現代児童文学

国内外の現代児童文学史や現代児童文学論についての考察や論文及び作品論や創作や参考文献を、できれば毎日記載します。

松井直「浜田広介」子どもと文学所収

2021-05-30 13:28:25 | 参考文献

 児童文学研究者の石井直人よると「戦後児童文学の批評における最大の書物(「現代児童文学の条件」、その記事を参照してください)」である「子どもと文学」において、「日本の児童文学をふりかえって」に収められた文章です。
 いぬいとみこが書いた「小川未明」の記事でも述べましたが、ここでも作品の時代的な背景や、英米の子どもたちと日本の子どもたちでは生活環境も読書環境もぜんぜん違うことを一切無視した、一方的な批判が繰り返されていて、改めて「子どもと文学」グループの限界を感じさせられます。
 広介の代表作である「泣いた赤おに」、「むく鳥のゆめ」、「花びらの旅」や幼年童話を取り上げて、浜田が感銘したと述べているアンデルセンの諸作品と比較して、「暗い」、「無駄な描写が多い」、「マンネリズム」、「あいまいな気分の作品」などと、酷評しています。
 生きることの哀しみを文学的に表現した(著者に言わせると「あいまい」な表現かもしれませんが)広介の作品を、そんな物は子どもには不必要だとしては、文学に対する立脚点が違いすぎて議論が成り立ちません。
 この批評がされてから六十年以上がたちましたが、著者が取り上げた広介の作品は、今でも子どもたちに読み続けられています。
 確かに、著者が指摘したように、絵本や紙芝居に翻案される過程で、より子どもたちにわかりやすくなるようにリライトされていることでしょう。
 しかし、作品の根底にある物語構造や人生観は、広介のオリジナルのものなのです。
 「子どもと文学」のグループがリリアン・H・スミスの「児童文学論」の影響下にあったことは繰り返し書いていますが、著者のこの文章の書き方はいぬいと全く同じで、外国児童文学(特に英米児童文学)を基準(彼らの言葉を借りれば、「子どもの文学はおもしろく、はっきりわかりやすく」)に照らして評価しているだけなのです。
 自分たちの主張も大事でしょうが、広介の作品にある継承すべき点をも切り捨てるような評論の書き方は、フェアではありません。
 その後、彼らはいろいろな立場で日本の児童文学界で主導的な地位を占めるわけで、現在の日本の児童文学の即物的で文学性が欠如した状態にも、彼らに責任の一端があると言わざるを得ません。

子どもと文学
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鈴木晋一「千葉省三」子どもと文学所収

2021-05-29 13:07:18 | 参考文献

 著者は、「日本の児童文学にはじめて生き生きとした子どもたちを登場させた作家」として、省三を評価しています。
 それはその通りだと思いますが、著者はその一方で、代表作の「虎ちゃんの日記」の虎ちゃんと、マーク・トウエンの「トム・ソーヤ―の冒険」のトムを比較して、そのキャラクターの違いを述べて、作品自体も「物語の筋は大きく動き回らずに消えてしまう」と批判しています。
 この批判は、国民性の違いや作品のねらいの違い(日記と冒険)を、完全に無視していると思います。
 日本の児童文学は、トム・ソーヤーやエーミール・ティッシュバイン(エーリヒ・ケストナー「エーミールと探偵たち」などの主人公)やクローディア・キンケイド(カニグズバーグ「クローディアの秘密」の主人公)のような、その国その時代の典型的な子ども像を一人も生み出せなかったとよく言われます。
 私見を述べれば、戦前は虎ちゃん、戦後は山中恒「赤毛のポチ」のカッコがそれに一番近かったかもしれません。
 著者もこの論文の最後に紹介していますが、当時の子ども読者(特に中国などの外地で育った子どもたち)は、省三が描いた日本の山河で遊ぶ虎ちゃんたちに、日本固有の「民族的」なものを感じ取っていたようです。
 著者は、省三のそれほど多くない作品を、「子どものやんちゃな姿を題材にしたもの」、「孤独な子どもをえがいたもの」、「子どもの世界以外の題材をあつかったもの」の三種類に分類しています。
 そして、それぞれ「生き生きした子どもを描くこともでき」、「ある情景をまざまざと再現することもでき」、「おもしろい筋をくりひろげることもでき」と評価しつつ、「そのすべてをあげて堂々と本格的な物語を組み立てることができませんでした」と、その限界を示しています。
 著者は、こうした優れた点を生み出せた理由として、省三の資質(賢治の時も、瀬田貞二が、この言ってみれば身もふたもないことを指摘していたのですが、残念ながら私の経験でも全くその通りだと思います)と、「あららぎ」派の歌人たちの影響による「写生」であるとしています。
 そして、省三の限界についても、その「写生」にこだわりすぎてフィクションを展開しなかったためとしています。
 「千葉省三」論という本題からはそれてしまうのですが、この論文には著者たち「子どもと文学」グループの児童文学に対する考え方とその限界が感じられる部分があり、その後の「現代児童文学」に大きな影響を与えたと思われます。
 まず冒頭の「生き生きした子どもたち」のところで、「坪田譲治の作品の中の子どもは、なまなましい現実感はあっても、児童文学としてはとりあげる必要のない側面ばかりがえがかれていました。」と批判していますが、これが「現代児童文学」にタブー(死、離婚、家出、非行などの人生あるいは人間(子どもたちも含めて)の負の部分は描かない)を生み出し、これが破られるようになったのは1970年代の終わりごろになってからでした。
 また、千葉省三が、当時の児童文学界の影響を受けて、子どもの理解や興味よりも文学性を重視するようになったことを批判して、「文学的な高さをもちながら、子どもを楽しませ喜ばせてやるものこそが、児童文学であると考える人はいなかったのです。」と述べています。
 これはまさに正論なのですが、この論文が含まれている「子どもと文学」の「はじめに」において、「子どもの文学はおもしろく、はっきりわかりやすく」というスローガンを、「世界的な児童文学の基準」として強く打ち出したために、ここで書かれている「文学的な高さ」はほとんど無視されて、安易なステレオタイプな作品(特に幼年文学において)が量産されることになります。
 「児童文学は児童と文学という二つの中心をもつ」という楕円原理を使って、児童文学を解説してくれたのは児童文学研究者の石井直人(「現代児童文学の条件」(その記事を参照してください)ですが、日本の児童文学の歴史は、そのどちらかに偏った状態を繰り返してきたと思われます。
 明治時代に近代児童文学がスタートした時には、「お伽噺」という言葉によく表れているように「児童」に偏っていました。
 これを批判する様にして生まれた「赤い鳥」や小川未明、坪田譲治などの「近代童話」は、今度は「文学」に偏ります。
 未明に、「童話」は「わが特異な詩形」と言われても、子ども読者は困ってしまいます。
 「現代児童文学」では、これらすべてを批判する形でスタートしたわけですから、本来は「児童」と「文学」の両立を目指していたのですが、やはりその時期によって偏りはあります。
 おおざっぱに私見を述べると、スタート時の1960年前後はさすがにかなり両立していましたが、すぐに幼年文学を中心に「児童」へ偏り、その反省から1970年代には再びその両立が目指されました。
 そして、「タブーの崩壊」や「児童」という概念の見直しが行われた1970年代末からは、「文学」に傾いた小説的な作品(一般文学への越境)と、「児童」(子ども読者)に傾いたエンターテインメント作品に二分化されるようになりました。
 そして現在は、「文学」的な作品はほぼ死に絶え、「児童」に対する書き手の関心も驚くほど希薄になっています。
 つまり、現在の児童文学は、「児童」と「文学」の両方の中心を失った、「現代児童文学」とは全く別のものに変質しているのです。
 さらに、著者は、この論文で、「写生」よりも「フィクションを展開」することを重視しています。
 これは、1980年代を除いては「現代児童文学」の基本原理で、安藤美紀夫も「児童文学とはアクションとダイアローグで描く文学だ」と言っていました。
 現在の児童文学作品でも、「描写」よりも「ストーリー展開」が重視されています(というよりは「ストーリー展開」と「それに必要な説明」だけといってもいいかもしれません)。
 しかし、はたして「アクションとダイアローグで描いて」、「文学的な高さ」を保っている作品があるかというと、大きな疑問があります。
 「アクションとダイアローグ」で描いて「文学的な高さ」を保つためには、そのための方法論が必要です。
 そういった意味では、「児童」と「文学」が一番両立していた1970年代前半の児童文学作品(斉藤敦夫「冒険者たち」、安藤美紀夫「でんでんむしの競馬」(その記事を参照してください)、舟崎克彦・靖子「トンカチと花将軍」、岩本敏男「赤い風船」(その記事を参照してください)、砂田弘「さらばハイウェイ」、大石真「教室205号」(その記事を参照してください)、庄野潤三「明夫と良二」、さねとうあきら「地べたっこさま」、天沢退二郎「光車よ、まわれ!」、今江祥智「ぼんぼん」など)が一番参考になるかもしれません。

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異文化としての老人と子ども

2021-05-28 15:04:04 | 考察

 コロナ・ウィルスの影響で、人々の間で分断化が進んでいます。
 それは、国家、都道府県などといった目に見える形だけでなく、世代間、知識の有無、技能の有無、経済格差などにおいても、すごいスピードで進んでいます。
 特に、人と人との直接的な繋がりが阻害されていることに関して言えば、ディジタル・リタレシーやネット・リタレシーの有無が、人々の大きな分断化をもたらしています。
 従来のLINEやInstagramやFacebookなどに加えて、Zoomなどのミーティング・ツールや、FireTVStickなどによるテレビのインターネット接続や、ミラーリングなどによるスマホとテレビの接続などをできるかどうかによって、人との繋がり方の質や頻度が大きく違ってきています。
 こうした動きに取り残されているのが、ここでも老人たちと子どもたちです。
 どちらも、知識や技能や経済的な理由で、こうした新しい人との繋がり方ができるのは、一部の人たちにとどまるでしょう。
 ましてや、老人たちと子どもたちが、こうした方法を利用して互いに繋がることは非常に困難でしょう。
 従来でも、核家族化や経済格差が進んだ現代では、老人たちと子どもたちの関係はどんどん希薄になっていました。
 ポスト・コロナ(これにははっきりとした終わりはなく、人間は少なからずコロナ・ウィルスと共存することになります)社会では、そうした状況がさらに進むことが予想されます。
 こうした社会によって、互いに疎外される存在である老人たちと子どもたちを結びつけるツールとして、児童文学はその重要性が増大することが予想されます。
 なぜなら、「子ども時代」というのは、両者にとって数少ない共有文化だからです
 その場合は、単なる一方向の関係(老人は子どもに経験を伝える。子どもはその存在で老人たちを癒すなど)ではなく、それぞれの異文化(異なる子ども時代)が互いに刺激しあって、それぞれが豊かになるような提示の仕方が重要になってくることでしょう。
 そうした交流の先駆者として頭に浮かんでくる作品は、カニグズバーグ「クローディアの秘密」やピアス「トムは真夜中の庭で」などです。

 

 

 

 



 


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鍵泥棒のメソッド

2021-05-26 16:50:16 | 映画

 ひょんなことから人生が入れ替わってしまった、自殺未遂した(失恋のため)売れない役者の男と殺し屋(実は、用意周到な計画と巧みな芝居で、殺されそうな人を逃がす「闇の便利屋」)の男、それに、何ごとも極めて計画的に推し進める雑誌編集長の女(結婚予定日を決めてから結婚相手を探しています)が、入り乱れて繰り広げるドタバタコメディです。
 堺雅人、香川照之、広末涼子といった、それぞれの役にピッタリな芸達者が熱演していて、けっこう笑えます。

 このような荒唐無稽な設定にも一定のリアリティを与えて、最後の大団円のハッピーエンドを迎えます(かなり強引ですが)。

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セントオルリーグの熱戦

2021-05-23 13:34:26 | 作品

 

「ディス イズ ア ナプル」
「ディス イズ ア ナプル!」
 奇妙に誇張された先生の声に続いて、生徒たちが大声で復唱している。
藤田タツヤも、口だけはみんなに合わせてパクパクさせていた。
 でも、本当は横目でぼんやり校庭をながめたりしていた。
 給食が終わった後の五時間目。タツヤでなくても、なかなか授業に集中できない。
おまけに、窓ぎわにあるタツヤの席には、春のひざしがたっぷりと差し込んでいるので、ポカポカとしていてつい眠くなってしまう。
 なんとか気を引きしめようと、タツヤは目をパチパチとさせていた。
 と、その時、みんなの声にまじって、別の音が聞こえてきた。
 シャー、……、シャー。
 かすかだが、はっきりと聞こえる。少し間隔をあけて、何度も繰り返されている。
 近くからだ。
 タツヤは、先生に目立たないように気をつけながら、あたりの様子をうかがった。
 どうやら、すぐ後ろの福井トオルの席からのようだった。
 タツヤは、すばやく後ろを振り向いてみた。
 トオルも、タツヤと同じように、声を出さずに口をパクパクさせているだけだった。
 しかも、その視線は、先生の方向ではなく、机の下に入れている左手にじっと注がれているようだった。
 福井トオルは、先週の月曜日にタツヤのクラスに入ってきたばかりの、転校生だった。
 と、いっても、タツヤたちだって、中学に入ってから、たった二週間しかたっていない。
 トオルが先生に紹介された時、
(変な時期に転校してくるやつもいるもんだな)
って、タツヤは思った。
 普通は新学年とか、新学期から転校してくるケースが圧倒的に多い。ましてや、小学校を卒業して、中学校に入るという大きな節目なら、なおさらのことスタートのタイミングを合わせるだろう。これでは、みんながなじみはじめたときに、途中からクラスに参加することになってしまう。
 でも、トオルは教壇であいさつしたとき、少しも臆しているようには見えなかった。
「福井トオルといいます。よろしくお願いします」
 少し笑みを浮かべながら、堂々とみんなを見回していた。
「えーっと、席は、窓ぎわの一番うしろだ」
 先生に指し示されて、タツヤの方へ歩いてきた。いつの間に準備されたのか、タツヤのうしろには新しい机といすが用意されていた。
「藤田タツヤだ。よろしく」
 トオルが席に着いた時、タツヤはうしろをふりむいて声をかけた。トオルはだまってうなずいただけだったが、さっきと同じ静かな笑顔をうかべていた。
 それからもう一週間以上になるが、タツヤは、「おはよう」や「さよなら」以外に、まだトオルと口をきいたことがなかった。それは、他のクラスメートたちも同様だろう。
 休み時間には、タツヤたち男子生徒のほとんどは、校庭でサッカーや他の遊びをやっている。
 でも、トオルだけは、誰もいない教室にいつも残っていた。

 五時間目の授業が終わった時、タツヤは思いきってトオルに声をかけてみた。
「福井。おまえ、机の下に何か隠しているだろう?」
「えっ」
 トオルは、ちょっと驚いたようだった。
 でも、やがてニヤッと笑うと、タツヤに左のこぶしを突き出してそっと開いてみせた。トオルの手のひらの上には、直径三、四センチしかない小さなルーレットが載っていた。
「おっ、ルーレットか。動くのか?」
 タツヤは、興味をそそられて体を乗り出した。
「もちろん」
 トオルは、すばやく軸をひねってみせた。ルーレットは、例のシャーッという小気味良い音をたてて勢いよく回り出した。
 トオルのルーレットは、父親に海外旅行のみやげとしてもらった物だとかで、実に精密にできていた。小さいながらずっしりとした重さを持っていて、そのせいか回転がすごくなめらかだ。
 数字は、00と0から36までの三十八通りで、ひとつおきに赤と黒に塗られていた。ひとつひとつのボールの入るマスは、きちんと等しい大きさになっているようだ。
 盤面は透明なプラスチックのふたでおおわれていて、ボールが外へ飛び出さないように工夫されていた。
 外側には銀のふちかざりがなされていて、中心に同じ色の十字架形の回転軸がついている。これをひねって盤を回すと、中に入っている直径二ミリほどの金色のボールが動き出すのである。
 ボールはすごく正しく球形に作られているらしく、各数字のマスへの入り方は、テレビなどで見る本物のルーレットそっくりにスムーズだった。
「授業中にもやってるんだろ?」
 タツヤは、受け取ったルーレットを回しながらいった。
 トオルは、また驚いたようにタツヤの顔をみつめていた。
でも、すぐに素直にうなずいた。
「何で気がついたんだよ?」
「音だよ。回すたびにシャーッて音がしてるぜ」
「地獄耳だな」
 トオルはそう言うと、またニヤッと笑った。
「でも、ひとりじゃ金をかけられないし、おもしろくないんじゃないか?」
「ルーレットのゲームそのものを、やってるんじゃないんだよ」
「えっ? じゃあ、なんだよ」
「野球だよ」
「野球?」
 そういわれても、タツヤには何のことだかわからなかった。
 トオルは、机の中から一冊のノートを取り出した。そして、パラパラとめくると、あるページを開いてタツヤに見せた。
「0:ホームラン
 1:三振
 2:セカンドゴロ
 3:……」
 0から36までと00の数字、それに、その隣にひとつずつの野球のプレーとが、小さな字できちょうめんに書かれている。
「なんだ、こりゃ?」
 タツヤには、まだピンとこなかった。
「だから、野球ゲームなんだよ」
「ふーん?」
「一打席ごとに、ルーレットで結果を決めてんだ。ほら、たとえば今は22に入っているから、ライトフライでワンアウトってわけだ」
 トオルは、ノートの22のところを指し示しながらいった。
「へーっ。そんなのおもしろいのか?」
「ああ。本当の試合だと思って、真剣にやりゃあな」
 そのとき、六時間目の社会の先生が入ってきたので、トオルとの話は中断されてしまった。

 シャー、……、シャー。
 次の授業の時間中も、ルーレットを回す例の音が、ひっきりなしにうしろからかすかに聞こえていた。
 トオルがいっていたように、タツヤの耳が特別にいいのか、他の生徒たちはその音をあまり気にしていないようだった。
 でも、タツヤだけはその音を聞くたびに、トオルのやっているゲームが気になってしょうがなかった。
(今、試合は何回まで進んだんだろう? さっき五回の表だったから、今は七回ぐらいかな)
(どんな場面なんだろう? 塁上にランナーは出ているのだろうか?)
 想像はどんどんふくらんでくる。
 タツヤにとっても、野球は一番好きなスポーツだった。小学校時代は少年野球のチームに入っていたし、すでに中学でも野球部に仮入部している。地上波ではめったにやらないけれど、テレビのプロ野球中継はBSで欠かさず見ていた。
 もちろん、ゲームも大好きだ。もっともタツヤがやっているゲームといえば、携帯ゲームか、トレーディングカードなどにかぎられていたけれど。そういえば、小さいころにクリスマスプレゼントでもらった人生ゲームなどのボードゲームをやらなくなってからだいぶたっている。
 自分で考案した野球ゲーム。こんな不思議な世界を持っているこの風変わりな転校生に、強く興味をそそられていた。
「古代エジプトでは、……」
 社会の授業は、そんなタツヤの気持ちとは無関係に淡々と進んでいく。先生は、黒板に重要なポイントを書いている。
 そんな先生の目をぬすんでは、タツヤはすばやくうしろを振り向いて、ときどきトオルの様子をうかがっていた。
 トオルは、あいかわらず机の中につっこんだ左手をながめている。そして、時々右手でルーレットをまわしているようだ。
 シャーッ。
軽快な音をたててからルーレットが止まるたびに、トオルはノートを見て結果を確認している。そして、何回かルーレットを回してから、やっと一打席の結果が出たのか、ノートにシャープペンシルで記録を書き込んでいる。
 タツヤは、ゲームの様子を知りたくてたまらなくなっていた。
 だから、
(早く授業が終わらないかなあ)
と、何度も腕時計を見てしまう。
 でも、そういったときに限って、時間は意地悪くゆっくりとたっていくのだった。

 その日の放課後、トオルは、自分の野球ゲームについて、タツヤに詳しく話してくれた。
 トオルの野球ゲームは、壮大な計画を持っていた。なにしろ、セントラルリーグの一年間の全ての試合をひとりで再現しようというのである。
 ホームランや三振の出る確率も、できるかぎり現実のセントラルリーグの記録に近づけてあった。
 そのために、さっきのノートには、アウトカウントやランナーの有無など、状況ごとに違った表のプリントが、各ページに貼られている。
「選手ごとに重みづけもしてあるんだ」
 トオルは自慢そうにいった。
「重みづけ?」
「そう。例えば、四番バッターと九番のピッチャーとでは、ヒットやホームランが出る確率を変えてあるんだ」
「ふーん」
 重みづけは、ピッチャーの三振を取る確率や、野手のエラーをする確率にも使われている。そういったものを組み合わせてプレーをしているので、打席ごとに最低四、五回はルーレットを回さないと、結果が出ないのだ。
 しかも、トオルは、一試合、一試合、ていねいに正式のスコアブックをつけながらやっている。
だから、せいぜい一日一、二試合を消化するのがやっとらしい。このペースだと、毎日やっても、一シーズンをやるのに一年以上はかかる計算になる。
 トオルは、今までに行われた試合のスコアブックを、タツヤに見せてくれた。
 すでに、各チームとも十試合ずつを終え、トータルの試合数は三十試合に達している。ひとつひとつの試合が記録されているだけでなく、現在のチームの順位や、個人の打撃成績、投手成績までが、きちんと整理されていた。
 どうやらトオルには、美術の才能があるらしい。スコアブックは、レタリングや野球選手のイラストで、きれいにかざられている。
 スコアブックの表紙には、大きく「セントオルリーグ」と書かれていた。
「セントオルリーグ? セントラルじゃないのか?」
 タツヤがたずねると、トオルは黙ってニヤニヤしているだけだった。
「あっ、そうか。自分の名前をつけたのか」
「うん」
 トオルは、少し照れながらうなずいた。
 「セントオルリーグ」のペナントレースにおける現在のトップは、東京ヤクルトスワローズだった。二位の中日に、一・五ゲーム差をつけている。
 トオルは今までのゲームのハイライトを、身振り手振りをいれてリアルに再現してくれた。
 タツヤは、そんなトオルと「セントオルリーグ」に、すっかり魅せられてしまっていた。

 その後も、トオルは勉強や他のことをすべてなげうって、「セントオルリーグ」に全力を投入していた。勉強も、部活も、クラスメートとの付き合いも、「セントオルリーグ」以外のことはいっさいやらないのだ。
 授業中は、ほとんどいつも「セントオルリーグ」をやっている。休み時間には、試合の途中経過を、唯一の観衆であるタツヤに熱心に再現してみせてくれた。
 他の生徒たちも、トオルが何か変わったことをやっているらしいことには、うすうすは気づいているようだった。
 でも、タツヤ以外には、「セントオルリーグ」に積極的に関心を示す者はいなかった。

 タツヤとトオルは、「セントオルリーグ」のために、いつも前後の席を占めるようにしていた。
 席替えに関しては、担任の青井先生は全くルーズだった。月に一回、席替えをやっているのだが、男女が並ぶことを除いては、全くのフリー。つまり、朝早く来た者から、自分の好きな席に座って決めるのである。
 毎月一回の席替えの日には、クラスの大半が七時前には登校してしまう。自分から特定の男の子や女の子のとなりに座るのは、やっぱりはずかしいからだ。
 でも、中一ともなれば、男子も女子も互いに意識し合っているので、本当は好きな子の隣に座りたいのだ。みんながそろいはじめて男女のペアができるたびに、オーオーとクラス中がどよめいた。
 女子は中学から私立へ行く子が多いので、男子の方が人数が多い。そのため、窓ぎわの一列だけは、男だけになってしまう。
 タツヤとトオルは、そこに目をつけていた。席替えの日には六時前に学校に来て、確実にその窓ぎわの列に座れるようにした。そこだと、先生から目立たないし、隣にじゃまな女の子もいなくて、「セントオルリーグ」をやるのに絶好なのだった。
 そのため、みんなからは、タツヤとトオルが女子にはまるで関心は示さずに、いつも二人一緒になりたがっているように思われてしまった。

 中間試験の最後の日だった。
「あーあ、やれやれやっと終わったか」
 タツヤは、最後の社会の答案を出し終わってから、大きくのびをした。中学に入って初めての定期試験。どうなることかと心配していたけれど、思いのほかうまくいった。
 帰りのホームルームが始まるまで、教室の中はザワザワしていた。
「タツヤ」
 後の席から、トオルが声をかけてきた。さすがに試験時間中は、シャーッというルーレットの音は後ろから聞こえてこなかった。セントオルリーグも一休みって所だろう。
「なんだい?」
 タツヤが振り返ると、
「今日、映画に行かないか?」
 トオルはそういって、ポケットから分厚い招待券の束を出してみせた。
「すげえ、どうしたんだ」
 タツヤは、うらやましそうにいった。
「おやじからもらったんだよ」
「ふーん。おまえんちのおやじさん、映画会社かなんかに勤めてるのか?」
「いや、不動産関係だけど。これは取引先からもらったんだって」
 トオルは、ちょっと早口にいった。

 タツヤは家に戻ると、自分の部屋ですばやく私服に着替えた。そして、台所に置いてあったおやつの菓子パンをほおばりながら家を出た。
玄関わきにとめてある自転車をひっぱりだす。
 そんなに急がなくても、十分ちょっとで最近オープンしたばかりの駅ビルについてしまった。待ち合わせの時間まで、まだ十五分近くもある。
駅ビルの中には、9スクリーンもあるシネコンが入っていた。たいがいの映画なら、電車で都内に出なくてもここで見ることができる。
 タツヤは近くの歩道の上に自転車をとめて、盗まれないようにチェーンの鍵でガードレールに縛り付けた。
ニュースやCMを流している電光掲示板の下で、トオルを待つことにした。ここは最近待ち合わせによく使われる場所だが、時間が早いせいかまだそんなに人だかりはしていなかった。
 少し早めに着いたので、トオルが来るまで、壁にもたれていきかう人の流れをぼんやりながめていた。そして、なんとはなしにトオルのことを考えた。
 学校以外でトオルに会うのは、これが初めてだった。
それだけじゃない。どこに住んでいるのかとか、家族の構成だとか、トオルについては何も知らなかった。
 先月転校してきたこと。勉強はそっちのけでセントオルリーグに熱中していること。知っているのはただそれだけだ。
「よお、お待たせ」
 ふいに声をかけられて、タツヤは物思いから現実世界に引き戻された。
 そばではにかんだような笑顔をみせているトオルを見て、タツヤは少し驚かされた。
 トオルは体にピチッと合った細身のジーンズをはき、はやりのパステルカラーのポロシャツをさり気なく着こなしている。天パーの髮の毛も、いつもよりきちんとなでつけていた。
 タツヤは子供っぽい自分のかっこうが急にダサク思えて、少し引け目を感じてしまった。
「じゃあ、行こうか」
 トオルにうながされて、二人は肩を並べてビルの中に入っていった。
 エスカレーターでシネコンの受け付けになっているフロアにいった。プーンと甘い香りがフロアにただよっている。キャラメルポップコーンの匂いだ。
「何か飲み物でも買っていく?」
 タツヤは先に立って、食べ物売り場の方へ歩いて行った。
「うん。そうだなあ?」
 トオルは、売り場のうしろにはられたメニューをながめている。
「ポップコーンも買おうか?」
と、タツヤがいうと、
「じゃあ、カップルセットにしよう」
 トオルがニヤッとした。
 カップルセットは飲み物のLが二つと、ポップコーンのLがついて値段が割引になっている。
「OK。でも、ポップコーンは塩味ね」
と、タツヤは答えた。
 その日の映画は、アメリカの中学生の恋愛コメディーだった。
 冒頭から、かわいい女の子とのキスシーンで始まったのでびっくりした。
 その後も、年上の女の人にセックスを迫られたり、女子更衣室をのぞき見したりと、きわどい場面がふんだんに盛り込まれている。
 タツヤもこういったことにはもちろん関心があるので、初めは興味しんしんで見ていた。
 でも、自分の中学生活とのあまりの違いに、だんだんあきてきてしまった。それに、かんじんのストーリーが、単調でつまらなかったのだ。
「ファーッ」
 おもわずあくびをして、タツヤはあわてて口をおさえた。トオルに馬鹿にされるのが、いやだったからだ。こういった映画を楽しめないガキだと思われるかもしれない。
 タツヤは、横目でそっと隣にすわっているトオルの様子をうかがってみた。
(えっ?)
 驚いたことに、トオルはぐっすりと寝込んでいる。耳をすますと、かすかに寝息までが聞こえてきた。その寝顔は、さっきまでとは違ってすごく子供っぽい。
 タツヤは、安心して自分も居眠りをすることにした。しばらくして、隣の席からは、トオルの軽いいびきが聞こえ出してきた。

 映画の帰りに、タツヤはトオルの家へ寄ることになった。トオルの家は、古いマンションの七階にあった。
 家に入った時、タツヤは奇妙な感じを受けた。
 間取りは、ありふれた2LDK。玄関わきの食堂には、ダイニングテーブルや冷蔵庫が、そして、最初に通された居間には、型通りに応接セットやテレビが置かれている。ここまでは、タツヤの家と全く同じだ。
 しかし、何かが違う。まるでモデルルームか何かのように、どこか不自然な感じがするのだ。
 タツヤの家では、ぜんぜんふんいきが違っている。家の中に、仮にその時そこにはいなくても、家族のにおいが充満しているのだ。
 それは、食堂の椅子の背に、無造作にかけてあるかあさんのエプロン。ふたがあけたままになっている妹のピアノ。そして、玄関に置きっぱなしのとうさんのゴルフバッグなんかかもしれない。
 それから、居間に置かれた去年の夏の家族旅行でのスナップ写真。タツヤが修学旅行で買ってきた日光のペナントなどでもある。
 そういったむだな物、雑然とした物が、トオルの家には全くなかったのだ。
 特に、台所は、ほとんど使ったことがないかのように整然としていた。タツヤの家なら、使いかけの調味料や洗う前の食器、それにいろいろな食べ物まで、あちこちに置かれている。
 タツヤは、思いきってトオルに聞いてみた。
「トオル。おまえんち、おかあさんいないのか?」
「いや、いるよ。ちょっと出かけているんだ」
 トオルは、あわてたように早口でいった。そして、何かを恐れるかのようにして、急いでタツヤを自分の部屋へ連れていった。
 トオルの部屋に入ってみると、そこもみょうにちぐはぐな感じだった。六畳ぐらいの大きさの洋室だったが、ベッドがない。
(床に直接ふとんをしいて、寝ているのだろうか?)
 窓ぎわには、タツヤの部屋と同じように机が置かれている。恥ずかしながらタツヤの勉強机は、アニメのキャラクターの絵がついている装備満載の『学習机』だ。
 ところが、トオルのはぜんぜん違っている。灰色で片そで、がっしりしていて飾りがいっさいない。
 そう、テレビドラマに出てくる会社に置いてあるような、古ぼけた事務机って感じなのだ。その上にはノートパソコンとプリンターが載っている。
 部屋のすみには、他とはふつりあいな新品のブルーレイレコーダーと大型有機ELテレビが置かれている。
 机の上にのっている写真立てには、トオルと大きな犬が一緒に写っている写真が入っていた。その犬は、大きなピンク色の舌を出してトオルのほっぺたをなめ、トオルはくすぐったそうに笑っている。
「でっかい犬だなあ」
 タツヤは、写真立てを手に取った。
「前の家で飼っていたグレートデンなんだ」
 トオルはそういいながら、タツヤの手から写真立てを取り返した。
「へーっ、今はどうしてるんだ?」
 タツヤは思わずそう聞いて、すぐにしまったと思った。トオルが、黙って写真立てを机の上にふせたからだ。

 玄関の方で、かぎをガチャガチャさせる音がした。トオルは、すぐに立ち上がった。
「おかあさんか?」
「ああ」
「あいさつした方がいいよな?」
 タツヤも、そういいながら立ち上がった。
「えっ。ああ、いいよ。別にしなくても」
 トオルは、ひとりで部屋を出ていった。
 すぐに部屋に戻ってきたトオルは、ブルーレイディスクに録画してあった去年の日本シリーズの試合を、タツヤに見せてくれた。有機ELテレビで見るプレーは、映像も音響も、タツヤの家のテレビよりずっと迫力があった。
 三十分ほどして、コンコンとドアがやさしくノックされた。
「トオルさん」
 外から声がすると、トオルはあわててドアの所へ飛んでいった。ドアを開けると、お寿司をのせたおぼんを持って、トオルのおかあさんが入ってきた。
「いらっしゃい」
「あっ、どうも。はじめまして、藤田タツヤっていいます」
 タツヤは、てれながらあいさつした。
 トオルのおかあさんは、びっくりするぐらいきれいな人だった。髪はきちんとセットされているし、化粧もくっきりとしている。それに、タツヤのかあさんと比べると、十才以上も若く見える。
「そこに置いてってよ」
 トオルは、少しじゃけんな声を出していた。
「はい、はい。それじゃ、ごゆっくり」
 トオルのおかあさんはお寿司を机の上に置いて、タツヤに向かってニッコリとほほえんでから、部屋を出ていった。
 タツヤは、その笑顔が今日の映画に出ていた主人公を誘惑する年上の女性とダブッて、思わずドギマギしてしまった。
 お寿司は上等だった。いや、子どもたちだけで食べるには、上等すぎていたかもしれない。
 ウニ、イクラ、トロ、アワビ、それに大きな活きエビ。
「おまえ、いつもこんなの食ってるのか?」
 タツヤは、イクラの寿司をほおばりながらいった。
「えっ、ああ」
「ふーん。おまえんち、けっこう金持ちなんだなあ」
「いや、違うよ」
 タツヤがうらやましそうにいうと、トオルはいやにはっきりと否定した。

 その後も、トオルはセントオルリーグに熱中していた。授業中に、例のシャーッというかすかな音が、うしろから聞こえなかったことはほとんどない。初めは気になったその音も、慣れてしまったのか、しだいに意識しなくなっていた。
「おい、これを見てみろよ」
 ある朝、トオルが何かがプリントアウトされている紙を、タツヤに差し出した。
「なんだよ」
 手にとってみると、どうやらパソコンで作った新聞のようだった。
 名づけて、「トオルスポーツ」。
 A4サイズ四ページ。一試合一ページずつで三試合分のっているから、それで三ページ。残りの一ページには、チームや選手の記録までがのっていた。
「広島、ヤクルトをひとのみ」
「坂本、二試合連続の四号スリーラン」
「藤波、完封で三勝目」
 各ページには、赤や青のスポーツ新聞風のはでな見出しがついていた。ここでも、カットや見出しの飾りに、トオルのイラストの腕がいかんなく発揮されている。
「すげえなあ」
 タツヤは感心して、「トオルスポーツ」を読んでいった。

 「トオルスポーツ」は、ほぼ二日に一回の割合で発行されるようになった。
 タツヤは、その新聞のたった一人の熱心な読者になった。
「こんな凝ったイラストを描くんじゃ、けっこう時間がかかるだろう」
「いや、絵を描くのは好きだからそれはなんてことないんだけど、見出しや記事を書くのがけっこう難しいんだ。なかなかいい文章が思い浮かばなくて、すごく時間がかかっちゃう」
「ふーん、そんなものかな」
「本物の新聞社では、記事はそれを書く人が何人もいて、見出しは見出しで専門の人が考えているらしいよ」
「へー、すげえなあ」
「特に、スポーツ新聞の一面の見出しは、売り上げにすごく影響するんだって」
「トオル、おまえはどうやって見出しや記事を書いているんだよ」
「スポーツ新聞を参考にしたり、インターネットのニュースを調べてたりしてるけどな」
「けっこう大変なんだな」
 学校にいる時は、試合を消化するだけでせいいっぱいなので、文章や見出しを考える暇はない。たったひとりの読者であるタツヤと自分自身のために、トオルはトオルスポーツを家で一からパソコンで作っているのに違いない。あのガランとした部屋で、たった一人で作業をしているトオルの姿が頭に浮かんできた。
どうやらトオルは、学校でも家でも、ほとんどすべての自分の時間を、セントオルリーグにささげているようだった。
 それ以来、授業中には、トオルがセントオルリーグの試合をやっている間、タツヤも授業をさぼって「トオルスポーツ」を読みふけるようになった。

 七月の始めの月曜日だった。
 その朝、タツヤが登校すると、めずらしくトオルが先に来ていなかった。いつも遅刻ギリギリのタツヤと違って、トオルは十五分前には登校している。
 始業のベルが鳴り、クラスのみんなが席についても、トオルは現れなかった。今までに、一度も遅刻も欠席もしたことがなかっただけに、タツヤはちょっと気になった。
(風邪でもひいたかな?)
 金曜日に別れた時には元気そうだったから、週末に体調を崩したのかもしれない。
 その日一日、タツヤはうしろの席からあのシャーという音が聞こえないので、何だか少し物足りない気分だった。
 けっきょく、トオルはその日は学校には来なかった。
 学校が終わると、タツヤは、
(トオルの家へお見舞いに行ってみようかな)
と思った。
 でも、一日だけの欠席でそれも大げさなように思われた。
(明日まで待ってみよう)
と、その日はそのまま自分の家に帰った。

 トオルは、翌日も登校しなかった。そして、朝のホームルームの時に、担任の青井先生がその理由を明らかにしたのだった。
「急なことですが、このクラスの福井くんが、おとうさんの仕事の都合で転校することになりました」
 突然のことに、クラスのみんなはザワザワし始めた。
 タツヤは、思わず席を立っていた。
「先生、いつからですか?」
「それが、昨日からなんだ」
 先生も、当惑した表情をしていた。
「うそーっ!」
「えーっ?」
 他の生徒たちも、びっくりしてさわいでいる。
「どこへ行ったんですか?」
 タツヤが、またたずねた。
「タツヤーっ。大事なカレシなのに、知らないのかあ?」
 誰かがやじったので、クラスの人たちはドッと笑った。
「うん。それは、先生にはちょっと……」
 青井先生は、口ごもってしまった。生徒の個人情報は漏らすことはできないのだろう。

 その日一日中、タツヤは学校中をまわって、トオルの転校の理由を聞いてまわった。
 まずクラスの情報通たちに、話を聞いてみた。
 でも、トオルがいなくなった事情を知っている者はいなかった。ただ、それを探るためのいい情報は得られた。別のクラスに、トオルと同じマンションに住んでいる生徒がいるというのだ。
 休み時間に、タツヤはその生徒の教室にいってみた。
 タツヤは、入口の所にいた男子生徒に、その生徒を呼んでもらった。
 その子は、おしゃべりそうな女子生徒だった。
「あの、福井くんのことなんだけど、……」
 タツヤがそう切り出すと、なんだかうれしそうに自分から話し出した。どうも話したくてうずうずしていたみたいなのだ。
「おとといの日曜日に、急にトラックが来て、マンションを出ていったのよ」
 女の子は、そう話を切り出した。
「福井くんのおとうさんの仕事がいきづまっちゃって、前に住んでいた家も手放したらしいよ。暴力団みたいな人たちが時々来て、部屋の前で大声で怒鳴っていたみたい」
(なんでそんなことまで知っているんだよ)
って、気がしたけれど、タツヤはだまっていた。
「福井くんの両親って、去年離婚しちゃったんだって。一緒に住んでた女の人は、おとうさんの愛人なんだってさ」
 女の子は、そんな聞いてないことまでしゃべっていた。
 タツヤには、その話のどこまでが本当で、どこからがデマなのか、はっきりしなかった。
ただ、青井先生に確認したところ、トオルの父親から、昨日、学校へ電話で連絡があり、転校届も今日になって速達で送られてきたことだけは事実のようだった。

 その日の授業が終わるとすぐに、タツヤはトオルのマンションへ行ってみた。
 エレベーターに乗って、トオルの家のある七階までまっすぐにあがった。
 家の前まで行くと、「福井」の表札はまだドアの上の壁についたままになっていた。
 タツヤは、ドアのノブに手をかけてみた。
 動く。かぎがかかっていなかったのだ。
 タツヤは、そっと中に入ってみた。
 家の中は、めちゃくちゃに散らかっている。冷蔵庫、テレビなどのめぼしいものはほとんどなくなって、ガランとしていた。
 でも、食器類や本などは、部屋のすみに残されたままになっている。よほど急いで出ていったのに違いない。
 タツヤは、トオルの部屋にも入ってみた。
 トオルと一緒に見た大型液晶テレビもブルーレイレコーダーもノートパソコンもプリンターも、もちろん今はない。例の灰色の事務机だけが、ポツンと残されていた。
 タツヤが近づいてみると、机の上に写真立てがふせたまま置かれていた。
 手にとってみると、トオルは相変わらず犬に顔をなめられてくすぐったそうに笑っている。
 タツヤは写真立てを持ったまま、部屋を出ていった。
 小便くさいらくがきだらけのエレベーターで下へ降りながら、
(タツヤはなぜあの犬との写真を置いていったのだろうか)
と、考えていた。
 古ぼけたエレベーターは、一階でガタンととまった。

 トオルが引っ越ししてから、二週間がたった。
 その日、タツヤは、トオルからの初めての手紙を受け取った。
 住所は書いてない。消印は大阪になっていた。
『やあ、タツヤ。元気か。
 おれも元気だ。こっちに着いてから、もう一週間になる。関西は、ダサイやつらばかりでつまらん。
 でも、「セントオルリーグ」では、相変わらず熱戦が続いている。ようやく各チームとも半分の七十試合ずつが終了した。いぜんとしてヤクルトがトップだ。もう興味ないかもしれないけど、「トオルスポーツ」の最新号を同封した。
 それじゃ、また。
    『セントオルリーグ』のコミッショナーにして、
    『トオルスポーツ』の敏腕記者、
                    トオルより』
 封筒には、小さく折りたたんだ「トオルスポーツ」のコピーが入っていた。
『根尾、連発。大野、巨人を二安打完封』
 相変わらず、いせいのいい文字がおどっている。
「あいつ、なんてやつなんだ。『セントオルリーグ』なんか、まだやってやがって、……。」
 タツヤは、「トオルスポーツ」をにぎりしめながら、そうつぶやいた。

       

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J.D.サリンジャー「コネチカットのグラグラカカ父さん」九つの物語所収

2021-05-22 13:57:15 | 作品論

 主人公の若い女性(裕福な男性(女中もいます)と結婚して、小さな娘もいます)と、家に尋ねてきた女子大学の寄宿舎で同室(アメリカの名門大学は寄宿制なので、そこで同室だった友人とは固いきずなで結ばれていることが多いようです)だった女性(独身で働いているようです)の、酒を飲みながらの会話によって構成されています。
 酔いが深まるにつれて、主人公は第二次世界大戦後に日本で事故死したかつての恋人(例のグラス家(詳しくは他の記事を参照してください)の四男)の想い出に浸っていきます。
 彼はユーモアのセンスに富んだ(題名のグググラカカ父さんというのは、かつて彼女がかかとを痛めた時に、彼が彼女のことを「グラグラ(かかと)うさん」と呼んだことに起因しています。英語では、ankle(かかと)とuncle(おじさん)の掛け言葉になっています)知的で魅力な人物で、今の結婚相手ではそういった点が全然満たされていないことを、彼女は告白します。
 さらに、自分の娘が空想上の恋人を持ち、さらにその空想上の恋人が主人公の恋人と同様に事故死(もちろんこれも空想上ですが)しても、すぐに次の空想上の恋人が出現したことを知って、激しく嫉妬します。
 最後に、女子大に入るころの自分に戻りたいと思っていることを、主人公は強く自覚します。
 三人の女性の外見的な描写はほとんどない(娘は強度の近視でメガネをかけているようです)のですが、心理描写は恐ろしいほど的確で、経済的には恵まれているものの精神的に満たされていない若い女性を、冷徹なまでに描き切っています。
 サリンジャー作品で唯一、ハリウッドで映画化されています。
 角川文庫の武田勝彦作成の年譜(その記事を参照してください)によると、サリンジャーは「下見したが不満足でプリントを許可しなかった」となっていますが、フレンチの「サリンジャー研究」では封切りされたことになっています。
 どちらにしろ、内容は当時の人気女優を使ったメロドラマで、脚本ではサリンジャーの原作は見るも無残に改変されているようで、その後にすべての作品の映画化(その中には、「理由なき反抗」のエリア・カザンによる「キャッチャー・イン・ザ・ライ」も含まれています)をすべて断ったのは無理もない話です。
 

 

 

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J.D.サリンジャー「ド・ドミエ=スミスの青の時代」九つの物語所収

2021-05-22 13:53:46 | 作品論

 裕福な義父(母は亡くなっていて、主人公と義父は彼女を今でも深く愛しています)と、ニューヨークの高級ホテル(リッツ)に無期限で暮らす十九歳の美術学校生が主人公です。
 美術学校の夏休みに、名前(ド・ドミエ=スミス、フランス育ちでフランス語が達者なのでフランス人を装っています)や年齢や経歴を偽って、カナダのモントリオール(ケベック州なのでフランス語圏です)にある通信制の美術学校の夏学期の講師として採用されます。
 その学校は、他には東洋人(名前は日本人っぽくないですが、少なくとも夫は日本人。当時の裕福な白人のご多分に漏れず、東洋人に対する偏見が書かれています)の夫妻だけが指導している、学校というよりは私塾という感じのスケールです。
 そこで、添削指導(たいがいは全く絵の才能がない生徒です)をしているうちに、絵の才能にあふれる尼僧の生徒に出くわし、年齢欄が空欄だったこともあって、若者らしいとんでもない妄想(彼女は十七歳の美少女で、まだ尼僧になる正式の誓いを立てておらず、直接会えば自分と恋愛関係に陥るだろう)を抱きますが、当然そんな空想は儚く破綻(彼が添削と共に送ったラブレターが修道院長の目に触れて彼女は退学し、さらには美術学校自体が正式に認可を受けていなかったので閉鎖されてしまいます)して、主人公はニューヨークに戻って元のように周囲にいる女の子たちを漁って、夏休みの残りを過ごします。
 若者特有の自意識過剰とたぐいまれな妄想力がいかんなく発揮されていて、軽薄で鼻持ちならないながらもどこか憎めない、若者の一つの典型を描き出しています。
 題名にある「青の時代」は、もちろん作品にも出てくる(主人公が友人だと吹聴しています)パブロ・ピカソにちなんでいます。

 

 

 

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J.D.サリンジャー「美しき口に、緑なりわが目は」九つの物語所収

2021-05-22 13:51:10 | 作品論

 独身で年配の弁護士の男が、後輩の若い弁護士の妻と自宅で浮気をしているところに、「妻が家へ帰ってこない」と取り乱している夫(夫は、妻がいつも他の男と浮気をしているのではと心配しています)から、相談の電話がかかってくる(夫は、先輩弁護士のことをいつも頼りにしています)という非常に皮肉なシチュエーションのお話です。
 この電話で、夫から妻の悪口(浮気、自意識過剰、わがままなど)と恋愛時代の想い出(夫は妻に詩(タイトルの「美しき口に、緑なりわが目は」はその一節です。ただし妻の目はすみれ色に近い青です)を捧げたり、妻は夫にスーツを買ってくれたりしました)を聞かされてうんざり(夫とおそらく妻の両方にです)したものの、相談しに彼の家へ来ようとする夫に、妻はもうすぐ帰ってくるから自宅で待っていろと言いくるめます。
 いったん電話が終わって何とか切り抜けたと思った(横で聞いていた妻の方はかえって盛り上がっていますが、男の方はかなりさめています)のもつかの間、夫からまた電話がかかってきます。
 妻が帰ってきたとの虚言と、それをきっかけにもう一度妻とやり直す(誘惑の多いニューヨークに住んでいるのがいけないので、郊外に一軒家を買って引っ越せばうまくいくかもしれないと思っています)ことを話し合うと言っています。
 これにとどめを刺されて、男は妻と浮気を続ける気が完全に削がれてしまいます。
 
 

 

 

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J.D.サリンジャー「下のヨットのところで」九つの物語所収

2021-05-22 13:49:01 | 作品論

 1949年に書かれたグラス家サーガ(他の記事を参照してください)の一篇です。
 ここでは、第三子で長女のブー=ブー(7人いるグラス家の兄弟姉妹の中で、一番変わった呼び名です)が主人公です。
 彼女は、海軍に勤めた後で裕福なユダヤ人と結婚しています。
 グラス家兄妹も、サリンジャー自身も、ユダヤ人の血を引き継いでいます。
 ユダヤ人の作家は多いのですが、児童文学の世界で一番有名なのは、「クローディアの秘密」などのカニグズバーグでしょう。
 「ベーグル・チームの作戦」のように、ユダヤ人の子どもたちの通過儀礼を題材にした作品もあります。 
 この作品でも、ユダヤ人に対する差別(使用人たちが、父親のことを陰で「ユダ公」と蔑称で呼んでいるのを子どもが聞いてしまいます)や、差別されている民族ゆえの家族愛の強さが描かれています。
 といっても、サリンジャーは話を深刻に描かずに、風変わりな母親(ブー=ブーのことで、自分を海軍中将だと子どもに主張しています)とこれまた風変わりな息子(四歳ぐらいですが、家を抜け出して放浪する癖(この時は湖に浮かべた父親のヨットにいました)があります)との、一風変わった、しかし、次第に心を通わせて行く過程を丹念に描いています。
 結局、子どもらしい聞き違い(カイク(ユダ公)とカイト(凧))によって、ユダヤ人の差別問題(母親が言い聞かせなくても、将来本人が嫌っというほど直面します)については上手に先送りされます。
 子どもの繊細な心の動きとそれを優しく見つめる大人、これは本来児童文学者が描かなければならない世界(ケストナーやカニグズバーグの世界にも通じるものがあります)ですが、残念ながら今の日本の児童文学の世界では優れた書き手が見当たりません(「現代児童文学」(定義などは関連する記事を参照してください)の時代には梨木香歩の「西の魔女が死んだ」や森忠明の「花をくわえてどこへ行く」などの優れた作品もありました(それらの記事を参照してください))。
 また、多数派(マジョリティ)の人々による少数派(マイノリティ)の人々に対する差別の問題も、本来は児童文学の大きなテーマだと思います。

 

 

 

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J.D.サリンジャー「エスキモーとの戦争の直前に」九つの物語所収

2021-05-22 13:45:27 | 作品論

 主人公の15歳の女の子は、同級生でテニス仲間の女の子の家に、最初の一回を除いて半分出そうとしないタクシー代を取り立てに行きます。
 家には女中もいて、テニスをしに行くのにコートまでタクシーで行くほど裕福な家の子なのですが、あまりお小遣いをもらっていないらしくて結構せこいのです(ただし、その代りに、毎回罐に入った新品のテニスボールを家から持ってきています)。
 友達がおかあさんにお金をもらいに行っている間に、主人公は二人の典型的な若い男性に出合います。
 一人はルックスも身なりも悪いし言葉遣いも悪いが率直で飾り気のない友だちの兄で、もう一人は彼の友だちでルックスも身なりもいいが恰好ばかり付けている男です。
 主人公は友だちに対して腹を立てていましたが、ラストでは気分を直してボールを持ってきてくれていることを理由に、お金を受け取ることを断ります。
 明らかに、主人公には、二人の男たちとの会話を通して、物事の本質を見極める力があることを示しています。
 そして、そうした能力が、戦争を引き起こすようなずるい大人たちの本質を見極めることにつながることを示唆しています。
 なお、タイトルは、全く意味のないこと(アメリカがエスキモーと戦争する)を示していて、第二次世界大戦へのアメリカの参戦に対する批判(年寄りの権力者たちが自分の利益のために戦争を起こして、罪のない若い人たち(当時は男性)が血を流している)が込められています。
 しかし、サリンジャーの願いもむなしく、その後のアメリカは、朝鮮戦争、ベトナム戦争、湾岸戦争、イラク戦争などの多くの戦争の当事者になり、多くの若者たちが犠牲になりました。
 第二次世界大戦では、それでも裕福な家の若者も、貧乏な家庭の若者も、表向きは等しく戦争に参加させられていました(当然、当時からズルしている権力者の子弟はいましたが)。
 しかし、次第に戦争で犠牲になるのは、貧しい家庭の若者たち(教育を受けられる機会が限られていて、軍隊に入る以外にあまり仕事もない)に限定されるようになってきています(今のアメリカの軍隊は、徴兵制ではなく志願制なので)。
 これと同じことが、日本でも近い将来起きないとは言えないのが、悔しくてなりません。

 

 

 

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J.D.サリンジャー「ある少女の思い出」角川文庫版「倒錯の森」所収

2021-05-22 13:37:19 | 作品論

 1948年、サリンジャーが29歳の時に発表された短編です。
 放蕩を重ねて大学を退学になった裕福な家庭の男性(長身痩せ型のハンサムな青年なので、ほぼサリンジャー自身の分身と思われます)が、父親の命令で彼の会社で働くのに必要な語学(ドイツ語とフランス語のようです)を習得するために、ヨーロッパへ送られます(そこでも遊んでいるのですが)。
 前半は、ウィーンに滞在中に下宿していた彼の部屋の真下に住んでいたユダヤ人(御存じのようにサリンジャー自身もユダヤ系です)の16歳の美少女と知り合った時の思い出が書かれています。
 この部分は、ア・ボーイ・ミーツ・ア・ガール的な作品のパターン(二人の関係は極めてプラトニックで淡く、彼女にいいなづけ(死語ですね)がいて失恋に終わります)を超えていないのですが、しいて言えば、お互いにセカンド・ランゲージ(主人公はドイツ語、彼女は英語)を使って意思疎通を図ろうとするおかしみにサリンジャーの才筆が感じられます。
 後半はガラリと雰囲気が変わって、第二次世界大戦を経て駐留アメリカ軍の一員として再びウィーンを訪れた主人公が、近所の人たちから彼女が収容所で虐殺されたことを聞かされ、かつて住んでいた部屋に苦労して(高級将校用の宿泊施設になっていたので、下級将校の彼は本当ならば入れません)入って、窓から下のかつて少女が立っていたバルコニーを、一瞬見下ろします(もちろん下のバルコニーには少女の姿はありません)。
 他の記事にも書いたように、1943年から1946年にかけて従軍していた(特にヨーロッパでの、有名なノルマンジー上陸作戦への参加やその後の駐留)体験は、様々な形でサリンジャーの作品に影響を与えています。

 

 

 

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J.D.サリンジャー「エズメのために ― 愛と背徳をこめて」九つの物語所収

2021-05-22 13:33:57 | 作品論

 1950年に書かれた短編で、ファンの多い作品の一つです。
 主要な部分は、ノルマンジー上陸作戦を挟んで、前半と後半に分かれています。
 前半では、イギリスで実戦前の訓練を受けているアメリカ兵の一人である主人公の青年(駆け出しの小説家=サリンジャー本人)が、ふとしたことから聖歌隊に属する貴族の血をひく13歳ぐらいの美少女エズメ(歌声も、他のメンバーより群を抜いて優れています)と知り合う場面が、まるで初恋の人と出会ったかのように描かれています。
 後半では、戦後のドイツで、戦闘を通して重度の精神疾患にかかってしまったと思われる主人公(初めは登場する兵士の中の誰が主人公かわからないような書き方がされていますが、最後には判明します)が、エズメからの手紙と腕時計(戦死した彼女の父親の遺品)を受け取って、立ち直りのきっかけが得られたことを感じさせる終わり方をしています。
 イノセンスな魂が傷ついた魂を救済するのは、サリンジャーの作品で繰り返されている重要なテーマの一つです。
 ただし、この作品でのエズメは、かなりアイドル(偶像)かミューズ(芸術の女神)のように官能的に描かれているので、それを補完するために風変わりなエズメの5歳ぐらいの弟チャールズをイノセンスな魂の象徴として登場させています。
 作品の構成はおしゃれにひねった二重構造になっていて、前述した主要な部分は、あの時にエズメと約束した「彼女だけのためのお話」を、六年後に彼女が結婚する際(主人公も結婚式に呼ばれていますが、出席できません)に、彼女へ送った手紙の形で実現させたものです。
 ですから、タイトルの「エズメのために」には、そういった意味が込められています。
 また、副題の「愛と背徳をこめて」は、あの時エズメに「背徳」の話を求められたことであるとともに、この期に及んで間接的にエズメへの愛を告白して彼女の結婚と自分の結婚(妻への不満(平凡であることがその理由なのですが、当然それはエズメとの対比も意識されています)も冒頭に書かれています)に波風を立てる背徳的行為であることも意味します。
 さらに、この話には、サリンジャー自身が、過酷な戦闘体験とそれによる精神の不安定さを乗りこえて、文学的才能を維持することへの自己確認の意味も込められています。

 

 

 

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J.D.サリンジャー「ウェストのぜんぜんない千九四一年の若い女」若者たち所収

2021-05-22 13:28:41 | 参考文献

 ここでの「ウェストのぜんぜんない若い女」というのはずん胴な女性という意味ではなく、やせっぽちの未成熟な女性のことです。
 婚約者の母親と一緒にキューバ(革命前のキューバは、アメリカにとって最寄りの海外リゾート地でした(映画「ゴッドファーザー PARTⅡ」でもその様子が描かれています))へのクルージングに来た主人公の若い女性(おそらく十代で、肉体的にだけでなく精神的にも未成熟)は、そこで出会った青年(エール大学を中退して陸軍に入る予定です)に求婚され、それをきっかけに自我に目覚めて一人の女性として成長を始め、婚約者の母にも結婚をはっきりと断ります(だからといって、求婚してきた男性と結婚したいというのではなく、子ども時代に別れを告げて大人の女性としての自分を見つめようとしているのです)。
 巧みな会話体でストーリーを展開するサリンジャーの腕前はいつものことですが、青春時代特有の不安定な女性の気持ちを、1941年という太平洋戦争直前のアメリカ全体の不安定な雰囲気(彼女のもともとのフィアンセも海軍に入隊しますし、彼女が船上で知り合った裕福な夫婦の一人息子も航空隊に入ることになっています(父親だけが知っていて母親はまだ知りません))とうまく重ね合わせて描いている点が、この作品の特に優れた点でしょう。

サリンジャー選集(2) 若者たち〈短編集1〉
クリエーター情報なし
荒地出版社
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J.D.サリンジャー「エディに会いに行けよ」若者たち所収

2021-05-22 13:26:42 | 作品論

 いろいろな男たちと浮名(不倫も含めて)を流し続けている妹(歌手か女優志望でかなりの美人のようです)を心配して忠告しに来た兄(やはり芸能界に関係しているらしい)との会話と兄妹げんかだけで構成されています。
 直接は関係ないのですが、サリンジャーがグラス家年代記の作品群に登場する有名な七人兄妹(シーモア、バディー、ブーブー、ウォルト、ウェイカー、ズーイ、フラニー)で描いた兄妹の絆の原型がここにあります。
 また、アメリカの戦後の繁栄期(黄金の五十年代と言われています)の典型的な中流家庭(といっても女中がいます)の子弟の暮らしぶりも描かれています。
 そういえば、サリンジャーの代表作の「キャッチャー・イン・ザ・ライ」(その記事を参照してください)を模倣したと言われる庄司薫の「赤ずきんちゃん気をつけて」の主人公の家にも女中がいますので、高度成長期前の日本の中流家庭でも同様だったようです(高度成長期に賃金が急上昇し、中流家庭からは女中は姿を消しました)。

サリンジャー選集(2) 若者たち〈短編集1〉
クリエーター情報なし
荒地出版社
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J.D.サリンジャー「ぼくはいかれている」若者たち所収

2021-05-22 13:24:48 | 参考文献

 ホールデン・コールフィールド(「キャッチャー・イン・ザ・ライ」(その記事を参照してください)の主人公)が、初めてサリンジャーの短編に登場した記念碑的な作品です。
 実際、「キャッチャー・イン・ザ・ライ」の第1章(成績不振で退学になった高校に一人で別れを告げるシーン)、第2章(彼に落第点を付けた歴史担当の老先生を訪ねるシーン)、第21章(家への帰着と妹との再会のシーン)、第22章(妹との会話のシーン)の下書きと言える内容です。
 「キャッチャー・イン・ザ・ライ」は全部で26章から構成されているのですが、「アイデンティティの喪失で学校から去り」、「妹との会話からそれを回復するきっかけをつかむ」というのがごく大ざっぱな流れなので、この短編はその始まりと終わりに関するアイデアが浮かんだ段階なのでしょう。
 この短編が発表されてから、「キャッチャー・イン・ザ・ライ」が出版されるまでの6年の間に、ストーリーは肉付けされ、再構成され、洗練されていきました。
 作者は、この「キャッチャー・イン・ザ・ライ」第22章で、ホールデンに、自分がなりたいものについて、妹のフィービーに向かってこう語らせています。
 以下は野崎孝の訳によります。
「とにかくね。僕にはね、広いライ麦の畑やなんかがあってさ、そこで小さな子供たちが、みんなでなんかのゲームをしているところが目に見えてくるんだよ。何千っていう子供たちがいるんだ。そしてあたりには誰もいない - 誰もって大人はだよ - 僕のほかにはね。で、僕はあぶない崖の縁に立っているんだ。僕のやる仕事はね、誰でも崖から転がり落ちそうになったら、その子をつかまえることなんだ。 - つまり子供たちは走ってるときにどこを通ってるなんて見やしないだろう。そんなときに僕は、どっからか、さっととび出して来て、その子をつかまえてやらなきゃならないんだ。一日じゅう、それだけをやればいいんだな。ライ麦畑のつかまえ役、そういったものに僕はなりたいんだよ」
 この短編には、まだここの部分はありません。
 このセリフをつかまえるために、6年をかけてストーリーを肉付けし再構成し洗練させたと言ってもいいかもしれません。
 そして、「キャッチャー・イン・ザ・ライ」の記事にも書きましたが、私自身がなりたいものも「ライ麦畑のつかまえ役」のようなものだったのです。
 今回、この短編を読み直してみて、ホールデンが別れを告げにいく老先生が60代(「キャッチャー・イン・ザ・ライ」では70代)と書かれているのを読んで、ある感慨を持たざるを得ませんでした。
 初めてこのシーンを読んだときは、私はホールデンに近い年齢でしたので、完全にホールデンに同化して読んでいました。
 今回は、私自身はもう老先生に近い年齢になっているのにもかかわらず、どうしてもホールデンと同化しようとしている(かなり無理がありますが)自分に気づいてしまったのです。
 それは、今でも自分がなりたいものが(もう残された時間はあまりありませんが)、「ライ麦畑のつかまえ役」のようなものだからなのかもしれません。

サリンジャー選集(2) 若者たち〈短編集1〉
クリエーター情報なし
荒地出版社
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