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付喪神




卓に飾ってあった日本の碗が5ミリの幅で欠けている...

夫と娘に「怒らないからっ!」(<すでにもう喧嘩腰)と前置きをしつつ犯人探しをしてみたが、誰も心当たりがないという。


夫とわたしではものへの執着度がまったく違う。

どんなに高価で、どんなに愛着があるものでも、ものはいずれ壊れる。
アクシデントの末に壊れてしまったのはどうしようもない、壊れた原因を探ったり犯人探しをしても意味はない。
彼はそのように考えている。あっさりしたものだ。

一方、わたしは、冷蔵庫の奥に賞味期限が切れている肉を発見した時もだが、特に一点ものやアンティークの品物、さらには手作りの品、思い出の品などが破損したらはげしく悲嘆にくれる。

だって! 命を与えてくれ、今まで役に立ってくれ、目を楽しませ、心を慰めててくれたものがダメになった時は、きっちり悲しんで哀悼をささげるのが礼儀ではないか。
ものの来歴を慈しむことは一種のセレモニーなのである。そうすることによって茶色に変色した牛肉や、ひび割れたガラスを鎮魂するのだ。

いや、真面目にそう思ってるんです。


で、その思いがどこから来ているのかというと、日本人は(と、一般化するのはよろしくないかもしれないが)、針を供養してみたり、森や岩を祀ってみたり、古くなったものは付喪神になると考えたりする。それですよ、それ!
わたしにはそういう考え方が体に染み付いているとしか。

ふと、先日、水木しげるさんが亡くなったことを思い出す。
「この世は合理的な知性だけでは説明できないものに満たされている」と。
「見えないものを畏れ、敬え」と。


例えばこちらで人形を供養する霊的施設があるなど聞いたこともない(ティディベアの館みたいになっているところはあったと思う。もし詳しい話をご存知の方がおられたらぜひ教えてください)。
人形を宗教施設に納めたい事情を話したら、神父様はどんな顔をなさるだろうか。人形を供養することは、すなわち偶像崇拝につながり、危険なのであるぞよ。

クリスマスを彩ってくれる聖なるモミの木にしても、公現祭が過ぎたらゴミ収集車が持っていくだけの運命...
こちらでは、モミの木に感謝するのではなく、木を与えてくれた天のお父様に感謝するのだ。
祀ってやれよとはいわないが、もちょっと感謝してから処分してもいいのではないだろうか。日本だったらやつらは化けて出て来るに違いない。きっと唐傘小僧のようなフィギュア。かわいいかも。


ああ、自然や動物やものは人間に仕えるために神様が与えてくれた存在とし、科学というブルドーザーですべてのものをなぎ倒しながら前進する世界...

森羅万象に「神性」が宿っていると考えたら、もう少しのんびりした、調和のとれたいい世の中になるんじゃないかなあと思うのは、人類学の観察対象になるような、極東の島国のものすごく特殊な考え方なのだろうか。
しかしちょっと考えただけでもタイの方は「あなたの神性に」手を合わせて挨拶されますよね。



このように言うだけでは一方的なので、一神教の生まれた背景を思い出してみよう。一神教には一神教なりにいいところがある。また、一神教が生まれた背景には結構切ないエピソードがある。


話が脱線し続けるのでそれは次回に。
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