現代児童文学

国内外の現代児童文学史や現代児童文学論についての考察や論文及び作品論や創作や参考文献を、できれば毎日記載します。

木と市長と文化会館 または七つの偶然

2020-12-31 13:19:55 | 映画

 1992年のエスプリのきいたフランス映画です。
 村の活性化のために文化会館を作ろうとする市長(本当は村長の方が正しいのではないでしょうか?)と反対派のエコロジストの校長を中心に、みんなが議論を戦わせる姿を描いたドキュメンタリータッチの映画です。
 市長や校長(この二人は直接は議論しません)を中心に、市長の愛人の女流作家、この問題を取材に来た女性フリーライター、彼女が記事を載せた政治雑誌の編集長、文化会館建設のコンペに優勝した建築家、村の英語教師、牧畜を営む老人など、様々な人が、それぞれの立場で堂々と意見を述べ合います。
 私にはあまりフランス人の知人はいないのですが、みんなこんなに議論好きなのでしょうか?
 日本では日常会話ではタブーとされる政治がらみの話(社会党と緑の党が中心)でも、フランクに自分の意見を述べ合い、反対の立場の人の意見にも感情的にならずに尊重するので、かなり衝撃的でした。
 特に、校長の10歳の娘(校長の意見にも反対の立場)が市長を論破する場面では、今の日本の児童文学が忘れている「子どもの立場に立つ」が鮮やかに実現されていて感心しました。
 校長の娘の意見の通りに、文化会館の代わりに村の人たちがみんなで集まれる緑地が作られるラストは、ちょっとハッピーエンドすぎる(しかもそこだけミュージカル風)気もしますが、まあ一種の寓話と考えればいいのかもしれません。

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宮沢清六「兄、宮沢賢治の生涯」角川文庫版「注文の多い料理店」解説

2020-12-30 17:11:20 | 参考文献

 賢治の六歳年下の弟による評伝です。
 肉親が書いたにもかかわらず、感傷的にならずに淡々と賢治の誕生から臨終までを描いています。
 賢治の生涯については様々な形で書かれていますが、近親者でしか知ることのできないエピソードも描かれていて興味深い内容です。
 文中にも書かれているように、著者は生前からの賢治の理解者であり協力者(賢治の原稿を「婦人画報」に持ち込んだのも筆者です)であり、死後は賢治の膨大な原稿の散逸を防ぐとともに、様々な全集などの編纂にも関わりました。
 生前はほとんど無名であった賢治が、死後日本の児童文学者の中でも最も著名な作家になったのは、賢治作品自身の魅力はもちろんですが、筆者の献身的な努力も大きく貢献したと思われます。
 他の記事にも書きましたが、1974年3月14日に、友人たち(早稲田大学児童文学研究会宮沢賢治分科会のメンバー)と賢治の生家で著者にお話をうかがう機会を得ました。
 大勢で押しかけた若い学生たち(当時の賢治研究の第一人者であった続橋達雄先生の紹介はありましたが)にも、丁寧に対応してくださり、賢治の想い出話を語っていただいた帰りには、この復刻版の「注文の多い料理店」(角川文庫)を記念にいただきました。

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斎藤隆介作/滝平二郎画「八郎」

2020-12-30 11:04:55 | 作品論

 

 

 1967年発行の創作絵本の古典です。
 農民のために海を静かにさせた伝説の山男の姿を通して、民衆のエネルギーや人のために成長する姿を描いたとして、「現代児童文学」の代表作のひとつとされています。
 方言をいかした斎藤の文章と力強い滝平の切り絵が作品の持つエネルギーを巧みに表現しています。

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関川夏央「中年シングル生活」

2020-12-29 15:16:34 | 参考文献

 1993年から1996年にかけて、新聞や雑誌に連載していたエッセイをまとめて、1997年に表題で出版されました。

 当時、作者は43才から47才だったのですが、そのころではまだ四十代の独身者は少数派でした(ただし、作者は、25才ごろに短期間結婚していました)が、今ではありふれた存在になっています。

 それに、作者やその友人達はいわゆる知識層で、そのころの中年独身者の多くはそうだったかも知れませんが、今ではあらゆる階層にまで広がっています。

 そのため、作品に漂う教養主義は、今の読者には鼻につくことでしょう。

 また、作者が好んで取り上げている近代文学者たちは、それぞれ時代を切り取った作品(例えば、永井荷風の「濹東綺譚」など)を残していますが、作者の作品は言ってみれば二次創作のようなもので、九十年代の空気さえ描けていません。

 

 

 

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ジュマンジ

2020-12-28 17:06:37 | 映画

 1995年公開のアメリカ映画です。

 1981年に出版された同名の絵本を元に作られ、同名のボードゲームのサイコロの目によって次々と不思議なことが起きます、

 CG、アニマトロニクス、ミニチュアなどを駆使した当時としては最新の特殊撮影映像と、主演のロビン・ウィリアムスを初めとした一流俳優陣によるしっかりした人間ドラマを兼ね備えた、一級のエンターテインメント作品です。

 2017年に、舞台をビデオゲームに移した続編の「ジュマンジ/ウェルカムトゥジャングル」(その記事を参照してください)が作られてヒットし、さらに続編の「ジュマンジ/ネクストレベル」(その記事を参照してください)まで作られました。

 

 

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ジュマンジ/ウェルカム・トゥ・ジャングル

2020-12-28 17:05:55 | 映画

 2017年公開のアメリカ映画です。
 1995年公開の「ジュマンジ」(その記事を参照してください)の続編として作られました。
 ゲームの世界に紛れ込んで冒険するという設定は同じですが、前回のジュマンジはボードゲームだったのですが、今回はビデオゲーム版です。
 ただし、それが作られたのが1996年ごろという設定なので、かなりレトロなゲームになっていて、それを使ったギャグ(なめらかに動かなかったり、登場人物が同じセリフを繰り返すなど)が多用されていて、初期のビデオゲームのRPGのような感じです。
 オリジナル映画の主演のロビン・ウィリアムスのような核になる俳優がいないので、かなりB級感が漂います。
 それを補うように、ゲームをした高校生たちが全く違うタイプのゲームキャラクター(オタクの男子高校生がマッチョな男性(元はWWEの人気プロレスラーのザ・ロックだった俳優が好演しています)、いじめっ子のアメフト部の男子高校生がチビのお調子者、イケイケの女子高生はデブのおっさん、堅物の女子高校生はセクシーガール)に変身するという味付けがなされています。
 冒険自体はあまり新味がないのですが、ゲームの中で高校生たちがそれぞれ成長するという児童文学的なハッピーエンドなので、ファミリーで楽しめます。



 

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ジュマンジ/ネクスト・レベル

2020-12-28 17:04:07 | 映画

 2019年公開のアメリカ映画で、「ジュマンジ/ウェルカム・トゥ・ジャングル」(その記事を参照してください)の続編です(オリジナルの「ジュマンジ」(その記事を参照してください)とは直接的には関係ありません)。
 現実世界の登場人物も同じ(高校生だったのが大学生になっていますが)で、ゲーム内のキャラクターも一緒なので、前作を見た人には親しみやすくなっています。
 ただし、題名通りに前作よりゲームの難易度が上がっていて、新しい登場人物も出ますし、途中でキャラクターの入れ替わりなどもあるので、前作を見ていない人には分かりにくいかも知れません。

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大平 健「純愛時代」

2020-12-26 17:20:49 | 参考文献

 精神分析医による、精神病理を描いた人気シリーズの第三弾です。

 1990年の「豊かさの精神病理」(その記事を参照してください)、1995年の「やさしさの精神病理」(その記事を参照してください)に続いて、今回は「愛」をテーマにして、2000年に出版されました。

 しかし、回を追うごとに、精神病理的な内容は薄れ、取り扱っている症例も、第一作の22に対して、第二作は7に激減し、今回はさらに減ってわずかに以下の6例です。

 第三世界の若者と結婚寸前までいったものの、ささいなことで破綻した女性会社員。

 パソコン通信(時代が感じられますね)で知り合った人妻との純愛が、いつしか不倫に置き換わってしまった大学生。

 お客の会社員との純愛が、ささいな行き違いで破綻した女子大生風俗嬢。

 クレイマークレイマーもどきの父子家庭が、別れた妻に親権を奪われることで破綻したが、娘の担任の保育士に救われたゲームデザイナー。

 交際雑誌で知り合った大学生の過去の恋愛にショックを受け、さらに初恋相手に再会したショックも加わって、記憶を失った22歳の女性。

 バツ2で二人の父親の違う子供を持つ女性と結婚し、転職先の会社が倒産したショックで不眠症になった34歳のセールスマン。

 また、これらの症例に対する社会学的な考察も、あとがきでお茶を濁しているだけです。

 しかし、それぞれの症例は、へたな短編小説よりもおもしろく描かれ、ストーリーテラーとしての作者の腕前は上がっているようです。

 

 

 

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大平健「やさしさの精神病理」

2020-12-26 16:46:02 | 参考文献

 1990年に書かれた「豊かさの精神病理」(その記事を参照してください)の5年後の続編かと思ったら、前作がベストセラーになったことに味を占めた(著者だけでなく編集者や出版社も)のか、次々に似たような本を書いていたようで、この本も結構売れたようです。
 しかし、前作がバブル期の人々が人間関係を避けてモノへ逃避している姿を、豊富な事例を紹介して鋭く切り取って見せたのに比べると、かなり物足りない内容になっています。
 その理由としては、「やさしさ」をキーワードにして、従来の「やさしさ」(他者の気持ちを理解して共感する)に対して、新しい「やさしさ」(他者の気持ちに立ち入らない)に着目している点は優れていますが、前作に比べて実例が圧倒的に少なく、しかも対象者が前作と異なって経済的に恵まれている人たちに偏っている(第一例の女子高校生の家は共稼ぎ家庭なようですが、第二例はフェアレディZに乗っていた都庁に勤める公務員、第三例は裕福な家庭のモデルのような容姿の予備校生、第四例は裕福な妻に養ってもらっているハンサムな司法試験浪人、第五例は機械メーカーの専務の息子の元優等生、第六例は博士課程に留学している裕福な家庭のアメリカ女性、第七例は弁護士一族の元優等生です。)ことによって、その時代の雰囲気を十分にとらえられていないからだと思われます。
 作者に商品性があるうちに本にして売ることを急いだたために、十分な実例がたまらないうちに出版したのでしょう。
 さらに決定的なのは、前作が出版された1990年とこの本が出版された1995年の間にバブルの崩壊があって、人々の人生や生活への価値観が大きく変化しているにもかかわらず、そうした社会学的な考察が全くないことです。
 そのために、単なる現象(著者の診療所を訪れる患者の症例)の後追いになっています。
  

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森忠明「ふたりのバッハ」少年時代の画集所収

2020-12-25 13:06:58 | 作品論

 小学校の卒業アルバムに、森少年は六年三組のみんなとはべつの丸の中に写っています。
 しかも、お岩さんのように左のほっぺたにあざができています。
 顔面にデッドボールを受けて、学校を休んでいる間に記念撮影があり、森少年だけが自宅で撮影されたからです。
 しかし、デッドボール事件にもいいこともありました。
 保健室で、貧血で隣のベッド休んでいた同じクラスの水町玲子さんと知り合うことができたのです。
 もともと二人は、同じ「つくし」というあだ名がある関係でした。
 二人が休んでいる保健室には、バッハの美しい旋律が流れていました。
 男の子と女の子の淡い恋の想い出を、バッハの旋律、俳句、手紙といった、今の読者からすると本当に古風な小道具を使って描いています。
 森の大きな特長である子どものころの記憶の恐ろしく精密なディテールが、この作品でもいきています。
 「少年時代の画集」の記事で指摘したように、この短編集あたりから森作品はかなり変質してきています。
 現在を生きる子どもたちを描くよりも、過去の自分の少年時代を懐かしむ大人の森の視線がチラチラと現れ始めてきました。
 このノスタルジックな雰囲気は、その後の作品ではさらに顕著になっていきます。
 それにつれて、森作品は、現実に今を生きる子どもたちから離れていってしまったようです。
 

少年時代の画集 (児童文学創作シリーズ)
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講談社
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夏の迷路

2020-12-24 15:45:29 | 作品

 隆志は宇宙船を旋回させると、敵の背後に回り込んだ。
 ババババッ。
 すかさずレーザー砲をたたきこむ。
 ズガガアーン。
 敵のロケットは、大爆発を起こした。
「これで、三機撃破したな」
 隆志は爆発に巻き込まれないように、愛機を急降下させながらつぶやいた。
(次のターゲットは?)
 隆志は愛機を加速させながら、あたりに敵がいないか、注意を払った。
(いた)
 前方に、敵の宇宙船を発見した。
 隆志は、全速力で追撃を開始した。
 
 真夏の昼下がり。あたりには誰もいない。今日も雲ひとつないかんかん照りで、気温は軽く三十度を超えている。隆志は、団地の中を一人で自転車を乗りまわしていた。いつの間にか、隆志の頭の中では、SFX映画やビデオゲームの中で、宇宙船を急旋回して敵と戦っている自分の姿が浮かんできていた。
 リリリリン。
 ベルを押すのは、レーザー砲の発射のつもりだ。
 ガチャガチャ
変則ギアを切り換えて、立ちこぎしてスピードアップしていく。
「グイーン」
これを、宇宙船がワープ航法をするのに見立てていた。
 団地内の道路は、ぐねぐねと入りくんでいる。自動車が通り抜けられないように、道路は行き止まりになっていたり、わざと遠回りしたりするように作られているからだ。
『住む人に優しい街』
 それが、この団地の設計コンセプトだった。おかげで、住んでいる人以外の車はめったに道路を通らないので、自転車を走らせるにはもってこいだった。いつか見た新規分譲用パンフレットの航空写真には、団地内の道路はうねうねとまるでパズルか迷路のようになっていた。
 隆志の愛車は、先月の誕生日に買ってもらったばかりの24インチのクロスバイク。五年生としては小柄な隆志には、サドルをいっぱいに下げても、少しつま先立ちにならなければ地面に足が届かない。隆志は、おかあさんが作っておいてくれた一人だけの昼食を食べ終えた後で、いつも自転車に乗りに来ていた。
 今度は、隆志は自転車での反転遊びに熱中しはじめた。幅の広い道路では、スピードをあげて大きな半円を豪快に描いてから、逆方向へそのままのスピードで進んでいく。もっと細い道路ではバランスを崩さないように注意を払って、道幅ぎりぎりに半円を描いていく。
足をつかずにうまく反転できた時には、
(やったあ!)
という達成感がこみ上げてきた。

 グオーン。
敵の巨大宇宙戦艦が迫ってくる。不意を突かれた隆志の宇宙船は、もう少しで宇宙戦艦と激突してしまうところだった。
「転回!」
 隆志は大声で叫ぶと、愛機をすばやく右へすべらせて敵から逃れた。
 ブッブーッ。
 大きくクラクションを鳴らして、隆志の自転車をかすめるようにして、宅配便のトラックが通っていった。
(あぶない、あぶない)
 隆志は、道路の脇に自転車を傾けて止めた。空想に夢中になりすぎて、自動車に気づくのが遅れてしまった。
 トラックは、排気ガスを吐き出しながら、ゆっくりと遠ざかっていく。
(行くぞ)
 隆志は、全速力でトラックを追いかけ始めた。
「ワープ!」
 変速機を操作しながら、大声で叫んだ。頭の中では、あっという間にトラックに追いついているところだ。
 でも、実際には、ますます引き離されていた。

夏休みに入って、早くも十日が過ぎようとしていた。明後日からはもう八月になってしまう。その間、隆志はいつも自転車を乗り回していた。
 隆志のクラスの友だちも、海や山や両親の実家などへ行っている人たちが多くなっている。だから、ここのところ、一人で遊ばなければならないことが増えていた。
 隆志の家は、おかあさんと二人暮しだった。両親は、隆志が幼いころに離婚している。隆志には、父親の記憶はほとんどなかった。
 おかあさんは、中学校の美術の教師をして、二人の暮らしを支えていた。
教師という仕事は、はたから見ているのとは違って、夏休みに入ってからも、やれ研修だ、やれ部活だと、なかなか忙しい。
おかあさんがまとまった休みが取れるのは、八月に入ってからだ。今年は、隆志と二人で、一週間ほど、八ヶ岳のリゾートホテルへ行くことになっている。
 親ゆずりで絵を描くのが好きな隆志は、写生の道具を持っていくつもりだった。
 でも、おかあさんの方は、のんびりと読書をするのを、楽しみにしているようだ。おかあさんが絵筆を握っているところは、もう何年も見たことがない。
 おかあさんがかつては画家を志していたと、祖父母から聞いたことがある。そんな夢は、日々の暮らしの中で、とうに忘れ去られてしまったのかもしれない。

 食卓にひろげた大きな画用紙いっぱいに、隆志はひまわりの絵を描いている。
 庭の花壇に一本だけ植えられたひまわりは、手入れが良かったせいか、とっくに隆志より背が高くなり、大きな花を咲かせていた。
 はじめは水彩絵の具で普通に写生をしてみたが、どうももうひとつ面白くない。外側の黄色い花びらはうまく描けるのだが、内側の蜜蜂の巣のような小さな花のかたまりの部分がうまく感じがでないのだ。
 次に、クレヨンを使って、スーラのような点描で描いてみた。
「ふーっ」
 この絵も気にいらなくて、大きなため息をついた。花のかたまりの部分の感じは少し出てきたが、全体に弱々しく、ひまわりの持つたくましい生命力が感じられない。
 隆志はクーラーを止めると、庭へのガラス戸を大きく開け放った。
 猛烈な暑さが、ドドッと部屋の中へ押し寄せてくる。
 でも、涼しい所でガラス越しに見ていたひまわりが、ぐっと自分に親しいものに感じられるようになってきた。
 隆志はさっき使った水彩絵の具のパレットをきれいに洗うと、その上に赤と黄色の絵の具をたっぷりと絞り出した。
 一番細い絵筆を取り出して、赤と黄色の絵の具を混ぜ合わせて、内側の花のかたまりを描き出した。
 混ぜ具合を変えながら、細く小さな円弧をたくさんたくさん描き込んでいく。
 レモンイエロー、だいだい、朱色、赤、…。
 線が重なって、予想もしなかったような様々な色彩が生まれるのが面白くて、いつの間にか隆志は夢中になっていた。

「似ているわ」
 おかあさんがポツリといった。その日の夕方、隆志が誇らしげに三枚目のひまわりの絵を見せた時だった。細かく描き込んだ様々な色の鋭い円弧が、ひまわりの生命力を表現していて、我ながらいいできだった。
「えっ、何に似てるって?」
 隆志がたずねると、
「…」
 おかあさんは、しばらくの間ためらっていた。
 でも、もう一度ひまわりの絵をじっと見つめた後で答えた。
「あなたのおとうさんの絵によ」
「ふーん」
 そう言われても、父親の絵など一度も見たことのない隆志には、まるでピンとこなかった。たしかに、父親もおかあさんと同じように、絵を描いていたことは知っていた。
 でも、家には、父親の絵は一枚も残っていなかった。
「どんな絵を描いていたの?」
 隆志がたずねても、
「そうねえ、遠い昔のことだから、…」
と、それ以上は話したがらなかった。

 隆志の両親は、彼がニ才の時に離婚している。父親は、その直後にアメリカに渡り、ほとんど連絡がないという。
 父方の祖父母はそれ以前に亡くなっていて、地方に住む親戚たちともほとんど付き合いがなかった。そのため、隆志にはほとんど父親の記憶が残っていなかった。
 それに、新生活への再出発のためか、おかあさんは父親の写真はおろか、身の回りの品物はすべて始末してしまったようだ。
 野沢吉雄。
 名前だけが、唯一のはっきりとした情報だった。
 それも、物心ついたころからずっと、おかあさんの旧姓であった「山本」を名乗っている隆志には、まったく親しみの感じられないものにすぎなかった。
 ただ、父親は画家になる夢を忘れられずにアメリカに行ったということだけは、いつか誰かから聞いたことがあった。
 はたして、その夢を果たしたのかどうかも、隆志は知らなかった。
 ただ、隆志の絵を描くことに対する情熱は、もしかすると、おかあさんではなく、父親から受け継いだものだったかもしれないと思うことがあった。美術教師でありながら、絵筆を握ろうとしないおかあさんからは、絵を描くことの情熱はまるで感じられなかった。

 その晩、自分のベッドに入ってから、隆志は父親の顔を思い浮かべようとしていた。
 なかなか思い浮かばない。それでも、心の奥底に沈んでいる父親の記憶を探ってみる。
 わずかに残る父親の記憶。
 それはあまり心地よいものではなかった。
 食卓でどなっている若い男。感情を爆発させて、声を震わせながらわめいている。
 しかし、どんな顔をしているのか、すこしも具体的なイメージが浮かんでこなかった。まるで目鼻のない、のっぺらぼうのようだ。
 テーブルを挟んで泣いている若い女。これははっきりしている。
 おかあさんだ。今よりもずっと若いけれど、顔もはっきり見えた。特徴的な大きな目に、いっぱい涙をためている。
 でも、時々、やはり大声で何かを言い返していた。すると、ますますのっぺらぼうの若い男は、いきり立ってどなり出す。
 奇妙なことに、そのそばで負けじと大声で泣くことによって、なんとか二人の言い争いを止めさせようとしている、幼い日の自分の姿までが見えてくるのだ。
 青いサロペットに、黄色い縁取りの小さなスタイをつけている。まるで現在の隆志が、窓からこっそりと三人の様子をのぞいているようだった。
 隆志は、もう一度父親の顔を想像しようとしてみたけれど、とうとう最後まで思い浮かばなかった。

 数日後、いよいよ明日から、母親が休みになる日の朝だった。
「あああっ」
 洗面所で顔を洗っていた隆志は、大きな泣き声がするのに驚いて、急いでダイニングキッチンへ戻った。
 おかあさんだった。すでに出勤のための着替えをすませていたおかあさんが、テーブルに両手をついて立ったまま泣いていたのだ。
「どうしたの?」
 隆志がのぞきこむと、おかあさんはだまってテーブルの上の新聞を指さした。そこには、小さな死亡記事がのっていた。
『新進画家、無念の早逝。
 三十一日、ニューヨーク在住の新進画家ダン野沢氏(本名・野沢吉雄さん、三十三才)が急死。死因などくわしいことは不明。
 野沢氏は、一昨年のニューヨーク国際美術展でグランプリを受賞し、いちやく注目を集めた新進の画家。その後も、ニューヨークとパリで個展を開くなど、精力的に活動を続けていた。これからの活躍がおおいに期待されていただけに、その早すぎる死を惜しむ声があがっている。…』
 記事の右上には、三十過ぎの見知らぬ男の笑顔が写っていた。
(これが、自分の父親か)
 隆志は食い入るようにその写真を見つめた。
 でも、悲しみも何も、特別な感情はわいてこなかった。

 ようやく泣きやんだおかあさんは、いすに腰をおろすと、父親のことを話し出した。それは、隆志にむかってというよりは、自分自身で思い返すためのものだったかもしれない。
 二人が美術大学で同級生だったこと。学生結婚したこと。卒業後も、父親の方は就職せずに絵に専念していたこと。隆志が生まれて、生活のためにやむなくおかあさんと同じ美術の教師になったこと。仕事に追われて絵をかく時間がなく、いつもいらいらしていたこと。
 隆志にとっては、初めて聞く話ばかりだった。
「普段は優しい人だったのよ。でも、感受性が鋭すぎたのね。どうしても、創作と実生活を両立していけなかったのよ」
「…」
「それに、二人とも若過ぎたのかもしれない。二十二才で結婚して、二十五才で別れたんだから」
 そういいながら、おかあさんは隆志にけんめいに笑顔を見せようとした。
 でも、うまく笑えずに、少しゆがんだ泣き笑いになってしまった。
「あらあら、いけない。完全に遅刻だわ」
 おかあさんは、ようやくいすから立ち上がった。
 洗面所で手早く化粧を直して戻ってくると、
「じゃあ、行ってくるからね」
と、おかあさんはまるで何事もなかったかのようにいった。
 でも、泣いたあとをごまかすためか、口紅もアイメイクも、いつもより濃くくっきりとさせていた。
 おかあさんがガチャリと音をたてて開けたドアの外は、すでに今日も猛烈な暑さだった。

 その日の昼ごはんの時、何気なくテレビをつけたら、思いがけない画面にぶつかってしまった。
『ニューヨーク在住の新進画家、孤独な死。
 死因は麻薬によるものか!?     』
 隆志は、スパゲティを食べていたフォークの動きを止めて、画面に見入った。
 その番組は、主婦向けのワイドショーだった。もちろんこのニュースが、その日のメインの話題なのではない。現地の映像も、「ダン野沢」の作品の紹介もなく、画面の写真も、新聞に載っていたのと同じ物を拡大しただけだった。
 二、三分の短いレポートの後で、司会者は、
「いくら絵の才能があっても、麻薬に溺れるようでは性格に問題があったのだろう」
と、簡単に締めくくって、次の話題に移っていった。
 隆志は、テレビの前に呆然として立ち尽くしていた。
 レポーターの説明の中に、こんな部分があったからだ。
「ダン野沢は、八年前に『妻と幼い息子を捨てて』、単身渡米し、…」
(おかあさんとぼくのことだ)
 その瞬間、隆志は思わずいすから立ちあがった。そして、初めて涙がこぼれてきた。
 でも、これは悲しみの涙ではない、当事者にとっては残酷な言い方を平気でする、軽薄なレポーターに対する悔し涙だった。
 番組では明るい話題に移ったらしく、お笑い芸人のジョークに、スタジオ内に並んですわらせられたおばさんたちが、陽気な笑い声をあげている。
(おかあさんが見なくてよかった)
 隆志は心からそう思っていた。

 隆志は、さっきの朝刊を、マガジンラックからテーブルの上に持ってきた。そして、「ダン野沢」の死亡記事の部分を、はさみでていねいに切り抜いた。
 「ダン野沢」は、隆志のてのひらの中でぼんやりと笑っている。その気弱そうな笑顔は、どうしても隆志の頭の中にある声を震わせて怒っている若い男のイメージと、結びつかなかった。
(どんな人だったんだろう?)
 隆志には、ますますわからなくなってしまっていた。
 このおとなしそうな人が、あの怒鳴ってばかりいた若い男だとは、どうしても思えない。
 おかあさんが言っていたように、いつもは優しい人だったのだろうか。
 もう一度、死亡記事を読み返してみた。
『…。なお、ダン野沢氏の作品は、その多くは海外の美術館にあるが、国内ではM区立美術館などに所蔵されている』
(美術館へ行ってみよう)
と、隆志は思った。
 「ダン野沢」の絵を見れば、何かがわかるかもしれない。

 ネットで調べたM区立美術館は、山の手線M駅から歩いて十分ほどの区民センターの中にある。
 あれからすぐに家を出た隆志は、電車を乗り継いでやってきていた。
 M駅からの長い坂道をのぼっていくと、前の方に黒い服を着た人たちが集まっているのが見えてきた。
(お葬式でもあるのかな)
 そう思いながら近づいてみると、そこは「曼陀羅(まんだら)」という名のライブハウスだった。
 黒いのは喪服なんかではなく、ただの黒い衣装だった。女の子たちが、出演するバンドを待っているようなのだった。
(「追っかけ」っていうやつなのかな?)
と、隆志は思った。
 この炎天下に、どういうわけかみんな黒ずくめの服を着ている。
 地下のライブハウスからは、エレキギターとドラムの音が響いてひびいていた。
 二十人近くのカラスのような女の子たちのそばを通ったとき、洋服のそでがレースでできているのに気がついた。
 黒く透き通る袖をとおして見えた女の子たちの腕は、ドキッとするほど青白かった。
 川の向こうに、区民センターの巨大な建物が見えてきた。
 水の少ない泥色に濁った川にかかった橋を渡ったとき、生ごみの腐ったような嫌な臭いが、隆志の鼻を強くうった。

区民センターは、思っていたよりもずっと大きな施設で、美術館だけでなく図書館や公民館、体育館や温水プールも同じ建物に入っていた。そのまわりも、広い公園になっている。
 白い大きな帽子をかぶったおばさんたちがドタドタと走りまわっているテニスコートを抜けると、目の前に大きな屋外プールが広がった。
 水の中もプールサイドも、驚くほど混み合っていた。
 プールの中は、まるで満員のお風呂のようで、とても泳ぐことなどできそうもない。そのまわりも、足の踏み場もないほどシートやタオルが広げられ、カラフルな水着をつけた人たちが日光浴をしている。
 隆志は圧倒されたような気分で、足早にプールのそばを通り抜けた。

 美術館の入り口は、たくさんの人々で混み合うプールや図書館とは対照的に、ひっそりとしていた。特別展がない常設展示だけのときは、あまり入場者がいないのかもしれない。
「ダン野沢の絵はどこですか?」
 隆志は、受け付けにいた眼鏡をかけた若い女の人にたずねた。
「えっ。ああ、ダン野沢なら、つきあたりを左に行った部屋の奥よ。ミニコーナーになっていて、天井から名前を書いたプレートが下がっているから、すぐわかるわ」
 女の人は、まだ「ダン野沢」が死んだことを知らないらしく、特に驚いた様子もなく答えてくれた。どうやら、テレビなども取材に来ていないようだ。

 隆志は、他の展示には目もくれずに、まっすぐ「ダン野沢」のミニコーナーに向かった。
 夏休みにもかかわらす、館内も観客はまばらだった。ミニコーナーにも誰もいないので、隆志はゆっくりと絵を見ることができた。
 思いがけずに、「ダン野沢」の絵は、花や風景を描いた写実的なものではなく、純粋にイメージだけを伝える抽象画だった。
 「イマージュⅢ」と名づけられた一枚目の大きな絵は、たてよこななめの鋭い直線で構成されていた。
 製作年が、横に書いてある。
(ぼくが小学校へ入学した年だな)
と、隆志は思った。
 二枚目の絵は、丸でも四角でもない奇妙にゆがんださまざまな色のかたまりを、大きなカンバスいっぱいに散らした作品だった。
 でも、それぞれのかたまりは、ホアン・ミロのようなにじんだものではなく、くっきりとした黒い線で縁取られている。
 この製作年は、
(ぼくが三年生のときだな)
そのころ隆志は、小さいころ罹っていた自家中毒が再発し、学校を二ヶ月も休んで入院していた。仕事と看病に追われて、おかあさんもげっそりやつれてしまっていた。

 三枚目の絵を見たとき、隆志のひまわりの絵を見て「おとうさんの絵に似ている」といったおかあさんの言葉が、頭の中に蘇った。
 そこには、ひまわりの絵で隆志が表現した世界が、より拡大され、より純粋に高められた形で存在していた。
 赤や黄色系統の色だけでなく、金や銀、青や紫といったさまざまな色彩が、鋭くとぎすまされた無数の円弧で描き込まれている。
 そしてひとつひとつの円弧が複雑に絡み合い、さらにさまざまな色彩を生み出していた。
 こうして見つめていると、色の渦の中に吸い込まれていきそうな気にさえなってくる。
 隆志は、作品とそれを生み出した「ダン野沢」の才能に圧倒されて、しばらくの間、絵の前から動けなくなってしまった。
「ダン野沢」の絵は、もう三枚あった。
 全部で六枚。ミニコーナーという名にふさわしい、本当にささやかなコレクションだった。
 その全部を見終えると、隆志は休憩コーナーにあった押しボタン式のウォータークーラーで、よく冷えた水を飲んだ。
 そして、かばんからあの新聞の切り抜きを取り出してみた。
 「ダン野沢」は、不鮮明な写真の中で、あいかわらず頼りなげに笑っている。
 隆志は切り抜きを手にしたまま、もう一度あの色の渦のような絵の前に立った。
 奔放に渦巻く色彩の迷路の前に、切り抜きの「ダン野沢」の写真を重ね合わせたとき、隆志は初めて「おとうさん」に出会えたような気がしていた。

       

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シベールの日曜日

2020-12-24 15:35:27 | 映画

 冒頭、第一次インドシナ戦争のシーンで始まります。
 戦闘機のパイロットだったピエールは、恐怖の表情を浮かべたベトナムの少女らしい子どもの姿を目にしたとたんに撃墜されてしまいます。
 この事故により記憶を失った30才のピエールは、病院で知り合った看護婦のマドレーヌと暮らしています。
 ピエールは、数少ない理解者の芸術家のカルロスの仕事を手伝ってわずかな小遣いをもらっていますが、生活面でも経済面でもマドレーヌの庇護下で暮らしています。
 そういう点では、マドレーヌはこの映画では母性を象徴しているかもしれません。
 ある夜、ピエールは、父親に修道院の寄宿舎に預けられる形で置き去りにされた12才の少女と遭遇します。
 日曜日、寄宿舎に出かけたピエールは、面会に来た父親と間違えられてしまいます。
 それから、日曜ごとのピエールと少女の交流が続きます。
 ふたりがいつも散歩する湖の景色が、白黒のスクリーンに本当に美しく描かれています。
 特に、少女が湖に小石を投げて波紋が広がる中にふたりの姿が映り、少女が「これが私たちのおうちよ」というところは、ため息が出るほど美しいシーンです。
 少女は修道院ではフランソワーズと呼ばれていますが、それは彼女のギリシアの女神から取った名前がキリスト教的でないというので変えられたのだと、彼女はピエールに言います。
 そして、教会の屋根の風見鶏を取ってくれたら、本当の名を教えてあげるとピエールに告げます。
 ところが、ピエールは記憶を失ったときの後遺症か、高いところにあがるとめまいに襲われてしまうのでした。
 二人の日曜日ごとの交流は、子ども同士のようにほほえましいシーンの連続です。
 ピエールは、事故のショックで記憶を失うだけでなく、子ども以上に純真な心の持ち主になっています。
 そのため、二人の会話は、いつも少女の方がリードして進められます。
「私がお母さんのかわりになってあげる。」
「私が12であなたが30、13で31」と、数えていって「私が18になったら、あなたはまだ36だから結婚しましょう……」
といった会話も交わしますが、二人の交流は子どもたちによる純真なものです。
 あとで二人の交流を知って不安を訴えるマドレーヌに、芸術家のカルロスだけはピエールに理解を示します。
 戦争で過去を失った男と、家族に捨てられた少女の、孤独な者同士の魂のふれあいという関係は、なかなかまわりからは理解されません。
 クリスマスの夜を、二人は一緒に過ごすことになります。
 カルロスの家からツリーを持ち出したピエールと、寄宿舎を抜け出した少女の、二人だけのささやかで暖かいクリスマスの晩をすごします。
 いたずらっぽくほほえんだ少女がピエールに渡したマッチ箱。
 その中の紙切れに、一言「Cybele」と書かれています。
 初めてピエールに明かした名前シベール。
 これが、少女の心からのクリスマスプレゼントでした。
 ピエールは、「あとで僕もプレゼントをあげるよ。」と秘密めかした笑顔で答えます。
 そのころ、不安に駆られたマドレーヌが同僚の医者に相談したことで修道院に連絡がとんて゛大騒ぎになり、警察が少女の行方の捜索を開始していました。
 カルロスが「なんて軽はずみなことを……」といったのも後の祭りでした。
 以前の約束を覚えていたピエールは、少女が眠っている間にナイフを片手に教会の屋根によじ登って、風見鶏を取り外します。
 その時、突然ピエールは、今まで自分を悩ませていためまいなどの発作が治っていることに気がつきます。
 シベールとの交流で、ついにピエールが戦争で負った心の傷(ベトナムの少女を殺してしまったと思いこんでいます)が癒えたのです。
 そして、ナイフと風見鶏を手に、シベールの所へ戻りかけたとき、警官にピエールは発見され、少女に害意を持って近づく変質者と思われて射殺されてしまいます。
 警官が無線で報告している声が聞こえてきます。
「危ないところでした。もう少しでナイフで少女を……」
 マドレーヌやカルロスたちが、現場に駆けつけたときは全てが終わった後でした。
 警官たちに起こされて「君の名前は?」と聞かれたシベールが、あたりの状況を見て、「もう、私には名前なんかないの。誰でもなくなったの!」と泣きながら叫ぶラストシーンが印象的です。
 そして、終始静かだった映画で最後のシベールの叫びに、いきなりかぶさってくる音楽が「miserere nobis」(我らを哀れみたまえ)なのでした。
 この映画は、1962年のアカデミー外国語賞をはじめとして、数々の賞を受賞しています。
 私が今は無きぴあ(当時は100円でした)を片手に、毎日のように都内各地の名画座や自主上映会で内外の名画を見てまわっていた1970年代には、「シベールの日曜日」は雑誌で人気投票すると必ず上位に入る(たしかぴあでは1位になったこともあります)ほどの有名な映画でした。
 当時はビデオ・レンタルもなく(だいたい家庭用ビデオレコーダーもありませんでした)、映画を見るためには自分でその場所へ行くしかなかったのです。
 その代わりに、フィルムセンターや名画座や自主上映会で、少なくとも都内に住んでいれば毎日どこかで名画を見られたので、商業主義全盛の今よりもむしろ環境は良かったかもしれません。
 話は脱線しますが、小劇場の演劇も今みたいに商業主義化していなくて、やはりぴあの情報をもとに毎週のように千円以下の低料金で見にいってていました。
 当時は、つかこうへい劇団と野田秀樹の夢の遊眠社(会場は東大の駒場キャンパスが多かったです)が全盛期でした
 話を映画に戻しますと、「シベールの日曜日」は2010年にDVDが出ているのですが、どこの宅配レンタルDVD会社も在庫を持っていません。
 名画を見る唯一の頼みの綱だったシネフィル・イマジカも、とうとう商業主義に屈して、2012年3月1日に名画専門チャンネルの看板を下ろして、イマジカBSという平凡な娯楽映画チャンネルになってしまいました。
「これはDVDをアマゾンで買うしかない」と思いかかっていたのですが、「第3回午前十時の映画祭」で「シベールの日曜日」を上映することが分かって、立川まで見に行くことにしていました。
 ところが、日曜日の朝刊を何気なく見ていたら、スターチャンネルの欄に「シベールの日曜日」の文字がありました。
 「第3回午前十時の映画祭」とのタイアップで、なんとその日の午前十時に放映されるのです。
 あわてて契約の手続きをして何とか時間までにスターチャンネルが映るようになり、「シベールの日曜日」を録画することができました。
 37年ぶりに見た「シベールの日曜日」は、少しも古びることなく二十歳ごろに見たときと変わらない感動を私に与えてくれました。
 当時は、冒頭のインドシナ戦争(アメリカでなくフランスとの間でおきました)でベトナムの少女を殺したと思いこんだことから始まっていることで、一種の反戦映画ともいわれていました(当時は日本だけでなく世界的に反ベトナム戦争運動が盛んでしたから、そういった映画もたくさんありました)。
 また、キリスト教の閉鎖性に対する批判という解釈もありました(修道院では、シベールがギリシアの女神の名前だという理由で、彼女は別の名前をつけられてしまいます。ラストシーンで、教会の風見鶏をピエールが盗みます。クリスマスの日に、ピエールは殺されてシベールは永遠に名前を失います。ラストシーンで、教会音楽の一節 「我らを哀れみたまえ」が流れます)。
 しかし、一番素直な解釈は、シベールとピエールという二つの孤独な魂が邂逅する物語だとする見方でしょう。
 その過程で、ベトナムの少女を殺したと思いこんでいたピエールの心の傷が、シベールという自分と同じように孤独な少女と触れ合うことによって癒され、ピエールが自己を回復していきます
 しかし、マドレーヌや同僚たちに象徴される世俗の人たちには、シベールやピエールという疎外されている人たちの心情を正しく理解することができません。
 ラストのピエールの死とそれによりシベールが永遠に名前を失う結末は、シベールのイノセンス(純真で無垢)な魂がやはりイノセンスなピエールの魂は救済したものの、世俗的な現実には受け入れられなかったことを象徴しています。
 イノセンスな魂による別の魂の救済というと、1956年に同じくアカデミー外国語賞をとったフェデリコ・フェリーニの「道」で、ジュリエッタ・マシーナが演じた知的障碍者の女性ジェルミソーナのイノセンスな魂が、アンソニー・クイン演じる凶暴な大男ザンパノの魂を救済したラストシーンを思い浮かべます。
 また、このイノセンスな魂による人や社会の救済というのは、映画だけでなく文学、特に児童文学にとって(狭義の現代児童文学だけでなく、近代童話や現在の作品も含めて)重要なテーマの一つだと考えています(ようやくこのブログの主題につながりました)。
 私は、イノセンスな魂と、いわゆる童心主義が同じものだと考えていませんし、イノセンスな魂というのは子どもだけに宿るものだとも思っていません。
 ただ、イノセンスな魂は、抑圧される側(大人より子ども、健常者より障害者、マジョリティよりマイノリティ)に宿りやすいとは信じています(あるいは、信じたいと思っています)。
 最後に余談になりますが、この映画の人気は、シベールを演じたパトリシア・ゴッジのちょっとおませでキュートな女の子の魅力に負うところも多いと思われます。
 そして、ピエールは、成熟した女性の魅力にあふれる同棲相手のマドレーヌでなく、まだ未成熟な少女のシベールを選択します。
 そのため、近年では「シベールの日曜日」とロリータ・コンプレックスを関連付けて語られることもありますが、実際に映画を見ていただければそんな単純な映画ではないことがよくわかります。
 

シベールの日曜日 HDニューマスター版 [DVD]
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紀伊國屋書店
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森忠明「少年時代の画集」少年時代の画集所収

2020-12-24 13:35:49 | 作品論

 ぼくのおばあちゃんは、ガンで病院に入院しています。
 おばあちゃんが入院する前、家を建て直すために物置小屋を片づけていたおとうさんが、古いスケッチブックを発見します。
 今から三十年以上前のぼくと同じ小学校五、六年生だったころのおとうさんが、クレヨンで描いた数々の絵が画集に載っています。
 そこには、若いころのおばあちゃんがざぶとんで作ったサンドバッグの前で、ボクシングのポーズをとるおとうさんを描いた絵もありました。
 おばあちゃんがなくなり、おばあちゃんの遺体は、そこで暮らすはずだったできたてほやほやの隠居部屋に安置されます。
 おばあちゃんがお骨になって帰ってきた後の親戚だけの会で、おとうさんは十三歳も年上の義理のおにいさんをめちゃくちゃになぐりつけます。
 おじさんが、死んだおばあちゃんが臭かったと、不用意に言ったからです。
 ざぶとんのサンドバッグを前に美しいファイティングポーズをとっていた少年が、おとなになってからは弱い者に馬のりになってでたらめなパンチをあびせています。
 その姿を見て以来、ぼくはおとうさんのにこやかな顔や優しい言葉が信じられなくなります。
 自由画の時間に、ぼくはおばあちゃんの死に顔を描きます。
 しかし、図工の先生に、「おばあちゃんの昼寝顔にのどぼとけがあるのはおかしい」と、指摘されてしまいます。
 実際には、おばあちゃんののどには、死ぬ直前に男の人ののどぼとけのようなとんがりが出てきたのです。
「先生の大事な人が遠くのどこかへ旅立つ日、先生はぼくの絵がうそではないことに気づいてくれるのだろう」と、ぼくは思いました。
 1985年12月12日に発行された「少年時代の画集」の表題作です。
 「少年時代の画集」は、多感な子どもの目に映る世界を様々なタッチで描いた短編集です。
 この表題作は、この本以外にもいろいろなアンソロジーにも収められている、森忠明の短編の代表作です。
 他の作品と同様に、作者の実体験に基づいた独特の視点で、病的までに鋭い少年の感受性と、それに伴う大人たちへの不信感が鮮やかに描かれています。
 ただ、この作品では、おとうさんや先生に対する批判の描き方が、主人公の少年そのものの見方というよりは、大人になった作者の視点も一緒に表れてしまっているようで気になりました。
 おそらく、子どもの時にそのようなことを感じたことは事実なのでしょう。
 でも、この作品では、描き方が少し大人目線が含まれてしまっているような感じがします。
 それは、「きみはサヨナラ族か」(その記事を参照してください)や「花をくわえてどこへゆく」(その記事を参照してください)の主人公たちが、実際に行動として大人世界への拒否感を表したのに対して、この作品ではたんに批判的な視線をおくるだけなので、どこかシニカルな印象を読者に与えてしまうためだと思います。
 森忠明の一連の作品は、このあたりから質的な変化を遂げていきます。
 

少年時代の画集 (児童文学創作シリーズ)
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講談社
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大野裕「はじめての認知療法」

2020-12-23 17:25:22 | 参考文献

 うつや不安などに有効な治療法(薬物療法と同等またはそれ以上に有効で、薬物療法との併用も可能)である認知療法(最近使われているこの言い方は認知症の治療法だと勘違いされるので、本来の「認知行動療法」を使う方が好ましいと思われます)を、この分野の日本における第一人者である筆者が、やさしく解説しています。
 認知療法が何かから始まって、活動記録表、問題リスト、問題解決技法、注意転換法、腹式呼吸、漸進的筋弛緩法、アサーション、コラム法、スキーマなどの、有効なツールや概念が紹介されています。
 特に、コラム法と問題解決技法は、患者だけでなく一般の人にも有効なツールなので、身に着けると確実に生活の質を改善できます。
 これらを身に着けるには、同じ筆者の「こころが晴れるノート うつと不安の認知療法自習帳」(その記事を参照してください)の方が使い易いでしょう。
 ただし、問題解決技法とコラム法を結びつけるために、「こころが晴れるノート うつと不安の認知療法自習帳」(2003年発行)の「七つのコラム」に対して、「はじめての認知療法」(2011年発行)の「コラム法」は、八番目のコラム(「残された課題」)が追加されていて、改善されています。

はじめての認知療法 (講談社現代新書)
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講談社



こころが晴れるノート―うつと不安の認知療法自習帳
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創元社
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選手コース

2020-12-22 15:02:57 | 作品

 ドルフィンスイミングクラブの進級記録会も、最後の一級のテストになっていた。
「ラスト50」
 プールサイドから、杉沢コーチの声が飛ぶ。
 雄太は、個人メドレー四種目目のクロールを、全力で泳ぎだした。
 25メートルを勢いよく泳いで、クイックターン。
 数回力強いドルフィンキックをしてから、さらにラストスパートをかける。
 両腕を思い切りかくたびに、大きく水しぶきがとぶ。疲れてフォームが乱れてきた証拠だ。
 それでも、ゴールを目指して懸命に泳いだ。

 プールの上の階にある更衣室は、進級記録会を終えたスクール生たちで混み合っていた。
 下のプールでは、引き続き選手コースの人たちの月例記録会が行われている。
「一級よ」
 張り紙を持って入ってきた女性コーチが、みんなに声をかけた。
 雄太たちは、着替えを途中でやめて掲示板にかけよった。
「よっしゃっ!」
 雄太は小さくガッツポーズをした。
 張り出された合格者の一番上に、雄太の名前と二百メートル個人メドレーのタイムが印字されていた。
 今回もトップ合格だった。
 これで次のレッスンからは、スクールで一番上の一級になる。
 ドルフィンスイミングクラブにはこれより上の級はないので、次のレッスンからは、バタフライ、背泳ぎ、平泳ぎ、クロールのそれぞれのタイムを縮めたり、フォームを矯正したりするしかない。
 今まで上のクラスへ進級することだけを目標にしてがんばってきたので、雄太はなんだか少し拍子抜けがする思いだった。
 「山下」
 更衣室を出ると、杉沢コーチに声をかけられた。いかにも水泳選手って感じの逆三角形の身体をした、大学の水泳部の現役選手だ。
「はい」
「ここのところ、タイムが上がっているな」
 杉沢コーチは、雄太の記録票を見ながら言った。
 雄太が立ち止って黙っていると、
「どうだろ。選手コースのこと考えてみてくれないか。おまえなら、小学生のうちに全国レベルになるのも夢じゃないんだけどな」
 雄太が無言でうなずくと、
「一度、ご両親と相談してみてくれ」
 杉沢コーチは、選手コースのパンフレットを雄太に押し付けた。
「一級です」
 受け付けのおばさんに声をかけると、
「おめでとう」
と、金色のイルカのバッジを渡してくれた。
 雄太のバッグには、色とりどりのイルカのバッジがもう13個もついている。これが最後の14個目のバッジだった。

「おとうさん、これ」
 夕食の時に、雄太は選手コースのパンフレットを差し出した。いつもは会社からの帰りが遅いのでいないけれど、今日は日曜日なので夕食はみんなと一緒だった。
「なんだい?」
 とうさんはビールのグラスをテーブルに置いて、パンフレットをひろげた。
 そこには、選手コースのスケジュールや費用、そして、一流選手になった先輩たちの体験談も紹介されていた。
 選手コースは一般のスクールと違って格段に練習時間が多いけれど、月謝は普通のスクールと比べてもそれほど高くなかった。かあさんによると、好成績を上げればスクール全体の宣伝になるからじゃないかとのことだった。
「今日一級に合格したんで、選手コースに移らないかっていうんだ」
「ふーん」
 おとうさんは、パンフレットをじっくり読んでいる。
「今回もトップ合格だったので、コーチたちも期待しているのよ」
 進級記録会を見に来ていたかあさんが、横から口を挟んだ。今日の雄太のレースも、いつものようにガラス張りの二階席から見ていた。
 とうさんは、日曜日は平日の仕事の疲れを取るためにいつも昼近くまで寝ているので、一緒には来ていなかった。
「うーん、ゆうちゃんがやりたいんならいいと思うけど、ヤングリーブスの方はどうするんだい?」
 とうさんはパンフレットから目を離すと、雄太に言った。
 ヤングリーブスといわれて、雄太はドキンとした。
 雄太は、スイミングだけでなく、少年野球チームにも入っていたのだ。
 まだ五年生ながら、打順は三番で守備はサード。チームの中心選手だった。
 選手コースになると、週に三回も正式な練習がある。さらに、将来一流選手を目指すなら、それ以外の日も自主練をしなければならない。
 ドルフィンスイミングクラブのプールには、一番端に選手専用レーンがあって、選手コースの人たちはいつでも自由に練習できるようになっている。
 そして、スイミングクラブがメインテナンスのために休みの木曜日も、ほとんどの選手が市営プールで練習しているそうだ。
 週末も記録会や大会があって、一年中休みがないといってもいいくらいだった。とても、少年野球との掛け持ちはできそうにない。
 雄太には記憶がないけれど、スイミングにはおかあさんと一緒のベビークラスからずっと通っている。
 おかあさんによると、雄太は初めからぜんぜん水を怖がらなかったのだそうだ。もしかすると、生まれつき水泳に適性があったのかもしれない。
 そのあとの 幼稚園前のリトルのクラスは楽しかったことだけ覚えている。
 リトルでは、水を怖がってプールの中ではいつもコーチにおぶさっている子もいたし、おかあさんを捜してずっとプールサイドで泣いている子もいた。
 そんな中で、雄太はいつも大はしゃぎだった。
 両腕に小さな浮き輪を、腰にはウレタンのヘルパーをつけているから、泳げなくても水に沈む心配はぜんぜんない。いつも水の中で大暴れして、コーチに怒られてばかりだった。
 そして、幼稚園からは正式にスクールに入って水泳を習い始めた。
「どうしようかなあ」
 雄太は、自分のベッドに寝転がりながら、選手コースのパンフレットをながめていた。
 選手コースに入って、まずは地域の小学生の大会にでる。それから、全国大会だ。中学生になれば、学校別の大会もある。優秀な選手は、中学生の頃から大人の大会にもでる人たちもいる。
 やがては日本選手権だ。そして、オリンピックへ。
 雄太の夢はどんどん広がっていった。

 一週間後、雄太はとうとう選手コースに入ることを決意した。
 みんなでやる少年野球も魅力だったけれど、水泳でどこまで上へ行けるか挑戦したい気持ちの方が強かった。
 次の練習の時に、雄太はおかあさんについてきてもらって、選手コースへの変更手続きをした。
 ドルフィンスイミングクラブの所長の渡辺さんも、受け付けまでわざわざ出てきて、雄太を激励してくれた。
「山下くんは有望ですよ。特に平泳ぎがいい。ブッとすると、北島康介みたいになれるかもしれない」
 スイミングスクールのみんなは、雄太の選手コース入りにはびっくりしていたけれど、
「じゃあ、ぼくも」
と、一緒に選手コースに移ろうとする者はいなかった。

 翌日、雄太は今度もおかあさんと一緒に、ヤングリーブスへ退部届を出しに行った。
 チームの松井監督は残念そうだったけれど、
「じゃあ、スイミングで頑張って、いつか金メダルを取ってくれよな」
と、最後には励ましてくれた。
 もしかすると、野球の方は水泳よりは才能がないと思われていたのかもしれない。
 監督はあっさりとあきらめてくれたけれど、チームの仲間、特に同じ五年生たちは将来の主力メンバーを失ってがっかりしたようだった。
「ゆうちゃん、やめちゃうの。来年の県大会出場は絶望だあ」
 雄太と一緒に五年からレギュラーをやっている慶介は、そういって残念がっていた。

 選手コースの練習は、予想通りにきつかった。
 一応四種目とも練習は続けていたが、特に期待されている平泳ぎには特訓が待ち受けていた。
 普通に何本も泳ぐだけでなく、足にヘルパーを挟んで手だけで泳ぐ練習がきつかった。疲れてくると、上体が十分に浮き上がらずにたくさん水を飲んでしまった。
 コーチによると、野球やサッカーで鍛えていた下半身に比べて雄太は上半身が弱いので、平泳ぎのカキやクロールのプルを集中的に泳いで上半身を強化するとのことだった。まだ、小学生なので、マシンを使っての筋トレなどはできないので、水中で強化しようというのだった。
 毎日、毎日、黙々とプールで泳いでいると、雄太は少年野球チームのことが次第に懐かしく思い出されるようになった。
 選手コースにも小学生の仲間はいたけれど、水泳は基本的には個人競技なので、チームメイトというよりはライバルという感じの方が強かった。
 それほど強くなかったけれど、和気あいあいと練習していたヤングリーブスの仲間たちが恋しかった。
 そして、途中でチームを辞めてしまったことが後悔された。
 小学生の間は、いやせめて六年生の夏の県大会が終わるまでは、野球と両立させたままでもよかったのかもしれない。

月末の進級記録会の時に、選手コースの月例記録会も行われていた。
 雄太は、今回は二百メートル個人メドレーでなく、百メートル平泳ぎに出場した。
 二階席には、いつものかあさんだけでなく、今日はとうさんもやってきていた。ガラス越しに、ビデオカメラをこちらに向けている。選手コースになって初めての記録会なので、とうさんも期待しているのかもしれない。
  雄太は最下位でゴールした。タイムも練習の時のベストから5秒以上も遅かった。50メートルを過ぎてから、手のカキと足のキックがバラバラになってしまったようだ。スクールの進級記録会のレースの時にはもっとのびのびと泳げたのに、今日はすっかり緊張してしまっていた。
(よし、明日からもっと練習しよう)
 雄太はそう思っていた。
記録会での失敗が、かえって雄太の負けず嫌いな気持ちをむくむくと起させたようだ。
 もう少年野球には未練はなかった。自分が水泳でどこまでいけるかがんばってみようと思っていた。

    

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