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ノエルにノエル




あーしょうもないタイトル。

クリスマス前のロンドン、ノエル・ギャラガーのコンサート(Noel Gallagher's High Flying Birds)に行って来たと、それだけです。

ロイヤル・アルバート・ホールでやるロックコンサートを見るのは初めてで、しかもオアシス兄。夫がハナシを思ってきたときに、わたしが行きたいと即答したので驚いていたが、わたしは「ライヴ」にとても興味があるのだ。


席がボックスで、扉の外がモエのシャンパンバアというのがよかった。いや、いけなかった。飲み過ぎ。ほとんど当夜の記憶なし。ノエルが卑語を連発していたのだけ覚えている。「シャンパンバア」というのはまさに卑語の対象っぽい...
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喫茶モエのママが語る一神教 中編




前編

後編



「異教の時代には、追放の身となった捕虜たちは滅びてしまうのが常であった。肉体的に滅びるという意味ではなく、一つの民族として存続しなくなるという意味である」にもかかわらず、ユダヤ人は過去4000年に渡り、ユニークな民族として存続してきた。

現代では、ノーベル賞の受賞数が突出しているとか、ハリウッドはユダヤ人だらけだとか、優れた芸術家、科学者、ビジネスマンにはユダヤ人が多いとか、果ては世界を牛耳っているのはユダヤ人だとか...


それはなぜなのだろう。

二つの理由があるといわれている。

一神教
不可視の神

を信仰していることだ。

今日は一神教の神と人間との関係についてみてみよう。



唯一の神は端的に言って、人間に行動の自由を与えたのだそうだ。

え?
わたしたちのイメージとは正反対ではあるまいか。
少なくともわたしは一神教の神の方がずっと峻厳で、人間の生活を、あれはダメこれもダメとあちこちで口出ししてくるのだと思っていた。

しかし、それはどうやら誤解らしい。

唯一の神を信仰するとは、「人間は神にたよることもできるし、神に背を向けることもできる。神のために行動することもできるし、神に逆らって行動することもできる」(マックス・I・ディモント、藤本和子訳『ユダヤ人 神と歴史のはざまで 上』16頁)ということであり、つまり人間に自由が与えられるというのである。

自由と責任はセットだ。自由を得た人間は、自らの行動に対して責任を負う。 
本来の意味での「自由」は高くつくのである。


なんとなーく「精神的に強い人間」が見えて来はしまいか。
国(土地)や神殿に縛られることなく、偶像や司祭組織に介在されることなく、神と言葉のみで一対一の関係を結び、自らを律する人間像...そりゃ追放されたとて生き延びるだろう。


例えば以下のような問いを思い出す。

「神が不在でも、それでも人間が正しいことをするのは可能か」(なんなら「神」を「世間」とか「罰」と言い換えてもいい)
「神が与えてくれるような『人生の意味』はない。それでも人間がよりよく生きることは可能か」

可能である、と自由を得、責任を負う人間は答えるのである。


長谷川三千子さんは『バベルの謎 ヤハウィストの冒険』の中で、ずばりこう書いておられる。
一神教の神が人間に期待するのは、「地と天を作り上げた神に、一対一で対等に面と向かうことのできる「精神」であり、神の悩みを自らの悩みとして悩むことのできた「精神」である」「自らが神と同じ場所に立つことによって、神を同輩として理解することができ」(11頁)る、そんな人間なのだ。


また、わたしはすべてのものに「神性」を認める多神教のハーモニアスな世界が平和で理想的ではないかと記したが、一神教はハーモニーに安らぐ人間をはなから求めてはいない。

それはおそらく中東の環境的な要因で、ハーモニーに安らいでいては人間は活路を見出せず、簡単に滅びてしまうからなのかもしれない。そういう土地では、瞬間瞬間の判断を誤らない強いリーダーが共同体存続のために求められる。
一方、多神教の世界では「和をもって」物事を解決する方が共同体存続のためになったのだろう。
比較してみても意味がないのだろう。ましてやそこに優劣をつけられるはずはないのだ。



いかがでしょう?
大風呂敷を広げすぎて、後編が書けるのか心配になってきた(笑)。



参考図書は
マックス・I・ディモント、藤本和子訳『ユダヤ人 神と歴史のはざまで 上下』朝日新聞社 1984年
長谷川三千子『バベルの謎 ヤハウェストの冒険』中公文庫 2007年

『バベルの謎』は抜群におもしろく、わたしは3回は読み返している。おすすめです。
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the nutcracker








わたしも一人前に忙しくなる12月のこの数週間、

「くるみ割り人形」の季節がやって来た。


今日はロイヤル・バレエで一足先にリハーサルを。


普段なら、ストーリーがどうとか演出がどうとか、
ダンサーが、音楽がと
分かったような口を聞くのがとにかく好きなわたしも

細かいことはおいといて!

という感じで、さらにパワーアップした
キラっキラの舞台を心ゆくまで楽しんだ。



写真はロイヤル・オペラ・ハウスのポワントを飾ったツリー。

かわいいなあ! わくわくするなあ!


英国は、大陸ヨーロッパにくらべたら
クリスマスを迎え撃つ心構えからして格段に力が入っているので
どこもかしこも夢あふれ、憧れでいっぱい。


暗い時期を正気で過ごすための知恵ですな、これは。
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喫茶モエのママが語る一神教 前編




前回の「付喪神」での予告通り、「喫茶モエのママが語る一神教」の前編です。


中編

後編


......


一神教といえばユダヤ教、キリスト教、イスラム教。

ここでは母体になったユダヤ教のことを取り上げる。


ユダヤ人が歴史に姿を現した時期は、大雑把に紀元前2000年くらい。
約4000年前の話だ。

ユダヤ人は定住民でも遊牧民でもなく、どちらかというと社会からはじきだされた人々の小グループだった。


その頃の中東エリアでは、列強が威勢を誇っていた。
バビロニア、アッシリア、エジプト、シリア、フェニキア、ヒッタイト...などなど。肥沃な三日月地帯に発生した、文字通りの「大河」ロマンですな。

しかし現代では、バビロニア人もアッシリア人もヒッタイト人も、博物館に「ツワモノどもの夢の跡」を残すのみで、完全にどこかに吸収され消えてしまっている。


強国が約1700年の長きに渡って互いに攻め合い滅ぼしあっている間、ユダヤ人らは流浪の民になり、奴隷にされ、捕虜にされ、戦争の犠牲になった。

紀元前900年代にイスラエル統一王国を築いた(有名なダヴィデ王やソロモン王の登場)ものの、30年ほどで分裂。再び捕虜として連行される。「追放の身となった捕虜たちは滅びてしまうのが常であった。肉体的に滅びるという意味ではなく、一つの民族として存続しなくなるという意味」(マックス・I・ディモント、藤本和子訳『ユダヤ人 神と歴史のはざまで 上』59P)だったが、しかしユダヤ人はその困難を生き延びた。


その後、一旦「故郷」カナーンの地に戻ったのもつかの間、紀元前300年代にはギリシャ・ローマの時代がやってくる。
ギリシャが触れたものは全てギリシャ化した偉大なヘレネス文化の時代だ。ギリシャを征服したローマでさえ、ギリシャ化からは逃れられなかった。

そして望月の欠けたることもなしに見えたローマ帝国でさえも滅ぶ日が来る。


しかしユダヤ人はユダヤ人として再び生き延びた。


次にやってくるのはディアスポラ(離散)...


と、ユダヤ人がサバイバルしてきた過酷な時代を挙げていったらキリがないのでここらでやめておくが、とにかく彼らは現代に至る4000年間を生き延びた。

生き延びただけでなく、ノーベル賞の受賞数が突出しているとか、ハリウッドはユダヤ人だらけだとか、優れた芸術家、科学者、ビジネスマンにはユダヤ人が多いとか、果ては世界を牛耳っているのはユダヤ人だとか...


へえ、すごいねえ。で、なぜそれが可能だったの?


大きく、二つの理由があるといわれている。

一神教
不可視の神

を信じていることだ。



いかがでしょう、下手クソな説明ですが、少しだけでも興味を持っていただけたでしょうか?!

次回からは一神教と不可視の神についてもう少し詳しく見てみよう。



参考図書は
マックス・I・ディモント、藤本和子訳『ユダヤ人 神と歴史のはざまで 上下』朝日新聞社 1984年
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付喪神




卓に飾ってあった日本の碗が5ミリの幅で欠けている...

夫と娘に「怒らないからっ!」(<すでにもう喧嘩腰)と前置きをしつつ犯人探しをしてみたが、誰も心当たりがないという。


夫とわたしではものへの執着度がまったく違う。

どんなに高価で、どんなに愛着があるものでも、ものはいずれ壊れる。
アクシデントの末に壊れてしまったのはどうしようもない、壊れた原因を探ったり犯人探しをしても意味はない。
彼はそのように考えている。あっさりしたものだ。

一方、わたしは、冷蔵庫の奥に賞味期限が切れている肉を発見した時もだが、特に一点ものやアンティークの品物、さらには手作りの品、思い出の品などが破損したらはげしく悲嘆にくれる。

だって! 命を与えてくれ、今まで役に立ってくれ、目を楽しませ、心を慰めててくれたものがダメになった時は、きっちり悲しんで哀悼をささげるのが礼儀ではないか。
ものの来歴を慈しむことは一種のセレモニーなのである。そうすることによって茶色に変色した牛肉や、ひび割れたガラスを鎮魂するのだ。

いや、真面目にそう思ってるんです。


で、その思いがどこから来ているのかというと、日本人は(と、一般化するのはよろしくないかもしれないが)、針を供養してみたり、森や岩を祀ってみたり、古くなったものは付喪神になると考えたりする。それですよ、それ!
わたしにはそういう考え方が体に染み付いているとしか。

ふと、先日、水木しげるさんが亡くなったことを思い出す。
「この世は合理的な知性だけでは説明できないものに満たされている」と。
「見えないものを畏れ、敬え」と。


例えばこちらで人形を供養する霊的施設があるなど聞いたこともない(ティディベアの館みたいになっているところはあったと思う。もし詳しい話をご存知の方がおられたらぜひ教えてください)。
人形を宗教施設に納めたい事情を話したら、神父様はどんな顔をなさるだろうか。人形を供養することは、すなわち偶像崇拝につながり、危険なのであるぞよ。

クリスマスを彩ってくれる聖なるモミの木にしても、公現祭が過ぎたらゴミ収集車が持っていくだけの運命...
こちらでは、モミの木に感謝するのではなく、木を与えてくれた天のお父様に感謝するのだ。
祀ってやれよとはいわないが、もちょっと感謝してから処分してもいいのではないだろうか。日本だったらやつらは化けて出て来るに違いない。きっと唐傘小僧のようなフィギュア。かわいいかも。


ああ、自然や動物やものは人間に仕えるために神様が与えてくれた存在とし、科学というブルドーザーですべてのものをなぎ倒しながら前進する世界...

森羅万象に「神性」が宿っていると考えたら、もう少しのんびりした、調和のとれたいい世の中になるんじゃないかなあと思うのは、人類学の観察対象になるような、極東の島国のものすごく特殊な考え方なのだろうか。
しかしちょっと考えただけでもタイの方は「あなたの神性に」手を合わせて挨拶されますよね。



このように言うだけでは一方的なので、一神教の生まれた背景を思い出してみよう。一神教には一神教なりにいいところがある。また、一神教が生まれた背景には結構切ないエピソードがある。


話が脱線し続けるのでそれは次回に。
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