goo

歴史に名を残した人のはなし




娘の学年では卒業試験続行中。

今週実施される試験のひとつは「歴史上の人物」についてのレポートを毎日数人が発表することだ。

アキレウス(神話じゃないか)や、オバマ大統領(生存中)についての発表があるというのも愉快である。


ところで、一番最初の段階で、生徒一人一人が誰をテーマに取り上げるかについて発表した時、
「ヒトラー」はオッケーだが「ウサマ・ビン・ラーディン」はダメだと先生が言ったそうである。

先生は「ヒトラーは歴史上の重要人物であるが、ビン・ラーディンはそうでもない」と言ったそうで、この説明だけではわたしは合点が行かない(と、先生にメールしたりはしませんよ・笑)。



例えばビン・ラーディンを、アメリカン・グローバリズムに対抗したという観点から取り上げたら、理念的には正しい動機がいかに凄惨な結果を生む可能性があるかということについてや、世界をドラスティックに変えようという試みは必ず多くの血を流すということについて述べることができ、かなりよいレポートになるのではないかと思う。
ヒトラーを取り上げるにしてもその方法しかないと思うし。

もちろんわたしはこれらの人物を偉大だと言っているわけではない。
ものの見方は一元的ではないということを子どもには教えたいと思うのだ。
例えば今の社会が西洋中心主義でなかったら、われわれのスタンダードとは全く違うタイプの人物が「世界的英雄」として歴史に名を残した可能性もあるのである。



子どもたちが歴史上の人物について学ぶべき点は、薪を背負いながら勉学に励んだことでも、桜の木を切り倒したことを認める根性があったことでもない。
と言うか、娯楽としては上出来なそういうエピソードを信じるのはかまわないし、非凡な人生に鼓舞される子がいてもいいと思うけれど、それだけではない。

人間の考え方や感じ方は、時代や環境や社会のあり方や宗教、また報道のされ方や、それこそ自分が資料に使う本での書かれ方、手軽に手に入るインターネットの情報...その他もろもろに常にバイヤスをかけられていること、それゆえに別の価値体系の元、別の伝達方法の元では間違っている可能性があるということを加味して考えることを学ぶためでもあると思う。

歴史に「学ぶ」意義は、名を残した人物の生き方をなぞるためではなく、今後の世界を少しでも住みやすくするためでしょう?
コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )