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喫茶モエのママが語る一神教 中編




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後編



「異教の時代には、追放の身となった捕虜たちは滅びてしまうのが常であった。肉体的に滅びるという意味ではなく、一つの民族として存続しなくなるという意味である」にもかかわらず、ユダヤ人は過去4000年に渡り、ユニークな民族として存続してきた。

現代では、ノーベル賞の受賞数が突出しているとか、ハリウッドはユダヤ人だらけだとか、優れた芸術家、科学者、ビジネスマンにはユダヤ人が多いとか、果ては世界を牛耳っているのはユダヤ人だとか...


それはなぜなのだろう。

二つの理由があるといわれている。

一神教
不可視の神

を信仰していることだ。

今日は一神教の神と人間との関係についてみてみよう。



唯一の神は端的に言って、人間に行動の自由を与えたのだそうだ。

え?
わたしたちのイメージとは正反対ではあるまいか。
少なくともわたしは一神教の神の方がずっと峻厳で、人間の生活を、あれはダメこれもダメとあちこちで口出ししてくるのだと思っていた。

しかし、それはどうやら誤解らしい。

唯一の神を信仰するとは、「人間は神にたよることもできるし、神に背を向けることもできる。神のために行動することもできるし、神に逆らって行動することもできる」(マックス・I・ディモント、藤本和子訳『ユダヤ人 神と歴史のはざまで 上』16頁)ということであり、つまり人間に自由が与えられるというのである。

自由と責任はセットだ。自由を得た人間は、自らの行動に対して責任を負う。 
本来の意味での「自由」は高くつくのである。


なんとなーく「精神的に強い人間」が見えて来はしまいか。
国(土地)や神殿に縛られることなく、偶像や司祭組織に介在されることなく、神と言葉のみで一対一の関係を結び、自らを律する人間像...そりゃ追放されたとて生き延びるだろう。


例えば以下のような問いを思い出す。

「神が不在でも、それでも人間が正しいことをするのは可能か」(なんなら「神」を「世間」とか「罰」と言い換えてもいい)
「神が与えてくれるような『人生の意味』はない。それでも人間がよりよく生きることは可能か」

可能である、と自由を得、責任を負う人間は答えるのである。


長谷川三千子さんは『バベルの謎 ヤハウィストの冒険』の中で、ずばりこう書いておられる。
一神教の神が人間に期待するのは、「地と天を作り上げた神に、一対一で対等に面と向かうことのできる「精神」であり、神の悩みを自らの悩みとして悩むことのできた「精神」である」「自らが神と同じ場所に立つことによって、神を同輩として理解することができ」(11頁)る、そんな人間なのだ。


また、わたしはすべてのものに「神性」を認める多神教のハーモニアスな世界が平和で理想的ではないかと記したが、一神教はハーモニーに安らぐ人間をはなから求めてはいない。

それはおそらく中東の環境的な要因で、ハーモニーに安らいでいては人間は活路を見出せず、簡単に滅びてしまうからなのかもしれない。そういう土地では、瞬間瞬間の判断を誤らない強いリーダーが共同体存続のために求められる。
一方、多神教の世界では「和をもって」物事を解決する方が共同体存続のためになったのだろう。
比較してみても意味がないのだろう。ましてやそこに優劣をつけられるはずはないのだ。



いかがでしょう?
大風呂敷を広げすぎて、後編が書けるのか心配になってきた(笑)。



参考図書は
マックス・I・ディモント、藤本和子訳『ユダヤ人 神と歴史のはざまで 上下』朝日新聞社 1984年
長谷川三千子『バベルの謎 ヤハウェストの冒険』中公文庫 2007年

『バベルの謎』は抜群におもしろく、わたしは3回は読み返している。おすすめです。
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