goo

「資本主義の」美しき宮殿@アントワープ




アントワープの中心街、路地の奥の扉をくぐると、まるで聖遺物箱の中に入り込んでしまったかのような輝きに目が眩む。

ここは宮殿?
劇場?

この建物をフラマン語でHandelsbeursと呼ぶ。




アントワープ証券取引所だ。

確かに、資本主義の宮殿に違いない。

便宜上、アントワープの「証券取引所」と呼ばれているが、世界初のそれとして建築された1531年にはまだ株式や債権は発明されていなかったため、正確には商品取引所、となる。


16世紀アントワープの繁栄は、のちにオランダのアムステルダムに移り、オランダは歴史上初の「覇権国家」になる(16世紀)のだが、その前段階から始めよう。

アントワープが繁栄のバトンを受け取ったのは...

ブルージュからである。





今となっては意外に思われる方も多いのかもしれないが、12世紀から15世紀あたりのヨーロッパにおいて、ブルージュは欧州一と謳われるほどの栄華を誇っていたという。

このフレーズ、このブログ上で何度も繰り返している。
わたしは、昔大いに栄え、今はそうでもない都市が大好きなのだ。
盛者必衰のことわり。


遠隔地からの商品輸送には、陸路ではなく水路を介した海のルートが不可欠であり、ブルージュは北海を港湾とすることで国際商業センターへと成長した。
在地商業の成功や、比較的平和だったことも、背景として無視できない要因だという。

次第にブルージュに外国商人が増え、商品だけでなく、商習慣や情報をももたらすようになる。

北と南の貿易ルートに戦略的な位置を占めたブルージュの取引所は、1309年(おそらく世界初。為替手形(約束手形)や信用状を扱う)にオープン。

イングランドの毛織物や、ポルトガルのもたらす砂糖、東方のスパイスなどを商うだけでなく(どのような商品が扱われていたかのリストは眺めているだけで楽しい。非常に豊富な商品が世界のあちこちから!)、14世紀には最も洗練された金融市場に発展したのである。
当然、芸術も花開く。

しかし、15世紀末にブルージュの水路に砂が堆積し、航行不可能になると、アントワープが重要性を増し、ブルージュの黄金時代は終焉を迎えた。

じょじょに商人はブルージュを捨て、アントワープへ移動する。




アントワープはブルージュから貿易センターの役割を引き継ぐにつれて、1万人の外国人商人(主にスペインとイタリア)を含む、10万人以上の住民を抱える大都市になった。

そして1531年にこのアントワープ証券取引所がオープンする。
当初は屋根なしの長方形の広場であり、ブラバント・ゴシック様式で建てられた。

取引は毎日行われ、取引をスムースにするための商業情報と商業慣行が均質化され(情報を印刷した印刷物の発行も)、アントワープに莫大な富をもたらした。


しかし、八十年戦争中の「アントワープの崩壊(16世紀末)」がきっかけで衰退し、17世紀ごろには使用されなくなったという。もったいない。

ここでもまた商人の大移動が起きる。
彼らが目指したのはアムステルダムだった。




19世紀には火災が起き、建物はネオ・ゴシックと、時代の流行であった金属とガラスを組み合わせて再建され、再び証券取引所を収容する目的を果たした。
が、再び放棄され...

大規模な修復の後、現在ではアントワープ見本市として知られる多目的イベント会場の一部である。




わたしは自分が神戸出身だというのではないが、網野善彦のいう「無縁」の人、一ヶ所に定住しない、この世の秩序にからめとられていないマーチャント・アドヴェンチャラーズや、貿易商人たち、スパイや植民地官僚などに強い興味がある。

壁に一面に描かれた、航路の記された世界地図を眺めて、人の移動を想像しているだけで何時間も時が過ぎていく。

ヨーロッパの隅々から集まってきた商人たちが、珍しい文物を持ち込み、あるいは購入し、それぞれの服装で、それぞれの言語を話し...想像しただけでクラクラする。
ロマンだなあ。





証券取引所の一部はレストランに改装されていて、こちらがまた素敵だった。
滞在中に3回も利用した。

アントワープ証券取引所は一般公開(無料)されているが、不定期なので調べてからお越しください...
コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )
« 黄金の アン... kissin for al... »