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河童の歌声

歌声喫茶&キャンプ&ハイキング&写真&艦船

日本海海戦・・➁

2020-04-28 14:43:51 | 歴史
1904年2月から1905年9月まで、
日本とロシアは戦争に入りました。日露戦争です。


日本と中国が朝鮮の権益を狙っているのを、
ロシアが横から虎視眈々と狙っています。
その挙句、朝鮮半島と満州の権益を賭けて争ったのが日露戦争です。



ロシアは自国のウラジオストックに軍港がありました。
それとは別に、満州・朝鮮・日本とに睨みを効かせる為に、
中国に旅順港という前衛基地的な最良の軍港を確保していました。

そこに常駐するのは、ロシア・第一太平洋艦隊です。
戦艦・巡洋艦が多数常駐する強力な艦隊です。

日本軍は有名な203高地の陸戦で多大な戦死者を出していました。
203高地は乃木大将が無謀とも言える突貫攻撃を繰り返し、
多くの批判を浴び、乃木は無能だとも言われた、
標高203メートルの高地です。





ここでの死者は日露合わせて3万人。死屍累々たる死者で埋め尽くされました。



乃木大将は203高地の激戦で、
我が子2人も失っています。
しかし、あまりの犠牲者の多さに国民からは嫌われ、
我が息子2人を失ったにもかかわらず、同情はされませんでした。



乃木大将は、何故そこまで203高地にこだわったのでしょうか?
それは、その高地からは旅順港が丸見えだったのです。
つまり、そこからロシア艦隊の軍艦を砲撃で沈める事が可能だったからです。

陸からは乃木大将が激しい攻撃を繰り返し、
それとは別に、海からも日本軍は猛攻撃をしていました。

日本軍は旅順港に、不要になった船を沈めてロシア艦隊が港から出られない様に、
する為に閉塞船を港に沈める作戦を繰り返します。





広瀬中佐 文部省唱歌 尋常小学4年 1912年(明治45年)


その時、軍神広瀬として日本国民の手本となり「廣瀬中佐」という歌が作られました。
閉塞船に爆薬を仕掛けて沈めるのですが、
爆薬を仕掛けに船内に入ったきり戻らない杉野上等兵。
広瀬中佐(当時は大尉)は、杉野を探しに船内に戻りますが彼は見つかりませんでした。
仕方なくボートに乗り移った所を、
ロシア軍の砲撃により、広瀬中佐は吹き飛んでしまいました。

この旅順港閉塞作戦は結局失敗に終わりました。
旅順港のロシア艦隊を港から出られなくする、とはならなかったのです。





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日本海海戦・・➀

2020-04-27 15:09:55 | 歴史
日露戦争 日本海海戦報道 - Russo-Japanese War, Battle of Tsushima reporting


日本海海戦と聞いて、それを知っている方はどれほど居るのでしょう?
東郷平八郎と聞いて、それを知っている方はどれほど居るのでしょう?
戦艦・三笠と聞いて、それを知っている方はどれほど居るのでしょう?
敵前大回頭と聞いて、それを知っている方はどれほど居るのでしょう?
バルチック艦隊と聞いて、それを知っている方はどれほど居るのでしょう?





日本海海戦を語るには、それらは不可欠なものなのです。
日本海海戦は、1905年(明治38年)日露戦争の最終章の、
5月27日から、翌28日にかけて日本海・対馬周辺で行われました。
日本では(日本海海戦)と言いますが、
諸外国では(対馬沖海戦)と言われています。

この有名な海戦を書いた本には、



この海戦に戦艦・オリョール号に乗って一兵士として海戦を戦い、
運よく命を失う事なく、捕虜になった、
ノビコフ・プリヴォイ氏が後年書いたドキュメンタリーが、
この「バルチック艦隊の壊滅」があります。
この本の原題は「ツシマ」です。
この本はとても素晴らしい本で、第一回スターリン賞というのを受賞しています。



また、日本ではドキュメンタリー作家として著名な、
吉村昭氏が「海の史劇」として、忠実に描いています。



他にも、司馬遼太郎氏が「坂の上の雲」と名付けた小説を書いていますが、
私は歴史の事実を小説家が脚色して書く事は好まないので、
この本は読んでいません。

例えば「宮本武蔵」を吉川英治氏が書いていますが、
(お通さん)などという架空の女性を作り上げてしまったりしています。
一旦、そういった架空が浸透してしまうと、
それを境に、後世までその架空が存在して、まかり通ってしまう。
そういったのが、好きになれないからです。

「バルチック艦隊の壊滅」「海の史劇」の2冊を読めば、
日本海海戦の真実は知る事が出来ると思います。

日本海海戦は、とても有名な海戦です。
世界の海戦史上、これほど劇的な海戦は世界中に存在しないのです。
それは嘘偽りなく、その通りなのです。

海戦の結果があまりにも劇的だったからです。
それは・・完全勝利。
そんな事はあり得ないという程の劇的な完全試合だったのです。

海戦というのは、もはや過去のものです。
これからの時代に(海戦)などという、
海の上で軍艦同士が大砲で撃ち合うなどという事は、まずあり得ない事です。

となると、日本海海戦は(空前絶後)の、海の戦いでした。
それ以前にも、これ以後も二度と無い海の戦い、
沢山の兵士がこの海戦で命を落しました。
しかし、残酷な言い方ではありますが、
それは(海のロマン)でもあったと、私は思うのです。

日本海海戦は、長い文章になりますので、
ひとまず今回はこれにて終了。また後日。



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日本の歴史上初のアイドルスター

2020-03-04 16:52:20 | 歴史


日本の歴史に於いて、初めて登場したアイドルスターは、
牛若丸というか、後の、源義経(よしつね)です。
義経は敵、味方の双方から慕われたスターでした。



源義経(1159~1189)わずか30歳の短い人生でした。
その華々しい活躍は26~27歳までの、たった2年足らずだったのです。

義経は父・義朝(よしとも)の九男として生まれ、
母親は美人の誉れ高い、常盤御前。
源頼朝(よりとも)は異母兄です。

1159年、平治の乱で、父・義朝が敗死し、
義経は母・常盤御前と共に、平清盛の捕虜になります。
しかし、母の美貌が牛若丸と二人の兄(今若・乙若)の命を救います。
母は平清盛の「女」になったのです。
常盤御前は平清盛との間に子供も設けています。

牛若丸は鞍馬寺に預けられますが、
後に奥州・平泉に下り、藤原秀衡(ひでひら)の庇護を受けます。

1180年、兄・頼朝が打倒平氏を掲げて挙兵をします。
それを聞いた21歳の義経は武蔵坊弁慶らと兄の元へ馳せ参じます。
静岡県・富士川の合戦に勝利した兄・頼朝と、
黄瀬川で涙の再会を果たしました。

打倒平氏に燃える義経でしたが、
一足早くに、同族である木曽義仲が京都に入り、平氏を京都から追い出しました。
しかし、木曽義仲の京都での評判は最悪でした。

頼朝から打倒、木曽義仲を命じられた義経は、
義仲討伐戦で勝利しますが、
その時、頼朝は弟・義経が戦の天才である事を見抜き、
義経を平家討伐の総大将に任命します。



頼朝が見抜いた義経は、
一の谷・屋島・壇ノ浦で、その天才ぶりを発揮して勝利し、
平家一族を滅亡させ、最大の功労者となります。

平家に勝利した義経は、
朝廷の最高権力者・後白河法皇から「位」を授かりました。
しかし、それは頼朝の許可なく、言わば勝手に独断で受けたのでした。

頼朝は朝廷から独立した政権(幕府)を設立しようと考えていたのですが、
その独立性を確保する為には、配下の者が安易に朝廷に接近してはならないのに、
総大将(トップ)がそれをやってしまったのでした。

頼朝の許可を得る事なく官位を受けた事や、
平氏との戦いに於ける義経・独断専行によって、
兄の怒りを買い、義経は頼朝と対立する事になってしまいました。
義経は「後白河法皇は、国の頂点に君臨する人だから偉い」と、
単純に考えていたのですが、
頼朝は自分がトップになろうとしていたのですから、
義経を許す事は出来なかったのです。

兄・頼朝は戦いは苦手でしたが、一流の政治家でした。
弟・義経は戦いの天才でしたが、政治的センスは無かったのです。

兄・頼朝による義経捕縛の命が下り、
それを苦れて奥州・藤原氏を再び頼りますが、
しかし、秀衡の死後、頼朝の追求を受けた
藤原泰衡に攻められて、平泉の衣川で自刃したのでした。

何とか鎌倉に入り、兄・頼朝と再び語り誤解を解きたい、
と鎌倉の一歩手前の腰越で書いた「腰越状」も、
徒労に終わり、去って行く彼の心情や如何に。
結局、兄の政治的な気持ちを全く理解できなかったのですね。

敵からも見方からも愛された稀代のアイドル義経は、
現代になっても、アイドルであり、スターのままの珍しい存在ですね。



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分倍河原の新田義貞

2020-01-25 06:36:26 | 歴史


私達夫婦は歌声喫茶に通う時によく分倍河原駅で乗り換えをします。
京王線と、JR南武線が交差する駅です。
横浜に住んでいた時は、分倍河原という駅名も存在も、
全く知らない無関係の駅でした。

JR南武線のホームに行くと駅前広場があり、
そこに大きな騎馬像があります。
最初はそれが誰であるかなど知るよしもなかったのですが、
気になるので調べたら、新田義貞と分かりました。

新田義貞の事は少し知っていました。



「鎌倉」という歌があります。

七里ガ浜の磯づたい、 稲村が崎名将の、
剣投ぜし古戦場。

鎌倉幕府を攻め落とそうと進軍してきた名将(新田義貞)は、
稲村ケ崎に来た所、その丘は急峻で登れない、
ならば磯伝いにと考えたのですが、波が荒く進軍できない。
それならばと名刀を海に投げ入れ、神よと祈ったところ、
その祈りが通じたのか、磯づたいの道が開け、
鎌倉へ進軍する事ができたという話は知っていたからです。

しかし、その新田義貞という人がどんな人だったのかはよく知らない。

新田義貞の本名は源義貞といいます。
つまり彼は源氏だったのです。

1333年5月8日。
群馬県太田市で鎌倉倒幕の旗を上げた新田義貞は、
一路鎌倉目指して進撃します。
一方、幕府軍は埼玉・入間川で新田軍を阻止する為に北上。
5月11日。
埼玉県・小手指ヶ原で合戦となります。
勝負は決しないまま、新田軍優勢のまま。
5月15日。
新田軍は、分倍河原で幕府軍と戦いますが大敗を喫し、
埼玉県・狭山市まで敗走します。

しかし、相模の三浦義勝らが参陣した事に意を強くし、
5月16日未明に分倍河原の幕府軍を急襲、
幕府軍は総崩れになり、新田軍の大勝利になります。



5月21日。
新田義貞は稲村ケ崎の海岸に到着。
そこで「鎌倉」の歌にあるとおりで鎌倉入りを果たしたのでした。

5月25日。
約140年間続いた鎌倉幕府は滅亡しました。

しかし、それから5年後、
1938年に新田義貞は38歳で悲劇的な死を迎えました。





また、稲村ケ崎には、1910年(明治43年)
「七里ガ浜の哀歌」で有名な、逗子開成中学生12名が、
七里ガ浜の海岸で遭難し、全員がなくなるという悲劇があり、
その遭難碑が建っています。

「真白き富士の嶺 緑の江の島
 仰ぎ見るも今は涙
 帰らぬ十二の雄々しき御霊に
 捧げまつる胸と心」





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青葉の笛

2020-01-04 10:03:45 | 歴史
倍賞千恵子/青葉の笛


源(木曽)義仲に富山県・倶利伽羅峠の戦いで敗れた平家は、
京都を捨て(都落ち)一旦、九州に逃れます。
九州で再び勢力を回復した平家は、神戸市、一の谷まで都に近づきますが、
一の谷の裏側の急な崖を馬で駆け降りるという、
戦の天才・源義経の奇襲戦法(ひよどり越えの逆落とし)に大混乱となり、
我れ先に海へと逃げます。

そんな中、平敦盛(あつもり)も海上の舟へと馬を進めますが、
源氏の追っ手の熊谷直実(くまがい・なおざね)から、
「逃げるとは卑怯なり、戻って我と勝負せよ」と声をかけられます。
それに呼応した敦盛は馬を戻して直実と一騎打ちになりますが、
平安貴族の生活に慣れ、武術を忘れかけた敦盛は、
老練で武術に優れた直実とは勝負にならず、すぐに組み伏せられてしまいます。

直実は相手の首を獲ろうと敦盛の顔を見ると、
まるで我が子と同じ年頃の美しい若武者でした(16歳とも17歳とも・・)
直実はハタとためらいます。

そんな直実に、敦盛は自分の名前は名乗らずに、
「貴方にとっては良い敵だ。名乗らなくても首を獲って、
人に尋ねてみよ。さあ、首を獲れ」と言い放ちます。

ためらう直実が後ろを見ると、味方の軍勢が近づいてきます。
私が助けたところですぐに首を獲られてしまう。
ならば自分の手でと泣く泣く敦盛を打ち取りました。

その時、綿の袋に入れられた笛を見つけます。
一の谷の戦場に早朝流れていた笛の音色は、この公達(きんだち)であったのかと、
直実は涙します。

熊谷直実はその後、武士の世界の無常さを悟り、
仏門に入ったそうです。(諸説あり)

公達(きんだち)というのは、平家・上流貴族の子弟を指す言葉であり、
源氏ではこれを、御曹司(おんぞうし)と呼びます。


➁番の主人公は、
平清盛の異母弟・平忠度(ただのり)です。

彼は歌人としても優れていて、歌人の藤原俊成に師事していました。
平家都落ちの途中で引き返し、
藤原俊成の屋敷に赴いて、自分の歌を多数収めた巻物を託します。

忠度は一の谷の戦いで命を落としますが、
矢を入れておく腰カゴ(えびら)には、
次の様な歌が結びつけられていました。

「行き暮れて、木の下陰を宿とせば、花や今宵のあるじならまし」
(旅の途中で日が暮れてしまい、木陰を宿とすれば、
花が今宵の宿のあるじとなるだろう)



源氏も平家も元はと言えば、武士です。
決して貴族ではありませんでした。
しかし、我が世の春を謳歌する平家たちは、貴族化してしまい、
武術を忘れてしまっていました。
そんな貴族化した平家が、打倒平家を目指して押し寄せて来る源氏軍に、
敵う筈もなく、憐れにも滅びて行きました。

「一の谷の戦敗れ、討たれし平家の公達あわれ・・」

本当にその憐れさには、心が揺さぶられます。





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