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誕生日ケーキは『眠れる森の美女』




この11月、娘が20歳になり、ママははりきって3段重ねの背の高いケーキを作った。

名前と年齢入りで注文したケーキトッパーが映え、安定するよう、上部には飾りつけなしで。中はたっぷりのいちごとフランボワーズ。娘の大好物。
(わたしがケーキに飾るのが好きな)金箔が写真ではあまり目立たないのが残念。もっともっと盛ればよかった。20歳だから(笑)。

生クリーム泡だてすぎなのは...
砂糖を入れるのを忘れて、最後に不必要にハンドミキサーを回すことになってしまったからだ。

それでも娘はとても喜んで写真を何枚も撮ってくれた。


ミントを蔓のように這わせて、今シーズンのロイヤル・オペラ・ハウスにあやかり

テーマは『眠れる森の美女』。

成人への通過儀礼は普遍的に「(大人として)再生するために(子供時代の自分をいったん)死ぬ」だった。
20歳にふさわしいかなあと思って...
まあ英国の成人年齢は18歳なんですけど(笑)。

自分のような大人が社会に増えたらもっと住みやすくなるだろうと思えるような「大人」になってほしい。


彼女は小児科専門医を目指しており大学生活は超多忙で、バレエや美術館にもほとんど一緒に行けなくなってしまった。わたしはたまにご飯やケーキを作ったり、服を買ってやったりくらいしかできない。たまにはママのためにピアノ弾いて頂戴。
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les beaux dormants, 眠れる森の美女たち



今シーズンのロイヤル・バレエ『眠れる森の美女』はクリスマスから新年にかけてのロングランだ。

ロイヤル・オペラ・ハウスのメイン劇場でこのクラシック作品がかかっていると同時に、地下のリンブリー・シアターではもうひとつの『眠れる森の美女』が公演されていた。

正確には『眠れる森の美女たち』。

うむ、地下でかかっているというのが、ユングの心理学のいう意識に対する普遍的無意識のようでよい。


『眠れる森の美女たち』は、国立ライン・バレエの12人のダンサーが、100年の眠りから目覚めて成人する男女複数の「美女」と、それぞれの「王子様」を演ずる50分間のインテンシブな作品。

これがすばらしく見応えがあったのです! 行ってよかった...


まず幕が上がる前に、フランス語を話す子供達の映像が写り、彼らがお姫様と王子様から連想する言葉を連発していいく。

白い馬に乗ってる
真っ赤な口紅をつけている
お城
僕のように利口
ドレス...


そしてダンスが始まり、最初の方で話の筋がマイムを交えて簡単に語られた。
これは不必要ではないかと思ったのだが、きっちり最後に回収される。一番最後の場面で「王様とお妃様は子供に恵まれませんでした」ともう一度アナウンスされて幕が降りるのだ。
これはわたしには、この話の循環性を示していると思われた。


そして特にカラボスの表現がよかった(写真)。



Le Ballet de l'Opéra National du Rhin, Les Beaux Dormants. Photo: Agathe Poupeney



カラボスは男性ダンサーで、片足にのみポワントをはき、ヤマタノオロチのように複数の頭を持った怪物かのよう、大蛇のような動きをする。才気冴え渡るという感じで、すばらしかった。
ちなみにリラの精も男性で、最も「普通の」中年らしい容姿をしたダンサーがライラック色の普通のTシャツを着て踊った。

音楽も、チャイコフスキーの曲を編曲して引き継ぎながら、なんと言えばいいだろうか、まるでアーケードゲームのように、例えばクレーンゲーム機で目当てのぬいぐるみが取れそうで取れず、スムーズに行きそうで行かず、どんどんお金を追加して...と、じりじりと進行する形でとてもよかった。


最終日の公演だからか、ロイヤル・バレエの敏腕総合ダイレクターO氏もお見えだった。きっとハウス2か所、意識下と無意識下で「眠れる森の美女(たち)」が上演されていることに満足されていただろう。


Le Ballet de l’Opéra national du Rhin
Choreography – Hélène Blackburn
Choreography assistant – Cai Glover
Music – Martin Tétreault
Lighting designers – Emilie B-Beaulieu and Hélène Blackburn
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蠍座のアマルフィ海岸




ティレニア海に突き出たソレント半島のアマルフィ海岸は、
南のサレルノから入り
ヴィエトリ・スル・マーレ、ミノーリ、アマルフィ、ラヴェッロ、プライアーノ、ポジターノなど
そしてソレントへ抜ける。
実は陸から入ったのは初めてだ。

ヘラクレスが、愛するニンフの死を悲しみ
緑深く、空と海が出会う、最も美しい場所に彼女を葬り
柔らかく芳しいフルーツ(レモン)を植えたという土地。

古代の人はこの地のあまりの美しさに
「そうとでも説明しない限り、この美しさは定義できない」
と考えたのだ。





また、アマルフィ海洋国家として
地中海交易を掌握していたという栄枯盛衰物語も大変ロマンティックだ。
そんな面影はもう何もなく、当時を一所懸命想像してみる。


今の季節、夏のすっかり観光化された恐ろしいほどの喧騒はない。
早いうちに暗くなると、ニンフの墓所にふさわしい静かで美しい自然が闇に沈む。
ホテルのバルコニーから暮れなずむ海を眺めていると
知らず思わず、自分もニンフの死を悼んでいるかのような気分になる。

暗くなってから下へ降りて行って、広場に暖かい柑橘色の灯りを漏らしているカフェで
エスプレッソをひっかけるのが好きだ。
レモンの砂糖漬けをつまみに。
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ナポリを見てから死ね



Vedi Napoli, e poi muori
左手の山はヴェスヴィオ火山、対岸はソレント半島、写真には入っていないが右手にはカプリ島



ナポリ、と聞いて一番に何をイメージするだろうか。

カンツオーネ、ピッツア、マカロニ、マフィア、オペラ・ブッファ、カプリ島、ポンペイの遺跡...あるいは「悪魔の住む天国」。


ナポリ旅行をする旨を人に話したら、どの人も打ち合わせたかのように、とにかくとても危険だから気をつけるように、と言った。
夫は、そういえばカプリやアマルフィ海岸を旅行する人は多いけど、ナポリに遊びに行くという話は自分の周りでは全く聞いたことがない、と。それなのにみなさんまるで知ったかのように忠告してくれるのはなぜなのか。

カモッラ(マフィア)、ゴミ問題、貧困、汚れた街、移民、軽犯罪...

わたしが最初にナポリ旅行をした80年代にも全く同じ警告を受けたのを覚えている。
(当時に比べたら比較にならないほど綺麗になっている)


「盗みとはナポリにあって歴史であり、フォークロアであり、文化であり、神話でさえある」と書いているのは、ナポリ旅行中に読んだ田之倉稔著『ナポリ バロック都市の興亡』という超おもしろい本だ。

現実も比喩的にも「演劇都市」としてのナポリの過剰性、バロック文化の頂点としてのナポリを、音楽の歴史を通して説明してあり、ガイドブックよりもおすすめだ。

「ナポリは矛盾に満ちた都市である。いたるところに死への親近感が露出しているのに、ことあるごとに生の歓喜が噴出する」(P159)

「美しい歌を歌う人魚の街...カストラートの都、オペラの、あるいはオペラ・ブッファの都、プルチネッラ(伝統的な道化師)の都」(P266)

「ナポリの大衆こそプルチネッラ...いたずら心、滑稽なふるまい、我慢強さ、生きる歓び」(P70)


民衆がその人生の悲惨さ過酷さに対して身につけざるをえなかった、真剣になりすぎず、禍はやりすごし、起きてしまったことはしょうがないとか、まあこんなもんでとりあえずという知恵、忘却の力、不幸は無効化するかのように笑い飛ばし、歌にして、そして最後は聖母に身を委ねると。

過剰と素朴、聖と俗、美と醜、生と死、光と闇、つまりアポローン的な美とディオニソス的な美が分け難く共存し、人々はいい具合に諦観している。

それはナポリ三カ所で見たカラヴァッジョの3枚の絵そのもののようだった。



カラヴァッジョ『慈悲の七つの行い』 ピオ・モンテ・デッラ・ミゼリコルディア救貧院
特にカラヴァッジョの宗教画は、もともと描かれたその場所で見なければならない。場の力はあなどれない。



これからナポリ行きを考えている人に書いておくと、ナポリは汚くもなければ、気をつけていれば襲われるということもない。
最終の周遊電車(これはソレントやポンペイに行くのに観光客が乗る電車だ)に乗り、ナポリ駅も深夜近くに降り立ち、日が暮れてからドゥオモや下町方面も歩いたが、常識を持って行動すれば恐れる理由はないというのがわたしの印象。

想像通りウーバーはこの街には導入されていない。今後もされることはないであろう。
タクシーに関してだけはコンシェルジェ氏が「ボられないようメーターを使わせるように!」とおっしゃっていた。

女性は得である。女性が男性に質問したり頼みごとをすると、こちらがどんなに年増でも「いいところを見せずにはおられない男のサガ、すなわちマチズム」が働くのだろう、大変よくしていただける。わたしは全然高潔な女じゃないので、こういうところで女っぽくして見せるのはおやすいご用である。

もちろん危ないエリアというのはどんな都市にもあり、暗くなってから単独で行動しないとか、君子危うきに近寄らないのは当然のことだ。
今までの人生、いろいろなところを旅し暮らして、わたしは軽犯罪などに遭った経験も一度もないので、きっと弱い生物特有のセンサーを持っているとは思う。そういうセンサー、大事。

いわずもがな食べ物美味すぎ!!

人は親切で、こちらのことを自分のことのように考えてくれる。自分のことのように...というのはつまり「まあなるようになるよ」という感じ(笑)。

他には...いい店でサンゴやカメオを買うべし。
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the sleeping beauty, natalia osipova 2019



Natalia Osipovaがロイヤル・バレエのオーロラ姫に扮する写真が一枚も見つからないので
上の写真はコヴェント・ガーデンにできているロイヤル・バレエのポップアップショップのウインドウ



昨夜はロイヤル・バレエ The Sleeping Beauty『眠れる森の美女』、Natalia Osipovaがオーロラ姫の回だった。

『眠れる森の美女』は今年はクリスマスから新年にかけてのロングランで、オーロラ姫役にはかなりの人数(8、9人?)がいる。
ナタリアが今季オーロラ姫を踊るのは昨夜が1回目。彼女が主演する回は2回とも見に行くつもりだ。


大ファンとしては認めることにしよう。小さい声で。

よくなかったです。昨夜の公演...ああ、初めて書いた(笑)。
今まではそう思うことがあっても、Natalia Osipovaだもの、彼女が悪いのではなく、わたしに見る目がないのだ、と強く思い込もうとしていたのだ。

例えば昨夜のローズ・アダージョの後のオーロラ姫のヴァリエーションその他で、音楽がかなり余るという彼女にしては体裁が悪いハプニングがあった。センターで終わらせるためには音楽の方を余らすしかなかったようだった。

ローズ・アダージョも、「16歳の誕生日の希望と喜びに輝く光のようなオーロラ」の瑞々しいキレ、弾むような軽さがない。
前回のシーズンでは、彼女が登場するとともに空に本物のオーロラが現れたかのように舞台の雰囲気ががらっと変わり、「青春」が舞台から観客席にあふれてくるようなまぶしい幸福感を味わったものだ。

2幕目の幻想シーンはよかったが、3幕目の結婚式のパ・ド・ドゥでも判断の誤りで音楽が余り、指揮者が指揮棒を素早くふって短縮させたほどだった。

また、王子役のDavid Hallbergとの間に何か感情があるようには伝わって来なかった。

とにかく空間認識能力にも音楽性にも長けている彼女のはずなのに変な間が多く、見ている方がとまどってしまった。


正直言って、Natalia Osipovaに確信を持てない時期が何度かあったのだが、次に見に行くと彼女は他のどのダンサーをも圧倒的に引き離して最高に素晴らしかったりする。
それで、「あれ、やはりわたしの見る目のなさのせいか?」と思うことになる。

あの『ジゼル』はいわずもがな、最近の『マノン』も、前シーズンの『ドン・キホーテ』も素晴らしかった。
ジゼルを踊る彼女は「生の喜びの絶頂に輝きながら、悲嘆のあまり死ぬ運命が近づいている若い女」の矛盾をひとつにして演じているのだ。


たぶん、彼女は出来不出来が激しい。いい時はありえないほどすばらしく、一方でそうでもない時もある。
今までもそうだったのか、最近よくそうなるのか、わたしに目がないから分からない。しかも大ファンという色眼鏡まであるので...

いつ見ても100点のダンサーと、今日は60点だが、次は150点、というダンサーとどちらがいいのだろうか。どっちもいいけど...好みかな...

ああ、だからか、わたしがNatalia Osipovaの回のチケットを全部買うのは!

......


オーロラ姫は16歳で呪われて眠りにつく。長い間その土地は死んだようになり、彼女が復活すると世界は再び光に満たされる。

オーロラ姫が眠りにつく時が冬の訪れで、長い冬の後に目覚める時が春の訪れなのだ。

彼女は死んだのではなく、単に眠りについた。つまり春は厳しい冬の後に必ず巡ってくるのだ。

このサイクルは人間が地球上で生を営む上での死活問題だった。
古代の人たちは冬枯れの後に必ず春が戻ってくるようにできるだけの細工(呪術、儀式、神話、絵画など)をしたのである。

われわれの生活から切り離せない神話。

さらに詳しく説明すると、オーロラ姫は大地の女神デメテルの娘にして春の女神ペルセポネだ。
ペルセポネが完全に死んでしまうと、地上には二度と生命が戻ってこないのでそれは困る。
彼女は冬の間眠る(地下の母の元で過ごす)だけなのだ。その後、彼女の目覚め(地上に戻る)とともに必ず春は巡ってくる、その魔法をかけるのが、生と死を司る神であるハデスなのである。
わたしがリラの精とカラボスが同一人物だと思うのはこの理由からである。


ロイヤル・バレエの『眠れる森の美女』は、現行のヴァージョンは2006年のもので、そろそろ野暮ったい衣装や舞台装置を洗練してはどうかと思っている。
しかし話の筋、舞台衣装のギミック(西洋服飾史的に、きっちり時間の経過を反映してある)を変えて欲しくないのは、これが人間になくてはならない「神話」だからだ。
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