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木曽義仲

2020-01-02 06:15:58 | 歴史
私は、歴史が多少好きです。
学校では特に好きという事はなく、ごく普通でした。
それが社会人になった20代半ば頃に好きになったのです。
そのきっかけが木曽義仲(よしなか)でした。

ある時、私は独りで木曽街道をドライブしていました。
諏訪湖から名古屋方面に抜ける道です。
その当時は、まだ中央高速も無かった時代です。
中津川とか馬籠・妻籠宿とかそんな場所をきっと走ったのでしょう。

その道路脇に(木曽義仲〇〇の地)といった標示があったのです。
〇〇が何と書いてあったのかは覚えていません。
生誕の地でない事は確かですが。

「木曽義仲・・はて?聞いた事はあるけど、それって誰なんだろう?」
これが私を歴史好きにさせるきっかけでした。

木曽義仲は平安時代末期というか、
源平合戦のスターだった武将と言った方がいいでしょう。
本名は源義仲。つまり彼は源氏なのです。
木曽というのは、彼が育った地名ゆえにそう呼ばれているのです。

彼は1154~1184年、たった30歳の人生でした。
彼のライバルとなった源義経(よしつね)は、1159~1189年。
義経は義仲より5歳年下でしたが、
二人とも30歳という若さで亡くなっています。
義仲といい、義経といい、歴史に名を残す武将でしたが、
彼等が共に30年という人生を強烈に駆け抜けた、ある意味悲劇の主人公でした。

木曽義仲は、源頼朝(よりとも)義経兄弟とはイトコ同士。
しかし、義仲の父(義賢・よしかた)を殺したのは、
頼朝・義経の長兄にあたる義平(よしひら)でした。
まさに血で血を洗う骨肉の戦いであり、
親戚だから、兄弟だから仲良くなんて事は全くありませんでした。

義仲もそのままいけば殺される運命だったのですが、
父の忠臣、斎藤実盛(さねもり)に助けられ、
木曽の住人、中原兼遠に預けられ、そこで成長します。

その後、平家は全盛時代を迎えますが、それに反旗をひるがえし、
打倒平家ののろしを上げたのが、
永遠に天皇になれるチャンスを失った以仁王(もちひとおう)でした。
以仁王の打倒平家の命令書により、
鎌倉の頼朝、木曽の義仲がそれに呼応して挙兵をします。

しかし、頼朝は連戦連敗。
それに比べて義仲は連戦連勝。
負け続きだった頼朝でしたが、関東の武将達は頼朝に付いたのです。
それは頼朝は源氏の嫡流(つまり本流)
それに比べて義仲は、勝ち続けとはいえ源氏の支流なのです。

本流の頼朝は平家を討つ所を、何と義仲に向けて兵を挙げたのです。
義仲は悩んだと思いますが、
頼朝を相手にする事は不利だと考え、我が子を人質として頼朝に差し出しました。
頼朝は自分と義仲のどちらが源氏のボスであるべきかを決めたかったのです。

義仲は富山県の俱利伽羅峠(くりからとうげ)の合戦で、平家に大勝します。
迫り来る木曽義仲の大軍に、平家は遂に京都から西国へと都落ちします。

しかし京都に入った義仲軍の評判は極めて悪かった。
寄せ集めの軍勢で、金も無く、食料の補給も出来ず、
無い物は住民から略奪するしかありませんでした。

おまけに木曽の山育ちの礼儀作法知らずは、
平安貴族のしきたり作法などには縁がなく、全くの山猿としか、
貴族たち、京都の住民からは見えなかったのです。
義仲の評判は地に落ちました。

鎌倉の頼朝は、打倒義仲の為に、弟、義経を差し向けます。
義経には鎌倉をバックにした(金)がありますが、
義仲には(金)などまるでありません。
おまけに義経は義仲を超える、戦の天才的な上手さがあります。

1184年、京の六条河原の合戦に敗れた義仲は逃亡しますが、
従う者はわずか数騎だったそうです。
その中には幼馴染であった今井兼平もいました。
兼平から自害を勧められた義仲だったのですが、
自害をする前に敵の放った矢が額に命中して、打ち取られてしまいます。
ツキを失くした者は、最期もツキから見放されてしまいました。

たった30年という短い人生ですが、名を残しました。
ですが、義仲を滅ぼした義経もそれから5年後には、
同じ、源頼朝によって滅ぼされ、
木曽義仲と同じ、30歳の人生を閉じる事になるとは・・・

歴史というのは先達たちが必死で生きてきた過程であり、
誰にも覆す事の出来ない事実です。
これを知る事は極めて貴重な事であり、
その誤った過程を糧に出来れば、人類の成長に大いに役立つのですね。




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