現代児童文学

国内外の現代児童文学史や現代児童文学論についての考察や論文及び作品論や創作や参考文献を、できれば毎日記載します。

マージョリー・ワインマン・シャーマット「野の花」ソフィーとガッシー いつもいっしょに所収

2018-12-12 08:40:39 | 作品論
 ソフィーとガッシーが森を散歩していると、きれいな花を見つけました。
 二匹ともその花が欲しくてたまらないのですが、互いに譲り合って結局そのままそこに残すことになりました。
 二匹が水をやりすぎたり、そばで見すぎて日陰にしたり、花瓶をかぶせたりしたので、花は元気がなくなってしまいます。
 そこで、二匹は花をそっとしておいて、時々一緒に見に行くだけにしました。
 花が元通りに元気になったので、二匹は大喜びします。
 しかし、最後のソフィーの次のセリフは、言わずもがなという感じがしました。
「すてきな物って、自分一人の物にしないで、友だちと一緒に楽しむと、もっとすてきになるのね。」
 その前までで、読者には作者が言いたいことは十分に伝わっているのですから。

ソフィーとガッシー いつもいっしょに
クリエーター情報なし
BL出版
コメント

皿海達哉「レウエンフークの顕微鏡」なかまはずれ 町はずれ所収

2018-12-11 16:47:12 | 作品論
 1976年に出版された作品で、皿海は1972年にデビューしていますが、彼の作品世界をよく表している作品だと思います。
 ベーゴマやビー玉と並んで、50年代から60年代前半にかけて子どもの遊びの主役だったメンコの世界を、皿海は熱っぽく語っています。
 皿海は1942年生まれなので、まさに彼が子どもの時代には、メンコは遊びの王者だったのでしょう。
 私は彼より12歳年下なので、小学生のころ(60年代前半)にメンコはやりましたが、すでに遊びの主流から外れていて、わっか(チェーリング)が私の世代では全盛期の遊び道具でした。
 本が出版された70年代後半にはすでにメンコ遊びは廃れていましたので、皿海の時代設定はかなり苦しい(例えば、主人公の愛メンコはヤマウチ(50年代、60年代前半に活躍したシュート打ちの名人だったプロ野球選手の山内一弘のことです)。こうしてみると、彼の全盛期はメンコがはやった時代にぴったり重なるので、私などにはすごく説得力があります)のですが、1970年に引退していたので阪神のコーチ(これは時代的に正しいです)だと主人公に説明させているのですが、彼の熱意は十分に当時の読者には伝わっていたでしょうか。
 もうひとつの題材のレウエンフークは、作品では顕微鏡の発明者となっていますが、正しくは顕微鏡で微生物を発見した人物です(顕微鏡の発明者はオランダのヤンセン父子です)。
 しかし、この作品の歴史的価値は、そういった細かい事実の正確さとか、時代設定の正しさにあるのではなく、皿海という作者(大人)が同時代の子どもの立場に降りてきて(大人目線で見下ろすのではなく)、その姿を描こうとしたことなのです。
 そこには、六十年代の「現代児童文学」が標榜していた「変革の意志」(社会の変革や個人の成長)といった「大きな物語」ではなく、一人ひとりの子どもの論理に寄り添った形で「小さな物語」を展開(一見関係のない、メンコの世界と顕微鏡の見せる微生物の世界の間を、いかにも子どもらしい発想で自然につないでいます)しているところに、70年代(特に後半)の児童文学の新しい傾向が表れています。
 しかし、それにしても、エンターテインメントでもなく、特に社会的なテーマもない、しかも小学校高学年の男の子(創作児童文学をぜんぜん読まないので、二十年以上前に出版社にターゲットの読者対象から外されています)の世界を描いたこのような作品が本になるなんて、まさに隔世の感があります。

0点をとった日に読む本 (きょうはこの本読みたいな)
クリエーター情報なし
偕成社

 
コメント

後藤竜二「歌はみんなでうたう歌」

2018-12-10 09:28:33 | 作品論
 東京の多摩地区と思われる地域を舞台にして、五年三組の子どもたちと担任の教師などの群像を描いています。
 作品には明確な主人公はいなくて、父を地下鉄工事現場で亡くして片親になっているしっかり者の咲子、その母親で美容院をしているマーちゃん、クラスのボス的存在で親分と呼ばれている鉄二、パンタロンをはいてギターをかかえて学校へやってくる新卒のとも子先生、ちょっと気が弱いけれど人のいい完太、問題児で不良がかっていると描かれているデンゾーと、次々に視点を変えて彼らの生活を多面的に描こうとしています。
 メインとなる事件は、鉄二とクラスでの対抗勢力であるデンゾーとのかけベーゴマ(ひと勝負5円とか10円をかけています。文中でホンコという用語も使われていますが、本来のホンコは勝った時に相手のベーゴマを取ることなので、かけベーゴマとは異なるものです)をめぐる対立です。
 かけベーゴマでは最終的に鉄二が260円勝ったのに、逆にデンゾーから500円のショバ代を要求され、さらに割ってぎざぎざにしたコーラ瓶で脅されます。
 この件に腹を立てた鉄二がデンゾーをクラスの中で仲間外れにしようとしますが、逆にデンゾーとその子分たちにつかまって軽いリンチを受けてしまいます(両手を子分たちに押さえつけられ、デンゾーに軽くビンタされてポケットに入れていたベーゴマを奪われます)。
 クラスのみんなの前で屈辱的なリンチを受けた鉄二は、ショックのために学校をさぼり、そのことでこの事件が学級全体の問題に発展します。
 正義感の強い学級委員の多聞が中心になって、子どもたちは学級会で問題解決をはかろうとします。
 ラストシーンでは、担任のとも子先生が、鉄二とデンゾーにベーゴマ大会でみんなに指導させることを提案することで話をまとめようとしています。
 一読して、大正時代のプロレタリア児童文学の作品を読んでいるような既視感を覚えました。
 誤解を招かないように説明しておきますが、私はそれまで中産階級以上の子どもたちだけを対象としていた既成の児童文学に対して、初めて労働者階級の子どもたちのためにその姿を描いたプロレタリア児童文学(しかも権力側の弾圧の中で)に歴史的な意義を認める立場にあります。
 しかし、同じような印象を受ける作品を1973年出版(出版年度については異論があるので後で詳述します)の本に書くのは、少々時代錯誤な感じがします。
 また、担任のとも子先生が歌声サークル出身で、歌声運動の歌をみんなで歌うシーンが頻出するとなると、民青(日本民主青年同盟、日本共産党の青年組織)か、日本共産党のプロパガンダ的な作品と受け取られてもやむを得ないかなという気もします(出版社も日本共産党系の新日本出版社です)。
 とも子先生以外の教員たち(校長などの管理職も含めて)の描き方についても、疑問があります。
 とも子先生のような新卒教員は、1973年当時は日教組の猛烈なオルグ活動にさらされるのが一般的だったと思います(そのころでも、日教組の組織率は50パーセント以上でした)。
 こういった組合問題や校長などの学校管理の問題にぜんぜんふれないのは、学校を舞台に、しかも子どもたちだけでなく教師の視点も使って描いた作品としては、不自然な気がしました。
 日教組の主流派は作者と立場が違う日本社会党系でしたから、あえて組合問題に触れないのでしょう。
 でも、それであったら、作品の中で組合活動を批判的に描いても構わないのです。
 しかし、それには全く触れずに、学校教育の問題を個々の教員の個人的な資質の問題に還元して描き、校長などの管理体制にも無批判なのは気になりました。
 この作品では、組合活動や校長たち管理体制への批判の代わりに、民主的な学級運営の象徴として学級会がかなりの枚数を使って描かれています。
 しかし、これも子どもたちを恣意的に役割分担させて描いていて、教条主義的な印象を受けました。
 子どもたちの問題を学級会で解決を図ろうとする姿をもっと自然に描いた作品には、斉藤栄美の「教室」(1999年出版、翌年の課題図書に選ばれています)があります。
「教室」の学級会では、子どもたちはもっと生身の言葉をぶつけ合い、担任の教師も攻撃にさらされます。
 だからこそ、子どもたちは、そして教師も、お互いにわかり合うきっかけになるのでないでしょうか(「教室」では安易な解決は提示されません)
 それに比較すると、「歌はみんなでうたう歌」は、学級会がいかにも大団円的に描かれていて、子どもたちの言葉が読者の心に響いてきません。
 最後に、発行年度と同時代性について述べます。
 奥付の上部には「新日本出版社 1973」と書かれているのですが、なぜか「1971年5月30日第一刷発行」とも書かれています。
 そのため、作者の作品リストには混乱が見られます。
 「日本児童文学2011年1・2月号追悼 後藤竜二」の作品リストでは、1971年5月になっていますが、「思いをことばに 後藤竜二さんの言葉を伝える会」の作品リストでは1973年になっています。
 私は後者が正しいと思っています。
 なぜなら、作品中に鉄二が山本リンダの「どうにもとまらない」を口ずさむシーンがあるのですが、この歌は1972年6月のリリースだからです。
 出版年度にこだわったのは、当時の作者の作品が同時代性に固執していて、その当時の最新の風俗をわざと作品に取り入れているからです。
 それは、作者が発表時の子どもたちと同じ時代に生きているんだという共感を示すために意識的に行っていることだと、私は好意的にとらえています。
 しかし、この作品ではその同時代性についてもやや違和感があります。
 描かれている子どもたちの風俗が、1973年としては古すぎる感じがします。
 まず、重要なアイテムとして描かれているベーゴマです。
 私は1964年にこの作品が描かれている子どもたちと同じ五年生でしたが、その当時でもベーゴマは子どもの遊び道具の主力アイテムの座を、少なくとも私の住んでいた東京の下町では失いかけていました。
 この作品には出てきませんが、ビー玉も同様で私より年長の子どもたちの遊び道具でした。
 代わりに、私たちの世代ではチェーリング(わっかとも呼ばれていて、カラフルなプラスチックのリングで、ベーゴマと同様にホンコの場合は勝った負けたでやり取りされていました)が全盛でした。
 私たちの世代では、メンコはまだ生き残っていましたが、それも次第に廃れていきました。
 特に、ラストシーンのとも子先生の、学校でのベーゴマ大会の提案にはしらけてしまいます。
 ホンコやかけで一度でもこういった勝負をしたことのある子どもたちならば、ウソンコ(勝っても負けてもベーゴマやお金を実際にやり取りしない)の勝負などまったく面白くなくやる気がでないことを、後藤は知らないようです。
 後藤は学生時代にけっこうかけマージャンをやったようなので、金をかけないマージャンほどつまらないものはないことは良く知っているはずです。
 なぜ子どもは違うと考えてしまうのか、大きな疑問です。
 この作者もまた、古い童心主義の名残りを引きずっていたのでしょうか。
 そういえば、後藤のデビュー作の「天使で大地はいっぱいだ」というタイトルも、よく考えてみるとかなり恥ずかしい感じですが。
 また、路地でのゴムボールでの野球のシーンも出てきますが、私の世代では良く行われていましたが、1970年代に入るとやっている子どもたちはほとんど見かけなくなりました。
 いわゆるガキ大将的なクラスのボスの存在も、私たちの世代ではまだかろうじて生き残っていましたが、70年代の子ども像としては疑問です。
 もちろん子どもたちの風俗史には地域差があるでしょうが、全体的な印象では十年ぐらい古い風俗のように思われます。
 どうもこの作品で描かれた子どもたちは、実際に取材されたものではなく、作者の少年時代の体験や人や本などから得た知識に頼って描かれたような気がしてなりません。
 そういう意味でも、作者が1960年代半ばの学生時代に書いていたと思われる左翼よりの観念的な児童文学の名残りが、この作品には強く感じられます。
 そのような書き方を全面的に否定するものではありませんが、一方で作者が「同時代性」にこだわっているようなので、きちんと取材してもっと徹底してもらいたかったと思いました。

歌はみんなでうたう歌 (新日本創作少年少女文学)
クリエーター情報なし
新日本出版社





コメント

村中李衣「りんごさん」かむはさむにだ所収

2018-12-08 08:46:23 | 作品論
 中学一年生のまり子は、両親ともうすぐお嫁に行く七つ年上のねえちゃん、そしてばあちゃんと暮らしています。
「泣きびそまり子」と呼ばれていたまり子を、たくましいばあちゃんはいつも励ましてくれていました。
 まり子が小学四年生の時に、ばあちゃんはころんでひざを痛め、それを契機に急速に弱っていきます。
 今では、ばあちゃんはトイレにも一人で行かれず、ねえちゃんが手を引いて連れて行きます。
 ねえちゃんがいない時には、ばあちゃんはおまるを使わなくてはなりません。
 ばあちゃんはおまるを使うのが泣くほど嫌なのですが、まり子はばあちゃんが元気でたのもしくないのが受け入れられず、どうしてもばあちゃんをトイレへ連れて行く勇気が出ません。
 そのため、ねえちゃんがお嫁に行ったら、ばあちゃんはいつもおまるを使わなければならなくなります。
 ねえちゃんの結婚式の打ち合わせの日に、ばあちゃんはみんなに迷惑をかけないようにおまるを隠して、水分をとらないようにしています。
 それに気づいたまり子は、とうとう勇気を出してばあちゃんをトイレに連れて行こうとします。
 ばあちゃんの意外な重さになかなか前へ進めないまり子に、ねえちゃんが声援をおくります。
 その声に励まされて、まり子はなんとかばあちゃんをトイレまで連れていくことができます。
 1983年7月発行で1984年に日本児童文学者協会の新人賞受賞した短編集「かむさはむにだ」の巻頭の短編です。
 苦しい戦争の時期をたくましく生き抜いたばあちゃんの生き方を、ねえちゃん、そしてまり子がこれからも引き継いでいくことを、短い枚数の中で見事に描いてます。
 理性的で簡潔な文章が、作品が感傷に流されるのを防いで、庶民の生きるたくましさを表すことに成功しています。
 この作品には特に目新しい現代的なテーマはありませんが、より普遍的な人間が生き抜く力を表現して、読者に生きる勇気を与えてくれています。
 1980年代に入ってからの狭義の「現代日本児童文学」(定義などは他の記事を参照してください)の行き詰まりを打開する一つの方向性を、この作品は示したと思います。


かむさはむにだ (偕成社の創作 (18))
クリエーター情報なし
偕成社
コメント

津村記久子「バイアブランカの地層と少女」これからお祈りにいきます所収

2018-11-25 08:32:18 | 作品論
 強迫神経症気味(特に地震に対して)の大学三年生の男子の話なので、これも児童文学のヤングアダルト物に分類できます。
 彼自身や周囲の男女の恋バナや失恋話(自爆も含めて)が中心ですが、津村らしく京都やアルゼンチンや地震についてのマニアックな情報がちりばめてあってけっこう読ませます。
 この話でも家庭崩壊やアルバイトでの自活や就活などは設定されていますが、それは背景程度で軽い読み物になっています。
 かなり無理なストーリー、偶然の多用など、エンターテインメント寄りのつくりになっていますが、インターネットのサイトで知り合ったアルゼンチンの女の子と英文メールで文通(?)するあたりが今日的で新鮮さが感じられました。
 この話でもアルゼンチンの少女の彼氏のためにお祈りするシーンがあって、「サイガサマのウィッカーマン」とは書かれた時期もタッチも違いますがお祈りつながりなので、「これからお祈りにいきます」という書名になったのでしょう。
 また、「祈り」は、津村が若い世代に対して現在思っていることなのかもしれません。

これからお祈りにいきます (単行本)
クリエーター情報なし
角川書店
コメント

津村記久子「サイガサマのウィッカーマン」これからお祈りにいきます所収

2018-11-12 08:22:07 | 作品論
 サイガサマという土着信仰のある街の物語です。
 サイガサマは願いを聞き届けると、その人の体の一部を奪ってしまう神様です。
 ウィッカーマン(wicker man)とは、古代ガリアで信仰されていたドルイド教における供犠・人身御供の一種で、巨大な人型の檻の中に犠牲に捧げる家畜や人間を閉じ込めたまま焼き殺す祭儀の英語名称のことで、そこから転じて編み細工(wicker)で出来た人型の構造物を意味します。
 サイガサマには願いをかなえた時にそこだけは奪わないでもらいたいと申告することができ、その人体の部分を模した細工物をウィッカ-マンに入れて、冬至の日に燃やすお祭りが盛大に行われています。
 以上の設定を除くと、関西の地方都市を舞台にした現代の普通のお話です。
 崩壊しかかった家庭の、バイトである程度自活している高校二年生の男の子が主人公です。
 不登校の中学生の弟、家庭に不満はあるがなかなか社会へ踏み出せない母親、家庭を顧みず若い女と不倫している父親、そして、近所やバイト先の風変わりな人々とのかかわりが描かれています。
 主人公には、同様に家庭が崩壊しかかっていて、大学受験のためにバイトを三つも掛け持ちしている気になる存在の女の子がいますが、二人の関係はほとんどが携帯の電話やメールといった本当にか細いつながりだけでしかありません。
 サイガサマが願いを聞き届けてくれて、家庭にも、女の子との関係にも、かすかな希望が見えるラストが心地よいです(サイガサマが願いをかなえる代わりに主人公から奪った物が、すごくシャレています)
 この作品も、今日的な問題を抱えた子どもたちを描いたヤングアダルト向けの児童文学といっていいと思いますが、出版社や流通などの障害があって、同じような問題を抱えた高校生の読者たちにはほとんど届かないでしょう。

これからお祈りにいきます (単行本)
クリエーター情報なし
角川書店
コメント

中脇初枝「こんにちわ、さようなら」きみはいい子所収

2018-11-11 09:44:57 | 作品論
 認知症にかかり始めていると思われる八十歳をとうに超えている一人暮らしの老女と、障害を持った小学生の男の子が、「こんにちわ、さようなら」とあいさつを交わすことで触れ合う物語です。
 作品の狙いは面白いし、今日的なテーマを持っています。
 しかし、書き方が老女の声に出さないモノローグ(最後の部分は少年の母親の文字通りのモノローグ)なので、二人の結びつきが読者の心に自然に響いてきません。
 また、少年の母親が、見ず知らずの老女に(前にスーパーで万引きの疑いをかけたことはありますが)、唐突に心を開いて、深刻な内容をベラベラと話し出すのはあまりにも不自然です。
 かつて児童文学者の安藤美紀夫は、「児童文学はアクションとダイアローグで書いた物語」と定義していましたが、この作品ではあまりにもアクションとダイアローグが足りないと思います。
 確かにこの作品は大人の読者を対象に書かれたもので児童文学ではないかもしれませんが、それにしても独りよがり(老女の戦争中の思い出も非常に類型的)な作者の思い込みで書かれていて、新しい発見がありません。
 また、作者は、この作品でも、障害を持った子どもは、父親には捨てられ母親には殺されそうになり、周囲からは理解されないという固定観念に縛られていて、新しいストーリーを生み出すことを阻害しています。
 ただし、一人暮らしの老人と阻害されている子どもの関係というのは、新しい児童文学を生み出す可能性を持った素材だと思います。

きみはいい子 (一般書)
クリエーター情報なし
ポプラ社
コメント

朽木祥「水の緘黙」八月の光所収

2018-11-10 09:53:21 | 作品論
 被爆体験を扱った連作短編集の最終作品です。
 前の二作とも絡めて、作者の作品に込めた意図が鮮明に表れてきます。
 悲惨な被爆体験と生存者の苦悩について、それを記憶することと語り継ぐことの大切さが繰り返し述べられています。
 また、控えめな扱いですが、宗教的な救い(この作品の場合はキリスト教)も背景に描かれています。
 被爆体験を記憶することや語り継ぐことの大切さに対しては異論はないのですが、それらはもう繰り返しいろいろな媒体を通して描かれてきたのではないでしょうか。
 一方で、核兵器の脅威は、今でも変わらずに存在します。
 例えば、イスラエルとイランの間では、互いに核兵器を使うことが懸念されています。
 北朝鮮の核開発は、われわれ日本人にとっても脅威です
 この作品が新しい戦争(特に核戦争)児童文学であるならば、そうした現状に対しても読者の目をむかせる工夫がなくてはいけないのではないでしょうか。
 また、あとがきで、東日本大震災や津波と、核兵器の使用や福島の原子力発電所の事故を同列に扱っているのも気になりました。
 東日本大震災のような天災と違って、核兵器の使用や原子力発電所の事故は明らかな人災です。
 そういった人間が犯した罪への糾弾も、新しい戦争児童文学の大事な役割ではないでしょうか。
 いろいろな政治的あるいは宗教的な立場があって、なかなか作品化をすることは難しいでしょうが、それをなくしては今までの作品からの進展がないと思います。

八月の光
クリエーター情報なし
偕成社
コメント (1)

最上一平「おしいれ電車」

2018-11-09 17:18:07 | 作品論
 亡くなったおとうさんと同じ、電車の運転士になることを夢見る小学三年生の男の子の話です。
 押入れの上の段をいろいろと飾り付けて電車の運転室にするなど、主人公はかなりの鉄道オタクの少年で、鉄道に関するいろいろな知識が紹介されています。
 この本は、いろいろな職業を紹介する「おしごとのおはなし」シリーズの一冊なのですが、双子の姉(妹?)やお母さん、そして亡くなったお父さんとの触れ合いもきちんと描かれていますし、作者一流の優れた風景描写も随所にちりばめられていて、単なる「電車の運転士」の紹介にとどまっていません。
 ただ、巻末に実際に「電車の運転士」になるにはどうしたらいいかのミニ知識がまとめてあるのは、この本をきっかけに電車の運転士になりたいと思う子どもたちもいると思われるので、いいアイデアです。
 作者の最近の作品は、少し前の時代の地方を舞台にしたユートピア童話が多くなっていましたが、この作品のように現代の子どもたちの姿をもっと描いてもらいたいと思いました。

おしごとのおはなし 電車の運転士 おしいれ電車
クリエーター情報なし
講談社
コメント

グードルン・パウゼヴァング「輝かしき栄誉」そこに僕らは居合わせた所収

2018-11-07 09:41:14 | 作品論
 夏休みに、三週間前に亡くなったじいちゃんの遺品の整理をしていた主人公は、じいちゃんの古い作文を見つけます。
 そこでは、主人公と同い年のじいちゃんが、「祖国のために死ぬことは輝かしき名誉である」ことが書かれていて、最高点がつけられています。
 主人公は、その作文を大事な遺品としてとっておき、次の世代に、「幼いときから「おまえには何の価値もない。わが民族がすべてだ」と子どもたちを教化したり、有無を言わせず命令に服従させたり、人を使い捨てにするような国ではなくなったことを」伝えたいと思います。
 そして、もっとおじいちゃんに当時のことを聞いておくべきだったと悔やみます。
 日本でも戦争中は同様な状況でしたし、この作品で主張されていることはもっともなのですが、どうも話の運びが恣意的な感じがして、文芸論的にはあまり評価できませんでした。

そこに僕らは居合わせた―― 語り伝える、ナチス・ドイツ下の記憶
クリエーター情報なし
みすず書房
コメント

森忠明「ふたりのバッハ」少年時代の画集所収

2018-11-05 08:44:54 | 作品論
 小学校の卒業アルバムに、森少年は六年三組のみんなとはべつの丸の中に写っています。
 しかも、お岩さんのように左のほっぺたにあざができています。
 顔面にデッドボールを受けて、学校を休んでいる間に記念撮影があり、森少年だけが自宅で撮影されたからです。
 しかし、デッドボール事件にもいいこともありました。
 保健室で、貧血で隣のベッド休んでいた同じクラスの水町玲子さんと知り合うことができたのです。
 もともと二人は、同じ「つくし」というあだ名がある関係でした。
 二人が休んでいる保健室には、バッハの美しい旋律が流れていました。
 男の子と女の子の淡い恋の想い出を、バッハの旋律、俳句、手紙といった、今の読者からすると本当に古風な小道具を使って描いています。
 森の大きな特長である子どものころの記憶の恐ろしく精密なディテールが、この作品でもいきています。
 「少年時代の画集」の記事で指摘したように、この短編集あたりから森作品はかなり変質してきています。
 現在を生きる子どもたちを描くよりも、過去の自分の少年時代を懐かしむ大人の森の視線がチラチラと現れ始めてきました。
 このノスタルジックな雰囲気は、その後の作品ではさらに顕著になっていきます。
 それにつれて、森作品は、現実に今を生きる子どもたちから離れていってしまったようです。
 

少年時代の画集 (児童文学創作シリーズ)
クリエーター情報なし
講談社
コメント

ワジム・フロロフ「愛について」

2018-10-30 08:56:10 | 作品論
 1966年にソ連で書かれた作品ですが、日本語には1973年に翻訳されたので、1978年ごろに児童文学のタブー(性、離婚、家出、自殺など)の崩壊が議論された時に、盛んに引き合いに出されました。
 性への目覚め、最愛の美しい母の駆け落ち、それに対する尊敬していた父の無力化、母のことを同級生に侮辱されて爆発した暴力事件による退学などを、主人公の14歳の少年は短期間に体験します。
 飲酒による父とのいさかい、家出において恋人とキスする母親の目撃などを通して、精神的な「親殺し」を経て、一人の人間として生きていくことを決意する少年の姿が描かれています。
 翻訳があまりうまくないので読んでいてかなりいらいらしますが、私の読んだ本は1996年で18刷なので、少なくとも90年代まではかなり読まれていたのではないでしょうか。

愛について
クリエーター情報なし
岩波書店
コメント

コロナ神父「ねずみとおうさま」

2018-10-16 16:29:47 | 作品論
 石井桃子訳の、1953年発行の「岩波子どもの本」シリーズの一冊です。
 乳歯が初めて抜けた幼い王様と、ペレスねずみの冒険を描いています。
 お話自体は単純な構成のメルヘンなのですが、子どもの乳歯が初めて抜けた時(成長の象徴でしょう)に、その子の幸せを願う風習(ペレスねずみに手紙を書いて、抜けた歯と一緒に枕の下に置いておくと、プレゼントと交換してくれます。日本では、上の歯は屋根の上に、下の歯は縁の下へ投げて、いい歯が生えますようにと願いますね。私も息子たちの時にやりました)は、洋の東西を問わないのだなあと感慨深いものがありました。
 かなり昔にスペインの王様のために牧師さんが書いたお話ですので、宗教くさい所や古臭い所もありますが、王様だけでなく貧しい子どもたちまで、等しく幸せを願う気持ちは、児童文学の本質を十分に備えています。
 この本は、大平健「やさしさの精神病理」(その記事を参照してください)で知って、初めて読みました。
 精神科医である彼は、ペルーの貧困地域での活動を若い時にしていますが、もしかするとこの本もその活動のきっかけになっていたのかもしれません。

ねずみとおうさま (岩波の子どもの本)
クリエーター情報なし
岩波書店
コメント

最上一平・文 国松エリカ・絵「からかさにざえもん」

2018-10-05 09:35:31 | 作品論
 山でけがをしたおばあさんを、おじいさんが家にリヤカーを取りにいって助けようとします。
 そんなおじいさんを、からかさにざえもんをはじめとした、二人がいとおしんで使った「もの」たちが助太刀する絵本です。
 作家は、少し前の時代の田舎を舞台にしたユートピア童話や絵本が得意なのですが、この作品でも、画家のシンプルな描線の挿絵とあいまって、楽しい作品に仕上がっています。
 ただ、表紙に貼られたシール「だいじに つかうと たましいが やどります」はネタバレなので、ないほうがよかったと思いました。

からかさにざえもん (えほんのもり)
クリエーター情報なし
文研出版
コメント

J.D.サリンジャー「週に一度ならどうってことないよ」若者たち所収

2018-10-04 18:17:06 | 作品論
 これも、サリンジャーの戦争体験に基づいた作品の一つです。
 出征当日の朝に、若い妻に自分のおばさん(少し精神か頭に異常があるようです)の面倒(週に一度は映画に連れて行ってやって欲しい)を見てくれるように頼み、おばさんにもそれを伝えます。
 正直言って、頼りない二人(おばさんだけでなく妻も)なのですが、それゆえ、これから戦地に向かうにもかかわらず、二人の関係を心配して、同じことを繰り返し二人に言っている主人公の優しさが、さりげなく表現されている作品です。

サリンジャー選集(2) 若者たち〈短編集1〉
クリエーター情報なし
荒地出版社
コメント