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振り返って、2012年英国の夏




今年、2012年の春夏は英国はお祭り騒ぎで浮かれまくった...

と、今後人々に記憶されるのだろう。


実際は地方の人の話などを聞くと、ロンドンでオリンピックが開催されることすら知らなかったとか、そういうステキな無関心もあったようだが、マスコミやビジネスの雰囲気は絶対に「お祭りの年」だった。


まず6月の女王陛下在位60年式典(ダイヤモンド・ジュビリー)から始まった。英国の善男善女はその何ヶ月も前から家の軒先にユニオンジャックを飾った。
そしてサッカーヨーロピアンカップをはさみ、ロンドンオリンピックになだれ込む怒濤のスケジュールとともに国旗は雨風にさらされて色あせながら、つい最近まであちこちでぴらぴらと風に揺れていたのである。


わたしは女王陛下のジュビリーの前から白々していた。

本屋やミュージアムショップに並ぶ女王陛下の豪華写真集の数々。スーパーマーケットの記念食品。雑貨屋や百貨店の王室グッズ。TVで繰り返される「女王陛下がお歩みになられた日々」的特集。どこかの国の独裁者でもあんな人気取りはしなかったろうよと思われるくらい「完璧な女王陛下」アピール、そしてその女王陛下を頂くわれら選民アピールが続いた。

この気に食わなさは何だったのだろう。
自分が外国人ゆえの疎外感からか?

おいおい冷静になれよ、今ある問題を忘れるなよ、と思ったからか?
事実、英国が抱える深刻な諸問題をキラキラした愛国心で一時だけ包み隠すような行為はバカバカしく見えた。

それともわたしがティーンエイジャーの頃憧れた「ちょっと大人な英国」が、実はこんなにもだらしなく、下らない出し物に熱狂するのだということを一瞬にして理解してしまったからか。それもあるかもしれない。まあそれはわたしの勝手ですわな。

あるいは英国の自己慰撫に対する内部からの批判が気味悪いくらいに聞こえて来なかったからかもしれない。
「英国大好き」「女王陛下万歳」とのキンキンしたマジョリティの叫び声に、「この国大好き!とみんなでジャンプする気にはならん」とか「王室?よー分からん」などという正気な発言がかき消されて聞こえなかったから。
事実、わたしは英国生活の師匠に「王室反対派って今の時期何かやってるの?」と質問したほどだった。

わたしの記憶にはまだ残っているカッコいいカウンター勢力が英国からほとんど消えつつあるのではないか、という不安。そういう勢力が消えるほど英国は幼稚になり無気力になったのではないか、という気持ち悪さ。だって、ロックスターやサッカー選手が叙勲されてウキウキな時代ですぜ。


夫の仕事の関係でジュビリー閉会式とオリンピック閉会式の招待が回って来ていたが、ジュビリー閉会式時はブルージュで、オリンピック閉会式時はハンブルグで「わざと」過ごした。わたしはテレビをつけるのさえも禁じた。わたしはなぜこんなにヘンクツなのだろう。

「英国人は本心から王室を敬愛してるわけ?本当に女王様に親しみを感じたり誇りを感じるほどあの人達とご縁があると思ってるの?「ウィリアム素敵」とか本気か? 英国人がうかれているのは単にパーティーをする理由が欲しいだけなんじゃないの?まだその方が正気で救いがある」とわたしが言った時、夫は「いやいや、英国人はほんとうーに女王陛下を敬愛しているみたいですよ。幸福なことじゃないですか、王室が英国をひとつにまとめる糊の役割をしていると皆が思えるなんて。ベルギーにくらべたら(笑)」と言った。

オリンピック閉会式では「英国を代表する」ある女性ポップグループが歌ったと聞き、情けなくて世も末かと思った。
例えば英国での出来事ではないが、ピアニストのギレルスが、大戦に出兵する兵士達の前でラフマニノフを演奏し「これ(芸術)を守るためにこの戦争は戦う価値あるのだ」とアナウンサーが煽動したのはたった数十年前のことである(わたしは決して戦争で文化芸術を守れと言っているわけではないので誤解なきよう)。あのポップグループが歌うヌルい歌を誰かが命をかけてでも守らねばと奮闘することが金輪際あるだろうか。ないと思う。



今でもこの英国自己慰撫に対するいまいましさの原因ははっきり分かっていない。

ひとつはおそらく、「愛国心」が直球ストレートで単純明快なのはかなり怖い、という警戒からではないか。
人が「愛国心」を語る場合、愛国心の中身を語るのが難しいという構造になっているため(愛について正確に定義できる人がどのくらいいるだろうか)、常に「よそ者差別や意見を異にする人への罵倒」というスタイルを取るからである。
ご承知のように「愛国心」が最も高まるのは「非国民」や「外国人」がいる時である。

オリンピックだって、昔は「卓越したスポーツマンの成果を驚き愛でる」というイベントだったのに、いつの間にか「どの国が一番強いか」ということに始終するようになった。虚しいことである。

「愛国心」とは、「それではみなさん大きな声でご一緒に」としてではなく、「こういうこともあったけれど、ああいうこともあった。あんなこともあるし、こんなこともある。それでも自分はこの国に帰属感を感じる。この国の人や文化や自然に愛情を感じる」というしみじみした個人的な経験のことではないかと思うのだ。ちょうど家族愛や男女間の愛と同じように。誇りと肯定と少々のとまどいがないまぜになったような何か。だから法律で強制したり、学校で教えたりできるものでもない。

ベルギーに対してわたしが悪口を言いながらもあそこで常に居心地が良かったのはそういう点ゆえなのかもしれない。
それでなくとも小さな国土が南北に引き裂かれたようになり、隣人(ワロン)は思うようにならない。それを束ねるつもりでいる象徴としての王室は「この前ドイツから連れて来られた」人々で縁もゆかりもない。それでもわれわれは「ベルギー人」である、そういうバラバラさ。
一方、隣のオランダでは女王陛下の誕生日には皆が声を揃えて歌い、何かと言えば皆でオレンジ色の服をまとって集団で祝う。彼らはそういうとき決して個人では行動しない。いつも塊。オレンジの塊。わたしにとってはベルギーの方が居心地良さそうに見えたのである。
(しかしオランダ人はひとりひとりはとても気持ちのいい人たちだということは声を大にして断っておく)


もうひとつ、わたしの胸が悪くなるほどのいまいましさは「大衆」に対する不快感なのだと思う。
わたしもその1人である大衆への不快感。自分自身への不快感。

以下森下伸也著、「社会学がわかる事典」からの転載。

オルテガの述べた「大衆」。

1 非常に均質的・画一的で、突出した個性を持たない。
2 何事においても他律的で、他人や世論に同調し、あるいは自分に同調を求める「烏合の衆」である。
3 理想や使命感や向上心など無縁の存在で、自分の現状に満足しきっている。
4 文明の恩恵が自動的に享受できるのを当たり前と思っており、文明や伝統に対する畏敬や感謝の念、 また、未来に対する責任感を欠いた「忘恩の徒」である。
5 自分たちが一番偉いと思い、自分たちのわがままをどこまでも押し通そうとする「駄々っ子」である。
6 精神性などかけらも無く、物質的快楽だけを求める「動物」である。
7 以上のような自分たちのあり方を、何が何でも社会全体に押し付けようとする「野蛮人」である。


そりゃ、グロテスクなリアリティ・ショウが流行るわな...




最後にこれらのイベントを陰で支えた、特にボランティアの人々には敬意を払いたい。わたしだったらストレスでイライラしていたところだろうに、彼らは相当忍耐強く、ロンドンへ行くたびにその「穏やかさ」に感激した。

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