主人公の女の子は、春休みに、ママが働いている山の上遊園地に遊びに行きます。
ひょんなことから、けがをしたママの代理で、ウサギの着ぐるみに入って、ヒーローショーに出演することになります。
そこで、相手に気が付かれないうちに、憧れの男の子である「王子」と知り合いになります。
小学校高学年の元気な女の子の様子が素直に描かれていて、好きな男の子に対する気持ちも自然に読み取れました。
主人公の女の子は、春休みに、ママが働いている山の上遊園地に遊びに行きます。
ひょんなことから、けがをしたママの代理で、ウサギの着ぐるみに入って、ヒーローショーに出演することになります。
そこで、相手に気が付かれないうちに、憧れの男の子である「王子」と知り合いになります。
小学校高学年の元気な女の子の様子が素直に描かれていて、好きな男の子に対する気持ちも自然に読み取れました。
1966年公開のシドニー・ポアチエ主演のイギリス映画で、日本でもヒットしました。
ロンドンのダウンタウンの学校に赴任してきた黒人の教師と、卒業してもうすぐ社会に出る生徒たち(イギリスの義務教育は11年制で、その最終学年なので16歳)との交流を描いています。
初めは技師の仕事が得られるまでのつなぎの仕事だと思っていた主人公が、だんだん教師の仕事に熱中していって、ラストシーンではせっかく決まった技師としての採用通知を破り棄てます。
荒れた不良少年少女のたまり場のようだったクラスを、愛情と情熱、そして何よりも彼らを一人前の大人として扱うことによって心を開かせていきます。
背景として、貧困、人種差別、教育の荒廃などを描いている点も優れていると思います。
主演のシドニー・ポアチエは、1955年のアメリカ映画「暴力教室」に生徒役で出演していますから、同種の映画に教師役と生徒役の両方で出演したことになります。
日本でもヒットしたのは、当時の日本と英国の社会に共通点(階級闘争、反米感情、教育の荒廃、高度成長による格差の増大など)があったからでしょう。
この映画には、以下のように「現代児童文学」と共通しています(カギカッコ内はいわゆる狭義の現代児童文学の理念です。詳しくは、関連する記事を参照してください)。
「散文性の獲得」ロンドンのダウンタウンの様子を写実的に描写しています。
「子どもへの関心」ダウンタウンの子どもたち(16歳なのでグレードとしてはヤングアダルトになります)の風俗を的確にとらえています。
「変革の意志」ひとつのクラスを生き返らせただけでなく、ラストシーンで来年受け持つであろう男女の不良生徒たちを登場させ、それでも教師を続けることを選ばせて、主人公の変革の意志がこれからも続いていくことを暗示しています。
「おもしろく、はっきりわかりやすく」主題歌をはじめとしたポピュラーミュージックやダンスシーンを多用して、ともすればかたくなりがちなテーマを明るい娯楽作に仕立てています。
ところで、今回は出演者の一人であるルルの歌う主題歌(映画以上に大ヒットしました)を60年代のヒット曲集の中で聞いて、むしょうに映画も観たくなったのですが、実際に見るまでに結構苦労しました。
原因は、映画がディジタル化されていなくて(ハリウッド映画はかなりディジタル化の作業が進んでいるのですが、ヨーロッパ映画は立ち遅れているようです)DVDやブルーレイがないので、どこの宅配レンタルにも、レンタルショップにも在庫がなかったからです。
また、CSやBSの映画チャンネルでも放送予定はありませんでした。
けっきょく灯台元暗しで、いつも利用している図書館でVHSテープを借りることができました。
せっかくメモリやいろいろな記憶媒体の大容量化が進んでいるのですから、過去のアナログの映像はどんどんディジタル化してほしいものです。
このあたりにも商業主義がはびこっていて、ビジネスにならなければ民間ではディジタル化の作業をやらないのでしょう。
そのため、国家レベルでこうした文化財の保護をしてもらいたいと思います。
これは児童文学も同様で、今はまだ図書館でほとんどの本を借りることができますが、過去の作品の電子書籍化をもっと推進しないと、そのうちに散逸してしまうことでしょう。
いつも心に太陽を [VHS] | |
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ソニー・ピクチャーズ エンタテインメント |
「目をさませトラゴロウ」で有名なナンセンスファンタジーの名手の著者が、児童文学研究者の石井直人が「戦後児童文学の批評における最大の書物」と評する石井桃子たちの「子どもと文学」(私自身も、高校時代にこの本を読んで児童文学を志すきっかけになりました)のファンタジー論を批判した論文です。
「現代児童文学論集3 深化と見直しのなかで」にも収められていますので、バックナンバーを探さずに読むことができます。
著者は、冒頭でファンタジーについて以下のように仮に規定しています。
「童話の中では、現実には起こりえない事象、または自然の法則反する事象、たとえば、トラがバターに変わるといった事象(注:「「子どもと文学」で普遍的な価値を持つ作品の例としてあげた「ちびくろサンボ」のことをさしています)が、しばしば起る。そのような事象をひとまず<ファンタジー>と名附け、そのような事象の起こり得る世界を<ファンタジー世界>と呼ぶとして、<後略>」>
そして、「子どもと文学」でのファンタジーの発生の文章を引用した上で、著者は<子ども>について以下のように定義しています。
「<前略>子どもは、たとえば形而下的には<学校>に象徴され、形而上的には<童心の世界>として表現されるような、子ども独自の空間と時間の中に、いわば閉じ込められ、一切の物質的手段をおとなたちから与えられ、また貸し与えられて生きる存在となる。」
そして、「子どもと文学」の主張は、以下のような技術論に限定されていると批判しています。
「「子どもと文学」の功績とは、結局のところ、ファンタジーの中からそのような<貸与物>としての痕跡を消し去る技法についての考察をめぐらした点にあるのではないだろうか。」
著者は、子どもたちの目を、現実的な状況に向かって開かせるべきときが来ているように思われると述べています。
そのためには、ファンタジー作品が「自からのファンタジー性について告白するための方法を考え始めなければならないのだ。」と主張しています。
自作の「一つが二つ」(「目をさませトラゴロウ」所収、その記事を参照してください)を例にあげて、増やすべきものを持っていないトラがいる限りにおいては、「<一つのものを二つにする機械>のファンタジー性は、ついに<二つのものを一つにする機械>というファンタジー以外の何物でもない存在を生みださずにおかないのだ。」と、述べています。
ここでは、我々の世界に持つ者と持たざる者が存在する限りにおいては、<一つのものを二つにする機械>のような「ファンタジー世界」は、自らの「ファンタジー性」を告白しなければならないという以下のような著者の主張が込められています。
「機械のファンタジー性をあばくことによって、トラ(注:子どもたちも含めた我々を象徴していると思われます)の不完全性なり、トラの生きる世界の未完成性なりをよりいっそう証かすことも可能な筈なのだ。」
最後に、やや長くなりますが、この論文の結論を引用します。
「そして今のところ、ぼくたちがそれらについて書き得ないとしても、少なくともこれらを書き得ないということについては、表現できるのではないだろうか。
言うまでもなくそれは、堅牢に組立てられたファンタジー世界の土台をゆるがさずにはおかないだろう。だが、それをゆるがすものは、<外の世界からのすきま風>などではなく、ファンタジー世界の中に不意とふき起る烈風によってであろう。
そして、その烈風は何よりもファンタジー世界の住民たちによって起こされなければならないのであり、そのためにぼくたちは、彼らの目を、<ファンタジー存在>として自からの不完全性に、そしてまた、自からを<ファンタジー存在>たらしめている世界の未完成な姿に向って開かせ、その両者を死滅させる方法について思いめぐらせはじめなければならないのだ。」
著者のこの「子どもと文学」への批判は、背景に「少年文学宣言」(その記事を参照してください)のグループ(著者も早稲田大学在学時に少年文学会のメンバーでした)の創作理論があります。
特に、その中でも「変革の意志(世の中を変えていこうという思い)」は、この論文が書かれた1960年代半ばには70年安保の挫折の前なのでまだ破たんしていませんでした。
著者の主張は、「子どもと文学」が技術論(「おもしろく、はっきりわかりやすく」)に傾きすぎていて、作家の主体性や思想性が欠けていることへの批判です。
タイトルの「ファンタジーの死滅」という反語的表現には、この「子どもと文学」のファンタジー論を乗り越えてパターン化しないファンタジーを創造していこうという著者の願いが託されています。
同様の批判は、「子どもと文学」が出てすぐの1960年に、同じく「少年文学宣言」グループの神宮輝夫からも「新しいステロタイプになる恐れがある」となされていました。
それから六十年近くが経過した現在、小沢や神宮の危惧はまさに的中し、作家性や思想性のない「おもしろく、はっきりわかりやすい」安直なファンタジー(リアリズム作品さえも)が、児童文学界にはあふれています。
2020年公開のフランス映画です。
子供の心を持った男性(40才ぐらいですが、仕事場にローラースケートで通い、自宅はおもちゃや人形や飛び出す絵本にあふれています。猫も一匹います)と、傷ついた人魚が、セーヌ河畔で運命的に出会います。
人魚は歌声で男性を恋に陥らせて命を奪う能力を持ちますが、なぜか主人公には通じません。
彼女を治療した二日間に、二人は恋に落ちます(男性だけでなく人魚も)。
ストーリー自体は、絵に描いたようなハッピーエンドのロマンチック・コメディですが、ファンタジックな味付けが効いています。
全編、レトロな映像と音楽に溢れていて、すごくオシャレな映画です。
そういった雰囲気は好みの分かれるところだと思いますので、万人向きの映画ではないかも知れません。
雪国の冬景色を背景に、老女と彼女の亡き夫の教え子(知的障害があると思われます)との交流、そして不思議な居酒屋や雪女(外国人の若い女性の姿をしています)などとの関りが描かれています。
著者得意の雪国(山形県と思われます)の風習や雪国の描写がふんだんに用いられ、幻想的な雰囲気を漂わせています。
事実、この作品のもとになるものは、雪の町幻想文学賞で準長編賞に選ばれています。
同じ著者の「はじめての認知療法」の記事でも紹介しましたが、うつや不安に対する療法として、薬物療法と同等以上の効果があり、薬物療法と併用することによってさらに効果が得られる「認知療法(認知行動療法)」を、医療機関やカウンセリング施設にかからずに、自分でマスターできる自習帳です。
現在では、認知療法は日本でも広く知られるようになり、同種の本もいろいろと出版されていますが、この本はそれ以前(2003年刊行)に出版された初めての自習帳です。
この本の各モジュール、ストレスに気づこう(ストレスチェック)、問題をはっきりさせよう(問題リスト)、バランスのよい考え方をしよう(コラム法)、問題を解決しよう(問題解決技法)、人間関係を改善しよう(アサーション)、スキーマに挑戦しよう(スキーマの改善)を順に自習してマスターできれば、読者の生活はかなり改善されます。
特に、コラム法と問題解決技法は、「うつや不安」に悩んでいない人にも有益で、仕事、家庭生活、勉強などに幅広く応用できます。
私自身も、これらの方法をマスターすることにより、問題解決能力を高められましたし、こうした問題を抱えた人の状況の改善を手助けすることもできました。
ただし、この分野は日進月歩なので、新しい本(同じ著者ならば「はじめての認知療法」(その記事を参照してください)など)も合わせて読むことをお勧めします。
特に、コラム法のシートは、問題解決技法と結びつけるために改善されています。
こころが晴れるノート―うつと不安の認知療法自習帳 | |
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創元社 |
はじめての認知療法 (講談社現代新書) | |
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講談社 |
児童文学における物語のパターンとして有名なものに、「旅人」と「定住者」があります。
一番わかりやすく有名なものは、イギリスファンタジーの古典であるケネス・グレアムの「楽しい川辺(THE WIND IN THE WILLOWS)」の第9章「旅びとたち」でしょう。
トールキンの「ホビットの冒険」や「指輪物語」、それらに影響を受けたと言われている斉藤惇夫の「冒険者たち」の冒頭部分も、このパターンを踏襲しています。
普段の平凡だけど安定した生活に満足していた「定住者」は、いつの世も、不安定だけど常に何かを求めて移動し続けている「旅人」に憧れを持っています。
ホビットのビルボやフロドも、ネズミのガンバも、「旅人」たちに刺激を受けて、住み慣れた居心地のいい我が家を離れて、冒険の旅へと出発します。
ある者ははるかかなたの遠い世界へ、そしてまたある者は異世界へと、いづれも旅立つ先は芳醇な物語の世界です。
いえ、物語の世界だけでなく、現実世界でも同様でしょう。
沢木耕太郎の「深夜特急」が、いつの時代でも「旅」を夢見る若者のバイブルであるように、我々も機会さえあれば日常から旅立ちたいのです。
一般文学でもこの「旅人」と「定住者」のパターンは使われているのですが、特に児童文学で有効なのは、「旅人」が成長して変化し続けている「子ども」の、「定住者」が成長を終えて同じところに留まっている「大人」の比喩になっているからでしょう。
たのしい川べ (岩波少年文庫 (099)) | |
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岩波書店 |
ここでケストナーが言っているのは、同人誌の合評会などでよく議論される「大人の読みと子どもの読みは違う」ということではありません。
子どもが読書しているときの没入の深さのことです。
私自身も、子どものころは、好きな本を読んでいるときには、まわりはまったく見えない、音も聞こえないぐらい深く物語の世界に入り込めました。
そういった経験は、三十代半ばぐらいで終わってしまったように記憶しています。
その代わりに、自分の子どもが、学校から本を読みながら帰ってきて、家の前に私が立っているのにまったく気が付かずに、玄関へ向かっていったことを経験しました。
その本は、吉川英治の三国志でした。
今の日本で、そこまで没入できる児童書はどのくらいあるでしょうか?
おそらく、マンガやアニメやゲームの方が、そういった経験をさせてくれることでしょう。
ただ、海外では、その後も同じような読書体験を目撃したことがあります。
サンフランシスコ国際空港に着いたとき、レンタカー会社の迎えのバスの中で、まわりのことに一切関係なく、ひたすら分厚い本を読みふけっているアメリカ人(たぶん)の女の子がいました。
その本は、ハリー・ポッター・シリーズの新刊でした。
子どもと子どもの本のために (同時代ライブラリー (305)) | |
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岩波書店 |
別の記事で紹介した「児童文学の魅力 いま読む100冊 日本編」に載っている作品で一番古いのは、編集委員たちの定義による現代日本児童文学の始まりである1959年より前の1957年10月に出た石井桃子の「山のトムさん」です。
他の記事で書いたように、私は現代日本児童文学の出発は1953年だと主張しています。
編集委員たちがなぜこの本を取り上げたのかは不明ですが、読んでみると私の1953年説を裏づけてくれる作品でした。
この作品が書かれていたころは、すでに1955年から「子どもと文学」のための討議が開始されていたので、彼らが目指した新しい児童文学(現代日本児童文学と置き換えてもよいと思います)を意識して、創作がなされたことと思います。
この作品は、作者が戦争直後の食糧難の時代に、東北の村で作者の言葉を借りると素人百姓をしていた時の経験に基づいて書かれています。
ともすれば、苦労話になりそうな題材を、トムという名の猫を通して明るい筆致で描いています。
トムは、100パーセント愛玩のために飼われていて家の中に閉じ込められている現代の猫たちとは、まったく違います。
もともとネズミの被害に苦しんでいた作者たちの家族が、最後の頼みとしてもらってきた猫の子なのです。
トムは家の中だけでなく、周囲の自然や時には少し離れた集落まで遠征して自由に暮らしています。
作者の鋭い観察眼を通して、トムの生き生きした姿、そしてそれと関連して周囲に何とか溶け込んで暮らしていこうとしている東京から来た家族(トシちゃん、おかあさん、おかあさんの友だちのハナおばさん(たぶんこれが作者)、おばさんの甥のアキラさん)の様子が明るく描かれています。
東北の山奥の開墾地で暮らしながら、英米児童文学に造詣の深い作者ならではのモダンな様子(トム・キャット(雄猫)という名前、クリスマスのプレゼント交換など)も随所に現れます。
「児童文学の魅力 いま読む100冊 日本編」で、作家の中川李枝子はこの作品について、
「食べることが容易でなく、日本中が飢えていた戦後のこの混乱期、おばさんたちのような女・子どもだけの寄り合い所帯で、しかも全くの素人百姓が、開墾したり、牛や山羊を飼ったり、田植をしたり、薪あつめをしたりの肉体労働を、万事、村のお百姓と対等にやっていくというのは、並大抵ではなかったはずだ。が、おばさんもお母さんも弱音を吐かず、ユーモアを失わず、助け合ってやっていく。そして山の家の人たちは自然の美しさに目を見張り、感嘆し、いろいろな楽しみを発見する。トムは、その人たちの生活の中心におさまったのだった。」
と、書いていますが、私もまったく同感です。
この作品は1959年よりも前に書かれていますが、それまでに書かれていた生活童話などとは明らかに一線を画した「現代日本児童文学」です。
平明で読みやすい豊かな「散文性を獲得」し、戦後の混乱期を生きるために労働する「子どもたちの様子を捉えながらもユーモアを忘れずに描いて子どもの読者も獲得」し、苦しくとも明るさを失わずに新しい時代を拓いていこうという「変革の意志」を備えています。
上記の文で「」で囲った点は、児童文学研究者の宮川健郎によってまとめられた「現代児童文学」の特徴です。
もう70年近くも前に書かれた作品ですが、今でも古びずに読み継がれるだけの普遍的な価値を持っています。
山のトムさん (福音館創作童話シリーズ) | |
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福音館書店 |
日本の物語絵本のロングセラーです。
初版は1974年で、私が読んだのは2001年の158刷です。
見開きに描かれた保育園の全景に、「ここは さくらほいくえんです。さくらほいくえんには、こわいものが ふたつ あります。」という文章で、おはなしは始まります。
次の見開きには、左に押入れの絵があって「ひとつは おしいれで、」の文章が書かれ、右には「もう ひとつは、ねずみばあさんです。」の文章とねずみばあさんの絵があります。
ラストは、みんなが楽しく遊んでいる保育園の全景が描かれて、以下の文章が書かれています。
「さくらほいくえんには、とても たのしいものが ふたつあります。ひとつは おしいれで、もうひとつは ねずみばあさんです。」
「こわいもの」から「とても たのしいもの」への変化が、読者が素直に実感できるところが、この絵本のもっともすぐれた点でしょう(もちろん、それが作者たちのねらいなのですが)。
体罰として閉じ込められる真っ暗な押入れ。
水野先生が演じる恐怖のねずみばあさん。
それらが合体して、二人の男の子たちを冒険の世界へ誘います。
暗闇という原初的な恐怖が生んだ意識と無意識の世界(「かいじゅうたちのいるところ」の記事を参照してください。)、現実と空想の境を超越して、二人の冒険の世界が広がります。
男の子たちの友情、ねずみばあさんの恐怖、ネズミたちとの戦い、子どもたちの大好きなおもちゃの活躍、「子どもの論理」の「大人の論理(体罰など)」への完全勝利、楽しい思い出の反芻など、子ども読者の立場からはほぼ完ぺきな絵本だと思われます。
また、児童文学者の安藤美紀夫は、「日本語と「幼年童話」」(その記事を参照してください)という論文で、「物語絵本」の成立要件として、以下のように述べています。
「その時、まず考えられることは、長編の構想である。物語絵本は、そこに文字があろうとなかろうと、少なくとも二十場面前後の<絵になる場面>が必要なことはいうまでもない。そして、<絵になる場面>を二十近く、あるいはそれ以上用意できる物語といえば、いきおい、起承転結のはっきりした、ある種の山場を伴う物語にならざるを得ない。たとえそれが<行って帰る>といった一見単純な物語であっても、である。」
この作品は、安藤の定義する「物語絵本」の成立要件を、完全に満たしています(もしかすると、安藤が1983年に論文を書いた時には、この作品が念頭にあったのかもしれません)。
最後に、この作品の歴史的および現時点での価値とは無関係なのですが、「押入れに閉じ込める」という設定自体が体罰あるいは虐待と受け取られて、現在の保育園を舞台にした場合には成立しにくいかもしれません(もちろん、作者たちは体罰を明確に否定していますが)。
古田足日先生は2014年にお亡くなりになりました。
先生のご冥福を心からお祈り申し上げます。
おしいれのぼうけん (絵本ぼくたちこどもだ 1) | |
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童心社 |
幼稚園や保育園で購入できる「こどものくに」の一冊です。
ありたちが巣から引っ越すことになり、その大変な様子が、絵に膨大なセリフが書かれていて、詳しく語られます。
特に、ありたちが一番危険な奴としているあっくんという男の子との攻防は、なかなかスリルがあります。
最後は、あっくんが落としたクッキーを手に入れて、めでたしめでたしです。
幼い読者たちが興味を持てるような工夫が、全編になされています。
2021年公開のイタリア映画です。
丘の上の広場にある小さな古書店の初老の店主と、そこを訪れる個性豊かな客(古書の売り手や買い手)や隣人(カフェのウエイターとその恋人)との交流が描かれています。
店主と顧客との会話は、ユーモアとセンスにあふれ、観客を楽しませてくれます。
特に、アフリカ移民の少年との交流(店主が選んだ児童文学の古典(「ピノッキオの冒険」、「イソップ寓話集」、「白鯨」、「白い牙」、「星の王子さま」、「ロビンソン・クルーソー」、「アンクル・トムの小屋」、「ドン・キホーテ」)を少年に無償で貸して読ませています)は、それ自体が優れたブックガイドになっています。
2022年のアメリカ映画です。
スウェーデン映画の「幸せな独りぼっち」(その記事を参照してください)のハリウッドでのリメイクです。
名優トム・ハンクスが企画して、自分で主演しました。
舞台をアメリカに移し替えるための変更(主人公と触れ合い、彼を変えていく隣人家族は、イラン人ではなくメキシコ人など)を除いては、ほぼ元の映画のストーリーを忠実に再現しています。
ただ、主役のトム・ハンクスが頑固な老人というよりは、理知的すぎて理屈っぽい老人という感じはします。
呪うことしかゆるされない魔女と、道に迷った少女のふれあいを描いた絵本です。
へそまがりで素直にやさしくできない魔女と、いっしょに暮らし始めた少女は、しだいに心を寄せ合うようになります。
そして、やっと生まれた国王の世継ぎに、魔女はへそまがりの呪いをかける形で幸いをもたらす贈り物をします。
そのおかげで、それまで乱れていた国には平和が訪れるのでした。
作家の巧妙な文章と、画家の魔女以外を動物で表した卓越したアイデアで、しゃれた絵本に仕上がっています。
2015年公開のスウェーデン映画です。
妻を亡くして職も失った老人は、何度も自殺を試みます。
そのたびに、向かいに越してきたイラン人女性とその家族(夫と二人の娘、もう一人おなかの中にいます)に邪魔されて、生き延びます。
彼らと触れ合ったり、野良猫を飼ったり、近所でかつて自治会で一緒だった男性(障害があって今はほとんど身動きできなくなっています)が強制的に施設に入れられそうになるのを阻止したりする間に、老人は生きる意欲を回復します。
彼の現在と重なるように、少年時代の父の思い出(母は小さい時になくしています)や素晴らしい女性であった妻(事故でおなかの中の子供を失い、自身も車いす生活になったのに、教師になり多くの問題を抱えた生徒たちに慕われていました)の思い出などが描かれます。
ドラマチックではありませんが、しみじみとした味わいがあり、ヨーロッパの賞を受賞したり、その後ハリウッドで、トム・ハンクスの主演でリメイクされたりしました。