現代児童文学

国内外の現代児童文学史や現代児童文学論についての考察や論文及び作品論や創作や参考文献を、できれば毎日記載します。

ジグソーパズル

2020-10-29 16:15:40 | 作品

 梅雨の合間の良く晴れた日だった。ぼくは、学校の帰りに一人で横山公園のそばを通っていた。
 中からは歓声が聞こえてくる。公園では、いつものように幼稚園ぐらいの子たちがたくさん遊んでいた。
 公園の中心には、すべり台やジャングルジムやトンネルなどを組み合わせたような複合遊具がある。そこに大勢の子どもたちが群がっていた。
 複合遊具のそばで、大声で泣いている小さな男の子がいる。
(ぜんぜん変わらないな)
と、ぼくは思った。
 ぼくも幼稚園や小学校の低学年のころには、いつもここで遊んでいた。そして、あの子のように泣いたり笑ったりしていた。そのころも、この公園は、子どもたちのかっこうの遊び場だった。
 もっと早い時間には、幼稚園や小学校の子たちばかりでなく、バギーに乗せられてやってきた、もっと小さな子たちもたくさん来ていた。公園の周囲にあるベンチでは、そばにバギーを並べて、若いおかあさんたちが大勢おしゃべりをしていた。子どもたちだけでなく、おかあさんたちにとっても、この公園はちょっとした社交場なのだ。
 ぼくは足を止めて、公園の外からしばらく子どもたちが遊んでいるのを見ていた。そうすると、小さかったころのことが思い出されて、頭のすみがジーンとしびれてくるような感じがした。
 ぼくは、幼稚園のころの自分を思い出していた。

 その日も、ぼくはおかあさんに横山公園に連れてきてもらっていた。二つ年上のにいちゃんも一緒だ。ぼくは幼稚園に入ったころで、にいちゃんは小学一年生になったばかりだった。
 公園の複合遊具は、その時も大勢の子どもたちで混み合っていた。
 いつの間にか、ぼくはにいちゃんとはぐれてしまっていた。
 ぼくは、複合遊具の頂上からまわりを見渡した。
 でも、にいちゃんの姿は見えない。おかあさんは、遠くでママ友たちとおしゃべりしている。
しかたないので、ぼくはすべり台で下りていった。このすべり台は、いつも気持ちの良いスピードが出る。
「おい、どけよ」
 すべり台をすべり終わってその場にそのまま立っていたら、後ろからすべってきた男の子にどなられた。
 振り返ると、その子はぼくよりだいぶ大きかった。
「どけったら」
 その子は、いきなりぼくを力いっぱい突き飛ばした。ぼくはあおむけに倒れて、ゴンと後頭部を地面にうちつけた。
 ぼくは、驚いたのと痛かったのとで、大きな声をあげて泣き出してしまった。ぼくを押し倒した子は、ニヤニヤしながら見下ろしている。ぼくにはその子が、テレビの変身ヒーローシリーズに出てくる恐ろしい怪人のように思えた。
 と、その時だ。
「よっちゃん、どうした?」
 離れていたところにいたはずのにいちゃんが、いつのまにかぼくのそばにきていた、ぼくの泣き声を聞きつけてとんできてくれたのかもしれない。
「なんだ。てめえは」
 ぼくを泣かした子は、今度はにいちゃんにパンチしようとした。
 でも、にいちゃんはすばやく相手のパンチをかわすと、思いっきり両手で相手を突き飛ばした。
 今度は、その子が地面に後ろ向けに倒れて、後頭部を打ちつけた。
「キーック!」
 にいちゃんは、さらにその子にとどめをさしている。
 その子は大声で泣き出すと、あっさりと逃げ出していった。にいちゃんは、あっという間に、いじめっ子をやっつけてくれたのだ。
「よっちゃん、もう大丈夫だよ」
 にいちゃんは、ぼくの頭をやさしくなぜてくれた。
 ようやくぼくが泣きやむと、にいちゃんは二カッと笑った。ぼくも、もう安心しきってニコッと笑い返した。
 そう。小学一年生のにいちゃんは、そのころのぼくにとっては、いつでもピンチになると助けにきてくれるスーパーヒーローのような存在だったのだ。

 それから何年かたって、ぼくも小学校にあがった。
 にいちゃんと一緒に学校へ通うようになると、ぼくにも少しは現実がわかるようになってきた。上級生の他の男の子たちと比べて、にいちゃんがけっして飛びぬけてすぐれた存在ではないことに気がついてしまったのだ。
 いや客観的に見れば、むしろごく平凡な男の子に過ぎなかったのかもしれない。
 にいちゃんは引っ込み思案なのか、授業中もそれ以外でも、積極的にみんなを引っ張っていくタイプではなかった。
 授業参観にいったおとうさんの話によると、先生がみんなに質問した時、にいちゃんも手を挙げているのだけれど、机の上から数センチのごく低空飛行だったので、先生がぜんぜん気付いてくれなかったのだそうだ。
「わかっているんだから、もっと高く手を挙げればいいのに」
 おとうさんがそう言っても、にいちゃんは恥ずかしそうに笑っているだけだった。
 それでも、相変わらず、ぼくはそんなにいちゃんを尊敬していた。
 そのころは、四畳半の部屋に二段ベッドとそれぞれの勉強机を持ち込んだ相部屋だったので、ぼくとにいちゃんはいつも一緒だった。
 にいちゃんは、おかあさんに言われなくてもいつもこつこつと勉強していて、算数でも国語でも、ぼくがわからないことはなんでも教えてくれた。
 いつかおかあさんがそっと見せてくれたにいちゃんの通信簿は、どの科目もすごくいい成績だったので、ぼくはびっくりしたことがあった。もしかすると、おかあさんはそれを見せれば、平凡な成績のぼくが少しは発奮するんじゃないかと思ったのかもしれない。
 一緒に入っていた少年野球チームでもそうだった。
 小柄で不器用なにいちゃんは、チームではずっと補欠だったけれど、みんなが帰った後もいつも一人だけ居残り練習をしていた。
 そんなにいちゃんを監督やコーチたちも見捨てられなかったのか、いつでも誰かがつきっきりで教えてくれていた。
 そして、五年の秋に新チームになった時、にいちゃんはライパチ(守備はライトで打順は八番の、最後のレギュラーポジション)ながら、監督言うところの史上最強世代のチームのレギュラーポジションを見事に獲得していた。
 そう、その時も、まだにいちゃんはぼくの誇りだったのだ。

 ガチャン。
「ただいま」
 玄関のドアを開けて、ぼくはいつものように小さくつぶやいた。
 といっても、誰かの返事を期待しているわけではない。とうさんは会社だし、かあさんもこの時間にはまだパートから帰ってきていないからだ。いってみれば、「ただいま」と言ったのは、帰宅の時のたんなる習慣のようなものかもしれない。
 と、その時だ。左手の部屋から、
「おかえり」
と、小さな声が聞こえた。
(にいちゃんだ)
 にいちゃんが、返事をしてくれたのだ。
 ぼくは、急いで靴を脱いで家に上がると、
「にいちゃん、ただいまあ」
と、大きな声でもう一度言った。
「……」
 ぼくはにいちゃんの部屋のドアをじっとながめたが、それっきりにいちゃんから返事はなかった。
 でも、確かにさっきの声はにいちゃんだった。ぼくがにいちゃんの声を聞いたのは、数か月ぶりのことかもしれない。
(にいちゃんが返事をしてくれた)
 それだけでも、ぼくにはすごくうれしいことだった。

 にいちゃんは、今年、中学二年生になった。
 でも、中学に入ってから学校を休みがちになってしまっていた。
 初めのころは、家にいる時はすごく元気で普通に生活していた。それなのに、学校だけは休んでしまうのだ。
 朝、学校に行こうとすると、にいちゃんはおなかが痛くなったり吐き気がしたりして、家を出られなくなってしまった。
 そういった症状が出るのは、最初は月曜日だけだった。火曜日以降は、そのままずっと学校へ通うことができた
 それが、だんだん休む日が、火曜日まで、水曜日までと増えていって、そのうちにまったく学校に行かれなくなってしまった。
 詳しい理由は、ぼくにはわからない。
 いろいろな小学校から来た生徒たちがいる中学校に、なじめなかったからだとも言われていた。確かににいちゃんは人見知りで引っ込み思案だったので、新しい環境に適応するのが難しかったのかもしれない。
 誰かに『いじめられた』という噂もあった。このことでは、学校でも調査をしたようだが、真相はうやむやのままだった。
 おとうさんやおかあさんは、なんとかにいちゃんがまた学校へ行かれるようにと、いろいろなことをやっていた。
 学校の先生にも協力をお願いした。先生たちはかわるがわる家庭訪問をしてくれたり、クラスメイトたちからの手紙を届けたりもしてくれた。
 でも、それらは、まったく効果がなかった。
 その後も、両親は、教育委員会に相談したり、専門のカウンセラーの所へにいちゃんを連れていったりもした。
 それでも、にいちゃんは依然として学校へ通えなかった。
 最近は、おとうさんもおかあさんも、にいちゃんを無理に学校へ行かせることはあきらめていた。
 これには、
「しばらくあまり干渉しないように」
との、専門家のアドバイスも影響していたのかもしれない。

OK3-2.引きこもり
 にいちゃんが完全に学校へ行かなくなってしまってから、もう一年以上になる。それ以来、にいちゃんは、玄関脇の自分の部屋にこもりっきりになってしまった。
 にいちゃんの部屋は、一階の北東の角の四畳半だ。もともとは、おとうさんの書斎だった部屋で、一方の壁はすべて天井までが作りつけの本棚になっていて、読書好きのおとうさんの本がぎっしりと詰まっている。本棚を隔てて反対側にある南東向きのぼくの部屋とは対照的に、昼でも薄暗い日当たりの悪い部屋だった。しかも、本棚の分だけぼくの部屋よりも狭い。
 でも、居間からふすまを開け閉めして出入りするぼくの部屋とは違って、玄関から直接行ける独立した部屋だった。それに、ぼくの部屋のような和室ではなく、鍵のかかるドアがついたフローリングの洋室だ。
 にいちゃんが中学に上がる時に、ぼくたちは、それまでの二段ベッドで同じ部屋を使うのを卒業して、個室を持つことになった。それと同時に、とうさんは自分の書斎を失ったわけだ。
 今までの子ども部屋と書斎のどちらかを自分の部屋に選ぶ時、優先権はにいちゃんにあった。にいちゃんが中学生になってもっと勉強が忙しくなるだろうということが、それぞれの個室を持つという部屋替えの理由だったからだ。
 にいちゃんは、居間から独立していることと鍵がかけられることが気にいって、自分からその北東の部屋を選んだ。
 ぼくは、にいちゃんほど独立した部屋が欲しいわけではなかったので、日当たりが良く少し広い今の部屋に満足していた。まあ、お互いに納得できる部屋選びだったというわけだった。
 にいちゃんは、二段ベッドの上の段を解体してできた自分のベッドと勉強机を、おとうさんやぼくに手伝ってもらって、新しい自分の部屋に持ち込んだ。
 おとうさんも、パソコンデスクやチェアを部屋の外に出した。さらに、自分の蔵書の一部を他の部屋に移して、作り付けの本棚ににいちゃんのスペースを作ってあげた。にいちゃんは、自分のコミックスやライトノベルをズラリとそこに並べた。
 学校に行かなくなってからは、にいちゃんは一日中自分の部屋にこもっている。
 にいちゃんは、自分の部屋に厳重に鍵をかけていた。ドアの鍵だけでなく、ドアの取っ手にチェーンをからませて、南京錠までかけている。
 前に、おかあさんが合鍵を使って入ろうとした時、チェーンが邪魔して入れないことがあった。
「にいちゃん、中に入れて」
「いやだよ。向こうに行ってよ」
「チェーンをはずして」
「だめ。絶対入らないで」
 二人が大騒ぎをしているので、おとうさんやぼくも集まってきた。
 けっきょくにいちゃんは部屋に人が入るのを最後まで拒んで、それ以来家族の誰にもほとんど姿を見せなくなった。そのころまでは、にいちゃんはまだ時々部屋を出ていることもあったのだ。それが、今ではもうぜんぜん出てこない。
 朝昼晩の食事は、おかあさんがおぼんにのせてドアの外に運んでいる。にいちゃんは、誰もいない時を見はからって、それらを部屋に運び入れて一人で食べていた。食べ終わった食器は、またひっそりとドアの外に置かれている。
 お風呂には、みんなが寝静まった夜中にあたりを見計らって、時々は入っているようだった。
 トイレはにいちゃんの部屋を出てすぐの所にあったので、不自由はしていないようだった。
 インターネットとテレビの長いケーブルを部屋の中に引き込んで、オンラインゲームをやったりテレビを見たりして、にいちゃんは長い一日をすごしていた。
 特に、ネットゲームにははまっていて夜中にやっているので、にいちゃんは昼夜逆転した生活をしている。学校の友だちとは付き合わなくなったが、ネットゲーム仲間とはインターネットのチャットなどで交流しているようだった。夜中に起きているので、ぼくが学校に行っている間は眠っていることが多かった。

 ぼくは自分の部屋へ行くと、ランドセルを勉強机の横のフックに引っかけてつるした。
 今日は天気がいいので、ぼくの部屋には、初夏の太陽の光が窓越しにふりそそいでいる。ぼくは、いつものように公園に行って、みんなとドッジボールかサッカーでもやろうかなと考えていた。
 その時、ぼくは、ハッとした。
(そうだ!)
 にいちゃんはもう長いこと、そうやって陽の光の中で遊んでいないのだ。いや、それどころか、外に出たことすらない。
 最後に、にいちゃんが外へ出たのはいつのことだろう。
(うーん?)
 なかなか思い出せなかった。
 ぼくが五年生の時のはずだ。
(そうだ。郡大会だ)
 そのころのぼくは、六年生たちに交じって、少年野球チームのレギュラーを務めていた。
 県大会出場のかかった大事な試合の日も、今日のようにいい天気だった。
 まだ完全な引きこもりにはなっていなかったにいちゃんは、おとうさんやおかあさんと一緒に、ぼくを応援に来てくれたのだ。そして、スポーツドリンクの2リットルのペットボトルを、おこづかいでチームに差し入れてくれた。
「石川先輩、ありがとうございます!」
 チームのみんなが声をそろえてお礼を言うと、にいちゃんは照れたように笑っていた。
 あれから、もう一年以上がたっている。
 こんな天気のいい日にも、にいちゃんが薄暗い自分の部屋の中でじっとしているかと思うと、ぼくはたまらない気持ちになった。ぼくの部屋の光を、少しでもにいちゃんの部屋に分けてやりたかった。
 ぼくは椅子から立ち上がって、にいちゃんの部屋に向かった
 トントン。
 ぼくは、にいちゃんの部屋のドアをノックして、声をかけた。
「にいちゃん」
「……」
 返事がない。
「にいちゃん」
 もう一度、少し大きな声で声をかけた。
 やっぱり返事はなかったけれど、部屋の中でにいちゃんが動く気配がした。
 カチャ、カチャン。
 鍵をはずす音がした。
 ゆっくりと内側にドアが開いて、にいちゃんが顔をのぞかせた。
 にいちゃんのあごのあたりには、ポヨポヨと無精ひげのようなものが生えている。しばらく見ないうちに、にいちゃんはだいぶ太ったみたいだった。やはり、部屋にこもりっきりなので、運動不足なのだろう。
 にいちゃんがドアを大きく開けてくれたので、ぼくは部屋の中に入っていった。
 にいちゃんの部屋は、ただでさえ日当たりが悪いのに、東側と北側の窓に遮光カーテンがピッチリと閉められている。外からの光は、まったく差し込まないようになっていた。
 でも、天井の電灯も、勉強机の蛍光灯もつけられているので、部屋の中は思ったよりも明るかった。
 にいちゃんが勉強机の椅子にすわったので、ぼくはベッドに腰を下した。
 部屋の中は、意外にきちんとかたづいている。長い間、かあさんも部屋に入れなかったので、もっと乱雑に散らかっている部屋を、ぼくは想像していた。
 ベッドの脇の作りつけの本棚には、いつの間にかおとうさんの本の前に二重に置かれる形で、コミックスやライトノベルの文庫本がぎっしりとおさまっていた。部屋が狭いので、ノートパソコンとテレビは東側の出窓の上に置かれていた。

 にいちゃんは、勉強机の上でジグソーパズルをやっているところだったようだ。
 ぼくにクルリと背中を向けると、にいちゃんはジグソーパズル作りを再開した。
「そのジグソーパズルは、どこで買ったの?」
 ぼくがたずねると、
「アマゾン」
 にいちゃんは、振り返りもしないでボソッと答えた。
 ぼくはベッドから立ち上がると、後ろから覗き込んだ。
 にいちゃんのジグソーパズルは、もうほとんど完成していた。図柄は、なぜかぼくが好きなアニメのキャラクターだった。
 にいちゃんは、背中を丸めて一心にジグソーパズルを作っていた。
 ジグソーパズルは、いよいよ完成間近だ。最後の追い込みにかかっているところなので、にいちゃんは素早く手を動かして、ピースをどんどんはめ込んでいった。ぼくは、そんなにいちゃんを後ろから見つめていた。
 にいちゃんは、とうとう最後のピースをはめ込んだ。
「フー。やっと完成したぞ」
 にいちゃんは満足そうに大きく息を吐くと、ぼくにかすかに笑顔を見せた。そして、ピースがはずれないように、ジグソーパズル用の台紙に接着剤で貼り付けた。
 そんなにいちゃんを、ぼくがもう一度ベッドに腰を下ろして見ていると、
「これ、お前の好きなキャラだろ。やるよ」
 にいちゃんはぶっきらぼうに言いながら、ぼくにむかってジグソーパズルを差し出した。
「えっ、どうしてぼくにくれるの?」
 ぼくがそう言うと、
「だって、今日はお前の誕生日だろ」
 にいちゃんは、少し照れくさそうに答えた。
(そうだ!)
 たしかに今日は、ぼくの十二回目の誕生日だった。
 おとうさんはプレゼントを用意してくれているはずだし、おかあさんはパートの帰りに予約しておいたケーキを取ってきてくれることになっている。
 でも、その小さなお祝いにも、にいちゃんは参加しない。そんなにいちゃんから、まさか誕生プレゼントをもらえるとは、ぼくは思ってもみなかった。にいちゃんは、ぼくの誕生日を忘れずにいてくれたのだ。
「にいちゃん、ありがとう」
 ぼくがお礼をいうと、
「……」
 にいちゃんは黙っていたけれど、目を細くしてやさしそうに笑っていた。その笑顔は、あの公園でぼくを助けてくれた時と同じようだった。
 にいちゃんの笑顔を見るのは、本当に久しぶりだった。にいちゃんが部屋に引きこもるようになってからは、初めてかもしれない。
「にいちゃん、今日、おかあさんがケーキを買ってきてくれるんだけど、一緒に食べない?」
 そう誘ってみたけれど、にいちゃんは黙って首を横に振るだけだった。
「じゃあ、おかあさんににいちゃんの分を届けてもらうから」
 ぼくがそう言うと、にいちゃんは今度はニコッと笑った。
 ぼくは、ジグソーパズルを持ってにいちゃんの部屋を出ると、自分の部屋に戻った。
 勉強机の前の本棚には、少年野球の優秀選手賞の盾や郡大会の優勝メダルなどがたくさん並んでいる。
 ぼくはそれらをみんなはじによせると、一番いい場所ににいちゃんのジグソーパズルを飾った。
 あらためてその絵柄を眺めてみた。
 アニメのスーパーヒーローは、ぼくたちを励ますように笑顔を浮かべている。
 どんな盾やメダルよりも、そしておとうさんからのプレゼントよりも、このにいちゃんのジグソーパズルが、ぼくにとっては一番の宝物のように思えていた。

 

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ボブ・グリーン「アメリカン・ビート1」

2020-10-28 16:07:57 | 参考文献

 アメリカの名コラムニスト、ボブ・グリーンの、70年代半ばから80年代初めにかけて新聞や雑誌に書かれたコラムを集めた同名の本の中から、訳者が34編を選んで翻訳した本です。

 作者が三十代の初めから終わりにかけて書かれた文章なので、時を追うごとにだんだん洗練されていきますが、その分のマンネリ感は否めません。

 また、年齢を重ねるに連れて、アメリカ中西部人らしい作者本来の保守的な部分が顕著になって来るので、好みが別れるかもしれません。

 個人的に好きなのは無名のアメリカ人たちにスポットライトを当てた「教育の現場」や「あるバスの運転手」などで、有名人にインタビューしたものや策を労したものなどは、あまり感心しませんでした。

 

 

 

 

 

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ロード・オブ・ザ・リング/王の帰還

2020-10-21 10:03:37 | 映画

 2003年公開の、トールキンの指輪物語実写版映画三部作の完結編です(他の作品については、それらの記事を参照してください)。

 ここでは、フロドがサムの助けを借りて、指輪を滅びの山で廃棄するまでの冒険を中心に、人間(魔法使いやエルフやドワーフやホビットや幽霊もいますが)と冥王サウロンの軍勢との最後の戦いを中心に描かれています。

 最終的には、指輪が廃棄されることによってサウロンは力を失い、ふたたび平和が訪れる大団円です。

 トールキンがこの作品に込めた世界観(剣と魔法の世界)も、メッセージ(平和をもたらしたのは魔法使いでも、人間でも、エルフでもなく、一番平凡な存在であるホビット(人間界で言えば、一般大衆の象徴でしょう)であること)も、存分に描かれていて、長年の原作の愛読者としては深い満足を得ました。

 さらに、児童文学者の立場で言えば、ホビットは子どもの象徴で、世界にとってかけがえのない存在であることを表しているとも言えると思います。

 この映画に対する欧米での評価も高く、アカデミー賞では史上最多タイの11部門にノミネートされて、すべて受賞しました。

 今回は、劇場公開版より長いエクステンド版(251分、三部作を合計すると11時間以上)で観たので、一層トールキンの世界を満喫できました。

 非常に長い物語で、登場人物も多いし、エピソードも複雑に絡み合っているので、原作を読んでいない人にはこんがらがるところも多いと思われます。

 そんな人たちには、この機会にトールキンの原作も読むことをおすすめします。

 長大な作品なので読みこなすのは大変ですが、他では得られない貴重な読書体験を味わうことができることをお約束します。

 

 

 

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ロード・オブ・ザ・リング/二つの塔

2020-10-21 09:32:30 | 映画

 2002年公開の大長編映画「ロード・オブ・ザ・リング」の第二部です(第一部については、その記事を参照してください)。

 この部分では、ホビットのフロドとサム(それに道案内として指輪の虜になって怪物になってしまったゴラン)のモルドールへの旅と、ウルク・ハイに拐われたメリーとピピンの脱出と森の精エント族による白の魔法使いサルマンへの攻撃と、人間とエルフの連合軍とウルク・ハイの戦いを中心に描かれています。

 私の一番の関心は、森の精エント族(木の形をしています)がどのように描かれているかだったのですが、CGによってほぼ理想的な形で表現されていて感動しました。

 また、戦闘シーンも非常に迫力があって、観客を魅了したようです。

 前にも述べましたように、今回は223分の拡張版で見ました(劇場版は179分)ので、より原作に忠実に描かれていて満足しました。

 

 

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佐藤宗子・宮川健郎・石井直人「‘80年代を折り返す」日本児童文学1986年7月号所収

2020-10-19 14:54:13 | 参考文献

 当時の若手(三十歳前後)の評論家たちによる座談会です。
 1980年代前半の作品をたくさんあげて、その動向を振り返っています。
 最初に、キーワードとして理想主義をあげて、そのポジ(ハッピーエンドも含めてオーソドックスな現代児童文学の書き方をしている作品)とネガ(暗い状況が一見そのまま投げ出されるように書かれているが、その中に子どもたちの未来が信じられているような作品)に分けて論じています。
 ネガ的な作品としては、那須正幹「六年目のクラス会」(その記事を参照してください)、川島誠「電話がなっている」(その記事を参照してください)、森忠明「少年時代の画集」(その記事を参照してください)などが取り上げられて、紙数を割いて細かく解説しておおむね好意的に評しています。
 ポジ的な作品としては、後藤竜二「のんびり転校生事件」、加藤太一「草原」、角野栄子「魔女の宅急便」などについて書かれて、それぞれの評価点には触れながらも旧来的な成長物語の書き方には否定的な見解が示されています。
 従来主流だったポジ的な作品に対して、こうした新しい作品群(那須正幹「ぼくらは海へ」(その記事を参照してください)がエポックメーキング的な作品であったことはここでも触れられています)が魅力的(特に彼らのような当時の若い世代の人たちにとっては)だったことは理解できる(彼らとほとんど同世代の私も川島作品を除いては他の記事において好意的に評価しています)のですが、こういった作品群が生み出されてきた社会的背景(特に子どもたちの変化)についての考察や書き手がなぜこのように描いたかの視点が欠落しているので、単なる感想にすぎなくなっています。
 次に、当時注目されていた柄谷行人やアリエスなどの「子ども論」や外国の注目作品の話が出てきます。
 彼らがよく勉強しているのはわかるのですが、80年代の作品との関連や今後の日本の創作児童文学にどのような影響を与えるかなどの分析がないので、まったく意味がありません。
 こういった話を、一般の書き手たちにもわかるようにかみ砕かずに、そのまま「日本児童文学」誌上に載せるので、「評論は難しい」と書き手たちにそっぽを向かれて、「書き手は書き手」、「評論家は評論家」と別々に活動する現在の状況が作られていったのでしょう。
 次に、作品の手法上の特長として、短編集(特に連作短編集)(例えば、泉啓子「風の音をきかせてよ」、最上一平「銀のうさぎ」、村中李衣「かむさはむにだ」「小さいベッド」(その記事を参照してください)など)と、大長編(飯田栄彦「昔、そこに森があった」(その記事を参照してください)、上野瞭「さらば、おやじどの」など)が出てきたことを指摘していますが、書き手たちがなぜその手法を採用したかの内的必然性に迫る考察がないので物足りませんでした。
 最後に、薫くみこ「十二歳」シリーズや「おまかせ探偵」シリーズ、みずしま志穂「ほうれんそうマン」シリーズ、角野栄子「小さなおばけ」シリーズなどにも触れますが、「従来の批評の方法では扱えない」、「エンターテインメント作品の批評方法が必要」というにとどまっています。
 全体的に、個人的な感想を述べ合っている部分が多く、あまり分析的ではありません。
 そして、どこか他人事(彼らはもっと広範な分野な児童文学の研究者でもあります)のような印象を受けて、かつての評論家たち(古田足日、鳥越信、上野瞭など)のように新しい児童文学を切り開いていこうという熱意があまり感じられませんでした。
 時代が違うと言えばそれまでですが、ちょうどこの時期、この座談会でも取り上げられた新しい書き手たちと交流があったのですが、彼らの方がまだ新しい児童文学を書いていこうという熱意が感じられました。

日本児童文学 2017年 08 月号 [雑誌]
クリエーター情報なし
小峰書店
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スパイダーマン

2020-10-15 16:11:14 | 映画

 2002年公開のアメコミを原作としたスーパーヒーロー物の映画です。

 当時としては画期的なCGの採用によって大ヒットし、今まで実写版が不可能だと思われたスーパーヒーローたちが次々に映画化されるきっかけを作りました。

 普段はさえない高校生だが実は超人的な能力を持っている主人公、マッドサイエンティストといったお約束のキャラクターたちが、画面狭しと大暴れします。

 主人公の正体を知らない憧れの女性とのなかなか実らない恋愛と、スーパーヒーローとしての活躍のギャップがこの作品の味噌ですが、あまりにもかたくなな主人公の態度がラストまで続いてイライラさせられます。

 この関係は、続編では更にエスカレートして、作品評価の上でも、興行的にも尻すぼみに終りました。

 

 

 

 

 

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フレンチ・コネクション

2020-10-13 07:54:41 | 映画

 フランス経由の麻薬密売事件を元にした、1971年のアメリカ映画です。
 アカデミー賞で、作品賞、監督賞(ウィリアム・フリードキン)、主演男優賞(ジーン・ハックマン)などの主要五部門を独占しました。
 ジーン・ハックマン演じる粗暴でタフな刑事と、ロイ・シャイダーのクールで冷静な相棒の絶妙のコンビを中心に、それまで描かれることのなかったリアルな刑事たちの姿(特に、犯罪者たちが高級フランス料理店でワインやご馳走を楽しむ姿を、極寒のニューヨークで紙コップのまずいコーヒーと冷えたピザを頬張りながら、見張るシーンが有名です)や、息もつかせぬ追跡シーン(特に、今みたいなCGではなく実写で撮った迫力満点のカーチェイスが有名です)が、当時の映画界に衝撃を与えて、多くの追随作品を生みました。


フレンチ・コネクション (字幕版)
Fernando Rey,Gene Hackman,Tony Lobianco,Roy Scheider,Marcel Bozzuffi
メーカー情報なし
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古田足日「戦後の創作児童文学についてのメモ=‘60の胎動」児童文学の旗所収

2020-10-09 12:30:49 | 参考文献

 「日本児童文学」1966年5月号と8月号に発表された、1960年前後の児童文学の状況についての評論です。
 著者は、戦後児童文学の時代区分を、
「第一期はいわゆる良心的雑誌が児童文学運動の主体となった時期であり、敗戦の年からはじまり、1951年の「少年少女」廃刊に至るまでである。以降数年間を第二期とし、第三期のはじまりを昭和34年8月におく。」
としています。
 そして、1959年3月ごろからから1960年4月にかけて、評論と創作の両面で明瞭な変化があったとして、次のような事象をあげています。
 評論においては、佐藤忠男「少年の理想主義について」(その記事を参照してください)、古田足日「現代児童文学論」(その記事を参照してください)、石井桃子ほか「子どもと文学」(その記事を参照してください)のいわゆる「童話伝統批判」の重要な三評論が出そろっています。
 創作においては、中川季枝子「いやいやえん」、佐藤暁「だれも知らない小さな国」、柴田道子「谷間の底から」、早船ちよ「キューポラのある街」、いぬいとみこ「木かげの家の小人たち」、山中恒「とべたら本こ」などがあげられていて、一般的に「現代児童文学」(定義などは関連する記事を参照してください)のスタートとされている二つの小人物語も含まれています。
 著者も、第三期(「現代児童文学」のスタート)を1959年8月としている理由に「だれも知らない小さな国」の出版をあげていて、この作品がいかに今までの作品と違う新しさ(優れた散文性をもち、宮沢賢治を除くとそれまで日本になかったファンタジー(ファンタジーに関する著者の定義には「子どもと文学」の石井桃子によるものの影響がみられます)作品であり、戦中戦後を体験することではぐくまれていた「個人の尊厳」を描いているなど)を持っていたかを、ここでも繰り返し述べています。
 著者は、この時期の新しい作品を、西欧的近代の方法によったもの(「だれも知らない小さな国」、「木かげの家の小人たち」、他にいぬいとみこ「長い長いペンギンの話」など)、生活記録によるもの(「「谷間の底から」、他に「もんぺの子」同人による「山が泣いている」など」、日本的講談の発展したもの(「とべたら本こ」、他に同じ山中恒「サムライの子」など)の三つのタイプに分けています(こうしてみると、筆者のいうところの西欧的近代の方法によるものだけが、歴史の淘汰の中で現在まで生き残ったことがよくわかります)。
 これらの作品における以下のような表現の変化を、著者は「童話から小説へ」と呼んでいます。
1. 詩的文体から散文への変化
2. 子どもの関心、論理に沿ったフィクションの強化
3. 限定されたイメージと、そのイメージの論理的なつみあげ
 これらは、児童文学研究者の宮川健郎がまとめた「現代児童文学」の三つの問題意識に、大きな影響を与えていると思われます。
 その後、著者は、長い紙数を割いて、山中恒の作品が「赤毛のポチ」(出版されたのは「とべたら本こ」よりも後なのですが執筆は先です)の「楽天的な組合主義?」から、「とべたら本こ」の「人間のもっとも基本的な欲望、生存の欲求」へ変化していったかを論じています。
 その過程で、同じ「日本児童文学」に発表された先行論文(西本鴻介「社会状況と児童文学」、斉藤英夫「大衆児童文学の現況」など)の誤謬を鋭く指摘して、激しく糾弾しています。
 現在の「仲良しクラブ」的で論争のない「日本児童文学」誌からすると想像もできませんが、それはこの雑誌を機関誌としている日本児童文学者協会自体が、文学(あるいは政治)運動体から同業者互助組合に変化したことを考えると無理もありません。
 著者は、こうした山中恒の変化は、三作の執筆時期(1953年から1957年ごろにかけて)から考えると、60年安保闘争とは直接関係していないと考えています。
 そして、60年安保闘争の高揚と挫折、「団結すれば的な考え方と、自立の思想の芽生え」の衝突を反映した最初の作品として、小沢正「目をさませトラゴロウ」をあげています。
 

児童文学の旗 (1970年) (児童文学評論シリーズ)
クリエーター情報なし
理論社
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隆志の学芸会

2020-10-03 09:22:14 | 作品

 樋口隆志は、吉田先生が黒板の上へはりだした大きな模造紙をながめていた。
 そこには、一番上に、「アリババと四十人の盗賊」と書かれている。あとは、アリババをはじめとして登場人物の名前がならんでいた。
「それでは、これから、『アリババと四十人の盗賊』の配役をきめたいとおもいます」
 学級会の議長の高山くんが、きびきびした声で話しだした。
 隆志たち三年二組では、来月の学芸会で、「アリババと四十人の盗賊」をやることになっている。
 きょうは、吉田先生がきめてくれた登場人物を、それぞれだれがやるのかをきめるために、学級会がひらかれていた。
 クラスは、全員で二十八人。先生は、全員に役がいくように、そしてセリフもあるようにと、ずいぶん苦労して配役を作ったようだ。そのために、セリフの多い主役のアリババやかしこい女召使いのモルギアナの役は、何人かで分担してやることになっている。
「それでは、まずアリババの役。だれか、やりたい人はいますか?」
 高山くんがそういうと、隆志はだれが手をあげるかなと、まわりを見まわしてみた。
 でも、みんなはざわざわしているだけで、だれも手をあげなかった。
 アリババといえば、なんといっても、この劇の主役だ。四人で分担してやるとはいえ、セリフも多いし、一番めだつ役なのだ。
 隆志も、
(やってみたいな)
って、気持ちが少しはあった。
 でも、自分からやりたいっていったりしたら、「ずうずうしいなあ」とか、「でしゃばり」って、他の子にいわれそうなので、とても手をあげられない。
 もしかすると、他の子たちも、同じことを考えているのかもしれなかった。
「だれも、いませんかあ?」
 高山くんが、みんなを見まわしながらもう一回いった。
「じゃあ、だれか、他の人をすいせんしてください」
「はいっ」
 黒木くんが、まっさきに手をあげた。
「黒木くん、どうぞ」
「高山くんがいいとおもいます」
「はい。わかりました」
 高山くんは、少してれたような、でも、やっぱりうれしいような顔をして答えていた。
副議長の中村さんが、模造紙にかかれている「アリババ1」の下に、きれいな字で「高山」と書きこんだ。
 それからは、順調に配役が進みだした。やはり、授業中によく意見をいう人や、クラスで人気のある人たちから決まっていくようだ。
 残念ながら、隆志の名前は、アリババ役の四人の中にも、盗賊のかしらハサンのときにもでなかった。
 女の子の配役も、賢い女召使いモルギアナをやる三人をはじめとして、順番に決まっていく。
 隆志は、早くだれかが、自分の名前をすいせんしてくれないかと、ドキドキしながらまっていた。
 でも、隆志は、アリババの兄のよくばりカシムにも、カシムのむすこにも、そして、カシムの死体をぬいあわせる仕立て屋の役にも選ばれなかった。
 隆志は、
(選ばれなくて残念だなあ)
と、思いながらも、少しホッとしたような気持ちもしていた。いままでの役は、セリフが多くてけっこうやるのがたいへんそうなのだ。
 最後に、盗賊の手下と、アリババの召使い役が残った。
 盗賊の手下の役は十人。それでも、かしらのハサンを入れても全部で十一人にしかならないので、「四十人の盗賊」にはだいぶ足りない。まあ、人数がそれだけしかいないんだから、それもしかたがない。
「じゃあ、盗賊の手下の役をやりたい人は、手をあげてください」
 高山くんが、みんなを見まわしながらいった。
「はーい」
「はい、はい」
 今度は、残っていた男の子全員が、元気よく手をあげた。
隆志も手をあげている。召使いの役よりは、盗賊の手下の方がおもしろそうだ。女の子の中には、召使い役をやりたいのか、手をあげない子もいる。
「えーっと、人数が多いようなので、ジャンケンで決めてください」
 高山くんが、少しめんどうくさそうにいった。
 みんなはガヤガヤしながら、教室の前の方に集まってきた。
 二人ずつ組みになって、ジャンケンが始まった。隆志は、大川くんと組みになった。
「ジャンケン、ポン」
 隆志がグーで、大川くんがパー。隆志は、一発であっさりと負けてしまった。

 けっきょく、隆志は、「召使い3」の役をやることになった。
 男の子で召使いの役をやるのは、隆志と山崎くんの二人だけだった。そういえば、二人ともいつもジャンケンが弱かった。
「みんな、自分の役割は、わかった?」
 吉田先生が、みんなにむかっていった。
「この劇では、盗賊が財宝をかくしている岩山。ほらっ、アリババが『開け、ゴマ』っていうところね。あそこが見せ場なの」
 隆志は、前に読んだ「アラビアンナイト」のさしえを、思い出した。アリババの前に、ごつごつした灰色の岩山が、パックリと大きな口を開けていた。
「その場面を、三人だけ手伝ってもらいたいの。二人は岩山の扉を開ける係。『開けゴマ』っていったら開けて、『閉じろゴマ』っていったら閉めるのね。それからもう一人は、アリババが盗賊たちから隠れる『大きな木』」
 隆志は、「大きな木」の出てくる場面は、思い出せなかった。
「えーっと、岩山の場面に出てこない男の子は、……。カシムの息子の平井くんと、仕立て屋の大野くん。それに召使い役の山崎くんに樋口くん。じゃあ、その人たちのだれかにお願いするね」
 隆志は、急に自分の名前が出てきたので、またドキドキしてきた。
「『大きな木』の役は、背の高い人がいいかな」
 吉田先生がいった。
「じゃあ、樋口くんだ。せいたか隆志だもの」
 すぐに高山くんがいったので、みんなはドッと笑いだした。隆志はやせっぽちだけど、クラスで一番背が高いのだ。
「じゃあ、樋口くん。お願いね」
 吉田先生は、ニコッと笑って隆志の顔を見た。隆志は、「大きな木」がどんな役なのかわからないまま、コクンとうなずいていた。

その晩、隆志は、劇のことをかあさんに話した。
「へーっ、『アリババと四十人の盗賊』をやるの。おもしろそうねえ。それで、タカちゃんはなんの役をやるの?」
 かあさんは、夕ごはんのしたくをしながらそういった。
「召使い3」
 テレビを見ていた隆志は、小さな声で答えた。
「ふーん、どんな役なの?」
 かあさんは、ちょっとがっかりしたみたいだった。
「まだ、練習してないからわかんないよ」
 隆志は、テレビを見たまま答えた。
「セリフはあるのかしら?」
 かあさんは、少し心配そうだ。
「うん。全員最低ひとつは、セリフがあるって、先生がいってたよ」
 隆志は、かあさんの方に向き直って答えた。
「そう、よかったね」
 かあさんは、ホッとしたようにいった。
 ピロロローン。
いつも電源を入れっぱなしにしているパソコンのチャイムが鳴った。
「あっ、おとうさんだ」
 かあさんが、うれしそうにいった。
「わたしでる」
「ぼくが先だよ」
 隆志と妹の由美は、同時にパソコンデスクにかけよった。
 隆志は、タッチの差で、先にパソコン用の椅子に座るとスカイプ(無料のテレビ電話)の画面を開いた。
「もしもし」
 ウィンドウいっぱいにとうさんの顔が映った。
「あっ、隆志か?」
 やっぱりとうさんだ。いつも、この時刻にスカイプがかかってくる。
「ずるーい」
 由美が泣きべそをかきながら、無理やりパソコンのカメラにうつろうとしている。
「ちょっと、待っててよ。すぐ代わるから」
 隆志は、由美を押し返しながら早口にいった。そして、さっそく学芸会のことを、とうさんに報告した。
 とうさんは、隆志が「召使い3」の役だというと、
「しっかりやれよ」
と、いってくれた。
「学芸会、何日だっけ?」
 とうさんが、隆志にたずねた。
「来月の、十二日の日曜日」
と、隆志が答えると、
「そうかあ」
 とうさんは、しばらくだまって他の画面(たぶん仕事のスケジュール表)を見ているようだったが、
「うん、だいじょうぶ。その週は家に帰れるから、一緒に見に行けるよ」
と、元気よくいった。
「ほんとっ!」
 隆志は、うれしくてつい大きな声を出してしまった。
「早く代わってよ!」
 由美がそういって、隆志の右足をけとばした。
「いてえ。……ほらっ」
 隆志は、由美に席を代わった時、「召使い3」だけでなく、「大きな木」もやるのを、とうさんにいい忘れたことを、思い出した。
(まあ、いいや。どんなことをやるのかわかってから、話せばいいもの)

 隆志のとうさんは、家族を東京の郊外にある家に残したまま、今は一人で神戸で働いていた。そういうのを、「単身赴任」って、いうんだそうだ。
とうさんの会社が、神戸に新しい工場を作っているのだ。とうさんは、神戸で、建設会社や役所の人たちと協力して、工場が仕事を始めるのに必要な準備をしている。
 工場は、来年の三月に完成する予定だ。そうしたら、隆志もかあさんや由美と一緒に、神戸へ引っ越すことになっている。
 隆志はそのことを考えると、少しさびしい気持ちになった。
 引越しをすれば、幼稚園のときから、ずっと一緒だった友だちと、別れなければならない。そのことを、まだ友だちのだれにもいっていなかった。
それに、神戸がどんな所なのか、よく知らなかった。隆志は、毎年夏休みに行く伊豆より西に行ったことがなかった。
神戸が関西地方にあることは、隆志も知っていた。新しい学校の人たちも、テレビのバラエティ番組に出ているお笑い芸人たちみたいに、こちらとは違ったことばをしゃべっているのだろうか。どうもいつものんびりしている隆志とは、違うタイプの人たちのような気がする。新しい学校の人たちと、うまく友だちになれるか不安だった。

隆志は、夕ごはんの後で、少年少女世界文学全集の「アラビアンナイト」の中に入っている「アリババと四十人の盗賊」を読んでみた。
『貧しい若者だったアリババは、ある日偶然に、ハサンをかしらとする四十人の盗賊が岩山へ隠していた財宝を見つけ出した。
 その話を聞いたアリババの兄のよくばりカシムは、さっそく岩山へ、財宝を取りに行ったカシムはたくさんの財宝を手にいれたが、どうくつから出るときに、扉を開ける合言葉の「開けゴマ」を忘れてしまう。
 カシムは、帰ってきた盗賊たちに殺されてバラバラにされてしまった。
 盗賊たちはアリババの命もつけねらうが、かしこい女召使いのモルギアナの機転によって、逆にやっつけられてしまう。
 アリババは、盗賊の財宝を町の人たちにも分けてあげ、モルギアナはカシムの息子と結婚して、めでたし、めでたし 』 
 お話を最後まで読んでも、隆志には、「召使い3」が何をやる役なのか、とうとうわからなかった。そんな登場人物は、この本にはでてこなかったからだ。みんなに役がいくようにと、吉田先生が、考え出したのかもしれない。
 でも、「大きな木」については、こう書かれていた。
『アリババは、あわててすぐそばにあった、大きな木によじのぼった』
 そのページには、黒い「大きな木」の上から、盗賊たちの様子をうかがっているアリババの姿が描かれていた。

 「アリババと四十人の盗賊」の練習が始まった。
 初めのころは、教室で、それぞれのせりふをいうだけの練習だった。
 みんながせりふを覚えると、本番の会場である体育館で、通しげいこをおこなった。
 隆志は、体育館の練習のときに、すっかりゆううつになってしまった。
 「召使い3」の役はいいのだ。セリフをいうのはたった一回だけれど、男の召使いが二人しかいないので、料理などを運ぶ力仕事のために、けっこう登場する場面が多かった。
 問題は「大きな木」だ。
 「大きな木」は、岩山の場面のときには、ずっと舞台に立っていなければならない。
両手に木の棒と紙で作った枝を持ち、おなか、腰、そして足には、幹を絵の具で描いた画用紙が巻きつけられる。頭にも、こずえを描いた画用紙を、帽子のようにかぶらなければならない。
 隆志がそのかっこうをして舞台に現れたとき、クラスのみんなは大笑いだった。
「にあう、にあう」
「さすが、せいたか隆志」
とかいって、からかう男の子たちまでいた。
 その日、家へ帰ってから、隆志は、「召使い3」がどんな役かをかあさんに話した。
 でも、「大きな木」については、とうとう何もいえなかった。

学芸会の前日の、土曜日になった。
 前の晩に家へ帰ってきたとうさんは、隆志が学校へ行くときにはまだ眠っていた。
 とうさんが家へ帰ってくるのは、月に一回だけ。そのときは、とうさんは、金曜日の夜の新幹線に飛び乗っている。
 でも、東京駅から家まではさらに二時間もかかるので、家へたどり着くのは、いつも真夜中になってしまう。
 昨日の夜も、とうさんが家に着いたときには、隆志と由美はとっくに眠っていた。
 その日の夕方、隆志は、久しぶりにとうさんとお風呂に入った。妹の由美も一緒だからギューギュー詰めだ。とうさんが湯船につかっているときには、隆志は洗い場へ出なければならない。
 ギュッ、ギュッ。ギュッ、ギュッ。
 隆志は、力をこめて、とうさんの背中をこすった。
「隆志、ずいぶん力がついたなあ」
 とうさんは、うれしそうにいった。
 お風呂からあがると、もう夕ごはんのしたくができていた。
 おさしみ、てんぷら、さといもの煮もの、……。
 テーブルには、とうさんの好物ばかりが並んでいる。とうさんが帰った日はいつもそうだ。
 でも、隆志と由美も、この日ばかりはぜんぜん文句をいわない。
「おとうさーん」
 由美が甘ったれた声を出して、とうさんのひざに上にすわった。
「お疲れさまでした」
 かあさんが、とうさんのコップにビールをついだ。かあさんもなんだかうれしそうだ。
「うーっ。やっぱりしみるなあ」
 とうさんはビールを一気に飲み干すと、大きな声でいった。

「これが、こんどの工場」
 その晩、とうさんは、撮影してきた新しい神戸の工場を、みんなに見せてくれた。とうさんは仕事にも使うので、デジタルビデオカメラと編集用のノートパソコンを持っている。今日はそれらで撮影と編集したものをディスクに入れて持ってきていた。
「へーっ、もう形になっているんだ」
 隆志が、感心していった。
「うん。けっこう作業が進んでいるだろ」
 工場は三階建てだ。すでに鉄骨の組み立ては終わって、壁もほとんどできあがっている。
「これなら、今年いっぱいに完成するわね」
 かあさんがいった。
「うん、外側はね。でも、内装にけっこう時間がかかるし、機械も入れなくちゃならないから、やっぱり完成は三月ぎりぎりになっちゃうな」
「ふーん」
 隆志がうなずいた。
「えーっと。次は、今度みんなで住む所だよ」
 画面には、新しい大きな団地がうつった。神戸の六甲山を切り崩した所なので、まわりにはまだ小さな丘や森が見える。
 四月になったら、隆志たちもここへ引っ越さなければならない。
 画面には、団地近くのスーパーや、駅前のロータリーもうつった。
「まだ、さびしそうなところね」
 かあさんがちょっと心配そうにいった。
「うん。でも、だんだんひらけてくるよ」
 とうさんがはげますようにいった。
 最後に、小学校がうつった。
「ここが、隆志が転入する学校だよ」
 鉄筋四階建ての、新しい校舎だ。校庭はひろびろとしていて、今の学校の二倍以上もありそうだ。
「ふーん」
 隆志は、興味深げにながめていた。転校したら、すぐになかのいい友だちができるだろうか。
「わたしも行くのよ」
 由美が、不満そうに口をとがらせた。
「あっ、そうか。由美も来年の四月には一年生だったな」
 とうさんが笑いながらいった。由美は、ふくれっつらのまま、とうさんをぶつまねをした。

「隆志、明日の芝居はどうだ?」
ビデオが終わると、とうさんがたずねた。
「うん、だいじょうぶ」
 それから、隆志は、「召使い3」のセリフをとうさんにいってみせた。
「うまい、うまい。隆志は、けっこう芝居が上手だな」
 とうさんは笑いながらいった。隆志はうれしくてニコニコした。
 由美も負けずに、隆志のセリフをまねてみせた。隆志が何度も練習していたので、すっかり覚えてしまったのだ。
「ほーう。うちには役者が二人もいるのか」
 とうさんはそういいながら、由美を抱きあげた。
 その日も、隆志は、「大きな木」の役のことを、とうさんやかあさんにいいそびれてしまった。

 学芸会の日になった。
いよいよ三年二組の、「アリババと四十人の盗賊」が始まる。
 隆志は、舞台の下手に「大きな木」になって立っていた。
 幕があがる。
 パチパチパチパチ。
 客席から、いっせいに拍手がおくられた。
会場の体育館は、各学年の子どもたちや家族の人たちで満員になっている。
「クスクス」
「フフフ」
 「大きな木」をやっているのが子どもだということに気がついて、あちこちから笑い声がおこった。
 隆志は、少し顔を赤くしてしまった。
 「アリババ1」の高山くんが現れた。みんなの注目は、すぐに隆志から高山くんへ移っていった。
(なーんだ)
 隆志は自分が注目されなくなって、ホッとしたようなちょっと残念なような複雑な気分だった。
 と、そのときだ。
(あっ!)
隆志は、客席にいるとうさんと、目が合ってしまったのだ。隣には、かあさんと由美もすわっている。
 とうさんは、ちょっと驚いたような顔をしていた。
 でも、すぐにニコッと笑うと、手にしていたビデオカメラを隆志のほうへ向けた。
 劇はどんどん進んでいく。
 隆志は、岩山の場面では「大きな木」を、そして、アリババの屋敷の場面では「召使い3」を、やらなければならないので、大忙しだった。
 場面の入れ替わる短い時間に、何回も衣装を替えなければならない。
 特に「大きな木」は、ずっと手をひろげたままなので、けっこう疲れる。
 隆志は手がさがらないように、両腕をいっぱいにひろげてけんめいにがんばった。
 そして、とうとう最後まで、ふたつの役をしっかりとやりとおすことができた。
 劇のできばえもまずまずだった。
「アリババ3」の加藤くんがセリフをひとつ抜かしたのと、「よくばりカシム」の遠山くんが盗賊に切り殺されたときに、一緒に岩山を倒したのを除けば、けっこううまくいった。

 隆志は、劇が終わるとすぐに、クラスのみんなから離れて、体育館の出入り口へ行った。神戸へ帰るとうさんを見送るためだ。
 とうさんはキャリングケースを引きながら、ビデオカメラを入れた小さなバッグを肩からかけていた。
これから、すぐに東京駅へ行って新幹線に乗っても、神戸の郊外にあるマンションに着くのは夜の八時過ぎになるらしい。とうさんは、明日からも忙しく働かなければならない。
「タカちゃん、なかなか良くできたな」
 とうさんが、そういってくれた。
「うん」
 隆志は、ちょっと恥ずかしそうに答えた。
「二つも役をやらなくっちゃならないから、大変だったね」
 かあさんも、そういってくれた。
「じゃあ、行くよ」
 とうさんが、すこしさびしそうにいった。
「いってらっしゃい」
 三人は、声をそろえていった。由美は、もう半分泣きべそをかいている。
 とうさんは、校門のところで振り返ると、隆志たちにむかって大きく手を振った。

 学芸会から、二週間がたった。
 ある日、隆志は、神戸のとうさんから、宅配便を受け取った。
 開けてみると、中にはブルーレイのディスクが入っていた。とうさんの太い字で、『隆志の学芸会』と書かれている。
 その晩、隆志はかあさんや由美と一緒に、『隆志の学芸会』を見ることにした。
 隆志はディスクをセットして、再生ボタンを押した。
 かあさんは、台所の洗い物を途中にして、手をふきながらやってきた。由美もソファーに座っている。
 『アリババと四十人の盗賊……三年二組』
 舞台の端に置いてあったタイトルが、まずアップになった。
 場面はすぐに、アリババが、兄さんである欲張りカシムの葬式の指図をしているところに替わった。隆志は山崎くんと二人で、カシムのなきがらを寝台の上へ運んでいく。
「あっ、お兄ちゃんだ」
と、由美がいった。
 アリババたちのセリフにまじって、客席のガヤガヤする声や、咳をする音まで入っている。
 次に、場面は、盗賊のかしらのハサンが油商人に化けて、アリババの屋敷へやってきたところに替わった。どうやらとうさんは、隆志の出てくる場面だけをつないで、編集してくれたようだ。
 隆志は、油のはいったかめ(実は、盗賊の手下たちが隠れていることになっている)を、重そうに運んでいる。
 それが終わると、次は、盗賊のかしらのハサンがカシムの息子をだまして、再びアリババの屋敷へやってきた場面だ。ここで、隆志はただ一つのセリフをいった。
「これから、踊りをお目にかけます」
セリフが、ちょっと棒読みな感じだった。
 でも、
「タカちゃん、上手にいえたね」
と、かあさんがいってくれた。
「これから、踊りをお目にかけます」
 由美が、またまねをした。隆志は、由美に一発デコピンをいれてやった。
 録画は、賢い女召使いのモルギアナとカシムの息子との結婚式を、まわりでながめている隆志の横顔をアップにして終わった。
 隆志が、ブルーレイレコーダーのリモコンのストップボタンを押そうと、手を伸ばした時、いきなりとうさんの声がした。
「これから、『隆志の学芸会』の、第二幕をおおくりします」
 画面に、いきなり隆志がアップになった。「召使い3」の隆志ではなく、「大きな木」の隆志だ。
「私は、一本の大きな木です」
 とうさんのナレーションが入った。会場内の音は消されていて、バックにはきれいな音楽が流れている。
「もう何百年もの間、この岩山で暮らしています」
「ある日、アリババという若者が、山へ薪を拾いにやってきました」
「私は、なかなか良さそうな若者だなと、思いました」
「そこへ、四十人の盗賊が急に現れました」
「アリババは、あわてて私によじ昇りました」
 高山くんのアリババが、隆志のうしろに隠してある机の上によじ昇っていく。
「私は、けんめいに枝を広げて、アリババを隠してあげました」
 高山くんをうしろにして、両腕をいっぱいにひろげている隆志が、画面いっぱいにうつしだされた。両手ができるだけピンとなるように、けんめいにがんばっているのがよくわかる。
「翌日、アリババの兄のよくばりカシムが、やってきました」
「でも、呪文の『開けゴマ』を忘れて、岩山に閉じ込められてしまいました」
「わたしは、なんとか呪文を教えようとしましたが、カシムには聞こえません」
隆志の顔がアップになった。何か、しきりに口を動かしている。
(そうだ。あのとき、……)
 隆志は思いだした。
 カシムが「開けゴマ」を思いだせなくて、「開けムギ」とか「開けコメ」とかいっているとき、つい小声で、
「ゴマ、……、ゴマ」
と、いってしまったのだ。
「カシムが盗賊に殺されているのを見つけて、アリババは涙を流しました」
「私も悲しくなって、ゴオーッ、ゴオーッと、枝をゆさぶってなきました」
 たしかにこの場面で、隆志の両腕は、すこし上下に動いている。そろそろ、疲れてきていたのかもしれない。
「アリババは、盗賊の財宝を岩山のどうくつから運び出すと、町の人たちに分けて、みんなでなかよく暮らしました。めでたし、めでたし」
 最後に、「大きな木」の役をやり終えて、ついニッコリした隆志の顔が、画面いっぱいにアップになった。
「タカちゃん、『大きな木』の役でもがんばっていたのね」
 かあさんがうれしそうにいった。
「うん」
 隆志は、ディスクを止めると、勢いよく立ち上がった。
「どうしたの?」
 かあさんがたずねた。
「おとうさんにスカイプするんだ」
 隆志はそういって、すぐにパソコンの椅子に座った。隆志はスカイプの画面を開きながら、ブルーレイのお礼をいった後で、
(早く四月になって、みんなで一緒に暮らしたいね)
って、とうさんにいおうと思っていた。

     
        

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