他の子のときも、同じような判定が続いている。どうも相手のピッチャーには、判定が甘いような気がしてならない。せっかくいいカウントになりかけても、不利な判定で流れを断ち切られてしまっていた。

二回の表の相手の攻撃のときだった。
バシーン。
正平の投球が、アウトコース低めいっぱいに決まった。
(よし、ストライクだ)
と、思った瞬間、
「ボール、フォア」
 審判は、一塁を指し示している。また四球でランナーを出してしまった。相手ピッチャーとは対照的に、正平には審判の判定が辛いような気がしてならない。
スローボールを禁じられてしまった正平は、苦心の投球を続けている。なんとかコースをついて、相手をかわそうとしていたのだ。
 ところが、きわどいコースをボールと判定されて、カウントを悪くされてしまっていた。そして、フォアボールをさけようとすると、コントロールが甘くなってしまう。もともと直球のスピードはそれほど速くないので、コースをつかないとうちごろの球になって、相手バッターに狙い撃ちにされている。
(監督、なんとかしてくださいよ)
 不利な判定をされるたびに、芳樹はベンチの方も見た。
 でも、監督は、ぜんぜん抗議をしようとしなかった。知らんぷりしたままだった。

 その後も、ゲームは相手チームのペースで進んでいった。
三回の表にも、ピンチをむかえていた。四球とヒットが続いて、ノーアウト満塁。
芳樹は、横目で相手ベンチをうかがっていた。相手の監督が、いつもと違うサインを送っている。
(スクイズだ)
 芳樹は直感した。今までランナーを出しながらも、強攻策が裏目に出て無得点に終わっている。ここらで手がたく攻めて先取点が欲しいのだろう。
 次のバッターの初球、芳樹は外角に大きくはずすようにサインを送った。
正平がうなずく。セットポジションから、正平が投球モーションに入った。
バッターが体をクルリとまわして、バントのかまえになった。予想通りスクイズだ。
 投球は、サインどおりに大きく外側にはずれている。
 ガツン。
相手の選手は、バッターボックスから前に飛び出して、かろうじてバットにあてた。
 ファール。スクイズは失敗だが、塁を飛び出した三塁ランナーを、はさむことはできなくなってしまった。
「バッターボックスから足が出ていました。守備妨害です」
 芳樹は、振り返って主審に抗議した。
「いや、足が出たのはバットに当たってからだ」
(うそーっ。また、こちらに不利な判定だ) 
 けっきょくこの回に点を取られて、二点をリードされてしまった。

 その裏の攻撃の前、監督はベンチ前にみんなを集めて円陣を組ませた。
「いいか、みんな。いったん判定が自分たちに不利なように感じると、どんどんそのように思えてくるもんさ。そういうのを疑心暗鬼っていうんだ」
 監督はそういいながら、ニヤニヤ笑っていた。
「疑心暗鬼って?」
 正平がたずねると、
「疑ってかかると、暗いところすべてに鬼がいるように思えてくるってことさ」
「ふーん」
 なんだか、まだわかったような、わからないような気分だった。
「不利だ、不利だと思っていると、自分たちのプレーをくずしてしまうぞ。敵地でやるときはこんなもんだと思って、いつもどおりにプレーすればいいんだ。そのうちに流れも変わってくるさ」
 監督は、みんなの顔を見まわしながらそういった。
「じゃあ、キャプテン」
「はい」
 芳樹は、みんなと肩を組んで叫んだ。
「逆転するぞっ!」
「おーっ!」

 監督のハッパは、どうやらみんなにきいたようだ。
その回、ヤングリーブスにもやっとチャンスがめぐってきた。ノーアウトで、エラーと四球のランナーが出たのだ。
 監督は、手がたく送りバントでランナーを進めた。ワンアウト、二塁三塁だ。
次のバッターは雄太だ。三球目のときに、監督が大きな声で叫んだ。
「石井、思い切って打ってこい」
 バッターを名前でなく名字で呼ぶのは、ヤングリーブスのスクイズのサインだ。
 投球と同時に、三塁ランナーの孝治がすばやくスタートを切った。
高めのボール球だった。雄太は飛びつくようなバントで、うまく三塁前にころがした。
三塁手が、猛然とダッシュしてくる。
でも、ボールをキャッチした時には、三塁ランナーの孝治はホームの手前まできていた。
「ファースト!」
 ホームは間に合わないと見たキャッチャーが、大声で指示した。三塁手は体を反転させて、一塁へ送球した。
「アウトッ」
 一塁の審判が叫んだ。雄太は一塁でアウトになったものの、その間に三塁ランナーの孝治がホームイン。
 スクイズ成功だ。ようやく一点を返した。
と、そのときだ。
二塁ランナーの亮輔までが、三塁をまわって一気にホームへ向かっていた。ヤングリーブス得意のツーランスクイズ(スクイズバントで、二人のランナーがホームインすること)だ。亮輔は小柄な五年生だが、チームでも一、二の俊足だった。
「バックホーム!」
 キャッチャーがさけんだ。一塁手がけんめいにバックホーム。
亮輔が、ホームにかけこんでくる。送球は、やや右側にそれた。
亮輔がスライディング。キャッチャーは、すべりこんできた亮輔にタッチした。
 でも、キャッチャーのブロックが甘くて、亮輔の足が一瞬早くベースにふれたように見えた。
(やったあ!)
 これで、一気に同点だ。
「アウト!」
 そのとき、審判が右手を高々と差し上げて宣告した。タッチアウトだというのだ。ランナーの亮輔は、横になったまま呆然としている。
(えっ、そんなあ)
芳樹もあっけにとられた。亮輔の左足は、キャッチャーの股間をうまくすりぬけていた。つま先がホームに触れていて、完全にセーフに見える。
「えー、嘘だあ」
 観客席からも、誰かがどなっている。
「セーフだよ。足が入ってる」
「セーフ、セーフ」
 また、ヤングリーブスの応援席あたりが騒々しくなった。審判がそちらをジロリとにらんだ。一瞬、険悪な空気があたりに流れる。石田コーチがまたあわててベンチから飛び出して、みんなをなだめにいく。
「セーフだよねえ」
 隣にすわっていた伊佐男が、芳樹にささやいた。
「そうだな」
 芳樹もうなずいた。
(せっかく同点になったと思ったのに)
これで逆に、ダブルプレーでチェンジになってしまった。得点は1対2で、いぜんとして一点負けている。
「ちぇっ、ずるいなあ」
 誰かが小声で文句をいっている。みんなも、不満な気持ちでいっぱいのようだ。
 亮輔がヘルメットをぬぎながら、ベンチに戻ってきた。スライディングをしたので、おしりは泥で汚れている。
「ベースタッチしたんだろ」
と、芳樹がきくと、
「うん、完全に足が届いてた」 
 亮輔も不満そうな顔で答えた。もし、足が届いていたのならば、やっぱりセーフだ。
 チェンジになってしまったので、みんなが四回の表の守備位置に散っていく。
「昌也、ボールを受けておいて」
芳樹は補欠の昌也に、ホームベースで正平の投球練習を受けるように頼んだ。
「リョウ、ちょっと待って」
 グローブを取りにいこうとする亮輔を呼び止めた。
「監督のところへいこう」
 芳樹は、監督のところへ亮輔を連れていった。
「監督、亮輔は完全にセーフだっていってますけど」
 芳樹が不服そうな顔をしていうと、
「まあそうだろうな。足が届いていたんだろ」
と、監督は平気な顔をして、どっかりとベンチにすわっている。
「はい、絶対セーフです」
 亮輔も力をこめて答えた。
「まあ、しゃあないよ」
 監督は、今回も抗議さえしないようだ。
「ちぇっ」
 亮輔は、ふくれっつらのままグローブを取りにいった。
「これも、ホームタウンアドバンテージってやつですか?」
 芳樹がそっとたずねると、
「いや、これはたんなるミスジャッジだな。ジャッジした審判が立つ位置が悪いんだよ。だから、足が入ったのが見えてない」
「そんなあ!」
 芳樹が憤慨すると、
「まあまあ、キャプテンのおまえまでカッカしてどうするんだよ。審判も人間だよ。ミスもゲームのうちさ。そのうちこっちにもいいことがあるって。ほら、早く守備につけ」
 監督は、そういってすましていた。

(本当に、こっちにも有利な判定なんて起こるのだろうか?)
 芳樹は、プロテクターとレガースをつけながら考えていた。どうも、こっちに不利なことばかりが続くので、そのようには思えない。芳樹は不満な気持ちのまま、小走りにホームベースに近づいた
「サンキュー」
 芳樹のかわりに投球練習を受けていてくれた昌也に、声をかけた。
「あと、二球です」
 昌也は交代しながら、投球数を教えてくれた。
 次の球をキャッチすると、
「ラスト」
芳樹は正平にボールを返しながら、守備についているみんなに叫んだ。
「おお」
 みんなの返事に力がこもっていない。こちらに不利なジャッジばかりが続くので、元気をなくしたのかもしれない。
「セカン」
 芳樹は正平の最後の球を受けると、セカンドに送球した。
 しかし、ベースに入ったセカンドもカバーをしたショートもボールをはじいてしまい、ボールは外野までころがってしまった。
(いかんな)
 完全に集中力が切れてしまっている。
芳樹は、ホームベースの前に出ると、
「ヤンリー、がっちいこーぜ」
と、みんなに気合を入れた。

 四回の表、この回も正平は審判の厳しい判定に苦しんでいた。きわどいコースをボールに判定されて、先頭バッターを四球で出してしまった。
 ここで相手チームは、送りバントでランナーを二塁に送った。まだ一点差なので、一点ずつ確実にいこうというのだろう。
 正平は二塁ランナーが気になったのか、突然コントロールを見だしてしまった。今度は明らかなボールばかりで、ストレートのフォアボールになってしまった。
「タイム」
 芳樹は審判にいうと、マウンドに走っていった。
「正平、落ち着け。まだ一点負けてるだけなんだから、一人ひとりアウトにしていこうぜ」
「OK」
 正平はそう答えたものの、かなり緊張しているようだった。
 芳樹は、正平の背中をポンとたたいてから、ホームベースへ戻った。
 次のバッターへの初球だった。
(やばい)
 ど真ん中に打ちごろのボールが入ってくる。
 カーン。
 鋭いライナーが、ショートの頭を越えた。外野も抜かれたら、ランニングホームランだ。
 しかし、センターの耕太が、なんとかまわりこんでボールを押さえた。
 スタートを切っていた二塁ランナーは楽々ホームイン。一塁ランナーも三塁へ。送球の間に、バッターも二塁に達してしまった。
 さらに、次のバッターも初球だった。
 カーン。
 痛烈な当たりが、三遊間をまっぷたつにした。
 三塁ランナーに続いて、二塁ランナーもホームイン。二点タイムリーヒットを浴びてしまった。
一転して積極打法にでた相手チーム打線に、正平は完全につかまってしまった。
この回三点を失って、1対5と四点差になった。

 その裏、すぐにヤングリーブスも反撃に出た。四球で出たランナーをバントで送って、ワンアウト二塁のチャンスをむかえた。ここで打席にたったのは、三番バッターの芳樹だった。
第一球。高めの速球を見送った。
「ストライク!」
球威は十分だった。まだピッチャーは疲れていないみたいだ。実際、このピッチャーはたいしたものだ。球威もコントロールもすごくいい。今まで対戦したピッチャーの中でも、屈指の好投手といえる。
二球目は内角にはずれた。芳樹は腰を引いてそのボールをかわした。もう少しでぶつかるところだった。あたったらすごく痛そうだ。
次は外角低めの速球だ。芳樹はそれも見送った。
「ストライク! ワンボール、ツーストライク」
 たちまち追い込まれてしまった。このピッチャーは、スピードを抜いたボールはぜんぜん使わない。速球だけでビシビシ攻めてくる。
(次は内角球だな)
 芳樹はピンときた。さっき芳樹がへっぴり腰でボールをよけたから、ぎりぎりの内角に速球を投げ込んでくるだろう。芳樹は、バットをひとにぎり短く持ち直して内角球に備えた。
 ピッチャーが第四球を投げ込んできた。予想通りに内角の速球だ。芳樹は、両腕をたたみこみながらコンパクトなスイングで打った。
 カーン。
打球はショートの頭を超えてセンター前にはずんだ。
好スタートをきっていた二塁ランナーは、三塁ベースをけってホームへ。バックホームされたがゆうゆうホームイン。一点返してこれで2対5と三点差だ。
送球の間に芳樹も二塁に達したので、チャンスは続いている。
 しかし、相手のピッチャーはすごい。このピンチにもぜんぜん動揺していない。
次のバッターを、ビシビシと速球で追い込んでいく。
ツーストライクワンボール。このままでは、完全に相手ピッチャーのペースだ。
芳樹は、なんとか相手ピッチャーの動揺を誘いたかった。ピッチャーは二塁ランナーの芳樹を、あまり警戒していない。バッターに集中している。
次の投球で、芳樹はスタートを切った。
打者のバットがクルリとまわった。三振でツーアウトだ。
キャッチャーが送球しなかったので、芳樹はゆうゆうと三盗に成功していた。
でも、キャッチャーの悪送球を誘ってホームインしようというもくろみは、外されてしまった。点差があるので、ランナーの芳樹は完全に無視されている
「リーリーリー」
 芳樹は三塁ベースから、ピッチャーをけん制した。もう牽制悪投でも、ワイルドピッチでも、パスボールでも、なんでもいいからホームをおとしいれる覚悟だ。
しかし、ピッチャーは、芳樹のことをぜんぜん気にしていない。
どんどん速球を投げ込んで、後続のバッターを、簡単にピッチャーゴロに打ち取ってしまった。
スリーアウトでチェンジ。三点差でリードされたままだ。

 五回の表も、正平はツーアウトながら満塁のピンチをまた迎えていた。
どうも、前の回から、正平のコントロールが悪くなっている。四球を連発して、ランナーをためてしまっていた。これには、審判の不利な判定も影響している。
しかも、またあの四番バッターのエースをむかえていた。ヘルメットからはみだした長髪をなびかせて、自信満々バッターボックスでかまえている。
(しまった!)
 正平の投げ込んだ初球が、甘いコースに入ってきた。  
 カーーン。
鋭い打球だった。
でも、ラッキーなことに、ショートの亮輔の正面のゴロだ。
(あっ!)
 前進してボールをキャッチしようとした亮輔と、走り出したセカンドランナーが交錯してぶつかりそうになってしまったのだ。
打球は、思わず立ちすくんだ亮輔のグローブの下をすり抜けた。外野手がバックアップしようと、ボールのほうへまわりこんだ。
 でも、打球のスピードがすごく速かったので、二人の外野手の間も抜けていってしまった。
センターとレフトが、けんめいにボールを追っている。ボールは、すごい勢いでころがっていく。この球場が人工芝のせいだ。天然芝のようなひっかかりがないので、ボールのスピードがぜんぜん落ちない。
そのまま、反対側のグラウンドまでいってしまった。向こうのグラウンドでは、別の試合が行われている。
「タイム!」
ボールがころがってきたので、審判がゲームを中断させている。
ようやくセンターが追いついた。
けんめいに、中継にはいったレフトにボールを投げている。さらに、そのボールが、ようやく内野に戻ってきた。
でも、とっくにバッターまで含めて全員がホームインしていた。満塁ランニングホームラン。だめおしとなる四点が入ってしまった。
「イエーイ!」
 相手ベンチ前では、全員でハイタッチしたりして、お祭り騒ぎだ。打ったのがエースで4番でキャプテンの中心選手なので、特に盛り上がっているようだ。
それにひきかえマウンドでは、正平ががっくりとうなだれていた。
これで、得点は2対9。逆転するには致命的な点差がついてしまった。チーム全体にあきらめムードがただよってきていた。
(おや?)
 ふと気がつくと、いつのまにか二塁の審判が、主審や他の塁審たちをセカンドのそばに呼び集めていた。二塁の審判は、身振り手振りで何かをみんなに説明している。主審や他の塁審たちが、大きくうなずいているのが見えた。
 しばらくして、ようやく何かが決まったようだ。塁審がそれぞれのベースへ散っていく。
主審は、大またにピッチャーマウンドのそばまで戻ってきた。そして、一塁側の相手チームのベンチの方をむいた。
「守備妨害でアウト」
 いきなり右手を高々とあげて、主審が叫んだ。どうやら、セカンドランナーが亮輔の守備の邪魔をしたというのらしい。ツーアウトだったから、これでチェンジということになる。つまり、満塁ホームランは幻に終わったのだ。こちらは四点取られたと思ったのに、一点も失わずに一気にピンチを脱したというわけだ。
これが、監督のいっていた、
(こっちにもいいことがある)って、やつかもしれない。
「じょうだんじゃない!」
 大声で怒鳴りながら、今度は相手チームの監督が飛び出してきた。
相手チームの監督は、マウンドの近くで主審に詰め寄っている。
 主審は、さかんにランナーがショートの守備を邪魔したことを説明している。
 でも、どうも簡単にはすみそうもない気配だ。いったんベースに戻っていた塁審たちも、また集まってくる。そして、みんなでショートの守備位置までいって、二塁の審判がまたジェスチャーつきで説明を始めた。
「芳樹」
 監督に声をかけられた。こっちにむかって手まねきしている。そういえば、ヤングリーブスの選手たちは守備位置についたままだ。
「おーい、チェンジだぞーっ」
 芳樹は、大声でみんなを呼び集めた。
 メンバーが、全速力でベンチへかけてくる。みんな、ピンチを切り抜けられて、ホッとした顔つきをしていた。さっきまでしょげていた亮輔やがっくりしていた正平も、うってかわってニコニコ顔だった。
 相手チームの監督は、しつように抗議を続けている。
でも、判定はひるがえりそうになかった。審判たちは、四人がかりでなんとか監督を説得しようとしているようだ。立会人たちも、セカンドベースのまわりにきて、話し合いに加わっている。
 相手チームの監督は、なかなかひきさがらない。
「守備妨害じゃないでしょ。ランナーは、まっすぐ走っただけなんだから」
と、大声で抗議しているのがきこえてくる。
たしかに、見方によっては、亮輔の方が走者のコースを邪魔したようにも見える。となると、そのまま捕球していたら、逆に亮輔の方が走塁妨害になっていたかもしれない。
「いや、もう捕球動作に入っていたんだから、ランナーはよけなければならないでしょ」
 二塁の塁審も、大声で怒鳴り返している。
「そんなことはない。ショートの方こそ、ランナーが走ってきたのが見えたんだから、待ってから捕球すればよかったんだ」
 相手チームの監督がいい返す。二人とも、かなり興奮しているようだ。
「まあまあまあ、……」
 まわりの人たちが、二人をなだめている。
 走塁妨害か?
 守備妨害か?
 どちらにしてもむずかしいジャッジだ。
二塁の審判は、亮輔の守備位置やランナーの走ったコースを示して、状況を説明しているみたいだ。ランナーが、亮輔の方にふくらんでいって邪魔をしたといっているようだ。
でも、相手チームの監督も大げさな身振りで反論している。ランナーが走ったのは、塁間を結ぶ直線上だと、主張しているみたいだ。さかんに手である幅を示している。
「3フィートルールだったっけ?」
 となりから、伊佐男がたずねてきた。走者は、塁間を結ぶ直線から、3フィート以上はみだしてはいけないというルールだ。
「どうだったかなあ?」
 芳樹も、ルールがどうなっているのか、よく知らない。サッカーなんかに比べて、野球のルールは複雑なので分かりにくい。
「ルールブックを持ってきて」
 とうとう主審が、大声でいっているのが聞こえた。もしかすると、同じようなことを議論しているのかもしれない。立会人の一人が、本部のテントの方へルールブックを取りに走っていった。
「長引きそうだぞ。肩をあたためておこう」
 正平に声をかけると、芳樹はミットをはめてレフト側のファールゾーンに走っていった。正平もウィンドブレーカーを着たまま、後についてくる。
時刻は、もう十時をすぎている。
でも、薄くかかった秋の雲を通して、太陽は弱々しく照らしているだけだ。ウィンドブレーカーをはおっていても、寒さがしのびよってくる。
「じゃあ、初めは軽く投げて」
 芳樹は、立ったまま山なりのボールを正平に送った。
「OK」
 正平も、ゆったりしたホームで投げ返した。また、二人でのキャッチボールが始まった。
(今日の試合は、中断が多いなあ)
 正平とキャッチボールをしながら思った。
 野球の試合には、目に見えない流れがある。その流れがスムーズだと、試合もテンポよく進む。特別な中断もなく、最終回の七回まで順調に進む。
ところが、今日のように初めから流れがとまるようなことがおこると、不思議にトラブル続きになってしまうのだ。
 返球しながらチラッと見たら、相手ベンチの前に例のエースがふてくされたように立っていた。他のメンバーも、ベンチにこしかけたままだ。
(しめた!)
もし、このまま抗議が受けいれられずにこちらの攻撃になったら、あのエースは肩を冷やしたままマウンドにむかうことになる。もしかすると、ピッチングのリズムを、くずしてくれるかもしれない。今まで打ちあぐんでいたけれど、これでピッチャー攻略のきっかけがつかめそうだ。
なにしろ、このピッチャーはすごい。中学生並みの長身から投げ下ろす速球は、なかなか打ち込めない。コントロールもいいから大崩れはしないタイプだ。ヤングリーブス得意のバントをからめた攻撃で、なんとか一点ずつ合計二点をとったものの、大量点はとてものぞめそうもない。残りのイニングを考えると、三点差を追いつくのはかなりむずかしかった。
 そうはいっても、ピッチャーさえ乱れてくれたら、つけこむすきはなくもなかった。好投手をようするワンマンチームにありがちだが、このチームの守備はそれほどでもない。現に、エラーをすでに二つもしている。キャッチャーの肩もさほど強くない。ランナーさえ出せれば、バントや盗塁、それにヒットエンドランなどでかきまわせるかもしれない。それに、ピッチャーだけでなく、かれらもウォーミングアップしていないから、ますます動きは悪くなるだろう。
芳樹は、視線を味方のベンチにうつした。
(うーん、もう)
こちらもすっかりのんびりして、ベンチにすわっていたる。まったくわかっていない連中だ。これでは、ゆだんしている相手チームのことを、ぜんぜん笑えやしないじゃないか。
「ちょっと、待って」
 芳樹は正平に声をかけると、
「おーい、みんな、バットを振っておけ」
と、大声でみんなに指示を出した。
「おおっ」
 他のレギュラーメンバーたちは、すぐに立ち上がるとバットを取りにいった。
「いち」
 ブンッ。
「にー」
 ブンッ。
かけ声をかけながら、ベンチ前にならんで素振りをはじめた。
ふと気がつくと、監督が満足そうな笑顔をこちらにむけていた。

 とうとう判定は守備妨害のままで、試合が再開されることになったようだ。審判たちは、それぞれの位置に小走りに戻っていく。十分以上もの長い中断だった。それでも、ベンチに帰っていく相手チームの監督は、まだ不満そうな顔をしていた。
 相手チームが、守備位置に散っていく。長髪のエースピッチャーも、しぶしぶって感じでマウンドに立った。どうやらまだ、幻の満塁ホームランのことが頭にこびりついているようだ。
 ガチャーン。
ウォーミングアップの初球はとんでもない高い球で、バックネットの金網にダイレクトにぶつかった。だんだんに肩を慣らさないで、いきなり思いきりボールを投げている。いらいらがつたわってくるようだ。
「雄太、ちょっと」
 この回の先頭バッターに声をかけた。バッターボックスの近くで、ピッチャーの練習ボールにタイミングをあわせて素振りをしていた。
「なんだい?」
 雄太は、素振りをやめてベンチの前に戻ってきた。
「どうだい、相手のピッチャーは?」
 芳樹がささやくと、
「なんだか、ボールが高めに浮いているようだけど」
と、雄太はピッチャーの方を振り返りながら答えた。
「そうだろ、だったらわかってるな」 
 芳樹がそういうと、雄太はニヤリとしながらうなずいた。
「バッターアップ」
 審判が雄太に声をかけて、試合が再開された。

「ボール、フォア」
 審判が一塁を指し示した。雄太は、バットをネクストバッターサークルの正平にむかって放ると、一塁へダッシュしていった。予想通りに肩を冷やしてしまったのか、相手のピッチャーは、いきなりストレートのフォアボールを出してくれた。
「ボー!」
 次の正平への初球も、外角へ大きくはずれた。これで五球連続して、とんでもないボール球が続いている。
「ドンマイ、ドンマイ」
 キャチャーが立ち上がって返球したが、特にタイムをとろうとはしなかった。ピッチャーマウンドでは、エースピッチャーが帽子をあみだにかぶって、ふてくされたように突っ立っている。長い前髪が、ダラリとたれさがっていた。ホームランを取り消されて、すっかりやる気を失ってしまったのかもしれない。
「ストライーック」
 次のボールは久しぶりにストライクだったが、どまんなかの甘いボールだった。正平は打ちたそうな顔をしていたけれど、それを見送った。監督から、「待て」のサインが出ていたからだろう。
 チラッと横目で見たら、次のサインも「待て」だった。
 けっきょく、正平も四球を選んで出塁した。
 その後も、相手ピッチャーは、あきらかにボールとわかる投球が多かった。次の亮輔も簡単にフォアボールになって、無死満塁のチャンスを迎えた。
それでも、相手チームの監督は、タイムを取ったり適切な指示を出したりしない。自分の抗議が聞き入れられなくて、腹をたててしまったようだ。そっぽを向いて、ベンチに腰をおろしたままだ。
守っている選手たちも、誰もタイムを取って間をとろうとするものはいなかった。エースで四番、さらにキャプテンでもある長髪のピッチャーに、すっかり頼りきっているみたいなのだ。予想通りの完全なワンマンチームだった。
 次のバッターは、伊佐男。監督からは、あいかわらず「待て」のサインが出ている。
「ストライーク」
 初球はどまんなかの直球。
でも、この回は、このボールが続かない。
(どうせ、次は、……)
と、思うまもなく、セットポジションからクイックモーションで投げ込んできた。
「ストライーク、ツー」
 たちまち、ツーストライクノーボールに追い込まれてしまった。もう「待て」のサインは出せない。
(まずいなあ)
どうやら、ようやく肩があたたまってきて、コントロールがさだまってきたみたいなのだ。
ピッチャーは、間をおかずにドンドン投げ込んでくる。投球リズムもよみがえってきたみたいだ。
 第三球もストライクの速球だった。
 ガチーン。
苦しまぎれに出した伊佐男のバットが、ボールにあたって鈍い音をたてた。三塁手正面の平凡なゴロだ。三塁手ががっちり取ると、バックホーム。タイミングは完全にアウトだった。
(あっ!)
 三塁手の送球はとんでもない高いボールだ。キャッチャーのはるか上を通過したボールは、そのまま相手チームの応援席に飛び込んだ。
 テイクワンベース(各走者がひとつ塁を進める)なので、雄太に続いて、セカンドランナーの正平も歩いてホームイン。これで二点入って4対5。一点差に詰め寄った。しかも、まだ、ノーアウト二塁、三塁のチャンスをむかえている。
「くそーっ」
 相手ピッチャーが、くやしそうにグローブを地面にたたきつけた。
次のバッターは、芳樹だった。またとない逆転のチャンス。ここをのがすわけにはいかない。
「芳樹、ファイト」
「よっちゃん、がんばれ」
 応援席やベンチからも声援が飛ぶ。
 第一球。外角低めの直球だった。芳樹はそれを見送った。
「ストライク!」
 主審が叫ぶ。やはりコントロールは立ち直ってしまったようだ。
でも、スピードはさっきよりはっきりと落ちている。
ピッチャーを見ると、どうもまだやる気がおきていないみたいだ。
(チャンスだ)
芳樹は、短く握っていたバットを少し長く持ち直した。長打ねらいだ。ここで一気に勝負をつけたかった。
第二球。力のない直球がど真ん中に入ってきた。芳樹はフルスイングした。
カーーン。
鋭い打球が左中間をまっぷたつにした。
 三塁と二塁のランナーがゆうゆうとホームイン。ついに6対5と逆転した。
芳樹は、一塁と、二塁をけった。ようやく外野手がボールに追いついた。芳樹はスライディングもしないでゆうゆうと三塁打。ベースの上で、ベンチに向かってガッツポーズをしてみせた。

 その後も、 ヤングリーブスは相手が動揺している間に着々と得点を重ねた。この回、一気に六点もとって8対5と大逆転に成功したのだ。
 こうなると、ゲームは一方的にヤングリーブスのものだ。六回の表、逆転で気を良くした正平は、すっかり立ち直っていた。テンポのいいピッチングで相手にすきを見せず、無失点におさえた。
 六回の裏、すっかり元気の出たヤングリーブス打線は、相手ピッチャーに連打をあびせた。さらに四点を奪い、
12対5と七点差をつけたのだ。さすがに相手チームは、途中からリリーフピッチャーを送っていたが、これはエースピッチャーよりも球威もコントロールも格段に悪かった。
 いよいよ最終回の七回の表、正平のピッチングはさえわたった。ツーアウトランナーなし。最後のバッターも、ツーストライクワンボールと追い込んでいる。
 芳樹は、正平に外角低めを要求した。一気に勝負をつけるつもりだった。
 正平が振りかぶる。大きなモーションで投げ込んでくる。
 いいボールだ。要求どおりに外角低めに速球が投げこまれた。クルリと打者のバットが空を切る。
「ストライーク、バッターアウト。ゲームセット」
 主審が叫ぶ。
(やったあ!)
 芳樹はミットをたたきながら、正平にかけよった。他のメンバーも集まってくる。見事な逆転勝ちだった。

「それでは、12対5でヤングリーブスの勝ち。じゃあ、キャプテン、握手して」
 審判にうながされて、芳樹は一歩前に出て相手のキャプテンに手を伸ばした。
「ありがとうございましたあ」
 芳樹は大声を出して握手をしたが、相手は小さな声でボソボソといっただけだ。握手にも、ぜんぜん力が入っていなかった。よく見ると、少し涙ぐんでいるようだった。
「ゲーム!」
 審判が、右手をあげて合図をした。
「ありがとうございましたあ」
 ヤングリーブスは元気よくあいさつしたが、相手チームは対照的にまったく元気がない。逆転負けが、よっぽどショックだったのだろう。
「わーっ!」
 試合後のあいさつをすませて、ヤングリーブスは歓声をあげながらベンチ前にかけよってきた。芳樹は、応援席にむかってみんなを一列に並ばせた
「礼!」
「ありがとうございました」
 みんなが、帽子をぬいでおじぎをする。
「よくやったぞ」
「ナイスゲーム」
 応援席から、拍手とともに声援が飛んだ。
「ベンチ、あけるぞ」
 芳樹は、みんなに指示してベンチの後片付けを始めた。レギュラー選手はヘルメットをかぶり、自分のグローブとバットを持っていく。その後を、補欠の選手たちが、バット立てや水の入ったジャー、練習用のボールやキャッチャーの防具類の入ったバッグを持って続いた。
 リュックなどを置いてあるシートのところまで戻ると、先にいっていた手伝いのおかあさんたちが、コンビニの袋を持って待ち受けていた。
「応援団から差し入れよお」
 チームのマネージャーをやっている、芳樹のおかあさんがさけんだ。
「うわーっ」
 みんなは荷物を置くと、そちらに殺到した。
「いつものとおり学年順よ」
 低学年の子から順番に、袋菓子をうけとっている。弁当を食べるにはまだ早かったから、取り合えずおやつって感じだ。これが夏場だったら、アイスクリームやカキ氷を差し入れてもらうことが多い。
「正平、軽くクールダウンしておこう」
 芳樹は、お菓子の列に並んでいた正平を引っ張り出すと、軽いキャッチボールをはじめた。初戦に勝ったヤングリーブスは、午後に準決勝を戦わなければならない。正平が第一試合に完投したので、おそらく準決勝の先発ピッチャーは芳樹だろう。もしそれも勝てば、決勝戦もやらねばならない。そうすれば、その試合は二人で継投することになるだろう。まだ、二人とも氷で肩を冷やすアイシングをするわけにはいかなかった。
みんながお菓子を食べていると、さっきの相手チームの監督がやってきた
「どうも、今日はありがとうございました」
 帽子をぬぎながら、うちの監督に声をかけた。
「いえ、こちらこそどうも」
 監督が答えると、
「どうもジャッジのことでゴタゴタして、六年生たちが悔しがって泣いてるんですわ」
 たしかに、さっき試合後のあいさつをしたときに、何人かの相手選手が泣いていた。
「まあ、ジャッジのことはお互い様ですから」
 監督は笑顔で答えている。
まったくそのとおりだ。ジャッジについてなら、こちらにも文句がある。芳樹は、キャッチボールをしながら聞き耳を立てていた。
「それに私もカッカしすぎて、選手たちに実力を発揮させられなくって」
 相手チームの監督は、少し恥ずかしそうにそう付け加えた。
どうやら、相手の監督はすっきりとした決着をつけるために、あらためてヤングリーブスと練習試合をさせてほしいということらしい。 
「いいですよ。でも、今度は、スローボールはOKにしてくださいね」
 監督は、ニヤッとわらいながらそう答えた。

ジャッジ
クリエーター情報なし
平野 厚
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石炭場の少年たち

2016-11-12 10:37:03 | 作品
 ドアをあけると、ムッとした室内の空気があふれてきた。外も暑いけれど、しめきったマンションの中にくらべればまだましだ。洋平はベランダのガラス戸を開いて、暑い空気を追い出してからエアコンのスイッチを入れた。
 デジタル表示の「現在の温度」は、なんと37度を示している。ボタンをピッピッとおして、設定温度を18度にした。
(このエアコン、オンボロだからなあ)
 今日の暑さでは、30度さえ切れないかもしれない。
 夏休みに入って、洋平は月曜日から土曜日まで、連日、進学教室の夏期講座にかよっていた。教室は、電車で二駅先のターミナル駅の駅ビルの中にある。洋平の家からは、ドア・ツー・ドアで、三十分もかからないで行かれる。しかも、冷暖房完備の進学教室の中は、寒いくらいに空調がきいていて快適だった。
 ところが、かんじんの勉強を集中してやるのには、なかなか慣れることができなかった。
(去年とは、ぜんぜん違うなあ)
 洋平は、思わず苦笑いした。
 去年までは、夏休みは朝から夕方まで、連日、野球の練習だった。そして、顔も腕も、まっくろに日焼けしていたのに、今年はまだなまっちろいままだ。野球なら毎日でも平気だったけれど、勉強を続けるのはなかなかむずかしかった。
 冷蔵庫からミルクを出すと、大きなコップになみなみとついだ。
「ふーっ」
 ひといきにのみほすと、ようやくひとごこちついた。
 冷蔵庫から、冷凍ピザとかあさんが朝に作っておいてくれた野菜サラダとポタージュスープを出す。
ピザは電子レンジにほうりこみ、ガスレンジでポタージュスープをあたためる。これらが、今日の洋平の昼食だ。
 かあさんは連日の暑さにもへこたれず、会社へでかけている。夏休みは、八月に入ってからまとめてとるっていっていた。今年の休暇には、伊豆のリゾートホテルへ連れていかれるらしい。
 洋平は、ピザやスープがあたたまるのをまたずに、野菜サラダをがつがつと食べはじめた。塾の夏季強化集中講座で、朝九時からみっちり三時間もしぼられて、すっかりはらぺこだった。
 チーン。
 電子レンジが鳴った。
 洋平はレンジのドアを開けると、テーブルに戻るのももどかしく、ピザをひときれほおばった。とろけたチーズが糸をひいて垂れ下がるのを、口を持っていって空中でキャッチした。
 スープもあたたまったようで、おいしそうな湯気をあげだしている。洋平はピザの皿をテーブルに置くと、ガスレンジを消しにいった。

「そうですか、わかりました」
 洋平はそういうと、電話をきった。遊びに行こうと思っていた山田は、あいにく留守だった。
(小島は夕方までスイミングだろ。高岡はサッカーチームの合宿だし、大河原は今ごろ家族でハワイだよな)
 こう考えてみると、仲のいい友だちはみんなつごうがわるかった。もっともそういう洋平も、6月まではリトルリーグの野球が忙しくて、みんなとはあまり遊べなかったのだからおたがいさまだ。
 洋平の住んでいる地区では、最近子どもの数がめっきり減っている。たくさんの人数が必要な野球やサッカーをやることはとてもできない。それで、そういうスポーツをやりたい子たちは、少年野球チームやサッカーチームなんかに入らなければならない。
 ふだん遊ぶ時には、なんとか3、4人ぐらいが集まるのがせいぜいだ。どうしても、対戦型のテレビゲームやトレーディングカードで遊ぶことになる。
「家の中ばかりで、遊ばないで」
 そういって外へ追い出されても、近くの狭い公園でちまちまと遊ぶのがせいぜいだった。
 そんな時、洋平たちはよく「靴飛ばし」をやる。片方の靴を半分脱いでおいて、ブランコを力いっぱいこぐ。振り幅が充分になった時に、その反動で思いきり遠くへ靴を飛ばす。幼稚園のころからのおなじみの遊びだが、さすがに6年生にもなってやるのは、なさけないという気はする。
 でも、人数が集まらないのだから、それもしかたがなかった。

「あーあ、このゲームもあきたな」
 洋平はDVDを抜いて、ゲーム機の電源を切った。はじめはおもしろかったテレビゲームも、みんなにたりよったりで、前のようには熱中できなくなっている。
 友だちでもいれば対戦ゲームができるからまだましだけれど、一人ではコンピューターを相手にするしかない。表情などの反応のない機械相手に遊ぶのでは、だんだん退屈してしまう。
 はやりのネットゲームだったら、インターネットを通して見知らぬ誰かと対戦できるらしい。それなら、友だちとやるのと一緒であきないかもしれない。いや、中には、はまりすぎて、ゲームの世界にひたりきってしまう人もいるらしい。
 でも、インターネットをやるためには、パソコンがいる。かあさんが機械音痴なので、洋平の家には、かんじんのパソコンがなかった。
 かあさんからは、
「パソコンは、目標の私立中学に合格したら、買ってあげるから」
と、くぎをさされていた。
「あーあ」
 もういちど大きくのびをすると、洋平は外へ出かけてみることにした。もっとも、どこへ行くかのあては、ぜんぜんなかったのだけれど。

 エレベーターで一階まで降りると、洋平はマンションの自転車乗り場に向かった。自転車でどこかに行ってみようと思ったのだ。
 マウンテンバイクのカバーをはずして、外に引っ張り出した。 先月の誕生日に買ってもらったばかりの、最新型の24段変速のやつだ。せっかく夏休みになったのに、夏季講座で忙しくて今まで乗るひまがぜんぜんなかった。
 サイクリングキャップをかぶって、サドルにまたがった。つま先立ちしないと、両足がつかない。サドルが高すぎるようだ。
 洋平はいったん降りると、サドルを少し下げた。ついでにタイヤもチェックすると、空気が少し抜けている。
 シューシュー、シューシュー、……。
 シャーシについている携帯用ポンプをはずして、いっぱいに空気を入れた。やっぱり自転車は、ふだんから乗っていなければいけないようだ。
 空気を入れ終わって、ようやく洋平は出発できた。
 グッ、グッ。
 ペダルをひとこぎするたびに、自転車は力強く加速していく。
 外はあいかわらず、強いひざしだ。力を込めてペダルをこいでいるので、たちまちひたいに汗がうかんでくる。
 でも、スピードが出てくると正面から風を受けるので、だんだん気分がよくなってきた。
 洋平はいきあたりばったりに道をえらんで、自転車を走らせ続けた。
 二十分ほど走った時、洋平はコンクリートの堤防にぶつかってしまった。大きく蛇行しながら東京湾へ注ぐS川だ。
 堤防は二段になっていて、ぜんぶで五メートルほどの高さだった。二メートルぐらいの所にある中段が、歩行者用の通路になっている。
(よし、登るか)
 洋平は自転車をかつぐと、通路への階段をのぼっていった。少し重くて息がきれたけれど、無事に上にたどりついた。
 洋平はまた自転車にまたがって、前方をながめた。今いる通路は、堤防ぞいにずっと向こうまで続いているようだ。
真夏の午後二時すぎ。炎天下なので、さすがにほとんど人はいない。はるか遠くに、犬を連れて歩いているおじいさんがポツンと見えるだけだった。
 すぐそばには、鉄製の階段が堤防のてっぺんまで続いていた。点検用なのだろうか。階段のまわりは、高さ二メートルぐらいの鉄柵にとりかこまれている。
 柵の中へはいる小さなとびらを開けようとしてみた。
 でも、しっかりとかぎがかけられている。よく見ると、『関係者以外立ち入り厳禁』とかかれた注意板がとりつけてあった。
 洋平は、しばらくの間あたりのようすをうかがっていた。
 でも、誰もやってきそうにもない。
 鉄柵に手をかけてみた。とびらを足がかりにすれば簡単にのぼれそうだ。
 洋平は自転車を堤防に立てかけると、するすると鉄柵をのりこえてしまっていた。
 階段を一気にのぼると、川の両側には河原がなくよどんだ黒い水が堤防ぎりぎりまできている。水面までは五メートル以上もの高さがあった。
 洋平は、めずらしそうにまわりをながめはじめた。
川のこちらがわは、工場や洋平が住んでいるようなマンションがたちならんでいる。むこう岸には、鉄筋の校舎や体育館がみえた。中学校みたいだ。
 低い建物がいくつも続いている場所がある。たしか、学校の社会見学でいった浄水場だったと思う。水門のあたりには、白い洗剤の泡のようなものがふわふわうかんでいた。少し水に流されはじめていて、時々、風にあおられてまいあがったりしていた。
 下流の方から、うしろに荷物を満載した船をなんそうも引いて、はしけがやってきた。操縦室に、白いランニング姿の男の人の姿が見える。
「おーい!」
 洋平が大きく手を振ると、向こうも気づいたようで片手をあげてあいさつしてくれた。
 堤防から降りると、洋平はまたゆっくりと自転車を走らせていった。右手は高さ三メートル以上ものコンクリートの壁。左手には運送会社のトラック置き場や、古びた町工場などがつづいている。なんとも殺風景なながめだ。
 ところどころに、最近できたらしい高層マンションがたっている。
 でも、そのあたりにも人影はなかった。
 しばらくすると、前方に広い空き地が見えてきた。ようやくそこに、十数人の人影が見える。どうやら、洋平と同い年ぐらいの子どもたちのようだ。
 洋平は、スピードを少しあげて近づいていった。
 子どもたちは、空き地をいっぱいに使って野球をやっていた。洋平は堤防の上に自転車を止めると、サドルにまたがったまま空き地を見下ろした。
(こんなとこに、空き地があったかな)
 しばらくのあいだ、そこが前にどんな場所だったかを、思い出せなかった。
(あっ、そうか)
 ようやく思い出した。建設会社か何かの資材置き場だったのだ。いつもは、ジャリや材木などが山づみになっていた。
 今は、すっかり片づけられてあとかたもない。動きまわっていたショベルカーやフォークリフトの姿もないし、かたすみにあったプレハブの作業小屋もなくなっている。ダンプカーがいききしていた入り口も、今は木のフェンスでふさがれていた。そのそばには、大きな立て札がある。
『立入禁止、マンション建設用地』 
 どうやら子どもたちは、フェンスをのりこえて勝手に入りこんだらしい。
「バックホーム」
 大きなフライがあがって、内野から声がとんだ。外野を守っていた子はボールをひろうと、全身を使っておもいきりボールを投げた。
 でも、すぐにスピードがなくなって、内野まではとどかなかった。どうやら、ふわふわのゴムボールのようだ。そういえば、みんなはグローブを使わずに素手で守っている。
 チェンジの時に、だれかが、
「これで10対9だな」
と、いっている声がきこえた。なかなか接戦のようだ。
 子どもたちの年かっこうは、まったくバラバラだった。大半は小学生のようだが、大きな子たちは、どう見ても中学生に見える。そこに、まだ幼稚園かと思えるような小さな子たちまでがまざっていた。
 着ている物もバラバラだった。白いランニングに半ズボンの子もいれば、半そでシャツに長ズボンの子もいる。
 でも、みんな洋平から見れば、信じられないぐらいださい格好だった。
(貧しい地区の子たちなのかな?)
と、洋平は思った。
 今日の洋平は、ブランド品のTシャツとハーフパンツ、それに新しいスニーカーできめている。自分でいうのもなんだが、けっこうおしゃれには気を使っている。
 強い日差しのせいか、子どもたちは全員が野球帽をかぶっていた。そのイニシャルは、ほとんどがジャイアンツのマークだ。
(いやにジャイアンツファンが多いな)
と、洋平は思った。
 洋平が小さいころにかぶっていた野球帽は、ライオンズのマークだった。
もっとも、今はもうどこかへしまわれてしまい、もう長いこと見かけていない。
今日の洋平の帽子はTシャツと同じブランドのサイクリング用キャップだ。
まだリトルリーグで野球をやっていたころは、もちろんチームの帽子があったが、練習や試合のときにしかかぶったことがなかった。
「ナイス、バッティング」
 ましんでとらえた打球は、センター前に一直線。いや、三塁のない変則ダイヤモンド(じゃなかった、トライアングル)なので、正確にはなんといったらいいのかわからないが。
「リー、リー、リー」
 ランナーの子が大声でさけんでいる。
(なかなかおもしろそうだな)
 洋平は自転車からおりると、堤防にこしをおろしてしばらく見物することにした。

 洋平が6月まで入っていたリトルナインは、東京の下町地区では有名なリトルリーグの硬式野球チームだった。地区大会では上位入賞の常連だったし、何度か都や関東の大会にも出場している。
 チームには、四年生から六年生まで四十人以上のメンバーがいる。洋平は、その中で中心選手として活躍していた。
 洋平は、五年生の時にすでに身長が百六十センチを超えていた。上半身はヒョロリとしているが足腰はがっちりしていて、ピッチャーに向いた体つきになっていた。右のオーバースローで、速球一本やりでおさえ込むタイプだった。
 そのころの洋平は、本気でプロ野球の選手になりたいと思っていた。そのために、基礎を正確に教えてくれる指導者につきたかったのだ。その点、リトルナインの監督は大学野球の出身者で、その指導の質は高くて、洋平は満足していた。
 五年生の時から、すでに洋平はリトルナインの準エースになっていた。六年のピッチャーは三人いたが、先発はエース投手と洋平が交互に投げていた。
 その年の全国大会の都予選は、準々決勝で惜しくも負けてしまった。その試合は、エースが先発だったので、洋平はまったく出番がなかった。
 秋の都大会ではみごとに準優勝をとげて、新聞の地方版に取り上げられたりしている。その大会で、洋平は六年生のピッチャーたちにまじって力投し、二勝をあげていた。
 六年生になると、洋平は名実ともにリトルナインのエースになっていた。
 この年の春は、どういうわけか週末のたびごとに天気が悪くなった。そのため、四月の初めから始まった全国大会の地区予選は、なかなか消化されなかった。その月の終わりになっても、まだ四回戦がやっと終了したところだった。優勝するまでには、準々決勝、準決勝、決勝と、まだ三試合も残っている。その後も、都予選、全国大会とスケジュールがぎっしり詰まっていた。これ以上、日程を遅らせることはできなかった。
 結局、五月の最初の土曜日に準々決勝が、日曜日には準決勝と決勝が、一気に行われることになった。
 前日のリトルナインの練習は、試合に備えてチームプレーの確認に費やされた。ダブルプレーや送りバント、ヒットエンドランなどである。
洋平も、軽く二、三十球の肩ならしをしただけで、ピッチング練習は終えた。
 試合後のミーティングで、監督は先発メンバーを発表した。
「明日の準々決勝は、ピッチャー谷本、キャッチャー石森、ファースト……。あさっての準決勝は岩下、そして決勝はまた谷本でいく」
 岩下は、控えのピッチャーで同じ六年生だ。
「谷本、いいな。連投で大変だが、がんばってくれ。明日は、大量リードできたらすぐに休ませるからな」
 洋平はやむなくうなずいた。二日続けての登板。それは、肩を酷使しないようにしている洋平のポリシーには反している。
 でも、事情が事情だから仕方がないと思っていた。

 準決勝が始まった。
 先発した岩下は、立ち上がりから相手チームにつかまってしまった。一回に二点、二回にも一点取られ、なお一死満塁のピンチに追い込まれている。
「谷本、ウォーミングアップに行け」
 監督がこわい顔をしながら、浩一にいった。
「監督、おれはこの試合は投げないんじゃないんですか?」
 洋平は、前日の準々決勝の七イニングを一人で投げ抜いていた。試合は、7対0と洋平が相手チームを完封して、リトルナインが快勝していた
「そのつもりだったけど、やっぱりだめだ」
 ブルペンでは、すでにもう一人の六年生投手の佐藤と五年の竹田が投げている。
「おれは、決勝で投げるんじゃないんですか」
「ばか、ここで負けちまえば決勝なんかないよ」
「決勝では誰が投げるんですか?」
 洋平は、なおも監督にくいさがった。
「そこも続投でいくさ」
 監督は、浩一の顔をみつめて低い声でいった。
 結局、洋平は4対0になったところで岩下をリリーフし、なんとか相手を押さえこんだ。
 打戦も奮起して、三回と六回に各二点ずつをあげて同点とし、試合は正規の7回を終えて延長戦へともつれこんだ。
 監督は、とうとう最後まで洋平を変えようとしなかった。延長戦では9回にリトルナインがサヨナラ勝ちをおさめた。
洋平は、疲れきってベンチに戻ってきた。すでに昨日と合わせると、洋平は十五イニングも投げたことになる。
まわりでは、チームメートたちが、決勝進出を喜び合っている。
でも、洋平は、その喜びの輪に加わるだけの元気が残っていなかった。
「谷本、もういっちょうがんばってくれ」
 監督が、笑みを浮かべながら洋平に近寄ってきた。
 洋平の右肩は、はれあがってすでに筋肉がかたくなっている。
「監督、もう無理だと思います。最後の一、二イニングならなんとかなるかもしれませんが、七回全部を投げるのはだめです」
「そんな根性のないことをいうなよ。あと一試合だけだ、それで終わりだから。今日のざまじゃ、岩下には投げさせられん。ましてや、竹田や佐藤なんか出せやしない」
「これ以上投げたら、おれの肩がパンクしてしまいますよ」
 監督はしばらく考えこんでいたが、最後に懇願するように洋平にむかって言った。
「それじゃ最初の二イニングだけ投げてくれ、先取点を取ったら、他の奴をリリーフさせるから」

 決勝戦が始まった。
洋平は、最初の二イニングを必死で投げきった。最後には腕が十分に上がらずにサイドスロー気味になっていたが、なんとか相手を無得点におさえることができた。
 リトルナインは、幸先よく二回の裏に二点をあげてリードをうばっていた。
 リトルナインの攻撃が終わると、洋平は監督の前へ行った。ブルペンでは、岩下のウォーミングアップが終わっている。
「谷本、早くマウンドへ行け」
 監督は、こわい顔をして洋平をにらみながら言った。
「監督、二イニングの約束ですよ」
 洋平がそう言うと、
「もう一回だけ投げてくれ。次の回には代えてやるから」
と、監督は懇願するように言った。
 洋平は、やむをえずまたマウンドへ向かった。
そのイニングはヒットとフォアボールでワンナウト一、二塁のピンチに追い込まれた。
 でも、けんめいにコースをついて次の打者をゲッツーにうち取り、なんとか切り抜けた。
 三回裏のリトルナインの攻撃は、あっさり三者凡退に終わった。
 監督は、いぜんとしてピッチャー交替を告げない。
 洋平はベンチにすわり、自分のスパイクを見つめていた。汗があごからポタリポタリと落ちて、スパイクの皮にきたならしいシミをつけていった。
「谷本、何をしてるんだ。早くマウンドへ行け」
 洋平は、もう返事をする気にもなれずに下を見ていた。
「早くしろよ」
 監督が、洋平の肩をつかんで引き上げようとした。
「いやです」
 洋平は反射的に身体をねじると、大きな声を出した。
「どうしました? ピッチャー交替ですか?」
 審判が、こちらに近づきながら声をかけた。
「いやーっ、ちょっと待ってください」
 監督は洋平の耳に口を近づけて、押し殺した低い声で言った。
「ばかやろう、何を甘えてやがるんだ。さっさとマウンドへ行け。さもないと、てめえなんかやめさせるぞ」
 もう洋平には、そんな監督の言葉は遠い世界のものに思えた。
 結局、浩一はベンチから立ち上がらず、その回から岩下が投げた。岩下もよくがんばったが、結局、四対七でリトルナインは負けてしまった。
 この試合以来、洋平は監督から徹底的にほされるようになった。その後も、毎週練習試合が行われたのに、洋平には一度も登板の機会が与えられなかった。練習中にもささいな事でしかられ、投げ込みやランニングを命じられた。
「谷本、おまえ、天狗になってるんじゃないか? 野球は、一人でやってるんじゃないんだぞ」
 指示に従わないと、監督から激しい往復ビンタをくったこともあった。
 でも、洋平はじっと監督をにらみ返してがんばり続けた。
 六月になって、新チームのメンバーが発表された。
「それでは、夏休みのリーグ戦に向けてのメンバーを発表する。ピッチャーは、岩下、佐藤、竹田。キャッチャーは、田辺……、以上。それじゃあ、今いったメンバーは残って、他の者は、外野のうしろへ行け」
 洋平は、自分の耳が信じられなかった。
「監督、なんで、おれを一軍からはずすんですか?」
「谷本か、おまえは野球というものを、もう一度始めから考え直す必要があるんだよ。監督の指示どおりできない者は使えない」
 監督は洋平の顔をみつめて、冷たく言い放った。
 洋平は、その二週間後にリトルナインをやめた。監督は、無言で洋平の退部届を受け取った。
 洋平がリトルナインをやめると、数日の間にいくつかのチームから入団の誘いがかかってきた。
しばらく迷ったが、洋平は最終的にはどこのチームにも入らなかった。入ればどのチームでもすぐにエースになれただろう。
 でも、勝負にこだわる今の少年野球の世界では、再びリトルナインと同じことになるように思えたのだ。そして、私立中学の受験に目標を切り替えて、遅まきながら受験勉強を始めることにしたのだった。

 次の日、洋平は夏期講習から帰って、今日も一人で昼ごはんを食べていた。
 その時、ふとあの空き地の少年たちのことを思い出した。
 洋平は食器を流しで手早く洗うと、そばの乾燥器に入れた。また、自転車であそこへ出かけてみようと思っていた。
 今日もまた、すごく暑い日だ。ペダルをこぎだすと、すぐに汗びっしょりになってしまった。
 この前と同じように、堤防沿いに自転車を走らせていくと、やがてあの空き地が見えてくる。
 期待にたがわず、前と同じように子どもたちが野球をやっていた。
 あの日は、けっきょく二時間近くも、野球を見物してしまった。見ているだけでも、けっこう面白かったからだ。
 子どもたちは、それほどのびのびと草野球を楽しんでいた。通りすがりの観客である洋平まで、思わずひきこまれるほど魅力的なものだった
 それに、子どもたちのプレーのレベルの高さにもびっくりさせられた。
バッティングでは、芯にあてにくいフワフワのゴムボールを、簡単に五十メートル近く飛ばした。
守っても、痛烈なライナーをらくらく片手でキャッチ。小学校低学年と思われる子どもたちでさえ、フライを落球することはほとんどなかった。
 ゲーム展開も、送りバントあり、ヒットエンドランありと、すごく多彩だった。それも、洋平たちのように、監督の指示でそれらをやっているのではない。みんなが、自分たちの判断で自由にやっているのだ。これには、さすがの洋平もまねができそうにない。
 ワーッ。
 大きな歓声があがった。ボールは高々とまいあがると、こちらにむかってグングンのびてきた。そして、洋平のすぐ横ではずむと、堤防までころがっていってとまった。
「やったあ、ミッちゃん、ホームラン」
 攻撃側は大さわぎだ。どうやら、ここまでとべば、ホームランになるルールらしい。
「おーい、取ってくれないか?」
 下から、外野を守っていた男の子が声をかけてきた。
「えっ?」
「ボールだよ」
「あっ、わかった」
 洋平はたちあがってボールをひろうと、男の子めがけて投げかえした。
「サンキュー」
 男の子はボールをピッチャーにむかって投げると、もとの守備位置へもどろうとした。
 でも、二、三歩いくと、またこちらをふりむいた。
「ねえ、きみ。昨日も来てなかった?」
「うん」
 いつのまに、気がつかれたのだろう。もっとも、二時間もいたのだから、記憶に残ったのも当然かもしれないけれど。
「もし、ひまだったらいっしょにやんないか。おれたち十三人なんで、はんぱだから」
「えっ?」
 洋平は、すぐには答えなかった。やりたいような気もするし、知らない子たちと遊ぶのは、気が重いような感じもする。
 男の子は、そんな洋平をにこにこしながら、みつめていた。

 空き地の地面は、堤防の上から見ていたのとはちがって、意外にでこぼこしていた。それにけっこう小石がまじっているから、ゴロを打たれるとイレギュラーバウンドしそうだ。
 さんざんまよったあげく、洋平は仲間にいれてもらうことにしていた。チームをやめてから早くも一ヶ月。ゴムボールとはいえ、野球をやるのはそれ以来初めてだった。
「じゃあ、こっちのチームに入ってよ」
 最初に声をかけた男の子がいった。
「うん」
「そうだ。なまえはなんていうの」
「えっ、ああ、谷本、谷本洋平」
「ふーん、じゃあ、ヨウちゃんってよんでいいかな」
「うん」
 男の子は、洋平にみんなのことを紹介してくれた。その子はヒロちゃんで、洋平と同じ六年生。さっきホームランを打ったミッちゃんが中二で一番年上。一番年下の小一のカンちゃんまで、いろいろな学年の子が集まっている。
 今まで洋平は、年の離れた子たちとは、あまり遊んだことがなかった。ふだんは同じ学年の子とだけつきあっている。リトルリーグでも、中学生になるとチームはシニアリーグになるので別行動だ。
 年上の子には気をつかわなきゃならないし、年下の子たちはめんどうをみなきゃならない。同じくらいの年令の連中だけとつきあうのが、いちばん気楽なのだ。
「七人対七人になったから、サードベースも作ろうぜ」
 ミッちゃんの指示にしたがって、グラウンドを作り直すことになった。もっともベースはただの木の板だし、ラインはくつのつまさきで線をひくだけだからかんたんなものだ。あっという間に、ほこりまみれのダイアモンドができあがった。
 洋平は、守備側のチームでセカンドを守ることになった。
 でも、まだ九人には二人足りないから、外野は一人少ないし、キャッチャーは攻撃側が出している。
 すぐに試合が、再開された。
 パシッ。
 いきなり、洋平のところへ低いゴロがきた。
「あっ」
 ボールは目の前で大きくはずむと、洋平のむねにあたった。さっそくエラーをしてしまった。
「ドンマイ、ドンマイ。イレギュラーするから、少しこしをうかして、リズムをとったほうがいいよ」
 横から、ヒロちゃんがアドバイスしてくれた。
 ボールがやわらかいから、ぜんぜん痛くはなかった。
 でも、白地のTシャツには、黒くくっきりとボールのあとがついてしまった。はたいてもなかなかおちない。
「ああ、ここは、前はセキタンバだったから、すぐボールが黒くなっちゃうんだ」
「セキタンバって?」
「石炭場。石炭置き場のことだよ」
「でも、ここってジャリとか材木を置いてあるのは見たことあるけど、石炭なんか置いてあったかなあ」
「ううん、ずーっと昔のことだよ」
「ふーん」
 洋平は手で地面にふれてみた。たしかに石炭を細かくくだいたような、黒いザラザラした土だった。

「おーい、買ってきたぞう」
 フェンスのむこうで声がした。
「カン公、ごくろう」
 ミッちゃんがすばやくフェンスによじのぼって、むこう側のカンちゃんをひっぱりあげた。カンちゃんは、重たそうに紙袋をかかえている。
 紙袋の中味は、たくさんの白いアイスキャンディだった。ミッちゃんは、それを一本ずつみんなにくばっている。
 洋平だけは、少しはなれたところでそれを見ていた。
「ほら、これ」
 ミッちゃんは、洋平にも一本手わたしてくれた。
「えっ、これ、いくらかなあ」
 洋平は、あわててポケットからさいふをとりだそうとした。
「いいって、いいって」
 ミッちゃんは手をふって、お金を受け取ろうとしない。
「えっ?」
「ミッちゃんのおごりだよ」
 ヒロちゃんが横から声をかけてくれた。
「いいの?」
「ああ、ミッちゃんは電線集めの名人なんだ。だから、またどっかで集めてくりゃ、すぐにこづかいになるんだよ」
「ふーん、すごいな」
「食えよ」
「うん」
 洋平は、とけかかったアイスキャンディにかぶりついた。コンデンスミルクのようなあまったるい味がした。かすかに薬くさい気もする。
 でも、炎天下の野球でのどがかわききっていた洋平には、今までのどのアイスクリームよりもおいしく感じられた。

 次の日曜日。久々に夏期講座がなかった洋平が目を覚ましたのは、とっくにお昼を過ぎたころだった。
 ねむりすぎたせいか、何もやる気が起こらない。
そのままベッドの中でグズグズしていたら、いつのまにか二時近くになってしまった。さすがに腹が減ってきて、グルグルと音を立てている。
 洋平はエイヤと気合を入れて、ようやくベッドから起き上がった。
 パジャマのままキッチンへ行くと、冷蔵庫の中には卵焼きとハムサラダが入っていた。月末だから、かあさんは気の毒にも休日出勤なのだろう。インスタントのスパゲッティとスープを手早く作ると、朝昼兼用の食事を始めた。 
 ベランダ越しに見える空は、今日も気持ちよく晴れ上がっている。
 一人でもくもくと食べるだけだから、あっという間に終わってしまう。それでも、いぜんとして何もやる気が起こらなかった。ゲームをやる気にも、友だちに電話をかけるにもならなかった。習慣のように毎日通っていた、あの石炭場での野球をやりに行く気さえおきなかった。
 洋平はパジャマを脱ぎかけたまま、居間のソファーねっころがった。
 ふと気がつくと、もう3時だ。 いつのまにか、またうとうととしてしまったらしい。
 何気なくテレビをつけたら、ちょうど競馬中継が始まるところだった。べつに競馬に関心があるわけではないけれど、洋平はソファーにグターッと寝そべりながらテレビを見ることにした。
 画面いっぱいに、夏の強い日差しがあふれている。薄緑のじゅうたんをしきつめたようなコースも、大きな弧を描いて続いていく白い柵も、ぎっしりとつめかけた人々のシャツも、明るい日の光の中ですべてが輝いて見えた。
 レースがスタートした。カラフルな衣装をまとったジョッキーを背に、黒やこげ茶や栗色のサラブレッドがけんめいに走っていく。
 集団が直線に差しかかった。観客席から歓声がわきおこる。サラブレッドたちは、ひとかたまりのままゴールを過ぎて行った。ゴール前では、紙ふぶきが舞っている。どうやら、ハズレ馬券を投げているらしい。
 でも、そんなものでさえ、今日は白く美しく輝いていた。
「十万馬券が出ました! 3番12番6番で、1736.8倍」
 アナウンサーが、興奮気味に叫んでいる。わずか百円の馬券が、十七万三千六百八十円にもなったというのだ。
(千円買ってたら、百七十三万六千八百円か。ヒューッ)
 洋平は、頭の中ですばやく計算してみた。テレビの中から、大喜びしている人たちの歓声と、がっかりしているもっと多くの人たちのため息が聞こえてきそうだ。
 画面がパドックに切り替わった。ゼッケンをつけたサラブレッドが、手綱を引かれて歩いている。周囲にはいくつもの横断幕がはりめぐらされて、大勢の人たちが取り囲んでいる。ここにも、夏の強い日差しがあふれていた。
 でも、洋平はまったく別の競馬場の風景を知っていた。そこは、ひどく寒くて暗い場所だった。

 寒いふきっさらしの中で、洋平はせいいいっぱいの声をあげてないていた。まだ幼稚園に通っているころだったろう。
よれよれになった新聞を手にした男たちが、まわりを歩きまわっている。彼らは、泣いている洋平の方をチラリと見ているのだが、誰一人として足をとめてくれない。
 あたりには、たばこやほこりに混じって、かすかに潮の香りがした。海のそばの競馬場へ連れてこられていたみたいなのだ。途中のモノレールから、すぐそばに海が見えたような気がする。
 ピューッと冷たい風が吹いてきた。風に巻き上げられたはずれ馬券が、頭の上でクルクル回っている。洋平はとうさんをさがして、泣きながら歩きまわった。
 でも、なかなか見つからない。
 くたびれきった洋平は、新聞紙や馬券が散らかったコンクリートの階段にこしをおろした。まわりをたくさんの男たちがいきかっている。その中で、洋平は、ポツンと一人取り残されたような感じだった。
「馬鹿だなあ、だからそばにいろっていっただろ」
 遠くから人々をかきわけるようにして、ようやくとうさんがやってきてくれた。
 くしゃくしゃになった新聞を片手に、反対の手で洋平の頭をゴシゴシとこすった。そして、ヒョイと肩車すると、人ごみの中を歩き出した。
 大勢の人たちの頭越しに、馬たちが走ってくるのが見えてきた。
 ワーッ。
 歓声がわきあがる。
 馬たちがかけぬけていったとき、とうさんはポケットから馬券を取り出すと、だまって破り捨てた。
「腹減ったな。なんか食うか?」
 そう聞かれて、洋平はコクンとうなずいた。
 とうさんは肩車したまま、建物の外へ連れて行った。
そこには、食べ物を売っている窓口がならんでいる。その一軒の店先の椅子に洋平をおろすと、とうさんはポケットからさいふを取り出した。そして、それをさかさまにして、しょうゆやビールがこぼれたままになっているテーブルの上にぶちまけた。
一円玉や十円玉がほとんどで、百円玉は少ししかない。その中に、四角い小さな紙が混じっていた。
「帰りの切符だよ。これまですっちまうと、帰れなくなるからな」
 とうさんは、切符を大事そうに胸のポケットにしまった。小銭の山から、十円玉と百円玉を拾い出していく。それらを手の中でジャラジャラさせながら、とうさんは窓口のそばまで歩いていった。壁のメニューをしばらくにらんでいたが、やがて窓口のおばさんにいった。
「スイトン、ひとつ」
 しばらくして、四角いオレンジ色のおぼんに、あたたかそうな湯気を立てたどんぶりをのせて戻ってきた。
「ここの食いもんも、高くなっちまったな。一杯しか買えなかった」
 洋平がこまったような顔をしていると、
「おれはおなかがすいてないから、おまえが食べな」
 とうさんは割り箸をわってどんぶりにのせると、こちらに押してよこした。
 薄茶色のおつゆの中に、ほうれん草やだいこんや白いおもちのような物が浮かんでいる。プーンと、しょうゆのおいしそうなかおりがしている。
 洋平はどんぶりに顔をつっこんで、おつゆを飲もうとした。
(アチチ!)
 熱すぎて、とても食べられない。
「ちょっと、待ってな」
 とうさんはまた窓口に行くと、ちゃわんとスプーンをもってきてくれた。そして、スプーンで少しだけちゃわんに移した。
「フーフーして、食べるんだぞ」
 洋平は本当にフーフーと息をふきかけてから、スイトンを食べ始めた。白いかたまりはおもちではなくて、うどんこのようで変なかんじだった。
 でも、おつゆも野菜も、ちょっとだけ入っていた鶏肉も、あたたかくてすごくおいしかった。
 ふと気がつくと、とうさんはたばこをすいながら夢中で食べている洋平のことを、うれしそうな顔をして見ていた。
「おとうさんも、食べる?」
 洋平がたずねると、
「おれはいいから、もっと食べな」
 とうさんは、もういちどおちゃわんに少しよそってくれた。どんぶりの中には、まだ半分くらい残っている。
 少しさめてきたのか、今度はすぐに食べ終わった。まだ、おなかはすいている。
 でも、洋平はいった。
「おなかいっぱいになっちゃった」
「もういいのか?」
 洋平がコクンとうなずくと、とうさんはどんぶりに残っていたスイトンをすごいいきおいで食べ始めた。そして、あっという間に、おつゆ一滴も残さずにたいらげた。
「もう帰ろうな」
 立ちあがったとうさんの手を、洋平は急いでギュッと握り締めた。

 洋平が小学校に上がる前に、とうさんは突然いなくなった。ハンコを押した離婚届一枚を残して、失踪してしまったんだそうだ。
 かあさんに言わせると、
「ギャンブルであちこちに借金の山をこしらえてしまっていたから、こちらにも迷惑がかからないようにするためだったんだろうね。それが、あの人のせいいいっぱいの思いやりだったのよ」
って、ことになる。
 洋平は、その後、とうさんと一度も会っていない。かあさんの話では、どこか遠くの町で、一人で病気になって死んでしまったらしい。
 かあさんは口癖のように、
「結婚はもうこりごりだ」
と、言っていて、洋平と二人きりの生活を続けている。そのくせ、とうさんに対してそれほど恨みに思ってもいないらしく、あまり悪口は聞いたことはない。
 それは、かあさんのさばさばした性格に原因があるのかもしれない。あっさりととうさんをあきらめると、かあさんはすでに始めていた保険の営業の仕事に専念していった。
かあさんは、もとからその仕事にむいていたようだ。今では、全国でもトップクラスの営業成績をあげているらしい。
 洋平自身も、とうさんに恨みも未練もあるわけではない。
 でも、たまに母方のおじいちゃんに、
「良子は悪い男にだまされた」
なんて悪口をいわれたりすると、なんだか顔がこわばってしまう。
 洋平のとうさんの記憶は、もうあまりはっきりしなくなっていた。遊園地に一緒に行ったり、入園式の時に手を引かれたりの記憶がぼんやりとはある。
 でも、それらの記憶は写真やビデオによって、後から作られたものかもしれなかった。
 テレビドラマなどで見る離婚家庭とは違って、写真から何からとうさんの物がまだそのまま残っている。だから、見ようと思えば今でもとうさんの姿を見ることができた。それらが、頭の中で実際の記憶とごっちゃになっているのかもしれない。
 その中で、写真もビデオもないのにすごく鮮明に残っている記憶。それが、競馬場でのものだった。
競馬場の記憶は、他にもたくさんあった。満開の桜に囲われた美しい競馬場。場内で遊んだ大きなファーファー。いろいろな安くておいしい食べ物。……。
どうやら、とうさんは競馬場へ行く時に、いつも洋平を連れて行っていたようなのだった。とうさんにとって、それがせめてもの洋平とのふれあいの機会だったのかもしれない。
 歓声の中をかけていく馬たち。洋平は、とうさんとさくに寄りかかるようにしてながめている。ずいぶんと遠くからヒズメの音が聞こえてきて、やがて目の前をすごいスピードでかけぬけていく。
パドックの中を、手綱を引かれてグルグルまわっている馬たち。とうさんに肩車されて、大勢の人たちのうしろからながめていた。あたたかい糞のにおいが、今でも記憶に残っている。

「やった、やった!」
 ある時、とうさんが興奮して叫んでいた。
「どうしたの?」
 わけがわからずに洋平がたずねると、
「万馬券だあ!」
 とうさんは、にぎりしめていた馬券を洋平の方に突き出した。
「まんばけん?」
 洋平は、あいかわらずキョトンとしている。
「そうだ、大当たりだあ。いくらつくかなあ?」
 とうさんは、コースの反対側の大きな電光掲示板の方をながめている。
「やったあ、二万三千二百六十円だ」
 キョトンしてみていると、
「この千円の馬券が、二十三万二千六百円になったんだぜ」
 とうさんは、得意そうに馬券をふりかざした。
「すげえ!」
 わけもわからずに、洋平は答えていた。
 とうさんは洋平の手を引いて、払い戻しの機械に並んだ。

「新宿まで」
 競馬場の正門でタクシーに乗りこむと、とうさんは大声で運転手に言った。
 いつもなら、帰りにはとうさんはスッカラカンになっている。そして、往きに買っておいて大事に持っていた切符で、電車を乗り継いで帰るのだ。
「だんな、いい景気ですね。勝ったんですか?」
 運転手がふりかえって、わらいかけた。
「うん、今日もぜんぜんだめでさあ。それがさいごの12レース」
 とうさんは、得意そうに説明している。
「えっ、じゃあ、あの馬券、取ったんですか?」
 運転手は、ゆっくりと車をスタートさせた。
「おお、6番、13番よお」
「そりゃあ、どうもおめでとうございます」
 とうさんは、ご機嫌で運転手と話をしていた。
 薄暗くなったまわりの風景が、どんどん後ろに流れていく。
 道の両側には、大勢の人たちが歩いていた。駅に向かっているのだろう。いつもなら、洋平もとうさんに手を引かれて歩いているところだ。
 なんだか自分がえらくなったようで、洋平も気分がよくなってきた。
 やがてタクシーは、高速道路に入ったようだ。
すっかり暗くなった道路を、タクシーはビュンビュンと飛ばしていく。前の車の赤いテールライトが、くっきりと浮かび上がっている。
 洋平の心の中には、見知らぬところへ行く不安がだんだん高まってきていた。
 タクシーはようやく高速道路を降りると、にぎやかな場所に着いた。
(ここが、「新宿」という場所なのだろうか?)
 洋平は、あたりをキョロキョロとながめまわした。色とりどりのネオンサインがキラキラと輝いている。
 タクシーを降りるときに、とうさんは、
「つりはいいから」
とかいって、一万円札を運転手に押し付けていた。
(ステーキとすきやき、味のみさわ)
 とうさんは、大きな看板のかかったレストランに洋平を連れていった。
 しばらくして、ウエートレスのおばさんが、テーブルにならべきれないくらいのごちそうを運んできた。
 ビーフステーキ、とんかつ、ポークソティ、大きな海老フライ、……。
 夢中で食べたような気がするが、どんな味だったかはとっくに忘れてしまった。もしかすると、いつか海の近くの競馬場で食べたスイトンの方が、おいしかったのかもしれない。
 その後、とうさんはきれいなおねえさんがいっぱいいる場所にいった。ふだんはお酒を飲まないとうさんは、一番きれいなおねえさんにつがれたビール一杯で、まっかになってしまった。
 とうさんは洋平にむかって、
「おかあさんには内緒だぞ」
といって、わらっていた。

 ふと気がつくと、いつのまにか競馬中継は終わっていた。ぼんやりしていたので、その後のレースの結果は覚えていない。
 でも、きっと今日も馬券をめぐって、泣き笑いをしている人たちがいることだろう。遠く離れたこの部屋にいることが、なんだか少し物足りない気分だった。
 洋平はテレビを消すと、ソファーから立ち上がった。ようやくパジャマを脱いで、ジーンズとTシャツに着替えた。
 窓の外からは、いぜんとして明るい光がさしこんでいる。夏の太陽は、まだまだ高い所にいるようだ。遅まきながら、何かをやろうという気が起きてきた。
 でも、これから何をしよう。
 洋平は、洗面所で歯をみがいて、顔をあらった。洗面所の鏡に、なんだか泣き出しそうな自分の顔がうつっていた。それは、いつか競馬場で泣いていた幼いころの顔に似ていたかもしれない。
 突然、洋平は競馬場へ行きたくなってしまった。もちろん、今からいったって、もう今日のレースには間に合わないだろう。それに、どのように行けばいいかさえわからなかった。
 あれから、もう五年以上がたってしまったのだ。だいいち、子どもだけでは競馬場には入れないかもしれない。
 でも、そこに行けば、なんだか死んだとうさんに会えるような気がしてきた。また洋平が迷子になって泣いていたら、きっととうさんが迎えにきてくれる。万馬券をにぎりしめて。あの笑顔を浮かべて。

 午前中は夏季講座に通い、午後は「石炭場」で草野球をやる。これが洋平の夏休みの日課になってきた。
 単調な練習の多いリトルリーグとはちがって、ゲームだけの草野球は文句なく楽しかった。
 リトルリーグでも練習試合や公式戦はあったが、いつも勝負を意識してやらなくてはならなかった。低学年のころは、ヒットを打たれたり、四球を出したりすると、いつ監督に交代させられるか不安だった。エースになってからは、勝たなくてはと、いつも責任を負わされていて、楽しむ余裕なんかぜんぜんもてなかった。
 その点、草野球ではエラーしても、
「わりい、わりい」
で、すんでしまう。
 だからといって、みんながいいかげんにプレーをしていたのではない。のびのびやっているせいなのか、洋平でもハッとするような好プレーの連続だった。
 するどいライナーを横っとびにキャッチ。
 三塁からタッチアップするランナーを、あざやかな中継プレーをしてホームでタッチアウト。
 ルールも、ゲームをおもしろくするために、たくみなハンディキャップがつけてあった。
 たとえば、三、四年生には直球しか投げられなかった。ゴムボールは硬球や軟球と違って、空気抵抗を受けてスピードが出ない。だから、三、四年生でもほとんど三振はしなかった。
 それに対して、五、六年生には、カーブやシュートの変化球を投げてもかまわない。ゴムボールはフニャフニャに変形するので、カーブやシュートを投げられると大きく変化してとても打ちにくい。これらはみんな、「太陽カーブ」だの、「イナヅマシュート」などと名づけられ、「魔球」とよばれている。
 さらに一、二年生には、ソフトボールのように下投げで打ちやすい球を投げなければならない。だから、かえってこの子たちの方が、上級生たちよりヒットが多いくらいだ。
 逆に、中学生たちは、ランナーがいる場合には右ききの子も左で打たなければならない。
 でも、このルールにも、もうすっかり慣れてしまっているようだった。一番強打者のミッちゃんなどは、左でも右と同じように楽々とホームランが打てた。
 草野球の感覚に慣れてくると、洋平はしだいに試合中に活躍できるようになった。はじめはとまどった大きな変化球にも、タイミングをあわせられるようになった。ピッチャーは引き受けないようにしていたが、ヒロちゃんのアドバイスのおかげか、内野を守っていてもほとんどエラーをしなくなった。
 洋平は、自分がこんなにも野球に熱中できることにおどろいていた。たしかに、小さいころから軟式の少年野球チームへ入り、やがてリトルリーグで本格的にやっていた。
でも、近ごろでは、野球を好きだと思ったことがあまりなかった。

 いつのまにか7月も終わり、いよいよ8月も一番暑い時期にさしかかった。
 それでも、洋平は、へこたれずに慣れない夏期講座通いを続けていた。それも、午後から「石炭場」で草野球できることが、はげみになっていたからかもしれない。
 「石炭場」に通い続けるうちに、洋平はふしぎなことに気がついた。来ているメンバーが、いつも同じ顔ぶれなのだ。一年生のカンちゃんから中二のミッちゃんまでの十三人。洋平を入れると、ちょうど七人対七人になる。誰かがいなかったり、逆に新しい子が増えたりすることもなかった。
「みんな、塾とかへは行ってないの?」
 洋平は、ヒロちゃんにきいてみたことがある。
「うん、行ってる子もいるよ」
 ヒロちゃんはそうこたえた。
「でも、毎日、みんなよく石炭場に来れるね」
「ああ、だって夏休みだもの。だから塾もお休みなんだよ」
「へーっ、ずいぶんのんびりした塾なんだなあ」
 洋平はびっくりしてしまった。
『夏休みこそ、来年の受験の合格不合格を決める決戦の時』
 これが、洋平の塾の先生たちの口ぐせだった。とても、夏休み中ずっとお休みの塾があるなんて考えられない。

 パシーン。
 ミッちゃんが、またいい当たりをセンターオーバーにとばした。
(ホームランか?)
 おしくも打球は、ていぼうの下の段にあたってはねかえった。外野のタイちゃんが、けんめいに追いかけている。
「バック、サード!」
 サードベースから、洋平がさけんだ。
 タイちゃんがボールに追いついたとき、ミッちゃんはすでにセカンドベースをけっていた。
 返球が、中継に入ったショートのヒロちゃんにわたる。ヒロちゃんは、振り向きざまにすばやくサードに送球した。
みっちゃんはスライディングしないで、そのままサードに突っ込んでくる。
 いいボールが洋平にかえってきた。洋平が、両手でがっちりとキャッチ。
 タイミングは完全にアウトだった。
 でも、洋平は、ミッちゃんに体あたりされてふっとんでしまった。
(あっ、ボールがこぼれてる。セーフになっちゃう)
 洋平は頭をうって気を失いながら、そんなことを考えていた。

「だいじょうぶか?」
 ヒロちゃんの声がした。
 洋平が、ようやく目をあけた。強い日差しをバックにして、心配そうなみんなの顔があった。そのまん中にヒロちゃんがいる。
 洋平は、ヒロちゃんの左のまゆ毛の上に、白い大きな傷があることに気がついた。
(あれっ、こんな傷、どこかで見たような気がする)
「だいじょうぶかい?」
 もう一度ヒロちゃんがいった。
「うん、だいじょうぶ」
 洋平はそうこたえて、おきあがろうとした。
 でも、少しフラフラしている。あわててヒロちゃんとミッちゃんが、両側からささえた。
「ごめんなあ」
 ミッちゃんは、心配そうな青い顔をしていた。
「だいじょうぶだよ。それよりさっきのはセーフなの?」
「ううん、守備妨害でアウトだよ」
 そういって、ヒロちゃんがボールを洋平に渡してくれた。

「さっきから、何をごそごそやってるの?」
 うしろから、かあさんが声をかけてきた。洋平は居間の押入れを開けて中の物を出していた。
「えっ。うん、ちょっとアルバムをさがしてたんだ」
「アルバム?」
緑色の厚い表紙の古いアルバム。洋平が小さいのころの写真がたくさん入っている。
生まれてすぐの病院での写真。お宮参りの時の写真。幼稚園の入園式。七五三。
 主役の洋平はもちろん、かあさんもたくさん写っている。
 でも、とうさんが写っている写真は二、三枚しかない。ほとんど、とうさんが写真をとっていたからだ。
 洋平にとって、一番いいとうさんのイメージは、その中の一枚、とうさんが洋平を風呂にいれている写真によるものだ。
 写真の中のとうさんは、湯船の中ではしゃいでいる洋平を持ち上げて、こちらにむかってなんともいえない、いい笑顔を見せている。
「やっぱり」
 洋平はつぶやいた。
「やっぱりって、なによ? あらっ、その写真」
 かあさんもアルバムをのぞきこんだ。
「ねえ、とうさんの左のまゆ毛の傷。これ、どうしたのかなあ」
「えっ、ああ、これ。小さいときに自転車でころんでできたんだって」
 やはりとうさんにたいしてとくにこだわりがないようで、かあさんはあっさりと答えてくれた。
「ふーん」
 洋平はもういちど、写真の中のうれしそうなとうさんの笑顔を見つめた。

 翌日も、いつものように石炭場で、洋平は野球をやっていた。
 さり気なく確認したが、やっぱりヒロちゃんのまゆ毛の上の傷は、とうさんのに似ている。
(それで、なんだかヒロちゃんになつかしい感じがするのかなあ)
 洋平は、サードの守備位置からそっとヒロちゃんの方を見ながら、そんなことを考えていた。
 真夏の日差しをあびて、ユラユラと石炭場にかげろうがたっている。そんな炎天下で、十四人だけの野球は延々と続いていた。
 一応、9回の表裏で試合は終わるのだけれど、短い休憩をはさんですぐに試合が始まる。
 両チームのメンバーは、中2のミッちゃんと中1のハジメちゃんのトリトリで、毎回入れ替わっていた。
 時々、休憩のときに、ミッちゃんのおごりで、アイスキャンディの差し入れがある。買いに行かされるのは、いつも一番年下のカンちゃん。
 真夏の一日は、終わりがないんじゃないかと思うぐらい長く続いた。 なんだか石炭場には、そこだけ特別な時間が流れているような気がするぐらいだ。
 洋平たちは、何試合も何試合も、延々と試合を続けていた。
 やがてギラギラ輝いていた太陽が堤防の向こうに沈むころ、ようやくその日の最後の試合が終了する。
 それでも、みんなは、なかなか石炭場から立ち去ろうとしない。洋平はそんなみんなに見送られながら、いつも堤防に立てかけておいた自転車で家路についた。
 そんな石炭場での野球をとおして、洋平は、
(自分が野球を好きなんだ)
ということを、再認識できたような気がしていた。そして、中学になったら、軟式野球部に入ってみようと思っていた。リトルナインの一件で傷つけられた洋平の心は、石炭場の少年たちによってすっかりいやされていた。

 永遠に続くかと思われた夏休みが、とうとう終わる8月31日。
洋平は、その日も、石炭場で野球をやっていた。
「おーい、こら。かってに入っちゃだめだろ」
 いきなり大声でどなられた。
ホームの後の柵のむこう側で、黄色いヘルメットをかぶったおじさんが怒っている。
 でも、みんなはプレーを中断したものの、平気な顔をしてその場に立っていた。
「立入り禁止って、書いてあるのが見えないのか?」
 おじさんは、まっすぐに洋平にむかって言った。もっと近くに攻撃側の選手やピッチャーがいるのに、変な感じだった
「すみません。すぐ出ます」
 洋平はちょうど持っていたボールをヒロちゃんにわたすと、出口の方へむかった。
 でも、みんなは逆に堤防の方へ歩き出している。
「おい、こっちから出ようよ」
 洋平がよびかけると、みんなはこっちにむかって笑顔を見せた。
 でも、また堤防の方へ歩いていってしまう。
「おーい」
「なんだよ、おまえ。一人でゴチャゴチャ言ってないで早く出てこい」
 おじさんがまたどなった。
(えっ、一人?)
 洋平はあわてておじさんの顔を見た。
 でも、ふざけて言っているようには見えない。おじさんは、洋平一人にむかってどなっているのだ。
「なんで、ぼくだけ……」
 洋平はそう言いかけて、ハッとしてふりかえった。みんなは、もう堤防の前にたどりついている。
「待ってくれ!」
 洋平はクルリと方向を変えると、全速力でみんなの方へ走り始めた。
「あっ、このやろう」
 とうとうおじさんは、入り口をあけて中に入り、洋平のあとを追いかけはじめた。
「ヒロちゃん」
 追いついた洋平が声をかけると、ヒロちゃんがふりかえった。そして、洋平に笑顔をうかべる。
(あの笑顔だ)
と、洋平は思った。湯船の中でのあの「とうさん」の笑顔だ。
 ヒロちゃんが右手をさし出した。洋平が手をにぎった。やわらかいあたたかな手だった。
「さよなら、ヨウちゃん」
 ヒロちゃんがそっと言った。
「さよなら、ヒロちゃん」
 洋平は、やっとそう答えた。
 ヒロちゃんはそっと手をはなすと、みんなの方へ歩き出した。
「このやろう、つかまえたぞ」
 ヘルメットのおじさんが、洋平のかたをギュッとつかんだ。
 ヒロちゃんはさいごにもう一度振り返って、あの笑顔をうかべた。そして、みんなといっしょに堤防の中へすーっと消えていってしまった。
「さよなら、とうさん」
 入り口の方へおじさんにひきずられながら、洋平は初めてその言葉を口にした。

石炭場の少年たち
クリエーター情報なし
平野 厚
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ジャンプ!(2)

2016-11-11 17:05:19 | 作品
 十月にはいって、最初の日曜日の朝。昨日までふっていた雨は、すっかりあがっていた。
 勇気が一階の食堂へおりていくと、珍しく秀樹にいさんが先に起きていた。もう朝食は食べ終わったらしく、大きなコップにたっぷりいれたミルクを飲みながら、コミックスを読んでいる。
「おはよう」
 勇気があいさつしても、にいさんはブスッとした顔をしていた。どうやら今朝は、不機嫌そうだ。さわらぬ神にたたりなしで、勇気は洗面所へ直行することにした。
 しばらくして、勇気はハブラシをくわえたまま、洗面所からブラブラ戻ってきた。
「1、9、4、1」
 にいさんが、コミックスから目をあげずにボソリといった。
「えっ?」
 勇気には、なんのことだかわからなかった。
「だから、鍵の番号は1941だって、いってるんだよ」
「なんの?」
「にぶいやつだなあ。おれの自転車のだよ」
「えーっ!」
「来年の三月までだぞ。おれ、受験で忙しいから、おまえに貸してやるっていってるんだよ。でも、ちょっとでもこわしたりしたら、ウェスタンラリアートだからな」
 勇気は、黙ってうなずいた。
でも、おさえようとしても、自然と顔がニコニコしちゃう。
 にいさんは、残っていたミルクを一気に飲み干すと、コミックスを小脇に抱えて立ち上がった。今日もこれから受験勉強に励むのだろう。
「サンキュー」
 勇気は、階段をあがっていくにいさんの背中に向かって、あわててお礼をいった。
「ばーか」
 にいさんはちょっと手をあげただけで、ふりかえらずに二階へあがっていってしまった。
(あにきったら、照れてるのかな)
と、勇気は思った。
 勇気は口をすすぐと、すぐに洗面所の外へ飛び出していった。そのまま食堂は素通りして、玄関へと急いで行く。
「あら、ユウちゃん、朝ごはんは?」
 うしろから、かあさんの声がしている。
「ううん、後で」
 ユウキはそういって、玄関に急いだ。今は、朝ごはんなどにかまっていられなかった。
 カーポートへ行って、自転車の黒いカバーをはずした。中からは、にいさんのモトクロス用自転車が姿を現した。
自転車の鍵の番号を、「1941」に合わせようとする。
(うーん!)
 気がはやっているので、なかなか番号が合わなくてもどかしかった。
「……、4、……、1と」
 ようやく鍵がはずれた。
 勇気は鍵とカバーを玄関に置くと、カーポートから飛び出した。家の前の歩道に出ると、勇気はすぐに自転車にまたがった。
 ゆっくりとペダルをふみはじめると、いかにも軽々と進んでいく。幅広のタイヤが道路にピタッとして、こぐ力を確実に伝えてくれる。
 まず家のまわりをグルッとまわって、軽く足ならしをすませた。それから、まっすぐに例の空き地へ向かった。いつも、和宏たちに置き去りにされているところだ。
 勇気は少しもためらわずに、自転車を空き地へつっこんでいった。
 昨日までの雨のせいか、土が水をふくんでいてペダルが重い。
 ザザザッ。
 自転車は、力強く雑草をなぎたおして進んでいく。草についていた水滴が、左右に大きくはじきとばされる。
 いよいよ、次の区画との段差にさしかかった。勇気の心臓は、さすがにドキドキしている。
 ジャンプ!
 着地のとき、すこしバランスをくずした。
 でも、なんとか足をつかずに、もちこたえられた。
「やったあ!」
 勇気は、大声でさけんでいた。そして、ハヤブサのように鋭く空を横切る自分の姿が、見えたような気がした。
(そうだ、「ツバサ」とよぼう)
 勇気は、こうして自分だけの名前を自転車につけた。
 その後も、勇気は空き地を走り回り、段差でジャンプを繰り返した。
 しばらく乗り回すうちに、もとから自分の物だったように「ツバサ」を自由にあやつられるようになっていた。
 家へ帰ってから、勇気は、「ツバサ」についた泥を、ぞうきんでていねいにぬぐい始めた。
すっかりはらペコだったけれど、ゆっくりとねんいりに「ツバサ」をふいていく。さらに、かわいたきれでよくみがいた。
 「ツバサ」は、すっかり、ピカピカになった。ようやく満足して、勇気はカバーをかけた。
 にいさんが怖いから、きれいに掃除をしたんじゃない。勇気にそうさせずにはいられなくするほどの魅力が、「ツバサ」にはあったのだ。

 その日の昼過ぎだった。
 ピンポーン。
 玄関のインターフォンがなった。
 いつものように、太一がよびにやってきたのだ。今日も、和宏たちはオグリ公園で「サイクルサッカー」をやるという。
「よお」
 すぐに出てきた勇気が、自分のではなく「ツバサ」に乗ったので、太一はすごくびっくりしていた。
「どうしたの? おにいさんにもらったの?」
 太一がたずねたので、
「うん、まあね」
と、にいさんから借りているだけだということは黙っていた。
 太一は、すごくうらやましそうな顔をして「ツバサ」をみつめている。
 勇気は、そんな太一が、少し気の毒になってきた。
 太一は、勇気と違って早生まれだった。だから、次の誕生日に買ってもらうとしても、まだ半年ちかくも待たなければならない。
 それに、太一はひとりっ子だ。勇気のように、にいさんから借りるわけにもいかなかった。
 オグリ公園には、すでに和宏たちが集まっていた。
「ユウ、中古でもやっぱりモトクロスはいいだろう」
 勇気が「ツバサ」に乗っているのを見て、和宏が馬鹿にするようにいうと、他のメンバーたちはいっせいに笑った。
 いつもの勇気なら、すぐに何かをいいかえすところだ。
 でも、今日はようやく「ツバサ」が手にはいった日なので、和宏のいやみもおおめにみることにした。
「これで、モトクロスじゃないのは、誰かさんだけだよな」
 哲也がそういったので、太一は顔を赤くしてうつむいてしまった。
 今日もみんなは、「サイクルサッカー」を始めた。試合が始まっても、太一はあいかわらず元気がなかった。やっぱり、自分だけモトクロス用自転車を持っていないことを、かなり気にしているらしい。
 でも、勇気は、そんな太一にかまっていられなかった。ようやく、モトクロス用自転車で「サイクルサッカー」をやれるのだ。今日こそは、和宏をやっつけてやりたかった。
 ゲームが始まった。勇気は、積極的にボールを奪いにいった。ゲームの主導権を取ろうとしたのだ。
 でも、そう簡単にはいかなかった。
 たしかに「ツバサ」は、和宏たちの自転車に少しもひけをとらなかった。いやむしろ、モトクロス用自転車としては、ランクが少し上のタイプなのだ。
 でも、かんじんの勇気が、まだ「ツバサ」をうまく乗りこなせていなかった。車輪やフレームの大きさは、今までの自転車とあまり変わらなかった。
 でも、ハンドルやギアの比率がぜんぜん違う。だから、まだうまくコントロールができないのだ。ボールをキックしたり、他の自転車とぶつかったりすると、まだどうしても大きくバランスをくずしてしまう。まだまだ、練習が足りなかった。
(猛練習して、早く上達しなくっちゃ)
 あっさりと和宏にボールを奪われてしまったとき、勇気はくちびるをかみながらそう思っていた。

 その日の帰りに、例の空き地に通りかかったとき、和宏がいつものように叫んだ。
「それ行け!」
 みんなわれさきにと、空き地へつっこんでいく。今日は、勇気も遅れずにみんなについていった。
 ジャンプ!
(やったあ!)
 他のメンバーに、負けずにうまく飛べた。
 でも、次の瞬間、ハッとしてうしろを振り返った。
一人だけ取り残されてしまった太一は、まだこちらをみつめている。いつかの勇気のようだ。うっかりして、太一のことを忘れていたのだ。
(太一のところへ戻ってやろうか?)
 勇気は迷ってしまって、その場にたちどまっていた。
「おーい、ユウ、早く来いよ」
 遠くから和宏がどなっていた。
「ああ」
 太一に悪いなと思いながらも、つい和宏たちの後を追ってしまっていた。
 少し行ってからもう一度振り返ると、もう太一の姿は見えなくなっていた。

 十月の最後の土曜日だった。
放課後に家へ帰ろうとしたとき、校門の前で和宏によびとめられた。いつもの他のメンバーも、もう集まっている。
「ユウ、明日、ハイキングランドへ行かないか?」
「ハイキングランド?」
「ああ」
 ハイキングランドは、勇気たちの家から五キロほどのところにある遊園地だった。
「今、こづかいがピンチなんだよな」
 勇気がそういうと、和宏はニヤッと笑いながら義政に向かっていった。
「おいっ」
「うん」
 義政は、ジャンパーのポケットから分厚いチケットの束を取り出した。
「すげえ!」
 義政のおとうさんが、知り合いからもらったとかで、ゆうに二十枚以上はある。
「あそこには、自転車のモトクロス場があるんだぜ」
 和宏は、得意そうにみんなに説明している。
 ハイキングランドへは、勇気も行ったことがある。山の斜面を利用した広大な敷地の遊園地だ。フィールドアスレチックやバーベキュー、それにいろいろな乗り物や施設が点在していた。特に、山のまわりをぐるりと一周する長距離のゴーカートと、山の頂上にあってすごくながめのよい観覧車が売り物になっていた。
 そこに、自転車のモトクロスレース場があったかどうかは、勇気の記憶にはなかった。もしかすると、最近になってできたのかもしれない。
 和宏は、ハイキングランドのパンフレットをひろげて、モトクロスレース場の位置をみんなにしめしている。
 そのとき、掃除当番だった太一が、一人だけ遅れてやってきた。
「太一、おまえも、ハイキングランドへモトクロスをやりに行かないか?」
 勇気が、すぐに声をかけた。
「馬鹿、太一はモトクロスを持ってないじゃん」
 和宏がいじわるくいった。
「あっ、そうか」
 勇気は、あわてて太一の顔を見た。
 太一は、少しうつむいて黙っていた。
「だいじょうぶだよ、レンタルもあるから」
 義政がとりなすようにいってくれたので、勇気は少しホッとした。
 和宏たちの太一への「仲間はずれ」は、その後も続いていた。
 でも、強力なライバルである勇気とは違って、和宏は太一にそれほど関心がないようだ。だから、勇気に対してのようには、「仲間はずれ」は徹底していなかった。
あれほど熱心だった「サイクルサッカー」も、いつのまにかやらなくなっていた。これは、勇気のモトクロス用自転車の腕前があがったせいもある。勇気を痛めつけられなければ、せっかくの「サイクルサッカー」も意味がないのだ。
 勇気たちは、また野球やサッカーをやるようになった。こんな時は、太一も他の子たちと同じようにプレーできるので、勇気はホッとしていた。
ただ、ときどき気まぐれに、例の空き地のところで太一を置き去りにすることがあった。
「キャッホー」
 歓声をあげながら、和宏を先頭に空き地に突っ込んでいく。そんなとき、勇気も、つい一緒に和宏たちについていってしまっていた。
太一は、いつも恨めしそうにみんなを見送っていた。勇気は、いつも太一にすまないと思うのだが、どうしても一緒にその場に残ることができなかった。そして、共犯者としての気持ちがあるせいか、和宏に対してやめるようにいうことさえできなくなっていた。そのことも、勇気を屈服させたようで、和宏はひそかに満足していたのかもしれない。

 ハイキングランドのモトクロス場は、一周が約八百メートル。赤茶けたがけにかこまれたコースで、段差や急なのぼりくだりが連続している。ところどころに、丸太でつくられた障害物や水たまりまでが用意されていた。
 ハイキングランドの入場料さえはらえば、このコースは無料で使えた。
 でも、安全のために、ヘルメットとひざあてを必ずつけなければならない。これらは、ここでも有料で借りられた。太一は、さらにモトクロス用自転車も借りることになった。
 車でついてきた義政のおとうさんは、みんなの荷物をあずかると、芝生の上にレジャーシートをしいて横になった。昼寝でもしながら、待っているもりなのだろう。
 慣れない水たまりや坂道、それにヘアピンカーブなどになやまされながら、勇気たちは練習を続けていた。
 その中で、和宏だけはけっこううまく乗りこなしている。どうやら、前にもこのコースへ来たことがあるらしい。
和宏は今日も、上下おそろいのジーンズで、ばっちりきめている。ジーンズの上着には、大きなバッチやワッペンをいくつもつけていた。
 オフロードはもちろん、モトクロス用自転車にも不慣れな太一は、でこぼこ道を走るだけでも大変だった。ほとんど十メートルごとに、足をついてしまっている。
 午前中の練習で、勇気はようやくあまり足をつけないでも一周まわれるようになってきた。他のみんなも、かなり慣れてきたようだ。太一も、まっすぐなところだけは、なんとか足をつかずに走れるようになっていた。
 家から持ってきたお弁当は、ハイキングランドの中央にある広々とした芝生の上で食べた。すっかり汗をかいた体に、吹いてくる風が気持ち良かった。いつもよりかなり激しい運動をしたので、みんなすごい食欲だ。勇気は、おにぎりを五つも食べたのに足りなくて、太一の分を少し分けてもらった。
 食べ終わったとき、和宏がみんなに提案した。
「昼っからは、レースをやろうぜ」
「レース?」
「うん、みんなで、同時にコースを走るんだ」
「いいな、やろう、やろう」
 和宏にはなんでもしたがう哲也が、すぐに賛成した。
「まだ、あぶなくないかな?」
 いつも慎重な義政は、首をかしげている。
「だいじょうぶだよ。でも、誰かさんだけは、見てるだけにしたほうがいいけどね」
 そう和宏がいったので、みんなは太一の方を振り返った。
「できるよ。ぼくもレースをやる」
 太一は、むきになっていいかえした。
「ほーら、太一だって、やるっていってるんだぜ」
 和宏がだめをおすようにいったので、もうだれも反対できなくなった。

 レースは、初めから勇気と和宏の一騎打ちだった。二人はみんなを大きく引き離して、障害を次々に突破していった。
 カーブや段差などでは、やはりモトクロス用自転車の腕前にまさる和宏が、リードしている。
 でも、勇気は、サッカーできたえた脚力にものをいわせて、直線コースでなんとか追いついていた。
 勇気がならびかけるたびに、和宏は横目でジロリとにらみつけてくる。勇気も負けずににらみかえした。
 二人は車体を接するようにして、最終コーナーを曲がっていった。
 あと五十メートル。勇気は「ツバサ」のペダルに、一段と力を込めた。
 しかし、残念ながら、和宏の自転車がわずかに前へでたところでゴールインした。
 二人はくたびれきって、しばらく話もできなかった。
「勝ったぞ」
 やっと和宏がいった。
「もう一回やろう」
 勇気もいいかえした。
「よーし」
 和宏は自転車から体をおこすと、勇気をにらみつけた。しばらく忘れていた勇気へのライバル意識が、完全によみがえってきたらしい。
 ようやく、他の仲間たちも、ゴールインしてきた。みんなも全力を出し切ったようで、ゴール地点でハアハアしている。
 ところが、全員がついてから五分以上たっても、太一だけはゴールに姿を現わさなかった。さすがに、みんなも心配になってきた。
「どうしたのかなあ?」
 義政は、太一が来るはずの方向を不安そうにながめていた。
でも、カーブのところに木がはえているので、見通しがよくない。
「ちぇっ、しょうがねえなあ」
 そういいながらも、和宏も心配そうだった。
「太一には、レースなんてまだ無理だったんだよ」
 早く二回目のレースを始めたい勇気が、イライラしながらいった。
「そういうなって」
 義政は勇気をなだめるようにいうと、太一を捜すためにゴールから後戻りしていった。和宏と他の
何人かも、後に続いていく。
「まったく、もう」
 勇気も、しかたなく自転車をこぎはじめた。
 ゴールから二百メートルほどのところで、自転車を押しながらとぼとぼ歩いてくる太一にようやく出会えた。体中泥だらけで、鼻血まで出している。義政がヘルメットをぬがしてやると、ひたいにもすり傷があって、血が少しこびりついていた。
 途中の段差のところで、ジャンプを失敗してころんでしまったのだった。
「いいかっこうだな」
 和宏がひやかすと、太一の目からはそれまでがまんしていた涙があふれはじめた。

 ハイキングランドの事務室で、太一が応急手当てをしてもらっている。骨折とかねんざとかはしていないので、すりむいた所をここで手当てしてもらえば大丈夫そうだった。
勇気たちは、ドアの外で太一の治療が終わるのを待っていた。
 ようやくドアが開いて、太一の顔がのぞいた。鼻には脱脂綿が詰められていて、額に大きなばんそうこうがはってある。
「今日は、これで終わりだな」
 太一に続いて事務室から出てきた善政のおとうさんが、みんなにいった。
「えーっ!」
「まだ時間あるよーっ」
 みんなから、いっせいに不満の声があがる。
「いや、おじさんは、太一くんを連れて帰らなきゃならないからな。今日は、みんなもこれでおしまいにしなさい」
 けっきょく、太一は善政のおとうさんの車に乗っていくことになった。みんなも、自分の自転車ですぐに帰らなければならない。
 勇気は、和宏に負けたままなのがくやしくってたまらなかった。和宏や他のメンバーも、レースをやりたくってうずうずしている。みんなは未練たっぷりに、のろのろとハイキングランドの出口へ向かった。
 出口の横の掲示版に、大きなポスターがはってあった。みんなは足を止めて、ぐるりと取り囲むようにしてポスターをながめた。
『第三回ハイキングランド杯ちびっ子モトクロス大会
日時 十一月二十二日(日) 午前十一時より
場所 ハイキングランド、モトクロスコース
予選  コース1周 上位二名が準決勝進出
準決勝 コース2周 上位二名が決勝進出
決勝  コース3周 一位から三位まで、トロフィーなど豪華賞品をさしあげます。
出場資格 小学校四年生から六年生まで。
参加費用 無料(入園料は必要)
申し込み 当日十時半まで、モトクロスコース事務所』
 ポスターには、かっこよくジャンプしているモトクロス選手の、大きな写真がのっていた。
「すげえ、かっこいいなあ」
 和宏が、真っ先にいった。
「うん、おれたちも出られるのかなあ。
 善政も興味をそそられたみたいだ。
「そうだな。もっと練習をすれば出られるかもしれない」
 最後に、勇気が自分に言い聞かせるように話した。

 帰り道で、勇気たちは自転車のペダルをこぎながら、モトクロス大会について相談をしていた。
 出場を希望しているのは、全部で八人。まだかなり余っていた善政の券は、希望者全員に十分にいきわたった。
 勇気はこの大会に備えて、明日から練習を開始することに決めた。もちろんお金がかかるから、ハイキングランドのモトクロスコースへ行くわけにはいかない。
 でも、公園でターンの練習をやれるし、例のあき地でジャンプもできる。それに脚力は、全速力で坂をのぼる練習でもつけられるだろう。
勇気は、今度の大会でなんとか上位に入賞して、和宏のはなをあかしてやりたかった。
 勇気が戻ってきたとき、太一は家の前で待ってくれていた。
「レース、どうだった?」
 太一が、小さな声でたずねた。そういえば、太一にはレースの結果をまだ伝えていない。
「車輪半分の差で二着」
 勇気は、ぶっきらぼうにこたえた。
「惜しかったね。一着は誰?」
「和宏」
「やっぱりね。カズちゃんはすごいや」
 太一は、いつもいじめられていることなど忘れたように、すなおに感心していた。
「もう一回やってりゃ、ぜったい勝てたんだなあ」
 勇気は、「ツバサ」を自転車置き場に止めると、カバーをかけた。

 翌朝、勇気が学校へ行こうと玄関をでると、外に「ツバサ」の自転車カバーがおちていた。
(風ではずれたのかな)
と、勇気は思った。
 しかし、……。
(ない!)
「ツバサ」がなくなっているのだ。
 勇気は、ハッとして急いで玄関に引き返した。
(やっぱり!)
 思ったとおり、「ツバサ」の鍵は、げたばこの上にのっていた。うっかりして、鍵をかけるのを忘れてしまったのだ。
 昨日は、レースに負けたうさばらしに、ずっとテレビゲームをやっていた。だから、ハイキングランドから帰ってからは、一歩も家を出ていない。どこかに「ツバサ」を置き忘れてきたことは、考えられなかった。
 勇気は、あわてて家のまわりを捜し始めた。
 ない。
 近くの道路も見てみた。
 やっぱりない。勇気は、学校へ行くどころではない気分に、なってしまっていた。
 そうはいっても、もちろん学校をさぼるわけにもいかない。勇気は、遅刻ぎりぎりに登校した。
 しかし、勇気の頭の中は、いぜんとして「ツバサ」のことでいっぱいだった。
(なくしちゃった)
なんて、とてもにいさんにはいえない。
(こわしたらウェスタンラリアートだ)
といっていたけれど、なくしたらどんな恐ろしいプロレスの技をかけられるのだろう。
 頭をかかえて考えこんでいる勇気のそばを、太一が通りかかった。今日も、大きなばんそうこうを額につけている。
 勇気は、そんな太一の顔を見てハッとした。
(そうだ。もしかしたら、太一なら何か知っているかもしれない)
 あの時、勇気が「ツバサ」を置いて家へ入るのを見ていたからだ。
「太一、『ツバサ』が見えないんだけど、知らないか?」
 太一だけには、この秘密の呼び名を教えてあった。
「ううん、知らないよ。どうしたの?」
 太一は、心配そうな顔をしていった。
「見当たらないんだよ。あの時、誰か来なかったか?」
「わからないなあ、すぐに家に帰っちゃったから」
 太一も、そう残念そうにいってくれた。

 その日の放課後、勇気は、掃除当番もそこそこに、家へ帰ろうとしていた。大急ぎで、「ツバサ」を捜さなければならなかった。今日中に見つからないと、秀樹にいさんに気づかれてしまうかもしれない。
 勇気が校門まで走っていくと、外で太一が待っていた。
「『ツバサ』を捜すんだろう?」
 太一は、ぼそっといった。捜すのを、一緒に手伝ってくれるというのだ。
 勇気は、太一の意外な申し入れにびっくりしたけれど、内心うれしかった。
 ふたりは、住宅地のすみずみまで、「ツバサ」を捜しまわった。
 自転車に乗っている子を見かけるたびに、勇気にはそれが「ツバサ」のように思えてならなかった。太一も、家のかげや草むらまで、一所懸命に捜してくれている。
 オグリ公園に通りかかったとき、熱心にレースの練習をしている和宏たちの姿を見かけた。
(そうだ。早く見つけないと、モトクロスレースの練習が遅れちゃう)
 今までは「ツバサ」を捜すのに夢中で、レースのことはすっかり忘れていた。今日から、猛練習を開始するはずだったのだ。
 五時になって、いつものように、『早く家へ帰りましょう』の放送が始まった。これがながれたあとは、外で遊んではいけないことになっている。
 いつのまにか、あたりはうす暗くなり始めていた。
「ぼく、もう帰らなくっちゃ」
 太一が、遠慮がちにいった。
「帰りたきゃ、かってに帰れよ」
 わざとぶっきらぼうにいったが、今まで一緒に捜してくれた太一に、心の中では感謝していた。
 太一は、さらに三十分以上も一緒に捜してから、家へ帰っていった。これでも、おかあさんから確実に大目玉をくうに違いない。

 勇気は、いつしか学校へ戻ってきていた。もう町内で捜すところはない。
 あたりは、すっかり暗くなっている。特に、校庭の続きにある自然観察林は、小さな谷になっているのでもうまっくらだ。住宅地の開発のときに、そこだけは自然のままに残されていた。
 もうこれ以上は捜せない。もしかすると、本物のどろぼうにやられてしまったのかもしれない。そうだとしたら、「ツバサ」は二度と見つけられやしない。
 とうとう勇気は、「ツバサ」がなくなったことを、かあさんに打ち明けることにした。にいさんにあやまるとしても、一人ではやはり恐ろしかった。かあさんにも、味方になって欲しかったのだ。
 しかし、そう心を決めても、なかなか足が前に進まない。にいさんが怖いだけでなく、不注意でなくしてしまった「ツバサ」にすまないと思う気持ちもあった。
 ようやく校庭のはずれまで来たとき、勇気ははっとひらめいてうしろを振り返った。
 黒々とした森。そして谷。
 勇気は、全速力で家へかけもどった。
「ユウちゃん、今までどこへ行ってたの?」
 案の定、かあさんはすっかりおかんむりだ。
 でも、勇気はひとこともこたえずに、階段下の物入れから懐中電灯を取り出した。
「勇気、何をしてるの?」
 大声でどなりはじめたかあさんのわきを、勇気はすばやく突破した。そして、全速力でまた家を飛び出していった。
 谷には、途中まで太い丸太で階段が造られていて、自然観察路になっている。勇気はまっくらな階段を、懐中電灯の明かりを頼りに、おっかなびっくり下へおりていった。
(あった!)
 予想どおりに、階段の終点ちかくの草むらに、「ツバサ」は隠されていた。へたくそな隠し方なので、草の感じからすぐにわかった。ほっといても、一週間もしないうちに、誰かが発見してくれただろう。そうすれば、にいさんの名前と住所が書いてあるから、無事に手元に戻ってきたはずだ。
 勇気は「ツバサ」のハンドルに手をかけて、草むらから引っ張り出した。すぐに、懐中電灯のあかりで、「ツバサ」をチェックしてみる。
 さいわい、どこもこわれていないようだ。
 そのとき、勇気は、懐中電灯の光にキラリと反射する物が、足もとにおちているのに気がついた。拾い上げてみると、金属製の丸いバッチだった。分厚いくちびるに、大きく突き出したまっかな舌。凝った文字で、「Rolling Stones」と書かれている。
 勇気には、このバッチに見覚えがあった。昨日、和宏が着ていたジーンズの上着に、同じ物がついていたのだ。
(あいつが犯人なのか?)
 でも、勇気には、和宏がなんで「ツバサ」を隠したりしたのかがわからなかった。和宏は自分のモトクロス用自転車を持っているし、こんないやがらせをしても意味がない。
 もしかすると、こんどのレースで勇気に負けるのを恐れて、練習のじゃまをしようとしたのかもしれない。
 勇気はこのことを和宏に確かめて、必ず決着をつけてやろうと、バッチをポケットに突っ込んだ。

「太一、昨日はサンキュー」
 翌朝、登校すると、真っ先に教室にいた太一のそばに駆け寄って、勇気は「ツバサ」が見つかったことを知らせた。
「いいよ。それより、どこにあったの?」
 太一は、いつものひとのいい笑顔をうかべていた。
「自然観察路だよ」
 勇気がいうと、
「えっ、ひどいなあ。誰がそんなことやったんだろう」
と、太一も自分のことのようにはらをたてている。
 しかし、勇気は、バッチのことだけは太一にも話さなかった。まだ和宏の仕業だと決まったわけではないし、自分自身で決着をつけたかった。
 そして、教室の反対側にいる和宏をにらみつけた。和宏は、学校へはあのジーンズの上着はきてこない。バッチやワッペンをつけてくるのが、禁止されていたからだ。
 でも、夕方遊ぶときには、最近はいつもあの上着をきていたはずだ。その時、あのバッチを和宏につきつけてやろうと思っていた。
(早く放課後にならないかなあ)
 勇気は、その時に、和宏をどう問い詰めようかと考えていた。

 その日の放課後、勇気は、さっそく太一と一緒に公園へでかけていった。
 先に来ていた和宏たちは、昨日と同じように、ターンやスタートダッシュの練習をやっていた。
「やあ、カズちゃん」
 勇気は、すぐに和宏に声をかけてみた。そして、わざと「ツバサ」で和宏の行く手をふさいでみた。
 しかし、勇気の予想に反して、和宏は「ツバサ」を見ても表情ひとつ変えなかった。
(このバッチ、おまえのじゃないのか?)
 のどまででかかったことばを、勇気はあわててのみこんだ。和宏が、例のジーンズの上着を着ていなかったからだ。今日は、ネイビーブルーのスタジャンだった。
 これじゃあ、バッチをつきつけても、
「おれのじゃない」
と、つっぱねられそうだった。
 勇気は、和宏たちとモトクロスレースの練習を始めた。
 でも、なかなか気分が集中できない。どうしても、和宏を見るたびに「ツバサ」とバッチのことが、頭にうかんでしまうのだ。
 『早く家へ帰りましょう』の放送がながれると、待ちかねたように練習をうちきって太一といっしょに家へ帰った。
 和宏ともう何人かは、まだねばって練習を続けていた。

 次の日から、勇気は和宏たちと離れて、モトクロスレースの練習を始めた。「ツバサ」とバッチの件が決着つくまでは、和宏と一緒にいたくなかった。
 みんなはオグリ公園や例の空き地で練習しているので、わざわざ遠くのカタクリ公園まででかけていった。
 練習には、いつも太一がつきあってくれた。
 勇気がジャンプやターンをするのを、太一はそばで熱心に見ていた。ときどき、「ツバサ」を貸して欲しそうな顔をしているのが、勇気にもわかった。
 とうとう、勇気は太一に声をかけた。
「太一、おれ、ちょっと休憩するから、そのあいだ、『ツバサ』に乗ってみないか?」
「うん、いいの?」
 太一はすなおに喜ぶと、すぐに「ツバサ」にまたがった。
 それからは、二人は交互に自転車を代えて、練習をするようになった。
 勇気も、太一が「ツバサ」で練習している間、ただ見ているわけにはいかなかった。そんなことでは、とてもレース当日に和宏を打ち負かすことなどできはしない。
 太一の自転車で、勇気はスタートダッシュやサドルから腰をうかしてペダルをこぐ練習をしていた。これなら、子ども用自転車でも、けっこうトレーニングになる。
 「ツバサ」では、コンクリート製の幅の広いすべり台でターンをしたり、階段でジャンプの練習をしたりしていた。

 日ごとに「ツバサ」を自由にあつかえるようになったことが感じられて、勇気は満足していた。
 太一も、ターンなどはすぐにうまくなった。
 でも、ジャンプだけはなかなか上達しなかった。何度やっても、着地でバランスをくずしてしまう。ジャンプの瞬間に、怖がって腰がひけているからだ。
 だけど、あきらめずに、何度も何度もジャンプの練習を繰り返していた。
 太一が毎日暗くなるまで、弱音をはかずにがんばっているのを見て、勇気はびっくりしてしまった。こんなにガッツのあるやつだとは思っていなかった。
「太一、おまえも、明日の大会に出てみないか?」
 大会の前日になって、とうとう勇気はそうたずねてみた。もうそのときには、太一はなんとかジャンプもこなせるようになっていた。
「えーっ。でも、ぼく、へただからなあ」
「そんなことないよ。だいぶうまくなったじゃない」
「そうかなあ」
 太一は、うれしそうにニコニコした。
「だいじょうぶだよ。おまえって、意外にガッツがあるんだよなあ」
 思いがけず勇気にほめられたので、太一はすっかりてれていた。
 その晩、勇気は義政に電話をして、太一の分の招待券を確保してやった。

 レースの当日がきた。
出かけようとした勇気に、秀樹にいさんがうらやましそうに声をかけた。
「小学生のガキどもはいいなあ、のんびり遊んでられて」
「おにいちゃんも一緒に来る? レースは、小学生しか出られないけど」
 いつもなら、「ガキ」なんていわれたらけんかになるところだ。
 でも、「ツバサ」の持ち主を怒らせて取り上げられたらまずいので、せいいっぱいあいそよくしていた。
「バーカ。受験戦士には、そんなひまはないの。でも、おれの自転車で出るんだから、入賞したら賞品は半分よこせよ」
「OK!」
 予選でさえ突破できるかどうかもわからないのに、調子よく返事をしておいた。
 今日もオグリ公園に参加者全員が集合して、ハイキングランドへ出発する予定だ。
 義政のおとうさんが来られないので、勇気のとうさんがつきそいをしてくれることになっていた。勇気はとうさんを待ちきれずに、「ツバサ」に乗って先に家を出た。
 オグリ公園で和宏を見たとき、おもわずハッとしてしまった。今日は、例のジーンズの上着を着ていたからだ。
そして、あの「ローリングストーンズ」のバッチがあったところには、別のワッペンがついていた。
 やっぱり、あれは和宏のバッチだったのだ。勇気は、すぐにバッチと「ツバサ」の件を、和宏に確かめようと思った。
 でも、都合の悪いことに、ちょうどとうさんがやってきた。「ツバサ」が行方不明になったことは、にいさんはもちろん、とうさんやかあさんにも秘密にしてあった。
 勇気は、レースが終わってから、必ず和宏と決着をつけてやろうと思った。

 ハイキングランドの駐車場には、すでにたくさんの車が来ていた。地元だけでなく、他の県のナンバーの車も多い。その中には、ちびっこモトクロスレースに参加する人たちも、大勢含まれていた。
 車からおろした自転車で足ならしをしたり、着替えをしたりしている子どもたち。それに、つきそいのおとなたちで、あたりはごったがえしていた。
 勇気は、他の出場者たちのスタイルが本格的なのに、驚かされていた。原色の上下つなぎのウェアに、きちんとひざあてやひじあてをしている。もちろん、ヘルメットも自分専用だ。
「ひぇーっ。みんな、かっこいいな」
 義政が、グループ全員の気持ちを代表するようにいった。
「ちぇっ、かっこだけだよ」
 和宏が、はきすてるようにいった。
 でも、その顔はすっかりこわばっている。
 みんなは、勇気のとうさんの車のかげで、こそこそとジャージに着がえはじめた。
 勇気は、服をぬいだ和宏の体を見てびっくりしてしまった。腕や背中のあちこちが、あざだらけだったからだ。大会に備えて、よっぽど猛練習をしたのに違いない。
 レースの参加者は、百人以上もいた。予選は十六レースあるから、一レースあたり、六、七人が出場することになる。その中で、上位二名以内に入らなければ、準決勝へ進めないのだ。
 勇気の出場する組は、うしろから三番目。和宏と一緒だ。太一は、最終組だった。

 勇気たちのグループが、スタートラインにならんだ。出走する選手は七名。勇気は列のちょうどまんなか、和宏は左はしにいる。
 すでにレースに出た仲間たちでは、義政の六着が最高だった。あとは全員そろってビリになってしまっていた。やはり、他の出場者たちとは、スタイルだけでなく、実力にもかなりの差があるようだ。
 勇気は、もう上位入賞の夢はすてていた。
 でも、なんとか予選だけでも突破したかった。
 勇気が考えている作戦は、思いきりスタートダッシュをかけることだ。コースが狭いので、先手必勝だ。後はなんとかねばりきって、予選通過の二着までにはいる。それが無理なら、せめて和宏より先にゴールインしたかった。
 バーン。
スタートのピストルがなった。勇気は、作戦どおりに全力でダッシュしていった。
 ところが、ねらいとは反対に、あっというまにビリになってしまっていた。
 他の選手たちは軽々とペダルをこいで、すごいスピードで第一カーブへ突っ込んでいく。
 カーブでは、車体を内側にたおして巧みに曲がっていった。土ぼこりにまじって小石がはねあがり、うしろからいく勇気のヘルメットや「ツバサ」の車体にパチパチとあたる。
 勇気はなんとか先行集団から離されないよう、必死に追いかけていた。
 前方に、和宏の赤いウェアがちらりと見えた。二、三番手で善戦している。猛練習の成果が出ているようだ。
 勇気は「ツバサ」のバランスを取るのにせいいっぱいで、なかなか前との距離をつめられなかった。
 直線でせっかく差を縮めても、カーブで前をふさがれて追い抜けない。ジャンプでは、勇気が一番スピードをロスして、逆に差をつけられてしまった。どうも勇気はジャンプを跳び過ぎているようなのだ。他の選手たちは、ジャンプを最小限にして、すぐに地面について加速している。
 レースは、いよいよ最後のヘアピンカーブにさしかかった。和宏は、いぜん三位につけている。
 先頭グループが一団でコーナーにかかったとき、和宏は赤ヘルメットの選手を外側から抜こうとした。
 と、そのとき、赤ヘルメットの選手が、抜かせまいとして外側にふくらんできた。
 和宏はそれをうまく避けられずに、もろに接触してしまった。
 赤ヘルメットの選手は、なんとか体勢を立て直した。
でも、和宏はカーブを曲がりきれずに、コースの外へ飛び出していった。
 そこには、大きな水たまりが。
和宏は、水たまりに頭から突っ込んでしまった。
 勇気がヘアピンカーブを曲がるとき、けんめいに自転車を立て直している和宏がチラリと見えた。
 けっきょく勇気は、ゴール前でへばった一人をやっと追い抜いて五着になった。仲間の中では、いちおう最高の成績だ。
 勇気は「ツバサ」のハンドルの上にかぶさるようにして、ハアハアと荒い息をはいていた。ようやく顔をあげたとき、観衆のうしろからとうさんが笑顔でVサインをおくっているのが見えた。
 和宏は、一人だけ大きく遅れてゴールインしてきた。全身泥だらけになっている。ヘルメットを脱ぐと、額のちょうどまんなかあたりで、くっきりとしまもようになっていた。
 和宏は、ゴール地点のそばでしゃがみこんでしまった。かたわらには、愛用の自転車が倒れたままになっている。よっぽど疲れきってしまったらしい。
 勇気は、転倒にもめげずに最後まで完走した和宏のガッツに感心していた。自分だったら、あそこで走るのをやめていたかもしれない。
 太一の出場する最終組のスタートが、ちかづいてきた。勇気は「ツバサ」からおりて、スタート地点に向かっていった。
 かっこいいウェアを着ている選手たちの中で、太一だけは青い普通のジャージ姿だ。どう見ても、いちばん弱そうにみえる。
「太一、スタートダッシュだぞ」
 思わず大声を出してしまっていた。
 太一は、勇気のほうを見てぎこちなく手をあげた。すごく緊張しているのが、ここからでもわかる。
「落ち着いていけ」
 両手でメガホンを作ってもう一度叫んだ。
「太一、がんばれよ」
 隣から、和宏の声がした。いつのまにか、勇気のそばにやってきていたのだ。善政や他の仲間たちも集まってくる。
「がんばれ」
「太一、ファイト」
 みんながあまり大きな声で叫んでいたので、他の観衆たちはこちらを振り返って笑っていた。太一も、ようやく少し照れたような笑顔をうかべた。
 その時、勇気がウェアのポケットに手を突っ込むと、指先に何かがふれた。
 バッチだ。自然観察路で拾った例の和宏のバッチだった。
 勇気は、隣に立っている和宏の横顔をみつめた。和宏の顔は、泥だらけのままだった。ところどころ血がにじんでいる。
 勇気は、「ツバサ」とバッチのことを、今確かめようかと思った。
 でも、みんなといっしょに、和宏がけんめいに太一を応援しているのを見ていたら、さっき考えた文句がうまくいえなくなってしまった。
 勇気は、そっとバッチをポケットに戻した。
 バーン。
 ピストルの合図と同時に、七台のモトクロス用自転車が、いっせいにスタートした。激しい先頭争いが行われている。
太一は、早くも集団から遅れ始めている。
 最初の段差にさしかかった。
選手たちは、次々にジャンプしていく。
「ジャーンプ!」
 太一も、勇気や和宏たちの声援を背中にうけて、大きく鮮やかにジャンプした。

ジャンプ!
クリエーター情報なし
平野 厚
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ジャンプ!(1)

2016-11-11 17:04:28 | 作品
「勇気、勉強道具はもう積んだの?」
 玄関から、かあさんの声が聞こえてきた。
「うん、まだあ」
 コミックスをダンボール箱に詰めているところだった。
 でも、つい一冊を開いてみたら、おもしろくなって読み続けてしまったのだ。引越しの忙しいときなんかに読むと、なんでこんなにおもしろいのだろう。
「早くしなさい。もう時間がないのよ」
 かあさんの声は、ヒステリックになり始めていた。
「はあーい」
 とうとう読みかけのコミックスをダンボール箱にほうりこむと、ガムテープでふたを閉じた。
 夏休みも、残りあと一週間になっていた。生まれたときからずっとすんでいた社宅を出て、新しい家に引っ越すことになったのだ。
 今までの家は町中にあるから、どこへ行くのにもとても便利だった。
 でも、2DKなので、両親、秀樹にいさんと勇気の四人で暮らすには、かなり手狭になっていた。そこで、両親は思いきって、郊外に新築の家を建てたのだった。にいさんと勇気の新学期に合わせて、夏休みぎりぎりに引っ越すことになったのだ。
 からっぽになった本棚を動かしたら、うしろに写真が一枚おちていた。
(あれ?)
拾い上げてみると、去年の遠足で高尾山へ行った時のだ。
 ガッちゃん、ヒロスケ、ポンタにヨシくん。同じクラスの仲間たちと一緒に写っている。みんな、幼稚園のころから、ずっと友だちだった。
 写真の中の勇気は、みんなに取り囲まれながら、笑顔でVサインを出している。
 みんなは、先週、ポンタの家で勇気の送別会をやってくれた。
「一生、親友でいようぜ」
って、誓い合ったばかりなのだ。
(新しい学校でも、こんな友だちができるだろうか?)
 そう考えると、思わず鼻の上のほうがツーンとしてくる。
 でも、今はそんなセンチメンタルな気分にひたっているひまはない。教科書やマンガを詰め込んだダンボール箱をかかえて、勇気は家の外へ出ていった。
 家の前の道路には、大型トラックが二台停まっている。荷物の積み込みは、もうほとんど終わっていた。
 勇気は、ダンボール箱を、荷台にいる運送屋の人に手わたした。
 最後に、勇気とにいさんの自転車を一番うしろへ載せて、ひっこしの準備は完了した。

 勇気たちは、おとうさんの運転する車でトラックの後についていった。
 引越し用の大型トラックは、通れる道が限られていた。だから、ずいぶん遠回りをしている。普通なら三十分でいけるところを一時間以上もかかって、ようやく新しい家へ到着した。
 今度の家は、市の郊外にできた新興住宅地の中にある。まわりには、まだところどころに空き地があった。
 勇気は車からおりると、新しいわが家をながめてみた。いかにもぬりたてってかんじの、白いかべの二階建て。
 間取りは、3LDKだ。一階が広いリビングとダイニングキッチン。それに、お風呂や洗面所がついている。
 二階に、両親の寝室と勇気たちの勉強部屋がある。秀樹にいさんと離れて、勇気ははじめて個室を持てることになる。
 工事が遅れたので、へいや庭などはまだできてない。玄関ポーチは、昨日までの雨でドロドロだった。
 でも、来週から二学期が始まるので、もうこれ以上待っている時間はなかった。
 勇気たちは、運送屋の人と一緒に荷物を運び始めた。できたてほやほやの家の中は、ちょっとツーンとした壁紙やたたみのにおいがする。
 勇気は、初めての自分の部屋へ入っていった。六畳ぐらいの洋室だ。ベッドと勉強机は、もう運び込んであった。
 勇気は、ベッドの上に腰をおろして、グルリと部屋を見渡した。東側に大きな、北側に小さな窓がついている。ここを自分の好きなように使えるかと思うと、ワクワクしてくる。
「ゆうちゃん、早く荷物運んじゃってえ」
 下からかあさんが呼ぶ声がした。
「はーい」
 勇気は大きな声で返事をして、自分の部屋を出た。
 トラックのうしろにまわると、もう荷物は半分くらいに減っている。荷物の一つ一つには、運び込む部屋の印がつけてある。例えば、勇気の部屋へ運ぶ段ボールには、黒のマジックで「ユウキ」と書かれていた。
 玄関の所にかあさんが立っていて、運送屋さんが運ぶ段ボールを見て、
「これは、台所」
「これは、居間」
などと指示している。
 勇気とにいさんも、自分で運べるような小さな荷物は自分で運んでいた。
 勇気は荷物を運んでいるうちに、となりの家の男の子が、二階の窓からこちらを見ているのに気づいた。同じ年ぐらいにみえる。天然パーマのかみの毛にやさしい目。色白でおとなしそうな子だった。荷物を運び込むのを、興味しんしんって感じでながめている。
 荷物の運び込みが終わると、運送屋のトラックは帰っていった。玄関前の道路には、とうさんの車と勇気たちの二台の自転車だけが残っている。カーポートがまだできていないので、勇気はとりあえず自転車を庭の方へおしていった。
 そのとき、となりの家の子と初めて目があった。その子は、ニコッと笑いながら、ちょっと手を上げて合図をした。勇気も、なんとかぎこちない笑顔を浮かべてそれにこたえた。

 翌朝、目をさますと、なんだかいつもとようすが違う。もちろん、新しい部屋で眠っていたのだから、そのせいもあるだろう。
 でも、それだけではないようだ。
 しばらくして、それが車の音がぜんぜんしないからだということに気がついた。今までの家は、大きな道路に面していたので、トラックなどの音がひっきりなしに聞こえていた。
 ところが、今朝はまったく車の音がきこえなかった。
 チチチチッ。
そのかわりに、スズメの鳴き声がうるさいぐらいにしている。
 サッシの窓を、大きく開けてみた。
 勇気の部屋は、狭い庭をはさんでとなりの家とむきあっている。昨日、男の子がのぞいていた窓が見えた。まだ、カーテンがひかれている。
 となりの家の屋根がわらに、スズメがたくさんとまっているのが見えた。チッチッと短く鳴きながら、気ぜわしくとまる場所をかえている。中には、かわらの下へ出入りしているものもいた。どうやら、そこに巣があるらしい。
 勇気の部屋の中は、まだかなりちらかっていた。昨日の夜は、かたづけが途中なままで、早く眠ってしまったからだ。慣れない引越し作業で、疲れていたのかもしれない。

 朝食を食べてから、勇気は荷物のかたづけを再開した。
 でも、すぐに下からかあさんの声がした。
「勇気、お友だちが来てるわよ」
(えっ、いったい誰だろう?)
 勇気は、首をひねりながら階段をおりていった。前の学校の友だちがたずねてくるにしては、いくらなんでも早すぎる。
 玄関をあけると、となりの家の男の子がたっていた。勇気の顔を見ると、少し恥ずかしそうな笑顔をうかべた。
「なんか、用かい?」
 勇気は、少しぶっきらぼうにいった。
「うん、ちょっとうちに遊びにこないかなと思って」
 その子は、えんりょがちにいった。
「まだ、かたづけが残っているんだけどなあ」
「あら、おとなりの板崎さんのお子さんね」
 かあさんが、台所から手をふきながらやってきた。
「はい、太一っていいます」
「何年生かしら?」
「五年です」
「じゃあ、勇気と同じじゃない。ユウちゃん、よかったわね。すぐにお友だちができて」
(まだ友だちになったってわけじゃないけどな)
と、勇気は心の中で思っていた。
「いいわ、部屋のかたづけは。どうせ、もう少しなんでしょ。それは後にして、ちょっと太一くんのところへ行ってきたら?」
 かあさんはそういって、勇気をせきたて始めた。

 太一の部屋は、八畳ちかくもある広い部屋だった。太一は勇気とは違って一人っ子なので、小さいころからずっと一人部屋だそうだ。
 窓ぎわには、勇気の部屋と同じようにベッドが置いてある。その反対側には、勉強机とならんでパソコンデスクがあった。そばには、ピアノのようなキーボードもある。
(これが、シンセサイザーってやつかな?)
と、思いながら見ていると、
「ひいてみようか?」
と、いいながら、太一がヘッドフォンをさしだした。
 勇気が耳につけると、太一はアンプにつないですぐに演奏をはじめた。
 ツリラララ、……。
 いきなり、増幅された電子音が、頭の中に鳴り響いた。
 太一の指先は、キーボードの上を、信じられないほどすばやく動いている。
 勇気はこのふうがわりな新しい友だちに、すこし圧倒されるものを感じ始めていた。
「すげえ、うまいんだな」
 勇気は、ヘッドフォンをはずしてつぶやいた。
 太一はキーボードの手をとめて、照れたように少し顔を赤くした。
「勇気くんは、何組に入るの?」
 太一は、話題を変えるようにしてたずねた。
「五年二組だって」
 勇気が答えると、
「えっ! じゃあ、ぼくと同じクラスじゃない」
 太一は、うれしそうな笑顔をうかべた。
「へーっ!」
 これには、勇気もびっくりした。
「五年生は、全部で三クラスあるんだよ」
 太一が、学校やクラスのようすを説明してくれた。
 勇気の転入する若葉小学校は、この新興住宅地ができてから開校した新しい学校だ。まだ、どんどん家が増えているので、転入生が、毎学期、各クラスに二、三人はいるらしい。
 そういう太一自身も、四月に転校してきたのだという。
「まだ、開校して三年目だから、校舎も教室もピカピカだよ」
 太一が、少しじまんそうにいった。
「ふーん」
 二学期になって、学校に行くのが楽しみになってきた。

 翌日、近所にあるというオグリ公園へでかけていった。太一が、同じクラスの男の子たちを、紹介してくれるといったからだ。いつもその公園で、サッカーや野球をやっているらしい。
 勇気は、カーポートの奥から、自分の自転車を引っ張り出した。太一が、自転車に乗ってやってきたからだ。
 オグリ公園には、五分もかからないで着いた。公園には、自転車にのった七、八人の男の子たちが、すでに集まっていた。その中心にいる子が、太一が昨日話していたグループのリーダー、和宏のようだ。
 勇気は和宏を見て、すごいショックをうけてしまった。
 ブカブカのカーキ色のパンツをはいて、おなじ色のTシャツできめている。そして、細身のサングラスまでかけていたのだ。勇気には、どうしても和宏が、中学生としかおもえなかった。
「よう、新入りか?」
 和宏はサングラスをひたいの上に押し上げると、おうへいな口調で話しかけてきた。
「勇気って、いうんだ。きみは?」
 圧倒されまいとして、勇気は大声で答えた。
 でも、ちょっと声がうわずってしまった。
「……」
 和宏は、勇気の質問をまったくむしした。
 そして、またがっていた自転車を、すこし横に動かした。
(あっ!)
 そのとき、初めて気がついた。和宏の乗っている自転車が、子ども用の自転車ではなく、モトクロス用自転車だということに。
 幅広のたくましいタイヤ。がっしりしたハンドル。飾り気のないシンプルなデザイン。すべてが、本物の魅力をもっていた。それにひきかえ、勇気の乗ってきた自転車は、アニメのキャラクタ付きだ。急に、すごく子どもっぽくかんじられてしまった。
(えっ!?)
 まわりを見渡してびっくりした。和宏だけでなく、他の子たちも全員が、モトクロス用自転車に乗っていたのだ。モトクロス用自転車じゃないのは、勇気以外には太一だけだった。
今までの学校では、みんな勇気と同じような子ども用自転車だった。こんなモトクロス用自転車に乗っている子は一人もいなかったのだ。
勇気もモトクロス用の自転車があることは知っていた。
でも、そういうのは、中学生ぐらいになってから乗るものだと思っていた。勇気も中学に入ったら、モトクロス用かスポーツタイプの自転車に買い換えてもらうつもりでいた。
「じゃあ、きょうは、サッカーをやろうぜ」
 和宏が、みんなにむかっていった。
「うん」
 他の子たちは、すなおにうなずいている。
 サッカーといっても、ぜんぶで十人しかいないので、五人対五人のミニサッカーだ。ボールも正式の皮のではなく、ふたまわりぐらい小さなゴムボールをつかっている。もちろん、スパイクなんかはかずにスニーカーのままだ。ゴールは、公園の両はじにあるベンチだった。
「よう、ユウ。おまえ、そっちにはいれよ」
 和宏は、勇気のことをもうよびすてにしている。
 両チームのメンバー構成まで、和宏がかってにきめているのに、勇気は驚かされた。前の学校では、こういうときはトリトリで公平にチームを分けていた。
「ユウちゃん、一緒のチームだね」
 太一がうれしそうにいった。
「やあ、よろしくな。ぼくは義政っていうんだ」
 めがねをかけたノッポの男の子が、声をかけてくれた。この子が、勇気のはいった方のチームの中心メンバーのようだ。
「よろしく」
 勇気もこたえた。
「サッカーは、やったことある?」
 義政がそういって、勇気にゆるいパスを出した。
 勇気は、そのパスを受けると、黙ってボールリフティングをしてみせた。右のインサイド、左のアウトサイド。インステップにヘディング。さらには、肩やヒールまでつかって、自由にボールをあやつってみせた。
 勇気は、あらゆるスポーツの中で、サッカーがいちばん得意なのだ。幼稚園のころから、ちびっこサッカースクールで、みっちりきたえられている。正式なボールをつかえば、かるく百回以上はボールを空中でけりつづけられる。
「ふぇーっ!」
 義政が、驚いて変な声を出した。
「ユウちゃん、すごいねえ」
 太一も、声をかけてくれた。他の子たちも、びっくりして勇気をながめている。
 勇気は、得意そうにボールをけりつづけた。
「おい、いつまでやってるんだ。早くゲームをやろうぜ」
 いきなり大声でどなられて、勇気は両手でボールをつかんで振り返った。
 和宏だった。怖い顔をして、勇気をにらみつけている。
 勇気はちょっと肩をすくめて、ボールを義政に返した。

 新学期が始まった。
 始業式の後に、教室でホームルームがあった。
「それでは、新しいお友だちを紹介します」
 先生がそういうと、教室の前に並んだ転校生たちは、順番にあいさつした。
 今学期の転校生は、勇気をいれて三人。毎学期、転校生がいるので、教室のみんなも慣れっこのようだ。
「八王子からきた石川勇気です。よろしく」
 勇気は、ペコリと頭を下げた。
 パチパチパチ、……。
 型どおりに、歓迎の拍手が起きた。
 その後、自分の席に着いた。斜め前の席から振り返った太一が、笑顔を見せてくれた。
 休み時間になると、太一は、いろいろな子に勇気を紹介してくれた。勇気は、新しい学校にすんなりとけこめそうだった。引越し前に心配したのが、うそのようだ。
 その後も、学校では、少しずつ友だちができ始めていた。
「山口香織よ。よろしくね」
 新しい友だちには、男の子ばかりでなく、女の子もいた。香織は、くるくる天パーの髪の毛の元気な子だった。この子も、太一の紹介だ。
「よろしく」
 勇気はぶっきらぼうに答えた。前の学校では、男の子とばかりと付き合っていて、女の子とはあまり話をしなかった。
 それにひきかえ、太一は中性的なところがあるせいか、女の子たちとも平気で付き合っている。それに、なかなかかわいい顔をしているので、女の子たちに人気があるようだった。

放課後には毎日のように、家の近くの公園で、和宏たちのグループと遊んでいた。
 和宏の権威は、グループの中だけではなかった。勇気が転入した、若葉小学校五年二組全体のボスだったのだ。
 和宏は成績も良かったが、クラスでも一、二をあらそう長身だった。おまけに、スポーツ万能なのがその原因だろう。いつでも、哲也や昌明のような腰ぎんちゃくたちに、取り囲まれている。
 和宏の影響力は、学校にいる間だけでなかった。放課後においても絶大だった。
 塾のない日には、みんなは暗くなるまで、公園でサッカーや野球をやっている。
 その日何をやるかは、いつも和宏が決めていた。
 何をやるかだけではない。チームのメンバー構成やいつ終わるかなど、なんでも和宏のいうとおりに決まった。
 今までの学校には、こういった「ボス」はいなかった。何か決める時には、みんなの話し合いや、誰かの提案で決定されていた。
 ところが、ここでは、
「野球をやろうぜ」
「今日はサッカーにしよう」
といった和宏の鶴の一声で決まってしまう。
勇気は、和宏のようなボスの存在には、初めは少し面食らった。
 でも、勇気は、サッカーでも、野球でも、大活躍できた。だから、少しぐらい和宏がいばっているのは、気にしなかった。
 しかし、問題がひとつあった。
 それは、自転車だ。和宏たちが乗っているモトクロス用自転車だった。
 グループの中で、最初にこれに乗るようになったのは、もちろん和宏だった。去年の十月に、誕生日のプレゼントとして手にいれたのだ。
 モトクロス用自転車は、でこぼこ道を走るためにアメリカで開発された自転車だ。大きさは、勇気の子ども用自転車よりひとまわり大きいだけだ。だから、小学生高学年や中学生には、ぴったりの自転車だといえるかもしれない。
 スポーツタイプの自転車とは違って、変速ギヤがない。シャーシやタイヤもがっしりとつくってあるから、ひどいでこぼこ道やちょっとした段差でもへいちゃらだ。
 勇気も、モトクロス用自転車のことは、良くしっていた。駅前の公園などで、高校生ぐらいのおにいさんたちが乗りまわしているのを見たこともあった。障害物をおいてジャンプをしたり、ジグザグに走行させたりして、パフォーマンスを競っていた。中には、足をつかずに自転車をストップさせたり、前輪だけを持ち上げてクルクル回転させるような曲乗りをしたりしている人たちもいた。
 でも、まだ自分自身でそういった自転車に乗ることは想像していなかった。
 和宏が購入するまで、モトクロス用自転車を持っている者は、同じ学年には誰もいなかった。
 でも、たちまちグループのみんなは、和宏をまねてモトクロス用自転車に買い換えるようになった。
 ちょうど子ども用自転車を卒業するころだったので、だれかの誕生日がすぎるたびにモトクロス派が増えていった。誕生日プレゼントとしてゲットしたのだ。今までだったら、スポーツタイプの変速機の多い自転車だっただろう。
 そして、その年のクリスマスをさかいに、ほとんどのメンバーがモトクロス用自転車になっていた。近所のディスカウントショップの自転車売り場では、クリスマス商戦で異様にモトクロス用自転車が売れたに違いない。
 現在、和宏グループ、十二、三人の中で、モトクロス用でないのは、勇気と太一だけだった。太一も、まだ引っ越してきたばかりだったからだ。
 毎日、見せびらかされているので、勇気もモトクロス用自転車が、欲しくて欲しくてたまらないようになっていた。

 九回の裏、早くもツーアウトでランナーはなかった。
 得点は、三対三の同点。延長戦は目前だ。
 勇気は、ゆっくりとバッターボックスにむかった。
 九人対九人の本格的な野球は、勇気が引越してきてから初めてだった。
いつもは和宏たちと、十人たらずでゴムボールの野球をやっている。今日は、グループ以外の友だちも加わって、校庭で試合をやっていた。
土曜日の午後なので、校庭のすみには他の子たちも遊んでいる。
 マウンド上の和宏が、大きくふりかぶって第一球を投げこんできた。
「ストライーク」
 審判をしている担任の山下先生が、大声で叫んだ。外角低めに、みごとな速球がきまっていた。勇気はここまで、三打数ノーヒットにおさえられている。
 和宏は外角低めへのコントロールがよいので、りきんでバットを振り回す勇気をうまくうちとっていた。
 和宏が、またゆっくりとモーションをおこした。勇気はバットをねかして、和宏のスピードボールにそなえていた。
 和宏が第二球を投げこんできた。予想どおり外角のボールだった。
 でも、すこし高めにういていた。
 カーーン。
 投球にさからわずに、右中間へはじきかえした。
 ボールは、外野手の間を抜けて、校庭の奥の自然観察林のほうまでころがっていく。
 勇気は、帽子をとばしながら全速力で走った。
 一塁、二塁をまわって、三塁もけった。
 ようやく追いついたライトが、中継にはいったセカンドへ投げたボールが少し右へそれた。セカンドはボールをとりそこねて、バックホームできなくなってしまった。
 ランニングホームラン。サヨナラ勝ちだ。
「なに、もたもたやってんだ」
 ホームベースのカバーにはいっていた和宏は、大声でセカンドをどなりつけた。
「やったあ、ユウちゃん、すごいあたりだったね」
 太一は、自分のことのように大喜びしている。
 勇気はチームのメンバーが差し出すてのひらを、上から両手でパチパチとたたいていった。
 和宏はまだ舌打ちをしながら、ホームのそばに立っていた。
「ユウくん、かっこいー」
 振り向くと、校庭の向こうから、四、五人のクラスの女の子たちが、こっちを見ている。中から飛び出して手を振ったが子いた。山口香織だ
 勇気は顔を赤くしながら、チームメイトの中にかくれた。

 勇気が引っ越してきてからのひと月の間に、和宏グループには確実に変化がおきていた。それまでは、サッカーでも、野球でも、和宏のワンマンゲームにちかかった。
 ところが、勇気は少なくともスポーツの面では、和宏にまったくひけをとらなかったのだ。とくにサッカーは、幼稚園のときからサッカースクールにはいっていたのでばつぐんにうまかった。しかも、パスやドリブルがうまいだけでなく、サッカー戦術まで身につけているのだ。
 和宏や他のスポーツに自信のある子は、サッカーではフォワードをやりたがる。自分でシュートして、点をとりたいからだ。
 ところが、勇気は違っていた。すすんでバックスかハーフのポジションを選ぶのだ。そして、正確なパスと的確なチームへの指示とで、攻撃と防御の両面にわたってゲームを組み立てていった。
 勇気のはいった方のチームは、こうして組織だったプレーをすることができる。それに、シュートチャンスを作ってくれるので、みんなは勇気と同じチームになりたがるようになっていた。
それにひきかえ、和宏は自分でシュートをしたがるので、どうしても他の子たちはわき役になってしまうのだ。
 チームの力のバランスをとるために、勇気と和宏は敵味方に分かれることが多かった。もちろん、チーム編成は和宏の思うままだったので、和宏のチームのほうがいいプレーヤーが多い。
 でも、勇気の活躍で、しだいに和宏チームのほうが痛い目にあうことが増えていった。
 最近では、放課後の遊びに、和宏がサッカーを選ぶのは少なくなってきていた。
「今日は、野球、やろうぜ」
 和宏がみんなにむかっていった。
「じゃあ、勇気と太一と、……」
 どんどんチームメンバーを決めていく。
 みんなは、黙っていうことを聞いていた。
 その日も、勇気と和宏は、違うチームになった。どうも和宏は、勇気にライバル心を持っているみたいなのだ。 サッカー以外でも、同じチームになろうとしなかった。
 ゲームは、つねに和宏チームのペースですすんでいく。今日も、いいプレーヤーで固めているのだから、それも当然だ。
「ほらほら、もう一点追加」
 和宏がご機嫌で叫んでいた。
 
 その日の帰り道だった。
「それっ、オフロードだ」
 和宏はいきなりみんなに声をかけると、道をそれていった。七、八台のモトクロス用自転車の一団は、いっせいに和宏の後に続いていく。
 和宏たちは、まだ家の建っていない空き地へつっこんでいった。うしろのほうにいた勇気も、あわててみんなに続こうとした。
 でも、びっしりとはえている雑草に車輪をとられて、すぐにころんでしまった。
 和宏たちはその空き地を一気に横切って、三十センチほど低い隣の区画への段差にむかった。
 先頭の和宏は、段差であざやかにジャンプした。
 でも、続く何人かは、着地でバランスをくずして足をついている。
 勇気も、すぐに自転車を立て直した。
 だが、普通の子ども用自転車を、この草むらの中で走らせることは無理だった。それに、段差でジャンプなんかしたら、車体がこわれてしまうかもしれない。
「キャッホー!」
 和宏たちは、大声で叫びあいながら遠くへ走り去っていく。勇気は、自転車を止めたまま和宏たちをうらめしい気持ちで見送った。
 彼らの姿が見えなくなると、勇気は自転車を押してもとの道路へ引き返していった。そこでは、太一が待っていた。勇気とは違って、みんなについていくことを、初めからあきらめていたのだ。
「カズちゃんたち、行っちゃったね」
 太一は天然パーマの前髪の下に、いつもの気弱な目をしていった。
「……」
 勇気は口を真一文字にむすんだまま、ブスッとしてこたえない。
「たぶん、オグリ公園へ行ったんじゃないかな。一緒に行かない?」
 太一は、勇気のきげんをうかがうようにしていった。彼らがそこへ行ったことは、勇気にも想像がついた。 おそらく、夕暮れまでの時間を、そこで「めちゃぶつけ」か、「悪漢探偵」でもやるのだろう。
 でも、後からのこのこ顔を出すなんて、勇気にはとてもできなかった。
「いいよ、もう」
 勇気はぶっきらぼうにそういうと、自転車にまたがった。そして、グイグイと力を込めてペダルをこぎ始めた。
 勇気は、公園にはよらずにまっすぐ家へ帰った。太一も一緒についてきている。
「ユウちゃん、それじゃあね」
 太一が家の前で手を振っている。
「ああ」
 勇気も、ちょっと手を上げてこたえた。
 家へ帰ってからも、和宏たちにのけ者にされたのがくやしくてたまらなかった。
 和宏がなんでいやがらせをやったのかはわかっていた。野球の試合に負けたはらいせなのだ。勇気の得意なサッカーではなく、野球を選んだのに、今日も和宏のチームは、勇気たちに負けてしまった。チームメンバーも、有力なプレーヤーは、和宏のチームの方が多かった。
 でも、勇気たちは、チームプレーに徹して、7対5で和宏チームを破ったのだった。そのせいで、モトクロス自転車にものをいわせて、勇気と太一をのけ者にしたのだ。和宏は、今までもモトクロス用自転車をさんざんみせびらかしてきた。
 でも、こんなにひどいいやがらせをされたのは初めてだった。
 勇気は、新しい自分の部屋に戻った。
 机の引き出しの上から二番目をあけてみた。そこには、いろいろな自転車のカタログがはいっている。最近、自転車ショップやディスカウントストアをまわって集めていたのだ。
 その中の一枚を取り出した。ページをめくって、モトクロス用自転車のところをあけてみた。レース用の本格的な物から、たんに”モトクロス風”な物まで、さまざまな自転車がならんでいる。
 勇気も、けっして初めから高級なタイプを欲しかったわけではない。いちおうモトクロス用とよべる中で、一番下のタイプでいいのだ。和宏たちだってそのクラスだった。
 でも、そのタイプでも、定価は三万円もした。たとえディスカウントショップの特売で買ったとしても、二万四、五千円はするだろう。それは、勇気のおこずかいの軽く三年分にあたる。
「ふーっ!」
 大きなためいきをついて、勇気はカタログをもとの引き出しに戻した。

 家の前のカーポートには、勇気の自転車にならんで黒いカバーをかぶせた物が置いてある。
 秀樹にいさんの自転車だ。それも、勇気がのどから手がでるほど欲しがっている、モトクロス用自転車なのだ。
 そっとカバーをめくってみた。にいさんの自転車は、鮮やかなスカイブルーにぬられ、白のするどいストライプがはいっている。買ってから一年以上もたっていたが、きちょうめんなにいさんの手で、ピカピカに磨きあげられていた。
 自転車には、いつものようにチェーン式のかぎがしっかりとかけられている。勇気は、がっかりしてカバーをかけなおした。
 前に、無断でこの自転車に乗ったことがあった。
 しかし、それはすぐにばれてしまった。きちんとカバーをかけていなかったからだ。
 にいさんは、強烈なバックブリーカーを勇気にかけた。肩の上にかつぎあげるプロレス技だ。
「ギブ、ギブ」
 勇気はすぐにギブアップして、二度と乗らないことをかたくちかわさせられた。
 翌日、にいさんは、チェーン式のかぎをかってきて、さっさととりつけてしまった。
 かぎは、四ケタの数字の組み合わせでできていた。たっぷりひまのある勇気には、根気よくやりさえすれば、その番号を調べることはできるだろう。
 でも、ばれたときのにいさんの怒りが恐ろしいので、乗ることはあきらめていた。
 しかし、今日は、(自転車を貸して欲しい)と、もう一度にいさんに頼んでみようと思っていた。和宏たちに馬鹿にされるのは、もうこれ以上がまんできない。それに、最近のにいさんは、この自転車にちっとも乗っていないのだ。受験が近いという理由で、にいさんは引っ越してからも前の中学に通っていた。学校までは、バスと電車を乗り継ぐので、一時間近くもかかってしまう。それに、月、水、金には塾へも通っている。土曜や日曜も模擬試験などで忙しいので、自転車どころではなくなっていた。
 その晩も、十時をすぎてから、ようやくにいさんが帰ってきた。塾へは、学校から直接行っている。だから、帰りがこんなに遅くなってしまうのだ。
「お帰りなさい」
 勇気は、わざわざ玄関まで出てにいさんに声をかけた。本日のご機嫌うかがいだ。
「ただいま」
 にいさんが答えた。特に、機嫌がいいわけでもないが、不機嫌ということもない。
(まだわからないぞ)
 勇気は、もう少し様子を見ることにした。
 勇気はテレビを見ながら、にいさんの様子をうかがっていた。にいさんは、すごい勢いで夕食をかきこんでいる。
(どうか、兄貴の機嫌がいいですように!)
 もし、不機嫌なときにこんなお願いをしたら、またプロレスの技をかけられてしまう。
 にいさんは、ごはんを三ばいもおかわりして、ようやく夕食を食べ終えた。
 自転車のことを頼んでみようと、勇気は居間のソファーから立ち上がった。
「ギャオーッ!」
 食後のお茶を飲んでいたにいさんが、いきなり大声でほえた。
「かあさん、また模試の順位がさがっちゃったよ。これじゃ、S高はあぶないってよ」
 にいさんは、カバンから模擬試験の成績表を取り出すと、台所にいたかあさんに手渡した。
「えっ、どうしたのよ」
 あわてて手をふきながら成績表を見ているかあさんを残して、にいさんはさっさと階段を上がっていく。
 さっき突然ほえたのは、かあさんをけん制する作戦のようだ。これから、成績をめぐるふたりの攻防戦の火ぶたがきられるにちがいない。
(今日は、とてもだめだ)
 勇気は、がっかりしてソファーの上に倒れ込んだ。

「ねえっ、やっぱりモトクロス用自転車、買ってよ」
 翌日、庭で洗濯物を取り込んでいるかあさんに、またねだってみた。
「だめだめ。自転車なら、もう持ってるじゃない」
 かあさんは、ふりかえりもせずにこたえた。
「あれじゃ、だめなんだよ。モトクロスのでなきゃ」
「なに、ぜいたくなこといってるの。あれだって、まだ乗れるわよ」
 この一ケ月間、毎日のように同じやりとりが繰り返されている。
「でも、とうさんは、次の誕生日にスポーツタイプのを買ってくれるって、いってたよ。その代わりに、モトクロスにしてよ」
 今日は、一段とねばりづよくねだってみた。和宏たちに「おきざり」にされたのが、けっこうこたえていたのだ。
「誕生日ったって、まだ三カ月以上も先じゃない」
 かあさんは、洗濯物をてばやくたたみながらこたえた。
「そこんとこを、なんとか」
 勇気は、手を合わせておがんでみせた。
 でも、かあさんは、ぜんぜん相手にしてくれなかった。

 ガチーン。
 勇気の自転車の前輪に、和宏の自転車が体当たりをくらわせた。
「わーっ!」
 勇気の自転車は、完全に横倒しになってしまった。それに引き換え、和宏の方はちょっとバランスをくずしただけだ。すぐに体勢を取り直すと、右足で強烈なシュートをはなった。
 バーン。
 ボールは、ゴールにしているベンチのどまんなかにみごとに命中した。
「ナイスシュート」
 哲也が、すかさずうしろからさけんだ。
「やったあ!」
 和宏は、得意そうに片手をあげながら、自転車をこいで味方の方へ戻っていく。これで、和宏チームが3対1でリードだ。
 勇気は立ち上がって、自転車をおこした。ズボンの左側は、べっとりと土がついている。
 勇気は、ズボンの汚れをパンパンとはたいた。
 このごろ、和宏のグループでは、自転車にのったままサッカーをやる遊びがはやっている。
 初めにやろうといいだしたのは、例によって和宏だった。
 みんなは、このゲームを「サイクルサッカー」ってよんでいる。
 でも、ヨーロッパなどで行われている本物の「サイクルサッカー」とは、ぜんぜん違う。ゲーム中に地面に足をつけてもいいし、ボールは車輪ではなく足でけっている。
 本物の「サイクルサッカー」は足を着いたら反則出し、ボールを足でけったりしてもだめだ。自由のきく前輪を使って、パスを出したり、豪快なシュートを放ったりするゲームだった。こんな離れ技は、さすがの和宏も無理だった。
 「サイクルサッカー」では、勇気は和宏にまったく歯がたたなかった。ダッシュのスピード、ターンのするどさ、バランスのよさ。どれをとっても、子ども用自転車ではモトクロス用にはかなわない。こんなハンデキャップがあっては、さすがの勇気も活躍はできなかった。久しぶりに、和宏はワンマンゲームの満足感を味わっているようだ。
 「サイクルサッカー」を考えだしたのも、勇気を完全に屈服させるためだったのかもしれない。もとの百パーセントワンマンなボスの座を回復させる和宏のねらいは、今のところうまくいっていた。勇気は、「サイクルサッカー」をやるたびに、つよい屈辱感をあじあわさせられていた。
 しかし、いくらやっつけられても、勇気は弱音をはかなかった。子ども用の自転車を精いっぱい駆使して、けんめいにみんなにくいさがっていた。どうしても屈服しない勇気には、和宏もほとほと手を焼いているようだった。

 その日の帰りだった。
「それ!」
 和宏は、また例の空き地へつっこんでいった。すぐにみんなも続いていく。
和宏は、得意そうに、わざと草の多い所を選んで走っている。みんなも負けずに、難しいコースに自転車を走らせていた。
「ジャーンプ!」
 和宏が、真っ先にとなりの区画へジャンプしていった。他のメンバーも後に続く。今では、全員が、みごとにジャンプできるようになっている。
 ここのところ毎日、勇気は「サイクルサッカー」で痛めつけられ、とどめにこの置いてきぼりをくわされていた。
「ジャーンプ!」
 和宏たちは、大声で叫びながら、どんどん遠ざかっていく。空き地の段差を選んで、次々にジャンプしていくのだ。
 勇気は、前のようにみんなの後を追おうとはしなかった。自分の自転車では、ついていくのが無理なことは、いやというほどわかっていたからだ。そして、太一と一緒に、なにごともなかったかのような顔をして、また自転車をこぎだすよりしかたがなかった。
 勇気たちは、学校前の坂道をゆっくりのぼっていった。ペダルがすごく重くて、立ちこぎをしてもなかなか前へ進まない。
 二人のすぐ横を、黒い排気ガスをまきちらしながらバスが通り過ぎていった。バスものぼり坂なので、ゆっくりにしか進めない。
 坂道をのぼりきった学校の向こう側が、終点の折り返し場になっている。バスはようやくそこまでたどり着くと、大きくターンした。
 勇気たちが停留所までくると、バスから秀樹にいさんがおりてきた。
 でも、勇気はにいさんを無視して、さっさと通り過ぎていこうとした。
「こんにちは」
 太一が、勇気の代わりにあいさつをしている。
「おい、ユウ、どうしたんだ。おまえたち、仲間はずれにされてるのか?」
 にいさんはからかうような調子で、うしろから勇気に声をかけてきた。どうやら空き地で置いてきぼりをくったところを、見られてしまったらしい。
 ここからは平坦なので、勇気は黙ったままどんどんスピードをあげていった。太一も、あわててその後をついていく。
そんな二人のうしろ姿を、にいさんはおもしろそうにながめていた。

ジャンプ!
クリエーター情報なし
平野 厚
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インディⅡ号の栄光(2)

2016-11-06 08:28:15 | 作品
 ボートレースを考え出した本人のくせに、隆志の成績はその後もさえなかった。
 オオタニ号に代わって水曜日に登場したドラゴン号は、予選こそは二位とがんばったが、準々決勝では大きく引き離されてドンジリ負け。
 金曜日、ふたたび登場したドラゴン号は、予選でまたもビリになって隆志に見捨てられ、ゴールの後ろにある溝の作る渦の中に巻き込まれていった。
 隆志の総合成績は、三日間合計でわずか五点だけだ。
 隆志に限らず、不成績に終わったボートたちは、ゴールインしても持ち主が拾い上げてくれないので、そのまま渦の中に消えていった。そして、次のレース日には、たくさんの初登場のボートが出場してくるのだ。
 それぞれのボートには、思い思いのかっこいい名前がつけられていた。
「グレートジャイアンツ号」
「セイントクロス号」
「サンダーボルト号」
「ロイヤルキング一世号」
 マンガやゲームの主人公や、プロ野球のスター選手の名前も多い。
 やがて、健一を初めとした地元の子供たちは、塾のない日にもボートレースをやるようになった。
 でも、さすがに参加者が少なかったので、健一は、月水金以外の日のレースを、公式戦とは認定しなかった。
 それを聞いて、隆志はホッとしていた。いくらなんでも、塾のない日にまでレース場へいくのは、無理だったからだ。
 しかし、塾がなくてボートレースのできない日には、隆志はなんだか物足りないものを感じるようになっていた。
 放課後、弘たちとサッカーをやっていても、頭の片隅にはボートレースのことがひっかかっている。同じころ、非公式とはいえ、ボートレースをやれる健一たちがうらやましかった。
 そんな時には、サッカーのゲームにもミスが目立った。
「タカちゃん、どうしたんだよ」
 隆志のクリアミスで敵に連続得点されたので、さすがに弘も怒っていた。
「ごめん、ごめん」
「最近、調子悪いぜ。勉強のやりすぎじゃないの」
「そんなことないけどさあ」
「よし。それじゃ、ファイト出していこう」
 結局、その日は、隆志や弘の入っていたチームは、十八対十三と大敗してしまった。弘たちは塾があるので、今日も、ゲームは早めに打ち切られた。
 月水金のサッカーに加わらなくなってからも、隆志と弘たち同級生の中はあまり変わっていなかった。昼休みや火木土の放課後には、隆志も今まで通りサッカーに参加している。月水金のゲームの最終結果は、翌日、弘が詳しく教えてくれた。
 青木くんたちに見抜かれた嘘は、幸い隆志たちのクラスには伝わっていなかったようだ。
 しかし、もしかすると、そのうわさを弘が打ち消してくれていたのかもしれない。 その後も、青木くんは、隆志とすれ違うたびに、「ガリベン」とか、「ウソツキ」とささやいたり、隆志の顔をにらみつけたりしていた。隆志がそのたびにいやそうな顔をするので、ますます面白がってやっているようだ。
 隆志は、弘がすすめてくれたように、青木くんと対決する気にはなれなかった。取っ組み合いそのものよりも、それをきっかけとして、隆志の嘘が弘たちに知られてしまうことの方を恐れていたのだ。
 ところが、ボートレースをやるようになってからは、青木くんのいやがらせがあまり気にならなくなってきた。隆志が相手にしなくなると、青木くんも張り合いをなくしたのか、しだいにいやがらせをやらないようになっていった。

 日曜日の夜、隆志は、自分の部屋で、マッチ棒を何本もすっては、速そうにみえるものをえらんでいた。
 マッチ棒は、そのまま使うより、燃やして頭を落とした方が速くなることは、次第にみんなの間に広まっていた。
 なかなか気にいったものができない。灰皿には、もう二十本以上もマッチ棒がたまっていた。
「タカちゃん」
 ドアをいきなり開けて、ママが部屋に入ってきた。
「アチチッ」
 急に振り向いたはずみに、マッチの炎が手に触れてしまった。隆志は、あわててマッチ棒を振り落とした。
「何やってんの。勉強してるのかと思ったら、火遊びなんかして」
「いや、ちょっと。明日、算数でマッチ棒を使うんだ」
 隆志は、あわててごまかそうとした。
「何言ってんの。それならすらなくてもいいじゃない。他の物でやりなさいよ」
「うん」
 灰皿とマッチ棒は、ママに持っていかれてしまった。
 ふと気がつくと、最後の一本だけが机の上に落ちていた。急に消したためか、焦げ目が斜めに入って、すごく速そうに見える。
 よし、こいつでいこう。
 名前もとっさに閃いた。
 インディーⅡ号。これだ。

 月曜日のレース前に、下山君が先週までの総合成績をみんなに発表した。
「今までのところ、一位は坂口くん。得点は二十点。ボートは三日ともホクト1号です」
「やっぱし!」
 何人かが、同時に叫んだ。彼のホクト1号は、月曜日の優勝の後も金曜日に決勝で三位になるなど大活躍だった。今日の坂口くんは、両手を組んで頭の上で振りながら、みんなの拍手を余裕を持って受けていた。
 「第二位は、田代くん。十八点。ボートは、これも三日ともクラッシュ号」
 下山君が続けて発表した。
「えーっ!」
「本当?」
 二位はまったく意外だった。田代くんのクラッシュ号は、三日とも決勝戦にも出ていなかったからだ。
「間違いありません。面白いことに、クラッシュ号は三日とも準決勝三着なんだ。だから、六点かける三回で十八点。やっぱり、総合成績は安定性ですよ」
 自分の予言が当たったせいか、下山くんは自慢そうな顔をしていた。
 三位以下は、一点きざみに何人もが並ぶ大接戦。隆志は、他の二人とともに、参加三十一名中二十九位。つまり最下位だった。
 最多勝争いは、坂口くんと三谷くんが、四勝ずつをあげてトップを分け合っている。
 全四十五レース中の最高タイムは、大島くんのタイガー1号が、水曜日の準決勝第二レースで出した二分一秒一七四だった。水量が多かったせいか、水曜日のレースは全般的にタイムが良かった。

 インディーⅡ号のデビュー戦、予選第六組のスタートが近づいてきた。隆志は、緊張しながら流れに指をつけている。
 三谷くんのスタートフラッグが振られた。四本のマッチ棒、いや四そうの高速ボートが、いっせいにスタートをきった。
 インディーⅡ号は、少しで遅れてしまった。
 でも、すぐに流れに乗ると、他のボートを追い抜いてたちまち先頭に立った。 焦げたへさきをきちんと前に向けて、さっそうと水をかいくぐっていく。難所のよどみもなんなく切り抜け、他の三そうを大きく引き離して、ゴールでまつ隆志の手の中に飛び込んだ。
 健一のチェッカーフラッグが、激しく振られている。健一は、F1レースのゴールインの時のようなかっこいいフラッグの振り方を、いつのまにかマスターしていた。
「速い! 歴代三位の好記録だ」
 計時委員の小林くんが、すっとんきょうな声をあげた。隆志は、自分の顔が興奮で赤くなっているのに初めて気づいた。
 その後、インディーⅡ号は、準々決勝二位、準決勝一位で、見事に決勝進出を果たした。
 いよいよ決勝戦。
 さすがに、レースのうまい選手が揃っている。他の三人がやったフライングすれすれのスタートで、インディーⅡ号は、完全に後れを取ってしまった。そして、懸命の追い込みもむなしく、健一のキャッツアイ号、三島くんのアイドルスター号に及ばず、三位に破れてしまった。
「バンザーイ」
 念願の初優勝を果たした健一は、左手にキャッツアイ号、右手にトロフィーを掲げて、意気揚々とみんなの拍手を受けていた。
 優勝こそ逃したものの、インディーⅡ号の期待にたがわぬ力走に、隆志はすっかり満足していた。今日だって、自分のスタートさえ良ければ優勝していたのかもしれなかったのだ。

 その週の水曜日は、あいにく天気が悪く、一日中冷たい小雨が降っていた。
 しかし、こんな日にも関わらず、三十一名全員がボートレースに顔を揃えていた。みんなは、傘をさしながら熱心にレースを続けた。
 インディーⅡ号は、予選、準々決勝を、ともに一位で突破していた。
 準決勝の第二レース。インディーⅡ号は、スタートから二位につけている。隆志には、インディーⅡ号の実力からいって、二日連続の決勝戦進出は確実なように思えた。
 しかし、例のよどみの所に、とんでもない落とし穴が待ち受けていた。先頭を行く竹野くんのシリウス号が、敷石のでこぼこに引っ掛かって、真横になって止まってしまったのだ。すぐ後ろに続いていたインディーⅡ号は、シリウス号にもろにぶつかった。二そうは、T字形にくっついたままになってしまった。
 後から来たバイキング二世号とアラウマ号は、二そうの横をうまくすり抜けていった。
 インディーⅡ号がようやくシリウス号と離れた時には、先を行く二そうに二メートル以上の大差をつけられていた。そこからゴールまでは、もう二十メートルしかない。
 しかし、隆志の必死の声援をうけたインディーⅡ号は、ここから記録的な追い込みを見せ始めた。
 二位のバイキング二世号との差は、みるみるつまっていく。
 インディーⅡ号が、バイキング二世号を完全にとらえた所が、ちょうどゴール地点だった。
(やったあ。大逆転だ!)
 隆志は、思わず大声で叫びそうになった。
 でも、みんなの意見は、まっぷたつに分かれていた。
「バイキングだろう」
「いや、インディーⅡ号じゃないか」
 みんなの目は、結果を判定する健一にそそがれている。健一は、しばらく黙っていたが、ようやく結果を発表し始めた。
「一着アラウマ号。二着は大接戦、写真判定に持ち込まれました」
「おい、もったいぶるなよ」
 誰かがやじった。
「写真判定の結果を発表します。二着は……」
 健一は、ここでわざと言葉を切って、みんなの顔を見まわした。
「バイキング二世号です」
「やったあ」
 バイキング二世号の内村くんは、傘を上へ放り投げて飛び上がった。
「三着のインディーⅡ号との着差は、八分の一艇身でした」
 健一が続けて発表した。
「そんな馬鹿な!」
 隆志は、思わず大声で叫んでしまっていた。八分の一艇身といえば、たった五ミリだ。そんな細かい差までわかるはずがない。
「なんだい、大谷くん。文句言うなよ」
 健一は、落ち着き払って隆志に答えた。
「判定がおかしいよ」
「じゃあ、インディーⅡ号が勝ったっていうのか?」
「うん」
 隆志の声が、少し小さくなった。自分では勝ったように見えたが、ひいき目かもしれない。自信がなかった。
 でも、悪くとも同着だったようには思える。今までにも、同着という判定があったはずだ。
「もしかすると、同着かもしれない」
 隆志は健一に言った。
「判定にしたがえよ。」
 誰かが後ろから怒鳴った。
「そうだよ」
「遊びなんだからさ」
「あんまりむきになるなよ」
 さいごに、ダメを押すように健一が言った。
「大谷くん、判定に従ってよ。みんながぼくの判定に従う約束だろ」
 そう言われては、隆志も引き下がるより仕方がなかった。

 隆志は、インディーⅡ号が優勝できないのは、自分のせいだと思っていた。自分が指を離すタイミングが悪いので、いつもスタートで遅れてしまう。ボートレースでは、後ろから行くのはすごく不利なのだ。他のボートにぶつかって横へそれたり、今日のように前を塞がれてしまうなど、どうしてもアクシデントに巻き込まれやすい。
 その晩、隆志は、家の風呂場でスタート練習を繰り返していた。蛇口から出しっぱなしの水で作った流れを利用して、スムーズにスタートできるように練習する。もちろん、インディーⅡ号をなくさないように、他のマッチ棒を使っていた。
「タカちゃん、いつまで入ってるの?」
 あまりに出るのが遅いのを心配したママが様子を見に来た時には、裸で洗い場に立ちっぱなしだった隆志の体はすっかり冷え切っていた。

 金曜日のレースでは、インディーⅡ号は予想外に苦戦の連続だった。隆志がスタートに注意すればするほど、かえって手がこわばってで遅れてしまう。予選も準々決勝も、スタートで四番手になってしまい、インディーⅡ号独特のすばらしい追い込みで、からくも二位を確保していた。
「選手が大谷くんじゃ、インディーⅡ号がかわいそうだなあ」
 準決勝の時、口の悪いスタート委員の三谷くんにからかわれた。
「ほんと、ほんと。他の人なら優勝しちゃうかもね」
「恐い顔して、スタートしてるからだよ」
 みんなからも口々に言われて、隆志は思わず苦笑いをしてしまった。
 笑ってリラックスできたおかげか、準決勝のスタートはまずまずで、すぐに二番手につけられた。こうなればしめたもので、インディーⅡ号は、先頭のキンニクマンジュニア号をゴール手前十メートルの所でかわして、楽々一位になった。二度目の決勝進出だ。
 十二月に入ると、決勝戦のころはあたりはもう真っ暗だった。街灯の光が水の流れにキラキラと反射して、レースの興奮がますます高まってくる。
 その日の決勝レースの出走ボートは、強豪ぞろいだった。インディーⅡ号以外の三そうは、いずれも優勝か準優勝を経験している。
 特に、坂口くんのホクト1号は、水曜日に二度目の優勝を果たしていた。このレースには、史上初の二連覇がかかっている。
「用意、……スタート」
 決勝戦にふさわしく、横一線の好スタートだった。どれが先頭ともいえない。
 インディーⅡ号は、最初のうねりで左右から挟まれて、ちょっと後退した。
 しかし、差はわずかだ。
 四そうは、抜きつ抜かれつの好レースを演じていた。浅瀬やよどみのたびに、順位がめまぐるしく入れ替わる。
 五十メートルすぎの例の大きなよどみで、ようやくホクト1号が二艇身ほど抜けだした。
 インディーⅡ号は二番手。
「それいけインディー」
「ゴー、ホクト」
「がんばれ」
 みんなは、熱狂して応援している。隆志も、声を振りしぼってインディーⅡ号に声援をおくった。
 インディーⅡ号は、必死にホクト1号の後を追っている。
しかし、なかなか差がつまらない。
 ゴールまで、あと十メートル。あと五メートル。
 だめか。
 ところが、最後にきて、隆志の念力が通じたかのように、インディーⅡ号がぐいぐい追い込んできた。
 ゴールイン。
「一着、インディーⅡ号」
 チェッカーフラッグを大きく振りながら、健一が叫んだ。
 二着のホクト1号とは、わずか二分の一艇身差だった。
「一分五十九秒九四三、世界新記録」
 小林くんも、続けて叫んだ。
「やったね、タカちゃん。おめでとう」
 健一が、隆志を初めて名前で呼んでくれた。みんなも、次々と祝福の声を隆志にかけてきた。
 待ちに待ったボートレースの優勝と、やっとみんなの仲間になれたこととの二重の喜びで、隆志の体はふくれあがった。

「タカちゃん。一緒に帰ろうぜ」
 その日の帰りに、健一から声をかけられて、隆志はびっくりした。
 英明学院は、隆志の利用している私鉄の駅から、歩いて十五分以上も離れている。遠くから通っている生徒たちは、ほとんどが塾のそばに駅のある地下鉄を利用していた。私鉄で通っている者は、隆志の他にはほとんどいない。
「でも、鶴田くん。きみんちは逆方向じゃないの?」
「大丈夫だよ、途中の公園通りまでなら。そこから通りぞいに帰れば、たいして変わらないよ」
 しかし、本当はその道順では、三角形の二辺を通るようなもので、そうとう遠回りになるはずだ。
「本当? そりゃ、鶴田くんと帰れるのは、うれしいけどさあ」
「鶴田くんはよせよ。ケンちゃんでいいよ。じゃあ行こうか」
 公園通りから先は、にぎやかな商店街が駅まで続いている。
 でも、そこに着くまでは、十分近くも、暗くて寒い道を通らなければならない。
 いつもは、あと百メートル、あと五十メートルと数えながら、一刻も早く公園通りに着こうと、速足で歩いていた。
 ところが、今日は一変して、その道を歩くことも楽しいった。健一は、隆志とインディーⅡ号の優勝を、繰り返したたえてくれた。
「すごい。本当にすごいや。インディーⅡ号は、今までで最高だな」
「うん。でも、坂口くんのホクト1号もすごいよ」
「あんなの、めじゃないよ」
「ケンちゃんのキャッツアイ号は?」
「ありゃだめ。今日の予選でドンケツになっちゃったよ。もうお払い箱だな」
 隆志と健一とは、ボートレース以外にも、けっこう話があった。特に、サッカーは、同じくらい熱中していたのだ。二人とも、サッカー専門誌の愛読者だったし、Jリーグや日本代表の試合だけでなく、イングランドやスペインのリーグの試合まで、テレビで熱心に見ていた。いままで、こういった話のできる友だちは、隆志のまわりにはいなかった。弘もサッカーはうまいけど、こうした情報には詳しくない。
「ワールドカップの決勝戦、見た?」
 健一が、隆志にたずねた。
「うん。ビデオでとっておいたから。最高だったね」
「ビデオ? だめだめ。タカちゃん、中継で見なきゃ」
「えーっ。でも夜中だったろ。とても起きていられなかったよ」
「おれは見たよ。八時に寝てさ。始まる時に、とうさんに起こしてもらったんだ」
「次の日、眠たくなかった?」
「うん。授業中、目を開けているのに必死だったな」
「決勝点のシュートがすごかったね」
 隆志は、試合の様子を思い出しながら言った。
「タカちゃん、よく知ってるじゃない」
 健一は、同感とばかりに、すごくうれしそうな顔をしていた。
 いつもはすごく長く感じるのに、今日はあっという間に、公園通りの横断歩道まで着いてしまった。ここの信号は押しボタン式なので、普段の隆志ならすぐにボタンを押すところだ。
 でも、今日はボタンを押さずに、健一とおしゃべりを続けていた。
 後からやってきた男の人が、ボタンを押した。
 信号は、すぐに青に変わった。それでも、隆志はなかなか渡りださなかった。
 青信号が、点滅を始めた。
「じゃあ。ケンちゃん、バーイ」
 ようやく隆志が走り出すと、健一も一緒になって横断歩道を渡ってきてしまった。
「どうしたの?」
「もう一回信号が青になるまで話そうぜ」
 健一は、そういってニコッと笑った。
 次の月曜日から、健一と隆志は、教室で隣同士に座るようになった。もちろん、帰りも公園通りの信号まで一緒だ。
 道端に、コーラの空き缶が落ちていた。
 健一は、それをきちんと立てなおすと、中学生のようにたくましい体を躍動させて、豪快にフリーキックをした。缶は、大きく弧を描いて、遠くまで飛んでいった。
 隆志も、空き缶をボールの代わりにして、ドリブルシュートをやってみた。缶は、見事に電柱に当たった。隆志は、プロサッカー選手のような派手なガッツポーズをまねして見せた。
 例の公園通りの信号で、健一は、当然のような顔をして、通りの反対側まで隆志を送っていった。
 その日、二人は、横断歩道を行ったり来たり三往復もしたので、家へ帰るのがいつもより二十分も遅くなってしまった。

 次の日、放課後のサッカーが終わった時、隆志は弘に呼び止められた。
「タカちゃん。今年のクリスマス会は、二十二日になったんだ。田村先生が、タカちゃんにも良かったら来ないかって、言ってくれって」
 田村学習塾では、毎年、冬休みに入る直前に、クリスマス会が盛大に開かれている。
「そうかあ。でも、二十二日っていったら、月曜日だろ。塾があるからなあ」
 隆志は、頭の中でカレンダーを思い浮かべながら答えた。
「一日くらい、休めない」
「うーん。困ったなあ」
 もちろん、塾だけだったら、一日ぐらいは休んだって構わない。もっとも、ママを説得するのは、かなり大変だけど。
 でも、そうすると、ボートレースの総合成績に、大きく響いてしまうのだ。隆志は、インディーⅡ号やボートレースのことを、弘に説明しようかと思った。
「ねえ、こいよ。ゲームやかくし芸大会をやるんだぜ」
 弘は、隆志の肩を叩いて、さらに誘ってくれた。
 しかし、隆志は、ついに思い切ったように答えていた。
「残念だけど、二十二日は行かれないな」
「そうかあ。最近、付き合いが悪いなあ」
 弘は、さすがにちょっと怒ったようだった。
「ごめん、ヒロちゃん。今度はきっと行くから、また誘ってよ」
「そうだな。まあ、仕方ないな」
 そう言いながらも、弘はまだがっかりしていた。
 この週も、インディーⅡ号は順調に勝ち続けた。
 月曜日こそ準優勝に終わったものの、水曜日と金曜日にはボートレース史上初めての二連覇を達成し、通算でも優勝三回でホクト1号の成績を抜いていた。
 三週目を終了した段階で、隆志の総合得点は五十八点。二位の坂口くんに十八点もの大差をつけて、独走体制にはいっている。
 隆志は、他の部門でもダントツの好成績で、三冠レースすべてのトップに立っていた。
 最多勝利部門では十二勝をあげて、二位の三谷くんの八勝を大きく引き離している。
 レースの最高タイムも、あれから三度更新して、一分五十八秒三六三まで縮めていた。
 こうしたインディーⅡ号のすばらしい成績は、几帳面な記録委員の下山くんによって、みんなに詳しくレポートされていた。
 こうして、インディーⅡ号と大谷隆志は、英明学院五年クラスのスーパースターになっていった。

 金曜日の二時間目、理科の授業中だった。隆志が画面に向かって問題に取り組んでいると、健一がそっとひじをつついた。
「タカちゃん、今日で何点になった?」
「何点って?」
「ボートレースの総合成績だよ」
「ああ。たしか五十八点だよ」
「すごいな。だんぜんトップだね」
「うん」
「この調子だと、トロフィーの永久保持ができるぜ」
 健一は、うらやましそうに言った。
「永久保持か」
 隆志は、小さな声でつぶやいた。隆志には、ボートレースの小さなトロフィーに、サッカーのワールドカップにも負けないぐらいの値打ちがあるように思われた。しかも、隆志は、新しく用意される他の二つのトロフィーも、獲得できるかもしれないのだ。
「タカちゃん。三冠、独り占めにするなよ」
 健一が、ちょっとからかうように言った。
「無理だよ」
 隆志はすぐに堪えた。
「謙遜するなよ」
「本当だよ。特に、タイムは一発で決まっちゃうからね。最後まで分かんないよ」
「そうだな。おれも一発、タイムでもねらうかな」
 健一もうなずいた。
「しーっ」
 いつまでも終わらない、二人のおしゃべりにしびれを切らした、後ろの席の女の子に注意されてしまった。

 一日のレースが終わると、隆志は、インディーⅡ号をきれいに拭いて、水気を十分に取ってやった。そして、ティッシュペーパーでていねいにくるんでから、マッチ箱の中に大事にしまっている。
 隆志には、この五センチたらずのマッチ棒が、一千万円、いや一億円もの値打ちがある物のようにさえ思えた。
 インディーⅡ号に比べれば、今まで命の次に大事だと思っていたサッカー選手のサインやゲーム機も、すっかりかすんでいた。
 子どもたちのボートの手入れは、次第に手が込んできていた。やすりで先端を尖らせる(ま四角の部分が三センチ以上あれば、ルール上OKだ)。サラダオイルをしみこませる。ラッカーで色をぬる。
 しかし、隆志だけは、インディーⅡ号に少しも手を加えなかった。インディーⅡ号は、そのままでも十分に魅力的に思えたからだ。
 全長四センチ六ミリ。最初は真っ白だったボディは、今では薄いきつね色に変っていた。斜めに五ミリほど、黒い焦げ目が付いている。
 他の人から見れば、何の変哲もないマッチ棒の燃えカスだが、隆志の目には、稲妻のように波を切り裂く最新鋭の高速ボートに見えていた。

 その日の帰りに、健一は、隆志と二人きりになると、待ちかねていたかのように話し始めた。
「タカちゃん。サッカーのチケットがあるんだけど、一緒に行かないか?」
「いつ?」
「あさっての日曜日さ」
「じゃあ、アルゼンチン日本の試合なの?」
「そうだよ」
「本当? すごーい」
「じゃあ、行くかい?」
「もちろん」
 それから二人は、アルゼンチンのサッカーについて話し込んだ。
「なんてったって、南米のテクニックは最高だよ」
 南米サッカーびいきの隆志は、自分のことのように誇らしげに言った。
「うん」
 健一も、それには素直に同意した。
「次のワールドカップでも、ブラジルかアルゼンチンが絶対優勝するよ」
「そう簡単には、いかないんじゃない。」
 これには、ヨーロッパサッカーのファンである健一は、反論した。
「どうしてさ」
「だって、次のワールドカップは、ヨーロッパでやるんだろ。ヨーロッパで開かれた大会では、たいがいヨーロッパのチームが優勝してるんだぜ」

 日曜日のサッカーの試合は、本当に最高だった。席はゴール裏で、しかも広い国立競技場の一番てっぺんの方だったけれど、隆志と健一は、夢中で声援を送った。
 日本チームももちろん応援したけれど、それ以上に、アルゼンチンのスーパースターたちの、華麗なテクニックに引き付けられた。
 二人の興奮は、帰りの電車の中まで続いていた。
「あーあ、Jリーグの選手になれたらなあ」
 健一は、ドアのガラスをこぶしで叩きながら、ため息交じりにつぶやいた。
「プロ選手になるつもりなの?」
「ああ」
「案外幼稚だなあ」
「まあ、いいじゃん」
 隆志にからかわれても、健一は、なかば本気で、サッカーのプロ選手になる夢について話していた。
「中学生になったら、サッカー部に入るよ。タカちゃんは?」
「わかんないな。入るかもしれないけど? ケンちゃんと違って、あんまりうまくないからなあ」
「タカちゃんは、開成中か? それとも筑波大付属を受けるのか?」
「ケンちゃんは?」
「おれは暁星中をうけるさ。あそこは勉強もまあまあだし、サッカーも強いからな」
「ぼくは、たぶん筑波大付属を受けさせられるだろうな。にいさんがそうだから」
「すごいな。でも、行きたくないんだったら、暁星にしないか。一緒にサッカーをやろうぜ」
 隆志には、健一の押しつけがましい友情がうれしかった。もちろん、そんなことを、ママが許してくれるはずはないと思っていたけれど。そして、この友だちを与えてくれたインディーⅡ号とボートレースに、心の中で感謝していた。

 ボートレースは、突然その終わりを迎えた。隆志たちのボートレース場、あの水の流れがなくなってしまったのだ。十二月十五日、月曜日のことだった。
 後には、水のあった部分が少し湿ったままの、敷石とコケだけが残っていた。水の出ていたパイプはなくなり、パイプが突出していた穴は、新しいセメントで埋められていた。
 次々に集まってきた英明学院五年クラスのボートレース仲間は、この突然の大事件について話しあった。
「誰か、どうしたのか知ってるか?」
「わかんないな」
「いつ水が止まっちゃったのかなあ」
「土曜か日曜に来たのはいないのか?」
「土曜日にボートレースをやりに来たけど、その時はいつものように流れていたよ」
「日曜の午前中にこの道を通ったけど、流れてたと思ったけどな」
 みんなの話をまとめると、どうも日曜日までは水は流れていたようだ。どうやら今日の午前中に止められてしまったらしい。
 授業中も、クラス全体が落ち着きがなかった。なにしろクラスの四分の一は、ボートレースのメンバーなのだ。あちこちで、ひそひそ話が続いていた。
 おかげで、算数担当の梅木先生も、社会担当の小林先生も、みんなに注意したり罰を与えたりするのに、大忙しだった。
「今日帰ったら、塾の近所に住んでいる友達に、電話してみるよ」
 隆志の肘をつついて、健一が隣の席からささやいた。
「うん。もう水は出ないのかなあ?」
「そうだな。穴が完全にふさがれてしまったから、難しいかもしれないな」
 隆志には、あっさりとそう言う健一の態度が、少し物足りなかった。
 隆志は、机の下で、インディーⅡ号をそっと箱から出してみた。今日、活躍できなかったインディーⅡ号は、いつもよりもすこし小さく感じられた。

 水曜日に隆志が塾へ行くと、すべての事情が明らかになっていた。健一が電話した友だちのおとうさんは、このあたりの町内会の役員なので、いきさつを詳しく知っていたからだ。
 今回の工事は、やはり大学の新しいボイラー設備のためのものだった。そのボイラー用の下水工事が終わるまで、あのパイプから冷却水を流していたのだ。そして、とうとう月曜日に工事が終わり、水がストップしたのだ。もう二度と、水が流される可能性はなかった。
 事情が明らかになると、みんなは、すぐにもとの遊びに戻っていった。隆志も、健一に誘われて、かれらのサッカーに加わってみた。
 しかし、遅れて途中から参加するせいか、今一つ熱中できなかった。
 一週間もたつと、ボートレースのことを話す者は、もう誰もいなくなっていた。公式レースが始まってから、たった三週間の短い命だった。
 しかし、隆志だけは、ボートレースのことがなかなか忘れられなかった。
 塾に来るたびに、あの流れのあったところへ、つい目がいってしまう。もう敷石もすっかり乾いて、こけもどこかへいってしまった。あのころはあんなにきれいに整備されていたのに、今ではところどころに空き缶やゴミが落ちていた。
 ボートレースのトロフィーは、今でも隆志の部屋に置いてあった。ボートレース事態がなくなってしまったので、最後の優勝者である隆志が、そのまま持っていたのだ。
 トロフィーについている、九本の小さな赤いリボンのうち三本には、隆志の名前が書いてある。
『第六回 英明学院ボートレース 優勝
     インディーⅡ号   大谷隆志』
『第八回 英明学院ボートレース 優勝
     インディーⅡ号   大谷隆志』
『第九回 英明学院ボートレース 優勝
     インディーⅡ号   大谷隆志』
 ママが机の上に飾ってくれていた学力テスト第二位の盾は、とっくに引き出しの中に放り込んであった。
 帰り道での健一との会話にも、ボートレースのことはでなくなった。健一は、ボートレースなどすっかり忘れて、相変わらずサッカーに熱中している。
 その日の自分たちの試合、Jリーグや外国リーグについて、健一は身ぶり手ぶりをいれて熱心に話してくれる。隆志は、次第に聞き役専門になっていた。
「ねえ。インディーⅡ号なんだけどさ」
 ある日、隆志は、久しぶりにボートレースの話を持ちだした。
「えっ? ああ、あのマッチ棒のか」
「うん」
「まだ持ってるのか?」
「えっ?」
 隆志は、インディーⅡ号を捨ててしまうなんて、まったく考えたこともなかった。
「信じられない奴だなあ。ところで、先週のプレミアリーグの試合を、見たかい?」
 公園通りの横断歩道に着くと、健一はすぐにボタンを押した。
「ちょっと、今日急ぐから」
「そう」
 信号が青になると、健一はすぐに行ってしまった。

 田村学習塾のクリスマス会の当日、隆志は思い切って弘に頼んでみた。
「ヒロちゃん。今日のクリスマス会に、参加したらだめかなあ?」
「えっ! タカちゃん、来られるの? うん、大丈夫。絶対大丈夫だよ」
 弘は、ちょっと驚いたようだったが、すぐに嬉しそうに答えた。
「そうかあ? 自分でも、ちょっとずうずうしすぎると、思うんだけど」
「そんなことないよ。田村先生もきっと喜ぶよ」
「そうだといいんだけど」
「よし。じゃあ、おれ、これから先生に話してきてやるよ」
 弘は、もうすっかり張り切っている。
「うん、頼むよ」
「去年と同じで五時からだけど、塾はいいのか?」
「うん、大丈夫」
「おばさんには話してあるの?」
 弘が、少し心配そうにいった。
 隆志は、ちょっとためらってから、正直に言った。
「いや。どうせだめだって言われるだけだから、黙っていくよ。」
「OK。秘密にしておこうぜ」
 弘は、ますます面白くなってきたとばかりににやりと笑った。
 クリスマス会に出たことは、どうせ山本くんあたりからママにばれてしまうだろう。
 でも、その時はその時だと、隆志は開き直った気分になっていた。
 いつものように三時十分に、隆志は駅でママと待ち合わせた。ランドセルを渡し、食べ物(今日は、隆志の好きなカレーパンと、ママ特製のサラミと野菜のピザだった)を受け取った。
 ホームへの階段の所で、例によって改札口の外で手を振っているママに、隆志はちょっと手を上げて合図を送った。さすがにこの時だけは、ママに対して少し後ろめたかった。
 隆志は、ホームで電車を三本やり過ごしてから、再び改札口を出た。
  クリスマス会が始まるまで、まだ一時間以上ある。隆志は、それまでの時間を、クリスマス会で交換するプレゼントを選びながら、つぶすことにした。
 プレゼント交換は、クリスマス会のクライマックスだ。金額が二百円以内に決められているので、プレゼントはおかしや文房具などの安い物に限られている。家で両親からもらう豪華なプレゼントとは、比べ物にはならない。でも、大小百個ほどのプレゼントは、一つずつきれいに包装されている。そして、どれをもらうかはそれぞれ抽選で決まるので、なかなか面白かった。自分の番号が当たって、贈り主から手渡されたプレゼントをみんなの前で開けるときは、本当にドキドキする。
 それに引き換え、家でのプレゼントは、貰う前から何だか分かっているので、たとえ欲しかった物でもどこかしらけてしまう。今年は、携帯ゲーム機の人気ゲームをもらうことになっている。隆志がサンタクロースのいることを信じなくなってから、もう何年たっただろうか。
 プレゼントの中には、二つだけ特別な物があった。それらは、田村先生と奥さんからのプレゼントで、当選者は一番最後に発表されることになっている。
 毎年、手先の器用な田村先生の作ったコリントゲームだとか、奥さん特製の大きなぬいぐるみなど、他とは比べ物にならない素晴らしい物だった。だから、誰が先生たちのプレゼントに当たるのかが、プレゼント交換での最大の関心になっている。
 隆志は、去年のクリスマス会のプレゼント交換の時のことを思い出していた。 あの時、隆志の番号は、なかなか呼ばれなかったのだ。プレゼントは残りわずか。ついつい、最後に置いてある二つの大きな箱に、目がいってしまう。隆志は、一回一回の発表にハラハラしていた。
 しかし、残念ながら、隆志の番号は、最後から五番目の六年生の女の子に引き当てられてしまった。プレゼントは、かわいらしいキャラクター付きの小銭入れで、隆志はすっかりがっかりさせられたものだ。
 もっとも、去年、隆志が用意したプレゼントも、全然自慢できるようなものではなかった。プレゼントを何にするか、あまりまじめに考えないうちに当日になってしまい、あわててその日発売の小年漫画雑誌を買ったのだ。本屋のおばさんに無理に頼みこんで、きれいにリボンをかけてもらった。
 でも、このプレゼントは、実用的な成果、意外にも男の子たちに大うけだった。
 今日の隆志には、プレゼントを選ぶために、十分な時間がある。
 隆志は、まず駅前の文房具店に入ってみた。ここのファンシーコーナーには、プレゼントに向いたいろいろなキャラクター商品が置いてある。
 ファンシーコーナーでは、すでに同じ目的らしい女の子のグループが、盛んにプレゼントを探していた。隆志もいろいろ手に取って検討してみたが、意外に値段が高くて、二百円以内ではセンスのいいものはみつからなかった。
 文房具店を出た隆志は、本屋やお菓子屋にも寄ってみた。
 でも、なかなか気に入った物がなかった。
 クリスマス会の開始時刻が、だんだん迫ってきた。隆志は、駅前商店街のはずれにある、スポーツショップに入っていった。ここでいいものがなかったら、最初の文房具店のファンシーコーナーに戻って、適当な物を買ってしまうつもりだった。 スポーツ用品の小物売り場には、二百円きっかり飲みにペナントが置いてあった。
(よし、これでいこう)
隆志は、上から順番にめくっていった。
 十枚ぐらいめくった時、隆志の手が止まった。
 明るいブルーの水面に、鮮やかに白い航跡を残す、真っ赤なモーターボート。
(インディーⅡ号だ)
と隆志は思った。

 隆志が田村学習塾に着くと、博が門のところで待っていてくれた。
「どうだった?」
 隆志は、ちょっと心配そうに尋ねた。
「OK! もちろんOKさ」
 弘は両手で大きな丸を作りながら、元気よく答えた。
「やあ、よく来たな」
 田村先生も、いつものようににこにこして、隆志を迎えてくれた。
「先生、こんばんは」
 隆志は、すこし緊張しながら、先生にあいさつした。
「元気でやってるかい」
「はい」
「じゃあ、今日は楽しくやろうな」
 塾の狭い教室や、その続きにある先生の家の居間、そして、小さな庭にまで、子供たちがあふれていた。先生の奥さんや生徒のおかあさんたちが作ったサンドイッチやおにぎりが、テーブルの上にたくさん並んでいる。
 みんなは、ジュースやコーラを飲みながら、学年対抗のかくし芸大会やゲームを楽しんだ。
 家の中がいっぱいなので、かくし芸大会は、庭を舞台にして行われている。外はすっかり寒くなっていたが、みんなは元気いっぱいだった。
 クリスマス会の会場で、隆志は坂井めぐみとであった。めぐみは、山本由美子や他の女の子たちと一緒だった。
「あら、隆志くんも来てたの」
 由美子が大きな声で言ったので、隆志は少し顔を赤くした。
「こんばんは」
 めぐみは、小さな声でそう言うと、軽く頭を下げた。
「こんばんは」
 隆志も、かたくなって挨拶を返した。
 でも、めぐみたちは、すぐに他の場所へ行ってしまった。
 クリスマス会には、青木くんや山本くんたちも来ていた。
 でも、隆志を見ても、ちょっと驚いたような顔をしただけで、何も言わなかった。まるで、隆志が塾を辞めた時のことは、すっかり忘れてしまったかのようだった。
 弘たち五年生男子の「銀河鉄道の夜」の劇がはじまった。学校の映画鑑賞会で見た映画と同じように、みんなが猫の格好をしてやるので、なかなか面白そうだ。弘は、主役のジョバンニをやっている。
「弘くーん、がんばってーっ」
 弘がセリフをつっかえてしまった時、客席から由美子が大声で叫んだ。他の観客たちは、それを聞いて笑っている。弘も、ちょっと照れたような顔をしていた。
 でも、続いてめぐみや他の女の子たちも、弘を応援し始めた。
 隆志は、弘が少しうらやましいような気持ちになっていた。
 弘は、声援に励まされたのか、やっとセリフを思い出して、その後は順調に劇を続けていった。
 劇が終わって教室に戻ってきた弘に、隆志は話しかけた。
「なかなかうまかったよ」
「そうかあ。あがっちゃってさ。何回もつっかえたろう」
 弘ねこは、照れたように笑いながら言った。
「おーい。ヒロちゃーん」
 誰かが、外から弘を呼んだ。ねこの衣装のまま、記念撮影をするらしい。弘は大声で返事をして、すぐに庭へ降りて行った。記念写真には、由美子やめぐみたちも仲間に入っている。
 隆志は、にぎやかにポーズをとっている弘たちを、遠くから眺めていた。
 いよいよプレゼント交換が始まった。一つ一つのプレゼントに対して、贈り主が引いた番号札を、田村先生が大きな声で読み上げていく。
「六十二番」
 隆志の番号だった。
「はあーい」
 隆志は大きな声で返事をすると、みんなをかき分けて庭へ降りて行った。贈り主は、六年生の男の子だ。隆志は、少しホッとしていた。
「開けてください」
 隆志が受け取ったプレゼントを開けると、中から小さなスポーツカーが出てきた。
「いいなあ」
 前の方に並んで座っている何人かの男の子たちが、うらやましそうに言った。
 隆志のプレゼントの発表は、全体のちょうど全体の中ごろだった。隆志は、段ボール箱に入っている番号札の中から一枚を選ぶと、田村先生に手渡した。
「三十九番」
 がやがやしているだけで、誰も返事をしない。
「さーん、じゅー、きゅー、ばん。いないのかあ?」
 先生は一段と大声を出して、もう一度繰り返した。
 今の方から、大きな笑い声が起こった。小柄な男の子が、頭をかきながら出てくる。四年生らしい。愚痴の中にはまだ何かをほうばっていたから、夢中で食べていて、自分の番号を呼ばれたのに気付かなかったのだろう。
「開けてください」
 隆志は、プレゼントを手渡してから言った。
「やったあ!」
 その子は、モーターボートのペナントが出てきたので、嬉しそうに叫んだ。
「インディーⅡ号って、名前だよ」
 隆志がそうささやいても、もちろん、その子はきょとんとしているだけだった。

 次の月曜日、今年最後の塾のある日だった。
 隆志は、先週休んだ分を取り返そうと、全力をあげて問題に取り組んでいた。 集中できたせいか、いつもよりも快調に問題が解ける。一時間目の算数では、七十分間で三十四問をこなし、そのうち三十一問が正解。いずれも今までの最高記録だった。
 休み時間に、隆志は久しぶりに充実した気分になっていた。
 その時、ふと先週のクリスマス会のことが思い出された。
 帰りがけに、田村先生が隆志のそばにやってきて言ったのだ。
「どう、たのしかった?」
「ええ。とっても」
「今の塾は面白いかい?」
「ええ。まあまあです」
 先生は、少しがっかりしたような顔をしていたが、すぐに気を取り直して言ってくれた。
「また、来年の新年会にもおいでよ。たこあげとカルタ大会をやるから」
「はい、ありがとうございます」
 新年会には、弘からも誘われていた。
 その日から、隆志は、(どうしようか)と、ずっと迷っていた。
 でも、隆志は、新年会には行くまいと、今、はっきりと決めた。もう、英明学院を辞めて田村学習塾に戻るつもりがないことが、自分でもわかったからだ。そして、田村先生の好意に、これ以上甘えたくなかった。
 その日の帰りに、隆志は、五年クラスの担任の小石先生に呼び止められた。
「どうした、大谷。四十二番なんて、おまえらしくないじゃないか」
「いえ、ちょっと勘違いしたものですから」
「そうか。あと一年だからな。しっかりがんばれよ」
「はい。」
 ここのところ、ボートレースやクリスマス会などで、塾の勉強に身が入っていなかった。気が散っていると、今までなんともなかった、パソコンのファンファーレやブザーの音までが気になりだす。先週のテストでも、隆志は、集中力をなくして大失敗していた。ママのがっかりした顔が目に浮かぶようで、ちょっと気が重かった。 隆志がみんなより遅れて塾の玄関へ行くと、健一の姿がもう見えなかった。あわてて外へ飛び出して帰る方向を見ても、やっぱりいない。振りかえると、反対方向の五十メートルほど先に、三谷くんや下山くんと一緒に、例によって大声で話しながら帰っていく健一が見えた。
 隆志は、前のように一人で駅に向かった。歩きながら、インディーⅡ号を、マッチ箱から取り出してみた。手のひらに乗せてじっと見ていると、ただの古びたマッチ棒に見えてくる。つい三週間まえの栄光の日々が、蜃気楼のように感じられた。
 隆志はインディーⅡ号を握りしめたまま、ジャンパーのポケットに右手を突っ込んだ。そして、来年からは、全力を出してテストを受けてみようと思った。トロフィーや盾を捕ってしまって、またみんなに無視されるようになるかもしれない。でも、わざと三番以内に入らないようにしている今の不自然な状態を、これ以上続けたくなかった。
 公園通りの横断歩道までやってきた。すっかり暗くなった道路を、ひっきりなしに車が走っている。
 隆志は、ちょっとためらってから、信号のボタンを押した。
『シバラクオマチクダサイ』
 黄色い灯りが、表示板にともる。
 信号はやがて青に変わった。でも、隆志は、すぐには歩きださなかった。後ろからやってきた人が、不思議そうな顔をしながら、隆志を追い抜いていく。
 信号が点滅を始めた時、隆志はいきなり全速力で走り出した。そして、ポケットに突っ込んだままの右手の中で、インディーⅡ号をポキリと二つに折った。

インディⅡ号の栄光
クリエーター情報なし
平野 厚
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インディⅡ号の栄光(1)

2016-11-06 08:24:51 | 作品
 英明学院のことも、例によってママが言い出したことだった。
「タカちゃん。足立区の学力テストの偏差値は、東京二十三区でビリなんですってね」
 ママの話は、いつも思わぬところから始まる。
「台東区は、七番目だそうよ」
 大谷隆志は、ママが放つジャブに対して、ガードを少し固めて答えなかった。
「本当は台東区の学校へ通えるといいんだけど。今は越境入学がうるさいから」
 隆志の二つ年上の兄は、小学校から筑波大の付属に通っている。隆志も同じコースに進むはずだったのだが、入学試験に落ちてしまったのだった。
 兄と同じように付属へ入れなかったことは、隆志にとってかなりのショックだった。
でも、五年生になった今ではそれもすっかり薄らいでいる。地元の小学校では、つねにクラスのトップをしめていた。
「タカちゃん。台東区にとてもいい塾があるっていうんだけど、いってみない?」
 いよいよ本筋をせめてきた。ママの話では、その英明学院は、そばにある東京大学のOBや学生たちによって運営されているらしい。パソコンやビデオなどを取り入れた、新しい教え方で評判のようだ。
「何曜日なの?」
「月、水、金。五時から七時半までよ」
 ママは、チャンスとばかりに勢い込んで言った。
 いま、隆志が入って田村学習塾は、火、木、土だ。その塾は学校のそばにあるので、同級生の半数近くが通っていた。
「田村先生の方がいいな」
「だめよ、あんなところ。教え方がちっとも良くないじゃない」
「そんなことないよ」
「良くないわよ。だいいち、あそこから筑波大付属へ入った子はいないのよ」
 ようやくママの本音がでてきた。隆志を、兄と同じ国立大学の付属中学へ、入れたくてしょうがないのだ。
 付属中学にはいるのは、小学校からよりもさらに難しかった。たとえ隆志が地元の小学校でトップだとしても、合格できるかどうかはわからない。受験まであと一年ちょっと、隆志へのママの圧力は、日ましに強くなっていた。
 いつもは素直にママの言うことに従う隆志だが、英明学院に移る事にはすぐに同意しなかった。
 だからといって、隆志が今の塾の授業に魅力を感じていたわけではない。
 田村学習塾の授業は、学校での教科の進度に合わせた予習、復習が中心だった。学校の授業よりはるかに先に進んでしまっている隆志にとっては、まったく必要のない退屈なものだ。
 隆志は、塾でも学校にいる時と同じように、いろいろなひとり遊びを作って、長い単調な授業時間を過ごさなければならなかった。
 隆志のひとり遊びは、適当に開いた教科書のページ数、時計のしめす時刻、けしゴムや定規といった文房具などのその場にある材料を、空想の力で別の姿に変えることだった。
 たとえば、ただのま四角なけしゴムが、あるときはたくましいプロレスラーになり、別の時にはF1のレーシングカーになった。そして、悪役レスラーと戦ったり、グランプリのサーキットを時速三百キロでつっぱしる。
 また、時計の数字、たとえば「四十八」は、そのままではアメリカンフットボールでのパントによって進んだヤード数になるし、六十をたして「百八」にすると、九十メートル級ジャンプ競技の飛行距離になった。この数字を使って、頭の中でスーパーボウルを再現したり、冬季オリンピックの選手になることもできる。
 隆志が今の塾に通いたい本当の理由は、授業以外にあった。
 まず、同級生たちと、塾の行き帰り、さらには授業中でも先生に隠れて、おしゃべりしたり遊んだりできることだ。いくら隆志だけが塾へ行かなくても友だちがみんな行ってしまっているのでは、一緒に遊びたくても遊べやしない。
 もうひとつは、田村学習塾のもっている家庭的なふんいきだ。ここでは、四十才ぐらいの田村先生と、先生の奥さんだけで教えていた。生徒も全員が同じ地元の小学校に通っていた。
 田村先生は、授業以外の時間にも、隆志たちとよく遊んでくれた。春と秋のハイキング、夏のキャンプ、クリスマス会、七夕など、四季それぞれに、レクリエーション行事が用意されている。ふだんの土曜や日曜にも、球技大会やゲーム大会などを、塾や近くの公園で開いてくれることさえあった。
 だから、いくら授業がつまらなくても、隆志は今の塾を辞めたくなかったのだ。
       
「それじゃあ、一応わたしからの説明は終わりますが、何かご質問はありませんか?」
 英明学院について熱心に説明していた若い男の先生が、みんなを見まわしながら言った。
 隆志は、英明学院が毎月一回やっている説明会に、ママに説得されて連れてこられていた。他にも、七、八組の親子連れが来ている。
 隆志は、初めに手渡されたパンフレットを、もう一度広げてみた。
 英明学院は、いろいろな点で田村学習塾とは違っていた。
 田村学習塾は小学四年生から六年生までの小さな塾だっが、英明学院には幼稚園クラスから中学三年生まで全部で十クラスもある。
 パンフレットによると、先生は二十人以上、各クラスの生徒も百人をこえていた。しかも、それらの半数以上が、地元以外からわざわざ通ってきている成績の良い生徒たちなのだ。
 パンフレットの最初のページには、今年の有名校の受験合格者数が太い文字で書き込まれている。筑波大付属中の合格者も七人いた。この数字が、隆志のママには魅力的だったのだろう。
「それじゃあ、授業をごらんになった後で、また質問にお答えしますから」
 先生は、いくつかの質問に答えてから席を立った。
 英明学院では、廊下や階段の壁がピンク色にぬられていた。電灯に照らされていて、とても明るかった。
「いま、このクラスでは、四年生が勉強しています。教室の中に入りますので、お静かに願います」
 案内にたった先生は、そう言いながら教室の後ろのドアを開けた。隆志たちは、先生に続いて教室へ入っていった。
 そこは、百人以上が同時に勉強できる大きな教室だった。壁や床は薄いグリーンで、学校や田村学習塾のようなはり紙やかざりがないのですっきりしていた。
 生徒たちの机の上には、一台ずつパソコンが置かれている。
 みんなは、それぞれのパソコンの画面に向かって、熱心に問題に取り組んでいた。だれ一人、教室に入ってきた隆志たちの方を振り向く者はいない。
 あちこちから、パソコンが出すファンファーレやブザーの小さな音が聞こえくる。まるで、どこかのゲームセンターにでもまぎれこんだような、不思議な光景だった。 隆志は、一人の席に近づいて、後ろから覗き込んでみた。
 画面には、かけ算の問題が表示されている。その子は、びっくりするほどすばやくキーボードやマウスを操作して、問題を解いていた。

 ブーーン。
 隆志がまわしたガラスのこまは、ハチの羽音のような気持ちの良い音をたてて、机の上に広げた算数の教科書が作っている小さなアーチの中へ入っていった。
 教壇では、田村先生が黒板に算数の問題を書いている。隆志は、今日も塾の授業に退屈しきっていた。
 こまは、教科書の背を伝わって前へ進んでいく。一番端までたどり着くと反対側のアーチに入って、またこちらへ戻ってくる。うまくすると、一周半ぐらい進むこともあった。
 いつもの隆志なら、この薄青いガラスのこまを、SF映画に出てくるようなスペースシップに変えて、はるか銀河系をワープさせるところだ。
 でも、今日の隆志は、こまをまわしながら、英明学院の説明会のことを考えていた。パソコンに向かって熱心に問題に取り組んでいた、子供たちの姿が思い出される。
 教室では、田村先生に指された生徒たちが、次々に答えている。
 隆志は、もう一度こまをまわそうとした。
「それじゃあ、四番は大谷」
 隆志は、こまを手のひらに握りこむと、反射的に席を立っていた。

   3 2/3×9

 隆志は、立ち上がりながら黒板の問題を読んだ。そして、すぐに暗算して答えた。
「33です」
「正解。じゃあ、次は鈴木」
 隆志は、席に腰を下ろしながら、いつものように物足りない気もちになっていた。そして、やっぱりママが勧めるように英明学院に入ってみようかな、と思った。

「そうか。そちらの塾に、親戚の人がいるのか。」
 隆志から十月いっぱいで辞めることを聞かされた田村先生は、いかにも残念そうだった。
「はい、母方のです」
 隆志は小さな声で答えた。
「それで、きみをぜひ教えたいっていうのか。そうだろうな。本当にきみは優秀だからなあ」
 先生は、小さく首を振りながら言った。
「すみません」
 隆志は、はずかしさで真っ赤になっていた。田村先生に言った塾を辞める理由が、ママから吹き込まれた嘘だったからだ。
「嘘も方便よ。そう言った方が、田村先生にとってもいいのよ。だって、本当のことをいったら、先生を傷つけちゃうじゃない」
 田村先生に話す塾を辞める理由を隆志に指示した時に、ママはそんなふうに言っていた。
 しかし、いくらママにそう言われたとしても、そして、自分でも辞める理由をうまく説明できないからといって、田村先生に嘘をつくべきではなかった。
「あやまることはない。じゃあ、そっちの塾へいってもがんばってくれよ。なんてったって、きみはうちのエースなんだから」
 田村先生はそう言って、隆志と握手してくれた。
 田村学習塾での最後の日。先生は、授業が終わった時に、隆志が塾を辞めることとその理由をみんなに簡単に説明した。みんなはざわざわしながら、いっせいに隆志の方を見た。隆志は、少しうつむいて黙っていた。
 隆志は、塾を辞めることを、まだ誰にも話していなかった。何度か友だちに、とくに、一番仲の良い弘には話そうと思った。
 でも、また嘘をつかなければならないのかと思うと、つい言いそびれてしまっていた。まさか田村先生がみんなに話すとは、隆志は少しも思っていなかった。
「それじゃあ、大谷の今後の健闘を祈って、みんなで拍手しよう」
 はじめはパラパラと、そして、田村先生にうながされて、全員で大きな拍手をおくってくれた。隆志は席から立ち上がると、みんなに向かってピョコンと頭をさげた。
 その日の帰り、隆志はいつもと違ってひとりきりだった。ふだんなら弘たちとふざけながらにぎやかに帰るのだが、今日はみんなと顔を合わせるのが嫌だった。
 隆志は、帰りがけにもう一度田村先生にあいさつをしにいって、時間をつぶしてから塾を出たのだ。
「おい、この嘘つきやろう」
 ドンと、いきなり背中を叩かれた。
 青木くんだ。学校では一組で、隆志とは別のクラスだった。他にも、青木くんと同じクラスの子が四、五人いた。
「大谷。おまえ、今度の塾に親戚の人がいるなんて、嘘だろう」
 隆志は、とっさに返事ができなかった。
「おまえ、十一月から、英明学院って塾へいくんだってな。」
「……」
「おまえのおかあさんが、山本のおかあさんに田村先生の悪口を言ってたってよ。それで、おまえを英明学院にいかせたいってな。」
「おかげで、おれまで、おかあさんに英明学院へいけって言われたんだぜ。」
 山本くんが、口をとがらせて言った。家が近所なので、山本くんのおかあさんは、隆志のママと仲が良かった。
「おい、嘘をついてまで、英明学院にいきたいのかよ」
 青木くんは、隆志の肩に手をかけて揺さぶった。それでも、隆志はまだ黙っていた。
「ちっ。もうこんな奴はほっといていこうぜ」
 隆志の反応がないので、青木くんは、みんなをうながして歩き出した。隆志は立ち止ったまま、彼らの後ろ姿を見送った。
 五十メートルほど離れた時、みんながいっせいに振り返った。
「せえーの。ガリベーン」
 みんなは大声で叫ぶと、笑いながら走っていってしまった。
 青木くんたちの姿が見えなくなってから、隆志は、またひとりでゆっくりと歩き出した。青木くんが言ったことは、そのとおりなのだからしかたがないと思った。そして、むしろ彼らの中に、学校で同じクラスの友だち、とくに、弘がいなかったことにホッとしてさえいた。

 翌朝、目が覚めた時、隆志は、教室で弘たちと顔を合わせることを考えて、気が重くなった。青木くんたちからのうわさが、隆志たちのクラスへもひろまっているかもしれないと思ったからだ。
 隆志がいつもよりも遅れて教室に入っていくと、すぐに弘がそばへやってきた。
 隆志は、緊張で少し体を硬くした。
「おはようーす。タカちゃん」
 弘は、いつもと変わらない元気な声をかけてきた。
「おはよう」
 隆志も小さな声で答えた。
「タカちゃん。塾を辞めること、なんで言わなかったんだい」
「うん」
「昨日、先生から聞いてびっくりしたよ。急に決まったのか?」
「うん、そうなんだ」
 弘の方から先に答を出してくれたので、隆志は少しホッとして答えた。
「やっぱりそうか」
 弘は、やっと納得できたというように、うなずいている。英明学院のことをもう少し聞きたそうだったが、ちょうど先生が教室に入ってきたので、話はそれっきりになってしまった。
 その後も、隆志の心配をよそに、ふだんと変わりなく過ぎていった。休み時間には、弘たちクラスメートは、いつものように隆志をまじえて、じょうだんを言ったりふざけたりしていた。
 隆志は、ようやく少し安心していた。青木くんたちからのうわさは、クラスには伝わらなかったようだった。
 ホッとしたせいか、昼休みのサッカーでは、隆志は1得点、2アシストと大活躍できた。
 昼休みが終わって教室へ戻る時、ろうかで青木くんに出会った。隆志が何げない顔で通り過ぎようとすると、青木くんが小さな声でつぶやいた。
「ガ・リ・ベ・ン」
 隆志が振り返ると、青木くんは怖い顔をして言った。
「昨日のこと、覚えているだろうな」
 青木くんは、しばらく隆志をにらみつけてから、自分の教室へ戻っていった。
「どうしたんだ?」
 先に教室へ入りかけていた弘が、心配して戻ってきた。
「いや、なんでもない」
「青木に、なんか言われたのか?」
「ちょっと」
「あんな一組の奴なんか、相手にするなよ」
「ああ、そうだね」
「でも、しつこくからんできたらガツンとやってやれ。おれも助太刀するからさ」
 弘は、二年生のころから柔道を習っているので、取っ組み合いには自信があるのだ。
「うん」
 チャイムが鳴ったので、二人は急いで自分たちの教室へ入った。
 弘に励まされても、隆志の重苦しい気持ちは、なかなかはれなかった。隆志は、本当のことを弘に話してすっきりしてしまいたかった。
 でも、それを言うと、弘にまで軽蔑されそうでできなかった。

 隆志が英明学院に入ってから、一週間がたった。
 英明学院の授業は、隆志の期待どおりに、田村学習塾とはぜんぜん違って面白かった。ここでは、先生が生徒に向かって授業をするのは、月に一回しかない。その時に、先生たちは、今月勉強する内容の重要なポイントだけを、生徒たちに説明する。
 他の日には、生徒たちは、ひとり一台ずつ与えられたパソコンを使って、自分の進度に合わせて自習するのだ。
 例えば算数なら、その月に勉強する内容、分数の計算とか、図形の角度の求め方などについての問題が、パソコンの画面上に現れてくる。生徒たちは、自分に合ったスピードでこの問題を解いていけばいい。
 それぞれの問題は、たんに最後の答えを合わせるだけでなく、途中の考え方が正しいかどうかが自分でわかるように、うまく工夫されている。
 他の教科でも、穴埋め方式や選択方式などによって、パソコンがうまく使われていた。
 生徒たちのパソコン操作は、驚くほどうまかった。勉強以外にキーボードのタイピングを練習するプログラムもあって、全員がキーボードを見ないでタイピングができるブラインドタッチをマスターしていた。塾に入るまではパソコンをぜんぜん使ったことのなかった隆志も、その練習によってたちまちキーボードを使いこなせるようになっていた。
 ひとりひとりのパソコンは、塾に備え付けられたもっと大きなコンピュータにLANで繋がっている。そこには、各教科、各単元ごとに、たくさんの問題が記憶されていた。それぞれの問題は難易度べつに整理されているので、生徒たちの理解度にあわせた問題を自動的に提供できるのだ。特に、小学六年生や中学三年生には、それぞれの志望校で過去に出題された問題(いわゆる過去問)を出すこともできた。このおかげで、英明学院では、生徒たちが志望校に合格する確率を、正確にはじきだせるのだった。
 隆志は、英明学院の学習システムが、すっかり気にいっていた。次々と画面に現れる問題に、テレビゲームでもやるようにアタックする。正解の時に出る小さなファンファーレは問題を解いていく励みになるし、間違った時の警告のブザーはファイトをかきたてた。
 一教科七十分の授業が終わると、パソコンはその日の結果をプリントしてくれる。
「総問題数………………二十八
 正解……………………二十一
 不正解………………………七
 以下のテキストを、次回までに読んでおいてください。
 二百十七ページ、九、三節『百分率』
 二百二十六ページ、九、六節『歩合』
 ……………………………………………」
 その日の勉強がふるわなかった生徒には山のように宿題が出されたが、この日の隆志のように成績が良い場合はそれほどでもない。
 隆志には、前の塾ではあんなに長く感じられた授業時間が、ここではあっという間にたってしまうように思えた。まだ始めたばかりだと思っていたのに、すぐに七十分間が経過していてびっくりすることが多い。
 隆志は、腕にはめたデジタルウォッチと競争するように、全力で問題に取り組んでいた。ここでは、もうひとり遊びをやる暇も必要もなかった。

 五時少し前に英明学院に着くと、おおぜいの生徒たちが、塾の入り口あたりでうろうろしていた。前のクラスが終わるのを待っているのだ。
 十一月ともなると、五時近くには、外はすっかり寒くなっている。塾に面した道路の反対側は、大学のキャンパスを囲っている古いれんが塀だった。そこだけは、西日があたってポカポカしている。だから、その塀にもたれて、塾が終わるのを待っている生徒たちが多かった。
「昨日のアニメ見た?」
「うん、もちろん」
「今日のは、HDDレコーダーにとってるんだ」
「HDDレコーダーか、いいなあ。うちは持ってないんだよ」
「遅れてるー。」
 口もきかずに、携帯ゲームをやったりケータイでメールをしたりしている子たちもいる。
 隆志は、みんなから少し離れた所で、ひなたぼっこをしていた。まだ隆志には、親しく口をきける友だちが英明学院にいなかった。
 隆志は、塾が始まるのを待ちながら、放課後のサッカーの続きはどうなったかなと考えていた。
 毎日、昼休みと放課後に、隆志は、弘をはじめとしたクラスの友だちと、サッカーをやっている。延々と暗くなるまでやり続けたゲームは、二十一対十四とか、十九対十七といった、まるでラグビーのような得点を記録してやっと終了する。
 でも、英明学院に通うようになってから、月水金は、隆志は途中で抜けなければならなくなった。
 英明学院は、隆志の家からは、電車で五つ目の駅を降りた所にある。家から塾まで、四十分以上はかかった。
 校舎にかかっている時計が三時半になると、隆志は、まだゲームの真っ最中のクラスメートたちに「バーイ」と叫んで、家まで走って帰らなければならない。これでも、いつもぎりぎりなので、家に用意されているひとりだけはやめの夕ごはんを、大いそぎでかきこんで家を飛び出していくことになる。
 しかも、英明学院の授業のない火木土には田村学習塾があるので、ゲームはいつも四時前に打ち切られてしまった。こうして隆志は、一番の楽しみであるサッカーを、十分にやれなくなっていた。
 隆志は、英明学院の授業は気にいっていたものの、そのふんいきにはなかなかなじめないでいた。
 授業中、生徒たちはひとりひとり別々に勉強しているので、友だちを作るきっかけがなかった。先生たちも教えることを仕事として割り切っているのか、田村先生のように一緒に遊んでくれそうな人は見当たらなかった。
 もちろん、英明学院にも、レクリエーション行事はあるようだった。
 でも、勉強をかねた夏休みの合宿や、ホテルの宴会場で開かれる合格祝賀パーティーなどの、大がかりな面白くなさそうなものに限られていた。
 しかも、入塾そうそう、隆志は、同じクラスの生徒たちのライバル意識をかきたててしまっていたのだ。
 英明学院では、毎週金曜日にテストが行われていた。テストの結果は、翌週の月曜日に、プリンタで印字されたきれいなレポートにまとめられて、生徒ひとりひとりに配られている。
 合計点と順位は、一位からビリまで塾の入り口に掲示されるので、塾での自分の順位は、みんなにわかってしまう。さらに、一位の生徒には小さなトロフィーに、二位と三位には盾に、それぞれ名前を入れて、クラス全員の前で手渡されていた。
 成績優秀な生徒ばかり百人以上いるのにもかかわらず、隆志は、入塾して最初のテストで、いきなり二位をとってしまったのだ。
「おいおい。新入生の大谷に二位をとられるなんて、おまえらだらしがないぞ」
 五年クラスの担任の小石先生は、隆志に盾を渡しながら、他の生徒たちにはっぱをかけた。
 一位の佐藤くんと三位の吉田さんの時にはみんなが拍手をしていたのに、隆志が受け取った時はしんとしてしまって、誰ひとり拍手をする者がいない。
 隆志が席へ戻ると、すぐ後ろの席の子が小さな声で言った。
「まぐれ、まぐれ」
 隆志が振り返ってその子の顔を見ると、今度は数列横の子が言った。
「おーこわ。まぐれで二位をとったぐらいで、いい気になるなよな」
 まわりの生徒たちも、クスクス笑っている。
 隆志の二位入賞の喜びは、みんなの冷たい敵意でペシャンコにされてしまった。
 それ以来、隆志は、自分がみんなに敬遠されている気がしてならなかった。隆志が何か話しかけても、みんなはそれを無視して答えてくれない。隆志自身も、他の生徒たちに対して、しだいにぎこちなくなっていった。

 学力テスト二位の盾は、予想通りにママをすごく喜ばせた。
 『英明学院 第三十一回学力テスト

  小学五年生の部
     第二位

     大谷隆志       』
「タカちゃん、すごいじゃない。英明学院で二位なら、付属も確実よ。この調子でがんばって」
 そう言われると、隆志もまんざら悪い気はしなかった。
 でも、みんなの敵意を考えると、これ以上目立ちたくなかった。

「えっ、明日、塾を休みたいって。いったいなんでなの?」
 ママは、びっくりしたような顔をして隆志を見ていた。
「うん、クラスの山本さんの誕生パーティーなんだ。前に誘われた時に、ママにも言ったよね」
「そうだったかしら。……。でも、その時は、まだ英明学院に入ってなかったんじゃない?」
「うん。でも、弘も行くって言ってるしさ」
「そりゃ、弘くんの塾は、金曜日がお休みだからいいけど、あなたは違うじゃない」
「でも、行くって約束しちゃったよ。あの時、ママもいいって言ったしさ」
 ママは、珍しくねばっている隆志の顔を、じっと見つめていた。
「いいわ。明日、学校で、山本さんに都合が悪くなったって言いなさい。その代わりに、ママからプレゼントを届けておくから」
「えーっ!」
「タカちゃん、今が大事な時なのよ。いくらこの前二位をとったからって、ゆだんしちゃあだめよ。みんなもがんばってるんだから、すぐに順位が落っこちちゃうわよ」
 隆志は、もうそれ以上ママに抵抗できなかった。
 隆志が山本由美子の誕生パーティーに行きたかったのは、弘が行くせいばかりではなかった。ほんとうは、坂井めぐみも来ることを知っていたからだ。
 隆志は、十月一日の都民の日に、弘や由美子たちと一緒に、上野動物園へ遊びに行ったばかりだった。
 本当は、由美子は弘だけを誘ったのだが、結局、それぞれが友だちをひとりずつ連れてくることになった。弘は隆志を、そして、由美子はめぐみを選んだ。
 隆志は、家では男の兄弟だし、今まで学校以外で女の子たちと遊んだこともなかったので、あまり行く気がしていなかった。弘に強く頼み込まれて、しぶしぶ参加しただけなのだ。
 当日も、初めは女の子と一緒にいるだけですごく照れくさくて、ひとりだけうまく話に入れなかった。
 でも、しだいに慣れてくると、意外に楽しくなってきた。
 昼寝をしているライオンをながめたり、みんなでソフトクリームを食べたり、アイドルやプロスポーツの話をする。こんななんでもないことが、女の子たちと一緒にいるっていうだけでこんなにうきうきするものだってことを、隆志は今まで知らなかった。
 由美子が弘にばかり話しかけるものだから、隆志はついめぐみと話すことになる。今まで、隆志は、めぐみのことを特別に意識したことはなかった。隆志とは、クラスだけでなく田村学習塾でも一緒だったが、ほとんど話をしたことはない。めぐみは、由美子みたいなかわい子ちゃんタイプじゃないし、どちらかというとクラスでも目立たない方だ。
 でも、しばらく話をしていると、めぐみもだんだんかわいい子のように思えてくるから不思議だ。二人ともサッカーファンなので、共通の話題があったのも良かった。
 隆志は、今度の誕生パーティーで、まためぐみとおしゃべりできることを楽しみにしていたのだ。
 翌朝、隆志は、誕生パーティーに行かれなくなったことを、山本由美子に話した。
「えっ、来られないの。もう用意しちゃったのに」
 由美子は、すごく残念そうだった。
「ごめん、都合が悪くなっちゃって」
 隆志は、小さな声で言った。
「都合が悪いったって、塾へ行くだけなんでしょ」
 由美子にズバリと言われて、隆志はとっさに返事ができなかった。
「秀才さんはつらいわね」
 由美子は、少し皮肉っぽく言った。
「……」
「めぐみががっかりするわよ」
 由美子はませた口調でそう言うと、他の女の子たちの方へ行ってしまった。 隆志が行かれなくなったことは、予想通りに弘をがっかりさせた。
「おれも行くの辞めようかな」
と、言い出したほどなのだ。
 隆志は、それとなく坂井めぐみの様子を見ていた。隆志が行かれなくなったことを、おしゃべりな由美子から、きっと聞いたはずなのだ。
 でも、隆志の期待に反して、めぐみはふだんとまったく変わらない様子に見えた。めぐみの方では、隆志のようには意識してくれていないのかもしれない。

 その日、隆志が英明学院へ行くと、西日がよく当たっているのに、向かい側のれんが塀には誰ももたれていなかった。
(あっ!)
 隆志が近くに寄ってみると、塀ぞいを水が流れていた。
 英明学院から五十メートルほど先へいった所には、大学のボイラー室がある。今は、その部分のれんがが五、六個はずされて、灰色のパイプが突き出している。
 水はそのパイプから出ていた。道路が少し下り坂になっているので、水は一か所にたまらずに英明学院の正面を横切り、さらに二十メートルほど進んだ所で溝に流れ込んでいた。ボイラーの冷却水なのだろうか、きれいに澄んでいる。
 塾へやってきた生徒たちは、みんなしばらく流れをながめると、今日は道路の反対側へ渡っていった。入り口の石段に腰を下ろしたり中をのぞきこんだりしながら、前のクラスが終わるのを待っている。
 隆志だけは、そのまま流れのそばに立っていた。頭の中に、ちらっと山本由美子の誕生パーティーのことが浮かんだ。ちょうどケーキを切っているころかもしれない。弘は、少し調子はずれの声で「ハッピー・バースデイ・ツー・ユー」でも、歌っているだろう。坂井めぐみのことを考えると、隆志はまだ残念な気分だった。
 隆志は、道路に落ちていたマッチ棒を拾うと、何げなく水の中に入れてみた。マッチ棒は、すぐに勢いよく流れ出した。隆志は、マッチ棒の後について、流れにそって歩いてみた。
 水の流れは、広い所で三十センチ、狭い所でも二十センチ以上の幅がある。ふちにたまった石ころや砂によって、あるところはゆっくりと、またある所ではすばやく、マッチ棒は流れていく。
 途中、道路の端の敷石のでこぼこに引っかかって、いったん止まってしまった。
 でも、流れのはずみのせいか、マッチ棒はまた動き出した。
 最後に、マッチ棒は、溝が作り出す渦に巻き込まれながら、姿を消していった。

 四科目のテストのうち二科目が終了して、十分間の休憩時間になった時、隆志は、ろうかの自動販売機で缶コーヒーを買った。
 今日のテストも、まったく快調そのものだった。
 一時間目の算数は、おそらく百点。うっかりミスがあったとしても、九十五点以上は確実だろう。二時間目の国語も、たぶん九十五点ぐらいはいけると思う。
 隆志は、前回のテストでは、四科目合計で三百七十八点をとって二位だった。一科目平均にすると、九十四、五点になる。
 このままでは、今回もベストスリー入りは確実である。へたをすると、トップを取ってしまうかもしれない。
 これで、ますますみんなから「シカト」されるようになるかと思うと、憂鬱になってくる。
 隆志は、半分ぐらいのこっていたコーヒーを、一気に飲み干した。
 と、その時、隆志の頭の中に、いいアイデアが閃いた。これからの理科と社会の点数を、わざと八十五点以下におさえればいいのだ。そうすれば、合計点は三百六十点ぐらいになる。この点ならば、前回のテストの場合だと、十位前後だった。あまりひどい点をとると、ママがヒステリーを起こしかねないから、このくらいが限界だろう。
 授業の始まりのチャイムがなった。隆志は、急に気分が楽になったので、へたな口笛を小さく吹きながら教室に戻っていった。

 つぎの月曜日に塾に来た時、隆志は水の流れのことをほとんど忘れかけていた。どうせすぐに止められてしまうだろうと思っていたせいかもしれない。
 でも、水は、先週と少しも変わらずに、れんが塀ぞいを流れていた。
 その日も、隆志は、いろいろな物を流れに投げ入れて、ひとりで遊ぶことにした。
 わらくずは、表面に浮かんで流れていくので、動きが単調で面白くなかった。木片は少し大きいと、途中で引っかかって動かなくなってしまう。
 やっぱり、マッチ棒が一番面白かった。水に少し沈みかげんなので、わらくずのように流れ方が単調ではないし、木片のように途中で完全に止まってしまうこともない。数本を同時に流すと、まるでボートレースでもやっているかのように、抜きつ抜かれつの接戦が繰り広げられた。

 先週のテストの結果は、隆志が考えていた点数よりも少しだけよけいに悪かった。
 算数九十六点、国語九十三点。わざと力を抜いた理科は八十点で、社会は八十三点だった。合計三百五十二点。順位は十四位だった。ちょっとやりすぎだったかもしれない。
 でも、ねらいどおりに、みんなの隆志への反感は、かなり和らいだように思えた。
 隆志の代わりにみんなの敵意が集中したのは、今回三位に入った中森くんだ。
 どうやら中森くんは、次第に成績を上げてきた生徒のようで、三位以内に入るのは今度が初めてみたいだった。
 中森くんは、嬉しそうに顔を赤くしながら盾を受け取っていたが、みんなの拍手は他の子の時よりも圧倒的に少なかった。
「な・か・も・り、がんばったあ。」
「あんまりガリベンやるなよ。」
といったふうにかけられたみんなの声には、はっきりととげが感じられる。
 みんなは、以前からいい成績をとっていた生徒に対しては、そんなに敵意を感じないようだ。どうせその子にはかなわないという、あきらめに似た気持ちがあったのかもしれない。
 でも、初めてベストスリーに入った生徒に対しては、激しいライバル意識を感じるらしい。今までは自分たちとあまり変わらない成績をとっていたのに、急にいい成績をとったのが、許せなく思えるのだろう。

「タカちゃん。この前言った通りでしょ。やっぱりゆだんしちゃだめなのよ。次はがんばってね。」
 事情を知らないママは、そう言って隆志にはっぱをかけていた。
 でも、隆志は、今日の中森くんに対するみんなの様子を思い出して、テストで三位以内に入らないようにするという自分の方針を変える気にはなれなかった。

 塾が始まる前に隆志がひとりだけのボートレースをやるようになってから、一週間がたった。
 その日も、水の流れにそって歩きながら、隆志はマッチ棒の行方を追っていた。
「大谷くん」
 マッチ棒が完全に溝へ吸い込まれてから、隆志はようやく振り返った。
 声をかけてきたのは、鶴田健一だった。地元の小学校の生徒で、成績はまあまあぐらいだが、みんなに「ケンちゃん、ケンちゃん」と呼ばれている人気者だった。いつもは塾が始まるまで、近くの公園で友だちとサッカーをやっていた。
「大谷くん。前から気になってたんだけど、ここで何をやってるんだい?」
「えっ、ああ。マッチ棒を流しているんだ」
「マッチ棒だって? そんなの面白いのかい?」
 健一は、かなり興味をそそられているようだった。
「うん。じゃあ、ちょっと見てて」
 隆志は、健一を連れてもう一度スタート地点へ戻った。
「ほらね。こういうふうに三、四本落とすだろう」
 マッチ棒は、順位を入れ替えながら流れていく。隆志と健一は、それについて歩いていった。小柄な隆志と並ぶと、健一は頭ひとつ大きい。健一のマッチ棒を見る目は、隆志に負けないほど熱心だった。
「ほらっ。まるでボートのレースみたいだろ」
 隆志は、少し自慢そうに言った。
「うん。こいつは面白いや」
 健一は、浅黒い顔中を歯にして笑った。
 やがて、マッチ棒は、ゴールの溝に吸い込まれていった。
「一緒にやってみる?」
 隆志は、健一とスタート地点に戻りながら言った。
「うん。やらしてよ」
 すぐに健一は答えた。
「じゃあ、競争にしよう」
 ヨーイドンで、二人はマッチ棒を一本ずつ水の流れに投げ入れた。
 このレースは、約十センチ差で健一の勝ちとなった。

 競争相手ができると、ボートレースは格段に面白くなってきた。
 水の流れはどちらにも公平なので、勝ったり負けたりで成績がかたよらない。二人は、家からいろいろなマッチ棒を持ってきて、レースでためすようになった。
 初めは、塾が始まるまでのわずか十分ぐらいだったレース時間は、少しずつ長くなっていった。隆志は、健一とのボートレースに、しだいに夢中になってしまっていた。
 とうとう塾のある日には、放課後のサッカーもやらずに、家へ帰るようになった。どうせ途中で抜けなければならないのだ。そして、その分だけ塾に着く時間を早くする。それでも、塾の近くに住んでいる健一は、すでに先に来ていた。
 ママには、授業が始まる前に、みんなで一緒に宿題をやるからと言っておいた。急に張り切って英明学院へ通うようになった隆志に、ママはごきげんだった。
 しかし、隆志が放課後のサッカーに参加しないことは、弘たち同級生には納得がいかないようだった。
 とうとうある日の帰りがけに、隆志は弘に呼び止められてしまった。
「なんだよ、タカちゃん。今日もサッカーやっていかないのか?」
「うん」
「塾の始まる時間が早くなったのかい?」
「そうじゃないんだけど」
「じゃあ、どうしてさ」
 口で説明しても、弘にボートレースの面白さをわかってもらうのは難しいように思えた。
「宿題が多くてひとりじゃやりきれないんだよ。それで、塾が始まる前に、みんなで集まってやってるんだ」
 隆志は、少し赤くなりながら早口に言った。
「えーっ。タカちゃんでもやりきれないのか。すげえな」
 弘は、うわばきをスニーカーにはきかえると、元気に校庭へ飛び出していった。隆志は、その後ろ姿をしばらく見送っていた。
 健一に誘われてか、ボートレースに参加する生徒たちはどんどん増えていった。
 初めのうちはそれも良かった。ライバルが増えることは、隆志にとってもボートレースの楽しさを大きくしていたからだ。
 ところが、参加者が十人を超えると、レースが混乱するようになってしまった。
 その時も、五、六本のマッチ棒が、もつれあうようにゴールへ入っていった。
「誰が一番だった?」
「おれのだよ」
「違うよ。ぼくのだよ」
 着順をめぐって、言い争いが始まる。そんな時は、いつも健一が止めに入った。
 でも、みんなの不満は、大きくなるばかりだった。
 結局、健一の提案で、一レースの出走を四そうまでに制限することになった。それならば、どれが誰のマッチ棒か、見分けがつく。何グループかに分かれて、時間をおいてスタートすればみんなで楽しむことができた。
 しかし、せっかくのこのアイデアも、長続きはしなかった。参加者がさらに増えすぎたからだ。
 とうとう一回レースをするために、五分以上も順番まちをしなければならないようになってしまった。
 隆志は、地元の生徒たちよりも、塾に着くのがどうしても遅くなってしまう。そのために、今では、一日三、四回しかレースができなくなっていた。
 その時も、さんざん待たされてから、隆志はやっと自分のボートを水に入れようとしていた。
「おい、ちょっと待てよ。おれの方が先だぞ」
 そう言ったのは、地元の小学校の三谷良夫だった。
「違うよ。ぼくの番だよ」
 隆志が言い返した。
「そんなら、他の奴らに聞いてみろよ」
 三谷くんは、あくまでもそう言い張って、他の子供たちの顔を見まわした。
「よっちゃんが先だよ」
 すでにボートを水に入れて待っていた子のひとりが、そう言った。他のみんなもにやにやしている。
 三谷くんは、スタート地点から隆志を強引にどかせると、自分のボートを水に入れた。
 隆志は、次の番を待つよりしかたがなかった。
 その日、隆志は、初めて塾の帰りにも、ボートレースをやることにした。健一たちは、前から帰りにもレースをやっていたのだ。
 さすがに帰りはすいているので、ほとんど順番待ちをしなくてもいい。隆志は、久しぶりにボートレースに熱中することができた。
「こらあ、何やってるんだ」
 みんながびっくりして振り返ると、小石先生が塾の入り口でどなっていた。
「マッチ棒のボートレースです」
 やっと健一が、みんなを代表して答えた。
「くだらんことやってないで、早く帰れ。斉藤、おかあさんから電話があったぞ」
 ちょうどレースをやるところだった斉藤くんは、あわてて立ち上がった。
「もう八時だ。ほかの家の人たちも、みんな心配してるぞ。これからは、帰りに寄り道しちゃだめだぞ」
「はーい。」
 みんなはしかたなく返事をして、レースを止めなければならなくなった。
 とうとう隆志は、学校が終わると、家へ帰らずにすぐに塾へいくようになった。駅でママと待ち合わせて、ランドセルを手渡す。ママからは、サンドイッチ、肉まんなど、電車の中でも食べられる食べ物を受け取った。
「タカちゃん。こんなに早く行かなきゃならないの?」
 さすがに、ママも少し心配そうな顔をしている。
「うん。宿題がすごく多いんだ。みんなで付け合わせをやらなきゃ、とてもだめなんだよ」
 隆志はそう言って、なんとかママをごまかした。
 でも、熱心に塾へ行くわりにはテストの順位が上がらないのが、ママには不思議だったに違いない。
 こうまでしても、隆志が塾へ着いた時には、すでに十人以上の子供たちがボートレースを始めていた。
 隆志は、自分の大切な物が次第にみんなの手の中に移っていってしまったことに、少し寂しさを感じていた。

 リーダーシップのある健一は、みんなの不満を解消するために、次第にボートレースの体系を整えていった。 レースのやり方としては、全員が楽しめるようにトーナメント形式が採用された。一レースには、今まで通りに四そうずつが出場する。各レースの上位二そうは、次のステップに進む。参加者が全部で三十人ぐらいいたので、予選は八レース行うことになった。凖々決勝は四レースで、準決勝が二レース。そして、最後の決勝戦で、その日の優勝者を決定するのだ。
 みんなでお金を出し合って、小さなトロフィーも買うことになった。もちろん、トロフィーは、毎回の優勝者の持ち回りもちまわりだ。
 でも、書道二段の村井くんが、赤いリボンに『第×回、英明学院ボートレース 優勝××××』と書いて、トロフィーにつけてくれることになっている。
 何人かのボートレース実行委員も決められた。スタート委員の三谷くん。レース結果を整理する記録委員の下山くん。表彰委員の村井くん。コース内に落ちているあきかんやごみを取り除く整備委員の内山くん。計時委員の小林くん。もちろん、一番かっこいい実行委員長、ゴールで順位を判定する役目には、健一が選ばれていた。 ボートレースの創始者である隆志も、健一の推薦で検査委員に任命されていた。でも、これは、出走ボートに違反がないかをチェックするじみな係だった。
 レースへの出場希望者は、三時五十五分までに、実行委員長の健一へ申し込まなければならない。予選の第一組が、四時ちょうどにスタートするからだ。
 予選の組みあわせは、あみだくじで決定される。健一は、まるでオリンピックのボートレースの組みあわせを決めるかのような真剣な顔つきで、この作業を行った。他の子供たちも、緊張して抽選の結果を待っている。
 その間に、隆志は、各出走ボート(マッチ棒)が規定に違反していないかどうかを、同じように真剣に定規を使って検査していた。
 レースに出走できるボートは、断面が真四角の普通のマッチ棒に限られ、長さは四センチ以上五センチ未満とされている。
 レースのやり方にも、細かなルールが作られた。
 まず、各選手は、親指と人差し指の間にボート(マッチ棒)を挟んで流れに入れる。
 ボートのへさきは、スタートラインとされている敷石の境に、きちんとそろえなければならない。
 三谷くんがスタートフラッグを振り下ろすと同時に、みんないっせいに指を離す。フライングは、一回までならOKだが、二回行うと失格になってしまう。
 先頭のボートのへさきがゴールラインにしている敷石の境に着くと、健一がチェッカーフラッグを振って順位を確定する。健一は、小さなスタート用フラッグとゴール用のチェッカーフラッグを、わざわざレースのために用意していた。
 各レースの一位のタイムは、小林くんが千分の一秒まで測れるのストップウォッチで計時してくれる。二位以下のタイムは測らないが、その代わりに、先着したボートとの着差(四センチを一艇身とする。たとえば、十センチは二艇身半、二十センチは五艇身)を、ゴール横においた四センチきざみにマジックでしるしをした特製ものさしをたよりに、健一が判定した。微妙な着順は、全員が文句なく健一の判定に従うことになっている。すべてのレース結果は、下山くんのノートにきちんと記録されていくことになった。
 ボートレースの参加者は、英明学院五年クラスの男子だけに限られている。隆志や健一たちがボートレースを始めたころは、何人かの女の子たちも一緒にやっていた。
 でも、異様なくらいにボートレースに熱中していく男子たちについていけなかったようで、いつのまにか姿を見せなくなった。
 他の学年の生徒たちも、隆志たちのボートレースをまねて、しばらくの間はやっていたようだ。
 しかし、彼らには、健一のような優れたリーダーがいなかったのか、すぐにあきて止めてしまっていた。

 十一月の第四月曜日。
 ついに、ボートレースの公式戦がスタートした。
 記念すべき最初の優勝を飾ったのは、坂口くんのホクト1号である。
 いつもはおとなしくて目立たない坂口くんは、ほほを真っ赤にしほとんど泣き出しそうな顔をして、みんなの拍手の中、健一からトロフィーを受け取った。
 隆志のオオタニ号は、予選第二組であっさりドンジリ負けになっていた。隆志は、その後の熱戦に声援をおくりながらも、だらしない自分とボートに腹を立てていた。

 金曜日のレースの前に、記録委員の下山くんがみんなに言った。
「昨日、二日間のボートレースの成績を整理していて思いついたんだけど」
「なんだい?」
 予選の組み合わせを決めていた健一が、顔をあげて下山くんにたずねた。
「毎回のレースの合計で、順位を決めてみたらどうかと思うんだ」
「ボートごとのか?」
「いや、ボートはしょっちゅう変わっちゃうからだめだよ。選手ごとに合計してみたらいいんじゃないかな。例えば、優勝は十点、二位は五点とか、点数をつけといてさ。それを年末に合計して、MVPを決めたらどうかな」
「そりゃ、いいや」
 健一もすぐに賛成した。
「賞品はどうする?」
 表彰委員の村井くんが口をはさんだ。
 健一は、ちょっと考えてから言った。
「持ち回りじゃなくて、トロフィーを自分のにするってのはどうかな。台座に名前を彫ってさ」
「塾のテストみたいだな」
 誰かが野次を飛ばしたが、健一はそれを無視して話をすすめた。
 けっきょく、年末までの全レースの成績によって、最優秀選手を選ぶことに決まった。
 決勝レースの一位は十点、二位が九点、三位が八点、四位が七点。決勝に出られなかった選手でも、準決勝、準々決勝、予選の成績によって、それぞれ一点ずつ少ない点数が与えられる。そうすると、予選でビリになっても、一点はもらえることになるわけだ。
「予選のドンケツといえば、最悪じゃないか。これは零点でもいいんじゃないの?」
 こう言った三谷良夫は、二日目の優勝者だった。
「それじゃ、どうするんだよ」
 すぐに口をとがらせて言い返したのは、村井くんだ。彼は、二日ともドンジリ組だった。
「二位以下の得点を一点ずつ減らすのさ。そうすりゃ、決勝の一位と二位の差は二点になるよ。やっぱりなんたって、優勝は特別だよ」
「勝手なこと言うなよ。自分が優勝したからって」
「ちょっと待てよ。仲良くやろうぜ。遊びなんだから」
 健一が、ふたりの言い争いに割って入った。
「やっぱりさ、さっきの通り予選のドンジリにも一点をやろうよ。オリンピックじゃないけど、参加することに意義があるんだからさ。なっ、よっちゃん。いいだろ?」
 健一にそう言われて、三谷くんもしぶしぶOKした。
 年間表彰のトロフィーは、総合成績以外に、最高タイム保持者と、全レースでの一位の数できめる最多勝利者にも、おくられることになった。
 こうして隆志たちは、ボートレースのトリプル・クラウンを目指すことになったのだ。
「三冠王がでるかな?」
 誰かが、わくわくしたような声で言った。
「プロ野球みたいにか」
「ああ」
「難しいんじゃないかな」
 そう言ったのは、下山くんだ。かれは、どんなことでも分析して批評するのが好きだった。
「おっ。評論家先生の登場」
 三谷くんに野次られて、下山くんは少しムッとしていた。<評論家>というのは、彼のあだ名だからだ。
「だって、そうだろ。MVPはさ、安定した成績じゃないとだめだもの。最多勝利は、一位かドンジリかの一発屋でも、けっこういい線いけると思うけど。MVPはさ、いつも確実に二位以上に入って、次のレースに進める安定性が必要なんだ。だから、ふたつのタイトルを同時に取るのは難しいよ」
「それもそうだな」
「それに最高タイムとなると、運しだいだからな」
「そう。水の量が多い時と少ない時じゃ、五秒はタイムが違うな」
「だから、ボートレースの三冠王はでないと、ぼくはみるね」
 最後に、下山くんはきっぱりと断言した。
 総合成績をだすことが決まると、みんなのボートレースへの参加率は、ほとんど百パーセントになった。これまでは、塾を休んだり、レース出場の申し込み時刻に遅れたりする子が、いつも何人かはいた。
 しかし、今では、そんなことをしては総合成績に響いてしまうので、三時五十五分に全員が集まってくる。締め切り直前になると、遠くから息を切らせて走ってくる子が、毎日、に、三人はいた。

インディⅡ号の栄光
クリエーター情報なし
平野 厚
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フランケンの一日

2016-10-27 16:19:19 | 作品
 タケシの右手の中指と薬指からにじんでいた血は、もう固まっていた。
 でも、塾の先生が黒板に書いた算数の問題を写す時に、まだ少しだけ痛んだ。
 タケシは、傷をじっとながめてみた。
 それは、ギュッとこぶしを固めたときに、ちょうど先端になる部分だった。
この傷は、今日、学校で、片岡ハジメをなぐった時に、彼の歯に当たってできたものだ。
 タケシがなぐり合いのけんかをしたのは、三、四年ぶりのことだった。
タケシに限らず、低学年のころこそ、ささいなことでとっくみあいをしたものだ。
ところが、学年が上がるにつれて、いつのまにか口げんかだけになっていた。徹底的に決着をつけて、肉体的に傷をあたえるばかりでなく、精神的により深い傷をつけるのをさけているのかもしれない。
たまにたがいの胸ぐらをつかむ所までいっても、そこで注意深くひと呼吸おかれる。そして、だれかがタイミングよく仲裁に入って、ことなきを得てしまう。けんかをしている当事者も、誰かが止めに入ってくれるのを待っていたのかもしれない。威勢のいい捨て台詞ははかれるもの、けんか自体はそれっきりになってしまうことが多かった。
 ところが、今日のタケシは、実際になぐる所までいってしまったのだ。
 タケシがなぐった片岡ハジメは、学校もよく休むし、成績もパッとしない。頭でっかちで、顔がちょっとフランケンシュタインに似ているので、みんなに「フランケン」と呼ばれていた。体はタケシよりも大きいくらいだが、すごくおとなしいのでいじめられっ子の一人になっている。
 今日も何人かが、教室でフランケンをからかっていた。
「ちょっと、いただき」
 トオルが、フランケンの筆箱を取り上げた。フランケンは、あわててトオルの後を追った。
「よ、よせよ」
 トオルは、ダイスケにすばやくパス。
「ほらほら、もたもたするんじゃねえよ」
 フランケンは、取り囲んだ数人の間を行ったり来たりさせられていた。
 タケシやほかのクラスメートたちは、まわりで笑いながら見ている。
ひょうきん者のユウタが、両手を前に伸ばして白目をむきながら、ユラユラとフランケンシュタインが歩くまねをしたので、みんなはドッと笑った。
「ほいっ」
 トオルが輪の外にいたタケシにパスしたのは、その時だった。
(あっ!)
不意をつかれたタケシは、筆箱を下に落としてしまった。あわてて拾い上げようとするタケシに、フランケンがとびついた。バランスをくずしていたタケシは、あっけなくひっくりかえった。それを見て、まわりのみんなは大喜びだ。
「このやろう、何すんだよ」
 タケシはカッとなってはね起きると、フランケンの胸ぐらをつかんだ。
(えっ!)
一瞬、フランケンは、タケシがドキッとするような力で腕をつかみ返した。
 でも、フランケンはすぐに力を抜いた。
 タケシは、足をかけてフランケンを倒すと、すばやく馬のりになった。力を抜いてからのフランケンは、まったく無抵抗だった。
「やれ、やれーっ」
 タケシは、まわりのはやし声につられたように、フランケンの顔をなぐってしまった。
 一発、二発、……。
 フランケンの唇が切れ、タケシのこぶしもすりむけて血がにじんでくる。
初めははやしていたクラスメートも、いつの間にかシーンとしていた。
 しかし、止める者はいない。タケシは、泣きそうになりながらなぐり続けた。フランケンの顔ははれあがり、鼻血も出てきた。
「何してるんだ。やめなさい」
 ようやくやってきた担任の岡村先生に引き離されながら、タケシはホッとしていた。

 翌日、フランケンは学校を休んだ。
 もともとフランケンは、欠席しがちだった。だから、フランケンの欠席とタケシとのなぐり合いとを結びつける者は誰もいなかった。
 しかし、タケシは、一日中、気になってしかたがなかった。
 ポツンと、ひとつだけあいているフランケンの席。なんだか、そこにポッカリと大きな穴ができているようだった。
(どうして、気にかかるんだろう?)
 今までは、フランケンが学校に来ようが、来まいがぜんぜん気にとめていなかった。タケシにとっては、フランケンは「どうでもいい奴」にすぎなかった。
(痛いっ!)
 手を動かしたら、傷がひきつれて鋭く痛んだ。
 タカシは、右手の傷口をあらためてながめた。もうすっかりふさがって、かさぶたができかかっていた。 
 フランケンは、次の日から何ごともなかったように登校してきた。
 でも、くちびるには、切れたあとが少し残っていた。
 トオルやダイスケたちは、前と変わらずにフランケンをからかいはじめた。
 しかし、タケシには、今までまったく気にならなかったこの光景を、ながめ続けることができなくなっていた。そして、そんな時には、さりげなくその場を離れるようになった。

 数日後の昼休みだった。
 ダイスケが、ニヤニヤ笑いを浮かべて、タケシに近づいてきた。
「タケちゃん。今度の日曜日にひまある?」
「うん。特に予定はないけど」
「それならさ、原宿へ行かないか?」
 女の子二人と、ダブルデートしないかという誘いだった。
「誰とだよ?」
 タケシがたずねると、ダイスケは声をひそめて答えた。
「島田さんと川井さん」
「へーっ」
 島田さんといえば、クラスで一番人気のある女の子だ。テレビに出ているアイドルに似ているという者もいる。ダイスケも、彼女のファンのひとりだった。
「何だよ。島田さんと二人で行けばいいじゃないか」
「それがさ、二人だけじゃいやだっていうんだ。川井さんと一緒ならいいっていうんだけど。それでさ、おれの方もおまえを誘ったって訳なんだ」
「ふーん」
 あいかわらず、話をまとめるのがうまいやつだ。 
「タケシだって、川井さんとならいいだろ」
 タケシは、ダイスケにズバリと本音をいわれてしまって、ドキンとした。
 川井さんは、前にクラス委員を一緒にやっていたので、タケシとは仲がいい。時々、二人の名前を相合いがさやハートマークで囲った紙が、クラスの中をまわったりしている。タケシもそれを見て、まんざら悪い気持ちではなかったのだ。
「OK、おれも行くよ」
 タケシは、思い切ってダブルデートに参加することにした。例えダイスケたちといっしょとはいえ、女の子とデートするのはもちろん初めてだった。
「そうこなくっちゃ」
 さっそくダイスケは、当日の計画を細かく話しだした。さすが、岡村先生が命名するところの、「スリーマセターズ」の一員だけのことはある。こんなときの用意はぬかりがなかった。
 タケシとダイスケは、音楽や映画の趣味があった。クラスのほかの子たちは、アイドルグループなんかのファンで、大人ぶるのが好きなタケシとは話があわない。そんな時、ヒップホップ系の音楽情報を交換するのに、ダイスケはかっこうの相手なのだ。
 ダイスケは背も高いし、ファッションセンスも抜群なので、女の子にもてている。その点は、六年生になっても、今だにボッちゃん刈りにしているタケシとはぜんぜん違う。

 タケシとダイスケは、おおぜいの人たちでごったがえす竹下通りを歩いていた。もちろん、島田さんと川井さんも一緒だ。
「キャー、かわいい!」
 女の子たちはが、いろいろなグッズを見つけるたびに立ち止まってしまう。おかげで、タケシたちはなかなか前に進めなかった。
 今日の二人は、いつもよりはでなワンピースを着て、大きなアクセサリーまでつけている。タケシには、まぶしすぎるくらいだった。
 ダイスケも、バリッとしたブレザーできめている。タケシは、自分のセーターとジーンズ姿が、みすぼらしくさえ感じられた。
 あちこちで行われているストリートパフォーマンスを見物してから、キディランドでゲームやおもちゃを見る。ダイスケの立てたスケジュールどおりに、デートは進んでいく。
「ねえねえ、今度のARASHIのCD買ったあ」
 ダイスケが、いかにも興味しんしんといった感じで、女の子たちにたずねた。
「えーっ。ダイスケくん、持ってるのお」
 島田さんが、顔をかがやかせていった。
「今度貸してよ」
「うん、いいよ」
 いつもとまったく違う内容の話を巧みにこなす、ダイスケの変わり身のはやさはあきれるほどだ。
タケシもけんめいに話を合わせようとするのだが、しだいにみんなから浮いてしまっていた。何だか川井さんまでが、いつもとは別の子のように感じられてきた。
「かっこいいーっ!」
 島田さんが、急に大声を出した。みんなは、彼女の指さす方を見た。
 中学生ぐらいの男の子が、七、八人、スケートボードに乗って走ってくる。みんな、そろいの皮ジャンに身を固めていた。
「すごーい!」
 川井さんも、感心したような声を出した。
 男の子たちは、クレープを立ち食いしていたタケシたちの前を、アッという間に通り過ぎていった。
「あれえーっ。今の中に、フランケンがいたよーっ」
 島田さんが、びっくりして叫んだ。
「えーっ。まさかーっ?」
 みんなは、振り返って走り去っていく彼らを見送った。タケシの眼にも、集団の先頭でひときわあざやかにボードをあやつる少年が、フランケンのように思えた。
 しかし、その時、川井さんが首をかしげながらいった。
「違うんじゃない」
「そうだよ。フランケンのはずないじゃん」
 ダイスケがそういって、両手を前に差し伸べて白目をむいて、ユラユラとフランケンシュタイン・ウォークをやってみせた。
「キャハハハ、……」
 みんなは、思わずわらってしまった。
 話題はすぐにほかへ変わったけれど、タケシにはさっきの少年の姿がはっきりと記憶された。

 タケシのかよっている塾は、月、水、木、土と、週四回も授業がある。火曜と金曜には家庭教師が来るし、日曜にも模擬試験に行くことが多い。一週間、毎日休みなしで勉強に追われている。それもみんな、あと四か月後に迫った中学受験のためだ。
 タケシはそんな生活に疲れると、塾をさぼって自転車で遠乗りする。
 友だちの家へ行くとさぼりがママにばれるし、ゲームセンターなんかに行けば補導されるかもしれないので、学区外の町をうろつくだけにすぎない。
 タケシはこの日も塾をさぼって、U高校に向かっていた。
 U高校には、道路を隔てて、今は使われていない小さなサブグラウンドがある。タケシは、そのサブグラウンドの少し手前に自転車を止めると、そっと中をのぞきこんだ。
(いた)
 フランケンだ。
 コーラの缶を並べて作った障害物の間を、スケートボードで滑っている。
 タケシは、フランケンがここで滑っているのを、前にも見かけたことがあったのだ。
 でも、その時はチラッと通りがかりに見ただけだったので、フランケンがどのくらいうまいかはわからなかった。
 それで、この間の原宿の少年がフランケンだったのかどうかを、確かめに来たのだ。
 フランケンは、あざやかにボードをターンさせて滑っている。やはり、原宿の少年はフランケンようだった。
 その時、フランケンは最後の缶にボードをぶつけてしまった。バランスを崩したフランケンは、激しく転倒した。
(すげえ、けっこうハードなんだなあ)
 思わず前に乗り出したタケシと、フランケンの目が合った。
 次の瞬間、フランケンは顔に恐怖の色を浮かべると、ボードをつかんで走り出した。反対側の金網を越えて、逃げるつもりらしい。タケシは夢中になって、大声で叫んだ。
「待ってくれ!」
 フランケンは、金網の所でこちらを振り返った。
 しかし、両手を金網にかけて、いつでもよじ登れるように身構えている。
「こないだは、ごめん」
 タケシは、自分の口から出た言葉に驚いていた。今の今まで、フランケンにあやまろうとは思っていなかったからだ。
 タケシは続けて何かしゃべろうとしたが、言葉が浮かんでこない。
 しばらくの間、二人は、おたがいを見つめ合いながら立っていた。
 タケシが先に照れたように笑うと、フランケンはゆっくりとこちらへ戻って来た。
 でも、顔はまだ少しこわばっている。タケシは、すばやく金網を乗り越えた。
「やあ」
 少しはにかみながら、タケシはあらためてあいさつしたが、フランケンはいぜんとして黙っている。タケシのほうをじっと見ていた。フランケンの上唇には、この前の傷のなごりが残っている。タケシの指の傷も、かさぶたになっていた。
「いつもここで練習してるのか?」
 フランケンは、コクンとうなずいた。
「だまって入って、よくおこられないな?」
 もう一度たずねると、ようやくフランケンが口をひらいた。
「うん。でも、もうすぐ工事が始まって使えなくなるけど」
「何ができるんだい?」
「マンションだって」
 タケシは、思い切っていってみた。
「この前、原宿で見かけたよ」
「えっ!」
「かっこよかったな」
 フランケンは、顔を少し赤くした。
 タケシは、フランケンにまたスケートボードで滑ってもらった。
 コーラ缶のコースでのスラローム。途中の障害物を飛び越えるジャンプ。さらに驚いた事には、ベニヤ板を立て掛けた特製スロープで、すごいターンまで演じてくれた。
 タケシも、ボードの乗り方をフランケンにコーチしてもらった。
 三十分ほどして、ようやくゆるゆると進むようになったころには、あたりは薄暗くなってきていた。
「帰ろうか?」
 とうとうフランケンがいった。
「うん」
 タケシは、元気なくうなずいた。まだ塾が終わる時間にはならない。あと一時間以上もひまをつぶさなければ、家へ帰れないのだ。
 二人の自転車が家の近くまで来た時、フランケンは遠慮がちにいった。
「タケシくん、時間ある?」
「うん」
「それじゃあ、うちによっていかない?」
「えっ、いいのかあ」
 タケシは、内心のうれしさを隠して、さりげなさそうにいった。

 フランケンの家は、バス通りに面した古いマンションだった。
 タケシとフランケンは、マンションの駐輪場に自転車をとめて、建物の中に入っていった。
フランケンの家は、マンションの八階にあるという。古ぼけたエレバーターは、ゆっくりゆっくりと二人を乗せて上がっていった。
 ガチャン。
 ドアの鍵を開けると、玄関の電気がついていた。
 家には、中学生だというフランケンのおねえさんが、先に帰ってきていた。おとうさんもおかあさんも、まだいなかった。
「こらあ、ハジメ。ハトのエサやりに遅れたぞ」
 フランケンの顔を見るとすぐに、おねえさんはちょっと怒ったふりをしていった。
「いけねえ」
 フランケンはかばんを自分の部屋に放り込むと、すぐにベランダに出た。タケシも、その後に続いた。
 外は風が強い。ベランダには小さなハト小屋があり、二羽のハトが寒そうにこちらを見ていた。
 フランケンは手早くふんの始末をすると、水とエサを換えた。ついでに、壁沿いに並べてある鉢植えの草花にも水をやっている。
 タケシは、ベランダからぼんやりと自分の家の方向をながめていた。
「ハジメの友だちが来るなんて、めずらしいねえ」
 いつの間にか、フランケンのおねえさんもベランダに来ていた。
 スラリと背の高い人で、あまりフランケンに似ていない。びっくりするぐらい真っ黒な髪の毛を、無造作にうしろにたばねている。
「こんにちは。あっ、いけねえ、こんばんは」
 タケシは、あわててあいさつした。
「こんばんは、お名前は?」
 おねえさんは、ニコニコしながら聞いてくれた。
「水村タケシです」
 タケシは、緊張しながら答えた。
「タケちゃんね。今日、ごはんを食べていきなさいよ」
 おねえさんは、あたりまえのようにあっさりといった。
「そんなあ」
 タケシはあわてていった。
「いいの、いいの、うちの両親は遅いんだから。今日は、二人で食べるつもりだったの。にぎやかな方がいいよ」
 彼女は、フランケンのおねえさんとは思えないほど、きびきびとひとりで決めてしまった。

「これ、やらないか?」
 フランケンが持ち出したのは、手作りらしいゲーム盤だった。木製で、あちこちにくぎが打ってあり、ところどころのくぼみに点数が書いてある。
「コリントゲームっていうんだ。パチンコみたいなもんだけど」
 フランケンは、部屋の真ん中にゲーム盤をセットしながらいった。
「これ、フランケン、じゃなかった、ハジメくんが作ったの?」
 タケシがたずねると、
「ううん。とうさんが作ったんだ。器用なんだよ」
と、フランケンは少し得意そうにいった。
 盤の右はじがバネじかけになっていて、ビー玉をひとつずつ前へ打ち出す。
板が傾斜しているので、あちこちのくぎに当たりながら、ビー玉は手前に戻ってくる。
途中のくぼみに入れば、その点数がもらえるが、一番下までくると零点だ。ひとり五個ずつはじいて合計点で勝負する。
 いきおいよくはじかれたビー玉は、電灯の光をうつしてキラキラと光りながらころがってくる。
 バネのはじき方にコツがあるのか、クラスではゲーム名人でとおるタケシも、フランケンにはなかなか勝てなかった。
「あのハトは、ハジメくんのか?」
 三連敗をきっした後、タケシはベランダのハト小屋を見ながらいった。
「うん、まだ飼い始めたばかりだけど」
 フランケンは、またビー玉をはじきながら答えた。
「高いのかい?」
 ハトのことはぜんぜん知らないが、なかなかきれいなハトだった。
「うん、二羽で、一万二千円」
「へーっ。金持ちなんだな」
 タケシは、うらやましそうにいった。
「アルバイトしてるんだ」
 フランケンは、声をひそめていった。
「内緒だけど、新聞配達、朝刊だけやってんだ」
「すげえ、おこられないの?」
 タケシはびっくりしていった。
「うちの両親は、あんまりうるさくないのよ」
 おねえさんが、振り返りながらいった。
「それより、水村くん、おうちへ電話しなくていいの」
 口ごもったタケシを見て、おねえさんはニヤリとしただけで何もいわなかった。

 夕食は、意外なほど早くできあがった。
フランケンは、当然のようにテーブルに食器を並べて、おねえさんを手伝っている。タケシは、小さくなってそれを見ていた。
「たくさん食べてね」
 おねえさんは、ごはんをよそいながらタケシにいった。
 おかずは、大きなオムレツにポテトサラダ。野菜の煮物にお新香。そして、おみそ汁とごはん。
 ごはんはやわらかすぎたし、みそ汁も塩辛かった。
 でも、タケシには、自分の家でのどんな食事よりも、おいしく感じられた。いつもなら絶対手を出さない野菜の煮物も残さず食べ、ごはんを三杯もおかわりしておねえさんを喜ばせた。
 食べ終わると、フランケンは皿洗いを手伝い始めた。
 フランケンは、スポンジに洗剤を含ませて手早く汚れた食器を洗っていた。洗い終わった食器は、おねえさんがお湯ですすいでふいている。
「あのーっ」
 タケシは、少しためらってから声をかけた。
「なに?」
 おねえさんが振り向いた。
「ぼくにも手伝わせてください」
 タケシは、少し顔を赤くしていった。
「いいのよ。すぐ終わるから」
「でも、やらせてください」
 タケシは力を込めていった。
「そうーぉ。じゃあ、ふくのをやってもらおうかしら」
 おねえさんは、そういってふきんをタケシに渡した。
 タケシは、おねえさんがすすいだ食器を受け取った。ぬれているので持ちにくい。もう少しで下へ落としそうになった。
「フフッ。家であんまりお手伝いしてないんでしょ」
 タケシのぎこちない手つきを見て、おねえさんが笑いながらいった。フランケンも笑っている。タケシの顔はまた赤くなった。

 タケシが、フランケンの家を出たのは、もう八時を少しまわっていた。
いつもだったら、家に着くころだ。さぼりがばれないように、タケシは全速力で自転車をこがなければならなかった。
 家には、タケシの遅い夕食が、いつものように残されていた。
 オムレツが皿の上でゆげを立てているのを見て、さすがにタケシはギョッとした。
 でも、がんばってなんとか残さずにたいらげた。
「皿洗い、手伝おうか?」
 食べ終わった時、タケシはママに申し出た。
「……」
 ママはエイリアンでも見るような眼つきをして、タケシをしばらくみつめていた。
「いいのよ、タケちゃん。疲れてるんだから。それよりゲームでもやったら」
 ママは、ぎこちない笑顔を浮かべていった。
 タケシは、素直にしたがって自分の部屋へ戻ることにした。
 いつもだったら、一日三十分だけゆるされているテレビゲームを始める所だ。七時からのアニメも、ママがビデオにとっておいてくれてある。タケシの部屋には、専用のテレビもビデオも備えられていた。
 でも、そのどちらも、今日はタケシの関心をひかなかった。

 翌朝、タケシはいつもよりねぼうしたので、登校したのは遅刻ぎりぎりだった。
 フランケンの机の横を通った時、タケシは小さな声でいった。
「おはよう」
「……」
 フランケンはびっくりしたような顔をして、タケシを見送っていた。
「タケちゃん、ばっちり、ばっちり」
 ダイスケが、ハミングしながらやってきた。
「何が?」
「マユちゃんの誕生パーティーに呼ばれたのさ」
 ダイスケは、ウインクしながらささやいた。
「マユちゃんて?」
「島田さんのことさ」
 ダイスケは、声をひそめてさらにいった。
「タケちゃんはどうなんだ。川井さんと」
 タケシはあいまいにわらってごまかすと、ちらりと川井さんを見た。あれ以来、川井さんに接するタケシの態度は、かえってぎこちなくなっている。

 昼休みが終わって、タケシは教室へ戻ってきた。
(あれ?)
 国語の教科書に何かがはさんである。
ひろげてみると、手紙のようだった。
『タケシくん、
 A公園にギンナン取りに行くんだけど、いっしょに行かないか』
 フランケンからだ。
 署名はなかったけれど、タケシにはすぐにわかった。かわりに、濃い鉛筆で丹念に描いた鳩の顔があったからだ。
 タケシは、振り返ってフランケンを見た。
 しかし、フランケンは、いつものようにぼんやりと前を見ているだけだった。
 今日、フランケンは、タケシに話しかけてこなかった。タケシの方からも、朝の時以外は特に声をかけるようなことはなかった。まわりから見たら、二人の関係は今までまったく変わらないように見えたことだろう。昨日、フランケンの家まで行ったのが、まるで夢のようだった。
(どうしようか?)
 今日も、あの不思議な「フランケンの一日」に付き合いたいような気がしていた。

 塾の教室では、先生が方程式を熱心に説明している。
タケシは迷いながらも、ギンナン取りを断って塾へ来たのだ。
「ごめん、今日は塾に行かなければならないから」
 誰もいないのを見はからって、学校の階段で声をかけた。
「そう、じゃあ、またね」
 フランケンは、残念そうにそういった。
 でも、すぐに思い直したようだった。
「今度、また家に来ないか?」
「うん、きっと」
 そう答えると、フランケンはうれしそうな笑顔をみせた。
 タケシは、黒板から目をはなすと、ぼんやりとフランケンの事を考えた。
今ごろ、A公園のいちょう林の中で、フランケンはギンナンを拾っているだろう。楽しそうなフランケンの姿が、見えるような気がした。かぶれないように、ポリ袋で手をおおっている。そして、なぜか自分もそこに一緒にいるように思えたのだ。
「それじゃあ、水村、三番を答えて。」
 タケシは、再び方程式の問題に集中していった。


フランケンの一日
クリエーター情報なし
平野 厚
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