現代児童文学

国内外の現代児童文学史や現代児童文学論についての考察や論文及び作品論や創作や参考文献を、できれば毎日記載します。

最上一平「すすめ!近藤くん」

2018-03-30 08:05:49 | 作品論
 他人の目など気にしない痛快な主人公の近藤くんと、隣の席のこれまた個性的なあいちゃんとの、カエルを媒介にした不思議な友情物語です。
 作者としては、かなり思い切ってエンターテインメントにかじを取った作品で、かつらこのデフォルメのきいた挿絵と相まって、楽しい出来上がりになっています。
 ただ気がかりな点もいくつかあります。
 まず、主人公の学年は挿絵から察するに一年生らしいのですが、行動や文章の書き方がその対象年齢とミスマッチをおこしています。
 ここは、文章でも学年を明確にして、書き方のグレードもそれに合わせた方がいいと思います。
 次に、幼年向けのエンターテインメントの難しさは、媒介者(両親、教師、司書、書店員などの子どもたちに本を手渡す人たち)の存在です。
 作者は、今までの多数の著作で媒介者の中に確固たるブランドを確立していますが、そのブランドとこの本の作風はかなり違うので、媒介者によって逆に阻害されることが心配です。
 1100円もする本は、小学校低学年の子どもたちは自分では買えません。
 最後に、出版社の問題があります。
 この本を出しているWAVE出版は、2012年に児童書を出し始めたばかりの出版社です。
 主要なスタッフは岩崎書店から移行したようで、そのコネクションを活かして執筆者には錚々たるメンバーが顔をそろえています。
 また、絵本と幼年物にターゲットを絞っているのも、ビジネスを考えると正しい選択でしょう。
 ただ、今までのこの出版社の本を見てみると、際物も含めてヒット狙いの営業重視の会社のように思えます。
 もし児童書がもうからないとわかったら、すぐ投げ出したりしないか心配はあります(その後、この心配は現実のものとなりました)。

すすめ! 近藤くん (ともだちがいるよ!)
クリエーター情報なし
WAVE出版
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津村記久子「ハンガリーの女王」ポースケ所収

2018-03-27 08:35:42 | 参考文献
 この作品(章?)は、「喫茶・食事 ハタナカ」で時々夕食を食べる、小さな会社で営業補助や庶務の仕事をしているのぞみの視点で書かれています。
 のぞみは、「ハタナカ」の夕食代の800円にもためらうようなつましい生活を送っています。
 会社での人間関係に行き詰っているのぞみは、「ハタナカ」で行われる予定の「ポースケ」(もともとはノルウェーの復活祭のことのようですが、ここではお店の従業員やお客さんたちが参加するフリーマーケットとかくし芸大会を合わせたようなイベントのことです)に興味を持ちます。
 のぞみが働いているような小さな会社での人間関係や雑務については、作者自身が長年の体験があるのかすごくリアリティがあって、同じような環境にある女性たちが読んだらきっと共感できるものでしょう。
「神は細部に宿る」というのは建築関係の言葉ですが、小説でも同様なことが言えます。
 児童文学の世界でも現代の子どもたちの生活についてこういったディテールを生かした作品が書かれるべきでしょうが、最近の本はどんどん現実の子どもたちから遊離してしまっているようです。

ポースケ
クリエーター情報なし
中央公論新社
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神沢利子「白いジャケツの少年」いないいないばあや所収

2018-03-24 08:52:00 | 参考文献
 主人公の幼女は、アルバムの白いジャケツの少年が一番上のにいさんだと聞かされて、不思議な気もちがします。
 なぜなら、一番上のにいさんはずっと大きくて、いつも主人公たちに対して威張っているからです。
 写真の白いジャケツの少年はもっと幼く、まわりには誰もいません。
 そのころは、上のにいさん以外、誰も生まれていなかったと聞かされて、さらに不思議な思いがします。
 主人公は六人兄弟で、上のにいさんと下のにいさんは三歳離れていますが、あとはみんな年子です。
 だから、一人っ子状態の上のにいさんの写真がたくさんあるのです。
 自分が生まれる前の世界があること、人間は成長して変わっていくこと、そしてこの作品では書かれていませんが自分が死んだ後の世界もあることの不思議さ。
 これらは、誰もが幼少期に感じることでしょう。
 私も子どものころ、死ぬことが怖くて怖くて(それは生まれる前のことが思い出せないことと一体でした)、死ぬ前に不老不死の薬が発明されることをどんなに願ったことでしょう。
 不思議なことに、その恐怖は自分の初めての子どもが生まれた時に薄れました。
 おそらくそれは、子孫を残すことのできたDNAのなせる技なのかもしれません。
 さて、このような普遍的な子どもの恐れを描いた作品はそれまでもありましたが、神沢のこの短編集ほど優れたものはなかったかもしれません。
 「いないいなばあや」が、1979年の児童文学者協会賞を獲得したのも至極妥当なことのよう思えます。
 その当時の協会賞やその候補の作品群をながめてみると、いかに当時の児童文学の世界が今よりも文学的に優れていたかがわかります。
 そして、当時の子どもたちの文学に対する受容力も、現在よりもはるかに高かったのだと思われます。

いないいないばあや (岩波少年少女の本)
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岩波書店
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佐々木実「市場と権力」

2018-03-23 09:18:54 | 参考文献
 「「改革」に憑かれた経済学者の肖像」という副題のついた、小泉内閣における経済財政政策担当大臣だった竹中平蔵の人物評伝です。
 小泉内閣時代の竹中大臣の構造改革路線が、今の格差社会や世代間格差を生んだ元凶だと思っているので、そのあたりを明確にしてくれるものとして読みましたが、期待はずれでした。
 竹中大臣やその周辺のゴシップの羅列に終始していて、それが社会に及ぼした影響についてはわずかな考察しか述べられていません。
 竹中大臣の学者としての仕事がいかに胡散臭いか、提言していた政策がいかに毀誉褒貶していたか、政策提言が竹中大臣やその周辺の利益のために行われていたかは、豊富な実例や証言で良くわかりましたが、そんなことはどうでもいいのです。
 どんな世の中にも要領の良さで世の中を渡り、私利私欲に走っている人間はいるものです。
 こういったゴシップ情報は、在任中にあばいて辞職に追い込むのであれば意味がありますが、過去の事では責任を問えないので効果がありません。
 それよりも、竹中大臣たちがやったことが、現代の社会、特に若い世代にどんな悪影響を与え、それに対抗する手段についてどのようなことが考えられるかについて、もっと考察してくれなくては単なる批判に終わってしまって建設的ではないと思います。
 特に、この本の冒頭に書かれているように竹中氏が復権を狙っている現在においては、彼の野望に対してどのように対応すべきかをもっと示して欲しかったです。
 それが、日本の将来にとってもっと大事なポイントだと思います。

市場と権力 「改革」に憑かれた経済学者の肖像
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講談社
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小川洋子「断食蝸牛」いつも彼らはどこかに所収

2018-03-22 08:32:54 | 参考文献
 観光用の風車に通う断食施療院に入院している女性の話です。
 風車守の男への恋心、施療院の下働きの女性との恋の鞘当て、風車守が飼っている蝸牛の群れなどが、抑えた文章で描かれています。
 主人公が森で拾った蝸牛を風車内の群れに無断で紛れこませたことにより、最後に大混乱になります。
 孤独な三人のそれぞれの姿が鮮やかに描かれています。
 児童文学においても、孤独や人と人のつながりは作品の重要なテーマです。
 特に思春期の子どもたちにとっては重要な問題ですが、最近はこれといった作品が生まれていません。

いつも彼らはどこかに
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新潮社
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吉田修一「怒り」

2018-03-21 08:58:54 | 参考文献
 公開捜査されている殺人事件の容疑者かと疑わせる三人の若い男と、容疑者を追う刑事の、合わせて四つの独立したドラマが並行して進んでいきます。
 それぞれにドラマティックでミステリアスな設定が用意されていてなかなか読ませるのですが、最後はすべてを投げ出してしまって、説明的な解決(未解決な問題もあります)で済まされてしまっています。
 偶然の多用、デフォルメされた登場人物たち(家出を繰り返しそのたびに風俗産業にからめ捕られてしまう軽度の知的障害のある若い女性、都会の影に存在しているゲイ・コミュニティのメンバーたち、男性関係にだらしない母親と沖縄で米兵にレイプ未遂に合う娘という組み合わせの親子、民宿の仕事を妻と子どもに押し付けて沖縄問題闘争にのめりこんでいる男)、ご都合主義の展開など、典型的なエンターテインメントの書き方の作品なのですが、エンターテインメントであればこそ、ここは作者の腕前の見せ所なので、一見無関係と思われる四つの物語をラストできちんとまとめ上げてみせてほしかったなと思います。
 こうした尻切れトンボの作品は、本作のような新聞連載小説(読売新聞の朝刊)にはありがちなのですが、連載時にはある程度仕方ないにしろ、単行本の出版時には加筆修正したと謳っている以上は、きちんとした作品に仕上げてほしいものです。

怒り(上)
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中央公論新社


怒り(下)
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中央公論新社
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橘玲「残酷な世界で生き延びるたったひとつの方法」

2018-03-20 08:43:15 | 参考文献
 ずいぶん大げさなタイトルで250ページ以上もある本ですが、実際に生き延びる方法について書いてあるのはほんの少しで、後は作者の雑学知識の披瀝のオンパレードにすぎません。
 率直に言えば、以下に引用したあとがきだけ読めば十分でしょう。
「この本は、自己啓発のイデオロギーへの違和感から生まれた。
 能力に恵まれた一部のひとたちが、その能力を活かして成功を目指すのになんの文句もない。でもぼくは自分が落ちこぼれだということをずっと自覚してきたから、「努力によって能力を開発しよう」といわれるとものすごく腹が立つ。その一方で、「能力がなくても生きる権利がある」とナイーヴにいうこともできない。いくら権利があったって、お金が稼げなければ生きていけないのだから。
 誰もがうらやむ成功を手にできるのは限られたひとで、ぼくたちの大半はロングテール(注:この用語も作者のオリジナルではなく、市場を大半の売り上げを独占しているショートヘッドとそれ以外のロングテールにモデル化し、そのロングテールをニッチな市場に分割していって、さらにそれぞれにショートヘッドとロングテールがあるというクリス・アンダーソンの論にのっかっているだけです)で生きていくほかはない。市場での居場所が小さくなるほど売り上げは減るから、それに応じてコストを引き下げなくてはビジネスは成立しない。その下限は、自分と家族が生きていくための生活費になるだろう(もちろんサイドビジネスや趣味として「好き」を仕事にすることはできる)。そう考えれば、ロングテールのビジネスは会社ではなく個人のためのものだ。(以下省略)」
 どうやらこの本は、ひところ盛んに本が出ていた経済評論家の勝間和代と精神科医の香山リカの論争に便乗して出版されたようです。
 キャッチーなタイトルと旬のテーマを盛り込んで、博覧強記な雑学的知識を使いまわして(作者はいろいろな本で同じネタを使っています)本を出版するのが、作者のロングテールビジネスのようです。

残酷な世界で生き延びるたったひとつの方法
クリエーター情報なし
幻冬舎



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橋本治「助けて」初夏の色所収

2018-03-19 08:33:00 | 参考文献
 愛情なく同棲している男女が、東日本大震災に遭遇します。
 未曽有の大災害に対する無力感、被災者に対する奇妙な罪悪感が描かれています。
 このあたりの感覚は、被災者以外の多くの日本人と共有できるでしょう。
 震災が二人の関係に変化をもたらすかは保留されたままですが、これは読んでいる我々の実生活においても同様だと思います。
 橋本の作家としての強みは、男女を等分に書き分けられるユニセックッスな視点だと思われます。
 それが作品に普遍性を与えるとともに、より多数の読者を獲得できる理由でしょう。
 現在の児童文学の読者が女性に偏っていることは繰り返し述べてきましたが、男性作家がそれを克服するにはこのようなユニセックスの視点の獲得が必要だと思われます。

初夏の色
クリエーター情報なし
新潮社
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城山三郎「そうか、もう君はいないのか」

2018-03-18 09:24:39 | 参考文献
 キンドルホワイトペーパー(その記事を参照してください)を買ったばかりの時に、キンドルストア(アマゾンの電子書籍を販売しているサイト)でセールスで非常に安い価格で売られていたので、試しに買ってみました。
 キンドルの読みやすさは味わえたのですが、本自体はタイトルがキャッチーなだけで、他の城山の本に比べてあまりにお手軽なものでした。
 城山の娘さんによる長いあとがきによると、夫人が亡くなられた後、城山は酒びたりになり、体調を崩して亡くなったそうですから、この本の執筆時には筆力がそうとう落ちていたのでしょう。
 ここでは作品評価ではなく、この世代の夫婦のあり方について感じるところがあったので述べてみたいと思います。
 三木卓の「K(内容についてはその記事を参照してください)」を読んだ時にも感じたのですが、この世代(城山は1927年生まれ、三木は1935年生まれ)の夫婦関係は、いい意味でも悪い意味でも桃太郎的なオールドスキーム(仕組み)です。
 つまり「おじいさんは山へ芝刈りに、おばあさんは川へ洗濯に」という風に、夫は仕事に生き妻は家事をするカップルで、それぞれが相手に依存していて自立していないことが多いです。
 そういう私も大きなことは言えず、妻とは同じようにオールドスキームで暮らしてきて、私も妻に依存している部分が多いことは認めざるを得ません。
 高度成長からバブル期までは、このスキームの方が効率が良く、夫は妻のサポートのもとで収入を最大化できました。
 しかし、バブルがはじけて以降は、低成長で収入の格差が大きくなり、このスキームは破綻しました。
 これからのカップルは、夫も妻も働いて収入を二倍にし、家事や育児も分担していく新しいスキームでないとうまくいかないと思われます。
 ところが、他の記事にも書きましたが、ジェンダー観の揺り戻しがあって、女性は専業主婦を志向して、男性に経済力(年収600万円以上)を求めるようになっています。
 もちろんそんな男性はほとんどいない(20代、30代男性の4パーセント以下)ので、なかなか結婚に結びつかないのです。
 一方、男性も古い価値観に縛られて、家事や育児のできる(あるいはやろうとする)人があまり増えていません。
 また、政治や行政や企業もこれらの世代のために仕事をしていなくて(相変わらず団塊の世代などの人口がマジョリティで選挙に結びつく人たちのために働いています)、働く女性たちや、家事や育児をする男性たちを、きちんとサポートしいないので、少子化問題は解決できません。
 このジレンマを解決するためには、女性も男性も社会も、オールドスキームを捨てて(児童文学の世界では、そこへ回帰しようとする反動的な作品(たとえば中脇初枝「きみはいい子」など)が評価されていて、その古い体質に驚愕しています)、ニュースキームへ転換していかなければいけないのではないでしょうか。
 また、二十代、三十代の女性が仕事を続けることは、団塊世代のリタイアによる労働力の不足を補填する効果もあり、日本の国際競争力の維持にもプラスになります。
 

そうか、もう君はいないのか
クリエーター情報なし
新潮社
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小熊英二「生きて帰ってきた男 ― ある日本兵の戦争と戦後」

2018-03-10 09:40:57 | 参考文献
 社会歴史学者の著者が、1925年生まれの父親に聞き取りをしてまとめた本です。
 生年からもわかるように、主人公の戦争体験といっても、実戦体験ではなくほとんどがシベリアにおける抑留生活におけるものです。
 こうしたシベリア抑留者の手記は今までもたくさん出版されていますが、ほとんどが自費出版によるもので、親戚や知人の間だけで読まれ、これほど評判になることは少ないと思われます。
 この作品が雑誌に連載され、新書として出版されたのは、著名な学者である息子のネームバリューのおかげもあることでしょう。
 しかし、あとがきにも書かれているように、八十代にもかかわらず緻密な記憶と観察眼を持つ主人公と、これをたんなる戦争体験記にとどめずに、戦前戦中戦後の庶民の生活史としてまとめあげた著者の企画力に負うところが多いと思われます。
 終始淡々と話をまとめながらも、父親への深い愛情と尊敬が感じられて、著者の新しい面を見る思いがしました。
 そして、同じように父親の話を聞く機会はあったはず(晩年の十年間は同居していたのですから小熊以上にチャンスはあったでしょう)なのに、何もしなかった自分自身に忸怩たる思いがしています。

生きて帰ってきた男――ある日本兵の戦争と戦後 (岩波新書)
クリエーター情報なし
岩波書店
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若杉 冽「原発ホワイトアウト」

2018-03-08 08:52:50 | 参考文献
 現役の官僚が匿名で書いたというふれこみで、ベストセラーになった小説です。
 しかし、どこにも現役の官僚でなければ書けないような情報はなく、電力業界、政界、官僚組織、マスコミなどのゴシップ情報の羅列にすぎません。
 もっともそういった現役の官僚でなければ書けないような情報があれば、作中にも書かれていた国家公務員法違反になってしまうでしょう。
 また、プロローグと終章にとってつけたよう書かれている、三流のパニック映画のシナリオのような部分との整合性もまったくありません。
 現役官僚が書いたというよりは、ルポライター(おそらく複数)とエンターテインメント作家による合作のような感じを受けました。
 偶然の多用、荒唐無稽な設定、デフォルメされた登場人物、読者サービスの官能シーンなど、典型的な通俗小説の手法が用いれていますが、それも三流レベルです。
 もっとも、現役の官僚が書いたことになっているので、あまりうまくてもまずいかもしれません。
 この作品での一番の成功は、現役の官僚が書いたというふれこみと、それをゴーストライターならぬ「若杉冽」というゴーストオーサー(もしかすると、形だけ関わった官僚がいるかもしれませんが)にしたアイデア(編集者によるものか?)でしょう。
 ゴーストオーサーならば誰が書いたかは問題にならないし(ご丁寧に霞ヶ関で書いた人間を捜しているという情報まで流しています)、印税も発生しないので、ゴーストライターへの手間賃(おそらく原稿は買取でしょう)をのぞけば、出版社の丸儲けです。
 児童文学の世界でも、芸能人などの有名人を担ぎだして、そのネームバリューを利用したゴーストライターによるベストセラーはたくさんあります。
 それ自体は、出版社が生き残るためにやっているビジネスなので止めることはできませんが、読者たちには有限な時間しかないのですから、なるべく引っかからないように注意が必要です。
 今回は、私もまんまと引っかかってしまいました。

原発ホワイトアウト
クリエーター情報なし
講談社
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中脇初枝「べっぴんさん」きみはいい子所収

2018-03-07 08:46:10 | 作品論
 これも幼児虐待を扱った作品です。
 しかし、幼児虐待の原因を母親自身もかつて虐待を受けていたと、非常に単純化して書かれているのに不満が残りました。
 現実の幼児虐待の問題は、そういった虐待する側の生育要因に原因を求めてしまうのでは、まるで解決はしないし、告発にすらならないでしょう。
 幼児虐待が起こる社会的な要因、例えば、新たな貧困層の誕生、シングルマザーの増加、幼児を育てる環境を整備しない政治や行政の怠慢、周囲の人間の無関心などに対する追求抜きに、母親だけに原因を求めても意味がないと思われます。
 また、同様の虐待されたママ友に気持ちを理解されるだけで解決の方向性を感じさせるエンディングは、非常に甘く安易です。
 また、ママ友同士の関係や、主人公の気持ちも理解せずに子どもを作ってバンコクへ単身赴任している夫などの描き方は、もうかなり古いと思われます。
 現在の児童虐待を取り巻く環境は、もっと切迫しています。
 こういった問題をたんなるネタとしてではなく真摯に描こうとするのなら、作者はもっと現実を取材して作品を書かなければいけないのではないかと強く思いました。
 
きみはいい子 (一般書)
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ポプラ社
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グードルン・パウゼヴァング「守護天使」そこに僕らは居合わせた所収

2018-03-06 08:14:49 | 作品論
 もうすぐ十二歳になるレニは、祖父母とともに五十八年前まで彼らが住んでいたチェコの村を訪れます。
 戦争に負けて占領していたチェコを追われた祖父母は、そのことを不満に思っていました。
 しかし、かつての我が家に住んでいた親切なチェコ人の家族と知り合って、その考えを改めます。
 そして、今暮らしているドイツのニュルンベルクを、レニと同様に新しい故郷として受け入れます。
 近隣の国を訪れて、その国の人たちを理解することが、平和のために何よりも重要であることは、日本でも同様です。
 現在、関係が悪化している中国や韓国を訪問する人が大幅に減っていることが、ますますそれらの国への不信を拡大しないかと心配です。
 逆に、中国から日本へ訪れる人は大幅に増えているので、中国の人たちの日本に対するイメージの改善は大いに期待が持てます。

そこに僕らは居合わせた―― 語り伝える、ナチス・ドイツ下の記憶
クリエーター情報なし
みすず書房
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よしもとばなな「スポンジ」さきちゃんたちの夜所収

2018-03-05 08:34:25 | 参考文献
 三十代と思われる産休直前の女性編集者の話です。
 担当しているかつての流行作家(男)が行方不明になり、その男友達と作家のアパートを訪問します。
 その間に、かつての楽しかった三人の関係が回想されます。
 男性が二人でてきますが、二人はゲイの恋人同士で全体にノンセクシャルな雰囲気(本当は主人公は作家と一度だけ性的関係を持っているのですが、その部分も見事なまでにノンセクシャルに漂白されています)が漂います。
 女性作家が女性を主人公にして女性読者をターゲットにして書いた典型的なL文学(さらにこの本の場合女性装丁家、女性編集者も参加した完全に閉じた世界です)で、現在の児童文学の世界(特にヤングアダルト物)とはほとんど近接した位置にあると思われます。
 一読して、三十年近く前によしもとがデビューしたころとあまりに雰囲気が変わらずに、ぜんぜん作品世界や登場人物が成熟していないことに驚かされます。
 実際のよしもとはアラフィフなのですが、作品世界では三十前後の女性と少しも変わらないので、彼女のファンの若い女性たち(よしもとと同様の気持ちだけ若い人たちも含めて)にはたまらない世界でしょう。
 ノンセクシャルな男性友だちとの適度な距離感の友情を保つ一方、しっかりと結婚して妊娠もしている主人公は、若い女性たちの理想形だと思われます。
 よしもととそのファンが作る閉じた世界は、彼女の父親の吉本隆明と彼のファン(信者?)との関係と相似な感じを受けます。
 きっとよしもとは、50を過ぎても還暦になっても、こんな世界を再生産していくんだろうなという気が強くしました。

さきちゃんたちの夜
クリエーター情報なし
新潮社
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村上春樹「色彩を持たない多崎つくると、彼の巡礼の年」

2018-03-04 08:47:41 | 参考文献
 2013年の最大のベストセラー小説です。
 あらすじや作品論はネット上でもたくさんあるでしょうから、ここでは書きません。
 ここでは、この作品を読んで児童文学に関連しそうな問題について考えたいと思います。
 まず最初に思ったのは、年齢が高くなった作家が、子どもないしは若者を書く場合の問題です。
 村上は団塊の世代なので、すでに六十代になっています。
 この作品の主人公は36歳なのでそれを若者と呼べるかについては議論がありますが、彼は独身ですし、高校時代および大学時代を回想しているシーンが多いので、それも含めれば若者を描いていると言えるでしょう。
 しかし、村上が描いている若者は現代の若者ではありません。
 風俗的には2010年代のようですし、その二十年前なので高校時代は1990年代と思われます(ただし、出てくる音楽(ワム!)や映画(スターウォーズ)を考えると1980年代前半のようですが、そのへんのリアリティはあまりこだわらなかったのでしょう)。
 さらに、登場する若者たちの造形は、村上自身が若者だった60年代や70年代のそれです。
 彼らは、1970年ごろに消滅したと言われる「教養主義」(このブログのそれに関する記事を参照してください)のしっぽを明らかにひきづっています。
 そのころの「教養主義」の特徴として、旧制高校以来の伝統の読書体験に偏重した「教養」から、音楽や映画も含めたより広範な「教養」に変化していていますが、この作品(他の村上の作品も同様ですが)にはそれが良く表れています。
 また、登場人物が直面している問題は、典型的な現代的不幸(アイデンティティの喪失、生きることのリアリティの希薄さなど)であり、これらももちろん現在の若者たちにとっても重要な問題ではありますが、現代ではより過酷な現実(格差社会、年代格差、少子化、若年層の正社員としての就業の困難性など)においてどのように生き延びていくかがより深刻になっています。
 この作品では、一部のエリート層の若者たちだけを描くことにより、これらの現代の若者の問題から回避しています。
 つまり、村上は、自分内部に保存されている若者像に現代の衣装をまとわせようとしているのですが、必ずしもうまくいっていません。
 この問題は、大半の児童文学の作家にも言えることです。
 初めは、自分の子ども時代の記憶によって創作し、子どもを持った者たちは次のステップとしてその子どもたちの周辺に取材して創作することが多いようです。
 やがて、その子どもたちも成人してしまうと、フレッシュな同時代の子ども像を描くことは困難になっていきます(教師との兼業作家などの例外はありますが)。
 村上は子どもがいないようなので、さらにこの困難性は増していることでしょう。
 次に、純文学とエンターテインメントの関係についてです。
 この作品では、荒唐無稽な設定、典型的な人物造形、偶然の多用、都合の良い夢の多用、ミステリー的要素などのエンターテインメントの手法が使われています。
 それが平易(平板とも言えますが)な村上の文章と相まって読みやすさにつながり、多くの読者を獲得しているのでしょう。
 つまり、純文学的なテーマ(この作品の場合かなり古いですが)をエンターテインメントの手法で描いているわけで、純文学的な児童文学が出版されにくい状況の現在においては、児童文学の創作のヒントになるかもしれません。
 
色彩を持たない多崎つくると、彼の巡礼の年
クリエーター情報なし
文藝春秋
 
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