現代児童文学

国内外の現代児童文学史や現代児童文学論についての考察や論文及び作品論や創作や参考文献を、できれば毎日記載します。

病院

2022-01-24 15:08:54 | 作品

 ガチャン。
 ぼくは、アパートの部屋の鍵を開けた。
「ただいま」
 ドアを開いて中に入る。
でも、なんの返事もない。家に帰っても、そこには誰もいない。おかあさんはいないのだ。
ぼくは、学童からの帰りを、いつも少し早くしてもらって、暗くならないうちに一人でアパートへ帰っていた。ぼくの通っている学童では、本当は迎えの人がいないといけない。
でも、日没前に帰るのだったら、特別に迎えなしに一人で帰るのも許されている。
アパートに着いた時に部屋に誰もいないのは、いつものことだ。明かりのついていない暗い部屋に一人で入るのも慣れていた。
今までは、全然平気だったのだ。
でも、おかあさんが入院してからは、それがだめになった。
今までも、おかあさんは七時ごろにならないと、仕事から帰らなかった。それまでの間は、いつも一人で待っていた。
だけど、それはそれで大丈夫だったのだ。おかあさんがもう少しで帰ってくると思うと、部屋に一人でいても平気だった。
それが、今はすっかりだめになっている。一人きりで一晩中すごさなければならないと思うと、たまらない気持だった。
アパートに着くと、まだ薄明るいのに、すぐに部屋中の灯りをつけた。そうしないと、不安でとても耐えられなかった。

おかあさんは、先月から内臓の病気で入院している。仕事と家事におわれて、働きすぎたったのが原因のようだった。
ぼくの家にはおとうさんがいなかったから、おかあさんが一人でがんばりすぎたのかもしれない。
世田谷のおばさん(おかあさんのお姉さんだ)は、入院中はこちらで一緒に暮らそうと言ってくれた。
でも、それだと、学校を一時転校しなければならない。
だから、ぼくは一人暮らしを選んだ。
そんなぼくを助けるために、おばさんは、毎週水曜日と土曜日に、大きな保冷バッグをいくつも抱えてやってくる。
おばさんは、持ってきた電子レンジでチンすればすぐに食べられるようにパックしたおかずで、うちの冷蔵庫の中を満杯にしてくれた。そして、それと入れ替わりに、ぼくが洗っておいた食べ終わった容器などは持ち帰ってくれる。
土曜日に来た時には、一緒に病院へお見舞いにも連れていってくれた。その時には、おかあさんの着替えを持って行って、一週間分の洗濯物を持って帰る。
水曜日には、何回も洗濯機を回して、一週間でたまった洗濯もしてくれて、家の中に干してくれる。狭いアパートの中は、洗濯物でいっぱいだ、
その中には、土曜日に病院から持ち帰ったおかあさんの洗濯物も交じっている。それを見ると、おかあさんが恋しくなってしまった。
おばさんは、洗濯機を回す間に部屋の掃除もしてくれた。
こうして、おばさんが家事のほとんどをやってくれるので、ぼくがやらなくていけないのは、お風呂を沸かすのと、おばさんが分別しておいてくれたゴミを出すことぐらいだった。
それに、郵便物をおかあさんに持っていったり、回覧板を回したりもしている。

 ある日、学童の帰りに、家に寄ってから、おかあさんのお見舞いに病院へ行くことにした。
 土曜日におばさんと一緒に行った時に、持っていくのを忘れた着替えがあることに気がついたからだった。持っていかないと、きっとおかあさんが困るだろう。
いつもはおばさんと一緒だったので、一人で病院へ行くのは初めてだった。
病院の平日の面会時間は、5時からだった。病院までは歩いていくと、ぼくの家からは二十分はかかる。ぼくは、それに合わせて家を出た。

 病院は、通学路から外れて大通りを越えたところにある。大通りが危ないから、一人では来ないように言われていた。
 でも、今日はそんなことはかまっていられない。大通りを渡る時、ぼくは信号が青になっても、用心して左右を十分に確認してからダッシュした。
 病院の建物は、古い木造だった。廊下も階段も、歩くたびにギシギシなった。階段の真ん中あたりは、すりへってへこんでいる。
 二階の一番奥が、おかあさんの病室だった。
部屋には、ベッドが四つあった。おかあさんのベッドは、窓際の左側だった。
病室の中はシーンと静まり返っていた。病人たちはみんな眠っているようだった。
 ぼくは、まわりの人に迷惑がかからないように、忍び足で近づいていった。
 おかあさんは、じっと目をつむって眠っていた。顔色が真っ黄色で、何だかしなびてしまったように見える。ぼくは、おかあさんの髪の毛にずいぶん白髪がまじっていることに、初めて気がついた。
(どうしようか?)
と、ぼくは困ってしまった。
 せっかく良く寝ているのに、おかあさんを起こしてしまうのは悪いと思う。
 でも、そばで目を覚ますのを待つのも、なんだか恐ろしいような気がした。
迷った末に、ぼくは、一階の待合室で、おかあさんが目覚めるのを待つことにした。家からランドセルに入れて持ってきた着替えの包みを、ベッドに作り付けになっているテーブルの上に置いて、また忍び足で病室を出ていった。 

 待合室には、いろいろな人たちがいた。
 頭に包帯をグルグルまきにしたおじさん。移動式の点滴を付けたままのおばさん。
 この病院は全館禁煙なので、タバコを吸っている人はいない。タバコを吸うには、建物の外まで出なければならなかった。おかげで、ぼくの嫌いなタバコの煙に悩まされることはなかった。
 みんなは、ぼんやりとテレビを眺めていた。テレビでは、ドラマの再放送をやっている。古いテレビのせいか、画面の色がにじんでいる。画面も上下が黒くなっていてその分小さかった。
 ぼくは、ソファーの端に腰を下ろした。ドラマには興味がないので、ランドセルからコミックスを出して読み始めることにした。
 ウーーン、ウーーン。
 突然、どこからかうめき声が聞こえてきた。ぼくは、コミックスから顔を上げた。どうやら近くの病室からのようだ。
「かわいそうにねえ。まだ若いのに」
 点滴のおばさんがいった。
「頭に水がたまって苦しいんだってよ」
 包帯のおじさんが答える。
 ぼくは体を縮めるようにして、またコミックスを読み始めた。
「ねえ、ぼく、何年生?」
 点滴のおばさんが話しかけてきた。
「三年です」
「そうかい。誰か入院してるの?」
「おかあさんが」
「そうかい、そうかい。大変だねえ」
 おばさんは、一人でうなずいていた。

 ピーポ、ピーポ。……。
 救急車のサイレンが鳴り響いてきた。
「急患でーす」
お医者さんや看護士さんたちが、あわただしく走りまわっている。
「交通事故です!」
 誰かが叫んだ。
「ストレッチャー!」
 ガチャーン。
 非常ドアが力いっぱい開けられて、救急隊員たちが入ってくる。移動式のベッドのような物の上には、患者さんが乗っているようだが、ぼくは怖くてそちらが見られなかった。
「ECU(緊急治療室)へ!」
 看護士さんが叫んでいる。みんなはすごい勢いで、ぼくのそばを駆け抜けていった。
「ぶっそうだねえ」
 包帯のおじさんがいった。
「おお、やだやだ」
 点滴のおばさんは、肩をすくめている。
 ぼくはそんな騒ぎの中で、みんなから隠れるように首を縮めて、じっとコミックスを見つめていた。
 でも、なかなかキャラクターもストーリーも頭に入ってこなかった。

「たけちゃん、やっぱり来てたのね。」
 顔を上げると、おかあさんが立っていた。ピンクのガウンをはおって、水色のスリッパをはいている。
「おかあさん!」
 ぼくは、ソファーから飛び上がるようにして立ち上がった。
 かあさんの顔色は、やっぱり黄色っぽかった。
 でも、いつものやさしい笑顔を浮かべていた。
 ぼくもけんめいに笑顔を見せようとしたが、うまくいかなかった。
「どうしたの? 何か怖いことでもあったの?」
 おかあさんが心配そうにたずねた。ぼくの顔が、こわばっていたからかもしれない 
「ううん」
 ぼくは、首を横に振った。さっきまでの恐ろしかった事は、おかあさんには言いたくなかった。
「一人では来なくてもいいよ。着替えも大丈夫。土曜日に、世田谷のおばさんと一緒に来ればいいんだから」
「うん、わかった」
 ぼくはコクリとうなずくと、一番聞きたかったことをおかあさんにたずねた。
「おかあさん、おかあさんは絶対に死なないよね」
「うんうん、たけちゃんを残して死んだりしないよ」
 おかあさんは、笑いながら答えてくれた。ぼくは、そんなおかあさんの顔をじっと見つめた。

    

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

病院

2021-12-24 17:19:31 | 作品

 ガチャン。
 ぼくは、アパートの部屋の鍵を開けた。
「ただいま」
 ドアを開いて中に入る。
でも、なんの返事もない。家に帰っても、そこには誰もいない。おかあさんはいないのだ。
ぼくは、学童からの帰りを、いつも少し早くしてもらって、暗くならないうちに一人でアパートへ帰っていた。ぼくの通っている学童では、本当は迎えの人がいないといけない。
でも、日没前に帰るのだったら、特別に迎えなしに一人で帰るのも許されている。
アパートに着いた時に部屋に誰もいないのは、いつものことだ。明かりのついていない暗い部屋に一人で入るのも慣れていた。
今までは、全然平気だったのだ。
でも、おかあさんが入院してからは、それがだめになった。
今までも、おかあさんは七時ごろにならないと、仕事から帰らなかった。それまでの間は、いつも一人で待っていた。
だけど、それはそれで大丈夫だったのだ。おかあさんがもう少しで帰ってくると思うと、部屋に一人でいても平気だった。
それが、今はすっかりだめになっている。一人きりで一晩中すごさなければならないと思うと、たまらない気持だった。
アパートに着くと、まだ薄明るいのに、すぐに部屋中の灯りをつけた。そうしないと、不安でとても耐えられなかった。

おかあさんは、先月から内臓の病気で入院している。仕事と家事におわれて、働きすぎたったのが原因のようだった。
ぼくの家にはおとうさんがいなかったから、おかあさんが一人でがんばりすぎたのかもしれない。
世田谷のおばさん(おかあさんのお姉さんだ)は、入院中はこちらで一緒に暮らそうと言ってくれた。
でも、それだと、学校を一時転校しなければならない。
だから、ぼくは一人暮らしを選んだ。
そんなぼくを助けるために、おばさんは、毎週水曜日と土曜日に、大きな保冷バッグをいくつも抱えてやってくる。
おばさんは、持ってきた電子レンジでチンすればすぐに食べられるようにパックしたおかずで、うちの冷蔵庫の中を満杯にしてくれた。そして、それと入れ替わりに、ぼくが洗っておいた食べ終わった容器などは持ち帰ってくれる。
土曜日に来た時には、一緒に病院へお見舞いにも連れていってくれた。その時には、おかあさんの着替えを持って行って、一週間分の洗濯物を持って帰る。
水曜日には、何回も洗濯機を回して、一週間でたまった洗濯もしてくれて、家の中に干してくれる。狭いアパートの中は、洗濯物でいっぱいだ、
その中には、土曜日に病院から持ち帰ったおかあさんの洗濯物も交じっている。それを見ると、おかあさんが恋しくなってしまった。
おばさんは、洗濯機を回す間に部屋の掃除もしてくれた。
こうして、おばさんが家事のほとんどをやってくれるので、ぼくがやらなくていけないのは、お風呂を沸かすのと、おばさんが分別しておいてくれたゴミを出すことぐらいだった。
それに、郵便物をおかあさんに持っていったり、回覧板を回したりもしている。

 ある日、学童の帰りに、家に寄ってから、おかあさんのお見舞いに病院へ行くことにした。
 土曜日におばさんと一緒に行った時に、持っていくのを忘れた着替えがあることに気がついたからだった。持っていかないと、きっとおかあさんが困るだろう。
いつもはおばさんと一緒だったので、一人で病院へ行くのは初めてだった。
病院の平日の面会時間は、5時からだった。病院までは歩いていくと、ぼくの家からは二十分はかかる。ぼくは、それに合わせて家を出た。

 病院は、通学路から外れて大通りを越えたところにある。大通りが危ないから、一人では来ないように言われていた。
 でも、今日はそんなことはかまっていられない。大通りを渡る時、ぼくは信号が青になっても、用心して左右を十分に確認してからダッシュした。
 病院の建物は、古い木造だった。廊下も階段も、歩くたびにギシギシなった。階段の真ん中あたりは、すりへってへこんでいる。
 二階の一番奥が、おかあさんの病室だった。
部屋には、ベッドが四つあった。おかあさんのベッドは、窓際の左側だった。
病室の中はシーンと静まり返っていた。病人たちはみんな眠っているようだった。
 ぼくは、まわりの人に迷惑がかからないように、忍び足で近づいていった。
 おかあさんは、じっと目をつむって眠っていた。顔色が真っ黄色で、何だかしなびてしまったように見える。ぼくは、おかあさんの髪の毛にずいぶん白髪がまじっていることに、初めて気がついた。
(どうしようか?)
と、ぼくは困ってしまった。
 せっかく良く寝ているのに、おかあさんを起こしてしまうのは悪いと思う。
 でも、そばで目を覚ますのを待つのも、なんだか恐ろしいような気がした。
迷った末に、ぼくは、一階の待合室で、おかあさんが目覚めるのを待つことにした。家からランドセルに入れて持ってきた着替えの包みを、ベッドに作り付けになっているテーブルの上に置いて、また忍び足で病室を出ていった。 

 待合室には、いろいろな人たちがいた。
 頭に包帯をグルグルまきにしたおじさん。移動式の点滴を付けたままのおばさん。
 この病院は全館禁煙なので、タバコを吸っている人はいない。タバコを吸うには、建物の外まで出なければならなかった。おかげで、ぼくの嫌いなタバコの煙に悩まされることはなかった。
 みんなは、ぼんやりとテレビを眺めていた。テレビでは、ドラマの再放送をやっている。古いテレビのせいか、画面の色がにじんでいる。画面も上下が黒くなっていてその分小さかった。
 ぼくは、ソファーの端に腰を下ろした。ドラマには興味がないので、ランドセルからコミックスを出して読み始めることにした。
 ウーーン、ウーーン。
 突然、どこからかうめき声が聞こえてきた。ぼくは、コミックスから顔を上げた。どうやら近くの病室からのようだ。
「かわいそうにねえ。まだ若いのに」
 点滴のおばさんがいった。
「頭に水がたまって苦しいんだってよ」
 包帯のおじさんが答える。
 ぼくは体を縮めるようにして、またコミックスを読み始めた。
「ねえ、ぼく、何年生?」
 点滴のおばさんが話しかけてきた。
「三年です」
「そうかい。誰か入院してるの?」
「おかあさんが」
「そうかい、そうかい。大変だねえ」
 おばさんは、一人でうなずいていた。

 ピーポ、ピーポ。……。
 救急車のサイレンが鳴り響いてきた。
「急患でーす」
お医者さんや看護士さんたちが、あわただしく走りまわっている。
「交通事故です!」
 誰かが叫んだ。
「ストレッチャー!」
 ガチャーン。
 非常ドアが力いっぱい開けられて、救急隊員たちが入ってくる。移動式のベッドのような物の上には、患者さんが乗っているようだが、ぼくは怖くてそちらが見られなかった。
「ECU(緊急治療室)へ!」
 看護士さんが叫んでいる。みんなはすごい勢いで、ぼくのそばを駆け抜けていった。
「ぶっそうだねえ」
 包帯のおじさんがいった。
「おお、やだやだ」
 点滴のおばさんは、肩をすくめている。
 ぼくはそんな騒ぎの中で、みんなから隠れるように首を縮めて、じっとコミックスを見つめていた。
 でも、なかなかキャラクターもストーリーも頭に入ってこなかった。

「たけちゃん、やっぱり来てたのね。」
 顔を上げると、おかあさんが立っていた。ピンクのガウンをはおって、水色のスリッパをはいている。
「おかあさん!」
 ぼくは、ソファーから飛び上がるようにして立ち上がった。
 かあさんの顔色は、やっぱり黄色っぽかった。
 でも、いつものやさしい笑顔を浮かべていた。
 ぼくもけんめいに笑顔を見せようとしたが、うまくいかなかった。
「どうしたの? 何か怖いことでもあったの?」
 おかあさんが心配そうにたずねた。ぼくの顔が、こわばっていたからかもしれない 
「ううん」
 ぼくは、首を横に振った。さっきまでの恐ろしかった事は、おかあさんには言いたくなかった。
「一人では来なくてもいいよ。着替えも大丈夫。土曜日に、世田谷のおばさんと一緒に来ればいいんだから」
「うん、わかった」
 ぼくはコクリとうなずくと、一番聞きたかったことをおかあさんにたずねた。
「おかあさん、おかあさんは絶対に死なないよね」
「うんうん、たけちゃんを残して死んだりしないよ」
 おかあさんは、笑いながら答えてくれた。ぼくは、そんなおかあさんの顔をじっと見つめた。

       

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

ビリッケツなんかに、なりたくない!

2021-06-01 15:36:42 | 作品

 

「これ、運動会の招待状」
 朝ごはんのときに、おとうさんにわたした。
「どれどれ」
 おとうさんは、ウインナをはさんだパンをほおばりながら開いている。
「一年生は、五十メートル走と、鈴割りに、だるま運びか」
 招待状のはじには、ユウキの目標も書かれている。
「もしかして、『四とうになりたい』の『なり』がぬけてるんじゃないか?」
 招待状を見ながら、おとうさんがいった。
「えっ?」
 あわてて、招待状を見てみる
『四とうにたいから がんばるからみにきてください』
 急いで書いたので、うっかりぬかしてしまった。
「四とうって、五十メートル走のことかい?」
 おとうさんが、またパンに手を伸ばしながらいった。
「うん、そう。練習で五人で走って四等だったから」
 ユウキがそう答えると、
「ずいぶん遠慮した目標なんだなあ。どうせなら一等になりたいって、書けばいいのに」
って、おとうさんにいわれてしまった。
「そんなの無理だよ。一等の子なんて、ビューンって、このくらいのスピードで走るんだよ」
 ユウキは、手を左から右へ、サッと動かしながらいった。
「ふーん」
 どうやら、おとうさんをがっかりさせてしまったみたいだ。
「一等じゃなくて、四等って書くところが、ユウちゃんらしいところなんだから」
 台所で目玉焼きを作っていたおかあさんが、助け舟を出してくれた。

 去年、幼稚園の運動会で、年長さんのかけっこでユウキは四人で走っての四等。
 つまり、ビリッケツだった。
 その前の年の年中さんのときは、ビリから二番目だったからがっかりしていると、
「ユウちゃんは本当はもっと速いんだけど、コーナーで他の子に先をゆずっちゃったからだよ。しかたないんじゃない」
と、その時も、おかあさんがなぐさめてくれた。
 たしかに、運度会が行われた幼稚園の園庭は狭いので、まっすぐの所はちょっとしかない。だから、コーナーを何番でまわったかで、順位が決まってしまう。
 今年の運動会は、小学校の広い庭でおこなわれる。走るコースもきちんと分けられているし、五十メートル走はまっすぐだけだから、思いっきり走れる。
「おとうさんは、小学生のころ、運動会じゃ、いつも二等、いや一等の時だってあったんだぞ」
 おとうさんが、得意そうにいった。
「あらあら、おとうさんって、そんなに足が速かったかしら」
 たしかに、太っておなかが出ている今のおとうさんからは、とても想像できない。
「速かったって。もう少しで、リレーの選手にだってなれるところだったんだぞ」
 おとうさんが、むきになっていった。
「本当? 天国のおかあさんにちかって、そう言える?」
 おかあさんがそういうと、
「……」
 おとうさんは、急に顔を赤くしてだまってしまった。
 「天国のおかあさん」というのは、おとうさんのおかあさんのことだ。
 おとうさんが小学生の時に死んじゃったから、もちろんユウキは知らない。
 おとうさんは 小さい時から、
「天国のおかあさんにちかって、本当か?」
って、いわれると、絶対に嘘がつけないのだそうだ。
 おかあさんは、それを世田谷のおばさん(おとうさんのおねえさんだ)から聞いて、おとうさんの言うことが怪しい時にはいつも使っている。だから、おとうさんが一等になったことがあるというのは、どうも怪しいようだ。

「よーい」
 ドン。
 スタートのピストルが鳴った時、ドキンとしてしまった。思わず手足がこわばって、スタートで遅れてしまった。
 他の四人はいいスタートをきっている。ユウキは、あわてて後を追いかけ始めた。
 走りながら、前の人たちをキョロキョロとながめた。
 この前ビリッケツだった林くんも、今日は前を走っている。
 林くんとの差はまだ1メートルぐらい。
 でも、林くんはけんめいに走っている。とても追いつけそうにない。
(もうだめだ)
と、思ったら、足に力が入らずにフニャフニャとしてしまった。
 ユウキは、わざと手足をチャランポランにしながら、ゆっくりとゴールインした。
 ゴールでは、林くんとの差は3メートルぐらいに広がっていた。断然のビリッケツだ。
「北野くーん。もっとまじめに走りなさい。ビリだって、ぜんぜんかまわないんだから、ちゃんと走らなきゃだめよ」
 スタート地点で、担任の谷山先生がどなっている。
 『ビリ』って言葉に、ユウキは思わず顔を赤くしてしまった。

 ユウキは、とぼとぼと到着順に並んだ列の方に向かった。
「ユウちゃん、一緒、一緒」
 五等の列から、声をかけてきた子がいた。なかよしのリョウちゃんだ。小さいころから太っていて、幼稚園の 時もかけっこはいつもビリだったから、もう平気なのかもしれない。
 ユウキは、
(今日は、本気で走らなかったんだから、ビリッケツでもいいんだぞ)
って、顔をして、列のうしろに並んだ。
 こうしてみると、リョウちゃんだけではなく、五等の列にいる子たちは、いかにも足が遅そうだ。ユウキは居心地悪そうに、列の一番うしろに腰をおろしていた。
 と、その時、前の方から 笑い声がおこった。
 コースでは、次の組が走り出していた。五人のうち、一人だけがすごく遅れている。
 シュンくんだ。手と足の動きがバラバラで、ギクシャクギクシャク、まるで操り人形のように走っている。
「シュンくんって、ほんとに遅いなあ。」
 リョウちゃんが 大きな声でいった。自分より遅い子を見て、すごく嬉しかったみたいだ。細い目がますます 細くなって、鉛筆で描いた線みたいになっている。
「うん。シュンくんとなら、歩いても 勝っちゃうよな」
 他の子もいった。
(あーあ。シュンくんと同じ組だったらなあ。絶対に、ビリッケツなんかに ならないのに)
 ユウキもそう思いながら、ゆっくりと走ってくるシュンくんをながめていた。
 と、その時、急にとんでもないことを思い出した。年中さんの運動会で、ユウキがビリから二番だった時、ビリッケツは シュンくんだったのだ。そうすると、今まで運動会で勝てた相手は、シュンくん一人だけってことになる。
シュンくんとは、幼稚園の年中さんの時から、ずっと一緒のクラスだった。
おかあさんの話だと、一才になるかならないかの時に、公園の砂場で会ったのが最初だっていう。もちろん、
ユウキはそんなことは覚えていない。
 でも、気がついたら、いつもユウキのそばにいた。
 シュンくんの誕生日は、三月三十日。お誕生会は一番最後だった。それに、未熟児で産まれたとかで、体がすごく小さかった。今でも、背の順はクラスで一番前だ。そのうえガリガリにやせている。きっと体重は、二十キロもないかもしれない。
 シュンくんは、体が小さいだけでなく、運動がからきしだめだった。サッカーをやれば、ボールの上にのって しりもちをついてしまう。野球では空振りばっかりだ。小学生になったのに、自転車の補助輪が取れていない。とにかく、運動はなんでもクラスで一番へたくそなのだ。
 シュンくんの名字は亀岡だ。だから、クラスの男の子たちは、シュンくんのことをかげでは「ドンガメ」って 呼んでいる。
 みんなが、次々にゴールインしてきた。
 でも、シュンくんはまだだ。みんなからは、10メートル以上も引き離されていた。相変わらず、手と足の動きがバラバラで、ギクシャクギクシャク走っている。
「亀岡くん、がんばって」
 谷山先生が、声援を送っている。
 それに応えるように、ようやくドンガメ、じゃなかった、シュンくんが ゴールインした。
 でも、シュンくんは、平気な顔をしている。ビリッケツになることなんか、もう慣れっこになっているのかもしれない。
「ユウちゃんもかあ」
 そういいながら、シュンくんは ユウキのうしろへ並んだ。
(あーあ)
 ユウキは思わずため息をついた。シュンくんと同じだと思うと、ビリッケツになったのが、ますますゆううつになってしまった。
「それじゃあ、これで徒競走の練習を終わります」
 先生が、みんなに向かっていった。

 次の朝、思いがけないことが起こった。
「昨日のダルマ運びの練習で、中川くんがころんだでしょ。その時に、足をねんざしてしまったの。さいわい、中川くんのけがはひどくありませんでした。でも、大事をとって、運動会は見学ということになったのよ。そのため、五十メートル走で、中川くんがいた第四組は 四人だけになってしまったのね」
 五十メートル走は、ひと組あたりほとんど五人で、六人の組もあった。
「四人じゃ少ないので、第四組の人たちを、他の組へ分けることにしました」
 最後に、谷山先生がそうみんなに説明した。
「……。岡本くんは二組、亀岡くんは三組、……」
(えっ、シュンくんが 同じ組に!)
 ユウキがそう思った時、
「超ラッキー!」
と、いきなり叫んだ子がいた。同じ三組の林くんだ。
「林くん、静かにしなさい」
 先生にしかられて、林くんがペロリと舌を出したので、みんなは大笑いした。
 でも、本当はユウキも林くんと同じ気持ちだった。
(ドンガメの シュンくんと一緒なら、もう絶対大丈夫だ)
六人で走っての五等と、五人で走っての五等。同じ五等でも、ぜんぜん違う。だって、ビリッケツじゃないんだから。
 ユウキは、シュンくんの席の方に振り返った。
(あれっ?)
 どういう訳か、シュンくんの姿も見えない。
「そうそう。亀岡くんも、今日はお休みです」
 先生が、シュンくんの席の方を見ながらいった。
(まずいぞ。絶対にまずいぞ。シュンくんも 運動会をお休みしたら、またぼくが五十メートル走でビリッケツになってしまう)
 ユウキが心配していると、
「でも、亀岡くんは軽い風邪なので、運動会には出られるそうです。だから、五十メートル走は さっきの組み合わせでやります」
 先生が、そう付け加えてくれた。
(ああ、よかった)
 ユウキは、ホッとしていた。

 その週の木曜日、秋分の日で、学校はお休みだった。
 ルルルルー、ルルルルー、……。
 朝ごはんの時、電話がかかってきた。すぐにおかあさんが出てしばらく話していたが、途中でユウキに向かっていった。
「ユウちゃん、シュンくんのママからよ」
 おかあさんは、ユウキに子機を差し出した
「えっ?」
 電話に出てみると、
「シュンが、どうしても運動会に出たくないって、言ってるのよ」
って、シュンくんのママがいった。
「どうして?」
「五十メートル走の時、みんなに笑われたくないんですって」
ビリッケツには慣れっこでも、笑われるのは やっぱり嫌だったらしい。
「……」
「それで、ユウちゃん。悪いんだけど、誰も笑わないから大丈夫だって、シュンに言ってもらえないかしら」
 シュンくんのママは、涙声になっている。
「でも、ぼくが言っても、……」
「ええ、本当に悪いんだけど。ほら、あの時も、ユウちゃんのおかげで、……」
シュンくんのママがいったあの時っていうのは、幼稚園に入ってすぐのことだ。
 そのころシュンくんは、幼稚園でなかなか友だちができなかった。何をやるのもとろいから、みんなに馬鹿に されてしまったんだ、
 シュンくんは、とうとう幼稚園を休むようになってしまった。
 その時、ユウキはおかあさんと一緒に、毎朝、シュンくんの家まで迎えにいってあげた。
 それでも、初めはなかなかうまくいかなかった。
 どうしても、
「幼稚園なんか、行きたくない」
って、シュンくんが言いはったのだ。
 でも、しばらくして、ユウキと一緒だったら幼稚園に行かれるようになった。そして、それからは、だんだん 平気になったようだ。
 だから、シュンくんのママは、今回もユウキに説得して欲しいようだ。
 でも、ユウキは、シュンくんのママの話を聞きながら、ぜんぜん違うことを考えていた。
(シュンくんが運動会に来ないと困るぞ。絶対に困るぞ。シュンくんが来ないと、ぼくが五十メートル走で、ビリッケツになっちゃうじゃないか)
 ユウキは自分のために、シュンくんを説得しにいくことにした。

 一人っ子のシュンくんの部屋は、二階にある南向きの広い部屋だ。ベッドの反対側には、ピアノまで置いてある。シュンくんは、スポーツはだめだけれど、音楽は得意だった。特にピアノは、小さいころから、わざわざ電車で通って、有名な先生に習っている。
 ユウキが部屋に入っていくと、シュンくんはベッドで布団を頭までかぶっていた。
「おっす」
 あいさつしたが、返事がない。
「シュンくん。ユウキだよ」
 何回か声をかけたら、ようやく顔を出した。布団から首だけ伸ばして、本当にカメみたいだ。
「シュンくん、五十メートル走なんか、平気だよ。みんな、笑ったりしないよ」
 ユウキがそう言うと、
「笑うよ、笑う」
 シュンくんは、顔をしかめながら言った。
「笑わないったら」
 ユウキは、布団を ひっぱって言った。
「笑うったら、笑う」
 でも、シュンくんは、強情に言いはっている。
「じゃあ、笑われないようにしたら、いいじゃん」
 とうとうユウキが 言った。
「えっ、どうやって?」
 シュンくんの小さな目が、キロッと光った。
「えーっと、みんなが笑うのは、シュンくんがビリッケツだからじゃないんだよ。走るかっこうがおかしいからなんだ」
 ユウキは、けんめいに考えながら話していた。
「ふーん」
 どうやら、シュンくんは 興味を持ったようだ。
「だから、ちゃんとしたかっこうで走れば、大丈夫だよ。たとえビリッケツでも、みんなは笑わないよ」
 ユウキは、自信満々に断言した。
「うん、でも、どうしたら、ちゃんと走れるようになるの?」
 そのとき、シュンくんがたずねてきた。
「うーん」
 そう聞かれると、ユウキにもいいアイデアがなかった。

 とうとうシュンくんを説得するのをあきらめて、ユウキは家へ戻っていった。
「やあ、ユウちゃん」
 公園のそばで、リョウちゃんに出会った。
 と、その時、ユウキの頭の中に、ピカッとひらめいたものがあった。
「そうだ!」
 ユウキは、シュンくんの家に引き返そうと走り出していた。
「おーい、どうしたの?」
 うしろでは、リョウちゃんが不思議そうな顔をして見送っていた。
 ユウキは、またシュンくんの部屋に戻ってきた。シュンくんは、相変わらずカメのように布団から チョコンと顔を出している。
「シュンくん、リョウちゃんのおねえさんって、知ってる?」
 ユウキは、シュンくんに向かって言った。
「うん、ユミカさん」
 どうやら知っているみたいだ
「そう、そのユミカさんに、五十メートル走を特訓してもらおうよ」
 ユウキは、シュンくんに提案した。
 ユミカさんというのは、リョウちゃんの中学生のおねえさんだ。デブのリョウちゃんとは、ぜんぜん似てなくって、スラッと背が高い。中学では、陸上部の短距離の選手だそうだ。
「特訓すれば、みんなのように、ちゃんと走れるようになるかな?」
 シュンくんが、ユウキにたずねた。
「そうだよ。特訓すれば、絶対に大丈夫だよ」
 ユウキは、念を押すように言った。
「そうかなあ?」
 なかなか信用しない。
「走るかっこうさえおかしくなければ、ビリッケツでも、ぜんぜんはずかしくないよ」
 そう言いながら、ユウキは なんだか変な気持だった。
(天国のおばあちゃんにちかって、ビリッケツがはずかしくないって、言えるか?)
 そんな声が、どこからか聞こえてくるようなきがする。
 でも、とうとうシュンくんはベッドからでてきて、さっそくリョウちゃんの家へ行くことになった。
(本当はうそをついています。シュンくんに 運動会を休んでほしくないのは、シュンくんのためではありません。自分が、ビリッケツになりたくないからです)
 ユウキは心の中で、天国のおばあちゃんにそっと告白した。

「ふーん」
 ユウキの話を聞き終わると、ユミカさんは一つ大きなため息をついた。
 ユミカさんの部屋には、ユウキとシュンくんだけでなく、リョウちゃんも一緒に来ていた。二人だけでなく、リョウちゃんも特訓を受けることになったからだ。やっぱりビリッケツになるのは、少しは気にしていたみたいだ。
 リョウちゃんとユウキの目標は、四等になること。そしてシュンくんは、ビリでもいいから、みんなに笑われないようにきちんと走れることが目標だった。
 もちろんユミカさんは、いつも運動会で大活躍していただろう。そんなユミカさんには、三人の小さな小さな願いが、まだ信じられないようだ。
 ユミカさんは、目がぱっちりしていてアイドルみたいな顔なんだけど、髪を男の子のように短くしていて、少しこわそうに見える。
 三人は緊張しながら、ユミカさんの返事を待っていた。
「よーし。いいよ。引き受けた。でも、あたしの特訓は、厳しいよ。それでもいい?」
 とうとう、ユミカさんがOKしてくれた。
「お願いしまーす」
 三人が声をそろえていうと、ユミカさんはやっとニコッとしてくれた。浅黒く引き締まった顔に、真っ白な歯 だけがピカッと光っている。

 ユミカさんは、さっそく三人を近所の公園へ連れていった。いつも、みんながサッカーや野球をやっている所だ。もっとも、ユウキたちは、運動が苦手なのであまり参加していなかったけれど。
 公園は、いつもと違ってガランとしていた。休日なので、みんなどこかに出かけているのかもしれない。
 オレンジ色のジャージに着替えたユミカさんは、足がスラッと長くてとてもかっこいい。中学の陸上部のユニフォームのようだ。
 ユミカさんは、胸にストップウォッチをぶらさげていた。これで、三人のタイムを測るのだろう。なんだか、自分までが陸上選手になったようで、ドキドキしてきた。
「じゃあ、これから、五十メートル走の特訓を開始します。みんな、自分のタイムがどのくらいか、知ってる?」
 ユミカさんは、三人を前に並べていった。
 みんな、いっせいに首を横にブンブン振った。一年生はまだタイムなんか測ってもらってないから、もちろん ぜんぜんわからない。
「じゃあ、最初に測ってみようか。 五十メートルのスタートとゴールを決めるから、みんなは準備体操をやって
て」
 おねえさんは、足で スタートラインを引くと、
「1、2、3、……」
と、数えながら、大またに歩き出した。

「ほら、チンタラやってるんじゃない」
 ゴールラインを引いて戻ってきたユミカさんが、大声でどなった。ユウキたちが、元気なくバラバラに準備体操をしていたからだ。
「もっと、しっかりやらないと、後で体が痛くなっちゃうぞ」
 ユミカさんにそういわれても、準備体操なんてちゃんとやったことがないから みんなうまくできない。
「ほんとに しょうがないねえ。これじゃ、準備体操から教えなきゃなんないじゃない」
 ユミカさんは、あきれたような声を出していた。
「ほら、しっかり曲げて」
「いてててて」
 ユミカさんにぐいぐい体を曲げられて、シュンくんが悲鳴あげている。ユウキとリョウちゃんは、あわててしっかりと準備体操を始めた。
「はい、スタートラインに並んで」
 やっとの思いで、準備体操が終わると、ユミカさんは三人をスタートラインに並ばせた。リョウちゃん、ユウキ、シュンくんの順だ。
「まあ、そろいもそろって、いかにも、かけっこが遅そうねえ」
 フクフクと太ったリョウちゃん。ガリガリのユウキ。それに、幼稚園の子のように小さいシュンくんだ。
「じゃあ、スタートの体勢をして。うーん、そうじゃない」
 ユミカさんが、みんなの手や足をあちこち引っ張って、五十メートル走の特訓が始まった。運動会まであと三日。はたしてぼくたちの目標は達成できるだろうか。

 翌日の金曜日に、運動会の予行練習が行われた。
(「よーい」で、体重を前にかけて、ドンで勢いよく出る。あとはまっすぐ前を見て、腕を大きく振って走る)
 昨日、ユミカさんに教わった『かけっこが速くなる秘密』だ。
「よーい」
 バーン。
 ユウキは、うまくスタートがきれた。隣のシュンくんも、なかなかいいようだ。
 ユミカさんにいわれたように、他の子のことは気にせずに、前だけを見て一所懸命に走った。
 ゴールイン。
(やったあ。四等かな?)
 驚いたことには、シュンくんもビリッケツだったとはいえ、あまりみんなに遅れずにゴールインしていた。一番ひどかったシュンくんが、最も特訓の効果があったのかもしれない。
(やっぱり、特訓して良かったな)
と、思った。
 ところが、ゴール係の六年のおにいさんに連れていかれたのは、いつもの「5」の旗のうしろだった。四等は、林くん。また、少しだけ負けてしまったようだ。
「ユウちゃん」
 五等の列の一番前から、リョウちゃんが笑顔でVサインを送っている。いつもと同じ五等でも、のんきなリョウちゃんは満足しているようだ。
 隣の六等の列のシュンくんも、ニコニコしている。あまり遅れずに走れたし、フォームもずっとましになって いたので、今日は誰も笑う人はいなかった。
(うーん、今日も帰ったら、ユミカさんに特訓してもらわなくっちゃ)
 ユウキは、一人だけ浮かない顔でそう思っていた。

 運動会の朝がきた。すごくいいお天気で、絶好の運動会日和だった。
 今日は、体操着で登校だ。教室には入らずに、校庭にクラスごとに集まった。
「おはよう」
「おーすっ」
 声をかけあいながら、ユウキもクラスのみんなの中に入っていった。
(いた!)
 その中にシュンくんの姿を見つけて、ユウキはホッとしていた。
 昨日のユミカさんの最後の「特訓」が終わった時、シュンくんがポツリとこういったからだ。
「やっぱり、ぼくは、ビリッケツなのかなあ」
(えっ?)
 それまでは、みんなにあまり遅れないだけでも、シュンくんは満足していると思っていた。
 でも、やっぱりシュンくんも、ビリッケツになるのは嫌だったのだ。
 たしかに「特訓」で何回走っても、シュンくんはリョウちゃんにもユウキにもかなわなかった。このままでは、ビリッケツは確実なように思われた。
 と、いうことは、ユウキは、自動的にビリッケツを逃れることになる。
(もしかして、シュンくんは明日休むかもしれない)
 ユウキは、それがすごく心配だったのだ。

 いよいよプログラムの十番目、一年生の五十メートル走が始まった。
 まず、第一組の リョウちゃんが、スタートラインに立った。
 バーン。
 五人のランナーが、いっせいにスタートした。
 ユウキは、心配で伸びあがるようにして、リョウちゃんが走るのを見ていた。
 スタートで少し出遅れたリョウちゃんは、それでもけんめいに前を追っかけている。特訓のおかげか、前後に 腕を大きく振ってなかなかいいフォームだ。
 両隣のコースの子たちと、ほとんど一緒にゴールイン。
(やっぱり五等か?)
 いや、六年生のおねえさんに、連れていかれた場所は、四等の旗の所だった。
(目標達成!)
「やったあ。リョウタ、いいぞお」
 観客席のユミカさんが、飛び上がって大声で叫んだ。リョウちゃんも、嬉しそうにそちらへ向かって手を振っている。
(よしっ。いいぞ、いいぞ)
 控えの列の中で、ユウキも小さくガッツポーズをした。

「次は第三組です」
 ユウキたちはいっせいに立ち上がると、スタートラインに並んだ。
「シュンくん、ユウちゃん、がんばれ」
 ユミカさんの大きな声が聞こえた。ぼくたちは、そちらの方に向かって手を振った。
「1コース、……。2コース、林くん」
「はい」
 林くんは右手を上げると、いつものように必死な顔つきで、ゴールをにらんでいる。
「……。5コース、亀岡くん」
 シュンくんは張り切り過ぎたせいか、返事もしないですぐに「よーい」の体勢をしてしまった。
「亀岡くん、まだよ」
 スターターの 谷山先生が、あわてて注意した。
 観客席から、小さな笑い声が聞こえてくる。
「6コース、北野くん」
「はい」
 ユウキは、最後に右手を上げて返事をした。
 でも、まだ頭の中は、いろいろなことを考えてぐらぐらしている。
 一緒に特訓したシュンくんには、がんばって欲しい。
 でも、自分がビリッケツになるのは、やっぱり絶対に嫌だ。
もちろん、林くんもけんめいにがんばるだろう。
 そうなると、いったいビリッケツになるのは、……?

「よーい」
 体重をぐっと前にかける。
 バーン。
 ユウキは、そしてシュンくんも林くんも、力いっぱい走り出した。
 スタートでは、ほぼ横一線だった。ユミカさんの特訓の成果か、ユウキもシュンくんもスタートがうまくなっている。
 でも、自力に勝る他の三人は次第にリードを広げていく。
 問題は、残りの三人だ。
 林くんが、ややリードした。
(くそお!)
ユウキが、巻き返して並びかける。
「うううっ」
 隣のコースのシュンくんが、うなり声をあげた。
 チラッと横を見ると、必死な顔をして追い上げてくる。
 ユウキも、けんめいにスピードをあげた。林くんも、少し離れた2コースでがんばっている。
 三人がまたほとんど並んだ所が、ゴールだった。
 順位の旗を持った六年生たちが、いっせいに駆け寄ってくる。
 はたして、ユウキは何着だったのか?
 そして、ビリッケツだったのは、……?

      

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

セントオルリーグの熱戦

2021-05-23 13:34:26 | 作品

 

「ディス イズ ア ナプル」
「ディス イズ ア ナプル!」
 奇妙に誇張された先生の声に続いて、生徒たちが大声で復唱している。
藤田タツヤも、口だけはみんなに合わせてパクパクさせていた。
 でも、本当は横目でぼんやり校庭をながめたりしていた。
 給食が終わった後の五時間目。タツヤでなくても、なかなか授業に集中できない。
おまけに、窓ぎわにあるタツヤの席には、春のひざしがたっぷりと差し込んでいるので、ポカポカとしていてつい眠くなってしまう。
 なんとか気を引きしめようと、タツヤは目をパチパチとさせていた。
 と、その時、みんなの声にまじって、別の音が聞こえてきた。
 シャー、……、シャー。
 かすかだが、はっきりと聞こえる。少し間隔をあけて、何度も繰り返されている。
 近くからだ。
 タツヤは、先生に目立たないように気をつけながら、あたりの様子をうかがった。
 どうやら、すぐ後ろの福井トオルの席からのようだった。
 タツヤは、すばやく後ろを振り向いてみた。
 トオルも、タツヤと同じように、声を出さずに口をパクパクさせているだけだった。
 しかも、その視線は、先生の方向ではなく、机の下に入れている左手にじっと注がれているようだった。
 福井トオルは、先週の月曜日にタツヤのクラスに入ってきたばかりの、転校生だった。
 と、いっても、タツヤたちだって、中学に入ってから、たった二週間しかたっていない。
 トオルが先生に紹介された時、
(変な時期に転校してくるやつもいるもんだな)
って、タツヤは思った。
 普通は新学年とか、新学期から転校してくるケースが圧倒的に多い。ましてや、小学校を卒業して、中学校に入るという大きな節目なら、なおさらのことスタートのタイミングを合わせるだろう。これでは、みんながなじみはじめたときに、途中からクラスに参加することになってしまう。
 でも、トオルは教壇であいさつしたとき、少しも臆しているようには見えなかった。
「福井トオルといいます。よろしくお願いします」
 少し笑みを浮かべながら、堂々とみんなを見回していた。
「えーっと、席は、窓ぎわの一番うしろだ」
 先生に指し示されて、タツヤの方へ歩いてきた。いつの間に準備されたのか、タツヤのうしろには新しい机といすが用意されていた。
「藤田タツヤだ。よろしく」
 トオルが席に着いた時、タツヤはうしろをふりむいて声をかけた。トオルはだまってうなずいただけだったが、さっきと同じ静かな笑顔をうかべていた。
 それからもう一週間以上になるが、タツヤは、「おはよう」や「さよなら」以外に、まだトオルと口をきいたことがなかった。それは、他のクラスメートたちも同様だろう。
 休み時間には、タツヤたち男子生徒のほとんどは、校庭でサッカーや他の遊びをやっている。
 でも、トオルだけは、誰もいない教室にいつも残っていた。

 五時間目の授業が終わった時、タツヤは思いきってトオルに声をかけてみた。
「福井。おまえ、机の下に何か隠しているだろう?」
「えっ」
 トオルは、ちょっと驚いたようだった。
 でも、やがてニヤッと笑うと、タツヤに左のこぶしを突き出してそっと開いてみせた。トオルの手のひらの上には、直径三、四センチしかない小さなルーレットが載っていた。
「おっ、ルーレットか。動くのか?」
 タツヤは、興味をそそられて体を乗り出した。
「もちろん」
 トオルは、すばやく軸をひねってみせた。ルーレットは、例のシャーッという小気味良い音をたてて勢いよく回り出した。
 トオルのルーレットは、父親に海外旅行のみやげとしてもらった物だとかで、実に精密にできていた。小さいながらずっしりとした重さを持っていて、そのせいか回転がすごくなめらかだ。
 数字は、00と0から36までの三十八通りで、ひとつおきに赤と黒に塗られていた。ひとつひとつのボールの入るマスは、きちんと等しい大きさになっているようだ。
 盤面は透明なプラスチックのふたでおおわれていて、ボールが外へ飛び出さないように工夫されていた。
 外側には銀のふちかざりがなされていて、中心に同じ色の十字架形の回転軸がついている。これをひねって盤を回すと、中に入っている直径二ミリほどの金色のボールが動き出すのである。
 ボールはすごく正しく球形に作られているらしく、各数字のマスへの入り方は、テレビなどで見る本物のルーレットそっくりにスムーズだった。
「授業中にもやってるんだろ?」
 タツヤは、受け取ったルーレットを回しながらいった。
 トオルは、また驚いたようにタツヤの顔をみつめていた。
でも、すぐに素直にうなずいた。
「何で気がついたんだよ?」
「音だよ。回すたびにシャーッて音がしてるぜ」
「地獄耳だな」
 トオルはそう言うと、またニヤッと笑った。
「でも、ひとりじゃ金をかけられないし、おもしろくないんじゃないか?」
「ルーレットのゲームそのものを、やってるんじゃないんだよ」
「えっ? じゃあ、なんだよ」
「野球だよ」
「野球?」
 そういわれても、タツヤには何のことだかわからなかった。
 トオルは、机の中から一冊のノートを取り出した。そして、パラパラとめくると、あるページを開いてタツヤに見せた。
「0:ホームラン
 1:三振
 2:セカンドゴロ
 3:……」
 0から36までと00の数字、それに、その隣にひとつずつの野球のプレーとが、小さな字できちょうめんに書かれている。
「なんだ、こりゃ?」
 タツヤには、まだピンとこなかった。
「だから、野球ゲームなんだよ」
「ふーん?」
「一打席ごとに、ルーレットで結果を決めてんだ。ほら、たとえば今は22に入っているから、ライトフライでワンアウトってわけだ」
 トオルは、ノートの22のところを指し示しながらいった。
「へーっ。そんなのおもしろいのか?」
「ああ。本当の試合だと思って、真剣にやりゃあな」
 そのとき、六時間目の社会の先生が入ってきたので、トオルとの話は中断されてしまった。

 シャー、……、シャー。
 次の授業の時間中も、ルーレットを回す例の音が、ひっきりなしにうしろからかすかに聞こえていた。
 トオルがいっていたように、タツヤの耳が特別にいいのか、他の生徒たちはその音をあまり気にしていないようだった。
 でも、タツヤだけはその音を聞くたびに、トオルのやっているゲームが気になってしょうがなかった。
(今、試合は何回まで進んだんだろう? さっき五回の表だったから、今は七回ぐらいかな)
(どんな場面なんだろう? 塁上にランナーは出ているのだろうか?)
 想像はどんどんふくらんでくる。
 タツヤにとっても、野球は一番好きなスポーツだった。小学校時代は少年野球のチームに入っていたし、すでに中学でも野球部に仮入部している。地上波ではめったにやらないけれど、テレビのプロ野球中継はBSで欠かさず見ていた。
 もちろん、ゲームも大好きだ。もっともタツヤがやっているゲームといえば、携帯ゲームか、トレーディングカードなどにかぎられていたけれど。そういえば、小さいころにクリスマスプレゼントでもらった人生ゲームなどのボードゲームをやらなくなってからだいぶたっている。
 自分で考案した野球ゲーム。こんな不思議な世界を持っているこの風変わりな転校生に、強く興味をそそられていた。
「古代エジプトでは、……」
 社会の授業は、そんなタツヤの気持ちとは無関係に淡々と進んでいく。先生は、黒板に重要なポイントを書いている。
 そんな先生の目をぬすんでは、タツヤはすばやくうしろを振り向いて、ときどきトオルの様子をうかがっていた。
 トオルは、あいかわらず机の中につっこんだ左手をながめている。そして、時々右手でルーレットをまわしているようだ。
 シャーッ。
軽快な音をたててからルーレットが止まるたびに、トオルはノートを見て結果を確認している。そして、何回かルーレットを回してから、やっと一打席の結果が出たのか、ノートにシャープペンシルで記録を書き込んでいる。
 タツヤは、ゲームの様子を知りたくてたまらなくなっていた。
 だから、
(早く授業が終わらないかなあ)
と、何度も腕時計を見てしまう。
 でも、そういったときに限って、時間は意地悪くゆっくりとたっていくのだった。

 その日の放課後、トオルは、自分の野球ゲームについて、タツヤに詳しく話してくれた。
 トオルの野球ゲームは、壮大な計画を持っていた。なにしろ、セントラルリーグの一年間の全ての試合をひとりで再現しようというのである。
 ホームランや三振の出る確率も、できるかぎり現実のセントラルリーグの記録に近づけてあった。
 そのために、さっきのノートには、アウトカウントやランナーの有無など、状況ごとに違った表のプリントが、各ページに貼られている。
「選手ごとに重みづけもしてあるんだ」
 トオルは自慢そうにいった。
「重みづけ?」
「そう。例えば、四番バッターと九番のピッチャーとでは、ヒットやホームランが出る確率を変えてあるんだ」
「ふーん」
 重みづけは、ピッチャーの三振を取る確率や、野手のエラーをする確率にも使われている。そういったものを組み合わせてプレーをしているので、打席ごとに最低四、五回はルーレットを回さないと、結果が出ないのだ。
 しかも、トオルは、一試合、一試合、ていねいに正式のスコアブックをつけながらやっている。
だから、せいぜい一日一、二試合を消化するのがやっとらしい。このペースだと、毎日やっても、一シーズンをやるのに一年以上はかかる計算になる。
 トオルは、今までに行われた試合のスコアブックを、タツヤに見せてくれた。
 すでに、各チームとも十試合ずつを終え、トータルの試合数は三十試合に達している。ひとつひとつの試合が記録されているだけでなく、現在のチームの順位や、個人の打撃成績、投手成績までが、きちんと整理されていた。
 どうやらトオルには、美術の才能があるらしい。スコアブックは、レタリングや野球選手のイラストで、きれいにかざられている。
 スコアブックの表紙には、大きく「セントオルリーグ」と書かれていた。
「セントオルリーグ? セントラルじゃないのか?」
 タツヤがたずねると、トオルは黙ってニヤニヤしているだけだった。
「あっ、そうか。自分の名前をつけたのか」
「うん」
 トオルは、少し照れながらうなずいた。
 「セントオルリーグ」のペナントレースにおける現在のトップは、東京ヤクルトスワローズだった。二位の中日に、一・五ゲーム差をつけている。
 トオルは今までのゲームのハイライトを、身振り手振りをいれてリアルに再現してくれた。
 タツヤは、そんなトオルと「セントオルリーグ」に、すっかり魅せられてしまっていた。

 その後も、トオルは勉強や他のことをすべてなげうって、「セントオルリーグ」に全力を投入していた。勉強も、部活も、クラスメートとの付き合いも、「セントオルリーグ」以外のことはいっさいやらないのだ。
 授業中は、ほとんどいつも「セントオルリーグ」をやっている。休み時間には、試合の途中経過を、唯一の観衆であるタツヤに熱心に再現してみせてくれた。
 他の生徒たちも、トオルが何か変わったことをやっているらしいことには、うすうすは気づいているようだった。
 でも、タツヤ以外には、「セントオルリーグ」に積極的に関心を示す者はいなかった。

 タツヤとトオルは、「セントオルリーグ」のために、いつも前後の席を占めるようにしていた。
 席替えに関しては、担任の青井先生は全くルーズだった。月に一回、席替えをやっているのだが、男女が並ぶことを除いては、全くのフリー。つまり、朝早く来た者から、自分の好きな席に座って決めるのである。
 毎月一回の席替えの日には、クラスの大半が七時前には登校してしまう。自分から特定の男の子や女の子のとなりに座るのは、やっぱりはずかしいからだ。
 でも、中一ともなれば、男子も女子も互いに意識し合っているので、本当は好きな子の隣に座りたいのだ。みんながそろいはじめて男女のペアができるたびに、オーオーとクラス中がどよめいた。
 女子は中学から私立へ行く子が多いので、男子の方が人数が多い。そのため、窓ぎわの一列だけは、男だけになってしまう。
 タツヤとトオルは、そこに目をつけていた。席替えの日には六時前に学校に来て、確実にその窓ぎわの列に座れるようにした。そこだと、先生から目立たないし、隣にじゃまな女の子もいなくて、「セントオルリーグ」をやるのに絶好なのだった。
 そのため、みんなからは、タツヤとトオルが女子にはまるで関心は示さずに、いつも二人一緒になりたがっているように思われてしまった。

 中間試験の最後の日だった。
「あーあ、やれやれやっと終わったか」
 タツヤは、最後の社会の答案を出し終わってから、大きくのびをした。中学に入って初めての定期試験。どうなることかと心配していたけれど、思いのほかうまくいった。
 帰りのホームルームが始まるまで、教室の中はザワザワしていた。
「タツヤ」
 後の席から、トオルが声をかけてきた。さすがに試験時間中は、シャーッというルーレットの音は後ろから聞こえてこなかった。セントオルリーグも一休みって所だろう。
「なんだい?」
 タツヤが振り返ると、
「今日、映画に行かないか?」
 トオルはそういって、ポケットから分厚い招待券の束を出してみせた。
「すげえ、どうしたんだ」
 タツヤは、うらやましそうにいった。
「おやじからもらったんだよ」
「ふーん。おまえんちのおやじさん、映画会社かなんかに勤めてるのか?」
「いや、不動産関係だけど。これは取引先からもらったんだって」
 トオルは、ちょっと早口にいった。

 タツヤは家に戻ると、自分の部屋ですばやく私服に着替えた。そして、台所に置いてあったおやつの菓子パンをほおばりながら家を出た。
玄関わきにとめてある自転車をひっぱりだす。
 そんなに急がなくても、十分ちょっとで最近オープンしたばかりの駅ビルについてしまった。待ち合わせの時間まで、まだ十五分近くもある。
駅ビルの中には、9スクリーンもあるシネコンが入っていた。たいがいの映画なら、電車で都内に出なくてもここで見ることができる。
 タツヤは近くの歩道の上に自転車をとめて、盗まれないようにチェーンの鍵でガードレールに縛り付けた。
ニュースやCMを流している電光掲示板の下で、トオルを待つことにした。ここは最近待ち合わせによく使われる場所だが、時間が早いせいかまだそんなに人だかりはしていなかった。
 少し早めに着いたので、トオルが来るまで、壁にもたれていきかう人の流れをぼんやりながめていた。そして、なんとはなしにトオルのことを考えた。
 学校以外でトオルに会うのは、これが初めてだった。
それだけじゃない。どこに住んでいるのかとか、家族の構成だとか、トオルについては何も知らなかった。
 先月転校してきたこと。勉強はそっちのけでセントオルリーグに熱中していること。知っているのはただそれだけだ。
「よお、お待たせ」
 ふいに声をかけられて、タツヤは物思いから現実世界に引き戻された。
 そばではにかんだような笑顔をみせているトオルを見て、タツヤは少し驚かされた。
 トオルは体にピチッと合った細身のジーンズをはき、はやりのパステルカラーのポロシャツをさり気なく着こなしている。天パーの髮の毛も、いつもよりきちんとなでつけていた。
 タツヤは子供っぽい自分のかっこうが急にダサク思えて、少し引け目を感じてしまった。
「じゃあ、行こうか」
 トオルにうながされて、二人は肩を並べてビルの中に入っていった。
 エスカレーターでシネコンの受け付けになっているフロアにいった。プーンと甘い香りがフロアにただよっている。キャラメルポップコーンの匂いだ。
「何か飲み物でも買っていく?」
 タツヤは先に立って、食べ物売り場の方へ歩いて行った。
「うん。そうだなあ?」
 トオルは、売り場のうしろにはられたメニューをながめている。
「ポップコーンも買おうか?」
と、タツヤがいうと、
「じゃあ、カップルセットにしよう」
 トオルがニヤッとした。
 カップルセットは飲み物のLが二つと、ポップコーンのLがついて値段が割引になっている。
「OK。でも、ポップコーンは塩味ね」
と、タツヤは答えた。
 その日の映画は、アメリカの中学生の恋愛コメディーだった。
 冒頭から、かわいい女の子とのキスシーンで始まったのでびっくりした。
 その後も、年上の女の人にセックスを迫られたり、女子更衣室をのぞき見したりと、きわどい場面がふんだんに盛り込まれている。
 タツヤもこういったことにはもちろん関心があるので、初めは興味しんしんで見ていた。
 でも、自分の中学生活とのあまりの違いに、だんだんあきてきてしまった。それに、かんじんのストーリーが、単調でつまらなかったのだ。
「ファーッ」
 おもわずあくびをして、タツヤはあわてて口をおさえた。トオルに馬鹿にされるのが、いやだったからだ。こういった映画を楽しめないガキだと思われるかもしれない。
 タツヤは、横目でそっと隣にすわっているトオルの様子をうかがってみた。
(えっ?)
 驚いたことに、トオルはぐっすりと寝込んでいる。耳をすますと、かすかに寝息までが聞こえてきた。その寝顔は、さっきまでとは違ってすごく子供っぽい。
 タツヤは、安心して自分も居眠りをすることにした。しばらくして、隣の席からは、トオルの軽いいびきが聞こえ出してきた。

 映画の帰りに、タツヤはトオルの家へ寄ることになった。トオルの家は、古いマンションの七階にあった。
 家に入った時、タツヤは奇妙な感じを受けた。
 間取りは、ありふれた2LDK。玄関わきの食堂には、ダイニングテーブルや冷蔵庫が、そして、最初に通された居間には、型通りに応接セットやテレビが置かれている。ここまでは、タツヤの家と全く同じだ。
 しかし、何かが違う。まるでモデルルームか何かのように、どこか不自然な感じがするのだ。
 タツヤの家では、ぜんぜんふんいきが違っている。家の中に、仮にその時そこにはいなくても、家族のにおいが充満しているのだ。
 それは、食堂の椅子の背に、無造作にかけてあるかあさんのエプロン。ふたがあけたままになっている妹のピアノ。そして、玄関に置きっぱなしのとうさんのゴルフバッグなんかかもしれない。
 それから、居間に置かれた去年の夏の家族旅行でのスナップ写真。タツヤが修学旅行で買ってきた日光のペナントなどでもある。
 そういったむだな物、雑然とした物が、トオルの家には全くなかったのだ。
 特に、台所は、ほとんど使ったことがないかのように整然としていた。タツヤの家なら、使いかけの調味料や洗う前の食器、それにいろいろな食べ物まで、あちこちに置かれている。
 タツヤは、思いきってトオルに聞いてみた。
「トオル。おまえんち、おかあさんいないのか?」
「いや、いるよ。ちょっと出かけているんだ」
 トオルは、あわてたように早口でいった。そして、何かを恐れるかのようにして、急いでタツヤを自分の部屋へ連れていった。
 トオルの部屋に入ってみると、そこもみょうにちぐはぐな感じだった。六畳ぐらいの大きさの洋室だったが、ベッドがない。
(床に直接ふとんをしいて、寝ているのだろうか?)
 窓ぎわには、タツヤの部屋と同じように机が置かれている。恥ずかしながらタツヤの勉強机は、アニメのキャラクターの絵がついている装備満載の『学習机』だ。
 ところが、トオルのはぜんぜん違っている。灰色で片そで、がっしりしていて飾りがいっさいない。
 そう、テレビドラマに出てくる会社に置いてあるような、古ぼけた事務机って感じなのだ。その上にはノートパソコンとプリンターが載っている。
 部屋のすみには、他とはふつりあいな新品のブルーレイレコーダーと大型有機ELテレビが置かれている。
 机の上にのっている写真立てには、トオルと大きな犬が一緒に写っている写真が入っていた。その犬は、大きなピンク色の舌を出してトオルのほっぺたをなめ、トオルはくすぐったそうに笑っている。
「でっかい犬だなあ」
 タツヤは、写真立てを手に取った。
「前の家で飼っていたグレートデンなんだ」
 トオルはそういいながら、タツヤの手から写真立てを取り返した。
「へーっ、今はどうしてるんだ?」
 タツヤは思わずそう聞いて、すぐにしまったと思った。トオルが、黙って写真立てを机の上にふせたからだ。

 玄関の方で、かぎをガチャガチャさせる音がした。トオルは、すぐに立ち上がった。
「おかあさんか?」
「ああ」
「あいさつした方がいいよな?」
 タツヤも、そういいながら立ち上がった。
「えっ。ああ、いいよ。別にしなくても」
 トオルは、ひとりで部屋を出ていった。
 すぐに部屋に戻ってきたトオルは、ブルーレイディスクに録画してあった去年の日本シリーズの試合を、タツヤに見せてくれた。有機ELテレビで見るプレーは、映像も音響も、タツヤの家のテレビよりずっと迫力があった。
 三十分ほどして、コンコンとドアがやさしくノックされた。
「トオルさん」
 外から声がすると、トオルはあわててドアの所へ飛んでいった。ドアを開けると、お寿司をのせたおぼんを持って、トオルのおかあさんが入ってきた。
「いらっしゃい」
「あっ、どうも。はじめまして、藤田タツヤっていいます」
 タツヤは、てれながらあいさつした。
 トオルのおかあさんは、びっくりするぐらいきれいな人だった。髪はきちんとセットされているし、化粧もくっきりとしている。それに、タツヤのかあさんと比べると、十才以上も若く見える。
「そこに置いてってよ」
 トオルは、少しじゃけんな声を出していた。
「はい、はい。それじゃ、ごゆっくり」
 トオルのおかあさんはお寿司を机の上に置いて、タツヤに向かってニッコリとほほえんでから、部屋を出ていった。
 タツヤは、その笑顔が今日の映画に出ていた主人公を誘惑する年上の女性とダブッて、思わずドギマギしてしまった。
 お寿司は上等だった。いや、子どもたちだけで食べるには、上等すぎていたかもしれない。
 ウニ、イクラ、トロ、アワビ、それに大きな活きエビ。
「おまえ、いつもこんなの食ってるのか?」
 タツヤは、イクラの寿司をほおばりながらいった。
「えっ、ああ」
「ふーん。おまえんち、けっこう金持ちなんだなあ」
「いや、違うよ」
 タツヤがうらやましそうにいうと、トオルはいやにはっきりと否定した。

 その後も、トオルはセントオルリーグに熱中していた。授業中に、例のシャーッというかすかな音が、うしろから聞こえなかったことはほとんどない。初めは気になったその音も、慣れてしまったのか、しだいに意識しなくなっていた。
「おい、これを見てみろよ」
 ある朝、トオルが何かがプリントアウトされている紙を、タツヤに差し出した。
「なんだよ」
 手にとってみると、どうやらパソコンで作った新聞のようだった。
 名づけて、「トオルスポーツ」。
 A4サイズ四ページ。一試合一ページずつで三試合分のっているから、それで三ページ。残りの一ページには、チームや選手の記録までがのっていた。
「広島、ヤクルトをひとのみ」
「坂本、二試合連続の四号スリーラン」
「藤波、完封で三勝目」
 各ページには、赤や青のスポーツ新聞風のはでな見出しがついていた。ここでも、カットや見出しの飾りに、トオルのイラストの腕がいかんなく発揮されている。
「すげえなあ」
 タツヤは感心して、「トオルスポーツ」を読んでいった。

 「トオルスポーツ」は、ほぼ二日に一回の割合で発行されるようになった。
 タツヤは、その新聞のたった一人の熱心な読者になった。
「こんな凝ったイラストを描くんじゃ、けっこう時間がかかるだろう」
「いや、絵を描くのは好きだからそれはなんてことないんだけど、見出しや記事を書くのがけっこう難しいんだ。なかなかいい文章が思い浮かばなくて、すごく時間がかかっちゃう」
「ふーん、そんなものかな」
「本物の新聞社では、記事はそれを書く人が何人もいて、見出しは見出しで専門の人が考えているらしいよ」
「へー、すげえなあ」
「特に、スポーツ新聞の一面の見出しは、売り上げにすごく影響するんだって」
「トオル、おまえはどうやって見出しや記事を書いているんだよ」
「スポーツ新聞を参考にしたり、インターネットのニュースを調べてたりしてるけどな」
「けっこう大変なんだな」
 学校にいる時は、試合を消化するだけでせいいっぱいなので、文章や見出しを考える暇はない。たったひとりの読者であるタツヤと自分自身のために、トオルはトオルスポーツを家で一からパソコンで作っているのに違いない。あのガランとした部屋で、たった一人で作業をしているトオルの姿が頭に浮かんできた。
どうやらトオルは、学校でも家でも、ほとんどすべての自分の時間を、セントオルリーグにささげているようだった。
 それ以来、授業中には、トオルがセントオルリーグの試合をやっている間、タツヤも授業をさぼって「トオルスポーツ」を読みふけるようになった。

 七月の始めの月曜日だった。
 その朝、タツヤが登校すると、めずらしくトオルが先に来ていなかった。いつも遅刻ギリギリのタツヤと違って、トオルは十五分前には登校している。
 始業のベルが鳴り、クラスのみんなが席についても、トオルは現れなかった。今までに、一度も遅刻も欠席もしたことがなかっただけに、タツヤはちょっと気になった。
(風邪でもひいたかな?)
 金曜日に別れた時には元気そうだったから、週末に体調を崩したのかもしれない。
 その日一日、タツヤはうしろの席からあのシャーという音が聞こえないので、何だか少し物足りない気分だった。
 けっきょく、トオルはその日は学校には来なかった。
 学校が終わると、タツヤは、
(トオルの家へお見舞いに行ってみようかな)
と思った。
 でも、一日だけの欠席でそれも大げさなように思われた。
(明日まで待ってみよう)
と、その日はそのまま自分の家に帰った。

 トオルは、翌日も登校しなかった。そして、朝のホームルームの時に、担任の青井先生がその理由を明らかにしたのだった。
「急なことですが、このクラスの福井くんが、おとうさんの仕事の都合で転校することになりました」
 突然のことに、クラスのみんなはザワザワし始めた。
 タツヤは、思わず席を立っていた。
「先生、いつからですか?」
「それが、昨日からなんだ」
 先生も、当惑した表情をしていた。
「うそーっ!」
「えーっ?」
 他の生徒たちも、びっくりしてさわいでいる。
「どこへ行ったんですか?」
 タツヤが、またたずねた。
「タツヤーっ。大事なカレシなのに、知らないのかあ?」
 誰かがやじったので、クラスの人たちはドッと笑った。
「うん。それは、先生にはちょっと……」
 青井先生は、口ごもってしまった。生徒の個人情報は漏らすことはできないのだろう。

 その日一日中、タツヤは学校中をまわって、トオルの転校の理由を聞いてまわった。
 まずクラスの情報通たちに、話を聞いてみた。
 でも、トオルがいなくなった事情を知っている者はいなかった。ただ、それを探るためのいい情報は得られた。別のクラスに、トオルと同じマンションに住んでいる生徒がいるというのだ。
 休み時間に、タツヤはその生徒の教室にいってみた。
 タツヤは、入口の所にいた男子生徒に、その生徒を呼んでもらった。
 その子は、おしゃべりそうな女子生徒だった。
「あの、福井くんのことなんだけど、……」
 タツヤがそう切り出すと、なんだかうれしそうに自分から話し出した。どうも話したくてうずうずしていたみたいなのだ。
「おとといの日曜日に、急にトラックが来て、マンションを出ていったのよ」
 女の子は、そう話を切り出した。
「福井くんのおとうさんの仕事がいきづまっちゃって、前に住んでいた家も手放したらしいよ。暴力団みたいな人たちが時々来て、部屋の前で大声で怒鳴っていたみたい」
(なんでそんなことまで知っているんだよ)
って、気がしたけれど、タツヤはだまっていた。
「福井くんの両親って、去年離婚しちゃったんだって。一緒に住んでた女の人は、おとうさんの愛人なんだってさ」
 女の子は、そんな聞いてないことまでしゃべっていた。
 タツヤには、その話のどこまでが本当で、どこからがデマなのか、はっきりしなかった。
ただ、青井先生に確認したところ、トオルの父親から、昨日、学校へ電話で連絡があり、転校届も今日になって速達で送られてきたことだけは事実のようだった。

 その日の授業が終わるとすぐに、タツヤはトオルのマンションへ行ってみた。
 エレベーターに乗って、トオルの家のある七階までまっすぐにあがった。
 家の前まで行くと、「福井」の表札はまだドアの上の壁についたままになっていた。
 タツヤは、ドアのノブに手をかけてみた。
 動く。かぎがかかっていなかったのだ。
 タツヤは、そっと中に入ってみた。
 家の中は、めちゃくちゃに散らかっている。冷蔵庫、テレビなどのめぼしいものはほとんどなくなって、ガランとしていた。
 でも、食器類や本などは、部屋のすみに残されたままになっている。よほど急いで出ていったのに違いない。
 タツヤは、トオルの部屋にも入ってみた。
 トオルと一緒に見た大型液晶テレビもブルーレイレコーダーもノートパソコンもプリンターも、もちろん今はない。例の灰色の事務机だけが、ポツンと残されていた。
 タツヤが近づいてみると、机の上に写真立てがふせたまま置かれていた。
 手にとってみると、トオルは相変わらず犬に顔をなめられてくすぐったそうに笑っている。
 タツヤは写真立てを持ったまま、部屋を出ていった。
 小便くさいらくがきだらけのエレベーターで下へ降りながら、
(タツヤはなぜあの犬との写真を置いていったのだろうか)
と、考えていた。
 古ぼけたエレベーターは、一階でガタンととまった。

 トオルが引っ越ししてから、二週間がたった。
 その日、タツヤは、トオルからの初めての手紙を受け取った。
 住所は書いてない。消印は大阪になっていた。
『やあ、タツヤ。元気か。
 おれも元気だ。こっちに着いてから、もう一週間になる。関西は、ダサイやつらばかりでつまらん。
 でも、「セントオルリーグ」では、相変わらず熱戦が続いている。ようやく各チームとも半分の七十試合ずつが終了した。いぜんとしてヤクルトがトップだ。もう興味ないかもしれないけど、「トオルスポーツ」の最新号を同封した。
 それじゃ、また。
    『セントオルリーグ』のコミッショナーにして、
    『トオルスポーツ』の敏腕記者、
                    トオルより』
 封筒には、小さく折りたたんだ「トオルスポーツ」のコピーが入っていた。
『根尾、連発。大野、巨人を二安打完封』
 相変わらず、いせいのいい文字がおどっている。
「あいつ、なんてやつなんだ。『セントオルリーグ』なんか、まだやってやがって、……。」
 タツヤは、「トオルスポーツ」をにぎりしめながら、そうつぶやいた。

       

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

ユウとゴンタだけの秘密

2021-05-20 14:14:34 | 作品

 

 K電鉄の線路は、ユウのマンションの前にある踏み切りをすぎると、左へ大きくカーブしていた。カーブが終わる所には、幅百メートルぐらいの川があって、灰色に塗られたアーチ型の鉄橋がかかっている。
 ユウは、線路の両側を結ぶ鉄橋下の通路へ、よくでかけていった。夕方には、イヌと散歩をするお年寄りやジョギングの人たちが、その通路を使っている。
 でも、ユウが行く三時ごろには、そこを通る人はほとんどいなかった。
 ゴトン、……、ゴトン、……。
 遠くから、レールをたたく響きが伝わってきた。電車がやってきたのだ。
 ガガガ、ガーン。
 やがて、頭の真上を、電車が通り過ぎていく。耳がつぶれそうなすごい音だ。
「ワーッ!」
「キーッ!」
「ギャーッ!」
 ユウは、両耳を手でしっかり押さえて、思いっきり叫んでみる。
 電車が通り過ぎてから手を放すと、しばらくの間、頭がポワンとして変な気分になる。ユウは、それが大好きだった。

 ある日、ユウは、鉄橋下の通路に幅の狭い鉄製の階段がついていることに、気がついた。堤防にそって、鉄橋の上の方まで続いている。形は、スベリ台を登るはしごに似ていた。
 そこから、鉄橋の上へ登れそうだ。鉄橋の点検用なのかもしれない。
 階段のまわりは、高さ二メートルぐらいの鉄柵に、取り囲まれている。柵の中へ入る小さな扉にも鍵がかけられていて、『関係者以外立ち入り厳禁』と書かれた鉄製の注意板が取りつけてあった。
 しばらくの間、ユウは、あたりの様子をうかがっていた。
 だれも、やってきそうにもない。
 鉄柵に手をかけてみた。扉を足がかりにすれば、簡単に上れそうだ。
 次の瞬間、ユウはするすると鉄柵を乗り越えてしまっていた。
 階段を途中まで登ったとき、ユウはちょっとヒヤリとした。堤防がそこで終わっていて、右下に川が丸見えだったからだ。水面までは、五メートル以上の高さがある。川の両側には河原がぜんぜんなく、堤防ぎりぎりまで水がきている。
 ユウは手すりをしっかりと握り直すと、また登り始めた。鉄製の階段は、足元でダンダンと大きく響いている。
 とうとうユウは、階段のてっぺん、鉄橋の上へ出られた。
 そこは、畳二畳ぐらいの狭い場所で、西側の半分は、バルコニーのように川へ張り出している。
 残りの半分は、鉄橋のアーチの根元の部分だ。
 アーチをつくっている鉄の柱は空洞になっていて、バルコニーから中に入れる。ユウが上をのぞいてみると、あちこちの隙間から、少しずつ日の光がもれていた。
 柱の中から出てきたユウは、「バルコニー」の上から珍しそうにまわりを眺め始めた。
 鉄橋の下を流れているS川は、ずっと昔は水が汚いことで全国的に有名だった。
 でも、今ではすっかりきれいになっている。くさいにおいもほとんどなかった。
 川のこちら側は、住宅やユウが住んでいるようなマンションが建ち並んでいる。
 向こう岸には、鉄筋の校舎や体育館が見えた。中学校みたいだ。
 それに、低い建物がいくつも続いている場所もある。確か、前に学校の社会見学で行った浄水場だと思う。
 タンタンタンタンタン、……。
 遠くから、小さな振動が伝わってきた。それが、だんだん大きくなってくる。
(あっ!)
 鉄橋の向こう側に、電車が現れた。
 ユウは、運転士に見つからないように、あわてて柱の中に飛び込んだ。
 ゴゴーン、ゴゴーン、……。
 電車はものすごい音をたてながら、ユウのすぐそば、おそらく一、二メートルしか離れていない所を通り過ぎていった。
 電車の音が完全に聞こえなくなるまで、ユウは柱の中でじっとしていた。

 それからというもの、ほとんど毎日のように、ユウはこの「秘密の場所」へ遊びに来るようになった。
 「バルコニー」には西日がよくあたっていて暖かいし、風も気持ちがいい。それに、なんといっても、眺めが抜群なのだ。
 柱の中はちょっと狭かったけれど、逆にそこに隠れてしまえば、ユウの姿は外から完全に見えなくなった。
 ユウは、電車が来るたびに、見つからないように柱の中へ入り、安心できる時だけ「バルコニー」に出るようにしていた。このことも、まるでかくれんぼでもしているみたいで、気にいっていた。
 ユウは、柱の中にたまっていた枯れ葉やごみを、すっかりきれいに片づけた。鉄板の上に直接腰を下ろすとひんやりするので、小さなビニールの座布団を持ち込んでいる。
 ユウは、「秘密の場所」でおやつを食べたり、マンガを読んだりすることもあった。
 でも、たいていは、まわりの景色やたまに下の川を通っていく船などを、ただぼんやりと眺めているだけだった。
 「バルコニー」から水面までは、十メートル近くの高さがある。風が強く吹いてガタガタ揺れると、さすがにちょっと怖かった。それに、時々、すぐそばをすごい音をたてながら電車が通るから、普通の人だったらとても長くはいられなかっただろう。
 でも、ユウは、狭い柱の中で電車が通り過ぎるのを待つことも、まったく苦にならなかった。

 ユウが狭い所を平気なのは、小さなころからずっと住んでいた公団住宅のせいかもしれない。
 ユウは、去年の十月に今のマンションに引越してくるまでは、郊外の団地で暮らしていた。家族は、両親と三つ年上のにいさんと四人だった。
団地の家には、台所などを除くと、六畳間が二部屋あった。ひとつは、居間兼両親の寝室だ。もうひと部屋が、ユウたちの勉強部屋兼寝室になっている。
 でも、ユウたちの部屋には、かあさんのタンスやとうさんの本棚などが、ところ狭しと置かれている。だから、勉強机は、にいさんの分しか置けなかったのだ。
 でも、そんなことは、ユウにはちっとも気にならなかった。宿題をやったり、本を読んだりするのは、夏は食堂のテーブルでできる。冬の間は、とうさんたちの部屋にこたつがあった。
 ユウのうちでは、かあさんもフルタイムで働いている。だから、夕ごはんはいつも八時近くになっていた。それまでに、どこかで宿題をやっておけば、ぜんぜん支障がない。
 問題は、夜寝る所だ。布団を敷くスペースも、にいさんの分しかなかった。それで、ユウは、いつも押し入れの上の段で寝ていたのだ。
 でも、ユウは、その押し入れベッドが大好きだった。
 九時近くになると、にいさんの布団をさっさと外に出して、自分の寝床を整え始める。そして、マンガや大好きな動物図鑑を何冊もかかえて、押し入れベッドにもぐりこむのだ。
 ほんとうに眠るまでは、押し入れの戸は少し開けておいた。
 でも、中学受験に備えて夜遅くまで勉強するようになったにいさんが、イヤホンの音楽に合わせて歌う下手な鼻歌がうるさかったりする時は、早めに戸を閉めてしまう。押し入れの中に、とうさんが外から延長コードを引っ張って小さなLEDライトをつけてくれていたので、閉め切っても大丈夫だった。
 ユウは布団にもぐりこんだまま、動物図鑑の大好きなピューマやハイイログマ、そしてペッカリーなどのページを、ぼんやり眺めたりしていた。
 押し入れの裏はトイレなので、水を流すたびにすごい音が響いてくる。
 でも、ユウは、それも少しも気にせずに、ぐっすりと眠ることができた。

 今のマンションの抽選に当たった時の、とうさんとかあさんの喜びようを、ユウははっきりと覚えている。
 その日は、珍しくとうさんも早く帰ってきていた。
「じゃあ、おとうさんから発表してください」
 かあさんは、嬉しそうにとうさんにビールをつぎながらいった。ユウたちのコップにも、ジュースがつがれている。
 テーブルの上は、すごいごちそうばかりが並んでいた。お寿司、ピザ、ローストビーフ、エビフライにフライドチキン。狭いテーブルには、置ききれないくらいだ。
「うん」
 とうさんは、こちら向きにマンションのパンフレットを広げて見せた。二十階だての大きなマンションだ。その八〇七号室に、赤いマジックで印が付けてある。
「今日の抽選で、この部屋に当たったんだ」
 とうさんは、いつもと同じように落ち着いた声で話し出した。
「すげーえ。3LDKだ」
 にいさんが叫んだ。
「3LDKって?」
 ユウがたずねると、
「Lはリビング、居間のことね。DKはダイニングキッチンで、台所と食堂のことよ。それ以外に三つもお部屋があるのよ」
 かあさんが、他のページに載っていた間取りを指差しながら、説明してくれた。
「ふーん」
 ユウには、まだこの新しい家のことがピンとこなかった。
「じゃあ、かんぱいしましょうか?」
 かあさんが、とうさんをうながした。
「そうだね。それでは、新しい我が家に、かんぱーい」
「かんぱーい」
 とうさんの「かんぱい」の声は、さっきより少しだけかん高くなっていた。

 ユウ以外の家族は、新しい広いマンションに移って、大喜びだった。今度の家では、にいさんとユウは、それぞれひと部屋ずつが与えられている。
 にいさんの部屋は洋室で、そこに勉強机と新しく買ってもらったベッドを置いている。にいさんは、念願の個室に満足していた。
 ユウの部屋は、このマンションで唯一の和室だった。
 本来は、客間か寝室用の部屋なのだろう。押入れも付いた純和風の部屋だ。
その部屋で、ユウは畳に布団を敷いて寝ることになった。
部屋には、買いたてのユウ専用の勉強机が置いてある。それは、ユウも使い易くて気にいっていた。
 でも、寝る時になるとは、ユウはせっかくの自分の部屋になじめないでいた。
 初めての晩、ユウは、真新しい畳の自分だけの部屋で、なかなか寝付けなかった。天井が高くて、とても気になるのだ。
 とうとうユウは、布団を押し入れまで引っ張っていって、中に敷いて寝ることにした。
翌朝、かあさんは、押し入れベッドでぐっすり寝ているユウを発見した。
「ごめんね。ずっと、変な所にばかり、寝かしていたから」
 かあさんは泣き笑いしながら、ユウにあやまっていた。
 その後も、ユウは、何回か、「押し入れベッド」の中で寝てみた。
 もちろん、かあさんに気づかれないように、朝には布団を元に戻しておいていた。また、かあさんを悲しませたくなかったからだ。
 残念ながら、ユウは、新しいマンションの「押し入れベッド」は、ぜんぜん気にいらなかった。変な所にでっぱりがあって、寝がえりをうつと足がぶつかるのだ。きっと、中を鉄骨か何かが通っているのだろう。
 それに、蛍光灯もなかった。これでは、好きな動物図鑑を、寝ながら読むこともできやしない。
 ユウは、マンションの「押し入れベッド」を、次第に使わないようになっていった。

 その日も、ユウは、「秘密の場所」で、いつものようにぼんやりと空をながめたり、下の通路を歩いている人たちを、気づかれないように見おろしたりしていた。
「ミャーオ」
 いきなり足もとで鳴き声がしたので、ユウはもう少しで飛び上がってしまうところだった。いつのまにか、よく太ったネコが、ユウのそばにしのびよっていたのだ。あの高い階段をどうやって登ったのか、ユウはすっかり驚かされてしまった。
「なんだ、お前?」
 ユウは、少し後ずさりをしながらいった。
「ミャーオ」
 ネコは、ユウを見上げてもう一度鳴いた。どうやら、ユウが手にもっていたビスケットが欲しいようだ。
 一枚あげると、柱の中へくわえていって食べ始めた。
 そのネコは、こげ茶に緑色がまじったようなへんな毛の色をしていた。ころころと、ボールのように太っている。

 その後も、ユウは「秘密の場所」で、なんども同じネコにであった。どうやらネコのほうでも、この変な場所が気にいっているらしい。
 ユウより先にきていることもあれば、後からやってくることもある。ネコは、いつもそっとあらわれるので、そのたびにユウはびっくりさせられてしまった。
 何回か顔をあわせるうちに、ユウは、このネコに「ゴンタザエモン」という名前をつけていた。
 どことなく昔のさむらいみたいに、どうどうとしたところがあったからだ。
 でも、「ゴンタザエモン」ではいいにくいので、ふだんは「ゴンタ」とよぶことにした。

 ゴンタと出会ってから、二週間ほどしたころだった。ユウは、いつものように、「秘密の場所」へやってきていた。
 途中からゴンタもきて、当然のような顔でユウからビスケットを受け取ると、少し離れたところで食べ始めた。
 ユウとゴンタは、それ以上はおたがいにかまわずに、それぞれ「秘密の場所」を楽しんでいた。
 もう五月もなかばをすぎて少し暑いくらいだったけれど、「秘密の場所」にはすずしい風がふいていてとても気もちがよかった。
 今日は、下の川をなかなか船が通らなかった。対岸の浄水場の水門のあたりには、白い洗剤のあわのようなものがうかんでいる。
 ユウは、風にあおられてまいあがったり、水に少し流され始めたあわのかたまりを、ぼんやりとながめていた。
 例によってごう音をたてながら、電車が鉄橋をわたってきた。
 あわに気をとられていたせいか、ユウが柱の中にかくれるのが、いつもより少しおくれてしまった。
 ファーーン。
 「秘密の場所」のそばまでやってきたとき、電車はいきなり警笛を大きくならしていった。
 ユウはびっくりして、柱の中で体を小さくしていた。

 それから、十分ほどしてからだった。黄色いライトバンが、線路ぞいの道路をすごいスピードでこちらへむかってはしってきた。
 車は、行き止まりになっている堤防の手前で、急停車した。中からは、ヘルメットをかぶって作業服をきた人とK電鉄の制服すがたの人が、二人ずつとびだしてきた。
 ユウは見つからないように、あわてて柱の中にかくれた。
 下の方で、とびらのかぎをあけるガチャガチャという音がしている。階段をのぼってくるようだ。ひそひそと、話し声も聞こえてくる。
「こわがらせるな」
「川に落ちたらたいへんだ」
 やがて、白いヘルメットをかぶったおじさんが、階段の所から、顔を出してきた。ユウを見て、にっこりわらっている。
「ぼうや、こわくないからね。こっちへおいで」
 ゆっくりと手まねきしている。
 ユウは柱の中にすわったまま、じっとしていた。ゴンタも、すぐそばにくっついている。
「じゃあ、じっとしててね」
 ヘルメットのおじさんは、「バルコニー」に上がると、こちらへ近づいてきた。他の三人も、階段から顔をのぞかせてきた。
 ユウの腕をつかんだとき、ヘルメットのおじさんは今までの笑顔をパッとやめて、急にこわい顔をしてどなった。
「なにやってんだ。このガキ!」
 ユウは、二人のおじさんに両わきからかかえあげられるようにして、下へおろされてしまった。
 でも、おじさんたちは、ユウと一緒にいたゴンタには、ぜんぜん目もくれなかった。

 ユウは黄色いライトバンで、駅の事務所へつれていかれた。
 駅の事務所のいすにすわらせられたユウのまわりで、制服や作業服をきたおじさんたちが大きな声でどなっている。
「まったくあぶないったら、しょうがない」
「ほんとうに最近のガキどもは、何を考えているのかわからないな」
「やっぱり、親のしつけの問題だよ」
「さっきから家に電話しても、ぜんぜんでない。ガキなんか、ほったらかしなんだよ」
「やっぱりなあ」
 ユウは、おじさんたちのあいだで、ぼんやりしながらすわっていた。
 そして、
(なんでこんなにおこっているのかなあ)
と、思ったりしていた。
 
夕方になって、やっとかあさんが迎えにきてくれた。
「どうもご迷惑をおかけしまして、……」
 泣きながら、おじさんたちになんども頭をさげているかあさんを見たとき、
(やっぱりちょっと悪いことをしたのかな)
と、ユウは思った。

 「事件」があってから、二週間がたった。
 ユウは学校から帰ると、友だちの家へいったり、にいさんと遊んだりしている。とうさんとかあさんに、二度とあそこへは行かないと、約束させられたからだ。
 でも、だんだんあの「秘密(もう秘密じゃないかもしれないけど)の場所」へ、行きたくなってきた。
ともだちと遊んでいても、
(今日はお天気だから、「バルコニー」はすごく気もちがいいだろうな)
などと、ふと考えてしまう。
 とうとうある日、ユウは、また鉄橋の下まで来てしまった。
 鉄さくには、いままでの注意書きの他に、
『危険、絶対に中へ入るな』
と、書かれた手書きの板までかけてあった。へたくそなドクロマークまでついている。
 鉄さくのてっぺんには有刺鉄線がまいてあって、よじのぼれないようにしてある。
 でも、そんなことをしても、まったくむだなのだ。
 だって、やせっぽちのユウは、鉄さくのあいだをすりぬけられるんだから。
 鉄さくは、四すみの部分だけ、すきまが少し大きくなっていることに、ユウはとっくに気づいていた。そこだと、ユウの頭は、ぎりぎり通るのだ。頭さえぬけてしまえば、あとはこっちのものだ。ユウはあっさりと鉄さくの中に入っていた。

 ユウが「バルコニー」までのぼっていくと、もう先にゴンタがきていた。ゴンタも、もちろんすりぬけ組だ。
 でも、二週間見ないうちにますます太っていたから、鉄さくをとおりぬけるのは少しきびしかったかもしれない。
 ゴンタは、いつのまにか柱の中にボロきれをくわえてきていて、その上にすわっていた。
「やあ、ゴンタ」
 ユウはそう声をかけると、ポケットに入れてきたにぼしを、ゴンタの前においてやった。
 ゴンタは、しばらくわざと興味なさそうな顔をしていたが、やがてにぼしを食べ始めた。
 ユウは、いつものようにひざをかかえて、ぼんやりと空をながめはじめた。
 こうして、ユウとゴンタだけの「秘密の場所」は、みごとに復活したのだった。
 ユウは、また毎日のように、「秘密の場所」へくるようになった。
 でも、前よりも、いちだんと用心ぶかくなっている。めったに「バルコニー」のほうへはいかずに、柱の中にいることが多くなった。そこで、マンガや動物図鑑を読んでいる。ユウは狭い場所が大好きだから、そんな場所でも全然平気だった
 たまにからだをのばしに「バルコニー」へ出るときも、絶対みつからないように短い時間だけにしている。
 ゴンタも太りすぎのせいか、動くのがおっくうなようで、ボロきれの上にじっとしていることが多かった。
 ユウは、ナップザックの中に、「秘密の場所三点セット」とよんでいる水とう、ビニールざぶとん、そして、あの愛用の動物図鑑を入れて、通うようになっていた。

 ある日、ユウが「秘密の場所」への階段を上っていくと、上からゴンタが顔を出した。
「やあ、ゴンタ」
 ユウがいつものように声をかけたのに、ゴンタのようすがなんだか変だ。
「フーッ」
と、うなりながら、顔のまわりの毛を逆立てている。
「フギャーッ!」
 ユウがかまわずに「バルコニー」に上がっていくと、いきなりほっぺたにつめをたてられた。
「いてーっ!」
 ユウは、あわててうしろへとびのいた。傷口に手をやると、ちょっぴり血がついた。ひっかかれた所があつくなって、みるみるみみずばれになっていくようだ。
 ゴンタは、まだ飛びかかってきそうだった。
「なんだよーっ」
 ユウは、ゴンタを大声でどなりつけてやった。
 しばらくの間、二人は「バルコニー」の上で、互いににらみあっていた。
 ふと気がつくと、ゴンタのうしろのボロきれの上に、なにかモゴモゴと動いているものがある。
「ミュー、ミュー」
 かすかに鳴き声もきこえた。
 子ネコだ。
「そうか、ゴンタ。お前、メスだったのかあ」
 ユウは、あらためてゴンタのようすをながめた。
 昨日まであんなにまるまるしていたのに、今ではすっかりしぼんでしまって、毛並みも薄汚れているようにさえ見える。きっと子ネコを産んだばかりで、疲れ切っているのだろう。
 ユウは持ってきたビスケットを、「バルコニー」のすみにそっと置いた。そして、静かに階段を下りていった。今日は、これ以上ゴンタを興奮させないほうがいいと思ったからだ。

 翌日から、朝夕二回、ユウの宅配便がはじまった。ユウは小魚やビスケットなどを、ゴンタに差し入れてやることに決めていた。子ネコがいたのでは、エサをとりにいかれないだろうと思ったからだ。
 ゴンタは、そんなユウに少し気を許すようになったのか、しばらく子ネコをながめていても、あまりおこらなくなった。
「まったく、もう。ゴンタのやつ、もっと家のある所で産めばいいのに」
 ユウは、狭苦しい柱の中で、子ネコたちと一緒にいるゴンタをながめながらつぶやいた。
 でも、つぎの瞬間、ユウはハッとした。
(そうだ。家の近くで産んだりしたら、きっと人間に子ネコたちを連れていかれちゃうんだ)
 ゴンタは、本能的にそれを察して、ここで子ネコを産むことに決めたのかもしれない。
 ユウは、感心したようにゴンタをあらためてながめた。
 ゴンタは、横になって子ネコたちに乳をすわせている。すっかりやせてしまって、ひとまわりも小さくみえた。
 でも、ユウには、目を細めて子ネコたちがすいやすい姿勢を懸命に保っているゴンタが、前のでっぷり太っていたときよりも、むしろ立派にさえ思えた。
 ゴンタの子ネコは、ぜんぶで五ひきいた。はじめは、ネズミかなにかのように、はだかでブルブルふるえているだけだった。
 でも、しだいに毛もはえて、ネコらしくなってきていた。
 白黒のブチが二匹、うす茶が二匹、それにゴンタに似た毛なみのも一匹いる。ようやく目はあいたようだが、まだ足もとがおぼつかない。しばらくは、ここにいなければならないだろう。
 ユウは、子ネコたちにも、名前な前をつけてみた。
 ケンタザエモン、コウタザエモン、ショウタザエモン、リョウタザエモン、そして、いちばんおきにいりのゴンタに似たこげ茶の子ネコには、じぶんの名前をとってユウタザエモンにした。そして、ふだんは、ゴンタと同じように、ちぢめてユウタとかケンタとよんでいる。
 子ネコたちに乳をすわれてはらがすくのか、ゴンタはすごい食欲だった。
 ユウはますますはりきって、毎日、エサを運んでいた。
 きっとかあさんは、ビスケットや小魚がすごく早くなくなるのが、不思議だったにちがいない。
 ユウはゴンタたちをながめるのを、せいぜい五分か十分ぐらいまでにしていた。ゴンタが、まだ少し緊張しているのがわかったからだ。
 こうして、せっかくの「秘密の場所」をゴンタと子ネコたちにすっかりとられてしまうことになったが、ユウはぜんぜんはらがたたなかった。

 その朝も、ユウは、「秘密の場所」へ、ゴンタのエサを運んでいった。今日のメニューは、チーズとさかなのソーセージだ。
「フギャーッ!」
 「バルコニー」あたりで、ゴンタがすごい声で鳴いていた。
 バサッ、バサッ。
 変な音も聞こえてくる。
 ユウは、急いで階段をかけあがっていった。
 ユウが「バルコニー」についたとき、ちょうどゴンタが、でっかいカラスにとびかかっていくところだった。
 カラスはゴンタの攻撃を軽くかわすと、少し離れた鉄橋の上へ移動した。すきをついて子ネコをさらおうと、まだねらっている。
「だめーっ!」
 ユウは、思わず大きな声を出していた。
 カラスは、ゴンタからユウの方にむきなおった。興奮して目が血ばしっている。
 ユウは、ドキンとしてしまった。
 でも、
「やるかーっ」
と、けんめいに叫んで、カラスにむかって両腕を振り回した。
 ゴンタも唸り声をあげて、身構えている。
 カラスはしばらくこちらをにらみつづけていたが、やがてからだのむきを変えると上流の方へ飛んでいった。
 ユウはホッとして、「バルコニー」の上にすわりこんでしまった。
 ゴンタは、子ネコたちのそばへ急いで戻っていく。そして、ミャーミャー鳴いている子ネコたちを、順番になめはじめた。

 カラスの一件があってから、一週間ほどしたころだった。学校へいく前に、ユウは「秘密の場所」へ寄っていった。
 いつもの朝の宅配便だ。
「ゴンタ、元気か?」
「………」
 いない。ゴンタも子ネコたちも、いなくなっている。
 最近は、子ネコたちも、ミューミュー鳴きながらユウのそばへやってくるようになっていたのに、今日の「秘密の場所」は、すっかりガランとしていた。子ネコたちがくるまっていたボロきれだけが、柱の中にポツンと残されていた。
 ユウはあわてて階段をかけおりると、あたりをさがしはじめた。
「ゴンターっ」
 大声で呼んでみる。
 でも、やっぱりいない。
(K電鉄の人たちにみつかって、どこかへ連れていかれちゃったのかなあ?)
 でも、そうならば、ボロきれも一緒にかたづけていくはずだ。
(そうか。子ネコたちが歩けるようになったので、自分で出ていったのかもしれない)
 そう考えると、ユウはようやく少しだけ安心することができた。
 たしかに、ここのところ、子ネコたちはかなりしっかりしてきていた。ビスケットなども、直接、ユウの手のひらから、食べられるようになっていた。

 その日の放課後、ユウはまた「秘密の場所」へ行ってみた。
 でも、やっぱりゴンタたちはいなかった。
 ユウは、すぐに階段を下り始めた。
 本当なら、久しぶりに、「秘密の場所」でぼんやりしていてもよかったのだ。
 でも、なぜかそうする気になれなかった。
 ユウは鉄橋下の通路から、もう一度「秘密の場所」を振り返ってみた。いつもこっそりと外をのぞいていた「バルコニー」が見える。
 ユウには、不思議にそこがもう懐かしい場所になってしまったような気がしていた。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

送りバント

2021-05-03 18:17:32 | 作品

 

「今から、明日のオーダーを発表する」
 監督はノートに書かれたメンバー表を、ゆっくりと読み上げ始めた。
 ヤングリーブスのメンバーは、そのまわりに円陣をつくってこしをおろしている。
 土曜日の練習後のミーティング。いよいよ明日から、市の少年野球大会、春季トーナメントが始まる。
「1番、センター、本田」
「はい」
 名前を呼ばれたものは、返事をしながら立ち上がった。
「2番、ショート、……」
 次々に、名前が呼び上げられていく。
「9番、セカンド 大林」
「はい」
「以上のメンバーでいく」
 メンバー表を読み終わると、監督はグルリとみんなの顔を見まわした。
 レギュラーに選ばれた選手たちは、無言で小さくうなずいている。他のみんなも、明日からの公式試合にむけての、緊張感が高まってきていた。
 その中で、石川恭司(きょうじ)だけは、自分のまわりがポッカリと、その雰囲気から取り残されてしまったように感じていた。
 発表された先発メンバーの中に、恭司の名前はなかった。

「バーイ」
「バイバイ」
 小栗公園の横で、いつものようにみんなと別れた。
 家までの坂道をひとりで自転車を押しながらのぼっていったとき、レギュラーに選ばれなかった悔しさが、じわじわと胸の中にひろがってきた。
(やっぱりだめだったか)
 レギュラーに選ばれなかったのは、意外でもなんでもなかった。内心、恭司自身も無理じゃないかとは思っていたのだ。
 しかし、こうしてはっきりとレギュラーをはずされてみると、あらためて悔しさがわいてきていた。
 今年のヤングリーブスのAチームは、恭司たち六年生八人と、五年生十人の合計十八人から、構成されている。
公平にみれば、恭司の実力はチームで十二、三番手だ。
 練習試合とは違って、一度負けてしまえばそれっきりのトーナメント。ベストメンバーでのぞまなければならない。監督が選んだ先発メンバーは、実力どおりの妥当な顔ぶれになっている。
 実力があれば、六年生だろうが、五年生だろうが、区別せずに選ばれなければならない。
たとえ、それが結果として、六年生の中で恭司だけが補欠になったとしても。

「おにいちゃん、どうだった?」
 家に帰ると、妹の恵美が玄関まで出てきてたずねた。今日、公式戦のレギュラーが発表されることは、かあさんや恵美も知っている。
 恭司は何もいわずに、恵美の頭にポンとグローブをかぶせると、いつものように風呂場に直行した。
 ザーッ。
 熱いシャワーを頭からあびていると、また悔しさがこみあげてくる。
 三月にシーズンが始まってから、監督はレギュラーを決めるために、毎週少しずつメンバーを変えて練習試合をおこなっていた。
 初めのうちは、恭司も先発メンバーに加わることが多かった。
 しかし、いつもきまって「ライパチ」。守備がライトで、打順は八番だった。少年野球では、九人のメンバーの中で、いちばんへたな子がやるポジションだ。つまり、補欠ぎりぎりの九番目のレギュラーポジションということになる。
 練習試合での成績も、パッとしなかった。ヒットはほとんど打てなかったし、大きなエラーをして相手チームに得点されてしまったこともある。
そのため、しだいに途中で代打を出されたり、先発メンバーからはずされたりするようになっていた。
 監督の信頼を回復しようと恭司はがんばっていたのだが、とうとうこれといった活躍ができないまま公式戦の日をむかえてしまった。

 恭司はシャワーをあびおわって、風呂場から洗面所へ出ていった。
 バスタオルで、ゴシゴシと荒っぽく頭をふいた。ついでにいつのまにかにじんでいた悔し涙もぬぐったので、少しさっぱりとした気分になれた。
「はい、着替え」
 かあさんが、シャツとパンツを持ってきてくれた。恭司は、だまってそれに着替えた。
「あした、応援にいってもいい?」
 かあさんが、えんりょがちにいった。
「えっ。うん、いいよ」
 恭司は、平静をよそおって答えた。
「あたしもいっていい?」
 恵美も、洗面所に顔を出した。
「いいよ」
 恭司は、恵美にバスタオルをほうった。
 かあさんも恵美も、それ以上、恭司がレギュラーに選ばれたかどうかはたずねなかった。恭司はホッとした気分で洗面所を出た。

「それじゃあ、試合開始します」
 主審の合図のもと、
「お願いしまーす」
と、両軍は大きな声であいさつした。
 一回戦の相手は、キングドラゴンズ。市内でも指折りの強豪チームだ。
 先攻はヤングリーブスなので、恭司はすぐに三塁側のコーチスボックスへ走っていった。監督から、走塁コーチをやるように指示されていたのだ。
 三塁側の走塁コーチは、二塁から走ってくるランナーをそのままホームへつっこませるか、それとも三塁でストップさせるかを指示する重要な役目だ。
 でも、逆にここに立っていると、試合に出ないということがひとめでわかってしまうことにもなる。
 両軍のベンチ裏には、メンバーの家族を中心にした応援がきていた。一塁側のヤングリーブスには、恭司のかあさんと恵美、それにめずらしくとうさんまでがきている。とうさんは、ビデオカメラをこちらへむけていた。
「プレイボール」
 いよいよ試合が始まった。
「バッチ(バッターのこと)、しっかり打っていこうぜ」
 恭司はビデオカメラに気づかないふりをして、バッターへ声援をおくりはじめた。

 試合は、最初から相手チームのペースですすんでいた。キングドラゴンズは毎回のようにランナーを出して、着々と得点を重ねている。
 いっぽう、ヤングリーブスの方は、相手ピッチャーに完全におさえられていた。コーチスボックスからはそれほど速くは見えないのだが、手元にきてのびているのか、からぶりやポップフライがめだっている。
「恭司、ピンチヒッターだ」
 コーチスボックスにいる恭司にむかって、監督が大声でさけんだ。
 恭司は、あわててベンチへかけもどった。
 ヘルメットをかぶり、滑り止めをつけてから金属バットをにぎる。
 最終回もすでにツーアウト。得点は二対七と五点もリードされ、ランナーもいなかった。
 二、三度素振りをしてからバッターボックスへむかうとき、恭司はほほが熱くなってくるのを感じていた。見え見えの温情のピンチヒッターが、はずかしかったのだ。
 もちろん、監督に悪気があったとは思ってはいない。どうせ逆転するのが無理なのなら、ただ一人の六年生の補欠、しかも、今日走塁コーチとしてがんばり、いっしょけんめいみんなに声援をおくっていた恭司を、最後のピンチヒッターに使うのはむしろ当然のことだろう。
 でも、恭司には、チームの全員、そして、応援にきている人たちまでが、ここで恭司がピンチヒッターに立つ理由(補欠の六年生に試合の想い出を作らせる)を知っているように思えてしまうのだ。
そして、それがいやでいやでたまらなかった。
「おにいちゃーん、がんばって」
 バッターボックスに立ったとき、恵美の声がうしろから聞こえてきた。
 チラッとふりかえると、バックネットのところで手をふっている。
「キョンちゃーん、しっかり」
 応援席の方からは、かあさんも声援を送っている。きっと、とうさんはビデオカメラをこちらに向けているだろう。
(よし、意地でもここでヒットを打ってやるぞ)
 恭司はそう心にちかって、ピッチャーをにらみつけた。
 一球目。
「ストライークッ」
 速い。いざ打席にたつと、コーチスボックスで見ているときとは大違いだ。ふだんはバッティングのよいうちのチームが、二点しか取れなかったはずだ。
(追いこまれたらだめだ)
 二球目。
 恭司はおもいきりバットをふった。
 しかし、内角のとんでもなく高いボール球だった。
 からぶり。恭司は、いきおいあまってしりもちをついてしまった。
「ストライークッ」
 審判の声に続いて、観客から小さな笑い声がおこった。
「バッチ、ぜんぜん打てないよーっ」
 相手ベンチから、余裕たっぷりのやじがとぶ。
 恭司は立ち上がると、おしりについた砂をポンポンとはらった。
「恭司、おちついてボールをよく見ていけ」
 ベンチから監督の声がする。チラリと見ると、やっぱり苦笑いをしていた。
 三球目。まん中への直球。
(しめた)
 恭司のバットは、ようやくボールをとらえた。
(打球はセンター前へ)
 打った瞬間、恭司はそう思ったのだが、じっさいはボテボテにつまったゴロが、ピッチャーのグローブにすいこまれていた。
 恭司はけんめいに一塁へ走った。頭がガクガクゆれて、ヘルメットがこぼれおちた。
 しかし、まだベースの三メートルも手前で、一塁手はがっちりと送球をキャッチしていた。
「アウート」
 塁審が叫んだ。
 ワーッ!
 相手チームから歓声がおこる。
 恭司はベース前でスピードをおとすと、ヤングリーブスのベンチの方へふりかえった。
 と、その時、ベンチ前のネクストバッターズサークルの中に、次のバッターが入っていないことに気がついた。
(やっぱり、みんなは、もう試合をあきらめていたんだなあ)
 ぼくがヒットを打つことなんか、チームのメンバーたちも期待していなかったようだった。
 相手チームは、喜び合いながらホームベースへかけよっていく。ヤングリーブスのメンバーも、試合後のあいさつのためにベンチから出てくる。
 恭司は、途中に落ちていたヘルメットをひろうと、のろのろとホームにむかった。

春季大会から一ヶ月がすぎた。いぜんとして恭司は、土日の練習にも、週二回の自主トレにも休まず参加している。
 毎年この時期になると、レギュラーになれなかった六年生たちが、勉強が忙しくなったことなどを理由に、何人かやめていった。
 だが、今年は六年生の人数が少なく、恭司以外は全員レギュラーになれたので、そういうことはなかった。
 恭司も、
(チームをやめようかな)
と、チラッと思ったこともあった。
 でも、一人でやめるというふんぎりもなかなかつかずに、そのままチームに残っていた。
 だからといって、これから猛練習して、レギュラーの座をかちとるのぞみをもっているわけでもなかった。
 恭司は、もともとスポーツが苦手だった。それにひきかえ、チームのほかのメンバーは、学校でもスポーツが得意な子ばかりだ。
 恭司の体育の成績は「ふつう」ばかりだった。それでも、去年よりはあがっていて、四年生のころまでは「がんばろう」が多かったのだ。
五十メートル走は九秒台だし、ソフトボール投げも三十メートルそこそこだった。チームの他の子たちは、五十メートル走でも、ソフトボール投げでも学年の上位を占めている。これでは、とても他のメンバーをうちまかして、レギュラーの座はとれそうにない。

「おい、恭司、うまいな」
 ぼんやりと練習をしていたら、いきなりうしろから声をかけられた。
「えっ? あっ、はい」
 振り返ると、監督がそばまで来ていた。
 バッティング練習の仕上げに、バントをやっているときだ。三人一組になって、順番にピッチャー、キャッチャー、バッターを代わってやっていた。
「おーい、みんな、集合」
 監督は、グラウンドいっぱいにひろがっていたチーム全員を呼び集めた。
「いいか、バントの見本演技だ。恭司、やってみろ」
 恭司は監督にうながされて、バッターボックスに立った。
「良太、マウンドへいけ。洋平、受けてやれ」
 良太と洋平。チームのエースとキャッチャーだ。
「よし、始めろ」
 監督の合図とともに、良太が速球を投げこんできた。
 カッ。
 恭司のバントでスピードをころされたボールが、コロコロとピッチャー前にころがった。
「次」
 二球、三球と、良太の投げるボールを、恭司は次々とバントにきめてみせた。
「ほーら、みんなわかるか。恭司は最後までボールから目をはなさないだろ。だから、ファールチップになったり、からぶりしたりしないんだ」
 恭司はそんな監督のことばを背中に聞きながら、ほこらしい気持ちでいっぱいだった。こんなことは、チームに入ってから初めてのことだ。
「よっ、バント名人」
 うしろからひやかすような声がとんだ。
 ビシッ。
 声につられてつい力が入ったのか、恭司ははじめてバントをしそこなって、ファールチップにしてしまった。
 ドッとみんなが笑った。
「こら、からかうんじゃない。浩一、おまえだろ。先週の試合で、送りバントの失敗をしたのは。すこしは恭司を見習えよ」
 監督は、黄色のメガホンで、軽く浩一の頭をたたいた。送りバントというのは、自分は一塁でアウトになる代わりに、ランナーを先の塁に進めるバントのことだ。
「ちぇっ、いけねえ」
 浩一がペロリと舌を出したので、またみんなが笑いだした。
「よーし、恭司、そこまででいい。さあ、ほかのみんなも、もう一度バント練習だ」
 監督の声に、メンバーはふたたびグラウンドにちっていった。

(バント名人!)
 練習からの帰り道、恭司の頭の中に浩一の声がよみがえってきた。
 バッティングがへたなためか、試合中、送りバントを命じられることが多かった。だから、ほかのメンバーはいいかげんにやっているバント練習を、ふだんでも恭司だけはしっかりとやっていた。そうすると正直なもので、いつのまにかチームでもバントが上手な方になっていたのだ。
(バントだ。これしかない。絶対にチーム一の「バント名人」になってやろう)
 監督がここは送りバントしかないという場面で、確実にバントをきめられる。そんな選手になれば、たとえ代打でも、春季大会のときのようなお情けでなく、実力で出場できる。
「ただいまあ」
 家の玄関で、つい大声を出してしまった。
「まあ、元気ねえ。どうしたの?」
 かあさんが、びっくりしたような顔をしている。
「おにいちゃん、何かいいことあったの?」
 恵美も、ニヤニヤしながらこちらを見た。
「ううん、なんでもない、なんでもない」
 恭司はそういいながら、いつものように風呂場へむかった。

 その日から、恭司のバントの特訓が始まった。
 チームでの練習のときは、今までよりも真剣にバントに取り組んだ。
 普通のバント練習はもちろん熱心にやっているし、休憩のときなども、他の子にボールを投げてもらって、バントの練習をするようになった。
 学校でも、休み時間に友だちに頼んでバントの練習していた。恭司のバント練習は、みんなの間でもいつのまにか有名になって、同じヤングリーブスのメンバーに限らず手伝ってくれる友だちがいた。
家に帰ってからも、一人でバントの練習をしている。
 初めは、塀にぶつけて、はねかえってきたボールをバントして練習しようとした。
 でも、うまくボールがはずんでくれなくって、練習にならなかった。
「おにいちゃん、手伝ってあげようか?」
 見かねて、恵美が声をかけてくれた。
 それからは、恵美がボールを投げて、恭司はバント練習を続けている。
 恵美の投げるボールは、女の子にしては投げ方もきちんとしているし、コントロールも良かった。
 でも、恵美の投げる球では、さすがに遅すぎた。これでは、実戦の練習にはあまりなりそうになかった。
 シュッ。……。カッ。
 ボールはコロコロところがる。
恭司は、すぐに恵美のボールを、百発百中でバントを決められるようになってしまった。
 とうとう恭司は、近くのバッティングセンターへ、バントの練習にでかけることにした。
 バッティングセンターには、時速七十キロぐらいのスローボールから、百四十キロのプロなみの剛速球まで、さまざまなマシンがならんでいる。
 カキーン。 ……。 カキーン。
 他の打席の人たちは、気もちよさそうにバットをふりまわしている。
 カッ。 ……。 カッ。
ところが、恭司だけはもくもくとバント練習にはげんだ。
 そんな姿を、順番待ちの人たちがふしぎそうにながめていた。
 恭司は、スローボールから始めて、だんだんにスピードを速くしていった。
さすがに百キロを越えると、バントの失敗が多くなった。
でも、少年野球でも、速球派になると百キロを超えるようなスピードボールを投げるピッチャーがいる。このスピードにも対応しなければならない。
 恭司は、チームの練習のない日には、何度も何度もバッティングセンターにかよった。
そして、最後には百二十キロの速球でも、かなりの確率でバントを決められるようになった。
でも、バッティングセンターは、一回二十五球ぐらいで三百円もする。おかげで、恭司の貯金箱はすっかり空っぽになってしまったけれど。

 恭司のバントの特訓の成果を発揮する機会は、夏休みに入ってすぐにおとずれた。あのキングドラゴンズとの練習試合だ。
 今日は、春の大会とはちがって、ヤングリーブスも善戦している。最終回の裏の攻撃中で、得点は四対四の同点。しかも、ワンアウトで、ランナーは三塁にいた。
「おーい、恭司」
 監督が、コーチスボックスの恭司に手まねきしている。
 ピンチヒッターだ。恭司は大急ぎでベンチに戻ると、ヘルメットをかぶった。
「サインをよく見ろよ」
 監督がうしろからささやいた。
(スクイズバントだ)
 恭司はピーンときた。
 スクイズとは、監督のサインで、ピッチャーが投げると同時に、三塁ランナーがスタートをきる。それに合わせてバントをして、確実に得点をねらう作戦だ。監督も、恭司のバントの腕前を、覚えていてくれたのだ。
 最終回の裏で同点だったから、ランナーがホームインすればサヨナラ勝ちになる。「バント名人」の恭司にとって、これ以上の活躍のチャンスはない。
 恭司はバッターボックスへむかいながら、もう一度「バントの注意事項」を頭の中にうかべてみた。
 体をボールが来る方向に対して、きちんとまっすぐむける。
 足の間隔はやや広くして、ゆったりとかまえる。
 両手をにぎりこぶしふたつ分はなして、ボールのいきおいにまけないようにしっかりとバットをにぎる。
 バットはできるだけ目の高さに近づけ、ボールが来ても腕だけでバットを上下させない。高さの調整は、腕でなくひざの屈伸を使っておこなう。
 一球目。
 監督からは、スクイズのサインは出ていない。
 予想どおり、相手ピッチャーも警戒して、大きく外側にはずしてきた。
 二球目。
 監督は帽子のつばをつまんでから、胸のマークをさわった。
 スクイズのサインだ。
 ピッチャーがモーションをおこすと同時に、三塁ランナーがスタートをきった。恭司もバントのかまえにはいった。
 それを見て、一塁手と三塁手が、もうぜんと前にダッシュしてくる。
 カッ。
 きれいにスピードをころされたボールが、一塁手とピッチャーの中間にコロコロところがった。
「バックホーム」
 けんめいにさけぶキャッチャーの声を背中に、恭司は一塁へ走った。
「セーフ! ホームイン。ゲームセット」
 審判が叫んだ。恭司のスクイズバントはみごとに成功した。
「やったあ!」
 一塁ベースのそばで、ベンチからとびだしてきたみんなに、恭司はもみくちゃにされていた。
(バントの練習をやってきてよかったなあ)
 恭司は、心からそう思っていた。
 その後も、夏休み中の練習試合で、百パーセント確実に送りバントやスクイズを決めて、「バント名人」恭司の腕前は、監督だけでなくチーム中に知れわたっていった。

「ピンチヒッター、石川」
 監督が審判につげた。
 秋季大会の一回戦、レッドファイターズとの試合だった。五回のおもて、ワンアウトランナー一塁。得点は一対三と二点リードされている。
(送りバントだな)
 恭司は、ヘルメットをかぶりながらそう思った。
 監督は次のバッター、洋平のバッティングに期待しているようだ。この回、同点にならなくても、まだ六、七回の攻撃があるから、ここは一点差につめておく作戦なのだろう。
「恭司、がんばれ」
「おちついていけ」
 ベンチのメンバーは、今日も期待をこめて恭司に声援をおくっている。
「おにいちゃーん、がんばってーっ」
 ダッグアウトのうしろから、恵美の声も聞こえてきた。
 そして、今日はかあさんが、こちらにビデオカメラをむけている。
 恭司は、ダッグアウトの監督をチラッと見た。監督はぼうしのツバをさわってから、ベルトに手をやった。案の定、「ストライクバント(ストライクだったらバント、ボールだったら見のがす)」のサインだ。
 とうぜん、相手も一球目は送りバントを警戒してはずしてくるだろう。
 勝負は二球目からだ。
 相手の一塁手は左ききだから、一塁側にバントすると、二塁に送球されてランナーがアウトにされる可能性がある。三塁側にころがして、できたらピッチャーにとらせるバントがベストだ。

 一球目。
 予想どおり、外角高めにはずれるとんでもないボールだ。
 恭司は余裕たっぷりに見のがした。最近は、自信がついたせいか、ボールが良く見える。
「バッチ、ぜんぜん打つ気ないよ」
 相手チームのやじも、今の恭司にはぜんぜんこたえない。
 相手ピッチャーもこれ以上カウントは悪くしたくないから、きっとストライクを投げてくるに違いない。ここが勝負だ。
(よし、絶対きめてやる)
 恭司は相手ピッチャーをにらみつけるようにして、二球目を待った。
 ピッチャーはそんな気迫におされたかのように、一塁へけんせい球を投げて間をはずした。
「タイム」
 恭司も、間を取るためにバッターボックスをはずした。
 と、その瞬間、恭司の頭の中に別のアイデアがひらめいた。
(セーフティバント)
 ランナーを二塁に送るだけでなく、自分まで一塁で生きてしまうのだ。
 恭司は、あらためて相手の守備をながめた。
 一塁手と三るい手は、バントを警戒して浅めに守っている。
 二塁手が一塁の、ショートが二塁のベースカバーにはいるのだろう。
(よし、二塁手前へのセーフティバントだ)
 送りバントを警戒して、前へ出てくるピッチャーと一塁手との間を、強めのバントでぬく。
 二塁手も一塁のベースカバーに入ろうとして横に動くから、そのあたりはがらあきになるはずだ。鈍足の恭司がセーフティバントをきめるためには、ねらう場所はここしかない。うまくいけば、一塁ランナーは三塁まで進めるかもしれない。
 送りバントでツーアウト二塁になるかわりに、いきなりワンアウト一塁三塁の大チャンスになってしまう。
 もちろん、このバントにはリスクがあった。セカンド前でなく、ピッチャーや一塁手の正面に飛んだら、二塁に送球されて、送りバントが失敗するだけでなく、一塁へ転送されてダブルプレーになってしまうかもしれない。
 しかし、恭司には、絶対にセーフティバントを成功させる自信があった。今こそ「バント名人」の実力を、みんなに見せつけてやる。
 ランナーを見ながら、ピッチャーがセットポジションにはいった。恭司はさも送りバントをやりますという感じで、バットを前にかまえ体を低くかがめた。
 投球と同時に、一塁手と三塁手がつっこんでくるのが目に入った。
(今だ!)
 しかし、次の瞬間、恭司は二塁手の前のセーフティバントではなく、ピッチャーの左前に勢いを殺したボールをころがしていた。
 基本どおりの送りバント。
「ファースト!」
 送球を指示するキャッチャーの声を背中にうけて、恭司はけんめいに一塁を目ざして走っていた。
「アウート」
 塁審が叫ぶのを聞いてからも、恭司はスピードをゆるめずに一塁ベースをかけぬけていった。

「恭司、ナイスバント」
 ベンチに戻ってきたとき、監督が声をかけてくれた。
「バッチ、しっかりいこうぜ」
「ピッチ(ピッチャーのこと)、苦しいよ」
 ベンチのメンバーは、次のバッターの洋平への声援にかかりっきりだ。
 だれも、恭司の方にふりむこうとしない。「バント名人」の恭司が送りバントを成功させるのは、もうあたりまえのことだと思っているようだ。
(やっぱり、セーフティバントをやればよかったかなあ)
 恭司は、チラッとそんなことを考えた。セーフティバントを成功させていれば、もっとみんなに注目されたはずだ。
「リー、リー、リー」
 二塁ベースから、浩一の叫ぶ声が聞こえてきた。恭司の送りバントで進んだランナーだ。
「浩一、ワンヒットで戻れよぉ」
 監督が、大声で叫んだ。
 ピッチャーが初球を投げ込んできた。
 バチン。
 洋平のあたりは、やや振り遅れのファールだった。
「バッチ、当たってるぞぉ」
「思いっきりいこうぜぇ」
 ベンチの声援はいっそう盛り上がってきた。
「洋平、頼むぞぉ」 
 他のメンバーにまじって洋平に声援を送ったとき、ベンチのうしろの方にこしをおろしている恭司の胸の中には、少しずつ「バント名人」としての満足感がひろがりはじめていた。

      

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

ジャッジ

2021-04-05 16:51:11 | 作品

 一回の表、相手チームの攻撃中だった。ツーアウトながら、二塁にランナーが出ていた。ワンアウトから四球で出してしまったランナーを、手がたく送りバントで二塁に進められてしまったのだ。
「ボール」
 次の投球が高めにはずれて、ツーストライクスリーボール。打席に四番バッターをむかえて、ピッチャーの正平はすっかり慎重になっていた。緊張したときのくせで、上くちびるをペロペロなめている。
「タイム!」
 芳樹は審判に声をかけると、キャッチャーマスクをはずしながらマウンドにむかった
「正平、打たせろ、打たせろ。まだ一回だから、ヒットを打たれたってかまわないから」
 芳樹は、ミットで口をおおってまわりには聞こえないようにしてから、正平に声をかけた。
 バッターは、背番号10番、少年野球ではキャプテンがつける番号だ。しかも、メンバー表によるとポジションはピッチャー。つまり、エースで四番でキャプテンってやつだ。どうやら一回戦の対戦相手は、この選手のワンマンチームらしい。最初から敬遠したりして、調子づかせたくない。
「わかった。じゃあ、例のやつでいこうか」
 正平も、グローブで口をおおって、芳樹にささやいた。
「そうだな。ためしてみるか」
 芳樹はそう答えると、小走りにホームにもどった。
(よし、来い)
芳樹はミットの下に右手をやって、すぐに次のボールのサインをおくった。
正平は深々とうなずくと、セットポジションを取って、セカンドランナーに視線を送った。
と、一転して、すばやい動作で次の球を投げ込んできた。
(速球か?)
ところが、動作とは裏腹に、投球はやまなりの超スローボール。打ち気まんまんだったバッターは、つんのめるように体を乗り出しながらボールを見送っている。スローボールは、高めからストンとどまんなかに決まった。
(やったあ、見逃しの三振)
 思わずミットをたたいてベンチに戻ろうとしたとき、
「ボール、フォア」
 意外にも、主審はバッターに一塁を指し示している。
あっけに取られていると、審判はマウンドの正平に近寄っていった。
「スローボールは変化球と判定して、全部ボールにするからね」
 少年野球では、ピッチャーのひじや肩を保護するために、変化球は禁止されている。審判は、スローボールは変化球とまぎらわしいから、ボールと判定するというのだ。
「タイム!」
 味方のベンチから、監督が抗議に飛び出してきた。

「正平、キャッチボール」
 そう声をかけてから、芳樹は正平に軽くボールを投げた。監督が抗議をしている間に、ピッチャーである正平の肩を冷やさないためだ。第一試合だったので、まだ九時を過ぎたばかり。もう十一月なので、太陽は出てはいるものの、河川敷のグラウンドはかなり寒かった。
監督は、主審や立会いの人たちとまだ話し合っている。
「ちぇっ、スローボールが禁止なんて、聞いてないよ」
 正平は、ボールを投げながらぼやいていた。
 今日、芳樹たち少年野球チーム、ヤングリーブスは、A市まで遠征して今シーズン最後の大会に参加していた。8チームだけの小さなローカル大会。一日で決勝戦までが行われるワンデイトーナメントだ。自分たちの町の大会と違って、審判や立会人たちも知らない人ばかりだった。
「ただのスローボールじゃないか」
「早く始めろ」
 ヤングリーブスの応援席から、やじが飛び始めた。
「静かに、静かに」
 石田コーチがベンチから出て、応援の人たちをなだめている。あまりやじったりすると、審判の心証を悪くしてかえってこちらに不利になってしまう。
 ふと見ると、他のチームメンバーは、手持ちぶさたな様子でそれぞれの守備位置に立っている。
「おーい、ベンチ。外野や内野にもボールを送ってくれえ」
 キャプテンの芳樹は、味方のベンチにむかってどなった。
「いくぞお」
補欠の選手たちが、いくつか練習ボールを出してみんなに投げている。内外野もキャッチボールさせて、ウォーミングアップさせておきたかった。
内野は四人だからちょうどいい。ファーストとセカンド。ショートとサード。それぞれが組になってキャッチボールを始めた。
外野は三人なので、補欠の選手が一人ファールグラウンドに走っていった。ライトとセンター。レフトと補欠の選手。この組み合わせで、遠投をはじめた。
 でも、ちょうどそのとき、監督が抗議をやめてしまった。案外あっさりとあきらめたようだった。小走りにベンチへ戻っていく。
「ボール、バック」
芳樹はまた大声で叫んで、みんなにボールをベンチへ戻させた。ベンチのみんなは次々と戻ってくるボールをキャッチするのにおおわらわだった。

芳樹と正平は、また急いで守備位置につこうとした。
と、その時、
「バッテリー、ちょっとおいで」
 監督にベンチから呼ばれた。
芳樹が正平と一緒に、監督のところに小走りにかけよっていくと、
「A市じゃ、カーブとまぎらわしいてんで、今年からスローボールは禁止にしてるんだと」
 監督が苦笑いしながらいった。
「そんなあ」
 正平が悲鳴をあげた。ピッチャーとしては小柄な正平は、スローボールをまぜた緩急をつけた投球が持ち味だ。特に、今日のような身体が大きい選手のそろった強打のチーム相手には、超スローボールは有効だった。
「まあ、A市の大会だからな、しゃあないよ。ホームタウンアドバンテージってやつだな」
 監督は、二人をなだめるようにいった。
「なんですか、ホームタウンアドバンテージって?」
 芳樹がたずねると、
「地元のチームに有利に、ってことだ」
 監督は、声をひそめていった。
「そんなの、フェアプレーじゃないよ」
 芳樹がふくれっつらをすると、
「まあな。でも、世の中なんか、そんなものだよ」
 監督は、笑いながらいった。
「ちぇっ」
 やっぱり、そんなの不公平で納得がいかない。 

「それより、この審判はどこが好きだ?」
 監督は急にまじめな顔をすると、手で口をおおいながらささやいた。
「低めです」
 正平も、グローブでしっかり口をかくしながら答えた。相手チームや審判の人たちに、聞こえないようにするためだ。
「それに外角寄り」
 芳樹も、キャッチャーマスクをかぶりなおしてから付け加えた。かなり低めの外角の球でもストライクに取ってくれるので、けっこう助かっている。逆に高めや内角球には辛いようだ。
「なーんだ、芳樹。それがわかってるなら、なんとかしろよ、キャプテン」
 監督はポンと芳樹の肩をたたいて、さっさとベンチの中に戻ってしまった。
(そうだ)
 監督のいうとおりだった。どんな審判でも、必ずジャッジのくせがある。それは、人間が判定するゲームである野球にはつきもののことだ。そのくせを早いうちにつかんで、自分たちに有利に生かすことが大事なのだ。それに、芳樹はキャッチャーだ。一球ごとに、相手チームだけでなく、審判ともかけひきをやっていかなければいけないポジションだった。審判の判定にいちいち動揺しているより、ピッチャーの正平をうまくリードしなければならない。

 一回の表は、なんとか無得点におさえた。スローボールが使えないから、正平にはコーナーぎりぎりをつかせて相手の攻撃をかわした。
その裏、芳樹がバッターボックスに入っていたときだ。カウントはツースリー。
次のボールは内角高めにはずれた。
(しめた、フォアボールだ)
 芳樹は自信をもって、ボールを見送った
「ストライーック、バッターアウト」
 審判が叫んだ。
(えっ?)
 完全なボール球をストライクに判定されて、三振になってしまった。審判は、正平の時はこのコースはボールに判定していた。芳樹は不満げに首を振りながら、ベンチに戻っていった。
「よっちゃん、ドンマイ、ドンマイ」
 ベンチの中から、型どおりにはげましの声がかかった。
 でも、本当はみんなも不服なのだ。きわどいボールをストライクにされていたのは、芳樹だけじゃなかった。他の子のときも、同じような判定が続いている。どうも相手のピッチャーには、判定が甘いような気がしてならない。せっかくいいカウントになりかけても、不利な判定で流れを断ち切られてしまっていた。

二回の表の相手の攻撃のときだった。
バシーン。
正平の投球が、アウトコース低めいっぱいに決まった。
(よし、ストライクだ)
と、思った瞬間、
「ボール、フォア」
 審判は、一塁を指し示している。また四球でランナーを出してしまった。相手ピッチャーとは対照的に、正平には審判の判定が辛いような気がしてならない。
スローボールを禁じられてしまった正平は、苦心の投球を続けている。なんとかコースをついて、相手をかわそうとしていたのだ。
 ところが、きわどいコースをボールと判定されて、カウントを悪くされてしまっていた。そして、フォアボールをさけようとすると、コントロールが甘くなってしまう。もともと直球のスピードはそれほど速くないので、コースをつかないとうちごろの球になって、相手バッターに狙い撃ちにされている。
(監督、なんとかしてくださいよ)
 不利な判定をされるたびに、芳樹はベンチの方も見た。
 でも、監督は、ぜんぜん抗議をしようとしなかった。知らんぷりしたままだった。

 その後も、ゲームは相手チームのペースで進んでいった。
三回の表にも、ピンチをむかえていた。四球とヒットが続いて、ノーアウト満塁。
芳樹は、横目で相手ベンチをうかがっていた。相手の監督が、いつもと違うサインを送っている。
(スクイズだ)
 芳樹は直感した。今までランナーを出しながらも、強攻策が裏目に出て無得点に終わっている。ここらで手がたく攻めて先取点が欲しいのだろう。
 次のバッターの初球、芳樹は外角に大きくはずすようにサインを送った。
正平がうなずく。セットポジションから、正平が投球モーションに入った。
バッターが体をクルリとまわして、バントのかまえになった。予想通りスクイズだ。
 投球は、サインどおりに大きく外側にはずれている。
 ガツン。
相手の選手は、バッターボックスから前に飛び出して、かろうじてバットにあてた。
 ファール。スクイズは失敗だが、塁を飛び出した三塁ランナーを、はさむことはできなくなってしまった。
「バッターボックスから足が出ていました。守備妨害です」
 芳樹は、振り返って主審に抗議した。
「いや、足が出たのはバットに当たってからだ」
(うそーっ。また、こちらに不利な判定だ) 
 けっきょくこの回に点を取られて、二点をリードされてしまった。

 その裏の攻撃の前、監督はベンチ前にみんなを集めて円陣を組ませた。
「いいか、みんな。いったん判定が自分たちに不利なように感じると、どんどんそのように思えてくるもんさ。そういうのを疑心暗鬼っていうんだ」
 監督はそういいながら、ニヤニヤ笑っていた。
「疑心暗鬼って?」
 正平がたずねると、
「疑ってかかると、暗いところすべてに鬼がいるように思えてくるってことさ」
「ふーん」
 なんだか、まだわかったような、わからないような気分だった。
「不利だ、不利だと思っていると、自分たちのプレーをくずしてしまうぞ。敵地でやるときはこんなもんだと思って、いつもどおりにプレーすればいいんだ。そのうちに流れも変わってくるさ」
 監督は、みんなの顔を見まわしながらそういった。
「じゃあ、キャプテン」
「はい」
 芳樹は、みんなと肩を組んで叫んだ。
「逆転するぞっ!」
「おーっ!」

 監督のハッパは、どうやらみんなにきいたようだ。
その回、ヤングリーブスにもやっとチャンスがめぐってきた。ノーアウトで、エラーと四球のランナーが出たのだ。
 監督は、手がたく送りバントでランナーを進めた。ワンアウト、二塁三塁だ。
次のバッターは雄太だ。三球目のときに、監督が大きな声で叫んだ。
「石井、思い切って打ってこい」
 バッターを名前でなく名字で呼ぶのは、ヤングリーブスのスクイズのサインだ。
 投球と同時に、三塁ランナーの孝治がすばやくスタートを切った。
高めのボール球だった。雄太は飛びつくようなバントで、うまく三塁前にころがした。
三塁手が、猛然とダッシュしてくる。
でも、ボールをキャッチした時には、三塁ランナーの孝治はホームの手前まできていた。
「ファースト!」
 ホームは間に合わないと見たキャッチャーが、大声で指示した。三塁手は体を反転させて、一塁へ送球した。
「アウトッ」
 一塁の審判が叫んだ。雄太は一塁でアウトになったものの、その間に三塁ランナーの孝治がホームイン。
 スクイズ成功だ。ようやく一点を返した。
と、そのときだ。
二塁ランナーの亮輔までが、三塁をまわって一気にホームへ向かっていた。ヤングリーブス得意のツーランスクイズ(スクイズバントで、二人のランナーがホームインすること)だ。亮輔は小柄な五年生だが、チームでも一、二の俊足だった。
「バックホーム!」
 キャッチャーがさけんだ。一塁手がけんめいにバックホーム。
亮輔が、ホームにかけこんでくる。送球は、やや右側にそれた。
亮輔がスライディング。ホームをブロックしていたキャッチャーは、すべりこんできた亮輔にタッチした。
 でも、キャッチャーのブロックが甘くて、亮輔の足が一瞬早くベースにふれたように見えた。
(やったあ!)
 これで、一気に同点だ。
「アウト!」
 そのとき、審判が右手を高々と差し上げて宣告した。タッチアウトだというのだ。ランナーの亮輔は、横になったまま呆然としている。
(えっ、そんなあ)
芳樹もあっけにとられた。亮輔の左足は、キャッチャーの股間をうまくすりぬけていた。つま先がホームに触れていて、完全にセーフに見える。
「えー、嘘だあ」
 観客席からも、誰かがどなっている。
「セーフだよ。足が入ってる」
「セーフ、セーフ」
 また、ヤングリーブスの応援席あたりが騒々しくなった。審判がそちらをジロリとにらんだ。一瞬、険悪な空気があたりに流れる。石田コーチがまたあわててベンチから飛び出して、みんなをなだめにいく。
「セーフだよねえ」
 隣にすわっていた伊佐男が、芳樹にささやいた。
「そうだな」
 芳樹もうなずいた。
(せっかく同点になったと思ったのに)
これで逆に、ダブルプレーでチェンジになってしまった。得点は1対2で、いぜんとして一点負けている。
「ちぇっ、ずるいなあ」
 誰かが小声で文句をいっている。みんなも、不満な気持ちでいっぱいのようだ。
 亮輔がヘルメットをぬぎながら、ベンチに戻ってきた。スライディングをしたので、おしりは泥で汚れている。
「ベースタッチしたんだろ」
と、芳樹がきくと、
「うん、完全に足が届いてた」 
 亮輔も不満そうな顔で答えた。もし、足が届いていたのならば、やっぱりセーフだ。
 チェンジになってしまったので、みんなが四回の表の守備位置に散っていく。
「昌也、ボールを受けておいて」
芳樹は補欠の昌也に、ホームベースで正平の投球練習を受けるように頼んだ。
「リョウ、ちょっと待って」
 グローブを取りにいこうとする亮輔を呼び止めた。
「監督のところへいこう」
 芳樹は、監督のところへ亮輔を連れていった。
「監督、亮輔は完全にセーフだっていってますけど」
 芳樹が不服そうな顔をしていうと、
「まあそうだろうな。足が届いていたんだろ」
と、監督は平気な顔をして、どっかりとベンチにすわっている。
「はい、絶対セーフです」
 亮輔も力をこめて答えた。
「まあ、しゃあないよ」
 監督は、今回も抗議さえしないようだ。
「ちぇっ」
 亮輔は、ふくれっつらのままグローブを取りにいった。
「これも、ホームタウンアドバンテージってやつですか?」
 芳樹がそっとたずねると、
「いや、これはたんなるミスジャッジだな。ジャッジした審判が立つ位置が悪いんだよ。だから、足が入ったのが見えてない」
「そんなあ!」
 芳樹が憤慨すると、
「まあまあ、キャプテンのおまえまでカッカしてどうするんだよ。審判も人間だよ。ミスもゲームのうちさ。そのうちこっちにもいいことがあるって。ほら、早く守備につけ」
 監督は、そういってすましていた。

(本当に、こっちにも有利な判定なんて起こるのだろうか?)
 芳樹は、プロテクターとレガースをつけながら考えていた。どうも、こっちに不利なことばかりが続くので、そのようには思えない。芳樹は不満な気持ちのまま、小走りにホームベースに近づいた
「サンキュー」
 芳樹のかわりに投球練習を受けていてくれた昌也に、声をかけた。
「あと、二球です」
 昌也は交代しながら、投球数を教えてくれた。
 次の球をキャッチすると、
「ラスト」
芳樹は正平にボールを返しながら、守備についているみんなに叫んだ。
「おお」
 みんなの返事に力がこもっていない。こちらに不利なジャッジばかりが続くので、元気をなくしたのかもしれない。
「セカン」
 芳樹は正平の最後の球を受けると、セカンドに送球した。
 しかし、ベースに入ったセカンドもカバーをしたショートもボールをはじいてしまい、ボールは外野までころがってしまった。
(いかんな)
 完全に集中力が切れてしまっている。
芳樹は、ホームベースの前に出ると、
「ヤンリー、がっちいこーぜ」
と、みんなに気合を入れた。

 四回の表、この回も正平は審判の厳しい判定に苦しんでいた。きわどいコースをボールに判定されて、先頭バッターを四球で出してしまった。
 ここで相手チームは、送りバントでランナーを二塁に送った。まだ一点差なので、一点ずつ確実にいこうというのだろう。
 正平は二塁ランナーが気になったのか、突然コントロールを見だしてしまった。今度は明らかなボールばかりで、ストレートのフォアボールになってしまった。
「タイム」
 芳樹は審判にいうと、マウンドに走っていった。
「正平、落ち着け。まだ一点負けてるだけなんだから、一人ひとりアウトにしていこうぜ」
「OK」
 正平はそう答えたものの、かなり緊張しているようだった。
 芳樹は、正平の背中をポンとたたいてから、ホームベースへ戻った。
 次のバッターへの初球だった。
(やばい)
 ど真ん中に打ちごろのボールが入ってくる。
 カーン。
 鋭いライナーが、ショートの頭を越えた。外野も抜かれたら、ランニングホームランだ。
 しかし、センターの耕太が、なんとかまわりこんでボールを押さえた。
 スタートを切っていた二塁ランナーは楽々ホームイン。一塁ランナーも三塁へ。送球の間に、バッターも二塁に達してしまった。
 さらに、次のバッターも初球だった。
 カーン。
 痛烈な当たりが、三遊間をまっぷたつにした。
 三塁ランナーに続いて、二塁ランナーもホームイン。二点タイムリーヒットを浴びてしまった。
一転して積極打法にでた相手チーム打線に、正平は完全につかまってしまった。
この回三点を失って、1対5と四点差になった。

 その裏、すぐにヤングリーブスも反撃に出た。四球で出たランナーをバントで送って、ワンアウト二塁のチャンスをむかえた。ここで打席にたったのは、三番バッターの芳樹だった。
第一球。高めの速球を見送った。
「ストライク!」
球威は十分だった。まだピッチャーは疲れていないみたいだ。実際、このピッチャーはたいしたものだ。球威もコントロールもすごくいい。今まで対戦したピッチャーの中でも、屈指の好投手といえる。
二球目は内角にはずれた。芳樹は腰を引いてそのボールをかわした。もう少しでぶつかるところだった。あたったらすごく痛そうだ。
次は外角低めの速球だ。芳樹はそれも見送った。
「ストライク! ワンボール、ツーストライク」
たちまち追い込まれてしまった。このピッチャーは、スピードを抜いたボールはぜんぜん使わない。速球だけでビシビシ攻めてくる。
(次は内角球だな)
 芳樹はピンときた。さっき芳樹がへっぴり腰でボールをよけたから、ぎりぎりの内角に速球を投げ込んでくるだろう。芳樹は、バットをひとにぎり短く持ち直して内角球に備えた。
 ピッチャーが第四球を投げ込んできた。予想通りに内角の速球だ。芳樹は、両腕をたたみこみながらコンパクトなスイングで打った。
 カーン。
打球はショートの頭を超えてセンター前にはずんだ。
好スタートをきっていた二塁ランナーは、三塁ベースをけってホームへ。バックホームされたがゆうゆうホームイン。一点返してこれで2対5と三点差だ。
送球の間に芳樹も二塁に達したので、チャンスは続いている。
 しかし、相手のピッチャーはすごい。このピンチにもぜんぜん動揺していない。
次のバッターを、ビシビシと速球で追い込んでいく。
ツーストライクワンボール。このままでは、完全に相手ピッチャーのペースだ。
芳樹は、なんとか相手ピッチャーの動揺を誘いたかった。ピッチャーは二塁ランナーの芳樹を、あまり警戒していない。バッターに集中している。
次の投球で、芳樹はスタートを切った。
打者のバットがクルリとまわった。三振でツーアウトだ。
キャッチャーが送球しなかったので、芳樹はゆうゆうと三盗に成功していた。
でも、キャッチャーの悪送球を誘ってホームインしようというもくろみは、外されてしまった。点差があるので、ランナーの芳樹は完全に無視されている
「リーリーリー」
 芳樹は三塁ベースから、ピッチャーをけん制した。もう牽制悪投でも、ワイルドピッチでも、パスボールでも、なんでもいいからホームをおとしいれる覚悟だ。
しかし、ピッチャーは、芳樹のことをぜんぜん気にしていない。どんどん速球を投げ込んで、後続のバッターを、簡単にピッチャーゴロに打ち取ってしまった。
スリーアウトでチェンジ。三点差でリードされたままだ。

 五回の表も、正平はツーアウトながら満塁のピンチをまた迎えていた。
どうも、前の回から、正平のコントロールが悪くなっている。四球を連発して、ランナーをためてしまっていた。これには、審判の不利な判定も影響している。
しかも、またあの四番バッターのエースをむかえていた。ヘルメットからはみだした長髪をなびかせて、自信満々バッターボックスでかまえている。
(しまった!)
 正平の投げ込んだ初球が、甘いコースに入ってきた。  
 カーーン。
鋭い打球だった。
でも、ラッキーなことに、ショートの亮輔の正面のゴロだ。
(あっ!)
 前進してボールをキャッチしようとした亮輔と、走り出したセカンドランナーが交錯してぶつかりそうになってしまったのだ。
打球は、思わず立ちすくんだ亮輔のグローブの下をすり抜けた。外野手がバックアップしようと、ボールのほうへまわりこんだ。
 でも、打球のスピードがすごく速かったので、二人の外野手の間も抜けていってしまった。
センターとレフトが、けんめいにボールを追っている。ボールは、すごい勢いでころがっていく。この球場が人工芝のせいだ。天然芝のようなひっかかりがないので、ボールのスピードがぜんぜん落ちない。
そのまま、反対側のグラウンドまでいってしまった。向こうのグラウンドでは、別の試合が行われている。
「タイム!」
ボールがころがってきたので、審判がそちらのゲームを中断させている。
ようやくセンターが追いついた。
けんめいに、中継にはいったレフトにボールを投げている。さらに、そのボールが、ようやく内野に戻ってきた。
でも、とっくにバッターまで含めて全員がホームインしていた。満塁ランニングホームラン。だめおしとなる四点が入ってしまった。
「イエーイ!」
 相手ベンチ前では、全員でハイタッチしたりして、お祭り騒ぎだ。打ったのがエースで4番でキャプテンの中心選手なので、特に盛り上がっているようだ。
それにひきかえマウンドでは、正平ががっくりとうなだれていた。
これで、得点は2対9。逆転するには致命的な点差がついてしまった。チーム全体にあきらめムードがただよってきていた。

(おや?)
 ふと気がつくと、いつのまにか二塁の審判が、主審や他の塁審たちをセカンドのそばに呼び集めていた。二塁の審判は、身振り手振りで何かをみんなに説明している。主審や他の塁審たちが、大きくうなずいているのが見えた。
 しばらくして、ようやく何かが決まったようだ。塁審がそれぞれのベースへ散っていく。
主審は、大またにピッチャーマウンドのそばまで戻ってきた。そして、一塁側の相手チームのベンチの方をむいた。
「守備妨害でアウト」
 いきなり右手を高々とあげて、主審が叫んだ。どうやら、セカンドランナーが亮輔の守備の邪魔をしたというのらしい。ツーアウトだったから、これでチェンジということになる。つまり、満塁ホームランは幻に終わったのだ。こちらは四点取られたと思ったのに、一点も失わずに一気にピンチを脱したというわけだ。
これが、監督のいっていた(こっちにもいいことがある)って、やつかもしれない。
「冗談じゃない!」
 大声で怒鳴りながら、今度は相手チームの監督が飛び出してきた。
相手チームの監督は、マウンドの近くで主審に詰め寄っている。
 主審は、さかんにランナーがショートの守備を邪魔したことを説明している。
 でも、どうも簡単にはすみそうもない気配だ。いったんベースに戻っていた塁審たちも、また集まってくる。そして、みんなでショートの守備位置までいって、二塁の審判がまたジェスチャーつきで説明を始めた。
「芳樹」
 監督に声をかけられた。こっちにむかって手まねきしている。そういえば、ヤングリーブスの選手たちは守備位置についたままだ。
「おーい、チェンジだぞーっ」
 芳樹は、大声でみんなを呼び集めた。
 メンバーが、全速力でベンチへかけてくる。みんな、ピンチを切り抜けられて、ホッとした顔つきをしていた。さっきまでしょげていた亮輔やがっくりしていた正平も、うってかわってニコニコ顔だった。
 相手チームの監督は、しつように抗議を続けている。
でも、判定はひるがえりそうになかった。審判たちは、四人がかりでなんとか監督を説得しようとしているようだ。立会人たちも、セカンドベースのまわりにきて、話し合いに加わっている。
 相手チームの監督は、なかなかひきさがらない。
「守備妨害じゃないでしょ。ランナーは、まっすぐ走っただけなんだから」
と、大声で抗議しているのがきこえてくる。
たしかに、見方によっては、亮輔の方が走者のコースを邪魔したようにも見える。となると、そのまま捕球していたら、逆に亮輔の方が走塁妨害になっていたかもしれない。
「いや、もう捕球動作に入っていたんだから、ランナーはよけなければならないでしょ」
 二塁の塁審も、大声で怒鳴り返している。
「そんなことはない。ショートの方こそ、ランナーが走ってきたのが見えたんだから、待ってから捕球すればよかったんだ」
 相手チームの監督が言い返す。二人とも、かなり興奮しているようだ。
「まあまあまあ、……」
 まわりの人たちが、二人をなだめている。
 走塁妨害か?
 守備妨害か?
 どちらにしてもむずかしいジャッジだ。
二塁の審判は、亮輔の守備位置やランナーの走ったコースを示して、状況を説明しているみたいだ。ランナーが、亮輔の方にふくらんでいって邪魔をしたといっているようだ。
でも、相手チームの監督も大げさな身振りで反論している。ランナーが走ったのは、塁間を結ぶ直線上だと、主張しているみたいだ。さかんに手である幅を示している。
「3フィートルールだったっけ?」
 となりから、伊佐男がたずねてきた。走者は、塁間を結ぶ直線から、3フィート以上はみだしてはいけないというルールだ。
「どうだったかなあ?」
 芳樹も、ルールがどうなっているのか、よく知らない。サッカーなんかに比べて、野球のルールは複雑なので分かりにくい。
「ルールブックを持ってきて」
 とうとう主審が、大声でいっているのが聞こえた。もしかすると、同じようなことを議論しているのかもしれない。立会人の一人が、本部のテントの方へルールブックを取りに走っていった。
「長引きそうだぞ。肩をあたためておこう」
 正平に声をかけると、芳樹はミットをはめてレフト側のファールゾーンに走っていった。正平もウィンドブレーカーを着たまま、後についてくる。
時刻は、もう十時をすぎている。
でも、薄くかかった秋の雲を通して、太陽は弱々しく照らしているだけだ。ウィンドブレーカーをはおっていても、寒さがしのびよってくる。
「じゃあ、初めは軽く投げて」
 芳樹は、立ったまま山なりのボールを正平に送った。
「OK」
 正平も、ゆったりしたホームで投げ返した。また、二人でのキャッチボールが始まった。
(今日の試合は、中断が多いなあ)
 正平とキャッチボールをしながら思った。
 野球の試合には、目に見えない流れがある。その流れがスムーズだと、試合もテンポよく進む。特別な中断もなく、最終回の七回まで順調に進む。
ところが、今日のように初めから流れがとまるようなことがおこると、不思議にトラブル続きになってしまうのだ。
 返球しながらチラッと見たら、相手ベンチの前に例のエースがふてくされたように立っていた。他のメンバーも、ベンチにこしかけたままだ。
(しめた!)
もし、このまま抗議が受けいれられずにこちらの攻撃になったら、あのエースは肩を冷やしたままマウンドにむかうことになる。もしかすると、ピッチングのリズムを、くずしてくれるかもしれない。今まで打ちあぐんでいたけれど、これでピッチャー攻略のきっかけがつかめそうだ。
なにしろ、このピッチャーはすごい。中学生並みの長身から投げ下ろす速球は、なかなか打ち込めない。コントロールもいいから大崩れはしないタイプだ。ヤングリーブス得意のバントをからめた攻撃で、なんとか一点ずつ合計二点をとったものの、大量点はとてものぞめそうもない。残りのイニング数を考えると、三点差を追いつくのはかなりむずかしかった。
 そうはいっても、ピッチャーさえ乱れてくれたら、つけこむすきはなくもなかった。好投手をようするワンマンチームにありがちだが、このチームの守備はそれほどでもない。現に、すでにエラーを二つもしている。キャッチャーの肩もさほど強くない。ランナーさえ出せれば、バントや盗塁、それにヒットエンドランなどでかきまわせるかもしれない。それに、ピッチャーだけでなく、彼らもウォーミングアップしていないから、ますます動きは悪くなるだろう。
芳樹は、視線を味方のベンチにうつした。
(うーん、もう)
こちらもすっかりのんびりして、ベンチにすわっていたる。まったくわかっていない連中だ。これでは、ゆだんしている相手チームのことを、ぜんぜん笑えやしないじゃないか。
「ちょっと、待って」
 芳樹は正平に声をかけると、
「おーい、みんな、バットを振っておけ」
と、大声でみんなに指示を出した。
「おおっ」
 他のレギュラーメンバーたちは、すぐに立ち上がるとバットを取りにいった。
「いち」
 ブンッ。
「にー」
 ブンッ。
かけ声をかけながら、ベンチ前にならんで素振りをはじめた。
ふと気がつくと、監督が満足そうな笑顔をこちらにむけていた。

 とうとう判定は守備妨害のままで、試合が再開されることになったようだ。審判たちは、それぞれの位置に小走りに戻っていく。十分以上もの長い中断だった。それでも、ベンチに帰っていく相手チームの監督は、まだ不満そうな顔をしていた。
 相手チームが、守備位置に散っていく。長髪のエースピッチャーも、しぶしぶって感じでマウンドに立った。どうやらまだ、幻の満塁ホームランのことが頭にこびりついているようだ。
 ガチャーン。
ウォーミングアップの初球はとんでもない高い球で、バックネットの金網にダイレクトにぶつかった。だんだんに肩を慣らさないで、いきなり思いきりボールを投げている。いらいらがつたわってくるようだ。
「雄太、ちょっと」
 この回の先頭バッターに声をかけた。バッターボックスの近くで、ピッチャーの練習ボールにタイミングをあわせて素振りをしていた。
「なんだい?」
 雄太は、素振りをやめてベンチの前に戻ってきた。
「どうだい、相手のピッチャーは?」
 芳樹がささやくと、
「なんだか、ボールが高めに浮いているようだけど」
と、雄太はピッチャーの方を振り返りながら答えた。
「そうだろ、だったらわかってるな」 
 芳樹がそういうと、雄太はニヤリとしながらうなずいた。
「バッターアップ」
 審判が雄太に声をかけて、試合が再開された。

「ボール、フォア」
 審判が一塁を指し示した。雄太は、バットをネクストバッターサークルの正平にむかって放ると、一塁へダッシュしていった。予想通りに肩を冷やしてしまったのか、相手のピッチャーは、いきなりストレートのフォアボールを出してくれた。
「ボー!」
 次の正平への初球も、外角へ大きくはずれた。これで五球連続して、とんでもないボール球が続いている。
「ドンマイ、ドンマイ」
 キャチャーが立ち上がって返球したが、特にタイムをとろうとはしなかった。ピッチャーマウンドでは、エースピッチャーが帽子をあみだにかぶって、ふてくされたように突っ立っている。長い前髪が、ダラリとたれさがっていた。ホームランを取り消されて、すっかりやる気を失ってしまったのかもしれない。
「ストライーック」
 次のボールは久しぶりにストライクだったが、どまんなかの甘いボールだった。正平は打ちたそうな顔をしていたけれど、それを見送った。監督から、「待て」のサインが出ていたからだろう。
 チラッと横目で見たら、次のサインも「待て」だった。
 けっきょく、正平も四球を選んで出塁した。
 その後も、相手ピッチャーは、あきらかにボールとわかる投球が多かった。次の亮輔も簡単にフォアボールになって、無死満塁のチャンスを迎えた。
それでも、相手チームの監督は、タイムを取ったり適切な指示を出したりしない。自分の抗議が聞き入れられなくて、腹をたててしまったようだ。そっぽを向いて、ベンチに腰をおろしたままだ。
守っている選手たちも、誰もタイムを取って間をとろうとするものはいなかった。エースで四番、さらにキャプテンでもある長髪のピッチャーに、すっかり頼りきっているみたいなのだ。予想通りの完全なワンマンチームだった。
 次のバッターは、伊佐男。監督からは、あいかわらず「待て」のサインが出ている。
「ストライーク」
 初球はどまんなかの直球。
でも、この回は、このボールが続かない。
(どうせ、次は、……)
と、思うまもなく、セットポジションからクイックモーションで投げ込んできた。
「ストライーク、ツー」
 たちまち、ノーボールツーストライクに追い込まれてしまった。もう「待て」のサインは出せない。
(まずいなあ)
どうやら、ようやく肩があたたまってきて、コントロールがさだまってきたみたいなのだ。
ピッチャーは、間をおかずにドンドン投げ込んでくる。投球リズムもよみがえってきたみたいだ。
 第三球もストライクの速球だった。
 ガチーン。
苦しまぎれに出した伊佐男のバットが、ボールにあたって鈍い音をたてた。三塁手正面の平凡なゴロだ。三塁手ががっちり取ると、バックホーム。タイミングは完全にアウトだった。
(あっ!)
 三塁手の送球はとんでもない高いボールだ。キャッチャーのはるか上を通過したボールは、そのまま相手チームの応援席に飛び込んだ。
 テイクワンベース(各走者がひとつ塁を進める)なので、雄太に続いて、セカンドランナーの正平も歩いてホームイン。これで二点入って4対5。一点差に詰め寄った。しかも、まだ、ノーアウト二塁、三塁のチャンスをむかえている。
「くそーっ」
 相手ピッチャーが、くやしそうにグローブを地面にたたきつけた。
次のバッターは、芳樹だった。またとない逆転のチャンス。ここをのがすわけにはいかない。
「芳樹、ファイト」
「よっちゃん、がんばれ」
 応援席やベンチからも声援が飛ぶ。
 第一球。外角低めの直球だった。芳樹はそれを見送った。
「ストライク!」
 主審が叫ぶ。やはりコントロールは立ち直ってしまったようだ。
でも、スピードはさっきよりはっきりと落ちている。
ピッチャーを見ると、どうもまだやる気がおきていないみたいだ。
(チャンスだ)
芳樹は、短く握っていたバットを少し長く持ち直した。長打ねらいだ。ここで一気に勝負をつけたかった。
第二球。力のない直球がど真ん中に入ってきた。芳樹はフルスイングした。
カーーン。
鋭い打球が左中間をまっぷたつにした。
 三塁と二塁のランナーがゆうゆうとホームイン。ついに6対5と逆転した。
芳樹は、一塁と、二塁をけった。ようやく外野手がボールに追いついた。芳樹はスライディングもしないでゆうゆうと三塁打。ベースの上で、ベンチに向かってガッツポーズをしてみせた。

 その後も、 ヤングリーブスは相手が動揺している間に着々と得点を重ねた。この回、一気に六点もとって8対5と大逆転に成功したのだ。
 こうなると、ゲームは一方的にヤングリーブスのものだ。六回の表、逆転で気を良くした正平は、すっかり立ち直っていた。テンポのいいピッチングで相手にすきを見せず、無失点におさえた。
 六回の裏、すっかり元気の出たヤングリーブス打線は、相手ピッチャーに連打をあびせた。さらに四点を奪い、12対5と七点差をつけたのだ。さすがに相手チームは、途中からリリーフピッチャーを送っていたが、この投手はエースピッチャーよりも球威もコントロールも格段に悪かった。
 いよいよ最終回の七回の表、正平のピッチングはさえわたった。ツーアウトランナーなし。最後のバッターも、ワンボールツーストライクと追い込んでいる。
 芳樹は、正平に外角低めを要求した。一気に勝負をつけるつもりだった。
 正平が振りかぶる。大きなモーションで投げ込んでくる。
 いいボールだ。要求どおりに外角低めに速球が投げこまれた。クルリと打者のバットが空を切る。
「ストライーク、バッターアウト。ゲームセット」
 主審が叫ぶ。
(やったあ!)
 芳樹はミットをたたきながら、正平にかけよった。他のメンバーも集まってくる。見事な逆転勝ちだった。

「それでは、12対5でヤングリーブスの勝ち。じゃあ、キャプテン、握手して」
 審判にうながされて、芳樹は一歩前に出て相手のキャプテンに手を伸ばした。
「ありがとうございましたあ」
 芳樹は大声を出して握手をしたが、相手は小さな声でボソボソといっただけだ。握手にも、ぜんぜん力が入っていなかった。よく見ると、少し涙ぐんでいるようだった。
「ゲーム!」
 審判が、右手をあげて合図をした。
「ありがとうございましたあ」
 ヤングリーブスは元気よくあいさつしたが、相手チームは対照的にまったく元気がない。逆転負けが、よっぽどショックだったのだろう。
「わーっ!」
 試合後のあいさつをすませて、ヤングリーブスは歓声をあげながらベンチ前にかけよってきた。芳樹は、応援席にむかってみんなを一列に並ばせた
「礼!」
「ありがとうございました」
 みんなが、帽子をぬいでおじぎをする。
「よくやったぞ」
「ナイスゲーム」
 応援席から、拍手とともに声援が飛んだ。
「ベンチ、あけるぞ」
 芳樹は、みんなに指示してベンチの後片付けを始めた。レギュラー選手はヘルメットをかぶり、自分のグローブとバットを持っていく。その後を、補欠の選手たちが、バット立てや水の入ったジャー、練習用のボールやキャッチャーの防具類の入ったバッグを持って続いた。
 リュックなどを置いてあるブルーシートのところまで戻ると、先にいっていた手伝いのおかあさんたちが、コンビニの袋を持って待ち受けていた。
「応援団から差し入れよお」
 チームのマネージャーをやっている、芳樹のおかあさんがさけんだ。
「うわーっ」
 みんなは荷物を置くと、そちらに殺到した。
「いつものとおり学年順よ」
 低学年の子から順番に、袋菓子をうけとっている。弁当を食べるにはまだ早かったから、取り合えずおやつって感じだ。これが夏場だったら、アイスクリームやカキ氷を差し入れてもらうことが多い。
「正平、軽くクールダウンしておこう」
 芳樹は、お菓子の列に並んでいた正平を引っ張り出すと、軽いキャッチボールをはじめた。初戦に勝ったヤングリーブスは、午後に準決勝を戦わなければならない。正平が第一試合に完投したので、おそらく準決勝の先発ピッチャーは芳樹だろう。もしそれも勝てば、決勝戦もやらねばならない。そうすれば、その試合は二人で継投することになるだろう。まだ、二人とも氷で肩を冷やすアイシングをするわけにはいかなかった。
みんながお菓子を食べていると、さっきの相手チームの監督がやってきた
「どうも、今日はありがとうございました」
 帽子をぬぎながら、うちの監督に声をかけた。
「いえ、こちらこそどうも」
 監督が答えると、
「どうもジャッジのことでゴタゴタして、六年生たちが悔しがって泣いてるんですわ」
 たしかに、さっき試合後のあいさつをしたときに、何人かの相手選手が泣いていた。
「まあ、ジャッジのことはお互い様ですから」
 監督は笑顔で答えている。
まったくそのとおりだ。ジャッジについてなら、こちらにも文句がある。芳樹は、キャッチボールをしながら聞き耳を立てていた。
「それに私もカッカしすぎて、選手たちに実力を発揮させられなくって」
 相手チームの監督は、少し恥ずかしそうにそう付け加えた。
どうやら、相手の監督はすっきりとした決着をつけるために、あらためてヤングリーブスと練習試合をさせてほしいということらしい。 
「いいですよ。でも、今度は、スローボールはOKにしてくださいね」
 監督は、ニヤッとわらいながらそう答えた。

    

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

ひとりぼっちの動物園

2021-04-03 16:18:12 | 作品

 今日は、秋の遠足。空は真っ青に晴れ上がっていて、遠足にはぴったりだった。ぼくたち一年生は、バスに乗って動物園にやってきていた。
「一緒に食べようぜ」
 お弁当の時に、ぼくはキーちゃんに声をかけた。
「うーん、ごめんね。昨日、タッくんと食べるって、約束しちゃったんだ」
 キーちゃんはそういうと、タクマたちと一緒に、「ゴールドビーダマン班」の方へ行ってしまった。
その時、タクマの奴が、こっちを見てニヤッと笑った。
(くそっ!)
ぼくは、すっごくむかついた。
(チェッ、タクマなんか、ぼくたちの「ボンバー探検班」じゃないんだぜ。先生だって、なるべく同じ班の人たちと食べなさいって、いってたじゃんか)
 せっかくキーちゃんの大好きな、うちのおかあさん特製のフライドチキンを、よけいに入れてもらってきたのに。
 ぼくは、他の「ボンバー探検班」の子たちと一緒に、お弁当を食べた。
 お弁当を食べ終わってから、キーちゃんはタクマたちと、黄色いはっぱをたくさんつけたイチョウの木の下で、何かを拾っていた。
「おーい、ヨッちゃん」
 キーちゃんが、手を振っている。
 でも、ぼくはそれを無視してやった。

 ググーン。
 大きな耳が、すごくアップになった。
「うわーっ、すげえ!」
 思わず声を出してしまった。
 アフリカゾウのタマオが、バタンバタンと、耳を大きく動かしている。
 今度は、顔のまん前にある、テレビカメラに切り換えた。タマオは、長い鼻で干し草をつかんだ。クルクルと 鼻を丸めて、上手に干し草を口に運んで食べている。 
 ぼくは、「ゾウのお城」にある、リモコンカメラ装置を使っていた。
テレビの画面を操作して、いろいろな方向から、ゾウをながめることができる。
テレビカメラは、前後、上下、左右と、自由に動かせるんだ。さらに、ズームアップで大きく写すことだって できてしまう。
「ヨッちゃん、代わってったら」
 さっきから、キーちゃんがうしろからつついている。
「もう ちょっと」
 ぼくは、なかなか リモコンカメラの操作を、代わってやらなかった。
 タマオが、水場の方へ歩き出した。ゆっくりゆっくりと、遠ざかっていく。
ぼくは、テレビカメラで、その後を追っかけた。
鼻をブラブラさせながら、タマオはゆっくりと向こうへ進んでいく。
ぼくは、うしろからズームアップしてみた。
大きな大きなおしりに、小さな小さなシッポがユラリユラリと揺れていた。
(あっ!)
 タマオが、ウンコをし始めた。茶色い大きなかたまり、ボタリボタリと落ちていく。なんだか臭いにおいが、プーンとここまでただよってきそうだ。
「ははは、キーちゃん、見てみな。面白いぞ」
(あれっ?)
 返事がない。
テレビ画面から振り返ってみると、キーちゃんがいなくなっている。
いや、いなくなったのは、キーちゃんだけじゃない。「ボンバー探検班」のみんなが、どこかへ行ってしまっていた。
(もう、声ぐらいかけてくれたらいいのに)
 ぼくは、あわててリモコンカメラ装置から、手を放した。
 みんな、ゾウの見学は、おわりにしたのだろう。
ぼくは走って、「ゾウのおしろ」の外へ出て行った。
 でも、そこにもだれもいなかった。きっとぼくがグズグズしているあいだに、つぎの動物のところへ行ってしまったんだ。
「なんだよなあ、班で行動しなさいって、先生も言っていたのに」
 ぼくは、ブツブツと文句を言った。
(えーっと、次に見る動物はなんだったっけ?)
 ぼくは、なんとか思い出そうとした。
 みんなで話し合って決めたんだけれど、ふざけながら聞いていたから、よく覚えていない。
(どうせ、キーちゃんと一緒に行けばいい)
って、思っていたんだ。
(チンパンジーだっけ? それとも、チーターだったかな?)
 どうもはっきりしない。
 ぼくは思い出せないまま、あわてて「ゾウのお城」の前から駆け出した。

いない。
いない、いない、いない、いない、いない。
チンパンジーにも、チーターの所にも。
「ボンバー探検班」は、いや、他の班の人たちだって、だれもいなかった。
 ときどき、リュックを背負った小学生たちを見かけた。
でも、みんな他の学校の人たちだった。
 途方に暮れたぼくは、ライオンのおりの前のベンチに座り込んでしまった。 
 こげ茶色の 大きなたてがみをしたライオンは、前足で大きな骨を抱え込んでかじっている。
 目の前を、大勢の人たちが通り過ぎる。
でも、みんな知らない人ばかり。
 なんだか、この広い動物園に、ひとりぼっちで、取り残されてしまったような気がしてくる。 
(もう、何時になっているのだろう?)
 もしかすると、もう集合時間に、なってしまったかもしれない。真っ黒なもやもやしたものが、みるみる胸の中に広がってくる。
 でも、次の瞬間、気が付いた。
(あっ、なーんだ。だったら、今すぐ、集合場所に、行けばいいんじゃんか)
 ぼくはホッとして、口笛でも吹きたい、気分になった。

 ない。
ない、ない、ない、ない、ない、ない、ない。
プリントが、リュックに入っていない。
リュックの中身をみんな外に出してみたけれど、やっぱりプリントはなかった。
(そうだ!)
 急に思い出した。
昨日、おかあさんが、ぼくが準備したリュックを、チェックしていた時、……。
「ヨッちゃん、またプリントをクシャクシャに突っ込んで」
 おかあさんがしわを伸ばそうと、プリントに分厚い図鑑を乗っけてたっけ。
「もう、余計なことするから。そのまんま忘れてきちゃったじゃないか」
 ぼくは、ブツブツと、今はそばにいないおかあさんに、文句を言った。
 これで、集合場所も、わからなくなってしまった。
確か、集合時間は、三時だったはずだ。
なんだか、もうとっくに過ぎてしまったような、気がする。
(もし、だれも、ぼくがいないのに気が付かないで、そのままバスが帰ってしまったら、……)
 ぼくは、あわててベンチを立ちあがると、また懸命に駆け出した。

さっきまでは、あんなにいい天気だったのに、いつのまにか、太陽は雲に隠れてしまっている。
 なんだか、風までが、急にヒンヤリとしてきたような気がした。
 ウオオオー、ウオオオー、……。
 どこかで、何かが吠えている。
ライオン? クマ? それとも、トラ?
 ギャッギャッギャッ、……。
 空でも、何かが鳴いている。
カラス? それとも、……?
 動物園には何度も、おとうさんやおかあさんやおじいちゃんやおばあちゃんやおにいちゃんと、一緒に来たことがある。
それなのに、いつもの動物園が、急に知らない場所に、なっちゃったみたいだ。
 キューーンとおなかのあたりが痛くなって、トイレに行きたくなってしまった。おしっこがしたくなったのだ。
 でも、そんなことなんかしていられない。ズボンの前をしっかりと押さえながら、ぼくは前かがみになって走り続けた。

 チンパンジーの国へやってきた。
 でも、誰もいない。
チンパンジーは、歯をむき出したり、唇を突き出したりして、こちらを脅そうとしている。
ハイエナの檻だ。
ここにも誰もいない。
ハイエナは、ググル、ググルと低く唸りながら、檻の中を歩き回っている。
鳥たちのエリアにやってきた。
やっぱり誰もいない
フクロウは、首を左右に振りながら、目玉をギョロギョロさせている。
バッファローの囲いだ。
誰も見ている人はいない。
バッファローは、こちらにお尻を向けて、後ろ足で砂埃を挙げている。
キリンやシマウマのいる、広い場所に出た。
ここには人がいたけれど、ぼくの学校の人たちではなかった。
 いつもはやさしそうで大好きなキリンさえも、口をモゴモゴさせながら、長い首を差し出して、なんだか ぼくのことを馬鹿にしているみたいだった。

とうとう、また「ゾウのお城」の前に、戻ってきてしまった。
 でも、誰も見つからない。
やっぱりみんなは、もうバスで帰ってしまったのだろうか?
もしも取り残されてしまったのなら、一人で家に帰らなければならない。
(えーっと、正門の前から電車に乗って、……)
 どこで乗り換えれば、うちの近くの駅まで行けるだろうか?
 どうも自信が持てない。ちかくの駅からは、さらにバスにのらなければならない。
それにおかねがたりるだろうか?
 ほんとうは、おかねをもってきてはいけないんだ。
 でも、ぼくは、こっそりお財布をもってきていた。
 こんなことがおこってみると、それもよかったのかもしれない。
ポケットから、お財布をだしてみた。
もちろん、お札は一枚もはいっていない。コインをだして、ぜんぶかぞえてみる。
 百円玉がひとつ。五十円玉もひとつ。十円玉は、一、二、……、六、七個。五円玉がひとつ。一円玉はみっつ。 ぜんぶで 二百二十八円。
 はたして、これで電車賃は足りるだろうか?
 くたびれきったぼくは、柵にもたれながらボンヤリしてしまった。
タマオが、ゆっくりとこちらに近づいてきた。
シワシワの皮にうもれた、ひしがたのくろい小さな目が、いじわるそうにギラリとひかった。
 つめたい風がビューッとふいて、そばの大きなクスノキがザワザワとなっている。
 いつも楽しいって、おもっていた動物園。
 でも、いまはぜんぜん違う。
けんめいにがまんしていた涙が、ボロボロとこぼれてきた。

 と、その時だ。
「おーい。ヨッちゃん、どこ行ってたんだよ」
 いきなり、遠くから、キーちゃんのこえがきこえてきた。
 顔をあげると、むこうからキーちゃんが、いっしょけんめいにかけてくるのがみえた。
「ボンバー探検班」のみんなもいっしょだ。「ボンバー探検班」はぜんぶ男の子ばかり五人だ。
 ぼくはあわてて涙をふいて、ベンチからたちあがった。
「よかった。ずーっと探してたんだよ」
 キーちゃんが、ハアハアしながらいった。他の子たちも、みんないきをきらしている。ずっとはしっていたようだ。
 みんなはゾウの次のチーターのところで、ぼくがいないのにきがついて、すぐに「ゾウのお城」にもどったんだという。そのとき、行き違いになっちゃったらしい。
「大丈夫?」
 うれしくって、また涙がでてきたぼくのかおを、みんながのぞきこんでくる。
 ぼくは、
「ウンウン」
と、うなずくだけで、精一杯だった。

「まだ、時間があるから、いそげばきめたとおりにみられるよ」
 キーちゃんが、励ますようにいってくれた。
すごく時間がたったとおもっていたのに、「ゾウのお城」にかかっているとけいは、まだ二時をすこしすぎただけだ。
「えっ!まだ二時。もう三時になっちゃったかと思ってた」
 安心したせいか、またトイレにいきたくなった。
「トイレに行ってきていい?」
 ぼくが言うと、
「ぼくも行くよ」
 キーちゃんが、一緒についてきてくれた。
「ぼくも」
「ぼくも」
「おれも」
なんのことはない。みんながトイレを我慢してさがしてくれていたんだ。
「ボンバー探検班」全員で、トイレにならんでおしっこをした。
 手をあらったあとでハンカチをだしたら、ポケットから白いかみがパラリとおちた。
 遠足のプリントだ。
(なーんだ。やっぱり持ってたんだ)
 泣いちゃったりして、なんだか損したような気分だ。

「あっ、そうだ。ヨッちゃん、ハンカチ貸して」
 隣から、キーちゃんがいった。
「どうしたの?」
 ウルトラマンのハンカチを渡してあげると、キーちゃんは手をふいてから、
「ほうらね。これを包んじゃったんだよ」
 キーちゃんはそういって、じぶんのミッキーマウスのハンカチをさしだしてみせた。
 ひろげてみると、中にはたくさんの薄黄色の木の実がはいっている。
(うっ!)
ツーンと腐ったようなにおいがした。まるで、タマオのウンコのようだ。
「ギンナンって、いうんだって。お昼のときにひろったんだよ。そうだ。ヨッちゃんに半分あげようか?」
「うん」
 ほんとうは欲しくないんだけど、ぼくはしかたなくうなずいた。
キーちゃんは、ギンナンを洗面台の上にひろげた。
「1、2、えーっと、3、4、……、……」
 ひとつずつ、交互にふたりのハンカチにのせていく。
「……、……、19、20、うーん、21」
 キーちゃんは、最後のはんぱな一個を、すこしまよってから、ぼくのハンカチの上にのせてくれた。
「ありがと」
 キーちゃんと同じように、ハンカチでくるんだら、ウンコみたいな臭いにおいがするしるで、しみができてしまった。
 ぼくは、思わずオエッとしそうになった。
こんな臭いものをもってかえったら、また、おかあさんにしかられちゃうかもしれない。
ぼくは、うれしいのが半分と、こまったのが半分まじったような不思議な気分だった。
「これ、むいて食べると、おいしいんだってよ」
 キーちゃんが、少しじまんそうにいった。
(ええっ!?)
 こんなくさいものをたべるなんて、とても信じられない。

二人でトイレから出てきたら、太陽の光がパーッとさしてきた。急にまわりが明るくなって、「ゾウのお城」のてっぺんで、赤と黄色の旗が輝いている。
 また、タマオが、ゆっくりとそばによってきた。
さっきと違って、タマオがやさしそうにみえるからふしぎだ。シワシワの中の小さな目も、カマボコがたにわらっている。
「はやくいこうよお」
 むこうから、「ボンバー探検班」のみんなが手をふっている。
 ぼくたちが、ギンナンを分けているあいだ、まっていてくれたのだ。
「ヨーイ、ドン」
 いきなりキーちゃんが言った。
「待ってよお」
 先にはしりだしたキーちゃんを、ぼくはけんめいにおっかけた。
「一等賞!」
 さきについたキーちゃんがいった。
「じゃあ、行こうかあ」
みんなで 次のチーターのところに向かいながら、
(キーちゃんに「ゾウのお城」のリモコンカメラを早くかわってあげればよかったな)
って、ぼくは思っていた。

       

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

催眠商法

2021-03-18 15:55:17 | 作品

 祥司は中学二年生だ。両親とおばあちゃんとの四人暮らしだった。おじいちゃんは五年前に亡くなっている。
おばあちゃんは今年で七十八才になった。耳は少し遠くて、テレビを大きな音でつけている。
でも、足腰は丈夫で、いつも近所を散歩している。食欲もあって、おかあさんの作るとんかつやハンバーグなども、
「おいしい、おいしい」
と、残さず食べていた。
ある日、これを持っていけば日用品が無料でもらえると書いてあるちらしが、家の郵便受けに入っているのを、おばあちゃんが見つけた。なぜか、判子も持ってくるようにと書いてある。今は家事もまったくしていなくて、暇を持て余しているおばあちゃんは、散歩がてらちらしを持って会場に行ってみることにした。
ちらしののっていた地図にしたがっていった所は、前まではコンビニがあった所で、店がつぶれた後は空き店舗になっていた。会場にはすでにお年寄りが大勢集まっていて、店に入りきれずに外にも行列ができていた。
「あら、こんにちは」
「奥さんもいらしたの」
 おばあちゃんは、顔見知りのおばさんに声をかけた。
でも、そんなことはしていられない。その間にも、どんどんお年寄りが集まって来ているのだ。
「それじゃあ、また」
おばあちゃんも、急いで行列のうしろに並んだ。
その後も、お年寄りは次々と集まってきて、行列はどんどん長くなっていった。

 おばあちゃんがようやく店の中に入ると、パイプいすがずらりと並んでいて、お年寄りが大勢すわっている。会場の奥には、何かの治療を受けているらしいお年寄りが、何人も横になっていた。
若い男がみんなの前に出て話し出した。
「今日集まっている人は、みんないい人ですね」
 お年寄りたちが、クスクス笑っていると、
「あれ、ご返事は? 」
「はい」
 みんなは、小さな声でバラバラに答えた。
「どうしたの、半分死んでるみたいじゃないの。じゃあ、元気よくハイといってみましょう」
「ハーイ」
今度は、みんなが一緒に大声で答えた。
でも、おばあちゃんは、照れくさいので小さな声しか出せなかった。
「はい、返事の良かった人にごほうび」
まわりにいた男たちが、洗剤やたわしを大きな声を出した人に配っている。
「はい、もう一度」
「ハーイ!」
おばあちゃんも競争心がわいてきて、みんなと争うように大声を出した。
「元気があっていいですねえ」
 今度は、おばあちゃんもスポンジをもらえた。
 その後も、司会の男の軽快な会話のもとに、いろいろな商品が無料で配られた。
 時間がたつにつれて、お年寄りたちの出す大声と、男たちがあおるのとで、会場の中はすごい騒ぎになってきた。

 

「今日は、特別に低周波治療器の体験も、無料で行えます。じゃあ、この治療器をやってみたい人?」
 司会の男が、今までと同じ調子でさりげなくいった。
「ハーイ!」
 みんないっせいに返事をした。おばあちゃんも負けずに大声を出していた。
「じゃあ、そこのおかあさん。そこのおとうさんも。 あとそちらのおかあさんも」
おばあちゃんも選ばれて、低周波治療器の実演を受けた。
「どう気持ちがいいでしょう」
 司会の男がにこやかに声をかけた。
 おばあちゃんは良くわからなかったけれど、そういわれるとなんだか体にいいような気もしてきて、
「はい」
と、答えていた。
「この治療器は定価が六十四万円しますが、本日は三十六万円の特価で販売します」
 司会の男はそう言うと、おばあちゃんに契約書を差し出した。
「えーと、……」
 おばあちゃんが迷っていると、
「はい、おかあさん、次の人が待っているから急いでくださいね」
 男にせかされて、おばあちゃんはつい判子を押して契約をしてしまった。
 すると、他の男に低音波治療器を渡されて、おばあちゃんは会場の外に案内された。

 

 おばあちゃんは、低音波治療器を家に持って帰った。料金は、分割払いで払うことになっている。
 おばあちゃんは、自分の部屋で低音波治療器を何回か使ってみたが、どうもあまり効果はないみたいだ。落ち着いて考えてみると、やっぱりずいぶん高い買い物をしてしまったようだ。
 おばあちゃんはしばらく思い悩んだ末に、おとうさんに相談することにした。
「それは、催眠商法だよ」
 おとうさんは、おばあちゃんの話を聞くと、すぐに言った。
「催眠商法?」
 祥司が聞くと、
「大勢の人を集めて、無料の品物などを配って、みんなが興奮して一種の催眠状態になった所で、羽根布団とか低音波治療器みたいな高い商品を売り付けるんだ」
「へーっ」
「いい人たちだと思ったんだけどねえ」
 おばあちゃんがぼやいていると、
「そこがプロの手口なんだよ。契約しないとその人に悪いような気にさせるのさ」
「ごめんねえ、そんなのにひっかかって」
「それで、いつ契約したの?」
 おとうさんは怒らずに、おばあちゃんにやさしく聞いている。
「えーっと、月曜日だったかしら」
「それなら、まだ五日しかたってないからクーリングオフできるよ」
「クーリングオフって?」
 祥司がまた聞くと、
「消費者を保護する法律だよ。契約して二週間以内なら無料で解約できるんだ」
おとうさんは、さっそく契約書に書いてあった番号に電話をかけ始めた。

      

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

リアルタイム・ウォッチャー

2021-03-15 13:24:16 | 作品

 目覚ましの電子音が鳴っている。
おれは、すぐに布団から起き上がった。手早く布団をたたんで、押し入れの上の段に入れた。
テレビのスイッチを入れると、音もなくインターネットアプリを選択する画面がついた。
スポーツ配信サービスのDAZN(ダゾーン)を、選んで立ち上げる。
 派手なオープニングメロディが、テレビに接続してある5.1サラウンドのオーディオ・スピーカーから鳴り出した。サッカーのヨーロッパチャンピオンズリーグの中継が始まるのだ。
 おれのテレビは液晶の薄型テレビなので、場所を取らないのがいい。サイズは32型で本当はもっと大きな画面のやつが欲しかったのだが、部屋が四畳半なので仕方がなかった。そのかわりにサウンドは凝っていて、BOSEの小型スピーカーを壁に取り付けた5.1チャンネル・サラウンド・システムによって、360度の立体サウンドでその場にいるような臨場感が得られている。
 時刻は、朝の三時半をまわったところだ。ヨーロッパは、先週からサマータイムが始まったばかりだった。時差はちょうど八時間。今は、夜の八時半過ぎということになる。
 画面に、イングランドのサッカー場が映った。リヴァプールのアンフィールド・スタジアムだ。腹の底から響いてくるような応援歌の合唱が始まっている。どうやら、スタジアムは観客で満員のようだ。むこうも夜なので、ピッチをこうこうとライトが照らしている。おかげで時差による違和感は、あまり感じられなかった。
 隔週の水曜日と木曜日は、いつもこの時刻に起きている。ヨーロッパチャンピオンズリーグの試合があるからだ。ヨーロッパ中の有力クラブチームが参加するこのリーグも大詰めを迎え、準決勝戦になっていた。おれは、予選からここまで、生中継で見られる試合は、ぜんぶ欠かさず見てきた。残念ながら、予選リーグから準々決勝までは、同じ時間に複数の試合が行われるので、すべてを見ることはできなかったが。
(スポーツの生中継をリアルタイムで見る)
 それが、おれの「リアルタイム・ウォッチャー」としてのポリシーだ。その点で、民放のバレーボールやゴルフなどで使われている生中継を装った録画中継は、残り時間で展開が読めて臨場感にかけてしまう。
例えば、バレーボールで、どちらかのチームがセットカウント2対1でリードしている第4セットの途中。もし、残り放送時間がもう15分ぐらいしかなかったら、(ああ、リードしているチームが、このままこのセットも取って、3対1で勝つな)と、展開が読めてしまう。もうファイナルの第5セットまでもつれるだけの時間がないからだ。
おれは、録画中継や見逃し配信はよっぽど魅力的なカードしか見なかった。
かつてはスポーツ番組を見るために何台も使っていたDVDレコーダーやブルーレイレコーダーも、今ではほとんど使わなくなっていた。インターネットやテレビのニュースなどで先に結果が知らされてしまい、せっかく録画したのにわざわざ見る魅力がなくなってしまうからだった。それに、最近おれの見るコンテンツの主流になっている配信サービスは、録画ができなかった。
その代わりに、おれは、生中継の時間に自分の生活を合わせるようにしたのだ。
(プレーヤーや観客と、同じ時間を共有することの喜び)
 それは、「リアルタイム・ウォッチャー」のおれにとって、何物にも変えがたかった。その達成感だけが、変則的な今のおれの暮らしを支えていた。

 素早くトイレを済ませて、急いで部屋に戻った。
 朝一番でやることがある。血圧の測定だ。おれは、三年前の会社の健康診断で、高血圧と判定されてしまっている。
「このノートに記録するといいですよ」
 健康相談室の看護師さんが、血圧を記録する小冊子をくれた。開いてみると、朝昼晩と三回記録するようになっている。血圧計は、やはり高血圧だった父親が買った物がある。その時は、日中は会社があるため、朝晩のみ計測することにした。今は一日中家にいるので、朝昼晩ときちんと測っている。
おれはベッドの脇に置いてある血圧計のパッドを上腕に巻いて、もう一度横になった。血圧計のボタンを押すと、ブーンと低い音を立てて腕に圧力がかかった。
 しばらくして、ピッピッピッと音を立てて計測が終わった。
 血圧は140の93なので、平均血圧(最低血圧+(最高血圧-最低血圧)÷3)は108.7で、おれの基準ではぎりぎり許容範囲だ。おれは、押入れの下の段に入れてある小型冷蔵庫からよく冷えたミネラルウォーターを出すと、オルメテックという降圧剤を一粒飲んだ。
本当はいけないんだけど、おれは平均血圧で自分なりの基準を設けて降圧剤を飲んでいる。平均血圧が90未満ならば血圧は低いので薬は飲まない。90以上100未満なら正常範囲なので、その状態を維持するために薬を半粒だけ飲む。100以上110未満なら許容範囲なので少し下げるために一粒、110以上120未満なら血圧が高いので下げるために一粒半。120以上と非常に高い場合はかなり下げるために二粒飲むことにしている。
おれの場合、血圧は朝起きた時が一番高い。いわゆる早朝高血圧というやつだ。今日は、それでぎりぎり許容範囲だったので、体調はまあまあ良さそうだった。
 おれはベッドに腰を下ろすと、パジャマを手早く脱いだ。それを鼻に近づけて、においをかいでみる。少し汗臭い。おれは、パジャマをスーパーのビニール袋に入れた。ふすまを少しだけ開けて、ビニール袋を居間に出しておく。あとで妻の雅子が回収して、洗っておいてくれるはずだ。
 前からそうだったが、会社に行かないで家にいるようになってからも、おれは家事を全くといっていいほどしていなかった。せいぜい平日に自分の昼食を作るくらいだ。ほとんどの家事を雅子に依存して生活をしていた。最近は、平日は雅子が外で働いているので、(申し訳ないなあ)という気持ちは持っていたが、今のおれにはそれ以上のことをやれなかった。
 雅子は、居間を挟んで反対側の夫婦の寝室で寝ている。かつては、おれもそこで布団を並べて敷いて寝ていたが、別々の部屋で寝るようになってもう三年以上にもなる。今日は子どもたちの学校があるので、雅子は六時前には起きるはずだが、まだ二時間は布団の中だ。
 押入れの下の段に入れた小さなタンスから、ポロシャツとユニクロで買ってきてもらったグレーの上下のスウェットを取り出した。それらを素早く身に付ける。
 おれは、父の形見のリクライニングチェアーに、深々と腰を下ろした。これで観戦準備はOKだ。
 イングランドのリヴァプールのキックオフで、試合が始まった。赤いユニフォームのリヴァプールの選手たちと、縦縞のユニフォームのユベントスの選手たちがいっせいに動き出す。観衆の声援が、一層高まってくる。おれは、画面の中の世界に没入していった。

 試合が始まって、五分ほどたった時だ。
「おっと、いけない。薬を飲むのを忘れていた」
 おれは小さくつぶやいた。どうも、最近、ひとりごとが癖になっているようだ。
 うつ病の薬は、毎日、朝昼晩の食後と寝る前に飲むことになっている。病院からは、一日あたり四種類十三錠が出されていた。食後に飲むのは、ドグマチールを二錠と、ルポックスとリーゼを一錠ずつだ。寝る前に飲むのは、デパスを一錠だった。
 しかし、リアルタイム・ウォッチャーとしての生活を始めてからは、自分なりにその組み合わせを変えるようになっていた。ひとつには、おれの睡眠時間が細切れで変則的になったことだ。だから、どれを寝る前に飲んでいいのか、分からなくなっていた。
もともとデパスには寝付きを良くする作用があるのだが、おれはリーゼにも眠くなる副作用があることに気づいていた。それで、細切れになっている睡眠に入る前に、リーゼを飲むことにしている。そして、デパスは一番まとめて寝られる時の前に、飲むことにした。おかげで(もちろん慢性的な睡眠不足のせいもあるが)、いつでもすぐに眠れるようになった。
 逆に、ドグマチールには精神活動を活発にする働きがあるので、寝起きに飲むことにしていた。これは一日あたり六錠もあるので、一錠ずつ飲めば充分に回数は足りた。
 残りのルポックスは、気分が落ち込んだ時や、考えが堂々巡りになった時に飲むことにしている。
 おれは冷蔵庫からまたミネラルウォーターを出すと、寝起き用のドグマチールを一錠飲んだ。

 おれが、この部屋に引きこもるようになってから、二年以上になる。その間、月に一度、病院へ行く以外に、家を一歩も出ていない。
(外出しないで、何をしてるかって?)
 毎日、地上波放送、BS放送、CS放送、それに最近はインターネット配信まで駆使して、スポーツ中継だけを見ているのだ。
便利な世の中になったものだ。この四畳半を一歩も出ないで、世界中のスポーツをリアルタイムに見ることができる。
 アメリカの四大プロスポーツであるMLBメジャーリーグベースボール、NBAバスケットボール、NHLアイスホッケー、NFLアメリカンフットボール。
 ヨーロッパチャンピオンズリーグとイングランド、スペイン、イタリア、フランス、ドイツなどの各国のリーグを中心としたサッカー。
 ニュージーランド、オーストラリア、南アフリカ、アルゼンチンの南半球と、イングランド、ウェールズ、スコットランド、アイルランド、フランス、イタリアの北半球のラグビー。
 さらに、ゴルフとテニスのメジャー大会やツアー。ツール・ド・フランスやジロ・デ・イタリアなどの自転車競技。
イギリス、フランス、アメリカなどの競馬。
F1やモトGPなどのモータースポーツ。
ノルディックやアルペンやフリースタイルのスキーやスノーボード、フィギュアやスピードスケートといったウィンタースポーツ。
そして、オリンピックを頂点として、陸上、水泳、柔道、体操、卓球などの世界選手権。
 もちろん、日本のスポーツも、プロ野球、Jリーグ、なでしこリーグ、大学ラグビー、競馬、女子バレーボール、女子バスケットボール、女子ゴルフ、フィギュアスケート、大相撲などを追いかけている。
 さっきも述べたように、おれは原則として生中継を見ることにしていた。そのために、生活時間の方を、中継時間に合わせていたのだ。

 今、おれがこもっているのは、前は下の子の芳樹の部屋だった。
上の子の正樹が、亡くなったおれの父親の寝室だった二階の部屋に移ったのをきっかけに、玉突き式に正樹が使っていた部屋に芳樹が移った。そのため、この部屋が空くことになった。
おれがうつ病になって会社に行かれなくなったときに、この部屋に引きこもることにしたのだ。
 ここはもともと客間として作られていたので、純和室のつくりだった。
でも、長らく子供部屋に使われていたから、その名残りの明るい色のカーテンがかかっていたりする。おれはインテリアには特にこだわりはないので、そのままになっていた。
 部屋は四畳半だったが、押入れが付いているのと出窓があるのとで、一日中いてもそんなに狭苦しくは感じなかった。東南の角にあるので、一階では一番日当たりのいい部屋だ。冬でも、一日中、日が差し込んでいて、日中は暖房がいらないくらいだった。その代わりに、夏はかなり暑くなった。
でも、部屋が狭いので、エアコンがよく効いて快適に過ごせた。
 畳の部屋なので、布団を敷いて寝ている。布団は押し入れの上の段に入れているが、下の段には、小型の冷蔵庫と押し入れダンスを入れてあった。
 冷蔵庫の中は、飲み物ばかりだ。喉が渇いても台所へ行かないですむように、ペットボトルの飲み物が詰めてある。
ダイエットコーク、ウーロン茶、緑茶、……。
そして、薬を飲むためのミネラルウォーターもたくさん入っていた。
間食による太り過ぎを警戒して、食べ物は何も入れてなかった。
半透明のプラスチック製の押入れダンスは三段になっているので、上から、靴下やハンカチ、タオル類、上下の下着、ルームウェアに分けて入れている。雅子は、洗濯してきちんとたたんだ物を、毎日部屋の外に置いてくれた。おれは、それらを分類して押入れダンスにしまうだけだ。

ピチチチチ、……。
外で小鳥が鳴き出した。おれが住んでいるのは、郊外の新興住宅地だ。まだまだまわりに緑が多いせいか、いろいろな野鳥が庭にやってくる。
 ヒヨドリ、オナガ、ウグイス、メジロ、ヤマバト、……。
 でも、あの鳴き声は、隣りの家の屋根に巣を作っているスズメだろう。雨戸を閉めていても、うるさいくらいに聞こえてくる。
 カーテンの隙間からは、うっすら光が漏れていた。もう朝日が昇り始めたようだ。
 リヴァプール対ユベントスの試合は、ハーフタイムになっている。1対0で、ホームのリヴァプールがリードしていた。
 おれはリクライニングチェアーから立ち上がると、カーテンを開けた。雨戸の両側の隙間から、光が差し込んでくる。サッシ窓の鍵をはずして大きく開いた。さらに雨戸を開け放ったら、明るい朝の光が部屋に広がってきた。五月に入ってからというもの、日の出の時間がすっかり早くなっていた。十二月ごろなどは、試合が終わっても、まだ夜が明けなかった。
 今日もまたいい天気なようだ。もっとも、家から一歩も出ないおれにとっては、あまり関係のない話だったが。 レースのカーテンだけを閉めて、部屋の明かりを消した。それでも、部屋の中は十分に明るかった。
 これからのハーフタイムの間に、やるべき事がある。毎朝の習慣にしている筋トレとストレッチだ。
 なにしろ、ただでさえ四畳半の狭い部屋だ。リクライニングチェアーに、パソコンデスク、テレビとオーディオシステムを載せたラックなどまであるから、それだけでいっぱいだった。
そのままでは、運動をするスペースがない。おれはリクライニングチェアーを端に寄せて、部屋の中央にようやく一畳分ぐらいのスペースを確保した。
 そこに、両足を肩幅に開いて立つ。
「いーち」
 左足を大きく踏み出して腰を沈めた。
「にーい」
 踏み出す足を代えて、また深々と腰を沈める。
「さーん」
 こうして、筋トレの第一種目が始まった。
 筋トレは六種目を一日三セット。ストレッチも六種目を同じく三セット。これでも、けっこう健康には気を付けている。
「にーじゅう」
 筋トレの一種目が終わった。おれは、すぐに次の種目に取りかかった。

 一日中、家にいて一番困ることは、運動不足になる事だ。なにしろ、一歩も外に出ないのだから、運動をする機会は限られてしまう。
 おれは雅子に頼んで、食事の量を減らしてもらっていた。
雅子はおれの朝食と夕食はカロリー計算して、決まった量をおぼんにのせている。その限られた物を食べるだけだから食べ過ぎる心配はない。
問題は昼食だ。雅子がパートで家にいないので、自分で用意する事になる。ついつい誘惑に負けて食べ過ぎてしまう事が多い。これでは、いくら朝晩の食事制限をしても、体重は確実に増えていく。
現に、おれも、引きこもりを始めてからの一ヶ月で、三キロも体重を増やしてしまった。
(これは、いかん)
と思い、家の中で運動を始める事にした。
 毎日やっている筋トレとストレッチも、その一環だ。これらは、筋肉を増やして、基礎代謝量を増やすのを目的にしている。前に会社の健康診断の時に貰った小冊子に、やり方がのっていた。それから、昼食をカップ麺だけで我慢する事にした。これならば、カロリー数が、カップの外側に表示されているので安心だ。間食は一切禁止にした。それまでは、ついついポテトチップスやおせんべいなどを、テレビを見ながら食べていた。これらのカロリーも馬鹿にできない。飲み物も、ダイエットコークやウーロン茶などのノンカロリーのものに変える事にした。
 もちろん、筋トレやストレッチだけでは、十分にエネルギーを消費できない。といっても、家には、エアロバイクなどの健康器具はなかった。だいいち、今の四畳半には、それらを置く場所もない。
(どうしようか?)
 その時、会社に行っていた頃に、健康診断で聞いた話を思い出した。
(継続してカロリーを消費するためには、ウォーキングが一番効果的)
 たしか看護師さんは、そう言っていたはずだ。
 ところが、引きこもるようになってから、ぜんぜん歩かなくなっている。歩数は、きっと一日千歩以下になっていることだろう。
そこで、おれは、まず腰に万歩計を付ける事にした。これも、その健康診断の時に貰った奴だった。一万歩を歩くのを、一日のノルマにした。誰もいない時には、スポーツ中継の合間に、家中を勢いよく歩き回ることにした。
 平日はいい。日中は家族がいないから、歩き回れる時間がたくさん取れる。困るのは週末だ。家族全員が外出した頃を見計らって歩いているが、それだけではとても足りない。四畳半の部屋にいたまま、画面を眼で追いつつ、テレビの前を前後に歩いたりして、歩数の不足を補っていた。
 こうした地道な努力のおかげか、体重は七十キロ前後で横這いを続けるようになっていた。おれの身長は百七十四センチなので、標準体重は六十七キロぐらいだったから、まあまあというところだ。

 チャンピオンズリーグの試合が終わった。結局、ホームチームのリヴァプールが2対1で勝った。地元、アンフィールドに詰めかけた観客の熱烈な応援が、実力差をひっくり返して見せたのだ。もともとイングランドチームびいきで特にリヴァプールが好きなおれとしては、かなりうれしい。画面の中のアンフィールド・スタジアムでは、リヴァプールのサポーターの応援歌である「ユール・ネヴァー・ウォーク・アローン」の合唱が響き渡っている。
 でも、チャンピオンズリーグの決勝トーナメントは、決勝戦以外はホームアンドアウェイの二試合制で行われる。まだやっと半分終わったばかりだ。ユベントスのホームゲームでの巻き返しが怖い。
 時計を見ると、五時四十分。そろそろ、雅子が起きだしてくる時刻だ。
 と、思っていたら、
「おはよう」
 さっそく、ふすま越しに雅子の声が聞こえてきた。
「おはよう」
 おれもふすま越しに返事をする。
 二人の会話はそれきりだ。雅子は、ふすまを開けてこちらへは入ってこない。雅子だけではない。家族の誰もが、この部屋には入ってはいけないことになっている。
逆に、おれはこの部屋を出ない。といっても、トイレとか風呂とか、どうしても出なければならないことがある。それらは、誰もいない時にすませるようにしていた。
 雅子が、居間の雨戸を開ける音が聞こえた。急に、ふすまの向こうが活気づいてくる。これから、雅子は朝食を用意して、二人の息子たちを学校に送り出さなければならない。いつもの忙しい朝が始まるのだ。

 サッカーの放送が終わったので、おれはリモコンを操作して、テレビをNHKのBS放送に切り替えた。
メジャーリーグベースボールの、ヤンキース対レッドソックスの試合は、すでに始まっていた。
「おはよう」
 次に声をかけてきたのは、上の息子、正樹だ。
「おはよう」
 おれも返事をする。
 正樹は、私立大学の付属高校の二年生。学校まで一時間半もかかるので、七時前には家を出なければならない。
 ふすまのむこうで、正樹が着替えている音が聞こえる。
「朝ごはんは?」
 雅子が聞いている。
「トーストにして」
 正樹が答えている。台所の方では、何かを炒めている音がしていた。
 そんなやりとりを、おれはふすまのこちら側からじっと聞いている。もう何ヶ月も、おれは家族の顔を見たことがなかった。
 やがて、正樹のたてる物音が遠ざかっていった。洗面所の方へ行ったようだ。
「行ってきます」
 しばらくして、正樹がまた声をかけてきた。すばやく身仕度を整えて、朝食も食べ終わったのだろう。
「行ってらっしゃい」
 おれも返事をする。
 玄関のドアを開ける音がする。
「行ってらっしゃーい!」
 雅子が、玄関で見送っているようだ。
 ババババッー。
 やがて、単車の排気音が聞こえてくる。正樹は 最寄りの駅まで原付きバイクで出ていた。
 おととし、正樹が高校受験のとき、おれは、すでに今の「引きこもり」状態だった。そのため、正樹は、志望校をお金のかからない公立高校に変えるといってくれた。
 でも、おれは、無理にすすめて今の学校を受けさせた。この学校ならば、大学までエスカレーター式で行けるので安心だった。
 正直いって、正樹が大学受験のころ、自分がどういう状態にいるのか、自信が持てなかった。せめて、上の子だけでも、行き先が決まって安心したかったのだ。
 正樹が無事に合格した時、久しぶりに心から喜んでいる自分を見つけられた。

「おはよう」
 しばらくして、もっと小さな声がした。
下の子の芳樹だ。
「おはよう」
 おれも返事した。
 芳樹は、正樹と二つ違いの中学三年生。地元の公立中学に通っている。正樹も通っていた学校だ。学校までは、歩いて二十分ぐらいだから、八時すぎに出ればじゅうぶん間に合う。
 最近、芳樹は、いつもぎりぎりまで寝ているようになっていた。
前は、もっと早くに出かけていたような気がする。たしか、野球部の朝練があったはずだ。正樹と同じくらいには出かけていっていた。
(朝練は、最近はやらなくなったのかなあ)
 おれは、テレビのメジャーリーグの試合を見ながら、ぼんやり考えていた。
「朝ごはんは?」
 雅子の声が聞こえる。
「いらない」
 芳樹が小さな声で答えていた。

「行ってきます」
 すぐに、また芳樹の声がした。朝食を食べなかったせいか、あっという間だった。
「行ってらっしゃい」
そう答えながら、
(朝食を食べなくて、給食までもつのかな?)
 と、心配になる。食べ盛りだった自分の中学時代を思い起こすと、朝食を食べないなんてとても信じられなかった。
あのころは、おれはいつも家族の二倍ぐらいは食べていた。外で食べたり出前を取ったりする時も、キツネうどんとカレー南蛮とか、ラーメンにチャーハンといった具合に二人前は頼んでいた。
芳樹も、おれが引きこもる前までは、家族でラーメン屋に行ったときには、メインのラーメン類以外にミニチャーシュー丼とか半チャーハンに餃子の付いたセットを食べていた。牛丼屋やハンバーガーショップに行った時も、メガサイズの物を選んでいた。
もっとも、こんなささいなことが気になるのは、おれの病気のせいかもしれなかった。うつ病の症状の一つに、小さなことがらが頭から離れないというのがある。
おれは冷蔵庫からミネラルウォーターを出すと、そんな時に効果があるルポックスという薬を飲んだ。もっとも飲んだらすぐ効くって物ではなかったが、飲んだという事実が安心感を生むのだ。一種のプラセボ(偽薬)効果かもしれない。

 しばらくして、
「行ってきます」
 ふすまの向こうから、今度は雅子の声がした。
「いってらっしゃい」
 おれも返事をする。
 雅子は、月曜日から金曜日まで、パートに出ている。家庭用品メーカーの発送センターで、商品の仕分けの仕事をしていた。雅子がパートをするようになったのは、おれが引きこもりを始めてからだ。彼女なりに、将来の生活に不安を感じたからかもしれない。
今、おれは病気休職中なので、健康保険組合から傷病手当金が出ていて、給与の85%が保障されていた。それに賞与の時には、会社から見舞金として給与の一カ月半分が支給されている。これは、よその会社に比べれば、かなり手厚い待遇だ。
だから、当面の生活の心配はないはずだった。おそらく、雅子はおれの病気が長引いて、三年の休職期間を過ぎてしまう可能性も考えているのだろう。
それに、もしかすると、部屋に閉じこもったままのおれと、二人で家にいるのが気づまりだったせいもあるかもしれない。家の中にじっとしている人間がいるのでは、雅子も気が休まる暇がないだろう。なにしろおれは姿を見せない透明人間のようなものだったからだ。
 でも、雅子の不在はおれにとっても好都合だった。風呂やトイレなど、どうしてもしなければならないことをすませる時間が与えられたからだ。

雅子とおれは、職場結婚だ。同期入社で、配属先も一緒だった。入社して三年目から付き合いだして、翌年に結婚した。仲人は、おれの大学の先輩でもある事業部長がやってくれた。
雅子はおれと結婚してからも、しばらくは同じ会社で働いていた。会社は外資系で給料も良かったし、あわててやめる理由は特になかった。
毎朝、おれと一緒に車で通勤し、彼女はほとんど定時に帰れるので、先に電車で家に帰って、夕食のしたくをして待っていてくれていた。
おれは八時か九時ごろまで残業して、車で家に戻った。それから、二人での遅い夕食を取った。
雅子も残業の時には、帰る時間を合わせて、帰宅途中の店で外食をした。
フランス料理、イタリア料理、中華料理、……。
いわゆるDINKS(Double Income No KidS)というやつで、二馬力で働いていたし子どももいなかったので、けっこうぜいたくをしていたかもしれない。
そんな雅子が会社を辞めたのは、結婚して四年たっても子どもができなかったからだ。どうしても子どもが欲しかった二人は、相談の結果、雅子が会社を辞めて不妊の治療に専念することになった。
二年間の苦しい治療の末に、ようやく正樹を授かった。そのとき、どんなに二人が喜んだか知れなかった。
二年後には、芳樹がこれはまたあっさりと自然に授かって、今の四人家族ができあがった。
芳樹が生まれてからも、雅子は専業主婦を続けていた。

 雅子も出かけたので、ようやく家にはおれ一人きりになった。これからは、部屋を出て家内を自由に歩き回ることができる。
 六回のヤンキースの攻撃は、四番バッターのタイムリーヒットで2点追加点が入った。
6対3。ヤンキースのリードは3点になった。
 イニングの終わりに、さっきから我慢していたトイレに急いで行く。朝刊を片手に便器に腰を下ろすと、ホッとした気分になった。
急いで、テレビ欄に目を通す。もちろん、今日のスポーツ番組をチェックするためだ。
残念ながら地上波には生中継のスポーツ番組はない。BSデジタルには巨人のプロ野球の放送はあるが、これはDAZNで試合開始から終了まで見られるので、そっちを見ることになるだろう。
トイレでゆっくりと新聞を読んでいる暇はない。イニングの間は、二分ぐらいしかないのだ。他の面は、各イニング間に細切れに読むことになる。
 急いでトイレをすませると、新聞を持って部屋に小走りに戻った。
画面では、ちょうどレッドソックスの選手が、バッターボックスに入るところだった。ぎりぎりセーフってところだ。
(できるだけすべての場面をしっかりと見る)
これも、おれのリアルタイム・ウォッチャーとしてのポリシーだった。

 ふすまの外には、朝食をのせたおぼんが置かれていた。トーストの厚切りが一枚、目玉焼き、ハムとサラダのお皿。トーストも目玉焼きももう冷めているが、すでに起きてから五時間もたって空腹なおれにはあまり気にならない。
おぼんには、グレープフルーツジュースとミルクがそれぞれ入ったコップも並んでいる。グレープフルーツは脳梗塞の、ミルクは認知症の予防にいいというので、毎日飲むことにしていた。
 でも、これらを食べるのは、このイニングが終わってからだった。
 食べ物を見たせいか、おなかが文字通りグーグー鳴っている。
 やっとイニングが終わった。レッドソックスは、ツーアウトからランナーを出したものの無得点に終わった。相変わらずヤンキースが3点リードしている。
(やれやれ、ようやく朝ごはんを食べることができる)
 まず、グレープフルーツジュースを一口飲む。スーッと冷たい刺激が食道を通って、胃にまで下りていく。猛烈に食欲が刺激される。
 トーストにガブリとかぶりつく。ナイフでハムを切り、ホークで口に放り込む。ドレッシングのかかったサラダのキュウリとレタスを、バリバリと噛み砕く。今度は、ミルクをグビリと飲んだ。
(あっ、試合が始まってしまった)
 残念ながら、目玉焼きはヤンキースの攻撃が終わるまでお預けだ。食べながらテレビを見ないことも、試合を見ることに集中力を高めるために行う「リアルタイム・ウォッチャー」のポリシーの一つだった。

 昼近くになって、ようやくヤンキースとレッドソックスの試合が終わった。7対6で、ヤンキースが辛くも逃げ切った。ヤンキースのクローザー(おさえピッチャー)の投球は、今日もさえわたっていた。
 おれは、テレビをインターネットアプリの選択画面に切り替えると、スポーツ配信サービスの楽天NBAに切り換えた。
次は、NBAのバスケットボールの試合だ。今日は、応援しているボストン・セルティックスの中継があるので、楽しみにしていた。
 中継はすでに始まっていたが、試合開始までにはまだ間が合った。画面では、両チームの選手紹介が行われている。まずアウェーチームから紹介される。今日の対戦相手は、サンアントニオ・スパーズだ。いつもながら敵側のチーム紹介は、あっけないほどあっさりしている。アメリカに限らず、さっきのイングランドのサッカーでも、日本とは違って応援はホームチームに極端にかたよっている。
(日本のファンは、つくづく敵チームにも公平なんだよなあ)
と、いつも思ってしまう。
でも、その影響は絶大で、一般にホームでの成績はアウェーよりもはるかにいい。
 場内の照明が消された。いよいよホームチームの選手紹介だ。
 ウオオオオー!
アップテンポの音楽とともに、耳をつんざくような歓声が湧き上がってくる。場内アナウンサーが大げさな口調で、先発メンバーを一人一人紹介していく。
(試合が始まらないうちに、昼食を食べてしまおう)
と、おれは台所へ行った。
 最近の昼食は、ほとんどカップ麺か冷凍食品だ。短い時間に用意をして食べ終えてしまうには、これが一番面倒がない。
 おれが飽きてしまわないように、雅子はいろいろなタイプのカップ麺や冷凍食品を買い揃えてくれている。
 醤油ラーメン、味噌ラーメン、汁なしタンタン麺、焼きそば、スパゲッティ・ナポリタン、……。
 それに、駅前のショッピングセンターにあるエスニックフーズの店で、変わった物を買ってもらっておいてある。マレーシア風焼きそばのミーゴレン。タイの有名なスープであるトムヤムクン味のヌードル。それに、いろいろなビーフンや春雨もある。
 ここのところ、おれはベトナムのフォーに凝っている。平たい米の麺に、ちょっと酸っぱい味のするスープ。付属のチリペッパーで、辛さは調整できる。
 雅子は、出かける前に、食卓の上のポットにお湯をいっぱいに入れてくれている。おれは、フォーの調味油と唐辛子のパックを抜き出した。カップに麺と粉スープとかやくを入れた。キッチンタイマーを3分に合わせてから、カップに勢い良くお湯を注いだ。白いヌードルがお湯でもどされていく。スープのうまそうな匂いが立ち込めてきた。
おれは、その間に素早く風呂場へ行く。雅子が洗っておいてくれた湯船に栓と蓋をして、お湯を溜め始める。この風呂は適当な量になったら自動的にお湯が止まって、ピーピーという電子音で知らせてくれるから便利だ。
ジリリリ……。
キッチンタイマーの音がする。フォーができたようだ。おれは風呂の支度を手早く終えて、食堂へ取って返した。

 三時すぎにNBAの試合が終わった。ボストン・セルティックスは、残念ながら負けてしまった。
アメリカ東海岸の現地時間は、夜中の十一時過ぎ。これで、アメリカのプロスポーツの時間帯は終わりだ。ヨーロッパもまだ早朝だから、ようやく一息できる。これから日本のプロ野球が始まる夕方の六時までが、一番まとまった休憩時間だった。
 おれは手早く服を脱いで、さっき沸かしておいた風呂に入った。
「あーあ」
 思わず声が出る。暖かいお湯の中で手足を伸ばすと、やはり気持ちがいい。ずっと、リクライニングチェアーにすわりっぱなしだったので、体のふしぶしがこわばってしまっている。
(エコノミー症候群にならないだろうな?)
 妙な心配が頭に浮かんできて、思わず苦笑いをした。家にこもって人目を避けている癖に、健康には人一倍気にしているなんて、やっぱりなんか変だ。
特に脳梗塞は、父が亡くなった病気なので、一番心配していた。脳梗塞の予防にいいといわれるグレープフルーツジュースを、朝食に欠かさず飲んでいるのもそのためだ。
風呂から出ると、電気カミソリでひげをそった。さらに、二種類の歯ブラシ、歯間ブラシ、それに糸ようじなどをとっかえひっかえして、時間をかけて歯もていねいにみがいたので、ようやくさっぱりとした。さばさばとした気分で、居間に戻った。

 いきなり玄関の鍵を開ける音がした。雅子がパートから帰ってきたにしては、時間が早過ぎる。いつもなら、六時過ぎにならないと戻ってこない。
(誰だろう?)
 普通に鍵を開けているのだから、泥棒ではないだろう。
 でも、今はそんなことを考えている余裕はない。おれは、あわてて自分の部屋に逃げ込んだ。
「ただいまあ」
 雅子の声が聞こえた。まさに間一髪のタイミングだった。雅子に、姿を見られることなく部屋に入れた。その一方で、やっぱり雅子だと思うと、少し拍子抜けした気分だった。
でも、雅子の声が、ちょっと疲れ気味の様なのが気にかかる。
「お帰り」
 それでも、いつものようにおれは声をかけた。そうしながら、おれは手早くパジャマを着た。まだ、下着姿のままだったのだ。そのまま、すぐに敷いておいた布団に潜り込む。これから六時までの約二時間が、おれにとっては貴重な睡眠時間だった。
「おとうさん、ちょっといい?」
 思いがけずに、ふすまの向こう側から雅子の声がした。
「うん」
 おれは、しぶしぶ布団の上で上半身を起こした。
「担任の先生の話では、……」
 雅子が、ふすま越しに話し出した。
「担任?」
 おれには、なんの事だかわからなかった。
「芳樹の担任の中尾先生よ。ほら、今日、学校へ行ってきたでしょ。先日、先生から電話をいただいて」
「あっ、そうだったっけ」
 雅子に説明されて、ようやく思い出した。
「嫌ねえ。昨日、話したじゃないの」
 雅子は、少しとがめるような声を出していた。おれはすっかり忘れていたが、今日は、雅子はパートを午後休んで、次男の芳樹が通う中学に行っていたのだった。
(そうか)
それで、帰りが早い理由がわかった。最近は、物忘れがひどくて、すぐに大事なことまで忘れてしまう。
(脳梗塞ができているんじゃないか?)
 また、不安な気持ちが起きてきた。
休職する前に受けた健康診断で嫌な話を聞いていた。最後の医師面談の時だった。
「そうですねえ。石川さんぐらいお年ですと、ほとんどの方に小さな脳梗塞ができているんですよ」
 中年の医師は、平気な顔をしてそういっていた。
「えっ!」
 父親を脳梗塞で亡くしていたおれは、びっくりしてしまった。
「いや、たいていは日常生活には差し支えはないのですよ。まあ、物忘れがひどくなったりする場合はありますけれど」
 物忘れと聞いて、おれはドキリとした。最近、忘れっぽくなったようで気にしていたのだ。
「ご心配でしたら一度、脳ドックを受けてみてはいかがですか」
医師はおれが気にしているようすなので、そうすすめてくれた。
「いえ、けっこうです」
 おれは、あわてて首を振った。本当に自分の脳梗塞が発見されたらと思うと、とても怖くて受けられないと思ったのだ。
 そういえば、職場での健康診断も、年一度受診していた人間ドックも、休職以来ぜんぜん受けていない。
(脳梗塞だけでなく、癌や動脈瘤かなんかができていたらどうしよう?)
 急激に不安な気持ちが高まってきた。おれは、冷蔵庫からミネラルウォーターのペットボトルを出して、不安感を抑えるルポックスという薬を飲んだ。

「それで、どうしたんだ?」
 なんとか気持ちを取り直して、おれは雅子にたずねた。
「どうも、芳樹が、最近、学校を休みがちだっていうのよ」
 雅子は、しずんだ声でいった。
「だけど、毎日、学校に行っているんじゃないのか?」
 芳樹が学校を休んでいるとは、おれには初耳だった。
「そうなのよ。毎日、きちんと家は出ているのよ。でも、時々学校へは行っていないみたいなのよ。現に今日も学校に来ていなかったの」
 雅子は、そこで大きなため息をついた。
「いったいどういうことなんだ?」
 おれもあせって、つい声が大きくなった
「ええ。だから、学校へ行かないで、どこかへ行っているみたいなの」
「毎日サボっているのか?」
「いや、そうではないらしいの。でも、週に1、2回は必ず休んでいるのよ。」
 毎日ではないと聞いて、おれは少しホッとした。
「いつ頃から、サボる様になったんだ」
「それが、今年になってから始まって、最初はたまにだけだったんだけど、今学期になってからは毎週なんですって」
「今年になってからだって、……」
 そんなに長い間、このことを放置していた無責任な担任の教師に無性に腹が立ってきた。おれは、あわてて冷蔵庫からミネラルウォーターのペットボトルを出して、気分を落ちつけるリーゼと言う薬を飲んだ。

 芳樹が学校へ行かなくなっていると聞いて、おれは少なからず動揺していた。
二人の息子のうち、芳樹はどちらかというと手のかからない方で、今までこれといった問題は起きなかったからだ。
 芳樹は、幼稚園でも、小学校でも、常にクラスの中心だった。少年野球では、四年生の秋からレギュラーで活躍していた。六年の時には、キャプテンでエースという大役をそつなくこなしていた。そして、六年生が四人しかいない弱小チームを、なんとか県大会まで導いている。残念ながら、その頃から、おれの引きこもりが始まったので、自分の目で県大会やその予選の試合を見届けられなかった。
 でも、雅子が試合をビデオで撮ってくれたので、芳樹の活躍を見ることはできた。芳樹は、いつもチームのみんなに声をかけて、はつらつとプレーをしていた。
県大会では、優勝したチームと一回戦であたる不運もあって初戦敗退した。
でも、その試合も一点をめぐる緊迫した試合で、芳樹はピッチャーとして、一回りも体の大きな相手打線を懸命に押さえていた。試合後の芳樹は、力を出し切った清々しい顔をしていた。
 父親から見ると、芳樹は(いつもみんなに囲まれている明るい子)というイメージを持っていた。
 中学に入ってからも、雅子の話によると、正樹たち三年生が引退するとすぐに一年からレギュラーになっていた。しかも、三塁という大事なポジションを任されている。その後も、中心選手として活躍し、昨年の夏、上級生たちが部活を引退すると、当然のようにキャプテンに選ばれていた。
 それに引き替え、兄の正樹の方はいつも要領が悪く、ハラハラさせられてばかりだった。三月生まれのせいか、いつも成長が他の子よりも遅れがちだったのだ。
 雅子にいわせると、それはごく小さい頃からあったようだ。
(コップで飲み物が飲めない)
(しゃべるのが遅い)
(トイレが一人でできない)
一つ一つはささいなことかもしれないが、公園などで会うよその子たちができることがなかなかできなかったという。おれにはあまり相談はなかったが、雅子は一人で心配していたらしい。
 そういえば、幼稚園の参観日にいった時にこんなことがあった。節分の頃だったようで、クラスでは鬼の面を作っていた。
どんどんできあがっていく他の子たちの中で、正樹だけはすっかり動作が固まっていて、まるで作業が進まなかった。
(ううっ)
 思わず手を貸したくなっている自分を発見して、
(親としてのはじめての試練だなあ)
と、思ったことを覚えている。
 小学校に入ってからもそれは続いていて、三年から始めたミニバスケでも、五年生から移った少年野球でも、いつも補欠だった。
親身になって面倒を見てくれた監督やコーチのおかげで、六年になってライパチ(ライトで八番の補欠ぎりぎりのポジション)ながら、少年野球チームのレギュラーになれた時にはホッとしたものだった。

 ピピッ、ピピッ、……。
 六時五分前に、また目覚ましの電子音が鳴った。芳樹のことを考えていたので、ほとんど眠れなかった。これからは、DAZNで日本の野球中継を見なければならない。DAZNでは、日本のプロ野球のすべての試合を、開始から終了まで見られることになっている。
 おれはベッドから起き上がった。テレビのスイッチを入れて、DAZNを立ち上げた。プロ野球のメニューから、巨人対中日の試合を選んだ。おれは、特にどこのチームのファンということはなかったが、巨人ファンだった父親の影響で、なんとなく巨人戦を真っ先に見るのが習慣になっていた。最近は、地上波ではあまり巨人戦の放送もやらなくなった。視聴率が取れないのだそうだ。これも有力選手が、みんなメジャーリーグへ行ってしまって衰退している日本のプロ野球の現状のせいかもしれない。
視聴率が取れないのは、テレビでは試合の一部分しか中継しないせいかもしれないと、おれは思っている。野球の試合というのは、立ち上がりに大量点が入ってしまうこともあるし、逆に試合の終了間際に一点を争う緊迫する場面があるかもしれない。そういった一番面白いシーンを中継しないから人気がないのだ。その点、DAZNでは、試合開始から終了までをじっくり見られるので、けっこうおもしろかった。
「ただいま」
 ふすまの向こうから、芳樹の声がした。
「お帰り」
と、答えながら、雅子の話を思い出して、(芳樹は、今日はどこへ行っていたのだろう?)と、思った。
でも、あまりこの問題を深く考えると、また不安感に取り付かれてしまう。なるべくこのことは考えないようにして、野球中継に集中することにした。
このゲームが早く終わったら、すぐに別の試合に切り換える。こうして、はしごしながら最後の試合が終わるまで見続けるのだ。十時ごろになって、ようやくその日の全試合が終わる。それから、またおれは短い眠りにつく。明日も、三時半からチャンピオンズリーグを見なくてはならない。
夕飯も、おぼんにのせたまま、ふすまの外に置かれることになっている。

試合は、三回の巨人の攻撃が始まったところだった。
「おとうさん、ちょっと話があるんだけれど」
 外から、また雅子の声がかかった。
「えっ、今、ちょっと、……」
 おれが画面から目を離さずに答えると、
「芳樹のことで、相談にのってもらいたいんだけど」
「うーん」
 おれはしかたなく、テレビを消した。
「今日の先生との話を、芳樹にしたんだけど」
「うん、それで」
 だんだんイライラしてきた。おれは、あわてて気を落ち着かせるリーゼをまた飲んだ
「おとうさん、ふすまを開けられない? 芳樹も来ているから」
「えっ! それはだめだよ」
 おれは、あわてていった。
「そう。それじゃあ、このままでもいいわ」
雅子は、ため息をついていた。
こうして、ふすま越しの奇妙な家族会議が始まった。
 雅子にうながされる様にして、芳樹がポツリポツリと話し出した。
「学校へ行きたくないんだ。だから、時々、学校へ行くのを途中でやめて、他の場所へ行っていたんだ」
「他の場所ってどこへ?」
 おれがたずねると、
「秘密基地」
と、芳樹は小さな声で答えた。
「えっ、秘密基地だって。あそこはもうなくなったんじゃないのか?」
 おれは驚いていった。秘密基地というのは、芳樹たちが通っていた小学校の裏山にある作業小屋のことだ。
 芳樹が六年のころ、そこにコミックスだの、家には持って帰れないたぐいの雑誌などをため込んで、みんなでたむろしていたことがあった。
 でも、作業小屋のそばの池に子どもが落ちる事故があって、学校からそこへの立ち入りを厳重に禁止されたはずだ。たしか、作業小屋も取り壊され、裏山はぐるりを金網で囲われてしまっている。
「正確には、秘密基地跡。作業小屋のあった所には、材木なんかがそのまま残ってる」
「雨の日には、どうするんだよ。屋根がないじゃないか」
 雨に濡れてじっとすわっている芳樹の姿が目に浮かんで、おれはたまらない気持になった。
「うん、晴れた日にしか行かないから。雨の日にはしかたないから、学校へ行っている」 
「でも、金網で入れないんじゃないか」
「うん、破れてるとこ、知ってるし」
 芳樹はあっさりと答えた。
「お昼はどうしてるんだ。給食が食べられないじゃないか。朝ごはんだって食べてないのに」
 おれは、朝のことを思い出しながら言った。芳樹が腹を減らしているのじゃないかと、心配だった。
「コンビニでおにぎりやサンドイッチを買ってるから。お金がない時は、給食に間に合うように学校へ行っているし」
 芳樹がボソボソと答えた。
その後、芳樹はとぎれとぎれに、なぜ学校へ行きたくないのかを説明し出した。

話によると、クラスの人たちみんなに、芳樹はシカトされているのだという。
シカトは、はじめは野球部のメンバーから始まった。野球部の練習の時にも、キャプテンの芳樹が何か指示しても、彼らは薄ら笑いを浮かべるだけで、言うことをきかないようになったのだそうだ。
そのうちに、彼らは、芳樹を「正男」というダミーの名前で呼ぶようになっていた。他の人たちに知られないためだ。
「正男は優等生ぶっている」
「正男は生意気だ」
という風に使う訳だ。このダミーのニックネームは、野球部だけでなく、クラスなどでも公然の秘密になっていた。
どうやら、芳樹をシカトするメンバーのうちの一人が、野球部のキャプテンになりたかったみたいなのだ。彼は、小学生時代は芳樹とは別の少年野球チームでキャプテンをやっていた。それで、何かというと芳樹に逆らうようになっていたらしい。
「顧問の先生に、相談したのか?」
 おれがそういうと、
「ぜんぜんだめ。頼りにならないから」
と、芳樹はあっさりといった。今の野球部の顧問の先生は、野球に興味がないのか、本当は立ち会わなければいけないのに、野球部は芳樹にまかせっきりで、ほとんど練習に顔を見せないのだそうだ。
そうこうするうちに、芳樹に対するシカトは、野球部からクラスにも広がってしまった。同じクラスの野球部員から広まったのだ。
毎日、学校へ行っても、クラスでも部活でも、誰も口をきいてくれない。
(それは、けっこうつらいことだろうな)
と、おれは思った。自分のように自ら引きこもっているのとは違って、芳樹の方はその気があるのに、みんながコミュニケーションをしてくれないのだ。

「それで、担任の先生は、このことについて、今日は何かいっていたのか?」
 おれは、雅子に聞いてみた。
「それが、なんにもおっしゃってなかったの。ただ、芳樹が休みがちだけどどうしましたかって、逆に聞かれただけで」
「だめだよ。あの先生も頼りにならないんだ。だいいち女だし」
 芳樹が憤慨したような口調で、話に割り込んだ。
「女か男かは、関係ないよ」
と、おれは芳樹をたしなめたものの、クラスに蔓延しているらしいシカトのことをぜんぜん知らなかったとすると、担任の先生も本当に頼りにならないのかもしれない。
「誰か、頼りになる先生はいないのか?」
 おれがそういうと、
「いることはいるんだけど、……」
と、芳樹が答えた。
「誰だい?」
「小野沢先生」
「どんな先生?」
「前の野球部の顧問の先生。でも、今は教育委員会に出向しているんだ」
 芳樹は、あきらめ気味の声を出していた。
 小野沢先生ならおれも知っている。兄の正樹の時も野球部の顧問をやっていた。面倒見のいい先生で、そのころは、夏には子どもたちと一緒に学校に泊りこんで野球部の夏合宿をやってくれていた。正樹が一年生でおれが引きこもりになる前に、一度こっそり練習の様子を見に行ったことがあったが、子どもたちと先生は和気あいあいとしていて楽しそうに練習をしていた。
「なんとかならないかなあ」
 おれは、小野沢先生に力を貸してもらえないかと思っていた。
「この前、久保沢の温泉坂の所に教育相談センターって、施設ができたんだけど」
 雅子が口をはさむと、
「そう、小野沢先生はそこに出向しているんだ」
と、芳樹がいった。
「それなら、そこで小野沢先生に相談できるんじゃないか」
「そうね。私が連絡を取って、先生にお会いしてみようかな」
と、雅子がいった。
 けっきょく、家族会議の結論としては、雅子を通して小野沢先生に解決をお願いしてみることになった。
「それじゃ」
 雅子がそう言うと、
「おとうさん、ありがとう」
 芳樹が、小さな声だったけどはっきりそう言うのが聞こえた。少しホッとしている様子が、ふすまのこちら側からも察せられる。
二人はそのままふすまの向こう側から離れていったが、おれとしても、こんな変な形だが、父親としての最低限のアドバイスができたのが嬉しかった。
「おっ、いけねえ」
 野球を見るのをすっかり忘れていた。
 おれは、あわててテレビをオンにした。
巨人・中日戦は、すでに五回の中日の攻撃になっている。
(リアルタイム・ウォッチャーとしては失格だな)
と、おれは苦笑いをした。
 でも、それはそれでいいのかもしれないとも思っていた。

月に一度、おれは病院の精神科に通っている。病院へは、家に誰もいないころをみはからって、自分で車を運転して行く。そして、みんなが家に帰ってくる前に家へ戻っている。そのために、毎回午前10時に予約を入れていた。
初めのころは、病院へ行くのにも、雅子に付き添ってもらっていた。こうして一人で行けるようになったのは今年になってからだ。
 おれの病院は、会社の近くにある大学の付属病院だ。そこには、引きこもりになる三年以上前からうつ病で通っているから、足掛け六年の付き合いになる。初めのころはまた会社に行っていたので、この病院は出社前に寄れるので便利だった。
 病院に着くと、駐車場のいつも決まった位置に車を停める。ここの駐車場は、三十分以上は有料で、毎回二百円を取られてしまう。コンピューター化が進んでいて待たされることが少ない病院だが、さすがに、受付、診療、会計、薬の受け取りのすべてを三十分以内に行うことはできない。たった二百円とはいえ、いつも金を出口のゲートの機械に払う時には、なんだか損したような微妙な気分になる。精神科の支払いは毎回四千円以上もかかっているのだから、二百円なんて誤差範囲だ。それでも気にかかるのは、これも病気のせいなのかもしれない。もっとも、五時間を過ぎるとさらに料金が加算されるようだったが、そこまで長居をしたことは一度もない。
 入り口前の案内所の女性に軽く会釈して、再診の方の自動ドアを通り抜ける。そこには、自動の再診受け付け機がズラリと並んでいる。診察カードを差し込むと、今日の予約券が打ち出されてくる。
それを持って、エスカレーターで一階へ降りて、5番の窓口に向かう。この病院は、丘の斜面に建っているので、入り口が二階になっている。5番の窓口は、精神科と心療内科の受け付けだ。

「おはようございます」
 おれが保険証と予約券を差し出すと、
「それでは、中の待合室でお待ちください」
と、精神科の受け付けの女性が笑顔でいってくれる。
 待合室に入ると、ソファーには先客が五人すわっていた。いつも予約時間が同じせいか、どれも見知った顔だった。おれは軽く会釈して、ソファーの一番診察室よりに腰を下ろした。
「……」
 いつもの様に、誰からも反応がない。病気が病気のせいか、他の科の待合室のようにお互いに話しかけたりはしないのだ。先客は五人いたが、実際の患者は三人なのも知っている。六十前後の眼鏡をかけた男の人には、いつも奥さんらしい初老の女性と、三十ぐらいのおそらく娘と思われる女性が付き添っている。いつでも三人で楽しそうに話しているので、ついこの人のどこが病気なのかと思ってしまう。特に、派手に着飾った娘さんがびっくりするくらい陽気な調子で話しかけると、患者の男性は笑顔で答えているのだ。とても、付き添いが必要な精神科の病人には見えない。
「村田さん、どうぞ」
 ちょうどその男性が先生に呼ばれた。
「はい」
 村田さんは元気に返事をすると、女性たちに囲まれて診察室に入っていった。後には、スマホをいじっている若い女と、陰気な顔をした三十ぐらいの男と、おれとが残った。
おれはバッグから文庫本を取り出すと、いつものように読み始めた。

「石川さん、どうぞ」 
 二十分ほどして、ようやくおれの順番がきた。
 主治医の先生は、この六年間で、転勤などで二回替わり、今の佐藤先生は三人目だった。
「お変わりありませんか?」
 先生は、響きのある低い声で尋ねた。きれいに整えられた髪、落ち着いた物腰、穏やかな笑顔、そして、魅力的な低音。これらは、精神科の先生には、必須な要素なのかもしれない。前の二人の先生も、同じような特長を備えていた。患者を安心させ、心を開かせる。そのために、これらが役立っているに違いない。
そういえば、キリスト教の牧師や仏教の僧侶も、低く響きのある声の人が多い。賛美歌やお経で鍛えているせいだろうか。いつだったか、部下の女性の結婚式に出席した時、説教する牧師さんの素晴らしく響きのある声に聞きほれたことがあった。
「変わりありません」
 おれも、先生をまねて低い声で答えた。
「お薬は飲んでいますか?」
「はい。毎日、きちんと飲んでいます」
「じゃあ、いつも通りに薬を出しておきましょう」
 先生は、パソコンに何か指示を入力している。
いつもだと、先生は、おれのふだんの様子について、もう二、三、質問した後、
「次は、また一カ月後でいいですか?」
といって、診察を締めくくる。
 それが、今日はふと思いついて、先日のふすま越しの奇妙な家族会議について、先生に話してみたのだ。
 先生はじっとおれの話に耳を傾けた後で、明るい笑顔を浮かべると、
「それはいい。すごくいいですよ、石川さん。自分の事だけでなく、外部の事に関心を持つのをいい兆候です」
「そうですかねえ」
 今思い返してみると、自分でも変な状況だったのだ。
 しかし、先生はおれを励ましながら、最後にこう言った。
「どうも、今年になってから、徐々に状態が良くなっているようですよ。このまま続けば、やがて会社に復職できるようになるかもしれませんね」
「いやあ、まだ無理ですよ」
 おれはあわてて答えた。
「もちろん、今すぐって事ではないですよ。もちろん今回はまだ復職は無理だと、診断しておきますから」
 先生は、おれを安心させるためにそう付け加えた。
「それでお願いします」
 これだけのことでもかなり緊張し始めていたおれは、ホッとして答えた。
「それでは、お大事に」
 先生は、おれの方に向き直って笑顔を見せた。
「ありがとうございました」
 おれも笑顔を返して、診察室を後にした。

 最近、病院に行った帰りには、いつも同じラーメン屋に寄ることにしている。
去年までは、病院が終わると、どこへも寄らずに、まっしぐらに家に帰ったものだった。それが、どういうはずみか、ある時このラーメン屋に昼食をしに立ち寄ったのだ。もしかすると、病院が混んでいて遅くなり、空腹に耐えかねたのかもしれない。
そして、それ以来、病院以外にはおれが外部で行く唯一の場所になっている。病院と家のちょうど中間ぐらいにあって、昼食を食べるのに都合がよかったのも、その理由の一つかもしれない。
  このラーメン屋は、一見するとイタリアンレストランかと思える様な、おしゃれな造りになっている。
 車を道路からラーメン屋の敷地に入れると、広い駐車場はほぼ満車の状態だった。第二駐車場の案内看板が見える。なかなか繁盛しているようだ。ファミリー客から、近くの現場で働いている労働者まで、客層も広かった。
店の中も、ゆったりしたテーブル席やファミレスのようなボックス席が並んでいて、とてもラーメン屋とは思えない。
「らっしゃい」
「いらっしゃい」
 きびきびと働いている店員たちから、元気な声が飛ぶ。
 みんなそろいの作務衣のようなユニフォームを着て、一様に色とりどりのバンダナで頭をおおっている。
「何名様ですか?」
 若い女性の店員に聞かれた。
 おれは黙って、指を一本立てた。
「カウンターでよろしいですか?」
 おれがうなずくと、オープンキッチンに面している半円型のカウンター席に案内された。
ここでの月一回の外食に、おれはいつも同じ物を食べることにしている。
おれは、メニューも見ずにすぐに店員に手招きした。
「シンシン麺をひとつ」
辛辛麺というのは、肉味噌入りのすごく辛いラーメンだ。他の店で坦坦麺と呼ばれている物に似ている。辛いスープにたっぷりのひき肉が入っている。ただ、スープの辛さが半端でなく、残さずに飲み干すと、全身から汗が吹き出てくる。それが気持ち良くて、いつも食べているのだ。
辛辛麺を食べると、口、食道、胃、それに数時間後には肛門までがヒリヒリする。
(体によくないかな?)と、思うけれども、すっかり病み付きになっていた。
 今日も、汗びっしょりで、口の中や唇をヒリヒリさせながら辛辛麺を食べ終えると、おれは店員にもう一度手招きした。
「杏仁豆腐をひとつ」
 これをオーダーするのも、毎回同じだ。
 作り置きしてあるのか、すぐに杏仁豆腐が届く。一口スプーンですくって食べる。辛辛麺で辛くなった口の中に、甘酸っぱい杏仁豆腐の味が広がる。最高にうまい。
 辛辛麺が八百八十円で、杏仁豆腐はたったの百円。合計九百八十円の至福の時。スポーツ配信サービスや、CSやBSの有料放送以外にほとんど金を使わないおれの、月に一度の「贅沢」だった。

 おれは、会社にはまだ籍を置いていた。
引きこもりが始まった当初は、有給休暇を使っていた。おれは、あまり休暇を消化する方じゃなかったので、たっぷり二ヶ月分は残っていた。
それがなくなると、病院で診断書を出してもらって、病気休暇扱いになった。これも、有給休暇と同様に、百パーセント給与は保障されている。病気休暇は、二十日分は取れることになっていた。
 しかし、それも使い切って、とうとう無給休暇になってしまった。これは欠勤と違って人事考課には響かないことになっているが、その分は給料がカットされてしまう。
そして、その十日間も終わって、とうとう欠勤扱いになってしまった。欠勤は特に期間があるわけではないが、収入の道は完全に立たれている訳だ。もちろん、いつまでも欠勤を続けている訳にもいかない。
 その後、会社と話し合いが持たれた。直属の上司だけでなく、人事だの、健康保険組合だのの担当者も、話し合いに加わった。
そして、おれはとうとう休職ということになった。
期間は最長三年間。初めの二年半は健康保険組合が基本給の85パーセント、その後の半年間は会社が基本給の80パーセントを、保障してくれる。賞与は出なかったが、代わりに見舞金として基本給の1カ月半に相当するものが、賞与支給時期にもらえた。これなら、一応、生活水準をそれほど落とさないでもやっていかれる。他の会社に比べれば、かなり恵まれた環境だろう。
 しかし、それから、あっという間に二年がたってしまった。休職の期限も、いよいよ後一年に迫っていた。それが過ぎても復職できなければ、休職期間満了で自動的にクビになってしまう。

 毎月、病院に行った翌日に、会社に電話している。おれ担当の健康相談室の女性と話すためだ。
「おかげんはいかがですか?」
 彼女の口振りは、いつもていねいだ。
「あまり変わりはありません」
 おれが答える。
「復職はどうなさいますか?」
 これは、彼女が毎月必ず確認しなければならないことだ。
「ちょっとまだ無理だと思います」
 これも毎月のおれの答えだ。
「そうですか。それでは、休職の更新願いを郵送してください」
「はい」
これもいつもどおり。
「それではお大事に」
 ここで、気のせいか、彼女はホッとしたような声を出す。
 月一回のおれからの電話。おればかりでなく、彼女にとってもけっこう負担になっているのだろう。早く電話を切りたい様子がこちらからも分かる。
 いつもだったら、おれの方でも、ホッとして受話器を下ろす。こうして、一ヶ月に一度のノルマが無事終了するわけだ。病院に行って先生と話し、電話で会社の人と話す。これだけでも、今のおれにとっては相当にエネルギーを要する。この後、二、三日はうつな気分がいつもより強くなる気がしていた。
 しかし、今日は違った。その後におれはこう続けたのだった。
「あのお、…」
「はい?」
「すぐに復職は無理なのですが、少し状態が上向いてきた気がするので、念のため復職プロセスを確認してみたいのですが、…」
 思わず、そう言っていた。昨日の先生の言葉が頭に残っていたせいかもしれない。
「そうですか。それは良かったですねえ」
 こころなしか、彼女の声も明るくなったようだ。そして、それに続けて、復職プロセスについての資料を見られる社内サイトへ入るためのおれのIDを設定してくれた。

健康相談室との電話を切った後で、おれはさっそく会社の社内用ネットワークを立ち上げた。
この前、ここに入ったのは、休職のプロセスを確認する時だったから、二年以上前だ。
健康相談室の人が教えてくれたIDコードを使って、復職プロセスの資料にアクセスした。
けっこう、長い資料だ。
おれはその場で読まずに、ダウンロードして家のプリンタで印刷した。
資料によると、復職プロセススタートの大前提は、主治医による復職OKの診断書だ。
これがあって初めて、上司や人事や健康相談室の担当者と面談して、会社の復職プロセスに入れる。
おれ自身も、そのことにはまったく異存はない。主治医の佐藤先生の判断は、完全に信頼している。
ただ、ひとつだけ、先生には内緒にしていることがある。
リアルタイム・ウォッチャーのことだ。
きっとこのことを打ち明けたら、復職OKの診断書は書いてくれないだろう。それをどうするかが、ネックになってくる。
復職プロセスの次の段階は、自分の生活状況の定期報告だ。
エクセルで作られた生活管理票というのを毎日つけて、毎週健康相談室へメールの添付ファイルにして送らねばならない。
生活管理票というのは、毎日何をやっているかを、30分ごとに記録するものだ。
睡眠、運動、食事、家事、読書、娯楽などが色分けされていて、運動や家事や娯楽などは具体的に何をやったかの内容も記入しなければならない。
このプロセスが三週間続く。
これを、健康相談室の担当者と産業医の先生がチェックするのだ。生活状況が問題ないと判断して初めて、次のステップに入れる。
きっとおれだけでなく、休職者は生活のリズムを崩しがちなのだろう。復職できるかどうかは、生活リズムが一番大事なようだ。たしかに、毎日会社に行って決められた勤務時間をこなさなければならない。病気をする前はぜんぜん意識したことがなかったが、不規則な生活をしている今のおれにはちゃんとできるかどうか、まるで自信がない。
生活管理票は自己申告制なので、もちろん嘘も書けるわけだが、そんなことをすれば、産業医が正しく判断できなくて、後で自分の首を絞めることになるだろう。
(正直に申告しよう)
 おれはそう思った。
 復職に必要な生活リズムを取り戻せなければ、仮に復職しても実際には職場で通用しないだろう。

(リアルタイム・ウォッチャーは卒業しなくてはな)
 おれは思わず苦笑いした。
 今までの自分の生活を変則的にではあるが支えてくれていた「リアルタイム・ウォッチャー」が、今度は復職に対するネックになっている。
 今のある意味規則正しい生活を、全く別のサラリーマンの規則正しい生活に、作り変えていかなければならない。
 これも復職プロセスに乗るためには、仕方のないことなのだ。
 実際、この段階は、長い復職プロセスでは、ほんの序の口なのだ。
 これをクリアしても、主治医との面談、人事との面談、上司との面談と、関門はまだまだ続くのだ。
 「面談」と言葉はマイルドだが、実際は「面接試験」なのだ。
 それぞれの「面談」をクリアしなければならないからだ。
 言ってみれば、おれは、ふたたび就職試験を受けているようなものなのだ。
 そして、それらすべてをクリアしても、まだ本当に復職したことにはならないのだ。
 短縮時間勤務も含めて、最初の三か月は試用期間なのだ。
 その期間に、就こうとしている職務が十分にこなせるだけのパフォーマンスを見せないと、失格になってまた休職に後戻りしなくてはならなくなる。
 そして、その間も休職期間とカウントされているので、三年の期限が来たら、休職期間満了の退職という名のクビになってしまうのだ。 
 しかも、その場合は自己都合での退職なので、退職金も会社都合と違って割増はないし、失業保険を貰える期間も短かった。
(まあ、その時は、その時だ。ハローワークに通って、本格的な就職活動をしよう)
 なんだか、腹をくくった気分だった。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

オーガニック

2021-02-28 13:45:00 | 作品

 修司は小学校三年生だ、両親と幼稚園の妹の明菜の四人暮らしだった。
 おとうさんは、都内の会社に勤めている。おかあさんは、結婚してからずっと専業主婦だった。
 おかあさんは筋金入りの専業主婦で、家事にはなんでも熱心だった。特に、料理はもともと大好きなので、いつも手作り料理で、家族の健康に気を配っていた。
「おいしーい」
 おかあさんがオーブンで焼いた手作りのピザを食べた修司は、思わず大声で叫んだ。
「そーお」
 おかあさんが満足そうにうなずいている。本当におかあさんの作るピザは、焼きたてのせいもあるかもしれないが、宅配のピザよりもおいしいのだ。
 おかあさんは、家族の健康のために食材にも気を配っている。オーガニック食品が手にはいるときは、多少値段が高くてもそれらを買うようにしていた。
 そのころは、それで良かったのだ。
 ところが、おかあさんは、しだいにオーガニック食品にはまってしまうようになった。
 初めは、
(家族に体にいい物を食べさせたい)
という純粋な気持ちから始まったのだ。
 でも、凝り性な所のあるおかあさんは、オーガニック食品にすごく熱中してしまった。家には、通信販売で買ったオーガニックの野菜やその他の食品であふれるようになった。
「値段は高いけれど、安全で体にいいのよ」
 おかあさんはみんなにそう説明して、家で出される食事は、だんだんそういった物しか使わないようになってきた。
「ほんと、おいしいね」
 修司もうなずいた。確かに野菜も肉も新鮮で、普通の物よりおいしい気がするのだ。もちろん、おかあさんの料理の腕がいいおかげもあるだろうけど。

 そんな時、近所にオーガニック食品の店ができた。
「やったあ! これで、自分の目で選んで買える。通販もいいけど、自分では一個一個までは選べないからね」
 さっそく、おかあさんは、修司や明菜を連れて買い物に行った。
 そこのお店では、普通のスーパーよりも、野菜も肉もはるかに値段が高かった。
 それでも、おかあさんは大喜びだった。そして、だんだんそこでしか買い物をしないようになった。
 修司の家では、
「外食は、材料に何が使われているかわからないから体に悪い」
と、おかあさんが言っているので、絶対に外のお店には連れていってくれなった。
 どうしても外食をしたい時には、オーガニック食品だけを食材に使っているレストランに行っている。近所にはそういうレストランがないので、車でわざわざ遠くまで出かけていた。
 そういうお店では、メニューに材料の産地などが書かれていた。
「うわー、すごい!」
 オーガニック野菜のサラダバーに、おかあさんが歓声をあげた。
 修司は、クラスのみんなみたいには、マックや吉野家なんかへは絶対に行かれない。コンビニでの買い食いも、同じ理由で禁止されていた。
(マックに行ってみたいなあ)
 修司は、一度でいいからそういった店で、おかあさんが「ジャンクフード」と呼んで軽蔑している食べ物を、たらふく食べることを夢見ていた。

 おかあさんがオーガニック食品に凝りだしてから、しだいに食費がすごく膨らんでしまって、家計は大幅な赤字になった。エンゲル係数がすごく高くなってしまったのだ。
「ちょっとやりすぎだよ。おれは普通のもっと安い食べ物でもかまわないぜ」
 おとうさんは、おかあさんがつけている家計簿を見ながら言っている。
「だめよ。そんなどこで作られたかわからない物なんか。それに農薬や添加物はすごく怖いのよ」
「でも、このままじゃあ、家計がパンクしちゃうよ」
 家計の赤字をめぐって、おとうさんとおかあさんは口論が絶えなかった。おとうさんは、オーガニック食品もいいけれど、ほどほどにして欲しかったみたいだ。
「いいわよ。それなら私が働くから。健康は何物にも代えられないのよ」
 おかあさんは、家計の赤字の補てんのために、パートで働くようになった。
「自分で稼いだお金で買うのならいいでしょう」
 そう言われて、最後にはおとうさんが屈服して何も言わなくなった。
 これを境に、おかあさんのオーガニック食品熱はますますエスカレートしていった。
 まず、おとうさんに、オーガニック食品で作ったお弁当を持たせるようになった。
 それまでは、おとうさんは社員食堂で食べていた。
「社員食堂でも、けっこうオーガニック食品を使っているんだけどね」
 おとうさんはそう言っていたけれど、おかあさんは納得しなかった。
 明菜の幼稚園でも選択性の給食を断り、オーガニック食品のお弁当を持たせるようになった。
「うわーい」
 明菜は、おかあさんが作った物が食べられるので喜んでいた。

 おかあさんは、とうとう修司の学校の給食を断り、オーガニックな弁当を持たせようとした。
 でも、義務教育の学校側では、簡単には認めてくれない。
「アレルギーとか、特殊な事情がない限り認められません」
「それなら、給食の食材をすべてオーガニック食品に代えてくれますか」
「予算も限られていますから、それは無理です」
 おかあさんと学校とが、給食のことでもめ始めた。
「それなら、うちの子だけはオーガニック弁当を認めてください」
「みんなと同じ物を食べることの教育的効果も大事ですから」
と、学校側は主張した。
 学校側の意向を無視して、おかあさんが無理やり修司にオーガニック弁当を持たせた。
 給食費はそのまま払い続けているので、修司の分も給食は準備される。
 その給食を無視して、修司は一人だけオーガニック弁当を食べなければならない。
 修司は、だんだんみんなにからかわれるようになってしまった。オーガニック弁当の「オーガくん」と、呼ばれるようになったのだ。

みんなにからかわれるのが嫌で、修司はとうとう登校拒否になってしまった。
 修司は、家にこもるだけでなく、おかあさんの作る食事を食べることも拒否するようになった。自分でコンビニへ行って、お小遣いでカップ麺を買ってきて、それだけを三食とも食べている。
「そんな、何が入っているかわからない物を食べるなんて」
 なんとかやめさせようとするおかあさんと、修司はもめている。
 ついにおかあさんも、修司の給食をやめさせることはあきらめた。それならば、修司も「オーガくん」と呼ばれることもないだろう。
 修司も登校拒否をやめて、また学校に通い出した。こうして、修司のオーガニック戦争は終了した。

       

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

キッカーズ

2021-02-18 14:17:31 | 作品

 浩一のけったミドルシュートは、けんめいにふせごうとするゴールキーパーの高田の指先をかすめて、水飲み場のタイルにあたった。
「ゴオオル、イン」
 絶妙のパスを出してくれた村井が、大声で叫ぶ。
「やったあ」
 浩一は両手を大きく広げて校舎のそばまで走っていくと、ひざまずいて大きく十字をきった。
 といっても、浩一はクリスチャンでもなんでもない。たんに、外国人選手がゴールを決めた後でやるポーズをまねただけだ。
「3対2で逆転だな」
 かけよってきた村井が、浩一にハイタッチしながらいった。村井は百七十センチもある長身なので、浩一の方はかなり伸び上がらなければならない。
「いくぞお」
 高田のゴールキックで、すぐに試合が再開された。みんなは、公式のサッカーボールよりひとまわりもふたまわりも小さいゴムボールを追っかけていく。
 この「サッカー」には、センターサークルなんてしゃれたものはない。だいいち二つの「ゴール」が、お互いにまっすぐ向かい合ってさえいないのだ。ひとつは、高田が守っている水飲み場。もうひとつは、校庭のはじにある高鉄棒だった。
「パス、パス」
 それでも、六人対六人で行われているミニサッカーは、けっこう盛り上がっていた。

 放課後になると、U中学の校庭は、いろいろなクラブの生徒たちでごったがえしている。
 野球、バレーボール、バスケットボール、陸上競技、……。
 さまざまなユニフォームの生徒たちが、いりまじって練習している。 
 都心にある他の中学と同様、U中学の校庭は非常に狭かった。なにしろ、五十メートル走のタイムを取るのに、校庭を斜めに使うくらいなのだ。
 しかも、地面は土ではなくアスコン(アスファルト・コンクリート)だった。そこに、バレーボールのコートやバスケットボールのコートなどが、いろいろな色の線で描かれている。
(なぜ、バレーボールやバスケットボールを校庭でやるかって?)
 それは、体育館もすでにいっぱいだったからだ。剣道部、柔道部、体操部、卓球部など、どうしても室内でやらなければならないクラブで精一杯だった。
 U中学では、クラブ活動は、週二回までと決められていた。これは、もちろん生徒を勉強に集中させようという、先生たちの考えでもある。
 でも、それ以上のクラブ活動をやるのは、校庭や体育館が狭くて物理的にも無理だったのだ。
 当然、大きな場所を必要とするサッカーやテニスなどのクラブはない。
 だから、浩一のようなサッカーファンは、ゴムボールを使って、校庭のはじにある狭いスペースでやるしかなかった。メンバーは、浩一のクラスを中心とした十二、三名の一年生だった。

「やばい」
 田代が大声で叫んだ。田代の放ったシュートは大きくカーブがかかって外れると、校庭のはずれへと飛んでいく。
(まずい)
 浩一は、思わず目をつぶった。ボールの先に、野球部のライトがいたからだ。しかも、ちょうどフライを取ろうとしている。
「あぶない」
 誰かが叫んだ。
 しかし、ボールはライトの頭に、まるでねらったかのように当たってしまった。
「いてーっ」
 サッカーボールに気を取られたせいか、野球のボールまでがライトの腕に当たった。
「このやろう」
 ライトはグラブを投げ捨てて、こちらへ走ってくる。二年の山下だ。けんかっぱやいので有名だった。
「誰だ、今、けったのは」
 答えなくても、立ちつくしたままの田代を見ればすぐにわかる。山下は、いきなり田代に飛びかかった。
「すみません。すみません」
 必死にあやまる田代を、山下はかまわずボカスカなぐりつける。浩一たちは、あわてて二人を引き離そうとした。
 しかし、山下は、浩一たちにもなぐりかかってきた。他の野球部の人たちも、こちらへ走ってくる。とんだ大騒ぎになってしまった。

「あーあ、ついてねえなあ」
 その日の帰りに、村井がみんなにぼやいた。
「そうだな。ぶつかったのが、山下じゃなければ、なんでもなかったのになあ」
 高田も首をふっている。
 あれから、浩一たちは野球部の連中と乱闘寸前になったけれど、先生たちが間に入ってなんとかおさまった。
 でも、そのせいで、学校としての問題に発展してしまったのだ。
山下になぐられた田代は鼻血を出して、口の中も切ってしまった。田代は医務室で簡単な手当てを受けてから、養護の先生に付き添われて病院にむかった。
殴った当事者の山下は、先生たちに説教された後、処分が決まるまで自宅で謹慎となった。当事者だけでなく、浩一たちサッカー仲間と野球部の連中もさんざんしぼられた。特に、正規の部活ではない浩一たちは、サッカーをやっていたこと自体が注意の対象になってしまった。
「山下は停学かなあ」
 高田がそういうと、
「そりゃ、そうに決まっている。だって、田代に怪我させたんだぜ」
 村井が口をとがらせていった。
「うーん、どうもそれだけでは済まないような気がする」
 浩一は、浮かない表情で二人にいった。

 翌朝、浩一が登校すると、げた箱わきの掲示板の前で、高田と村井が待っていた。
「藤田、見てみろよ」
 掲示板には、昨日まではなかった大きなはり紙がある。
『       告
 放課後に、校庭でサッカーをしている生徒がいるが、クラブ活動の邪魔になるので、今後は禁止する。
なお、昼休みのサッカーは、ゴムボールの使用を条件に認めるが、水飲み場や校舎にぶつけないように十分注意すること』
「ちくしょう、これじゃあ、サッカーなんか、ぜんぜんできねえじゃないか」
 掲示板の下の壁を靴先でけっとばしながら、村井がどなった。気の短い村井は、もうカッカとしている。
「藤田、どうする?」
 対象的に、高田はいつもどおりののんびりした声で、浩一にたずねた。高田はふっくらした体と顔に、象のような優しい目をしている。性格も外見に似ておっとりしていた。
 どうするといわれても、浩一にもすぐには良いアイデアがうかばなかった。昨日のトラブルから、ある程度はこうなることは予測していた。
 でも、学校側が、ここまで素早く対応してくるとは思っていなかった。
 結局、昼休みには、誰もサッカーをやろうとしなかった。

 その日の放課後、浩一は、担任の青井先生に、職員室へ呼びだされた。
「先生、こんちは」
 職員室に顔を出した時、先生は机に向かって本を読んでいた。
「おー、藤田か。ちょっとよそへ行こう」
 先生は、すぐに本を閉じて立ち上がった。
チラリと見えた本の表紙には、「生徒指導の要点」と書かれていた。
 先生は、浩一を面談室へ連れていった。部屋に入ると、浩一にいすをすすめて自分も腰を下ろした。
 先生は上着のポケットから煙草を取り出したが、目の前に浩一がいるのを思い出したかのようにあわててまたしまった。
「何でおまえを呼んだか、わかってるな」
 先生は、浩一の顔は見ずにうつむいたまま話し出した
「はい」
 浩一は、先生をにらみつけるようにしながら答えた。それにひきかえ、先生の方は相変わらず浩一と目を合わせないようにしている。
「昨日の、……」
 先生は、ようやく昨日開かれた臨時職員会議について浩一に話し出した。
 山下になぐられた田代は、今日、学校を休んでいた。鼻血だけでなく、口の中を三針も縫う怪我をしている。
 一方的に暴力をふるった山下の処分をめぐって、昨日臨時職員会議が開かれたことは、浩一も知っていた。
 その結果は、意外にも担任と野球部の顧問から厳重に注意するだけで、山下は停学処分にならないようだった。
 むしろ、クラブ活動でもないのにサッカーをやっていた、田代や浩一たちの方が問題になったとのことだ。
 青井先生は、山下を停学にしないことと引き換えに、サッカーの全面禁止を阻止したことを、自分の手柄のようにさかんに強調していた。
 先生は、最後に、みんなを説得してこれ以上トラブルを起こさないように、浩一に頼んだ。
「先生、なんでみんなに直接話さないんですか」
 浩一は、不機嫌な声でいった。
「ああ。でも、おまえから話してくれた方がいいと思ってな。おまえが、グループのリーダーなんだろ」
「そんなことありませんよ」
「いや、そうだって話だぞ」
 浩一は、ちらっとクラスのおしゃべりな女の子たちの顔を頭にうかべた。
「それに、おまえのいうことなら、村井や高田もよく聞くからな」
 先生は、気弱な笑みをうかべていた。

 高田や村井たちは、教室で浩一の帰りを待っていた。
「サッカーのことだろ。青先はなんていってた?」
 村井は、早くもけんかごしだ。浩一は、いつものように自分の机の上に腰かけると、足をブラブラさせながら、青井先生の話をみんなに伝えた。
「ちくしょう。山下を停学にしないかわりに、サッカーの全面禁止を防いだだと。ぜんぜんわかってねえな。あんな制限をされたんじゃ、もうサッカーをやれやしないじゃないか」
 あんのじょう、村井はすぐにカッカとしている。
浩一は、
(ここに青井先生がいたら面白いのになあ)
と、思った。
「そうだなあ」
 のんびり屋の高田も、いかにも残念でたまらなそうに首を振っていた。
「どうせ同じことだよ」
 浩一は、冷静に答えた。
「どういう意味さ」
 高田が、浩一の言葉にびっくりしたように聞いた。
「どっちにしろ、もう学校じゃサッカーはできないんだよ。だって、考えてもみろよ。たとえ先生たちが許可したって、部活の上級生たちが、ひどいいやがらせをするに決まってるじゃないか」
 浩一はきっぱりとそういうと、みんなの顔を見まわした。 
「じゃあ、どうするんだよ」
 村井が、今度は浩一につっかかるようにいった。
 しかし、浩一にも、これからどうしたらいいか、いいアイデアはなかった。

 このトラブルをきっかけとして、浩一は、放課後だけでなく、昼休みのサッカーもやめた。村井や高田たちも浩一にならって、サッカーをやらなくなった。
 あきらめの悪い何人かは、いぜんとして昼休みにボールをけっていた。
 でも、水飲み場や高鉄棒が使えなくなったので、ゴールは地面にチョークで書いている。人数も少ないし迫力もなく、はなはだ盛り上がらないサッカーになっていた。集まる人数も尻すぼみになり、やがて誰もやらなくなってしまった。実質的にサッカーをやらせなくしようという学校側のもくろみは、まんまと成功したわけだ。
 放課後にサッカーをやらなくなってから、浩一たちは高田の家にある柔道場に集まるようになっていた。
 高田道場は実家の地下室にあるので、夏はひんやりと涼しいし、冬は暖房なしでもけっこう暖かい。練習は、師範である高田の父親が勤めから帰ってくる六時以降なので、今までも、雨の日などには、浩一たちのかっこうのたまり場になっていた。
 三十畳ほどの畳の上に台を出して卓球をしたり、付属の小さなジムで、バーベルやボートこぎなどの筋力トレーニングをやったりして遊んでいる。
 集まるメンバーは、浩一、村井、高田、田代の皆勤組を中心に、常時七、八名はいた。みんな、学校帰りにコンビニで食べ物や飲み物を買い込んでからやってきた。サッカーをやらなくなっても、みんなはけっこう楽しそうだった。
 でも、浩一だけは、サッカーをあきらめたわけではなかった。

「テン、セブン、マッチポイント」
 高田が、指でカウントを示しながらいった。浩一は下山と組んで、村井、吉野のペアと対戦していた。
「よしっ」
 浩一が、カットサーブをクロスに送った。村井が、つっつきで慎重に返す。それを、下山がゆるくつなぐ。吉野がドライブで打ち込んできたが、浩一は、すかさず村井と吉野の間を、きれいなスマッシュでぬいた。
「ゲームセット。よし交替」
 高田が、大声でいった。
「ひと休みしないか」
 浩一は、ラケットをうちわがわりにしながら答えた。
「だめだめ。藤田がやんないなら他のペアに代われよ」
 高田は、ラケットをよこせというように、浩一に向かって手を出した。
「いや、ちょっと話があるんだよ」
 浩一は、ボールとラケットを卓球台の上に置いた。
「話ってなんだよ」
 高田は、ボールとラケットを持ちながらいった。
他のメンバーも、浩一を見つめている。
「サッカーのことなんだけど」
 浩一は、みんなに向かって話し出した。
「また、上級生とトラブルを起こそうってのか」
 村井が、せっかちに話に割り込んだ。
「いや、違うよ」
「じゃあ、なんだよ」
「あせるなよ。今、じっくり話すから」
 そういうと、浩一はみんなを見まわした。
「おれが考えているのは、自分たちの正式なクラブを作ろうってんだよ」
「えーっ。中学のか」
 高田がきいた。
「いや、そうじゃない。自主的なのを作りたいんだ」
「どうしてさ。学校で作ってもらえばいいじゃないか」
 下山が口をはさんだ。下山は小柄でおとなしい生徒だ。先生や学校に対して、どちらかというと従順な感じだった。
「そいつは無理だよ。考えてもみろよ。今あるクラブだけでも手いっぱいなんだぜ」
 浩一がそういうと、高田がすぐにうなずいた。
「そりゃあ、そうだな。ラッシュアワーみたいに、ギューギュー詰めだもんな」
「それに学校のクラブじゃ、やれ顧問だ、規則だのって、制限ばかり多くてつまんないよ。もちろん上級生たちも入ってくるだろうし」
 浩一がそういうと、
「ちぇっ、そうか」
 村井がはき捨てるようにいった。村井は封建的なクラブの上下関係にいやけがさして、バスケット部をひと月で辞めていた。
「どうせ、教えてくれそうな先生もいないしな」
 下山も口をはさんだ。
「それじゃあ、学校には内緒でやるのか」
 村井は、面白くなってきたとばかりにいきおいこんでいた。
「いや、学校には、クラブを作ることを正式に申し込む」
 浩一が答えた。
「なんだよ。さっきは、学校じゃ無理だっていったくせに」
 村井は、すぐに口をとがらせる。
「いや、無理だとわかっていても、申し込んだ方がいいんだ。学校がだめだっていってから、じゃあ自主的にやりますっていえばいいんだよ。はじめから俺たちだけでやると、いろいろ後でうるさいからな」
 浩一は、そこでみんなの顔を見ながらニヤリと笑った。
あの日以来、浩一はいかにスムーズに自分たちのクラブを作るかを、ずっと考え続けていたのだ。根っからのサッカー好きの浩一は、決してあきらめていたわけではなかった。
「そうだな。部員の募集もやりにくいし」
 村井も賛成した。
「いや、おおっぴらに部員を集めるのは考えもんだぞ。上級生の反発をくっちまう。口コミでこっそりとメンバーは集めよう」
「そうかもな。藤田、おまえってけっこう頭が働くな」
 高田が、感心していった。
「成績は良くないのにな」
「うるせえ」
 浩一は、チャチャを入れた村井の頭を軽くこづいた。
「でも、練習する場所はあるのか?」
 吉野が、初めて話に加わった。吉野は、浩一のグループでは例外的に成績の良い生徒で、考え方がつねに現実的だった。
「うん。それがいい所があるんだ」
 浩一は、日曜日に見たグラウンドについて、みんなに説明をはじめた。

 その日、浩一は、祖父の十三回忌に出席するために、両親と一緒に埼玉県の熊谷市へ出かけたのだった。
 浩一たちを乗せた電車は、荒川の鉄橋を渡っていた。意外に水量の少ない川の両側の河原には、野球やサッカーのグラウンドが何面も続いている。日曜日とあって、どこのグラウンドでも、大勢の人々がスポーツを楽しんでいた。開け放した電車の窓から、遠く歓声が聞こえてくる。
「いい所だなあ」
 浩一は、隣にすわっていたとうさんに話しかけた。
「そうだな。今日は日曜日だからいっぱいだな」
 とうさんも、振り返って外を見た。
「いつもは空いてるのかなあ」
「平日はガラガラだって、新聞に出てたな」
「へーっ。A区はいいな。こんなにたくさんグラウンドがあって」
「いいや、このグラウンドは、うちの区の所有のはずだよ」
「本当?」
 浩一は、驚いてとうさんを見た。
「そうだよ。離れてるから、平日は利用者が少ないんだろうな」
 電車が鉄橋を渡り終わった。浩一は、まだグラウンドの方を振り返って見ていた。

 翌日から、浩一たちは他のサッカー仲間を、口コミで勧誘しはじめた。上級生たちを刺激しないように、運動部に入っていない者ばかりだ。
「えっ、荒川? 遠いなあ」
 初めは、グラウンドが学校から離れていることで、チームに入るのをしぶる者も多かった。
 でも、浩一たちの下見の結果、自転車でなら十五分ぐらいで行けることがわかった。そうすると、参加してみようという者が増えてきた。
最終的には、前に校庭でサッカーをやっていたメンバーの、ほとんど全員が加わることになった。全部で十三人。なんとか1チーム分の人数が確保できた。
 さっそく浩一は、職員室に青井先生をたずねた。
「なんだ、藤田、なんの用だ?」
 青井先生は、いつもの気弱な笑みを浮かべていた。
「はい、実はサッカー部を、……」
 浩一は、学校にサッカー部を作ってもらうことと、顧問を青井先生にお願いしたいこと(これは村井発案の嫌がらせだ)を話した。
 あんのじょう、青井先生は表情を曇らせた。
 しかし、その場ではだめだとはいわずに、職員会議にはかると浩一にいった。きっと、自分の責任を逃れたかったからだろう。
 一週間後、サッカー部新設は、予想どおりに、もう部活をするスペースがいっぱいだという理由で、学校側からは認められなかった。こうして、浩一のねらいどおりに、自主的なクラブとしてサッカーチームはスタートすることになったのだった。

「キッカーズ、ファイトッ」
「オー」
「ファイトッ」
「ファイト」
 昨日までの雨ででき上がった水たまりを避けながら、浩一たちがランニングをしている。
 彼らが荒川のグラウンドで週三回練習するようになってから、早くも二週間がたっていた。
 チームはできたものの、みんなはバラバラのウェアを着ていた。トレーニングウェアの者、学校のジャージ姿の者など、さまざまだった。そんな中で、浩一だけは、小学校の時に入っていた少年サッカーチームのユニフォームを着ていた。
 みんなのシューズも、ほとんどがスニーカーだった。ちゃんとしたサッカー用のスパイクをはいているのは、浩一以外には数人いるだけだった。
 ボールも各自の物を持ち寄ってきたので、サイズも模様もまちまちだった。
 しかし、とにもかくにも、チームはスタートしたのだった。
 チームの名前も、Uキッカーズと決まっている。Uというのは、彼らが通っている中学の名前だ。メンバーの中には、学校の部活じゃないから、Uを使うのはまずいんじゃないかという意見もあった。
 でも、住んでいる地域の地名でもあるし、他にいいのが思いつかなかったのでそのままになっている。
 浩一たちが借りられたグラウンドは、縦約百メートル、横はおよそ八十メートルと、かなり大きかった。ほぼ正規のサッカーグラウンドのサイズがある。十人ちょっとのキッカーズが練習していると、広すぎてガランとして感じられるくらいだ。
 グラウンドの両端には、ネットが少し破けているとはいえ、ちゃんとサッカーゴールもある。ゴールのうしろは、丈の高い草むらになっているので、そちらにボールが飛んでもすぐに止まってくれそうだ。シュートが高く外れても、遠くまで取りに行く必要がなくて好都合だった。
 土は砂と赤土が半々で、所々に枯れかかった芝の名残りがあった。グラウンドの下見に来た時に、浩一は土をひとつかみつかんでみた。土はすぐにボロボロとくずれ、風に吹かれて落ちた。水はけはなかなか良さそうだった。
 つまり、ここは、おんぼろのUキッカーズには、もったいないぐらいのグラウンドなのだ。しいて難をいえば、すぐそばを川が流れていることぐらいだった。
 浩一と一緒に下見に来た村井は、川に向かって石を投げながらこういっていた。
「藤田ぁ。ここでやったら、ボールが川に流されて、なくなるんじゃねえかあ」
 たしかに、川よりの所で大きくミスキックしたら、そのままドブンと水に落ちてしまうだろう。特に風の強い日は要注意だ。
「まあ、ミニゲームをやるときは、土手寄りでやろうや」
 浩一は、川のそばを歩きながら答えた。

 その日の練習の帰りに、村井が独りごとのようにいった。
「あーあ、試合がやりてえな」
「そうだな」
 すぐに、何人かが、同感とばかりに答えた。
「藤田、そろそろ試合をやらないか」
 村井は、他のメンバーの賛成に力を得て、浩一の隣に自転車を寄せてきた。
「うん。この前もいったけど、一学期の間は基本練習をしてさ。夏休みにどこかで合宿やってから、試合にした方がいいと思うんだけど」
「でも、パスとランニングだけじゃつまんねえよ」
「ミニゲームもやってるだろ」
「だけど、ここんとこ集まりが悪くて、面白くないんだよ」
 人数が少なくなったのは確かだ。当初は十三人いたのに、少しずつ減っていって今日などは十人をきっている。ゲームばかりやっていた校庭のサッカーと違って、地味な練習が多かったせいかもしれない。ここらで、みんなのやる気を引き出すのも必要なことだろう。
「よし、じゃあ、試合を組んでみるよ」
 けっきょく浩一は、試合をやることをみんなに承知した。

 その晩、浩一は、つい三か月前の小学校時代に属していたFサッカークラブの、進藤コーチに電話をした。Fサッカークラブは、Jリーグの下部組織で大きなクラブだった。
「やあやあ、藤田くん、しばらくだねえ。元気にやってる」
 ひさしぶりに聞くコーチの声は、相変わらず元気いっぱいだった。
「ごぶさたしてます」
「サッカーは続けてるかな?」
「ええ、でも中学にサッカー部がないもんですから」
「そうだったねえ」
 浩一は、そのサッカークラブの中学生チームである、Fジュニア・ユースには入らなかった。中学になると学校も忙しいし、ハードな練習を要求されるジュニア・ユースを続けながらだと、勉強はかなりおろそかになりそうだった。浩一は、そこまでサッカーにかけるほど、自分に才能があると思えなかった。
「それで、今度、友だちとクラブを作ったんです」
「そう、そりゃよかったねえ」
 コーチも、自分のことのように喜んでくれていた。
「ただ試合をやりたいんですけど、相手が見つからなくて」
「そうか。それで電話してきたんだね。だけど、うちのチームのスケジュールもけっこう詰まってるんだよね」
「いえ、二軍でけっこうなんです」
「でも、君たちは中学生のチームなんだろ」
「一年生だけで、まったくの素人集団ですから」
「そうか、それならなんとかなるかもね」
 Fクラブには、一軍の下に、練習試合用にメンバー構成してある二軍が、四チームもあった。各チームのメンバーは、一軍の補欠をしているような上手な者から、まったくの初心者まで、さまざまなレベルの子が混ざっている。

「えーっ、小学生とやるのか」
 浩一の報告を聞いて、田代が不服そうにいった。
「小学生といっても、キャリアは、おれたちよりずっと豊富だよ」
 浩一は、みんなにFサッカークラブの様子を説明した。
「でも、二軍なんだろ」
 下山までが、物足りなさそうにいう。
「そりゃ、そうだけど」
「藤田はレギュラーだったのか?」
 吉野が、浩一にたずねた。
「うん、一応ね。でも、一軍のメンバーも、しょっちゅうかわっていたからな。今度の相手の中にも、一軍経験者が入っているはずだよ」
「まあ、初戦だからな。ここで大勝して、波に乗るってのもいいじゃないか」
 試合と聞いただけで、村井はすっかりはりきっている。
「そうだな。十点以上とろうぜ」
 田代も気を取り直していった。ようやく他のメンバーも乗り気になってきたようだ。
「その意気だ」
 浩一もみんなに合わせて、そう答えた。

 浩一は他のメンバーに合わせて、あえて楽勝説を否定しようとはしなかった。
 しかし、実際には、勝つのはかなりむずかしいと思っていた。小学生とはいえ、本格的にコーチされている彼らのテクニックは、Uキッカーズの比ではない。だから、対戦相手を、一軍でなく、わざわざ二軍にしてもらったのだ。みんなには、プライドを傷つけないように、一軍はスケジュールがいっぱいだったからといってある。
 Uキッカーズでまともな選手といえば、百七十センチ近くの長身を誇る村井とゴールキーパーの高田、そして浩一だけだ。
 村井は、テクニックはないけれど、なにせこの長身だ。ヘディングでなら好勝負ができる。小学生のキーパーは、上のシュートに弱いので、空中戦は特に効果的だった。
 高田の良い点は、球をこわがらないことだ。太っているので動きは少し鈍いが、体をはってゴールを守ってくれるだろう。
正直いって、それ以外のメンバーは、まだあまり期待できない。いろいろな種類のキックをしたり、ヘディングをしたりするのも、まだまともにできない状態なのだ。
 でも、浩一は、なんとしてもこの試合に勝ちたかった。そうしないと、ただでさえメンバーの減っているUキッカーズは、このままつぶれてしまうかもしれない。
 ゲームが決まってから、浩一は一人で作戦を考え続けていた。
今の他のメンバーのレベルでは、まともにパスをつないでいっては、途中で必ずボロが出てしまう。それなら、浩一がドリブルで相手ゴール近くまで持ち込み、村井のヘディングで勝負した方がいい。そして、高田を中心にして、全員でなんとか守りぬく。作戦はこれしかないように思えた。

試合の予定を決めた効果はすぐに現れた。そのことを村井たちがみんなに知らせると、再び練習に参加する者が増え始めたのだ。
「藤田ーっ、試合やるんだって?」
 学校でも、わざわざ浩一の教室まで確かめに来る者もいた。浩一が試合の予定を教えると、みんなはいちように目を輝かせている。いかにみんなが、試合を待ち望んでいたかがわかる。浩一は、試合を申し込んで本当に良かったと思った。
 その週の終わりの練習には、もとの十三名全員が顔をそろえた。これで、なんとか試合のメンバーは集められそうだった。
 浩一たちUキッカーズは、一週間後の試合に備えて、しだいに練習に熱が入っていった。
「それ、それ、ボール、ボール」
「パスだ。こっちによこせ」
 練習の仕上げのミニゲームも、いつになく活気があった。いつもよりも、みんなが声を出している。今までは見られなかったような激しいタックルをする者も出てきた。攻撃でも、ボールにくらいついてなんとかゴールしようという気迫が伝わってくる。
チームの士気も、全体のプレーのレベルも、だんだん上がってきているようだ。浩一は、試合という目標が、みんなのやる気を出させるのにいかに大切かを感じていた。

 試合は、土曜日の午後にFクラブのホームグラウンドで行われた。
 浩一を除くUキッカーズのメンバーは、芝がきれいに刈り込まれたFクラブのグラウンドを見て、すっかり驚かされてしまった。試合前のウォーミングアップの時も、広いグラウンドなのに、みんなはつい一か所にかたまってしまう。だんだん雰囲気にのまれてしまったようで、ふだんの練習のときのような元気が出ていなかった。
「グラウンドは大丈夫だよ。かえってやりやすいんだから」
 浩一は、みんなをはげますように声をかけた。
「そうかなあ。なんだか勝手が違うんだけど」
 ふだんは人一倍元気な村井までが、なんだかおどおどしているように見える。
「ほら、うちのグラウンドはでこぼこしてるだろ。ここの方がたいらだから、パスはまっすぐに通るから」
 浩一はそういいながら、実際にきれいなショートパスを村井に送った。
 ところが、村井はその簡単なパスをトラップミスして、うしろにそらしてしまった。きれいな緑のグラウンドの上を、ボールはコロコロところがっていく。それを、村井がけんめいに追いかけていった。
 こうしたFクラブに対するみんなのコンプレックスは、試合前に整列した時にピークになった。ようやくスパイクだけは全員が買いそろえたものの、Uキッカーズのユニフォームは、いぜんとして何ひとつ統一がとれていない。サッカーらしいのは浩一だけで、テニスウェアあり、バスケットのユニフォームありで、まるで運動会のクラブ対抗リレーでも始めるようだ。
 一方、Fクラブチームは、お揃いのグリーンのシャツに白のパンツ。上部組織のJリーグのチームと同じユニフォームで、ビシッときまっていた。

 ピーッ。
進藤コーチのホイッスルとともに、ゲームは始まった。
 浩一は、短いパスを村井に出してリターンをもらうと、ゆっくりとドリブルを始めた。試合の時にいつも味わう、しびれるような緊張感が体にはしった。
 他のメンバーは、初めての試合の緊張で、顔も体もこわばらせている。浩一は相手のタックルをかわすと、すぐに思い切ったロングシュートを放った。
 ボールは大きく左へそれていく。
(枠をはずれったてかまやしない)
 浩一はそう思っていた。みんなの緊張をほぐすために、わざとロングシュートをけったのだった。
「ナイスシュー」
 遠くから、ゴールキーパーの高田の声が聞こえた。きっと彼には、浩一のねらいがわかったに違いない。
「よーし、やってやるぞ」
 自陣に戻りながら、村井が彼らしいファイト満々の声で叫んでいた。
「がんばろうぜ」
「気合入れていこう」
 吉野や下山からも声が出始めた。立ち上がりのみんなの緊張が少しほぐれてきたらしい。
 先取点を取ったのは、Fクラブだった。
 前半の立ち上がりすぐに、巧みなショートパスを、何本も続けて通されてしまったのだ。こういった攻撃に慣れていないキッカーズのバックス陣は完全に振り回されている。あっという間にゴール前をガラ空きにされて、最後はサイドキックで簡単に決められてしまった。
 キッカーズのメンバーは、浩一が何度大声で注意しても、ボールに気を取られて一か所に固まってしまう。そのため、空いたスペースに、楽々とパスを通されるのだ。
 劣勢を挽回しようと、浩一はいよいよ例のドリブル戦法に出た。
 相手を突き倒すかのように、反則すれすれで強引に突進していった。一人、二人。次々と相手のマークをはずしていく。
 うまくゴールの左側にまわり込んだ。ねらいをすまして、中央で待つ村井へセンタリング。
 村井は、相手のキーパーとせるようにジャンプした。
 ボールは、村井の頭には当たらなかったが、キーパーも取りそこねて前にこぼしてしまった。
 走り寄った浩一が、すかさず押し込んでゴールイン。
 1対1。
 浩一のドリブル戦法が、さっそくうまくいった。
 同点になって元気づいたキッカーズは、その後も必死に相手にくいさがった。圧倒的にボールは支配されたものの、追加点は一点しか許さなかった。
 前半を終了して1対2。思いがけず善戦していた。浩一は、自分の考えたドリブル戦法に、一段と自信を深めていた。
 後半に入ると、キッカーズのメンバーに疲れがみえはじめてきた。スタミナがないせいもあるが、むだな動きが多いのでよけいに疲れるようだ。浩一は、特に疲れのひどいメンバーを控えと入れ替えた。
 Fクラブは、しだいにディフェンスを、浩一一人に集中してきた。おそらくハーフタイムに、コーチから指示されたのだろう。
 浩一のドリブルは、何重にも敷かれた相手の組織的なディフェンスに、引っかかるようになっていった。
「藤田、パス」
 下山が叫んだ。
 相手ゴールまで、三十メートル。まだ、シュートには遠すぎるし、ゴール前で待つ村井へのパスのコースも相手に消されていた。下山は、完全にフリーになっている。
 浩一は、一瞬、下山へパスを出してリターンをもらおうかと思った。
 しかし、次の瞬間、浩一は、二人がかりの相手ディフェンスを、強引にフェイントでかわそうとしていた。
 一人はなんとかかわしたものの、二人目に鮮やかなスライディングタックルを決められて、ボールを取られてしまった。バランスを崩した浩一は、前のめりに転倒した。
「チェッ」
 倒れた浩一のそばをかけていく下山の、舌打ちが聞こえてきた。

 結局、ゲームはUキッカーズの惨敗に終わった。
 1対6。
 後半は一点も取れなかった。
 浩一は、とうとう最後まで、味方にあまりパスを出さずに、強引なドリブル戦法を繰り返してしまっていた。

 このみじめな敗戦以来、Uキッカーズの練習への参加者は、前よりもさらに少なくなってしまった。
 浩一、村井、高田、吉野、それに田代のたった五人。今まで、皆勤だった下山までがこなくなっていた。これでは、ミニゲームもできやしない。
「ちぇっ、みんなげんきんだなあ」
 村井は、つまらなそうにゴールへシュートをたたきこみながらいった。
「やっぱり小学生に負けたのは、ショックだったんだなあ」
 高田は、そういいながらゴールの中のボールを拾い上げた。
「それに、こないだのゲームは、藤田の個人プレーが多すぎたんじゃないか。みんな、信頼してくれなかったから、面白くなかったんだよ」
 吉野が、ズバリといった。
「すまん」
 浩一は、素直にあやまった。パスを出さなかった時の、下山の残念そうな顔がチラッと浮かんだ。
「ちぇっ、吉野よぉ。藤田のせいばっかにすんなよ」
 村井が、つっかかるようにいった。
「本当のことをいっただけだよ」
 吉野は、あくまで冷静だ。
「何をっ。他の奴らが下手だからじゃないか。あれは藤田の作戦なんだよ」
 そう村井がいうと、田代も小さな声でいった。
「でも、やっぱり、ちょっとつまらなかったな」
「すまん。おれ、勝ちにこだわっちゃって。第一戦だから、勝ってはずみをつけたかったんだ」
 浩一は、あの日の作戦について、みんなに説明してあやまった。
「まあ、もうやっちまったんだからしかたがないよ」
 高田が、とりなすようにいってくれた。

 次の練習日にグラウンドに来たのは、浩一、村井、田代の三人だけだった。
「あーあ、ひでえなあ。吉野の野郎は、もう来ないと思ってたけどなあ。まさか、高田のブー公まで来ねえとはなあ」
 村井は悔しそうだった。
 高田の欠席は、浩一にも強いショックを与えていた。いつも控え目だが、ここぞという時に頼りになる高田。いなくなってみると、その存在がますます大きく感じられる。
「チームはつぶれちゃうのかなあ」
 田代もポツリといった。たしかに このままの状態では、Uキッカーズは解散するしかないかもしれなかった。
 それでも、三人は準備体操をしてから、ランニングを始めた。
「キッカーズ、ファイト」
「オー」
「ファイト」
「オー」
 元気のないこと、はなはだしい。ただでさえキッカーズには大きすぎるグラウンドが、ますます広々と見えてくる。浩一は走りながら、未練がましく何度も土手の方を振り返っていた。
 でも、土手の上には誰も姿を見せなかった。

 その後も、浩一たちは練習を続けていた。
三人での三角パス。交代にゴールキーパーをしてのシュート練習。
 でも、三人だけの練習は、ぜんぜん盛り上がらなかった。だんだん声も出なくなって、ただ黙々と決められた練習をこなすだけだった。
(ああ、このままキッカーズはなくなってしまうのかなあ)
 浩一の心の中にも、しだいに絶望感がわいてきていた。

練習が始まって、一時間がたった。
 と、そのとき、
「おーい」
 誰かが呼ぶ声がする。
 振り返ると、土手の上から高田が手を振っていた。
「何だ、この野郎、遅刻だぞ」
 村井がうれしさを隠して、わざとぶっきらぼうにどなった。
「待ってたぞお」
 田代もうれしそうだ。
 その時、高田のうしろから、吉野や他のメンバーが五人も現れた。その中には下山も入っている。
 彼らは、土手をかけおりて、グラウンドへ入ってきた。
「どうしたんだよ?」
 浩一は、先頭にやってきた高田にたずねた。
「みんなを待ってるだけじゃあ、ジリ貧だろ。それで、今日、来る前に、吉野と一緒に、みんなの家へ寄ってさ。昨日の藤田の話をしたんだよ」
 高田は、少し照れているようだった。
「別に、おれたちも、この間の藤田のプレーが頭にきただけで、練習に来なかったわけじゃないんだ。小学生よりへたな自分が嫌になっちゃってさ」
 下山が、みんなを代表するようにいった。
「まだ、一か月も練習してないんだから、あせることはないよ」
 高田が、もう一度いった。
「ちぇっ、このやろう。かっこつけやがって」
 村井が、高田の肩を強くこづいた。
 吉野は、何もいわずにスパイクにはきかえている。
(また、キッカーズを復活させられる)
 そう思うと、浩一はうれしくてそれ以上何もいえなかった。そして、今日は使っていなかった残りのボールをバッグから出した。
「いくぞ」
浩一は、スパイクをはいた吉野に向かって、ゆるいショートパスを出した。

    

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

「雨ニモマケズ」の謎

2021-01-24 11:38:22 | 作品

 ぼくが、まだ小学生の頃の話だから、もう二十年以上前のことになる。

 ガガンガガン、ガガンガガン、……。
 頭の上を電車が通る音がする。
(上り電車だ)
 シュンは、視線を改札口から奥にある階段へと移した。
 まず、集団の先頭を切って、シュンと同い年ぐらいの男の子がかけおりてきた。つづいて、制服やコートを着た高校生たちが、ガヤガヤおしゃべりしながらおりてくる。最後に、デパートの紙袋をさげたおばさんたちが、ゆっくりと歩いてきた。
降りてきたお客は、ぜんぶで十人ぐらいしかいなかった。駅の時計は、16時51分を示している。つとめ帰りの人たちがいないので、まだそれほど混み合っていなかった。
 改札口には、駅員が一人だけいる。最後の客が通り過ぎると、その駅員もいなくなった。
 四つ先のターミナル駅にある進学教室に、シュンが毎日通うになって、早くもひと月近くになる。
 いっしょにいっているケンタとの待ち合わせ時刻は、5時だった。ケンタは、いつもぎりぎりにやってきていた。いや、少し遅れてくることさえある。
 でも、シュンはいつも十五分前には到着していた。だれもいない家にいてもしかたがないし、たくさんの人たちがいきかう駅の構内は、気分がまぎれて好きだった。
 シュンが立っているのは、改札口の一番すみだった。
すぐそばには、携帯電話がない時代に、待ち合わせのために使われていた伝言用の古い黒板がおいてあった。深い緑色をしていてところどころそれがはげている。今日の日付だけがチョークでくっきりと書き込まれていた。その頃でも、伝言板のまわりだけは、人の流れからからも、時の流れからも取り残されたように、ひっそりしていた。まるでエアポケットか何かのようだ。
 降りてきた人たちの波がとぎれたとき、シュンはいつものように伝言板を読みはじめた。
『良平、遅刻するから先へ行くぞ。 剛』
『サヤちゃん、『コロラド』で待っています。 ヨーコ』
『レオのバカヤロー!』
『・・・・・・・・・』
 そんなに数は多くないが、まだ書き込みがされている。
伝言はみんな、思い思いに自分の言葉で書いてあった。シュンには、それだけではなんだかわからないものもある。きっと見る人が見れば意味がわかるのだろう。
 ガタンガタン、ガタンガタン、……。
 頭上では、下り電車が到着している。今度は上り電車と違って、大勢の人たちが改札口に押し寄せてくることだろう。

 下り電車から降りてきた人波が、ようやくとぎれた。
 シュンは、伝言板をもう一度はじめから順番に読んでいった。きちんと読みやすい字で書かれたものもあれば、力いっぱい書きなぐったものもある。
 一番最後まできたとき、
(おやっ?)
と、思った。
 そこには、ていねいな字でこう書かれていたからだ。
『雨ニモマケズ
 風ニモマケズ JU』
 どこかで、聞いたことがあるような気がする。
(なんだっただろう?)
シュンは、それが何かを思い出そうとしていた。
「おーす、シュンちゃん」
 いきなり声をかけられた。ふり返ると、ケンタがやってきていた。ジャンパーに手をつっこみ、急いでかけてきたのか、白い息をはいている。ケンタのほっぺたと半ズボンから出ている両足は、寒さで赤くなっていた。
二人は、すぐに今熱中している携帯ゲームの話をしながら、改札口の方へ歩きだした。

「2X+4Y=22。そして、X+Y=8」
 算数担当の門井先生が、黒板に書いた方程式について説明している。
 シュンは、今、方程式に夢中になっていた。
本当は、方程式は中学に入ってから習うのだが、この塾では受験対策として先月から教え始めている。
もともとシュンは算数が得意だったが、方程式の魅力にはすっかりまいってしまっていた。これを使えば、めんどうな旅人算も、時計算も、つるかめ算も一発なのだ。
(えーっと、Xイコール2マイナスY)
 だから、これを代入すると、……。
 シュンは、熱心にノートに計算していった。
「じゃあ、この問題は、 ……。吉村、おまえ、やってみろ」
 門井先生がシュンを指名した。
「はい。Xイコール5、Yイコール3です」
 シュンは、自信をもってこたえた。
「よし、いいぞ。 正解だ」
 門井先生が、笑顔でほめてくれた。
シュンはほこらしさで少し顔を赤くしながら、席にこしをおろした。

 翌日も、シュンはいつもの待ち合わせ場所に来ていた。やっぱりあの伝言板の前だ。
 今日も電車が着くたびに、たくさんの人たちが改札口を通りぬけていく。でも、その誰一人として、知っている人はいない。
 いつのまにか、シュンはまた伝言板をながめはじめていた。
「えっ?」
 シュンはびっくりしてしまった。一番最後に、こう書いてあったからだ。
『雪ニモ夏ノ暑サニモマケヌ
 丈夫ナカラダヲモチ JU』
 シュンは、いそいで昨日の文句をうかべてみた。
『雨ニモマケズ 
風ニモマケズ JU』
 たしかこうだった。
(今日のは、昨日の続きなんだ)
 有名な詩だったような気がする。
でも、誰の作品なのかまではわからなかった。
 ケンタがやってくるまでのあいだ、シュンはその文章をながめ続けていた。

 その晩、塾から帰ってからの遅い夕食の時だった。めずらしく帰りが早かったとうさんも、シュンといっしょに食べていた。
 おなかの虫がようやくひといきついたところで、シュンはとうさんに話しかけた。
「ねえ、おとうさん」
「うーん」
 生返事のとうさんは、ビールを片手にテレビのニュースを見ている。そこでは、レポーターがどこかの国の戦争のことを話していた。
「雨ニモマケズ、風ニモマケズって、なんだっけ?」
「えっ、なんだい?」
 とうさんが、ようやくテレビから目を離して聞きかえした。やっぱり、ちゃんと聞いていなかったんだ。
「雨ニモマケズ、風ニモマケズだよ」
「ああ、なんだ。宮沢賢治じゃないか」
 とうさんは、すぐに答えてくれた。
「宮沢賢治?」
 その人なら、シュンも聞いたことがある。たしか国語の教科書にも、『セロひきのゴーシュ』という童話がのっていた。授業の時に、たくさんの童話や詩をのこして、若くして亡くなったと教わった。

「あった、あった」
 シュンがお風呂上りにバラエティ番組を見ていると、とうさんが一冊の古い文庫本を持ってきた。
『宮沢賢治詩集』
 表紙にそう書かれている。本はほこりだらけで、ページは黄色くなりかかっている。ずいぶん長い間、読まれていなかったようだ。
 とうさんは手でほこりをはらうと、本をめくりはじめた。
「これだ、これ」
 とうさんがさし出したページに、その詩、『雨ニモマケズ』はのっていた。
『雨ニモマケズ
 風ニモマケズ
 雪ニモ夏ノ暑サニモマケヌ
 丈夫ナカラダヲモチ
 ……』
 おとうさんが、声に出して読んでくれた。
 シュンにもわかるような、やさしいことばで書かれた詩だった。繰り返しに不思議なリズムがあって、シュンはしだいにその詩の世界に引き込まれていった。

 翌日、シュンは学校の図書館で何冊か本を借りて、宮沢賢治の他の作品も読んでみた。「春と修羅」のような詩集。「注文の多い料理店」のような童話集。
特に、「なめとこ山の熊」、「けんじゅう公園林」といった童話に強くひかれた。それらの作品には、世間一般の常識から考えると、なんにも役にたたないような主人公たちが出てくる。解説を読むと、賢治はかれらをデクノボーと呼んで愛していたようだ。
 いつのまにか、シュンの中にも、賢治の描くデクノボーへのあこがれが強まっているのに気がついた。
世間での評価からはまったく無縁だが、まわりの人や動物たちからは深く愛されている純粋な人たち。
 今まで、シュンは、大人になったら、弁護士か、医者になろうと思っていた。それには、とうさんの考えが影響していたかもしれない。
「ただの勤め人はつまらないぞお」
 それが、サラリーマンのとうさんの口癖だった。
 でも、弁護士や医者になるには、司法試験や医師国家試験に受かる必要があった。
そのためには、東大のようないい大学に進んでおくと有利だ。いい大学に進むためには、有名な私立の中高一貫校に受からなければならない。さらに、有名な私立の中高一貫校に受かるためには、塾でいっしょけんめいに勉強する必要がある。
今までは、ばくぜんとそんなふうに思っていた。

 その日、シュンはいつもよりも少し早く駅に行くことにした。先まわりしておいて、JUの正体を突き止めたかったからだ。昨日もおとといも、JUの書き込みは伝言板のいちばん最後だった。もしかすると、シュンが来る直前に書いていたのかもしれない。
 駅の構内は、いつものように大勢の人たちで混み合っていた。
(やったあ!)
 シュンは思わず小さくガッツポーズをしていた。期待どおりに、JUの伝言がまだ書かれていなかったからだ。
 シュンは、キオスクの横に場所を移した。そこから、掲示板を見張ろうというのだ。
(どんな人かなあ?) 
 JUの字は、きちょうめんでていねいだった。その感じからすると、若い女の人のようだ。高校生か、大学生か、あるいは若いおかあさんかもしれない。
 シュンは、そういった人たちが通りかかるたびに、期待をこめて見つめていた。
 でも、なかなか伝言板の前に人は立ち止まらない。
やっと伝言板の前に女の人が立った。
(JUか?)
 シュンはキオスクのものかげから、じっとようすをうかがった。
 思ったより、年を取った人だ。シュンのおかあさんぐらいの年令かもしれない。なんだか少しがっかりしたような気分だった。
 女の人は、何かを伝言版に書き込んでいる。
 書き終わった女の人が立ち去ったとき、シュンはそっと伝言版に近づいた。
 そこに書かれていたのは、
『礼子さん、遅くなるので先に行っています。 芳江』
 JUではなかったのだ。なんだか、ホッとしたような気分だった。

 ケンタとの待ち合わせ時間が、だんだん近づいてきた。
(JUは、今日は来ないのかなあ)
と、シュンは思い始めていた。
 と、そのとき、掲示板の前に、シュンと同じぐらいの女の子が立った。私立の子なのだろうか、紺の制服を着ている。赤いランドセルを背負っているから、学校の帰りらしい。
(まさかなあ。この子はJUじゃないだろう)
と、シュンは思った。
きっと何か他の伝言を書くのだろう。
 女の子は、わりとすぐに何かを書き終わった。満足そうな表情を浮かべてそれをしばらくながめると、やがて立ち去って行った。ふっくらしたほほと、ピョコピョコはねまわるようなポニーテールが、シュンの印象に残った。
 女の子がいなくなるのを待ちきれないようにして、シュンは伝言板にかけよった。
 そこに書かれていたのは、
『慾ハナク
 決シテイカラズ
 イツモシズカニワラッテヰル JU』
 意外にも、JUはシュンと同じ小学生の女の子だったのだ。

翌日、シュンは昨日よりもさらに早く伝言板の所へ行った。予想どおりに、JUは今日もまだ伝言を書いていない。
 シュンは少しためらっていたが、やがてチョークを手にした。
『一日ニ玄米四合ト
 味噌ト少シノ野菜ヲタベ SY』
 シュンは手についたチョークの粉をはたきながら、すばやくキオスクの横へ移動した。
 しばらくして、JUが現れた。今日も、紺の制服に赤いランドセルだ。
 JUは前に立ち止まって、じっと伝言版をみつめていた。書こうと思っていたことがすでに書かれているのを見て、びっくりしているようだった。あわてたように、あたりを見まわしている。
 でも、やがてチョークを手に取ると何かを書き出した。
 書き終わっても、JUはしばらくあたりをキョロキョロとさがしていた。誰かを探している大きな黒い瞳。一瞬、目が合いそうになって、シュンはあわててキオスクの陰に隠れた。
 やがてJUは、何度も振りかえりながら立ち去っていった。
 JUの姿が見えなくなると、シュンは急いで伝言板にかけよった。
『アラユルコトヲ
 ジブンヲカンジョウニ入レズニ JU』
 急いで、かばんからあの宮沢賢治詩集を取り出した。
(合っている!)
 正確に詩の続きが書かれていた。どうやら、JUはこの詩を完全に暗記しているらしい。

『問1 今、時計の針は七時をさしています。次に長い針と短い針が重なるのはいつでしょうか?』
 門井先生が、黒板に大きく問題を書いた。時計算だ。
 でも、方程式を使えば、かんたんにとけてしまう。
(えーっと、長い針のスピードをXとすると、……)
 シュンは、答案用紙にスラスラと計算式を書いていった。
 答は、……。
 その瞬間、シュンの頭の中にJUの姿が浮かんだ。伝言板の前に立ちすくんでいる。JUはどんな思いで、宮沢賢治の詩を伝言板に書いているのだろう。
 今日、学校の図書館で、シュンは宮沢賢治について調べていた。
 37年間の短い生涯の間に、賢治は驚くほどたくさんのことに挑戦している。
詩人、童話作家、教師、農業技師、宗教家、……。
 身を削るようにしていろいろなことにチャレンジした賢治に、シュンは強くひかれていた。シュンにとって、初めての憧れの人といってもいいかもしれない。
 『雨ニモマケズ』は、賢治が死の床で手帳に書きつけたものだった。デクノボーにあこがれながらもデクノボーになりきれずに死んでいった賢治。そんな思いが、『雨ニモマケズ』には書かれていたのだろう。
(JUにも、賢治やデクノボーへの憧れがあるのだろうか?)
 シュンは、それを聞いてみたい気がした。
「吉村、どうした?」
 門井先生が、不思議そうな顔をしてみていた。
「あっ、いいえ。何でもありません」
 シュンは、あわてて問題の世界へ戻っていった。

 翌日も、シュンは早めに駅に着くと、すぐに伝言板に続きを書いた。
『ヨクミキキシワカリ
ソシテワスレズ SY』
 そして、いつものキオスクの横から伝言板の方を見ていた。
 やがてJUがやってきた。
伝言板にすでに詩の続きが書かれていても、今日は特に驚いた風もなく、すぐに伝言板に何かを書いている。 
書き終わると、あの黒い大きな瞳でまたあたりをみまわした
 でも、やがて満足そうな表情を浮かべて去っていった。
 シュンは完全にJUがいなくなったことを確認してから、急いで伝言板に近づいた。
 そこには、
『野原ノ松ノ林ノ蔭ノ
小サナ萱ブキノ小屋ニヰテ JU』
と、書かれていた。
 やっぱり今日も、正しく詩の続きが書かれていたのだ。やっぱりJUは完全に暗記している。
シュンも、JUと同じく満足そうな笑みを浮かべた。
 ケンタがやってくるまでには、しばらく時間があった。その間、シュンは宮沢賢治とJUのことを考えていた。

その後も、二人は交互に「雨ニモ負ケズ」を書いていった。
 翌日、シュンが書いたのは、
『東ニ病気ノコドモアレバ
行ッテ看病シテヤリ SY』
 すると、JUは少しもためらわずにすらすらと続きを書いた。
『西ニツカレタ母アレバ
行ッテソノ稲ノ束ヲ負ヒ JU』
 その次の日に、シュンがそれに続けて、
『南ニ死ニサウナ人アレバ
行ッテコハガラナクテモイイトイヒ SY』
と、書くと、JUは、
『北ニケンクヮヤソショウガアレバ
ツマラナイカラヤメロトイヒ JU』
と、続けた。
そして、その翌日は、
『ヒデリノトキハナミダヲナガシ
サムサノナツハオロオロアルキ SY』
『ミンナニデクノボートヨバレ
ホメラレモセズ
クニモサレズ JU』
 交互に「雨ニモマケズ」を伝言版に書いていくのは、完全に二人だけの秘密の習慣になっていた。

 二人が交互に書き始めてから六日目。
とうとう最後の日が来てしまった。今日のシュンの分で、「雨ニモマケズ」はすべて書き終わってしまうのだ。
 この日、シュンはかばんには塾のテキストを入れずに駅に向かった。塾はさぼるつもりだった。こんなことは通い始めてから初めてのことだ。
 シュンは、今日こそJUと話してみたかった。宮沢賢治のこと。なぜ伝言板に「雨ニモマケズ」を書いていたのか。そして、もちろんJU自身のことも聞きたかった。
 いや、 それだけでなく、もっとたくさんのことを、この未知の少女と話し合ってみたかった。それはシュンにとっては、塾へいくことなんかより、ずっとずっと大事なことのように思えたのだ。
 駅に着くと、いつものようにたくさんの人たちが行き交っていた。その中には、誰一人として知っている人はいない。でも、今日は、その一人一人が見知らぬ人のようには思えなかった。ふとしたきっかけで、JUの時と同じように心をかよい合わせることができるかもしれない。そう思うと、通り過ぎていく人々が、まったくの他人のようには感じられなかった。そして、そう考えただけで、心の中がほんわかとあたたまってくるのだった。
 シュンは伝言板の前に立つと、いつもよりも力をこめてていねいに最後の部分を書いた。
『サウイフモノニ
ワタシハナリタイ SY』
 書き終わっても、シュンはしばらくそれを見つめていた。やりとげた満足感にまじって、なんだか終わってしまうのがおしいような複雑な気分だった。
 やがて、シュンはキオスクの横のいつもの場所に移った。そして、静かにJUがやってくるのを待った。
 前を通り過ぎる人たちをながめながら、ぼんやりと考え始めていた。
(ぼくがみんなのためにできることって、なんなのだろう?)
 勉強して私立中学に合格する。さらに勉強して、有名な大学に進む。もっと勉強して、司法試験か、医師国家試験に合格する。いつものように、そんなことが頭に浮かんだ。
そのあとは?
 シュンには、それからどうしたらいいのか、ぜんぜんわからなかった。
でも、なぜかもっと大事な事があるような気がしてならなかった。
しばらくすると、いつものようにJUがやってきた。詩が書き終わってしまったことを確認している。そして、今日は何も書かずにいつまでもそこに立ち止まっていた。いつかのように、誰かをさがすようにキョロキョロしている。あの大きな黒い瞳で。
 やがて、シュンは思い切ってキオスクの横を離れると、少しずつ、でも確実にJUに近づいていった。

      

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

田野倉くんて、誰?

2021-01-16 10:44:20 | 作品

  新聞部の編集会議の時だった。
「何か、もっとおもしろい企画はありませんか?」
 今月から部長になったぼくは、部員のみんなにたずねた。
 でも、みんなは黙っている。
 今までにみんなからあがった企画は、校外活動の報告、学校の美化週間のキャンペーン、生徒会選挙の結果、部活の対外試合の成績、……。
まったく平凡な物ばかりだった。せっかくやるのだったら、ぼくはもっと斬新な企画に挑戦したかった。
「なんか、面白くないんだよね。もっといいアイデアない?」
 ぼくは、みんなの顔を見まわしながらいった。
「うーん、そんなに凝らなくてもいいんじゃない」
 そういって反対したのは、三年二組の石岡さんだ。まったくやる気がなさそうだ。
 でも、他の部員たちも、それに賛成するようにうなずいている。みんな消去法で新聞部員になったようで、まるで情熱が感じられない。
 うちの学校では、原則として帰宅部は認められていなかった。運動部はきついから嫌。吹奏楽部や美術部も練習が面倒そう。そういった特にやりたい事がない人たちが、一番「ぬるそうなクラブ」に思えたのか、新聞部に集まったみたいなのだ。


 こういってはなんだが、ぼくだけはみんなと違っていた。実はぼくが将来なりたいものは、新聞記者だったのだ。だから、一年のときからずっと新聞部に入っていた。
でも、これまでの新聞部生活は、不本意なものだった。
先々代、先代の部長はまるでやる気がなかった。顧問の先生も、事なかれ主義だった。紙面は、学校生活における定例的なイベントの報告や学校側からの伝達事項だけで、いつもうめられていた。これでは、まるで学校の御用新聞だ。新聞の使命はどこにいったのだ!(ちょっと大げさかな)
ぼくはもっと派手な記事を書いて、みんなの注目をあびたかった。
編集会議で、ぼくは様々な提案を行った。
学校生活における不満の生徒アンケート調査。生徒たちによる先生たちの逆通信簿作成。通学区域の穴場情報マップ作製。……。
しかし、それらはことごとく先輩たちに却下された。前例がないとか、過激すぎるとかが、拒否された理由だった。
ぼくは、新聞部の現状に激しく絶望していた。
でも、
(今に見ていろ、俺たちの代になったら徹底的に改革してやる)
と、ひそかに闘志を燃やしていた。
七月になって、三年生部員が引退したとき、ぼくは部長に立候補した。
対立候補はいなかった。新聞部には、そんなにやる気のある部員は他にいなかったのだ。
例年は、互いに押し付けあってから、やっと部長、副部長が決まる。ひどい時は、くじ引きで決める時もあったのだそうだ。
こうして、ぼくははれて新聞部の新しい部長になった。

OK3.田野倉くん
「もお、もっとやる気を出そうよ」
 ぼくがもう少しでキレかかったとき、
「あのう、……」
 席の隅のほうから、おずおずと手が上がった。一年生の女の子だ。
「えーっと、麻生さんだっけ。何かあるの?」
 ぼくが怒りを押さえ込みながら聞くと、
「あの、うちのクラスに、まだ一度も登校したことのない生徒がいるんですけど、その理由を調べたら記事にならないかと思って、……」
と、麻生さんはおそるおそる話していた。
 それが「田野倉くん」だという。新年度が始まってもう一ヶ月がたとうとしているのに、まだ一度も登校していないという。
「でも、病気とか、怪我なんかじゃないの?」
と、ぼくがたずねると、
「いいえ、そうじゃないって話なんですけれど」
と、麻生さんが答えた。
「それじゃあ、登校拒否ってわけ?」
 ぼくは、急に興味をそそられてたずねた。
「それが、よくわからないんです。先生もはっきり説明してくれないし、……」
 麻生さんは、少し困ったような表情をしていた。
「いいねえ、それいこう」
 ぼくは飛びついた。他に反対する者もいなかったので、今度の特集は「田野倉くん」でいくことになった。


 それからみんなで話し合った結果、インタビュー形式で、田野倉くんの人間像を浮かび上がらせることになった。
インタビュー先は、クラスメート、担任、校長、教頭、同じ小学校の友だち、田野倉くんの両親。
それに、できたら本人。
もし、本人の言い分が聞けたら、大スクープだ。
部長のぼくから、顧問の先生の了解を得ることになった。
先生には、当然のように反対された。
例によって、前例がないだとか、内容が過激だという理由だ。それに、個人情報の保護という壁があった。
確かに、この記事には、田野倉くんの個人情報が載る可能性は大だった。
しかし、ぼくはあくまでも田野倉くんの立場に立つつもりでいた。そして、この記事が、田野倉が学校へ来るきっかけになればいいと思っていたのだ。それが、どんなに思い上がった考えだったかは、後で思い知らされることになる。
しかし、この時は、それも含めてすべてがぼく自身しか知らない事だった。
そこで、
「わかりました。それでは、他の企画を考えます」
と、顧問の先生に言って、ぼくは引き下がった。
 でも、それは表面的なことだった。学校側には秘密で取材を進めることにしたのだ。
そうすると、なんだかドキドキして、みんなもかえってやる気が起きてきた。
全員で分担して、取材することになった。
まず、真っ先に、提案者の麻生さんに、さりげなく担任の先生に様子を聞いてもらうことにした。
担任の話だと、田野倉くんはやはり登校拒否になっているようだった。
でも、原因は不明だという。
その原因を探るために、みんなの活動が始まった。
しかし、インタビューをすすめていくと、田野倉くんの多面的な人間像が浮かび上がってきた。
みんな、
(彼はこうだ)
って、決め付けるけれど、それぞれが違っていた。
(田野倉くんて、誰?)
 大きな謎が残った。

       

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

選挙

2021-01-14 14:59:51 | 作品

「それでは、これから後期の学級委員選挙を行います」
 前期の委員長である高橋が、教壇の上からみんなに言った。その横には、副委員長の村瀬と川口さんも並んでいる。今回の選挙は、この三人以外から選ぶのがルールになっていた。
「立候補者はいませんか?」
 お互いに顔を見合わせるだけで、誰も立候補するものがいない。
 受験も間近な中学三年の十月。こんな時期に、雑用ばかり押しつけられる学級委員に、わざわざ立候補するなんて物好きな奴なんているはすもない。
 これが、生徒会の委員だったら話が違う。受験の時の学校推薦ねらいの候補者が、けっこういるのだ。
 でも、学級委員なんて、中途半端で受験にはまったく役立たない。もちろん、隆治も学級委員なんかにはなりたくなかった。
「じゃあ、誰か、推薦する人は?」
 これにもみんなから応答がない。どうせ推薦しても辞退されてしまうから、やるだけ無駄なのだ。
「それじゃ、自由投票ということでいいですね」
 高橋が、みんなに確認するように言った。
「賛成!」
「意義なし」
 クラスの後ろの方から声があがった。
(おやっ?)
 なんだか、その感じが少し不自然な気がした。隆治には、声の調子が妙に積極的なように聞こえたのだ。
 でも、高橋は何事もなかったように、自由投票にしてしまった。

 トントン。
 後ろの席の田沢が、隆治の背中をそっとつついた。
 振り向くと、こまかくたたんだ紙を渡された。
 隆治が机の中でそっと開いてみると、
(山田和真に投票せよ)
 そう小さく書かれていた。
(誰の字だろう)
 隆治は、そっとクラスの後ろの方をうかがった。
 最後方に座っている自信満々の顔。
(あいつだ)
 こんな指令をみんなに出せるのは一人しかいない。
 瀬口だ。
 彼は、実質的なクラスのボスだった。でも、自分では、表立った動きをするわけではない。ただ、クラスの中でも乱暴な斉藤や田丸などの面々を手下にしている瀬口は、この三年二組を完全に牛耳っていた。
 今回の指令にも、きっとみんなは従うことだろう。
(どうしようか?)
 隆治は、しばらく迷っていた。
 簡単に瀬口の指令に従うのも悔しい気がするし、かといって面と向かって、例えば逆に(瀬口)などと書くのは、やっぱりはばかられた。まさか筆跡でばれるわけでもないだろうが。まあ、一番無難なのは関係ない第三者の名前を書くことだろう。
 でも、隆治は迷った末に、最後には(山田)と小さく書いて、投票用紙を二つ折りにした。

 けっきょく、たいした競争者もなく、山田が委員長に選ばれた。
 ところが、どういう訳か、隆治も副委員長に選ばれてしまった。
 もしかすると、これも瀬口の指令のせいかもしれない。もちろん、隆治には知られないようにして。
「それじゃあ、当選した人たち、前に出てあいさつしてください」
 高橋に言われて、女子の副委員長の水沼さんも含めて、三人が教壇に並んだ。
 まず山田があいさつを始めた。生真面目に、委員長になっての意気込みなどを話している。瀬口の陰謀も知らずに、山田は選ばれたのを喜んでいるみたいだった。
(あーあ)
 それに引き換え、隆治の方はすっかりしらけてしまっていた。あいさつの順番がきた時も、ペコリと頭を下げただけだった。

「学級副委員長になっちゃったんだ」
 夕食の時に、隆治はなにげなくおかあさんに話をした。正直言うと、そこには少しは自慢っぽい気持ちもまざっていたかもしれない。
「えっ、なんで?」
 おかあさんの顔がくもった。
「いや、自由投票になったら、なんとなく票が入っちゃって」
 わざとおどけたように、隆治は答えた。
「馬鹿ねえ。受験が近いっていうのに、学級委員なんか押し付けられちゃって」
 おかあさんは、かなり本気で隆治のことをなじりはじめた。ある程度予想していたとはいえ、まったく冷たい反応だった。
「学級委員程度じゃあ、推薦にだって使えないっていうじゃない。生徒会の役員ってならまだしも」
 おかあさんは、うんざりしたように顔をしかめた。
(血は争えないなあ)
 受験の学校推薦に関して、おかあさんが自分と同じようなことを考えているのが、隆治はなんだか無性におかしかった。
「ちゃんと塾には通えるんでしょうね。やっと成績が上向いてきたというのに、……」
 おかあさんは自分のことばに激したのか、だんだん興奮した口調になってきた。
「ごちそうさま」
 隆治は、いきなり食卓から立ち上がった。
「あら、まだ食べてる途中じゃない」
 そう言うおかあさんを後に残して、隆治は自分の部屋のある二階へ上がっていった。

 翌朝、教室に行くと、山田が近づいてきた。
「いやあ、まいったよ」
 山田は、ニヤニヤ笑いながら言った。
「なんだい?」
 隆治がたずねると、
「家で学級委員になったこと言ったらさあ。かあさんが大喜びしちゃって」
 山田はうれしそうに話していた。
「へーっ」
 隆治は、自分との違いにびっくりしてしまった。
「なんと、お赤飯まで炊いてくれたんだ」
「えっ!」
 驚きを通り越して、隆治は軽いショックを受けていた。まるで昭和時代のようなリアクションだ。ここにも血が争えない親子がいるようだ。
「吉野はどうだった?」
 山田に聞かれて、隆治はうろたえながら口ごもった。
「べつに、……」
「お互いにがんばらなくっちゃなあ」
 そう言いながら自分の席へ戻っていく山田を、隆治は呆然として見送った。

(やっぱり)
 隆治の予感通りに、その日から瀬口たちの嫌がらせが始まったのだ。
 山田のやることに、ことごとく影にまわってじゃまするのだ。
 例えば、山田が先生からの連絡事項伝えると、その反対のことをやったりする。
 そのくせ、山田が発言すると、
「そのとおり。委員長の言うとおり」
などと、大声で合唱したりする。
 面と向かって、山田の言うことに反対したりしないのだ。だから、山田もなかなか厳しく注意したりできなかった。
 もちろん、瀬口は表面に出なかった。新井とか、坂口といった連中がやっているのだった。
 でも、かげで瀬口が指令しているのは、見え見えだった。みんな、瀬口のグループのメンバーだったからだ。
 初めは、山田は嫌がらせをされていることに気がつかなかった。偶然が重なっているのだろうと、思っていたのかもしれない。
 しかし、そのうちに、それが山田に対する悪意に満ちた嫌がらせだということに気がついた。山田は、新井とか坂口に、直接注意をしていた。
しだいに、山田も、すべて瀬口が仕組んでやらせていることに気がつく。
 山田は、真っ向から瀬口と対決しようとした。そのために、クラスのみんなに協力を求めた。
 しかし、だれも協力しない。瀬口たちの暴力を恐れていたのだ。いつか見た古い西部劇で、保安官が住民の協力を得られずに孤立したように、山田もクラスで浮いた存在になってしまった。
 瀬口が直接手を出すわけではない。ただ、クラスでも腕力のある奴らは、みんな瀬口に手なずけられていた。
 山田はそれにもめげずに、一人で瀬口たちに対決していく。
 ただ、副委員長の隆治だけには、協力を求めてきた。
「二人で民主的なクラスを取り戻そう」
 山田は、そんな時代遅れの学園ドラマみたいなせりふをはいていた。
「別に、たいしたことないんじゃないか?」
 隆治はそう言って、山田を見捨ててしまった。たしかに、おそらく隆治が協力すれば、かなり話は違ってきていただろう。二人で注意すれば、瀬口の嫌がらせも、そんなにはおおっぴらにはできなくなったかもしれない。先生たちも、山田の話にもっと耳を傾けてくれただろう
 でも、そんなことにはかまっていられない。隆治は副委員長として、与えられた最低限のことだけをやっているだけだった。
 受験勉強も、だんだん忙しくなっていった。隆治は山田のことは忘れて、自分のことだけに集中しようとしていた。
 山田は、とうとう思い余って先生に相談してみた。
 でも、先生も山田の話に取り合おうとしなかった。瀬口の巧妙な根回しのおかげで、みんなが口裏を合わせたからだ。
 こうして、山田は瀬口のねらいどおりに、クラスの中で孤立してしまった。クラス中がそのことを知っていたが、誰も自分で行動を起こそうとしなかった。
 それでも、山田は、一人でクラスをまとめようとがんばっていた。いろいろな活動を提案して、クラスを活発にしようとしたのだ。
 でも、瀬口たちの山田への嫌がらせは、だんだんエスカレートしていく。

 ある日、山田をシカトするようにとの指令がくる。
 しかし、シカトは、はじめは瀬口のグループだけしか徹底しなかった。みんなは、山田に悪意を持っているわけではなかったからだ。
 瀬口は、グループの連中を使って、「山田シカト」を徹底させるように締め付けを続ける。
 そのおかげで、山田をシカトする者がだんだん増えてくる。隆治さえも、瀬口たちを恐れて山田を避けるようになってしまった。
 とうとう最後には、クラスの誰もが、山田と口をきかなくなってしまう。山田が何か話しかけても、みんなクルリと背を向けてしまう。
 しだいに山田が近づいていくだけで、みんなが離れていくようになってしまった。
 先生たちがいる所では、みんなは普通にふるまっている。学級会の時なども、山田の司会でスムーズに進行していく。一見、なんの問題もないクラスのように見えた。
 でも、生徒だけになると、みんなが山田を完全に無視するようになっていたのだ。そして、先生たちは、このことに少しも気がつかなかった。
 山田は、学校に来て一日中、誰とも話しができない。こんな時、他の子だったら、別のクラスに休み時間などの逃げ場を求めたかもしれない。
 でも、山田は、この苦しい状況から逃げようとしなかった。休み時間には、誰とも遊んだり、話したりせずにじっと本を読んだりしてすごしていた。隆治は、そんな山田の姿を遠くから見つめているだけだった。
 ある日、山田が学校に来なくなってしまう。
 数日後に、その理由がわかった。家で自殺をはかったのだという。カッターナイフで、手首を切ったというのだ。
 さいわい、発見が早かったので命には別状なかった。山田は救急車で運ばれ、そのまま入院した。そのため、山田の自殺未遂はおおやけになり、警察から学校に連絡が入った。
 責任を追及された学校側では、なんとか原因を究明しようとする。
 それに対して、瀬口はクラスみんなにかん口令をしく。
「みんなだって、同罪なんだからな」
 隆治は、瀬口の言うことはあたっていると思った。瀬口たちだけではない。隆治も含めてクラスの全員が山田を追い詰めたのだ。
 学校側の調査に対して、口を開く者はいなかった。けっきょく、原因はうやむやになってしまった。
 しばらくして、退院した山田が登校してきた。ただ、別人のように無口になってしまった。うわさでは、うつ病でまだ通院しているとのことだった。
 あいかわらず、誰も山田と話をしようとしない。シカトが続いていたのではなく、罪の意識を感じていて、どのように山田と接すればいいのかわからなかったのだ。
 ある日、とうとう思い切って、隆治は山田に声をかけた。せめて自分だけは、できるだけ山田に協力しようと思ったのだ。
 しかし、山田は、担任に頼んで、学級委員長をやめることになった。そして、繰り上がりで隆治が学級委員長になることになったのだ。そして、今度は隆治が、瀬口の新しい攻撃の対象になってしまった。

   

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする