先日のキャンプで、あまりの暑さから逃げ出して行ったのが沼津の「若山牧水記念館」
そこで意外な文献にお目にかかりました。
それは、「ハンセン病の歌人」として名高い「明石海人(あかしかいじん)」でした。
何故、意外だったかと言うと、
ハンセン病患者は、その死後も本名を明らかにしないし、
顔写真などは、まず公表しないというのが、半ば常識だったからです。
私も、明石海人の本名が、野田勝太郎だという事を初めて知りました。
本名を公表しない・・・
それは、当時ハンセン病(らい病)という恐ろしい病気が、遺伝病と言われ、
その患者一族が村八分にされるという事実があったのです。
その為に患者は家族を守る為に本名を隠し、
家族は患者が、さも無関係である風を装ったのです。
らい病という忌まわしい病気が如何に恐ろしがられたかという事です。
明石海人は、静岡県・沼津市に1901年(明治34年)に生まれました。
1920年、師範学校を卒業した海人は小学校の教師になります。
そこで知り合った教師の、古郡浅子と1924年に結婚し長女が生まれます。
そこまでの海人は順調に幸せな生活をおくっていました。
1926年の1月。
背中に紫色の斑紋を見つけた妻が、指で押しても痛くない、
それが一向に改善される所か、次第に拡大するばかり。
上京し東大病院で診てもらうと、らい病だと言う。
らい病を告げる医師の顔色がサッと変わり、
看護婦も後ろに飛び退いて、あわただしく消毒水に手を浸したのです。
時間が止まってしまったかの様な、その瞬間。
海人は、この恐ろしい事実を受け入れざるを得なかったのです。
らい病は当時、最も恐ろしい病気と言われ、
顔は醜く変形し、頭髪や爪が無くなり、鼻が陥没し、遂には失明する。
らい病は天刑病(天が与えた刑罰)とさえ言われた病気だったのです。
海人は家族たちに病気の事実を伝えます。
人一倍感受性の強い海人は、
家族に自分の運命を背負わせてしまった事に苦しみます。
小学校を退職し家に引きこもっていた海人はある日、朗報を聞きます。
福岡の医師が特効薬を発明したというのです。
藁にもすがる思いで、1927年に福岡の病院へと旅立ちます。
その日の旅立ちはまだ夜も明けない暗いうちでした。
それは近所の人達に知られない為でした。
家族4人で駅に向かう道で、妻は目にいっぱいの涙を浮かべていました。
いよいよ列車が動き出す時に、妻は人目をはばからず泣き出し、
「これがこの世に於ける最後の別れになるかも知れない」
そう思う海人は妻子の名前を大声で叫んだのでした。
そして、それはまさに最後の別れだったのです。
海人26歳の時でした。
福岡に来て5年後、病院は経営難で閉鎖される事となりました。
そこで兵庫県に在る、長島愛生園に入院する事になりました。
愛生園に運ばれる海人の姿は悲惨なものでした。
様々な思い、絶望感から発狂していたのです。
最初に入院した頃の長身で美青年だった面影は全く無くなり、
らい病の為に風貌は一変していました。
愛生園に来て1年もする頃、海人は落ち着きを取り戻し、
生きる意味を取り戻し、すっかり正気に戻ります。
これまでは運命を否定し、必死にあがらおうとしてきました。
しかし、己の運命を受容する境地に到達し、
運命のままに生きて行く、これからの短い人生を、
ひたむきに生きようと心を固めるのでした。
天刑(天の刑罰)は、天恵(天の恵み)となり、
天啓(天の啓示)となったのです。
病魔は容赦なく海人の肉体をむしばむ中、
海人は文字通り死闘の中で短歌を詠みあげていったのです。
目は完全に失明し、手足はマヒして自力歩行もできず、ペンも握れず、
しかし、そうなればなる程、海人の精神は逆に研ぎ澄まされていったのです。
死にもの狂いの彼の短歌を見て、
病院の医師であった内田守は、彼の短歌を出版させたいと思い、
それで完成したのが、歌集「白猫・はくびょう」でした。
この歌集は25万部のベストセラーになります。
海人は、出版されたその本を手にした時、
頬ずりしながらなで回し、離そうとしなかったそうです。
見えない彼の目からは、とめどなく涙が流れていたそうです。
海人が息を引き取ったのは、
「白猫」が出版された4か月後の6月9日。
38年間の短い生涯でした。
‘「深海の魚族のように、自らが燃えなければ、どこにも光はない」‘
自分を深海魚に例え、自らを燃やし、人間らしく生きる道を探っていった海人。
ハンセン病の天才歌人と言われた「明石海人」38歳の壮絶なる人生でした。
そこで意外な文献にお目にかかりました。
それは、「ハンセン病の歌人」として名高い「明石海人(あかしかいじん)」でした。
何故、意外だったかと言うと、
ハンセン病患者は、その死後も本名を明らかにしないし、
顔写真などは、まず公表しないというのが、半ば常識だったからです。
私も、明石海人の本名が、野田勝太郎だという事を初めて知りました。
本名を公表しない・・・
それは、当時ハンセン病(らい病)という恐ろしい病気が、遺伝病と言われ、
その患者一族が村八分にされるという事実があったのです。
その為に患者は家族を守る為に本名を隠し、
家族は患者が、さも無関係である風を装ったのです。
らい病という忌まわしい病気が如何に恐ろしがられたかという事です。
明石海人は、静岡県・沼津市に1901年(明治34年)に生まれました。
1920年、師範学校を卒業した海人は小学校の教師になります。
そこで知り合った教師の、古郡浅子と1924年に結婚し長女が生まれます。
そこまでの海人は順調に幸せな生活をおくっていました。
1926年の1月。
背中に紫色の斑紋を見つけた妻が、指で押しても痛くない、
それが一向に改善される所か、次第に拡大するばかり。
上京し東大病院で診てもらうと、らい病だと言う。
らい病を告げる医師の顔色がサッと変わり、
看護婦も後ろに飛び退いて、あわただしく消毒水に手を浸したのです。
時間が止まってしまったかの様な、その瞬間。
海人は、この恐ろしい事実を受け入れざるを得なかったのです。
らい病は当時、最も恐ろしい病気と言われ、
顔は醜く変形し、頭髪や爪が無くなり、鼻が陥没し、遂には失明する。
らい病は天刑病(天が与えた刑罰)とさえ言われた病気だったのです。
海人は家族たちに病気の事実を伝えます。
人一倍感受性の強い海人は、
家族に自分の運命を背負わせてしまった事に苦しみます。
小学校を退職し家に引きこもっていた海人はある日、朗報を聞きます。
福岡の医師が特効薬を発明したというのです。
藁にもすがる思いで、1927年に福岡の病院へと旅立ちます。
その日の旅立ちはまだ夜も明けない暗いうちでした。
それは近所の人達に知られない為でした。
家族4人で駅に向かう道で、妻は目にいっぱいの涙を浮かべていました。
いよいよ列車が動き出す時に、妻は人目をはばからず泣き出し、
「これがこの世に於ける最後の別れになるかも知れない」
そう思う海人は妻子の名前を大声で叫んだのでした。
そして、それはまさに最後の別れだったのです。
海人26歳の時でした。
福岡に来て5年後、病院は経営難で閉鎖される事となりました。
そこで兵庫県に在る、長島愛生園に入院する事になりました。
愛生園に運ばれる海人の姿は悲惨なものでした。
様々な思い、絶望感から発狂していたのです。
最初に入院した頃の長身で美青年だった面影は全く無くなり、
らい病の為に風貌は一変していました。
愛生園に来て1年もする頃、海人は落ち着きを取り戻し、
生きる意味を取り戻し、すっかり正気に戻ります。
これまでは運命を否定し、必死にあがらおうとしてきました。
しかし、己の運命を受容する境地に到達し、
運命のままに生きて行く、これからの短い人生を、
ひたむきに生きようと心を固めるのでした。
天刑(天の刑罰)は、天恵(天の恵み)となり、
天啓(天の啓示)となったのです。
病魔は容赦なく海人の肉体をむしばむ中、
海人は文字通り死闘の中で短歌を詠みあげていったのです。
目は完全に失明し、手足はマヒして自力歩行もできず、ペンも握れず、
しかし、そうなればなる程、海人の精神は逆に研ぎ澄まされていったのです。
死にもの狂いの彼の短歌を見て、
病院の医師であった内田守は、彼の短歌を出版させたいと思い、
それで完成したのが、歌集「白猫・はくびょう」でした。
この歌集は25万部のベストセラーになります。
海人は、出版されたその本を手にした時、
頬ずりしながらなで回し、離そうとしなかったそうです。
見えない彼の目からは、とめどなく涙が流れていたそうです。
海人が息を引き取ったのは、
「白猫」が出版された4か月後の6月9日。
38年間の短い生涯でした。
‘「深海の魚族のように、自らが燃えなければ、どこにも光はない」‘
自分を深海魚に例え、自らを燃やし、人間らしく生きる道を探っていった海人。
ハンセン病の天才歌人と言われた「明石海人」38歳の壮絶なる人生でした。
群馬県 草津の「国立療養所栗生楽泉園」(くりゅうらくせんえん)があります。
うたごえの仲間で ずっと支援している方がおります。
偶然ですが、ともしび店に その園生の「児玉」さんに
お会いしたことがありました。
都内の講演の帰りに寄ったとかでした。
話を聞くと 悔しい事ばかりですね。
http://www.nhds.go.jp/~kuriu/
草津はその昔、らい病によく効く温泉だといわれ、患者たちが沢山集まったという歴史のある場所なんですよ。
もう治る病気になったというのに、人権無視の「らい予防法」を廃止しようとしなかった国の責任は大きいですね。