現代児童文学

国内外の現代児童文学史や現代児童文学論についての考察や論文及び作品論や創作や参考文献を、できれば毎日記載します。

那須正幹「The End of the World」六年目のクラス会所収

2017-08-31 10:37:59 | 作品論
 核戦争で死滅した世界において、核シェルターの中で一人だけ生き残った少年の話です。
 全体的に、極端なシチュエーションを作るだけのためのような荒い書き方ですし、放射能汚染に関する知識もかなりいい加減なのですが、妙に生々しく感じるのは、日本上空を飛んで行った北朝鮮のミサイルのせいでしょうか。
 緊迫している半島情勢だけでなく、ISをめぐる戦争、世界中で頻発しているテロ、自分の支持層のために人種差別を否定できない大統領、軍備を拡張し続ける大国など、近年になく世界の情勢は緊迫しています。
 こうした社会情勢と、日本の児童文学がまったく無関係になったのは、いつごろからでしょうか?

六年目のクラス会―那須正幹作品集 (創作こども文学 (1))
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児童文学の新しい読者

2017-08-31 10:22:10 | 考察
 児童文学の読者は誰なのか?
 これは非常に難しい問題です。
 一般には子どもが対象になる文学のことでしょう。
 しかし、児童文学者で詩人のエーリヒ・ケストナーは、「8才から80才まで」と自分の作品の読者を想定していました。
 宮沢賢治も、「注文の多い料理店」の新刊案内の中で、読者対象を「アドレッセンス(男子は14才から25才まで、女子は12才から21才まで)中葉(男子は20才前後、女子は17才前後)(男女差があるのは女性の方が精神的成長が早いためです)」と規定していました。
 現在では、児童文学は子どもから大人までの、特に女性向けのエンターテインメントの一種に変容してきています。
 そういう意味では、年齢の若い順に読者対象を分類すれば、幼年(幼稚園から小学三年生までの男女)、少年(小学校高学年から中学生ぐらいまでの男女)、青年(いわゆるヤングアダルトで、高校生や大学生の男女、二十代の女性)、壮年(主婦も含めて三十代から五十代ぐらいまでの女性)に分類できるのではないでしょうか。
 そして、新たな分野として老年(60代以上の男女)児童文学も可能性があると思います。
 そこでは、従来の現代児童文学では懐古的すぎると思われた内容のものもOKでしょう。
 昭和時代の雰囲気を満載した児童文学の領域が、新たに開拓される余地はおおいにあると思われます。

老年の価値
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連作短編集について

2017-08-30 20:25:05 | 考察
 児童文学の世界では、1980年代ぐらいから、連作短編集という形態が盛んにおこなわれるようになりました。
 児童文学研究者の佐藤宗子は、「現代児童文学をふり返る」(「日中児童文学シンポジウム報告書」所収、大阪国際児童文学館、1991年2月28日、この論文全体に関してはその記事を参照してください)において、次のように述べています。
「八〇年代には短編連作の方法が意識的に選ばれるようになったのではないか。八五年の泉啓子「風の音を聞かせてよ」や、八六年の三木卓「元気のさかだち」などは、一遍と一遍の間を、いわば「空所」として効果的に用いているように思われる。きれめなく「筋」をことばで語っていくのとは違った方法であり、読書の思いがそこでたゆたい、ときに惑い、その受けとめ方も多様になる。」
 また、そこには読者の受容力の問題もあるように思います。
 年々読書力が低下するにつれて、長編の「筋」を追っていく能力が子どもたちに欠けてきているように思います。
 「長編」として出版される本も、年を追うにつれてページ数が少なくなり、また活字も大きく、各ページの余白が大きくなっています。
 文字がぎっしり詰まった大長編は、読む前から敬遠されるようになっています(エンターテインメントではハリー・ポッター・シリーズのような例外はありますが)。
 しかし、連作短編とはいえ、一つ一つの短編は独立した作品であるわけで、短編としてきちんと単独で成立していなければならないと思います。
 私の創作の経験においても、長編は長編としての構想がありますし、短編は短編としての書き方があります。
 連作短編だからといってその中間の書き方があるわけでなく、一つ一つはそれだけできちんと短編として読者と勝負できるものを書くわけです。
 もちろん、連作短編全体としての構想はありますが、それはまた別の評価をくだすべきでしょう。
 このブログの「作品論」は「書評」ではないので、これからも個々の短編を独立して評価していきます。
 ただし、連作短編集の場合は、必要に応じて短編集全体に対する記事を書く場合もあります。
 これは、論文集に関してもまったく同様で、個々の論文に対して「参考文献」として記事を書いています。
 また、時には、短編集ないしは論文集において、すべての短編なり論文をこのブログで取り上げない場合もあります(たぶんその方が多いと思います)。
 これからも、自分の興味ないしは問題意識で取り上げる短編ないし論文は限定していきます。
 これは、コモンリーダーと呼ばれる普通の読者の方たちも同様だと思われます。
 なにしろ、我々に与えられている時間は有限なのですから、関心のあることに集中せざるを得ません。
 
 
「現代児童文学」をふりかえる (日本児童文化史叢書)
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石井直人・宮川健郎「対談「仮説」の語りかた」日本児童文学2004年11-12月号所収

2017-08-29 08:52:38 | 参考文献
 「危機の児童文学」という特集の中での児童文学研究者同士の対談です。
 ここでいう「危機」とは、「少子化」とか、「子ども読者が、前より本を読まなくなっている」とか、「子どもが読書に求めているものが、以前と違ってきている」とかなどと思われるのですが、冒頭で石井の「危機っていう言葉自体があまり好きじゃないなあ」という発言もあって、あまり特集の主題に沿った対談にはなりませんでした。
 本来だったら、初めに宮川が指摘した「子ども読者が相対的にずいぶん減ってることは確かだから、「児童文学」は本当に成り立つんだろうかと思ってしまう。」「「児童文学」が「文学」との境目を、良くも悪くも崩してる状況がずっと続いている。」「小学生ぐらいが読むのが児童文学だという思い方をしている。それが児童文学のボディーだと思ってきたので、そのボディーのところが、すごく空洞化していると思う。そこは、中心だからこそ、児童文学に固有の文体とかね、書き方とかみたいなものが試される場のはずなんだけれど、みんな、そこを避けて書いている。」といった重要な認識が、対談の中で掘り下げられるべきだったと思うのですが、実際は個々の作品に即して語られたせいか、ミクロな技術論が中心になってしまいました(所々で、本論に立ち返るところもあるのですが)。
 以下のような当時の注目作について、主に「「仮説」を用いた語り方」を中心に話われ、そこに彼ららしく三島由紀夫や宮台真司や安部公房などの言説がちりばめられています。
 さとうまきこ「こちら地球防衛軍」
 森絵都「カラフル」「DIVE!!」
 笹生陽子「楽園のつくりかた」
 香月日輪「妖怪アパートの幽雅な日常」
 あさのあつこ「バッテリー」
 富安陽子「空へつづく神話」
 たかどのほうこ(高楼方子)「ねこが見た話」「十一月の扉」
 那須田淳「ペーターという名のオオカミ」
 最初に、「児童文学の危機」が「世界や社会(子どもたちも含めて)の危機」に置き換えられて、いわゆる「セカイ系」の作品の書き方の話になって、本題からややはずれてしまいました。
 ただ、現在の状況を自然主義で描くことは困難になっているので、「仮説の文学」(非・リアルな設定の中で、「たら、どう」って考える文学)が必要になっているという指摘は、重要でしょう。
 その後に、今は希少になっている小学生読者向けの富安作品や高楼作品において、描写よりもストーリー展開を重視した書き方になっているという指摘も、「子どもが読書に求めているものが前と違ってきている」現代における児童文学作品の書き方として重要でしょう(描写を重視した「現代児童文学」(特に1980年代の作品)の書き方から、昔話などの口承文学への先祖がえりとされています)。
 今回取り上げられたのは、従来の「現代児童文学」の定義で言えば、エンターテインメント寄りの、一般文学で言えば「中間小説」的な作品ばかりです。
 はやみねかおるなどの純粋エンターテインメント作品には少し触れていますが、従来型の「現代児童文学」作品は全く無視されていますので、それらはすでに売れなくなって出版もされない(作家も書かない)、あっても取り上げるほどの作品がない、状況になっていたと思われます。
 そういった意味では、この時期は、日本の児童文学がかつての「現代児童文学」(定義などはそれに関する記事を参照してください)から、現在の「(女性向け)エンターテインメント(今回取り扱われたのもほとんど女性作家の作品です)」へ転換する過渡期だったのでしょう。
 私自身は、すでに従来型の「現代児童文学」がほとんど出版されなくなった1990年代に「現代児童文学」は終焉したという立場ですが、一般的にはこうした「中間小説的」児童文学も低調になった2010年ごろに終焉したと言われています。
 そういった意味では、今回の対談で技術論が中心になったのもやむをえないのですが、その一方で二人が作品に何らかの「人生論」的な意味を見いだそうとしているのは、「評論」の方も過渡的だったことを示しているのかもしれません。


日本児童文学 2017年 08 月号 [雑誌]
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小峰書店

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鹿島田真希「冥土めぐり」文藝2012年春号所収

2017-08-26 09:15:38 | 参考文献
 2012年上期の芥川賞受賞作です。
 過去のぜいたくな暮らしを忘れられない母と弟から理不尽な目にあわされている主人公は、脳性の障害を持つ夫と、家族の思い出のホテルを訪れます。
 かつては豪華なリゾートホテルだったのが、今では二月の平日ならば一泊五千円で泊まれる区の保養所になっています。
 古びたホテルと重ね合わせるようにして、没落した家族の思い出が語られます。
 最後に主人公は、理不尽な過去と決別して、障害者ながら生命力に富んだ夫と生きていく決意を再確認します。
 端正な文章、的確な表現力、丁寧な主人公の心理描写など、どれをとっても一級品です。
 しかし、残念ながら、この作品に新しい文学への挑戦は感じられません。
 精緻に作り上げられた佳品といった趣です。
 芥川賞受賞を待っていたかのように、この短編に他のもっと短い作品をくっつけた単行本が書店に平積みにされ、雑誌売り場には表紙に芥川賞受賞作全文掲載(それほど短いということです)と書かれた文藝春秋が大量に積み上げられています。
 芥川賞発表時のおなじみの光景ですが、地味な純文学作家への経済的な救済だと思えば、出版社の儲け主義にも少し目をつぶりたくなります。

冥土めぐり
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戌井昭人「鳩居野郎」すっぽん心中所収

2017-08-23 21:17:18 | 参考文献
 これも日常に潜む狂気を描いた作品です。
 ある事情でビルの屋上の小屋に住むことになった鳩嫌いの男と、もともとそこにいた鳩たちとの攻防戦を通して、ふとしたはずみで平凡な人間が常軌を逸してしまう姿を、ユーモアも交えて綴っています。
 狂気とユーモアの同居というのは「ほら吹き男爵」などの昔から児童文学の得意とする分野ですが、どうも最近の日本の児童文学ではその伝統が廃れてしまっているようです。

すっぽん心中
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松本清張「断碑」

2017-08-23 21:14:00 | 参考文献
 在野の天才的な考古学者の、悲劇的な短い生涯を描いています。
 考古学にかける驚異的な情熱と才能を持ちながら、学歴がないことへのコンプレックスと狷介な性格のために、まわり中に敵を作り、孤独(妻が唯一の理解者でパトロンでもありましたが、彼から結核をうつされて先に亡くなります)なまま生涯を閉じます。
 大学や学会が閉鎖的なことは、戦前は今の比ではないでしょうから、彼のような生き方が周囲に認められなかったのは無理もなかったでしょう。
 大学や学会(特に文系)は、民間の企業などと比べると、今でも旧弊が残っている部分があります。
 理系の学問と比べて成果が見えにくい点はあると思いますが、研究成果の発信量が少なくて、講座が縮小されたり予算が削られてしまう場合は、やむを得ないかなとも感じます。
 中には、ろくに論文を書かなくなっている大学教授も、まだいるようです。
 今は論文もデータベース化されているので、それをチェックすれば、児童文学の世界でも、誰がまじめに研究を続けているかはすぐに分かります。

松本清張全集 (35) 或る「小倉日記」伝 短篇 (1)
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戌井昭人「植木鉢」すっぽん心中所収

2017-08-22 12:31:51 | 参考文献
 テレビで見た殺人事件をきっかけに、異常な行動をとるようになってしまった男を描いています。
 日常に潜む狂気が誰にでも起こるように思わせるところがポイントですが、主人公も含めて登場人物やエピソードにまったく魅力が感じられないので、作品に没入できませんでした。
 児童文学でも、子どもたちの衝動的な狂気を描くことはもっとあってもいいのではないでしょうか。
 もちろん、ストーリーや登場人物にも魅力があることが大前提です。

すっぽん心中
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ホビット 竜に奪われた王国

2017-08-21 10:24:13 | 映画
 ホビット三部作の第二部です。
 第一部の記事でも述べましたが、原作が指輪物語と違って短いので、ここでも原作にはない戦闘シーンや、エルフとドワーフの恋愛関係(原作を読んだことのある方ならば、この設定がいかに馬鹿げているかご存知のことだと思います)などが大幅に追加されていて、原作とはまったく別物になっていました。
 特に気になったのが、悪役であるオークを、エルフがかたっぱしから殺しまくることです。
 エルフが金髪碧眼の白人そのものなので、大げさに言えば、人種差別やジュノサイドにもつながるものを感じて、無邪気に楽しむことはできませんでした。
 また、CGが良く出来すぎていて、主人公たちがあまりに簡単に障害をクリアしてしまうので、スリルは全く感じられませんでした。

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ワーナー・ブラザース・ホームエンターテイメント
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椋鳩十「マヤの一生」「戦争と平和」子ども文学館11所収

2017-08-21 10:20:42 | 参考文献
 動物児童文学の第一人者が、戦後に書いた戦争(反戦)児童文学です。
 いつもの野生動物ではなく、作者の家で戦中に飼われていた愛犬のマヤ(他にネコのペルとニワトリのピピも登場します)の一生を描いています。
 作者の優れた観察眼がここでも発揮されていて、犬やネコを飼ったことのある読者なら、「そうそう」とうなづくであろうシーンがたくさん出てきます。
 前半は、子犬の時にもらわれてきた熊野犬のマヤが、家族の一員として迎えられ、他の動物たちとも仲良く暮らしていく様子が、ほほえましいエピソードとともに描かれています。
 特に、一番かわいがってくれた作者の次男との交流は、一度でも動物と心を通わせた経験のある人ならたまらない魅力を持っています。
 後半では、戦争が始まり、作者の住む田舎にも食糧危機や空襲などで、影を落としてきます。
 そんな戦中の生活(食糧難への対応、人々に極度の耐乏生活を説きながら陰で自分たちだけは不正をして贅沢をしている権力者、むやみに威張っている軍人、盲目的に戦争協力している村の人々、無邪気に軍人になることを夢見ている自分の幼い子どもたち、荒れる心を抑えられない自分など)を、極端に他人を非難したり、自分たちだけを美化したりせずに、淡々と描いていきます。
 ついに、くだらない理由(耐乏生活の中で犬を飼っているのはぜいたくだ、空襲の時に犬が吠えるとそのあたりが爆撃されるなど)で犬を供出(広場に集めて棒で殴り殺す)する命令が出ます。
 作者は、なんのかんのと言いのがれをして、マヤを守ろうとしています。
 そんな一家を、周囲の人は「非国民」と呼んで差別し、子どもたちもいじめられます。
 そして、とうとう村で最後の一匹になったマヤは、作者が留守の時に無理やり連れて行かれてしまいます。
 一緒に行った子どもたちの前で、マヤは大男に棒で頭を殴られて倒れてしまいます。
 子どもたちはショックで熱を出して、寝込んでしまいます。
 でも、マヤはその場所では死なずに、懸命に家まで戻ってきて、一番愛していた(愛してくれていた)次男のげたに頭をのせるようにして冷たくなっていました。
 物語ですから脚色や擬人化(作者の他の作品でもそれは感じられます)もあるでしょうが、一家とマヤの交流が、抑えた筆致ながら鮮やかに描かれています。
 原爆や空襲などのショッキングなシーンはありませんが、それだからこそ、普通の家族の生活にも否応なく襲い掛かってくる戦争というものを静かに糾弾しています。
 こういった作品ならば、現代の子どもたちにも、戦争の残酷さを伝え続けることができるのではないでしょうか。

「戦争と平和」子ども文学館 (11)
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日本図書センター
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「いま、ぼくたちが話している場所」日本児童文学1987年3月号所収

2017-08-20 20:30:23 | 参考文献
 1986年9月21日に行われた当時若手(30歳前後)の児童文学研究者で評論家であった、石井直人、宮川健郎、佐藤宗子による座談会の記録で「主体性神話をこえて」という副題がついています。
 「児童文学明日への展望 ― 児童分学は生きのびられるか ―」という大きな特集テーマの中で、「作家の主体性の喪失」、「受け身の読者たち」、「新人類(その頃の若者を指す流行語です)と児童文学」というサブテーマを、編集部から与えられていたようです。
 1950年代にスタートした「現代児童文学」が1980年ごろに大きな変曲点(詳細については他の記事を参照してください)を迎え、当時の児童文学界は危機感(主には児童文学が商業主義に取り込まれるのではないかということですが、その予感が的中したことはご存じのとおりです)を持っていました。
 私がかつて所属していた同人誌も、その危機感の中で誕生しましたが、今は完全に商業主義に適応しています。
 編集部の意向を察するに、1978年にスタートした那須正幹の「ズッコケ三人組」シリーズの成功を受けて当時盛んになっていたエンターテインメント系の作品について、作家側や読者側から見てどう分析するかが期待されていたようです。
 しかし、初めに当時の人気作家薫くみこの作品にちょっと触れた(しかも第三者(「季節風」という同人誌の七号に掲載された児童文学評論家の上原孝一郎)の意見を紹介する形です)だけで、与えられたサブテーマを疑問視する形で、より抽象性の高い児童文学における「主体性」についての議論へ移ってします。
 それには、いくつかの理由が考えられます。
 まず、彼ら三人が、それまでの「日本児童文学」誌上の主な評論の書き手であった古田足日や安藤美紀夫や砂田弘などと違って、児童文学の実作の経験が乏しく、「作家の主体性」が作品にどのように反映されるかを実感として認識できていなかったことがあげられます。
 ちょうどこのころに、ふたたび児童文学の世界に戻ってきていた私は、その頃の若い書き手たち(その中には、この座談会で作品が取り上げられていた横沢彰(人気芸人の横沢夏子のおとうさんです)や長崎夏海もいました)と交流があったのですが、彼らと若手評論家たちはほとんど没交渉(評論は難しいという理由で、当時から若い書き手たちは誰も読んでいませんでした。今の若い書き手たちは、おそらく評論の存在すら知らないでしょう)でした)。
 次に、彼らは評論家であるとともに児童文学の研究者(いずれもその後立派な研究成果を上げています)であったために、どちらかというと学究的な興味が勝っていたと思われます。
 最後に、エンターテインメント作品をどう評価するかの方法論が、彼らに限らず児童文学界になかった(今でもありませんが)ことが挙げられます。
 そのため、より取扱いしやすい「現代児童文学」(定義などについては別の記事を参照してください)である横沢彰「まなざし」や長崎夏海「A DAY」へ、議論が移ってしまいます。
 たしかに、これらの作品では、作者の関心は、かつての作品のような「社会」から「個人」(受験や非行)へ移っています。
 しかし、そこには依然として確固たる作家の主体性があり、サブテーマである「作家の主体性の喪失」とは無縁です。
 その後は、ファンタジー作品(芝田勝茂「ドーム郡ものがたり」やわたりむつこ「はなみんみ物語」など)、子どもたちを個人でなく群像として描いた作品(安藤美紀夫「風の十字路」(その記事を参照してください)、自分の子ども時代を描いた作品(三木卓「元気のさかだち」)、歴史ロマン作品(しかたしん「国境」や浜たかや「火の王誕生」)などについて議論していますが、これらはどれも「現代児童文学」の範疇で、どのように表現されたら当時の子どもたちに読みやすく「主体性神話」(はっきりとは書かれていませんが、作者が自分が書きたいことに縛られていて、読者にどう伝わるかの表現上の工夫が十分でないことを批判している用語のようです)をこえられるかについては語られていますが、与えられたサブテーマ(「作家の主体性の喪失」、「受け身の読者たち」、「新人類と児童文学」)とは正面から向き直っていません。
 本来であったら、「作家の主体性を喪失」した安易なエンターテインメント作品がシリーズ化されて量産されている状況や、そういった読むのに楽な作品に流れている「受け身の読者たち」や、「(読書に求めるものが(生き方や未知のものを知ることから娯楽へ)変わっっていく過程にある(現在では完全に変わってしまいましたが)新人類と児童文学」のあり方、などについて議論されるべきだったと思うのですが、これではたんなる現象の後追いに過ぎません。














A DAY(ア デイ)
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丹下健太「マイルド生活スーパーライト」

2017-08-20 20:28:07 | 参考文献
 彼女に振られた契約社員の上田の日常生活を、等身大で書いていった作品です。
 いろいろな境遇の学生時代からの仲間たちや正社員の先輩とのかかわりも含めて、独身男性の生活がぐだぐだといった印象で書き連ねていかれます。
 彼女への未練、風俗、パチンコ、麻雀、ゲーム、セックス、居酒屋などが細かく描かれていますが、唯一仕事だけは全くと言っていいほど書かれていなくて、それが主人公や作者にとってまるで重要でないことがわかります。
 上田は、彼女、友人、先輩から、かなり不条理な目にあわされますが、どこか反応が希薄で生き方がすべて受け身です。
 現代の普通の若者の日常を描こうという作者の意図はわかりますが、それを生み出している社会構造への視点が決定的に欠けているので、「だからなんなの」と軽く受け流されてしまう作品になっている気がします。
 登場人物すべてに魅力がなく、読者は彼らを理解はできても共感はできないでしょう。















マイルド生活スーパーライト
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河出書房新社
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林美千代「幼年文学ー私たちの課題」日本児童文学1999年1ー2月号所収

2017-08-19 12:12:28 | 参考文献
 「今、幼年文学を考える」という特集に掲載された論文です。
 冒頭で、「幼年文学はいらない」、「幼年文学は児童書のなかで発行点数も多く、「児童文学の最大の拠点となっている」」という異なる二つの認識が示されます。
 前者は、主に子どもの親(自分自身も児童文学に親しんでいる人でしょう)・読書運動をしている人たち・子どもの本専門店など、児童文学に詳しい人たちからの意見です。
 後者は、この原稿を依頼している児童文学者協会や出版社など、児童文学の作り手側の事実に即した意見です。
 つまり、幼年文学というグレード分け(他に低学年向け、中学年向け、高学年向け、中学生以上などがありますが、幼年文学(一般的には幼児から低学年(本の受容力が低下している現在では三年生ぐらいまで)が最大のマーケット(年齢範囲を広くとっているせいもありますが)です)は、読み手のためではなく(面白ければもっとグレードの高い本でも構わないし、親などの媒介者が読み聞かせなどで手助けすることもできます)、書き手や売り手のためのものなのです。
 幼年文学は、他のグレードよりも、読者が本を手にする過程で、媒介者(親、教師、図書館員など)が介在する機会が多く(そのために買ってもらえるチャンスも多いのです。他のグレードではエンターテインメント作品は自分で買う機会もまだ多いでしょうが、それ以外は図書館で借りられてしまうでしょう)、それらの媒介者たちが児童文学に詳しくない(最近は小学校の教師や図書館員でも児童文学をほとんど読んだことがない人が多い)ので、購入するときの目安としてグレード分けが必要なのです。
 また、この論文でも書かれていますが、幼年文学は識字教育として使われることも多いので、独特な表記(ひらがなによる分かち書きや漢字への総ルビ)が施されることが多いでしょう。
 過去の「日本児童文学」誌上の幼年文学の特集(1985年、1989年、1991年)において、「児童文学の衰退・不況」→「幼年向けの活況」→「幼年文学の混迷」→「幼年文学の俗悪化」によって、ロングセラーは1950年代から1970年代までに出版された本ばかりで、1980年代にはいい本が出てないという認識が紹介されました。
 そして、本題の1990年代に幼年文学に入ったのですが、主な作品や作家の羅列に終始して、1980年代の認識(幼年文学の俗悪化(「主人公のペット化」、「挿絵が増えた」、「閉塞の時代」、「ストーリーのパターン化」など))について、どのような克服されたのか否かについての著者の意見が全く書かれていないので失望しました。
 個々の作品の特長や良い点を挙げるのも幼年童話の可能性を探るためには必要だと思われますが、それだけでは現象の後追いにすぎません。
 幼年童話にはそれほど詳しくない私でも、新たな問題点(「売れた本のシリーズ化によるマンネリ」、「特定の売れる作家への出版の偏り」、著者も触れている「ますます挿絵が増えて絵本と区別しがたい」など)があげられます。
 現状(1990年代)の批判なしの総花的なまとめでは、少なくとも「幼年童話の評論」は1980年代より混迷していると言わざるをえません。



日本児童文学 2017年 08 月号 [雑誌]
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戌井昭人「ゼンマイ」

2017-08-19 09:45:10 | 参考文献
 50年ほど前に、一年間日本中を巡業して回ったフランスの「ジプシー魔術団」(本当の名前は「荒唐無稽人間市」)というテント仕立ての見世物小屋にいた二十代のモロッコ生まれ(ベルベル人)の女性(歩いていくと体が小さくなっていく芸を持っていて、見世物ではトリックでやっているのですが実際にそういう能力を持っています)と、巡業の機材運搬のトラックを運転していた日本の男性との、一年間の濃密の恋愛とその後五十年近くの海を隔てた「純愛」を、フリーライターの青年の目を通して描いています。
 運送業で成功した男性は、死ぬ前に彼女を探したいと、青年に同行してもらってモロッコへ向かいます。
 結局、女性は30年ほど前に病気で死んでいたのですが、彼女の方でも男性をずっと愛していたことがわかる手紙が残されていたので、この風変わりな恋愛はハッピーエンドで終わります。
 タイトルの「ゼンマイ」は、彼女が別れる時におまじないとしてくれた小箱についている物で、男性は毎日(だんだん止まるのが早くなって、最後は三時間ごとに)、彼女を想いながら「ゼンマイ」をまいて、そのおかげか事業に成功します。
 男性は、彼女が埋葬されていたモロッコの田舎町の広場のイチジクの木の下に、「ゼンマイ」を埋めて、帰国後まもなくして亡くなります。
 「ジプシー魔術団」を取り巻く不思議な人間たち(出演者たち(その中には彼女も含まれます)だけでなく、日本人の興行主やスタッフたち(もちろん男性も含めて)も)やモロッコの街の怪しげな雰囲気が淡々とした筆致で(でも魅力たっぷりに)描かれています。
 日本の児童文学の世界でも、かつてはこういった不可思議な世界がよく描かれていました(例えば、芥川龍之介、宮沢賢治など)が、1950年代により合理的な世界を描く「現代児童文学」が登場するとともに傍流に追いやられるようになりました。
 しかし、1990年代ごろに「現代児童文学」が終焉するとともに、こうした不思議な世界を描いた作品はしだいに復権するようになりました。

ゼンマイ
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アフィリエイト広告について

2017-08-19 09:29:34 | お知らせ
 2012年12月から、記事にその本などのアフィリエイト広告をつけることにしました。
 目的は収入ではありません(微々たるものなので、とても手間には見合いません)。
 しかし、その広告をクリックすると、アマゾンのページへ飛ぶので、購入するだけでなくその本などの情報が得られます。
 そこでは、売る側の情報だけでなく、コメントなどで他の読者やユーザーの意見も読むことができます。
 私のブログの記事は、あくまでも主観によるもの(まったくフリーな立場なので、誰にも遠慮なく書きたいことを書いていますので、かなり偏っていると思います)なので、それを補って少しでもバランスのいい情報を提供をするために、アフィリエイト広告を載せることにしました。
 商品は買う必要はありませんので、気楽にクリックしてみてください。

三振をした日に読む本 (きょうはこの本読みたいな)
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