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何かいいことないかな




「あーあ。何かいいことないかなあ...」

そう思うことはありませんか?


土曜日のわたしがそうだった。

とても気に入って予約していた春ものの洋服が生産されないという報告を受け、手に入らないとなると無性に欲しくなり、「最近、ええことないなあ」「何かええことないかなあ」と、どしゃぶりの庭を眺めていたのである。
たぶん昨日も何かちいさな「いいこと」はあったはずだが、その時のわたしは空っぽで何一つ覚えていなかった。

日常に小さな喜びを発見してそのつど幸せになるという自発的な技もある。
英国の水で入れる紅茶のおいしさや、卓上のシチリアのレモンのような薔薇の色や、暖房の効いた温かい部屋、忘れていた人の夢を見たこと、さらにもっと期待値を低く設定すれば、娘の日常も夫の言動も、飼い犬が小康状態を保っているのも、もっとありがたく受け止められるはずだ。

が、何か思いがけない幸運があちらの方から舞い込んではこないか、棚からぼたもちが落ちてこないか、そういう気分だったのである。
そういう気持ちになること、ありますよね?ね?ね?


そういう時は出かけるに限る。


翌日の日曜日の朝、電車でロンドンへ出て行こうと駅前駐車場に車を止め車外に出たら、黄色いミニに乗ったお兄さんが「(24時まで有効の)チケット、(もう必要じゃないから)使わない?」とにこにこ差し出してくれた。丁寧にお礼を言ったら、別れ際のお決まりのセリフ「よい一日を!」を言ってくれた。
「よい一日を」。
この一般的で誰もが惰性で使う別れ際のセリフをこんなにも素敵だと思ったことが今までにあっただろうか。

ええ、よい一日にしますとも、あなたのおかげです...

この5ポンド(700円)のチケットはわたしの一日の色を塗り替えた。
あの人は「何かいいこと」を運んで来る天使だったに違いない。
車で去ってゆく天使に手を振る*わたし、満面の笑顔で(笑)。お兄さんが車中で手を挙げるのが見えた。


そして午後、コベント・ガーデンで道を尋ねて来た人物が、すごく素敵なコートを来た背の高いハンサムな男性で、道を聞かれただけなのに(わたしは芳紀まさに16歳のころからナンパなどされたこともないが、道だけはよく聞かれるのである)笑顔になってしまった。容姿がいいというのはずばり「眼福」なのである。彼は丁寧にお礼を述べ、軽く手をあげてウインクして去って行った。


「何かいいこと」ありました。
わたしを何が幸せにしたかと言うと、ずばり、若者に話しかけられた「お決まりの仕草、セリフ」だった。驚いたことに。
「よい一日を」と、袖をすり合った人に声をかける、小さく手を振り、あるいは手を挙げて、片目をつぶってサインを送る...


「彼女は考えた。いつの日か、醜さの襲撃がまったく耐えがたいものになったら、勿忘草を一茎、勿忘草をただ一茎だけ、ちっぽけな花を頭にのせた細長い茎を一本だけ花屋で買うとしよう、その花を顔の前にかざして、彼女にはもう愛せなくなってしまった世界から保っておきたい究極のイメージである、その美しい青い点より他のものはなにも見ないようにするため、花にじっと視線を定めて街へ出てゆこう」(ミラン・クンデラ「不滅」)


今日は、自分以外の誰かが「いいことがあった」と思えるように、わたしは「お決まりのセリフ、仕草」を運ぶ天使役を果たしたいと思う。
街で親切をしたがるおしつけがましいおばちゃんに出会ったら、きっとそれはあたくしです(笑)。


...


*ブラッセルのフランス語の先生に聞いた話だが、わたくしども日本人が手首を左右に動かす「バイバイ」のお手ふり、こちらの方はなかなかできないのだと言う。それ故に、あの仕草を非常にコケットで魅力的である、と感じる方が一定の割合で存在するらしい。
そこでクンデラの「不滅」を思い出した。


「われわれは誰しもすべて、われわれ自身のなかのある部分によって、時間を越えている。たぶんわれわれはある例外的な瞬間にしか自分の年齢を意識してはいないし、たいていの時間は無年齢でいるのだ。いずれにしろ、水泳の先生のほうをふりかえり、微笑し、手で仕草をした瞬間、自分の年齢のことなど彼女はなにも知らなかった。その仕草のおかげで、ほんの一瞬あいだ、時間に左右されたりするものではない彼女の魅力の本質がはっきり現れて、私を眩惑した。わたしは異様なほど感動した。そしてアニエスという単語が私の心にうかんだ。アニエス。かつて私はその名前の女性と知り合ったことはない。」(ミラン・クンデラ「不滅」)


「その仕草は婦人の本質をいささかもあらわにしたわけではなく、むしろ婦人はある仕草の魅力を私に啓示してくれたのだと言うべきだろう。なぜならば、ある仕草はある個人の所有物だとみなすこともできなければ、その創造物とみなすこともできないし(なにしろそのひと特有の、完全に独創的な、そして自分だけのものである仕草を創造することなど誰にもできはしないのだから)、その道具とみなすこともできないのである。が、反対は真実である。つまり、仕草のほうこそわれわれを利用しているのだ。われわれは仕草の道具であり、操り人形であり、化身である」(同上)



よい一日を!

よい夜を!
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