現代児童文学

国内外の現代児童文学史や現代児童文学論についての考察や論文及び作品論や創作や参考文献を、できれば毎日記載します。

小沼明生「口承文学の中の経済と社会 ~グリム童話の中の経済と社会」

2017-07-31 20:22:57 | 参考情報
 2017年7月29日に、日本児童文学学会7月例会において行われた発表です。
 グリム童話、全211話において、貴金属(金、銀)、貨幣表現(財産、交換手段、価格表示などの価値を表す)、通貨(当時のドイツ語圏で使われていたいろいろな種類の通貨そのもの)が、どのくらいの頻度で登場したかを定量的に分析した非常に興味深い内容でした。
 貴金属では圧倒的に金(黄金)で、実に約40%のお話に登場して(銀は約13%)、富や美や特殊性を象徴しているそうです。
 洋の東西を問わずに、民衆の一番の願いは大金持ちになって(できれば苦労せずに)、今の苦しい生活から抜け出すことです。
 その象徴としての黄金は、圧倒的な魅力があるのでしょう。
 貨幣表現は、約32%のお話に登場して、一般的な価値を表現しているそうです。
 通貨に関しては、約15%のお話で使われていて、そのお話の時代や地域によって違う通貨が使われるので、8種類(その他に貨幣そのものを表す表現も)が登場するそうです。
 発表者が紹介してくれたように、貴金属、貨幣通貨に関して、定量的なインパクト(現代のお金に換算したらどのくらいの価値があったか)を読者に提示できたら、グリム童話の読みがかなり変わってくるかもしれません。
 発表後に、発表者に手法を尋ねたところ、ドイツ語のテキストファイルを検索ツールにかけて該当する表現をピックアップし、手作業で補正したとのことです。
 テキストがディジタル化されている現代では、このような定量的な分析が、昔よりもかなり容易になっています。
 発表者は、児童文学ではなく、西洋史(建築や経済など)の研究者とのことですが、児童文学の研究者でも若い世代にはディジタル・リタレシーの達者な人が増えていると思われるので、日本の昔話や民話について同様の分析をしたら、おもしろい結果が得られるかもしれません。

グリム童話集 5冊セット (岩波文庫)
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岩波書店
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山本麻里耶「「たのしい川べ」に登場するカエル君の役割」

2017-07-31 20:14:38 | 参考情報
 2017年7月29日に、日本児童文学学会7月例会で行われた発表です。
 動物ファンタジーの古典である、ケネス・グレアムの「たのしい川べ」について考察しています。
 従来、イギリス紳士を模したと思われるアナグマ、ネズミ(正確には川ネズミ)、モグラに対して、地主階級のとんでもない道楽息子として位置づけられていたカエル(正確にはヒキガエル)が、物語ではたしているユニークな役割に着目した興味深い発表でした。
 発表者は、その後の代表的なファンタジーである、バリーの「ピーター・パンとウェンディ」(その記事を参照してください)やミルンの「クマのプーさん」「プー横丁にたった家」では、作品世界があまりにアルカディア(理想郷)であったために、最後には主人公であるウェンディやクリストファー・ロビンが、立ち去らなければならないとしています。
 それは、これらの作品において、アルカディアが子ども時代の比喩であり、成長する存在である子どもたちは、いつかはそこを去らなければならないのでしょう。
 他の記事にも書きましたが、「子ども時代にさよならする」ことは、ファンタジーに限らず児童文学においては重要なモチーフであり、モルナールの「パール街の少年たち」、皿海達哉の「野口くんの勉強部屋」(その記事を参照してください)、那須正幹の「ぼくらの海へ」(その記事を参照してください)などのラストシーンで、鮮やかに描かれています。
 発表者は、そのような終わり方を物悲しいと表現していましたが、まさに児童文学あるいは文学の本質は、そこ(子ども時代はいつか終わるものですし、人間自体いつかは死ぬ宿命にあります)にあるのだと思います。
 それらと比較して、ヒキガエルのユニークな点は、最後に改心して立派な地主階級の人間になる(子どもから大人になる)ように見せかけて、実は本心は違うのではないかと思われる点(発表者が紹介したように、このことを指摘した先行研究があります)にあるとしています。
 そして、ヒキガエルのおかげで作品世界がたんなるアルカディアにならなくてすみ、沈滞した状況からやがてディストピアになる危険性を回避しているとしています。
 発表者は、地中(おそらく地方や労働者階級の比喩だと思われます)から川べ(おそらく紳士社会(特に引退後)の比喩だと思われます)に出てきて、友情に熱いネズミや頼りになる先輩のアナグマの助けを得て、立派な紳士になっていくモグラとの対比に注目しています。
 発表者は、彼らがどのような収入を得ているかが不明だと話していましたが、紳士たちのハッピーリタイアメント(生涯困らない財産をできるだけ早く築いて一線から退き、あとは好きなことをして暮らすことで、今でも欧米のビジネスマンにはそれを望んでいる人たちが多いですし、かつては日本でも隠居制度(伊能忠敬も隠居後に日本中を測量して地図を作りあげました)がありました)後の生活だと思えば不思議はありません。
 児童文学論的な観点で眺めると、モグラは典型的な成長物語の主人公であり、ヒキガエルはアンチ成長物語の主人公ということになります。
 そのために、一般的には「たのしい川べ」はオーソドックスな成長物語(いつかはお話が終わる)としても読めるのですが、一方で主人公が成長しない(おかげでお話も終わらない)遍歴物語として読めることになり、「たのしい川べ」が長い間子どもたちに読み継がれている大きな理由のひとつになっているかもしれません(成長物語と遍歴物語の詳しい定義については、児童文学研究者の石井直人の論文を紹介した記事を参照してください)。
 それでは、ケネス・グレアムは、なぜこのような作品を書いたのでしょうか?
 「たのしい川べ」の訳者の石井桃子のあとがきによると、ケネス・グレアムは弁護士の子どもとして生まれたのですが、父親が酒におぼれたり母親が早くに亡くなったりして、厳しい少年時代をおくったようです。
 苦学した後に銀行に就職して、地位や財産を得てから遅くに家庭を持ったので、男の子(アラステア)が生まれたのは彼が42歳の時でした。
 そして、そのアラステアに語る(のちに手紙にも書きました)形で、「たのしい川べ」はできあがったのです。
 ケネス・グレアムは、バリーやミルンのような職業作家ではありません。
 私自身にも経験がありますが、そのような少年時代をおくった父親が自分と比較して幸せそうに見える息子に語る物語には、子どもの今の幸せがいつまでも続くことと将来の成長に対する願いの両方がこめられていたことでしょう。
 それは、モグラ(ケネス・グレアム自身でしょう)のように社会に適合していく(大人になる)ことと、その一方でヒキガエルのようにいつまでも楽しい少年時代をおくっている子どものままでいてほしい(大人にならない)という、相矛盾するものが含まれているものなのかもしれません。
 

たのしい川べ (岩波少年文庫 (099))
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岩波書店
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7月28日(金)のつぶやき

2017-07-29 04:54:51 | ツイッター
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尾辻克彦「父が消えた」

2017-07-28 20:58:02 | 参考文献
 第八十四回(昭和五十五年下半期)芥川賞の受賞作です。
 年下の友人(編集者?)と、霊園を訪ねて中央線の終点の高尾まで行く話です。
 その車中で、最近亡くなった父や家族たちや若いころの自分を思い出していきます。
 戦前はあたりまえだった七人兄弟や祖父母を含めた大家族が、就職や結婚などで家(団地)を離れ、年老いた両親だけが残ります。
 父が寝込むようになって、ほとんど繋がりのなかった家族が再集結して、当たり前のようにみんなが手を貸して長男が両親を引き取る様子が感動的です。
 つつましい生活(みんな団地やアパート暮しです)ながらも、まだ大勢で少数の老人を支えることができた古き佳き時代が懐かしいです。
 ただ、何人かの選考委員も指摘していましたが、父の話が終わって、都営霊園を訪ねる場面は平凡で退屈でした。
 質素で小さな墓石のならぶ都営霊園と、隣の大きな墓が立ち並ぶ私営の霊園を対比させて、死後も格差がつきまとう資本主義社会を風刺している(私営霊園にマンションとルビをふっています)のでしょうが、その書き方が浅薄で艶消しでした。

父が消えた (河出文庫)
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河出書房新社
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今野勉「宮沢賢治の真実」

2017-07-28 20:49:40 | 参考文献
 宮沢賢治全集を読み直して発見した、賢治の真実(著者はそう称しています)の姿について推理していく本です。
 初めに、彼自身がそれまでに抱いていた四人の賢治が示されます。
 一人目は、「生命の伝道者」で、思想家であり、実践者であり、夢想家であるとしています。
 二人目は、「農業を信じ、農業を愛し、農業に希望を託した人」で、農業と芸術の融合を夢見ていたとしています。
 三人目は、「野宿の人」で、幼いころからの野外での実体験が、賢治の身体性、感性、思想の根源を作り上げたとしています。
 四人目は、「子どものお絵描きのように詩を作る人」で、心に浮かんだ風景を次々に言葉にしていく(いわゆる心象スケッチです)としています。
 賢治の読者の多くは、これらには首肯するでしょう。
 この本では、五人目の賢治を探すことを目的しています。
 前記した四人以外の賢治としては、一般的には科学者や教育者としての賢治などがあげられることが多いでしょう。
 しかし、作者の挙げる五人目の賢治は、ずばり「恋愛する賢治」なのです。
 ここでいう「恋愛」の対象は、妹のとし子(これは従来から指摘されていることです)、とし子の花巻高等女学校時代の恋愛事件(新任の音楽教師と他の女学生との三角関係)、賢治の同性愛の相手(賢治にその傾向があることは周知のことですし、それに関する先行文献もあります)です。
 この本では、文語詩「猥れて嘲笑めるはた寒き」からスタートして、詩「マサニエロ」、とし子の恋愛事件(新聞(今でいえば文春のようにゴシップも取り扱っていた新興のローカル紙)にすっぱぬかれました)と後に彼女が当時のことを書いた自省録、賢治の同性愛、そしてこれらの「恋愛」の観点からの「春と修羅」や「永訣の朝」や「銀河鉄道の夜」などの新解釈が書かれています。
 全集の読み直しや多数の先行文献の調査などを経ての労作ですが、書き方が初めから結論ありきなのが気になりました。
 事実や選考文献をもとに論を順序立てて組み立ていくというよりは、直感的な推論や選考文献などの都合のいい部分のつまみ食い的な引用などに頼りすぎていて、論文というよりは(推理)読み物的な風合いです。
 確かに、作者が主張する観点から作品を眺めればそう読めないこともないのですが、それは作者自身も最初に指摘しているように非常に多面的な人物だった賢治のある一面にすぎないので、「真実」とうたうのは言いすぎではないでしょうか。
 しかし、作者が主張している解釈には新しい発見も多いようなので、第三者が裏付けを取る必要はあると思いました。

宮沢賢治の真実 : 修羅を生きた詩人
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新潮社

 
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川上未映子「いちご畑が永遠につづいてゆくのだから」愛の夢とか所収

2017-07-28 04:49:33 | 参考文献
 ストーリーはなく、ささいなことでいさかいを起こしたと思われる男女の関係を、女性からの視点で、以下のタイトルの短文でつづっています。
 待機。結局。訓練。内部。冷蔵庫。見惚れる。却下。復讐。決定。寝室。夜の底。
 散文というよりは、連作詩のような味わいがあります。
 普通の散文の短編集の中に突然このような作品があると、ドキッとします。
 児童文学の世界では、ストーリーがなく発想の連鎖で書かれた作品としては、岩瀬成子の「あたしをさがして」が有名ですが、あの作品は発想がどんどん外へ向かっていったのに対して、この短編は男女関係の内部に収斂していく感じで、児童文学でもこのようなタッチで子どもたちの関係を描いたらどのようになるのかと興味がわきました。


愛の夢とか
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講談社
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吉行理恵「小さな貴婦人」

2017-07-28 04:45:55 | 参考文献
 第八十五回芥川賞(昭和五十六年上半期)の受賞作品です。
 作者は、父吉行エイスケ、兄淳之介、姉和子という芸術家一家に育って、受賞した時点ですでに詩人としては世に認められた存在でした。
 九年間一緒に暮らした愛猫「雲」に死なれた、今でいうペットロス状態が回復していく様子を、鋭い感性と確かな散文とで描いた小品です。
 作者の分身と思われる主人公、「猫の殺人」という連載を書いている老女性詩人G、手作りのぬいぐるみを売る店「竜太」の主人で霊感のある美しい女性志野の三人を中心にした、主に「竜太」を舞台にしてほぼ女性だけで構成された作品は、嫌世、嫌男性感が漂う不思議な世界です。
 「小さな貴婦人」というのは、「竜太」に置かれていた非売品の猫のぬいぐるみで、志野が留守中に店員が誤って主人公に売ってしまったものです。
 実はGも内心欲しがっていたもので、主人公に「小さな貴婦人」が売られた(Gは知りません)ことにより、三人の関係に小さな葛藤が生まれます。
 いろいろな小さなエピソードを経て、「小さな貴婦人」は次第に主人公のペットロスを癒していきます。
 「雲」が死んだ時にできたこめかみにできた茶色のしみが薄れていたことに主人公が気付くラストが鮮やかです。 
 作中作の「猫の殺人」は断片しか書かれていませんが、猫の王女を主人公としたメルフェンのようで、実世界の部分と共鳴して、作品全体が童話のような小説なような散文詩のような不思議な雰囲気を醸し出しています。
 最近は出版を意識した長い作品にばかり賞が与えられますが、本来の芥川賞は、このような今までにない新しい短編に与えられるべき賞なのです(芥川龍之介の作品のようなイメージです)。
 商業出版に向いた作品には、直木賞が用意されているのです(直木三十五の作品のようなイメージと言っても知っている人は少ないでしょうが)。
 ところで、この時の選考委員はそうそうたる顔ぶれで、「小さな貴婦人」は最終投票で七対三と賛成が多くて賞を勝ち得ます。
 賛成票を投じたのは、安岡章太郎、丸谷才一、吉行淳之介(作者の十五歳年上の実兄で、芥川賞初の兄妹受賞と当時話題になりました)、中村光夫、遠藤周作、井上靖、瀧井孝作。
 反対したのは、大江健三郎、丹羽文雄、開高健。
 選評の文章に、それぞれの文学観がうかがえて興味深いです。

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7月25日(火)のつぶやき

2017-07-26 05:02:34 | ツイッター
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万城目学「法家弧憤」悟浄出立所収

2017-07-25 11:06:09 | 参考文献
 時代はさらにさかのぼって、秦の始皇帝の時代です。
 今回の主役は、他の短編と違って歴史上有名な人物ではなく、架空の一小官吏です。
 主人公と名前が同音のために、彼と人生が入れ替わってしまったテロリストとの運命が交錯します。
 法治国家の建設とテロリストを英雄視する市井の人々といった、現代でも世界のどこかで行われているような事件を、紀元前の世界を舞台に描いています。
 ただ、登場人物になじみがないせいか、全体に地味な印象を受けました。
 児童文学でも、無名の人物を主人公にした時代物の作品はありましたが、架空の国でのファンタジーが全盛の現在では、ほとんど出版されていません。
 
小さな貴婦人(新潮文庫)
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新潮社
悟浄出立
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新潮社
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二宮由紀子「あるひ あひるがあるいていると」

2017-07-25 11:02:56 | 作品論
 「あいうえおパラダイス」シリーズの第一作目です。
 以下の五つの短編が含まれています。
 「ある日 あひるが 歩いていると」
 「いつも いっしょの イカと イルカ」
 「うれしくなった ウシ」
 「えびと えんどうまめと えんとつと」
 「お客さまは おおかみさん」
 もう分かりますね。
 それぞれの短編で使われているすべてのことばが、「あ」、「い」、「う」、「え」、「お」で始まっている言葉遊びの本なのです。
 やや固有名詞(あひる、イカ、イルカなど)に頼っているきらいはありますが、それぞれナンセンスなお話にまとめ上げている腕前はなかなかのものです。
 ただし、「お客さまは おおかみさん」は、丁寧語の接頭詞の「お」に頼りすぎていて、それはずるいよなという感じです。
 この「あいうえおパラダイス」シリーズは好評なようで、他に以下の8作があります。
 「からすと かばの かいすいよく」
 「さかさやまの さくらでんせつ」
 「たぬきの たろべえの たこやきや」
 「なぎさの なみのりチャンピオン」
 「はるは はこべの はなざかり」
 「まくわうりと まほうつかい」
 「やさいぎらいの やおやさん」
 「らった らった らくだの らっぱ」


あるひあひるがあるいていると (あいうえおパラダイス あ)
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理論社
 
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7月20日(木)のつぶやき

2017-07-21 04:59:21 | ツイッター
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村中李衣「わたしの「ズッコケ」体験記」日本児童文学2005年1-2月号

2017-07-20 16:19:24 | 作品
日本の児童文学におけるエンターテインメントシリーズの最初の成功作である「ズッコケ」シリーズが終刊するに伴って、雑誌「日本児童文学」で特集された際のエッセイの一つです。
 まず、「ズッコケ」がスタートした1978年からの約25年の間に、子どもたちを取り巻く環境が大きく変化したことを三つのキーワードをあげて述べています。
 一番目は、シリーズの主人公である「三人組」です。
 かつては、子どもたちの世界で存在していた個性の異なるメンバーで構成されていた小グループが消滅して、人間関係がより単純化される「ペア」か、人間関係があいまいな「みんな」になってしまっていると指摘しています。
 その原因として、お題目のように「個性を伸ばす」といいながら、実は子どもたちを没個性化させている学校教育をあげて、、那須正幹が作品内でデフォルトしたキャラクターだとはいえ、今の時代(2005年)では、ハチベエもモーちゃんもハカセも、学校では問題児として取り扱われるだろうとしています。
 この文章が書かれてから十年以上がたち、この傾向がますます顕著になっているのは言うまでもありません。
 二番目は、「身体知」です。
 何事にも、三人が体当たりで経験していくのがこのシリーズの魅力なのですが、勉強も遊びも大人がおぜん立てをした範囲でしか体験できない子どもたちからは、「身体知」を得る機会は奪われて、受け身の「学問知」や情報ラッシュに押しやられ見る影もないと嘆いています。
 この文章が書かれたときにはまだ普及していなかったスマホが、すでに小学校高学年の子どもたちに普及していて、子どもたちが「身体知」を得るチャンスはますます失われています。
 なにしろ、かつてのスーパーコンピュータよりもはるかに優れた性能を持った機器を、子どもたちは常に携帯しているのですから。
 今では、「学問知」や情報ですら他人に問う必要はなく、SiriやGoogleに尋ねているのです。
 さらにAI機器の小型化高性能化が進めば、「問う」という行為さえいらなくなるかもしれません。
 過去の傾向から導き出されたその人にとっての最適な行動が、自動的に機械から指示される時代が来るのです。
 三番目は、「商店街」です。
 かつての地域社会を構成していた商店街における人間関係は完全に失われ、コンビニと無個性な大型ショッピングモールに二極化された消費社会において、子どもたちは親や教師以外の大人たちとは全く切り離された形で成長せざるを得なくなっています。
 最後に、作者はズッコケシリーズの登場人物が、巻を追うごとにどんどん饒舌になっていっていることを指摘しています。
 かつては、子どもたちに共有されていたコモンセンスが失われ、それぞれが切り離された形で存在しているために、より事細かに情報を伝達しなければ、人間関係が成立しなくなっているのです。
 この傾向は、児童文学に限らず一般文学でも、特にエンターテインメント系の作品では、顕著になっています。
 他の記事にも書きましたが、文学作品から描写がどんどん失われて、モノローグやダイアローグの形で、作者が伝えたいことがより説明的に表現されるようになっています。
 これは、読者の受容力や文学に何を求めるかが変わってきているのも、その原因の一つだと思われます。

日本児童文学 2017年 08 月号 [雑誌]
クリエーター情報なし
小峰書店


 
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7月19日(水)のつぶやき

2017-07-20 04:43:43 | ツイッター
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川上未映子「お花畑自身」愛の夢とか所収

2017-07-19 08:59:02 | 参考文献
 夫の事業の失敗で、丹精込めて手入れしていた自宅と庭を失うことになった五十代後半の主婦の話です。
 今はウィークリーマンションに身を寄せている主人公は、家があきらめきれずに時々のぞきに行っています。
 そこでは、新しい住人の三十代独身の女性作詞家が一人で暮らしています。
 作詞家が外出した時に、主人公は我慢できずに庭に水やりをしてしまいます。
 家や庭への執着が強いあまりに、精神のバランスを崩しているのかもしれません。
 帰ってきた作詞家と出くわして対決する羽目になります。
 最後に、庭への未練を断つためと称して、主人公は作詞家に庭へ埋められます(顔は外に出ているので、殺されたわけではありません)。
 全体を通して、作詞家という有職女性を通して、川上の専業主婦に対する蔑視感が強く表れています。
 特に主人公の場合、子どもがいないので専業主婦で人生をおくってきたことに正当性を主張できません。
 しかし、主人公は五十代後半で、夫はそれより年上なので団塊世代なのでしょう。
 その年齢の夫婦が、夫を仕事に集中させるために女性を専業主婦化させた社会的ないし政治的背景(その方が会社も国も効率が良かったのです)が無視されていて、この書き方は主人公にとってむごい気がします。
 たしかに、三十代のどちらも成功した作家夫婦である川上からすると、このような女性に対する優越感はあるのでしょうが、もう少し相手の世代の立場に立った視点が必要だったのではないでしょうか。
 児童文学にも多くの専業主婦が登場しますが、それを既得権のように主張したり若い世代が反動的にそれに憧れたりするのは決して肯定できませんが、前述したような歴史的な背景を理解した上で書かれるべきだと思います。
 
愛の夢とか
クリエーター情報なし
講談社
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7月18日(火)のつぶやき

2017-07-19 04:41:25 | ツイッター
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