1955年(昭和30年)1月2日。


北アルプス、前穂高岳東壁の頂上直下を登攀中に、ナイロンザイルが切断し、
岩稜山岳会員、若山五朗さん(19歳)が墜落死しました。
当時ナイロンザイルは切れないザイルと言われていました。

これが、その切れたザイルの現物です。

それ以前はマニラ麻のロープが登山用に使われていましたが、
麻ロープは重く、雨に濡れると更に重くなってしまうし、
硬くなってしまい扱いにくいロープでした。

しかし、登山界に登場したばかりだったナイロンザイルは、
重量が軽く、雨に濡れても重くならずに、柔らかくて扱い易かったのです。
そして麻ロープに比べて強度的に高く、切れないロープと言われていました。
そして瞬く間に登山界から持てはやされたのでした。
1月2日その日、穂高で上を行く若山が滑落したのを知った下の登山者は、
ピッケルにしがみ付いて滑落の衝撃に備えたのですが、
ザイルに何の衝撃も受けずに若山は墜落して行ったのでした。
丁度この頃、1954年12月29日から、
翌1955年1月3日までに、同様のナイロンザイル切断事故が、
穂高山域で3件発生し、ナイロンザイルの安全神話が、
疑問視される様になります。

若山五朗さんの実兄、岩稜山岳会、石岡繁雄さんが実験を行い、
1トンの力で引っ張っても切れない筈のザイルが、
鋭いエッジ(角)を持つ岩角では容易に切断する事を確認しました。

ところが、ロープメーカーの東京製綱は、
登山用品の専門家である大阪大学教授であり、
日本山岳会関西支部長の篠田軍治氏の指導により、
1955年4月29日、
報道陣の集まる公開実験を行いました。
ザイルメーカーによる実験ではナイロンザイルは、
麻ザイルに比べて数倍の強さを示しました。
しかし参観者には知らせずにメーカー側は岩角に数ミリの丸みを付けていたのでした。
その結果、「岩稜山岳会は自分達のミスをナイロンザイルのせいにした」
とう記事が山岳雑誌などで報じられました。

山岳会側は名誉棄損罪で1956年1月、篠田教授を告訴します(1年後に不起訴処分)
その結果、「ナイロンザイルは本当に切れたのか」という
大論争が起こったのです。
そして若山さんと一緒に登攀していた岩稜山岳会の、
石原国利さんらが中心になり、
ザイルメーカー、登山用具の専門家、
その実験データをそのまま掲載しナイロンザイルの誤解を招く性能を、
登山家たちに示した「山日記」の監修者、日本山岳会を相手に、
真実を求める闘いが始まりました。
それは長期にわたり、大変な困難を極めたのです。
岩稜山岳会はメーカー側のナイロンザイル安全神話は、
登山者の生命を危険にさらす事になるので、
訂正すべきであると訴え続けたのですが、
日本山岳会からは無視され続けたのです。
この頃、小説家の井上靖氏が、この事件をモデルにした、
「氷壁」という小説を朝日新聞に、
1956年(昭和31年)11月24日から
昭和32年8月22日まで連載し、大変な話題になりました。
また映画にもなりましたね。



氷壁に登場する山小屋・徳澤園は上高地から徒歩2時間にあります。
私は泊った事はありませんが、何度となくその周辺で休息しました。
1973年(昭和48年)
ようやく岩稜山岳会の長年にわたる主張が認められ、
消費生活製品安全法が制定され、
ナイロンザイルもその対象となり、これによって、
クライミングロープは太さ9ミリ以上とされ、
8ミリは登山用として認められない物となりました。
1975年(昭和50年)6月5日。
クライミング安全基準が公布され、
世界で初めてクライミングロープの安全基準ができました。
若山五朗さんが亡くなってから20人を超える登山者がロープ切断で亡くなり、
執念と言える遺族たちの闘いに幕が閉じられました。
事件発生から約20年後でした。
1977年(昭和52年)
日本山岳会は篠田教授の誤った記載で、多くの人に迷惑をかけてしまった事を、
21年ぶりに謝罪したのでした。


穂高の奥又白には亡くなった若山五朗さんの慰霊ケルンがあります。
同じ頃、九州で水俣病が大騒ぎになりました。
企業相手の訴訟、裁判は一般人にはとても高い壁であり、
決着が着くまでの関係者の苦労は並大抵ではありません。
ナイロンザイルは現在、岩角に当たる部分にショックをかけない様に、
器具を開発したり、使い方も改められているみたいです。
気の遠くなる様な長い年月に努力されてきた人達に敬意を表します。


北アルプス、前穂高岳東壁の頂上直下を登攀中に、ナイロンザイルが切断し、
岩稜山岳会員、若山五朗さん(19歳)が墜落死しました。
当時ナイロンザイルは切れないザイルと言われていました。

これが、その切れたザイルの現物です。

それ以前はマニラ麻のロープが登山用に使われていましたが、
麻ロープは重く、雨に濡れると更に重くなってしまうし、
硬くなってしまい扱いにくいロープでした。

しかし、登山界に登場したばかりだったナイロンザイルは、
重量が軽く、雨に濡れても重くならずに、柔らかくて扱い易かったのです。
そして麻ロープに比べて強度的に高く、切れないロープと言われていました。
そして瞬く間に登山界から持てはやされたのでした。
1月2日その日、穂高で上を行く若山が滑落したのを知った下の登山者は、
ピッケルにしがみ付いて滑落の衝撃に備えたのですが、
ザイルに何の衝撃も受けずに若山は墜落して行ったのでした。
丁度この頃、1954年12月29日から、
翌1955年1月3日までに、同様のナイロンザイル切断事故が、
穂高山域で3件発生し、ナイロンザイルの安全神話が、
疑問視される様になります。

若山五朗さんの実兄、岩稜山岳会、石岡繁雄さんが実験を行い、
1トンの力で引っ張っても切れない筈のザイルが、
鋭いエッジ(角)を持つ岩角では容易に切断する事を確認しました。

ところが、ロープメーカーの東京製綱は、
登山用品の専門家である大阪大学教授であり、
日本山岳会関西支部長の篠田軍治氏の指導により、
1955年4月29日、
報道陣の集まる公開実験を行いました。
ザイルメーカーによる実験ではナイロンザイルは、
麻ザイルに比べて数倍の強さを示しました。
しかし参観者には知らせずにメーカー側は岩角に数ミリの丸みを付けていたのでした。
その結果、「岩稜山岳会は自分達のミスをナイロンザイルのせいにした」
とう記事が山岳雑誌などで報じられました。

山岳会側は名誉棄損罪で1956年1月、篠田教授を告訴します(1年後に不起訴処分)
その結果、「ナイロンザイルは本当に切れたのか」という
大論争が起こったのです。
そして若山さんと一緒に登攀していた岩稜山岳会の、
石原国利さんらが中心になり、
ザイルメーカー、登山用具の専門家、
その実験データをそのまま掲載しナイロンザイルの誤解を招く性能を、
登山家たちに示した「山日記」の監修者、日本山岳会を相手に、
真実を求める闘いが始まりました。
それは長期にわたり、大変な困難を極めたのです。
岩稜山岳会はメーカー側のナイロンザイル安全神話は、
登山者の生命を危険にさらす事になるので、
訂正すべきであると訴え続けたのですが、
日本山岳会からは無視され続けたのです。
この頃、小説家の井上靖氏が、この事件をモデルにした、
「氷壁」という小説を朝日新聞に、
1956年(昭和31年)11月24日から
昭和32年8月22日まで連載し、大変な話題になりました。
また映画にもなりましたね。



氷壁に登場する山小屋・徳澤園は上高地から徒歩2時間にあります。
私は泊った事はありませんが、何度となくその周辺で休息しました。
1973年(昭和48年)
ようやく岩稜山岳会の長年にわたる主張が認められ、
消費生活製品安全法が制定され、
ナイロンザイルもその対象となり、これによって、
クライミングロープは太さ9ミリ以上とされ、
8ミリは登山用として認められない物となりました。
1975年(昭和50年)6月5日。
クライミング安全基準が公布され、
世界で初めてクライミングロープの安全基準ができました。
若山五朗さんが亡くなってから20人を超える登山者がロープ切断で亡くなり、
執念と言える遺族たちの闘いに幕が閉じられました。
事件発生から約20年後でした。
1977年(昭和52年)
日本山岳会は篠田教授の誤った記載で、多くの人に迷惑をかけてしまった事を、
21年ぶりに謝罪したのでした。


穂高の奥又白には亡くなった若山五朗さんの慰霊ケルンがあります。
同じ頃、九州で水俣病が大騒ぎになりました。
企業相手の訴訟、裁判は一般人にはとても高い壁であり、
決着が着くまでの関係者の苦労は並大抵ではありません。
ナイロンザイルは現在、岩角に当たる部分にショックをかけない様に、
器具を開発したり、使い方も改められているみたいです。
気の遠くなる様な長い年月に努力されてきた人達に敬意を表します。
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