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tumblrとは何か?




"Most people are other people. Their thoughts are someone else’s opinions, their lives a mimicry, their passions a quotation

ほとんどの人間は他人である。思考は誰かの意見、人生は物まね、そして情熱は引用である" 

-Oscar Wilde


去年の終わりに始めたタンブラー、最近になってやっとおもしろいと思えるようになって来た。
使い方、楽しみ方を100パーセント理解しているわけではないが、自分の好きなものを集めて並べて、ある意味俯瞰できるのがいい。今後、もっと上手に使いこなしてみたいと思っている。

ところで。
あらゆる書き手のタンブラーの画面は「コレクション」の定義*にはまっているが、ではいったいなぜ人間は「コレクション」をするのだろうか。

ひとつはワイルドの言う通り、「ほとんどの人間は他人である。思考は誰かの意見、人生は物まね、そして情熱は引用である」から。
しかし、だから阿呆臭いとか無駄だとかではない。「人間」とは、「私」とは、そういう成り立ちのものなのであるから仕方がない。むしろ、そういう成り立ちだから「人間」あるいは「私」になった、と言った方がいいかもしれない。
これに対して「そんなことはない。私は完全にオリジナルな人間である。私のアイデア、私の作品、私の生むものはすべてオリジナルである。」と言う人がいるだろう。そういう人はそう思っていればいいと思うが、例えば「私は完全にオリジナル...」という当のその言語がもうすでに借り物なのだ。

そして確信をついているもうひとつが、般若心経の「五蘊」(ごうん)、「人は私や私の魂というものが存在すると思っているけれど、実際に存在するのは体、感覚、イメージ、感情、思考という一連の知覚・反応を構成する5つの集合体(五蘊)であり、そのどれもが私ではないし、私に属するものでもないし、またそれらの他に私があるわけでもないのだから、結局どこにも私などというものは存在しないのだ」(ここからの引用)。

わたしはこれほどすっきりタンブラーを説明しているものは他に思いつかない。どうだろう。

われわれは「結局どこにも私などというものは存在しない」からこそコレクションをするのだ。



写真は王妃マルゴに扮するイザベル・アジャーニ。
アジャーニはわたしの少女の頃からの憧れで、最近写真を何度か検索してみた。彼女の美しい写真はたくさんあるのに、そのどれもが魅力を十分伝えていないようで切ない。それでたくさんあれもこれも貼りたくなり、さらにどこかにあるに違いない彼女の魅力を完全に写し取った写真を探したりするのである...




タンブラーについてはこんな記事(「続・tumblrとは何か? その内容と形式」)も。




*「クシシトフ・ポミアンは、「歴史家の実践において」コレクションは単なる物の堆積とは以下の3つの点で区別されるとしている。
コレクションを構成する品物が一時的あるいは永久に、営利活動の流通回路の外に保たれていること(「たとえば、売るために店に集められた品物の集合はコレクションではない」)。
コレクションを構成する品物の集合が特別な庇護のもとに置かれていること(「コレクションであるためには、保存の問題と、また場合によってはそれを構成する品物の修復の問題を解決する必要がある」)。
コレクションがそのために閉じられた場所の中で、視線にさらされているということ(「陶器の中に入れて地中に埋められた財宝」や「銀行の金庫室に保存された絵画の集合」などはコレクションではない)」(ウィキペディアより)
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