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第四艦隊事件

2021-12-11 06:43:11 | 軍艦
抜錨!荒波、恐るるに足らず。


1935年(昭和10年)
日本海軍の根幹を揺さぶる大事件が発生しました。
それが第四艦隊事件です。
それはどんな事件だったのでしょうか。

1935年9月24日から25日にかけて、
日本海軍は演習の為に函館港を出港し、訓練海域に向かいました。
それは岩手県はるか沖の太平洋です。
演習に参加した艦艇は航空母艦・巡洋艦・駆逐艦など41隻です。

台風が接近しているのは報じられていました。
反転して台風を回避する案も出されましたが、
既に海は大荒れで、回頭する各艦が衝突するのを恐れ、
「海戦では台風下での戦闘もある筈」と予定通りの航行を続けます。
艦隊は気圧960ミリバール。風速35メートル、
波高20メートルに達する荒海を各艦は進みました。



そんな中で特型駆逐艦と言われる船体の、「初雪」「夕霧」の2艦は、
風速50メートルという突風の中、
信じられない高さの三角波(左右からの波がぶつかって巨大な波になる)
を真正面に受け、船体が切断してしまったのです。
軍艦の船体が切断したのは、
1899年、イギリスの駆逐艦コブラが船体切断により沈没して以来の事でした。





艦橋から前の部分が、まるで刃物で切った様に無くなってしまいました。









41隻中、19隻の艦船が多大な損傷を受けました。



艦橋が圧壊してしまった艦もあります。
航空母艦・重巡洋艦の船体にも、不気味なシワがより、
それが進むと船体が切断されるのは間違いありません。

切断された初雪の艦首部分が漂流しているのが発見されました。
それを何とか港まで引っ張って行こうと、
重巡洋艦・那智が曳航をしますが、高波の為にそれは断念せざるを得ませんでした。
艦首部分には機密書類が保管されており、それが他国に渡る事態、
また船体が切断してしまったという事実を他国に知られたくない思惑もあり、
その中に生存しているかも知れない24人がありながら、
重巡洋艦の砲撃により、それを沈めたのでした。


船体切断の原因は、溶接部分の強度不足と、
船体軽量化により、強度に余裕が無かった事でした。
前年に発生した、水雷艇「友鶴」事件と重なって、
日本海軍は全艦船の船体の見直しを取らざるを得なくなりました。

その結果、全艦艇のチェックと対策が行われ、
船体強度確保の為の補強、軽量化の為の武装の撤去。
溶接を従来のリベット中心に戻す建造に戻しました。

まだ出始めたばかりの溶接を積極的に取り入れた、
造船技師の藤本喜久雄は失脚させられました。
だいたい用兵側の身勝手な要求をそのまま取り入れていたら、
手漕ぎボートに大砲を積めと言ってるようなもので、
あり得ない漫画みたいな軍艦になってしまうのです。
それを何処まで納得させられるのか、無視するのか、
藤本は造船理論を軍に認めさせる事が出来なかったのでしょうね。

海軍はこの教訓を基に全ての艦船の徹底した見直しと修正をした結果、
これ以後、戦争終結まで船体の不具合は二度と起きなかったのです。
しかし、尊い54名の命が失われたのです。

これはアメリカでも同じで、
やはり攻撃力を重視した結果、頭でっかちの艦が多くなり、
1944年(昭和19年)フィリピンで台風に遭遇し、
駆逐艦3隻沈没、18隻が大破し、
死者800名という事故を起こしています。
これは駆逐艦の燃料タンクが少なくなっていて重心が上がっていた為もあります。

しかし、こういった軍艦で起きた悲劇は、
後の平和な時代の船舶の設計に多大な影響を与え、
その結果、安全な船になっているという事実は重要ですね。

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