望郷の丘と名の付く丘は、全国で数か所ありますが、
この丘は、東京・東村山の多磨全生園(たま・ぜんしょうえん)に在る丘です。
多磨には、多磨と多摩の二つがありますが、
これは、北多摩郡・多磨村と、
南多摩郡・多摩村とが在った為です。
玉川上水の玉川は、これとは違った意味合いだそうです。

多磨全生園は1909年(明治42年)に造られました。
その2年前の1907年(明治40年)に、
らい病(ハンセン病)患者に対する隔離政策が始まり、
それに合わせて創立されたのですが、
当時の東村山周辺は、広大な武蔵野の原野が広がる土地でしたが、
それでも住民は居る訳ですから、
らい病に対する強烈な恐れ、恐怖心から、
反対運動が起こり、流血騒動になったそうです。

全生園は108000坪あり、
単純計算では600メートル四方という区画です。
その中に、ハンセン病資料館があります。


その中には、当時の施設内の患者たちの生活を再現したコーナーもあります。
何故、らい病はそれほど恐れられ、忌み嫌われたのでしょうか?


手足が変形し、いずれは切断。
鼻がなくなり目は失明、全身の毛は抜け落ち・・
といった症状があまりに異様だったからです。

一旦、病気が発症すると、
患者たちは(お遍路さん)になったりしました。
お遍路さんだったら、人々は比較的優しく接してくれ、
食べる事には困らなかったみたいです。


しかし、隔離政策が始まると、
人々はこういった施設に強制的に放り込まれ、
何も悪い事などしていないのに、
まるで犯罪者の様な扱いをされたのです。
そういった患者たちは、生まれ故郷が恋しくて、
脱走者も後を絶ちませんでした。
施設側は脱走者を防止しようち、掘割を築きました。
その時に出た残土を患者たちが築き上げて造られたのが、望郷の丘でした。


高さは約10メートルといいます。
私が登った感じでは、それほど高くは感じませんでしたが。
それでも、かなり遠くまで見通せました。
創設期には、広大な武蔵野の原野だったのですから、
その見通しは現在より、遥かに素晴らしかったと思います。


この多磨全生園に20歳の時に、北条民雄が入所します。
彼は23歳で亡くなるまでに、数多くの短編小説を発表しました。

その中でも最大のヒット作が「いのちの初夜」です。
これは彼が全生園に入所して一週間の体験を書いたもので、
彼の名付けたタイトルは「最初の一夜」だったか?
チョッとうろ覚えです。
これを「いのちの初夜」と改名したのは、
当時まだ30代半ばの川端康成でした。
川端康成は、このハンセン病患者である北条民雄を、強く支援したのです。
北条もまた川端康成を(師)と仰ぎました。
この本の中で北条民雄は、
頭髪は全て抜け落ち、目玉は抜けて全盲。
手も足も切断して、まるでダルマさんの様になった、
中年とおぼしき、それでも、かつては高貴な人格であっただろうと、
何処となく察しられる男が、
ドンブリに首を突っ込む様にして食事をしている様を見て、
「こんなにまでしてまだ生きていたいか、浅ましい」と思うか、
イヤ、そうではない。
「彼は自分の命を一生懸命、生かそうとしているのだ」
それは(いのち)なんだ、(いのち)そのものなんだ。
と言っています。
望郷の丘に登ると、
遥かに富士山、筑波山、秩父の山々・・
そういった山並が見通せます。
生きては二度と帰れぬ懐かしい故郷。
親は、兄弟は、親戚は、友人は・・
彼等は一体どんな気持ちでそれを眺めた事でしょう。
自分が死んでも誰も来てはくれず、
それ所か、戸籍さえ抜かれてしまい、遺骨さえ引き取っては貰えず、
自分の人生は何だったのか?
望郷の丘に立った私は、
彼等の胸の内を思うと、あまりに切なく、こみ上げるものがありました。
ハンセン病の(らい予防法)は、
特効薬ができ、治る病気になった後も、ずっと存続し続け、
1996年になって、やっと廃止されました。
この、日本政府の姿勢には、大いなる怒りしか感じません。
こんな人権無視が、つい最近までまかり通っていた事は驚きです。
ハンセン病患者は実名を公表しないのが普通だったのですが、
北条民雄、生誕100年となって、
やっと実名が公表されました。
七條晃司(しちじょう・こうじ)
(條)という漢字に、自分の存在を託したのでしょうか・・
過去の病ではありますが、
人権無視という政府の無能無策を知る為に、
一度、東村山・ハンセン病資料館を訪れて下さい。
報われなかった彼等の心に触れて頂けたら・・
この丘は、東京・東村山の多磨全生園(たま・ぜんしょうえん)に在る丘です。
多磨には、多磨と多摩の二つがありますが、
これは、北多摩郡・多磨村と、
南多摩郡・多摩村とが在った為です。
玉川上水の玉川は、これとは違った意味合いだそうです。

多磨全生園は1909年(明治42年)に造られました。
その2年前の1907年(明治40年)に、
らい病(ハンセン病)患者に対する隔離政策が始まり、
それに合わせて創立されたのですが、
当時の東村山周辺は、広大な武蔵野の原野が広がる土地でしたが、
それでも住民は居る訳ですから、
らい病に対する強烈な恐れ、恐怖心から、
反対運動が起こり、流血騒動になったそうです。

全生園は108000坪あり、
単純計算では600メートル四方という区画です。
その中に、ハンセン病資料館があります。


その中には、当時の施設内の患者たちの生活を再現したコーナーもあります。
何故、らい病はそれほど恐れられ、忌み嫌われたのでしょうか?


手足が変形し、いずれは切断。
鼻がなくなり目は失明、全身の毛は抜け落ち・・
といった症状があまりに異様だったからです。

一旦、病気が発症すると、
患者たちは(お遍路さん)になったりしました。
お遍路さんだったら、人々は比較的優しく接してくれ、
食べる事には困らなかったみたいです。


しかし、隔離政策が始まると、
人々はこういった施設に強制的に放り込まれ、
何も悪い事などしていないのに、
まるで犯罪者の様な扱いをされたのです。
そういった患者たちは、生まれ故郷が恋しくて、
脱走者も後を絶ちませんでした。
施設側は脱走者を防止しようち、掘割を築きました。
その時に出た残土を患者たちが築き上げて造られたのが、望郷の丘でした。


高さは約10メートルといいます。
私が登った感じでは、それほど高くは感じませんでしたが。
それでも、かなり遠くまで見通せました。
創設期には、広大な武蔵野の原野だったのですから、
その見通しは現在より、遥かに素晴らしかったと思います。


この多磨全生園に20歳の時に、北条民雄が入所します。
彼は23歳で亡くなるまでに、数多くの短編小説を発表しました。

その中でも最大のヒット作が「いのちの初夜」です。
これは彼が全生園に入所して一週間の体験を書いたもので、
彼の名付けたタイトルは「最初の一夜」だったか?
チョッとうろ覚えです。
これを「いのちの初夜」と改名したのは、
当時まだ30代半ばの川端康成でした。
川端康成は、このハンセン病患者である北条民雄を、強く支援したのです。
北条もまた川端康成を(師)と仰ぎました。
この本の中で北条民雄は、
頭髪は全て抜け落ち、目玉は抜けて全盲。
手も足も切断して、まるでダルマさんの様になった、
中年とおぼしき、それでも、かつては高貴な人格であっただろうと、
何処となく察しられる男が、
ドンブリに首を突っ込む様にして食事をしている様を見て、
「こんなにまでしてまだ生きていたいか、浅ましい」と思うか、
イヤ、そうではない。
「彼は自分の命を一生懸命、生かそうとしているのだ」
それは(いのち)なんだ、(いのち)そのものなんだ。
と言っています。
望郷の丘に登ると、
遥かに富士山、筑波山、秩父の山々・・
そういった山並が見通せます。
生きては二度と帰れぬ懐かしい故郷。
親は、兄弟は、親戚は、友人は・・
彼等は一体どんな気持ちでそれを眺めた事でしょう。
自分が死んでも誰も来てはくれず、
それ所か、戸籍さえ抜かれてしまい、遺骨さえ引き取っては貰えず、
自分の人生は何だったのか?
望郷の丘に立った私は、
彼等の胸の内を思うと、あまりに切なく、こみ上げるものがありました。
ハンセン病の(らい予防法)は、
特効薬ができ、治る病気になった後も、ずっと存続し続け、
1996年になって、やっと廃止されました。
この、日本政府の姿勢には、大いなる怒りしか感じません。
こんな人権無視が、つい最近までまかり通っていた事は驚きです。
ハンセン病患者は実名を公表しないのが普通だったのですが、
北条民雄、生誕100年となって、
やっと実名が公表されました。
七條晃司(しちじょう・こうじ)
(條)という漢字に、自分の存在を託したのでしょうか・・
過去の病ではありますが、
人権無視という政府の無能無策を知る為に、
一度、東村山・ハンセン病資料館を訪れて下さい。
報われなかった彼等の心に触れて頂けたら・・
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