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Hawaii




今月末、学校の秋休みを利用してカリフォルニアに2週間行くのだが、できたらその先へこそ行きたい。


その先には子どもの頃から毎年旅していた場所がある...
昨今では猫も杓子も行くハワイ。でもワタクシの子ども時代はもちろんプラザ合意前で、のどかで天国に何番目かには近い島だったのだ。


20代の頃は、アメリカ人の友人が転勤のためにオアフ島に住んでいたから、毎度学校が休みになったら身の回りのものをかきあつめては飛んで行っていた。彼の家で何枚レポートを仕上げたことか。

用事で訪れる北米からの帰り道に立ち寄るのはもちろんのこと、欧州からの帰りにも(普通とは反対回りで)道草していた。最後に訪れたのはブルージュに移住してから3ヶ月後の99年3月。8年前~!


キッチュで大衆的で愚かなツーリストが多く、しかしその正反対の要素も備える、まるで神の性格そのもののようなハワイ。そのためにかくも惹かれるのか?







ハワイの写真はネガにしか残っていなくて...
こちらは北海。わたしにとっては思い入れ、なし。



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車窓からの眺め




久しぶりにブルージュ/ブラッセル間を結ぶ特急電車に乗った。
所要時間50分。途中は(丁度中間地点)ゲントに停車するだけである。


帰り道、電車が遅れ、ゲントを過ぎた頃からいったいどの辺を走っているのかが気になる。

時々過ぎる無人のような駅はどれも似通っている上、速度のために駅名も読み取れない。
駅から駅の間は、だらだら、だらだら、と牧草地が続き、ウシやウマが草をはみ、たまに街の教会塔がレゴのおもちゃのように見えるだけである。




これはブルージュークノック間の風景。


夜中などまさに真っ暗で何一つ見えない。

日本では、駅から駅の間に建物がいっぱいいっぱいに立ち並ぶ。お馴染みのランドマークが次から次へと見えるのはもちろん、そこかしこにある店や会社の看板からはいろいろな情報が読み取れる。市外局番から今どのあたりか分かることもあるし。
郊外や田舎を走る電車にしても、海の近くを走ったり、トンネルをくぐったり、谷間が見えたり、田んぼが短冊のように並んでいたり、風景がどんどんかわっていくので、現在地がだいたいどの辺りであるかということが分かったりする。


わたしはベルギーに住んでいて、自分が車なり電車なりで家に近づいて来ると「ああ、ここまで着たら這ってでも帰られる」と感覚するクセがある。

日本にいる時はその感覚も薄い。なぜならばそこここに人間の灯がともり、その灯によってすべての人間が喜ばしくも良きもののように思え(笑)、なにかしらの手がかりが常にあるように思えてそれが心地よいからだ。


わたしは人間が善であると信じている(孟子?)ようだ。


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80年代のコーゾー




最近、80年代ポップスを楽しんでいる、と書いたが。

飽きた(笑)。
早いな。


80年代に流行ったものの多くが「そこはかとなく恥ずかしい」要素を抱えているということに原因があると思う。
そこはかとなく恥ずかしいとは、つまり、がんばりすぎで、即物的で、具体的で、ということで、80年代が大衆文化の爛熟期であったことから発している...(これはテキトーな説明)。


あるいはこうも言える。サブカルチャーのように「構造」しかないものは、文化圏や言語圏のしばりをゆうゆうと越えて行く。しかし「構造」しかないゆえに退屈なのだ。

思い出として抽象的なイメージをもて遊んでいるうちは美しいのだが。

ポップスはしばらくお休み。

今かかっているJohn ParrのSt. Elmos Fireとか、かなり抗い難い魅力だけどなあ(笑)。

.....演歌やん(<そこにあるのは構造だけ)。



やはりお休み。
静かにしてストラビンスキーとビュレの掛け合いでも読むとするか。


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