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Brugge Style
ミケランジャロとセバスティアーノ
ナショナル・ギャラリーで開催中のMichelangelo and Sebastiano「セバスティアーノとミケランジャロ展」へ2回目行ってきた。
今までは、特別展は、なんとなくお付き合いで2回目、3回目に行っていたが、最近は意識的に行くようにしている。
1回ではとてもじゃないが「天才」の構想にはついていけないことに気がついたからだ。
まあ、天才について行こうとしたら何回行こうと足りないし、毎回が決して無駄になることもない。
「ミケランジャロとセバスティアーノ」展は、ミケランジャロと同時代に生き、ヴェネツィアで訓練されて成功し、のちにローマに渡って、クレメンス7世のお気に入りになったセバスティアーノを、ミケランジャロの影響を補助線にして見ていく展覧会...
なのだが、見れば見るほど、ミケランジャロに比べたらセバスティアーノは優れた凡才にすぎない(いくら解説がセバスティアーノの才能を盛ろうとも)ことが、凡才以下で才能の欠片もないわたしには強調されるばかり。
セバスティアーノに突出した才能があったとすれば、それは傑出した芸術家としての才能ではなく、気難し屋で有名だったミケランジャロに自分の作品の構図を描かせたり、アイデアを出させたりしたという「人たらしの才能」だったのではないか。
彼は現代なら例えば不世出のプロデューサーになれたかもしれない。
ヴェネツィア派としても、師であるジョルジョーネより秀でたところもない、というのがわたしの感想なのだがどうだろうか。
(右写真はセバスティアーノの「ラザロの蘇生」、ナショナル・ギャラリーのサイトより)
一回目は、今世紀を代表する男性バレエ・ダンサーの一人、セルゲイ・ポルーニンの公演を観る前で、ミケランジャロの目指した「心身ともに完璧なキリスト像」を、ポルーニンの豪華な肉体に重ね合わせて鑑賞できたのだった。
今回、心身ともに完璧なキリストとは、多分に「アダム」的、「最後のアダム」的なのだなと思った。
前夜に2016年版の「ベン・ハー」を見、これがまた最新のコンピューター・ゲームはこういう映像世界なんじゃないだろうかという類の出来で、「現実にあったかもしれない歴史劇」というよりは「完全な絵空事」という雰囲気でいっぱいだった。
特にベン・ハーその人も顎が細く、あまりに現代人的な美男だったので「絵空事」感はますます増したのだった。
彫刻と映画では媒体が違うとはいえ、同じ理想化でも作り手によってこうも違うかとしみじみ思った。
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