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喫茶モエのママが語る一神教 後編



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まずは前回のおさらいから。


ユダヤ教一神教の神と人間の関係は...

神と人間は、一切の介在なしで一対一の関係を結ぶ。
「介在」というのは、国(土地)や、神殿や、祭司組織や、偶像などのことだ。

つまり神は、人間に何にも縛られない自由を与え、人間がその自由の責任を負うことを望んだのである。

そうすることによって神は、神が土から創造したにずぎない人間が、いつか神自身の高みへと成長することを期待した。
罰を与える気まぐれで傲慢な神、罪にまみれた人間というイメージは、キリスト教の時代になって「介在」があったほうが都合がいい人々によって作られたような気がするのだが考えすぎか?

「ユダヤ人は人類の手本とならねばならぬ」(マックス・I・ディモント、藤本和子訳『ユダヤ人 神と歴史のはざまで 上 64頁)のである。



今日はもうひとつの柱、不可視の神についてみてみよう。

不可視の神とは、偶像を作って拝むことを許さない神のことだ。

「フロイトがとても面白いことをいっている。もし神の像が持てないとしたら、その結果神にはやはり名前も表情もないことになるだろうから、目に見えぬ神を信じるよりしかたがないということになるだろう」

「神をものではなく精神的な存在にすることによって、ユダヤ人はただたんに神の具象に変更を加える代わりに、神の精神性に変更を加える自由を与えられたのだった。それは預言者や救済者やラビたちによってなされた。石で作られた神々ではなく精神の神を持つことによって、ユダヤ人は自らの文化を優れたものと感じることができた」

「ユダヤ人の知性的な傾向はまさしく、神を抽象的な存在にしたことによって生まれた」(以上、同書42-43頁)

以上はユダヤ人である著者自身がユダヤ人の優秀性について語っている下りなので、自分自身のことを「美魔女」と自称するような薄ら寒さがなきにしもあらずだが、まあいいや。



わたしなりにまとめてみると、ユダヤ教の一神教と不可視の神、ユダヤ人の知性的傾向というのは:

人間は自由であるが、自由の責任を負う。
神と一対一で対面しても恥ずかしくない行動を選択する。例えば旧約聖書の「ヨブ記」のヨブのように、神の御前で堂々としていられる人間になること。

神からのメッセージは「一対一」、自分へ向けられたものとして受け取る。
理解不可能のメッセージであってもそのまま受け入る。アブラハムも住み慣れた土地を出て行けとか、息子を生贄にしろなどと訳の分からないメッセージを何度も受け取った。ノアは巨大な船を作るよう突然命令された。
神からのメッセージを理解するためには、自分が安住している思考の檻を組み替えたり、大きくしたり、成長しなければならないのである。

被造物である人間が、神のように高貴な存在に成長することを神自身が望んでいるのだとしたら、その「神」は白く長い髭を生やした白人の老人(しかも知り合いの爺さんに似ていたりする)というイメージの限定があるよりも、不可視で無限な存在である方が知的な説得力がある。


いかがだろう。

この、神との関係を守ることができたら、ものすごく優秀な人間になれるだろうな、とは思いませんか。


後編で終わりにできるかと思ったが、長くなりすぎたので次回は「蛇足編」。



参考図書は
マックス・I・ディモント、藤本和子訳『ユダヤ人 神と歴史のはざまで 上下』朝日新聞社 1984年
長谷川三千子『バベルの謎 ヤハウェストの冒険』中公文庫 2007年

前回も書いたが、『バベルの謎』は抜群におもしろく、長谷川三千子さん自身も「あとがき」で、この本は「学術書」でも「研究書」でもなく、一つの謎を追って行く楽しみだと書いておられる。改めておすすめします。
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