ボイシー日記

手がふさがっていては、新しいものは掴めない。

昭和の戦争を生きる、安曇野・第四部。

2011-11-17 16:29:27 | 
臼井吉見の「安曇野・第四部」読了。
三部まで読み終えて、いよいよ昭和の戦争時代に突入かと思い
ちょっと気が重かったが、今年中に全巻読まねばと再開しました。
第四部は、大正の終わりから太平洋戦争集結の昭和20年まで。

大正後期から活発になってきた共産党運動に
脅威を感じた政府が、1925年に治安維持法を制定。
折しも相馬家の虎雄が共産主義に入党。警察沙汰をおこす。
ブラジルへわたった四男の文雄は客死する。

安雄・和子夫婦は結婚して、十二社・中村屋寄宿舎の敷地で暮らしていた。
腹違いの妹、千鶴子も同居。
二女の千香子は東京市電気局に勤める四方謙治と婚約する。
長男の安雄は犬に熱中して
日本シェパード犬協会に参加し、育軍用犬の飼育をはじめる。
その後、愛蔵・良夫妻は、平河町から西五反田・袖ケ崎に移転。
空いた平河町の家へは安雄夫妻がはいる。

木下尚江つながりで、無政府主義者である
石川三四郎の主義・主張や、
各地での講演内容が紹介されている。
彼は8年間ヨーロッパへ行っていて
ルクリュ、カーペンターなどの思想に影響を受けて、
大正9年10月に帰国する。

この石川三四郎という人、無政府主義者だが
なかなかいいことを言っている。
地上のすべての動物、植物は自治生活を行っている。
蟻は働いて一生懸命蓄え、仲間の間で
相互扶助的に美しい生活をしている。蜂も然り。
これら昆虫社会の生活こそ、人間生活の模範だ云々。
農民自治運動もこれに倣って行われるべきだと言う。

無政府主義は、ただ世間を乱すものとばかり思っていたが、
それだけではない。共同体の一人ひとりが自ら節度をもち、
相互に助け合いながら自治社会をつくって
生きていこうという理想が伺える。
これに関連して、昭和初期の長野県などの
農民自治運動が紹介されている。

昭和6年の満州事変後、中国本土で戦争が拡大中というのに
中村屋のある新宿界隈は、賑わっていた。
映画館やダンスホールができ、カフェや遊郭が増えた。
中村屋では、かりんとう、栗羊羹、
カステラ、支那饅頭などが売れていた。

昭和12年、青少年店員を育成する研成学院を設立する。
その開校式で、早大総長がヒトラーを讃える演説をする。
頭山満が万歳三唱をする。
その後、中村屋会館も落成する。

昭和12年に、木下尚江が死去。
昭和15年には、愛蔵、黒光夫妻は千駄ヶ谷の新居へ引っ越す。
安雄が肺炎になって入院する。
良の体調も悪化して一時は生死をさまようも持ちこたえる。
良は娘・俊子の葬式を執り行った僧侶・渡辺海旭との縁で
増上寺の日曜講演に通っていて
彼の死後は、仲間で「壺風会」という故人を偲ぶ会を開催していた。

太平洋戦争間近になって、中村屋では餡パンや羊羹などの販売を中止。
食料雑貨店のような品揃えになる。工員も徴兵されて激減する。
遂に太平洋戦争が勃発する。

時代は前後するが、日中戦争(支那事変)が始まると、
インド独立へ向けてラス・ビハリ・ボースが運動を始める。
ドイツに亡命していたもうひとりのボース、
チャンドラ・ボースも運動に加わる。
ラス・ビハリ・ボースは日本各地で講演を行い、
長野の飯田でもやっている。
この二人のボースが、インド独立に貢献する。

グアム、硫黄島などが玉砕して本土への空襲が激しくなるにつれ、
相馬家は、五日市市に疎開。新宿中村屋は空襲で消失してしまう。
8月6日、広島に新型爆弾が落ちて、終戦を迎える。
満州事変からの暗い時代の中で、
それぞれの人が、それぞれの立場で一生懸命生きていた。
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