現代児童文学

国内外の現代児童文学史や現代児童文学論についての考察や論文及び作品論や創作や参考文献を、できれば毎日記載します。

那須正幹「The End of the World」六年目のクラス会所収

2017-08-31 10:37:59 | 作品論
 核戦争で死滅した世界において、核シェルターの中で一人だけ生き残った少年の話です。
 全体的に、極端なシチュエーションを作るだけのためのような荒い書き方ですし、放射能汚染に関する知識もかなりいい加減なのですが、妙に生々しく感じるのは、日本上空を飛んで行った北朝鮮のミサイルのせいでしょうか。
 緊迫している半島情勢だけでなく、ISをめぐる戦争、世界中で頻発しているテロ、自分の支持層のために人種差別を否定できない大統領、軍備を拡張し続ける大国など、近年になく世界の情勢は緊迫しています。
 こうした社会情勢と、日本の児童文学がまったく無関係になったのは、いつごろからでしょうか?

六年目のクラス会―那須正幹作品集 (創作こども文学 (1))
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ポプラ社
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児童文学の新しい読者

2017-08-31 10:22:10 | 考察
 児童文学の読者は誰なのか?
 これは非常に難しい問題です。
 一般には子どもが対象になる文学のことでしょう。
 しかし、児童文学者で詩人のエーリヒ・ケストナーは、「8才から80才まで」と自分の作品の読者を想定していました。
 宮沢賢治も、「注文の多い料理店」の新刊案内の中で、読者対象を「アドレッセンス(男子は14才から25才まで、女子は12才から21才まで)中葉(男子は20才前後、女子は17才前後)(男女差があるのは女性の方が精神的成長が早いためです)」と規定していました。
 現在では、児童文学は子どもから大人までの、特に女性向けのエンターテインメントの一種に変容してきています。
 そういう意味では、年齢の若い順に読者対象を分類すれば、幼年(幼稚園から小学三年生までの男女)、少年(小学校高学年から中学生ぐらいまでの男女)、青年(いわゆるヤングアダルトで、高校生や大学生の男女、二十代の女性)、壮年(主婦も含めて三十代から五十代ぐらいまでの女性)に分類できるのではないでしょうか。
 そして、新たな分野として老年(60代以上の男女)児童文学も可能性があると思います。
 そこでは、従来の現代児童文学では懐古的すぎると思われた内容のものもOKでしょう。
 昭和時代の雰囲気を満載した児童文学の領域が、新たに開拓される余地はおおいにあると思われます。

老年の価値
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瀬田貞二「宮沢賢治」子どもと文学所収

2017-08-31 10:18:12 | 参考文献
 「子どもと文学」の他の論文とかなり趣が異なり、冒頭にグループ(「ISUMI会」といいます)で話し合いがもたれた時の実際の様子が紹介されています。
 この時の題材は「なめとこ山の熊」なのですが、そのやりとりを読んでいて懐かしい気持ちになりました。
 私も、大学一年の秋に、児童文学研究会の尊敬できる先輩(どういう経緯だったのかわかりませんが、私よりもかなり年長で、未成年だった私から見ると、立派な大人のように感じられました)に誘われて、児童文学研究会の分科会としてできたばかりの、「宮沢賢治研究会」という読書会に参加しました。
 それから、二年の間参加した毎週の読書会は非常に楽しいものでした。
 今振り返ってみると、参加していたメンバーの文学的な素質もかなり高かったのですが、やはり非常に多様な作品(しかも、大半が読書会向きの短編)を持つ「賢治」でなければ、ただ作品を読んで感想を言い合うだけのあのような読書会を毎週続けることはできなかったでしょう(もちろん、読書会の後の飲み会やメンバーとの旅行も楽しかったのですが)。
 他の記事にも書きましたが、先輩はどういうコネを持っていたのか、当時の賢治研究の第一人者であった続橋達雄先生にお話を聞く機会を設けてくれ、会で花巻へ賢治詣での旅行(賢治のお墓、羅須地人協会、イギリス海岸、花巻温泉郷など)に行った際には、続橋先生のご紹介で、賢治の生家をお訪ねして、弟の清六氏(賢治の作品が世の中に広まることに多大な貢献がありました。その記事を参照してください)から生前の賢治のお話をうかがったりできました。
 その後の著者の文章は、評論というよりは、賢治の評伝に近く、賢治の童話創作の時期を前期(習作期)、中期(創作意欲にあふれ、一日に原稿用紙百枚書いたという言い伝えがあり、ほとんどの童話の原型ができあがった時期)、後期(完成期)に分けて、時代ごとに主な作品とその特徴や創作の背景を解説しています。
 著者が指摘している賢治作品の主な特長は以下の通りです。
「構成がしっかりしている」
「単純で、くっきりと、眼に見えるように描いている」
「方言や擬声音、擬態音をうまくとりいれ、文章全体に張りのあるリズムをひびかせる」
「四四調のようなテンポの均一な、踊りのようなリズム」
「日本人には不向きと言われているユーモア」
「ゆたかな空想力」
 こうした「賢治作品」の特長を育んだものとして、著者は以下のものをあげています。
「素質が狂気に近いほどに並はずれた空想力にめぐまれたこと(こればかりは他の人にはまねできません)」
「郷土の自然」
「郷土の民俗」
「宗教(特に法華経)」
「教養(社会科学、文学、語学、音楽)(著者は無視していますが、自然科学の教養も他の作家にない賢治作品の大きな特徴です)
 全体を通して、著者自身の賢治の評価はベタほめに近く、むしろ「賢治」を利用して、既成の童話界(「赤い鳥」、小川未明、浜田広介など)を批判するために書いているような感もあります。
 また、当時(1950年代)の賢治作品の評価が「大人のためのもの」に傾いていると、著者たちは認識していたようで、自分たちの実体験(彼らの子どもたちの感想)も加えて、繰り返し賢治作品は本来「子ども(作品によっては低学年の子どもたちも)のために書かれたもの」で、その上で「純真な心意の所有者」の大人たちも楽しめるものだということを強調しています。
 この文章が書かれてから六十年近くがたち、子ども読者(大人読者も同様ですが)の本に対する受容力は大幅に低下しているので、現在では、当時の著者たちの認識より二、三年はプラスしないと、読むのは難しいかなという気はします。

子どもと文学
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8月30日(水)のつぶやき

2017-08-31 05:56:04 | ツイッター
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連作短編集について

2017-08-30 20:25:05 | 考察
 児童文学の世界では、1980年代ぐらいから、連作短編集という形態が盛んにおこなわれるようになりました。
 児童文学研究者の佐藤宗子は、「現代児童文学をふり返る」(「日中児童文学シンポジウム報告書」所収、大阪国際児童文学館、1991年2月28日、この論文全体に関してはその記事を参照してください)において、次のように述べています。
「八〇年代には短編連作の方法が意識的に選ばれるようになったのではないか。八五年の泉啓子「風の音を聞かせてよ」や、八六年の三木卓「元気のさかだち」などは、一遍と一遍の間を、いわば「空所」として効果的に用いているように思われる。きれめなく「筋」をことばで語っていくのとは違った方法であり、読書の思いがそこでたゆたい、ときに惑い、その受けとめ方も多様になる。」
 また、そこには読者の受容力の問題もあるように思います。
 年々読書力が低下するにつれて、長編の「筋」を追っていく能力が子どもたちに欠けてきているように思います。
 「長編」として出版される本も、年を追うにつれてページ数が少なくなり、また活字も大きく、各ページの余白が大きくなっています。
 文字がぎっしり詰まった大長編は、読む前から敬遠されるようになっています(エンターテインメントではハリー・ポッター・シリーズのような例外はありますが)。
 しかし、連作短編とはいえ、一つ一つの短編は独立した作品であるわけで、短編としてきちんと単独で成立していなければならないと思います。
 私の創作の経験においても、長編は長編としての構想がありますし、短編は短編としての書き方があります。
 連作短編だからといってその中間の書き方があるわけでなく、一つ一つはそれだけできちんと短編として読者と勝負できるものを書くわけです。
 もちろん、連作短編全体としての構想はありますが、それはまた別の評価をくだすべきでしょう。
 このブログの「作品論」は「書評」ではないので、これからも個々の短編を独立して評価していきます。
 ただし、連作短編集の場合は、必要に応じて短編集全体に対する記事を書く場合もあります。
 これは、論文集に関してもまったく同様で、個々の論文に対して「参考文献」として記事を書いています。
 また、時には、短編集ないしは論文集において、すべての短編なり論文をこのブログで取り上げない場合もあります(たぶんその方が多いと思います)。
 これからも、自分の興味ないしは問題意識で取り上げる短編ないし論文は限定していきます。
 これは、コモンリーダーと呼ばれる普通の読者の方たちも同様だと思われます。
 なにしろ、我々に与えられている時間は有限なのですから、関心のあることに集中せざるを得ません。
 
 
「現代児童文学」をふりかえる (日本児童文化史叢書)
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久山社
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古田足日「ロボット・カミイ」

2017-08-30 20:21:35 | 作品論
 1970年に出版された幼年文学の古典です。
 カミイは、仲良しの幼稚園児(ももぐみさんです)のたけしとようこが、ダンボールで作ったロボット(紙で作ったのでカミイという名前も、ベタな子どもらしいネーミングです)です。
 鋼鉄製(本人はそう思っている)のロボットのカミイは、力持ちで世界一強いはずなのですが、実は紙でできているので水に弱い(泣き虫なので自分の涙にも弱い)のです。
 カミイはわがままでいばりんぼなので、二人と一緒に行った幼稚園でも問題ばかりおこします。
 幼稚園児にとっての、自分よりもわがままで困った存在、そう、カミイはみんなの弟のようなものなのです。
 カミイとの行動を通して、お話の中の子どもたち(男の子と女の子のダブル主役なので、男の子読者も女の子読者も自分を主役にできます)も、そして読者の子どもたちも、自分の成長(おにいさんやおねえさんになったような気持ちになれます)を確認できることが、この作品の一番の魅力でしょう。
 それに、園内の小さな世界にとどまらず、みんなを助けるためにダンプカーにひかれて死んだカミイが、たけしとようこが破れたりしたところを補修するだけであっさりと復活して、最後はみんながダンボールで作ったチビゾウに乗ってロボットの国へ帰るというダイナミックなストーリーも備えています。
 作者は、実際に幼稚園に取材をしたり、教育実践を参考にしたりして、作品の幼稚園生活(書かれてから約五十年がたち、さすがに現在の幼稚園の実態にそぐわない個所もありますし、作品のジェンダー観(男の子と女の子の役割の固定化など)も古くなっていますが)にリアリティを持たせ、実際の園児たちの反応を確かめながら作品を膨らませています。
 作者の評論(特に初期のもの)は抽象的で難解なことが多く、高学年向きの作品には理が勝っている作品(「宿題引受け株式会社」(その記事を参照してください)など)もあるのですが、むしろ幼年文学(「おしいれのぼうけん」(その記事を参照してください)など)の方に生き生きとした優れた作品が多いように感じます。

ロボット・カミイ (福音館創作童話シリーズ)
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8月29日(火)のつぶやき

2017-08-30 06:00:08 | ツイッター
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「座談会 古田足日 現代児童文学のデザイン」日本児童文学2015年1・2月号所収

2017-08-29 10:52:01 | 参考文献
 2014年に亡くなられた古田足日先生の追悼号において、総論の代わりとして行われた、児童文学評論家の西山利香、宮川健郎、藤田のぼる(司会)による座談会です。
 「現代児童文学」(定義などは関連する記事を参照してください)において、評論と創作の両面で大きな足跡を残された古田先生について、きちんと仕事の全体像を明らかにした総論を書かない(あるいは書けない)のが、現在の評論の弱さを示しています。
 そう言えば、2010年に後藤竜二が亡くなった時も、評論の現場を二十年以上離れている人(その人は一所懸命に作品の読み直しをしたりして、彼としてはベストのものを書いていました)に総論を押し付けていましたが、あの時もずっと評論の現場に居続けている彼らのうちの誰かが責任を持って書くべきだったでしょう。
 あんのじょう、個人的な思い出や自分の関心のある話題(戦争児童文学)に引っ張りすぎて、古田先生の仕事の全体像はさっぱり浮かび上がってきません。
 特に、未完(「日本児童文学」に連載途中で打ち切りになった)の戦争児童文学二作の話を長々としていたのにはびっくりしました(読者はほとんど誰も読んでいないし、古田先生自身の判断で打ち切られた作品です)。
 古田先生の現代児童文学における活動について、総論としてまとめるべきだった思われる内容について、私見を述べれば、以下のようになります。
1.1950年代の童話伝統批判において、いかに中心的な役割りをはたしていたか。
2.盟友で最も文才のあった山中恒が去った後で、「赤毛のポチ」の世界を発展させた形で、どのように社会主義的リアリズムを児童文学の世界に取り込もうとしていたか。
3.各地の教育実践の成果を、どのように児童文学に取り込んでいったか。
4.新しい幼年文学の世界をどのように切り拓いていったか。
5.新しい戦争児童文学(及びその書き手)をどのように育てていったか。
6.後進の指導(評論及び創作の両面において)
 1990年に安藤美紀夫が亡くなった時に、追悼号で彼の仕事の全体像を理路整然とまとめてくださった(その記事を参照してください)のは古田先生ご自身でした。
 図らずも、古田先生の不在の大きさを、今回痛感させられました。

古田足日子どもの本
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童心社
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石井直人・宮川健郎「対談「仮説」の語りかた」日本児童文学2004年11-12月号所収

2017-08-29 08:52:38 | 参考文献
 「危機の児童文学」という特集の中での児童文学研究者同士の対談です。
 ここでいう「危機」とは、「少子化」とか、「子ども読者が、前より本を読まなくなっている」とか、「子どもが読書に求めているものが、以前と違ってきている」とかなどと思われるのですが、冒頭で石井の「危機っていう言葉自体があまり好きじゃないなあ」という発言もあって、あまり特集の主題に沿った対談にはなりませんでした。
 本来だったら、初めに宮川が指摘した「子ども読者が相対的にずいぶん減ってることは確かだから、「児童文学」は本当に成り立つんだろうかと思ってしまう。」「「児童文学」が「文学」との境目を、良くも悪くも崩してる状況がずっと続いている。」「小学生ぐらいが読むのが児童文学だという思い方をしている。それが児童文学のボディーだと思ってきたので、そのボディーのところが、すごく空洞化していると思う。そこは、中心だからこそ、児童文学に固有の文体とかね、書き方とかみたいなものが試される場のはずなんだけれど、みんな、そこを避けて書いている。」といった重要な認識が、対談の中で掘り下げられるべきだったと思うのですが、実際は個々の作品に即して語られたせいか、ミクロな技術論が中心になってしまいました(所々で、本論に立ち返るところもあるのですが)。
 以下のような当時の注目作について、主に「「仮説」を用いた語り方」を中心に話われ、そこに彼ららしく三島由紀夫や宮台真司や安部公房などの言説がちりばめられています。
 さとうまきこ「こちら地球防衛軍」
 森絵都「カラフル」「DIVE!!」
 笹生陽子「楽園のつくりかた」
 香月日輪「妖怪アパートの幽雅な日常」
 あさのあつこ「バッテリー」
 富安陽子「空へつづく神話」
 たかどのほうこ(高楼方子)「ねこが見た話」「十一月の扉」
 那須田淳「ペーターという名のオオカミ」
 最初に、「児童文学の危機」が「世界や社会(子どもたちも含めて)の危機」に置き換えられて、いわゆる「セカイ系」の作品の書き方の話になって、本題からややはずれてしまいました。
 ただ、現在の状況を自然主義で描くことは困難になっているので、「仮説の文学」(非・リアルな設定の中で、「たら、どう」って考える文学)が必要になっているという指摘は、重要でしょう。
 その後に、今は希少になっている小学生読者向けの富安作品や高楼作品において、描写よりもストーリー展開を重視した書き方になっているという指摘も、「子どもが読書に求めているものが前と違ってきている」現代における児童文学作品の書き方として重要でしょう(描写を重視した「現代児童文学」(特に1980年代の作品)の書き方から、昔話などの口承文学への先祖がえりとされています)。
 今回取り上げられたのは、従来の「現代児童文学」の定義で言えば、エンターテインメント寄りの、一般文学で言えば「中間小説」的な作品ばかりです。
 はやみねかおるなどの純粋エンターテインメント作品には少し触れていますが、従来型の「現代児童文学」作品は全く無視されていますので、それらはすでに売れなくなって出版もされない(作家も書かない)、あっても取り上げるほどの作品がない、状況になっていたと思われます。
 そういった意味では、この時期は、日本の児童文学がかつての「現代児童文学」(定義などはそれに関する記事を参照してください)から、現在の「(女性向け)エンターテインメント(今回取り扱われたのもほとんど女性作家の作品です)」へ転換する過渡期だったのでしょう。
 私自身は、すでに従来型の「現代児童文学」がほとんど出版されなくなった1990年代に「現代児童文学」は終焉したという立場ですが、一般的にはこうした「中間小説的」児童文学も低調になった2010年ごろに終焉したと言われています。
 そういった意味では、今回の対談で技術論が中心になったのもやむをえないのですが、その一方で二人が作品に何らかの「人生論」的な意味を見いだそうとしているのは、「評論」の方も過渡的だったことを示しているのかもしれません。


日本児童文学 2017年 08 月号 [雑誌]
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小峰書店

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8月26日(土)のつぶやき

2017-08-27 05:58:09 | ツイッター
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今西祐行「はまひるがおの小さな海」そらのひつじかい所収

2017-08-26 14:08:19 | 作品
 作者の児童文学の出発点として1956年に出版された、「そらのひつじかい」(日本児童文学者協会新人賞受賞)に収録されている作者の幼年童話の代表作の一つです。

 岬のとっぱなに、ひとりぼっちで咲くひるがおと、「ぼく」の会話でお話は始まります。
 ひるがおは、「ぼく」に「自分をつみとってくれ」と、頼みます。
 「ひるがおをつむと空がくもる」という、言い伝えがあるからです。
 嵐の夜に近くに打ち上げられ、小さな水たまり(小さな海)に取り残されて、ひるがおとすっかり仲良しになったおさかなが、太陽がつよくてにえそうになっているのを見かねて、自分を犠牲にして空を曇らせようとしたのです。
 「ぼく」は、ひるがおをつみとったりせずに、さかなをすくって海へ帰そうとします。
 でも、そうすると、ひるがおはまたひとりぼっちになってしまいます。
 「ぼく」は、浜で遊んでいた子どもたちに頼んで、ひるがおの「小さな海」に毎日海の水を入れてくれるよう頼むのでした。
 子どもたちは快諾したばかりか、えびやかにも入れて「小さな海」をにぎやかにしてくれることを約束してくれます。

 この作品も選ばれている「幼年文学名作選15」の解説で、児童文学作家で研究者でもある関英雄は、「はまひるがおと「小さな海」に息もたえだえになっている小魚の間にかよう心は、まさに今西童話の核となる「心の結びあい」の、もっとも簡明で美しい結晶です。浜であそぶ子どもたちがその「小さな海」を守るという結末、何回読み返しても心をうたれずにはいられません」と激賞しています。
 現代的にいえば、「魚を小さなところへ閉じ込めたまでは残酷だ。エビやカニも入れるなんてもってのほかだ」と、動物愛護の立場から非難されるかもしれません。
 「子どもたちはすぐに飽きてしまって、「小さな海」は干上がったに違いない」という人もいるかもしれません。
 しかし、この作品の優れた点はそういった表面的なところにあるのではありません。
 「ぼく」(少年かもしれませんし大人かもしれません)の中にある「童心」が、ひるがおや浜の子どもたちの「童心」と読者の中にある「童心」とを確かに結びあわせる、作者の童話的資質(モティーフ、視点、文体などすべてをひっくるめた作品全体。私の拙い要約では伝えることができまないのが残念です)そのものにあるのです。
 この作品が世の中に出たちょうど同じころ、「さよなら未明 -日本近代童話の本質ー」(その記事を参照してください)で、「現代児童文学」はこうした「童話」と決別しようと呼びかけた児童文学者の古田足日は、数十年後のインタビュー「幼年文学の現在をめぐって」(その記事を参照してください)の中で、この作品について「魂の救済」「「童話的資質」は、子ども、人間の深層に通ずる何かを持っている」と述べて、童話伝統の持っている内容・発想の価値を、特に幼年文学の分野において認めています。
 補足しますと、作者は、早大童話会で古田足日の先輩にあたるのですが、1953年の「少年文学宣言」では彼らに批判される側の立場(坪田譲治の門下生)でした。
 当時から、古田足日は、童話的資質を持っている書き手の「童話」は評価していましたが、作者のこの作品などもその念頭にあったかもしれません。
 「童話的資質」と言ってしまうと、それから先は思考停止で分析が進まないのですが、たくさんの童話作家や童話作品に出会っていると、確かにそうとしか言えないものを感じます。
 長年、児童文学の同人誌に参加していると、初心者の人がいかにも「童話」らしい作品を提出してくることがよくあります。
 「こういうのが一番厳しいんだけどなあ」と、つい思ってしまいます。
 なぜなら、こうした作品は、修練しても身につかない本人の「童話的資質」を問われるからです。



はまひるがおの小さな海 (日本の幼年童話 15)
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岩崎書店













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古田足日「さよなら未明 ―日本近代童話の本質―」現代児童文学論所収

2017-08-26 11:28:31 | 参考文献
 1950年代に行われた童話伝統批判の論争の中でも、もっとも有名な論文のひとつです。
 著者は、日本の近代童話の本質は、原始心性にあって、書かれているものは呪術・呪文であり、未分化の児童文学であると定義しています。
 言葉が強いので、一見ひどく批判しているように読めてしまうのですが、実際には童話という表現形式は認めており、それと「児童文学」をイコールと考えることに異議を示しているのです。
 そして、現代の子どもたちに必要な児童文学は、童話ではなく、もっと散文性を備えた、現実の子どもたちへの関心を持ったものとしています。
 ここではまだ、それらとならんで「現代児童文学」の特長とされる「変革の意志」に対する明確なメッセージはありませんが、子どもを発展する存在と考え、彼らにエネルギーを与えるものが児童文学であるとし、それができない「近代童話」とは決別しなければならないと主張しています。
 著者は、近代童話を支えてきたものは、作家の童話的資質によるものとして、小川未明の資質と作品は「童話」としては高く評価しています。
 問題は、それに対する安易な追随者たちや模倣者たちで、彼らが童話イコール児童文学と錯覚していることを繰り返し批判しています(この論文が書かれてから約六十年が経過しましたが、今でもそのような追随者や模倣者たちが数多くいるのが現状です)。
 繰り返しますが、「童話」は子どものためのものではなく、文学のひとつのジャンル(著者は、明治自然主義に対するアンチテーゼのひとつとしての、大正ロマン派運動の所産としています)であり、作者と読者の双方にある「永遠の童心」(生命の連続性に根差しています)に支えられた文学なのです。
 こうした著者の近代童話の分析は、その本質をよくとらえており、英米児童文学との単純な比較で未明たちを批判した「子どもと文学」(それらの記事を参照してください)とは一線を画しています。
 ただ惜しむらくは、この論文の書き方は、抽象的で難解な点が多く、若かった著者の気負いも随所に感じられて、平明な言葉で書かれた「子どもと文学」ほど、その後の児童文学の書き手たちに影響を与えなかったようです。
 初めての児童文学の専門書として、17歳の時に「子どもと文学」を読んだ私自身も、その明快な論理(今思ってみると、英米児童文学の論理に乗っかっていただけのところが多く、この論文の著者ほどの独自性はなかったのですが)に強く惹かれました。
 著者は、近代童話の作家の中で、小川未明を、その原始的エネルギーと童話的資質の高さから、近代童話の作家として一番高く評価しています(それだからこそ、「さよなら未明」と自分自身にも宣言しなければならなかったのでしょう)。
 浜田広介は、未明のような強烈な資質を持たないので、近代童話の弱点である作家の主体性を欠いた小児性に陥っているとしています。
 千葉省三に関しては、散文性の萌芽は認めつつも、広介と同様な小児性に陥っているとしています。
 著者が児童文学との関連で一番高く評価しているのは、坪田譲治です。
 譲治の作品世界にも原始心性があることを指摘しつつも、「散文性の獲得」、時代の典型の子ども像としての「善太と三平」の創造などを評価しています。
 「善太と三平」に関しては、平凡な日常を描いただけの子ども向けの作品(生活童話)よりも大人の中で葛藤する二人を描いた「風の中の子供」の方を高く評価しています。
 児童文学を勉強し始めたころは、明確に「未明」、「広介」、「譲治」を否定し、「省三」、「賢治」、「南吉」を肯定した、「子どもと文学」の方に共感していた(子どものころに読んだ児童文学がほとんど海外の作品だったからでしょう)のですが、「現代児童文学」が終焉(その記事を参照してください)した現在では、私自身の考えはかなり変わってきています。
 未明たちの「近代童話(広介のような小児性も含めて)」も、「子どもと文学」が主張していた英米児童文学流の児童文学も、著者たちが目指していた「変革の文学」も、それぞれ相対的なものにすぎなかったのではないでしょうか。
 そして、それぞれの「児童文学」の中で、素晴らしい作品もあり、またくだらない作品(近代童話の場合は、一番残酷なのですが「童話的資質」に乏しい作家が書いた作品、「子どもと文学」でいえば、「おもしろく、はっきりわかりやすい」が中身のない作品、「少年文学宣言派」でいえば、「テーマ主義に陥っていておもしろくない」作品)もあることだけは事実でしょう。

現代児童文学論―近代童話批判 (1959年)
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くろしお出版
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鹿島田真希「冥土めぐり」文藝2012年春号所収

2017-08-26 09:15:38 | 参考文献
 2012年上期の芥川賞受賞作です。
 過去のぜいたくな暮らしを忘れられない母と弟から理不尽な目にあわされている主人公は、脳性の障害を持つ夫と、家族の思い出のホテルを訪れます。
 かつては豪華なリゾートホテルだったのが、今では二月の平日ならば一泊五千円で泊まれる区の保養所になっています。
 古びたホテルと重ね合わせるようにして、没落した家族の思い出が語られます。
 最後に主人公は、理不尽な過去と決別して、障害者ながら生命力に富んだ夫と生きていく決意を再確認します。
 端正な文章、的確な表現力、丁寧な主人公の心理描写など、どれをとっても一級品です。
 しかし、残念ながら、この作品に新しい文学への挑戦は感じられません。
 精緻に作り上げられた佳品といった趣です。
 芥川賞受賞を待っていたかのように、この短編に他のもっと短い作品をくっつけた単行本が書店に平積みにされ、雑誌売り場には表紙に芥川賞受賞作全文掲載(それほど短いということです)と書かれた文藝春秋が大量に積み上げられています。
 芥川賞発表時のおなじみの光景ですが、地味な純文学作家への経済的な救済だと思えば、出版社の儲け主義にも少し目をつぶりたくなります。

冥土めぐり
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河出書房新社
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E.L.カニグズバーグ「アウトサイダーの文学」子どもの館29所収

2017-08-26 09:13:32 | 参考文献
 カニグズバーグが来日した時のインタビューをもとに編集した記事です。
 化学者としての経歴や、母、妻、作家をこなす話などが含まれていますが、一番印象に残ったのは、彼女のアウトサイダー(ユダヤ教徒としてアメリカ社会(宗教的にはクリスチャンが圧倒的に多数派です。彼女の認識としては、人種ではなく宗教としての少数派です)としての自覚と、アウトサイダーなるがゆえに文化に貢献できる(インサイダーの人間は文化に融合していて客観視ができない)という自負です。
 それが、現代のアメリカ社会、特に子どもたちを取り巻く状況について客観的に眺めることができ、クローディアのような、時代の典型としての子どもたち(ユダヤ人も白人も黒人も)を描き出すことが出来たのでしょう。
 そうした意味では、日本の児童文学でも、もっと日本に住む少数派の人々(国籍が日本かどうかは別にして)の視点で書かれた作品が必要なのかもしれません。

トーク・トーク カニグズバーグ講演集 (カニグズバーグ作品集 別巻)
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岩波書店
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8月23日(水)のつぶやき

2017-08-24 05:56:03 | ツイッター
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