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河童の歌声

歌声喫茶&キャンプ&ハイキング&写真&艦船

日本海海戦・・⑦

2020-05-03 21:58:15 | 歴史
距離6500メートルで始まった日本軍の一斉射撃は、
ロシアと違って、手順に乗っ取って試射から始まりました。
試射というのは、試射用の砲弾を使って行います。

1番艦の砲弾が敵艦に命中し、煙が上がると、その煙の色が赤だとします。
2番艦は青、3番艦は黄色といった具合に、
自艦の砲弾か、他艦の砲弾かが分かる様になっていて、
それによって着弾位置の修正をするのです。

バルチック艦隊が来るまでの数か月間に、
日本艦隊は1年間に使う砲弾を10日間で使い切るほどに、
徹底的な猛訓練をしていました。
ですから、いくら放心状態になろうが基本を忘れてはいませんでした。

6500の距離は6000、5500と、どんどん縮まってゆきます。
東郷提督の敵前大回頭はT字戦法とも言われます。
敵の進路を横にさえぎる形がアルファベットのT字形だからですが、
日本艦隊のは厳密にはT字形にはならずに、
イロハのイ字形でした。
しかしそれは東郷提督が望んでいた理想像でした。
これなら中口径砲が目いっぱい使えます。
そして、昨年の黄海海戦で失敗した敵艦を逃す心配はなくなってゆきます。

そして、日本軍の火薬は、下瀬火薬といって、
爆発力の強い新型の火薬だったのです。
それは、発射時には、あまり煙が出ないのです。
それに比べ、ロシア軍の火薬は旧態然とした黒色火薬でした。
黒色火薬は一度発砲すると真っ黒な煙に包まれて、
視界が途絶え、しばらくは発砲ができなくなってしまうのです。

下瀬火薬は日本の発明家・下瀬雅充(まさちか)が発明し、
1899年から大量生産が始まりました。

日本海海戦


戦艦三笠から指揮を執る東郷提督は露天艦橋に居ました。



そこは体が剥き出しの非常に危険な場所です。
その下には厚さ30センチの鋼鉄に囲まれた司令塔があるのにです。



一番上の、人が2人居る手すりの付いている所で指揮を執りました。
その2つ下の丸い構造物が30センチの鋼鉄に覆われた司令塔です。
しかし、その司令塔は安全ではありますが、
たった10センチも無いくらいの隙間から外を見るので、
とても視界が悪く見えずらいのです。
更にそこからは後側は全く見えないのです。
東郷提督はその視界の悪さを嫌って危険な露天艦橋に立ち続けました。





実際に露天艦橋に行ってみると、
そのあまりの狭さにビックリします。
そして、見れば分かる通り周囲はまるで剥き出し。
敵の砲弾が当たれば体は木っ端みじんに吹き飛んでしまうし、
もし何かの破片が飛んできても大怪我を負うでしょう。

しかし、東郷提督はそこから動こうとはしませんでした。
国家の存亡を賭けた決戦に、見えにくい場所では指揮を執りたくなかったのでしょう。
そして、自分の身がダメになっても、その後をどうすれば良いのかを、
部下たち、参謀たちに、言い聞かせ体に沁み込ませていたのです。
彼がどこにも怪我をしなかったのは奇跡みたいなものでしょうね。

それはロシアのロジェストヴェンスキー提督が、
何を考え、自分がダメになったらどうすればいいのか、
そんな肝心な事を誰一人として知らなかったのと正反対です。

東郷提督は、戦いというのは、指揮官だけが把握していれば良いというものではなく、
全員が一つの目標を徹底的に頭に叩き込んで、
それを体に沁み込ませているべきだ。そういう主義だったのです。






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日本海海戦・・⑥

2020-05-03 12:07:24 | 歴史


敵を目の前にして、敵艦に横腹を見せる形で急旋回をする。
その時、旋回点は海上に固定した一点であり、
敵(ロシア)は、その固定点に砲撃を集中すれば、日本軍に当たるのです。

マラソンでいう折り返し点と同じですね。
後から来る軍艦は、折り返した味方艦が邪魔になって砲撃ができません。
折り返し点に向かっている間は無抵抗。
そして折り返し点を過ぎて、やっと攻撃が出来る様になるのです。

しかし、東郷提督は何で、こんな危険な作戦を摂ったのでしょう?

それは、ロシアの戦艦8隻に対し、日本の戦艦は半分の4隻。
大口径砲の数ではロシアに太刀打ちできません。
しかし、中型艦である巡洋艦の数は日本の方がはるかに多いのです。
東郷提督は多数の中口径砲を活用したかったのです。
それには遠距離では射程が届きません。
中口径砲の射程距離内で海戦を行いたかったのです。
中口径砲は大口径砲に比べ、破壊力は劣りますが、
発射速度が早く、短時間に多数の砲弾を撃ち込む事ができます。

そして、前年に行われた黄海海戦では、
ロシア艦隊は日本艦隊から逃げようと、そればかりだったので、
日本軍は追いつくのに精一杯で大打撃を与える事が出来ず、
作戦的には失敗でした。

東郷提督は、黄海海戦の失敗は二度としない。
その為にはどうすれば最良かを考えて、敵前大回頭を摂ったのです。



しかしこの作戦、敵前大回頭を考案したのは、
東郷平八郎提督ではなく、参謀の秋山真之(さねゆき)中佐でした。
厳密に言うとこれを考えたのは秋山真之でもなかったのです。
ではいったい誰がこれを考えたのでしょう?

秋山真之という人は、学校時代あまり勉強もしなかったのに、いつも優秀な成績でした。
学友たちが不思議がって「お前は勉強もしないのに何でそんなに成績がいいんだ?」
と尋ねると、「先生の言動とか癖を見抜くんだ」と言ったそうです。
つまり、あの先生がこんな仕草をした時はあやしい。
そこを狙って勉強しとけば、ほぼ当たるんだと言ったそうです。

では秋山真之ではなく誰だったのでしょう?
それは秋山は、古今東西、日本でいえば村上水軍であったり、
そういった海戦の歴史を全て調べ上げ、
その中に敵前回頭(T字戦法)という作戦がある事を知ったのです。

更に秋山は、7つくらいの作戦を考えていて、
敵がこう動いたら、こっちの作戦に切り替える。
こうきたら、あっちの作戦を摂ると、徹底的に作戦を想定し作り上げていたのです。



この絵は、日本海海戦では最も有名な絵画で、
決戦が始まった時の旗艦・戦艦三笠の露天艦橋を描いた絵画です。
真ん中の小柄な人が、東郷平八郎提督。
その右にうつ向いてノートの様なものを覗き込んでいるのが、
参謀の秋山真之中佐です。

では東郷提督は、秋山参謀の言うがままにこの作戦を採用したのでしょうか?
いえ、東郷提督は考えに考えて自分なりに最も可能性のある、
敵前大回頭を摂ったのです。
彼は一国の存亡がかかるこの決戦に、イチかバチかなどと、
いい加減な手法を摂る男ではないのです。
極めて慎重な男なのです。

ただ東郷平八郎には他の提督には無いものがありました。
それは「東郷平八郎という男はツキがある男」だったのです。
実は、この海戦を指揮するだろうと言われていた提督は彼の他にいたのです。
それは本人も自分が指名されるだろうと思っていました。
しかし、彼は外され、彼は激怒します。

それを説き伏せたのは彼の親しい友である提督でした。
「お前が優秀なのはよく知っている。しかしお前は、
ここぞという時に人の言う事を聞かなくなる事がある」
だから今回は東郷に任せろ。
更に、東郷という男には何故かツキに恵まれているのだ。
それを聞いてその提督は納得し東郷に任せたそうです。


日本艦隊の眼前でのUターンはロシア軍をも驚かせました。
「見ろ見ろ、日本軍は何を考えているんだ」
「わが軍は勝った。神が東郷の頭を狂わせた」
ロジェストヴェンスキー中将もそれを見て顔が紅潮しました。

ロシア艦隊の全艦艇上に激しいどよめきが起き、
全乗組員は、我勝てりと勝利を確信しました。

ロジェストヴェンスキー提督もこの千載一遇のチャンスを見逃しませんでした。
砲撃開始を命じます。
時は午後2時10分。

世紀の大海戦の火ぶたが遂に切って落とされたのです。

しかし、ロシアの兵士達は世紀の大海戦に参加して放心状態でした。
普通はまず試射をして、着弾位置を確認し、着弾位置修正をするのです。
それをしなかったのです。
もう闇雲にぶっ放すばかりで、自分の艦の砲弾か、
他艦の砲弾かが全然わからずになっていたのです。

激しい一斉射撃を浴びながら疾走する三笠の姿は悲壮でした。

しかし、ロシア艦隊の一斉射撃が始まったというのに、
東郷提督は一向に砲撃命令を出しません。
ただ東郷提督は敵艦との距離ばかりを気にしていました。
兵士達が「まだですか、撃たせてください、撃たせてください」と必死に懇願しても、
発砲命令は一向に出されません。

計測員が「距離6500」と言った時に、
初めて東郷提督が静かに命令を下します。
「撃ち方始め」

日本艦隊の主砲が一斉に攻撃を開始しました。





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日本海海戦・・⑤

2020-05-03 06:09:25 | 歴史
シンガポール、そしてベトナムと、
着々と一路東洋へと向かうロシアのバルチック艦隊は、
世界中から注目され、それだけの大艦隊がこれほどの大遠征をなし得た事は、
人類史上初の偉業であり、それは敵であるイギリスさえも、
その偉業を褒めたたえたのでした。



そして、これから始まる世紀の一大決戦を、
諸外国は固唾を飲んで見守っていました。
しかし、大方の予想は、大国ロシアの大艦隊は、
きっと東洋の新興国である日本を打ち破るであろうと見ていました。
日本海軍はここ数年の経験しかない弱小海軍であり、
経験からも、その規模からも、とてもバルチック艦隊に勝てる筈がない。
それが大多数の諸外国の見解でした。



その決戦は間近に迫っていました。
日本とロシアは日露戦争の勝敗を決定づける決戦が、
このバルチック艦隊と日本の連合艦隊との海戦である事を、
お互いに十分に理解していました。

哨戒船、信濃丸からの第一報を受けた、
東郷平八郎大将率いる連合艦隊は、
午前6時05分、朝鮮の鎮海湾から出撃しました。
いよいよ決戦の時がきたのです。

哨戒船、信濃丸から監視任務を交代した、
巡洋艦(和泉・3000トン)は、
午前6時45分にバルチック艦隊を発見します。

和泉の石田艦長は、
万里の長城にも似た壮大な規模の大艦隊の陣容に慄然とします。



連合艦隊の旗艦は、戦艦三笠(15000トン)
東郷平八郎は三笠の露天艦橋に立っていました。

連合艦隊からロシアのバルチック艦隊の姿が捉えられる様になってきました。
その時、東郷提督は、
日本の駆逐艦・水雷艇、数十隻に対馬の港に引き返し待機するように命じます。
当時の駆逐艦は、わずか300トン程度の小艦。
水雷艇に至っては80トン程度しかなく、
その日は天気は快晴だったのですが、波浪が高く、
それらの小艇は波に翻弄され、今にも転覆しそうな姿で艦隊に必死に喰いついている状況だったのです。

しかし、彼等の士気は大型艦らに負けないくらい旺盛でした。
彼等は東郷提督の命令を受けた途端、ひどく落ち込みました。
「俺達はいったい何の為に海軍に入ったのだ」
「敵を眼前にして引き返せとは、あまりじゃないか!」
しかし、命令に背く事は出来ず、全員がしょんぼりと対馬に向かいました。

バルチック艦隊との距離はいよいよ迫ってきました。
東郷提督は、その時、これまた有名な言葉で全員の士気を鼓舞します。

「皇国の興廃この一戦にあり。各員一層奮励努力せよ」

バルチック艦隊38隻対、連合艦隊27隻の、
世界中が固唾を呑んで見守る世紀の大海戦が始まろうとしています。



バルチック艦隊の司令長官・ロジェストヴェンスキー中将が座乗するのは、
戦艦スワロフ(三笠と同じ15000トン)

しかし、その時ロジェストヴェンスキー中将は、
自分の人生で最大の、取り返しのつかない大失敗をした事に気づきました。
彼はどれほど後悔した事でしょう。

日本艦隊は2列縦隊で来ると予想していたのです。
なので、自分も2列縦隊でと考えたのです。
所が日本艦隊は1列縦隊で整然と突き進んで来るではありませんか。
自分たちも1列にしなければならないと、慌てて2列を1列にと、
艦隊に命令しましたが、左側の列は、右側の列を先に行かせる為に、
足踏みをし、殆ど停止する状態になってしまいました。

ロジェストヴェンスキー中将が、果たしてどう考えていたのかは、
誰も知りません。結局は永遠の謎になってしまいました。

日本艦隊、ロシア艦隊との距離は1万メートルを切り、
刻々と近づいています。

お互いの艦隊が、それぞれ敵を左側に見ながら、すれ違う形態で進んでいます。
「距離1万」
「距離8000」と計測員が叫びますが、
東郷提督は微動だにしません。

ロシア戦艦の主砲の射程距離に入ったというのに、
東郷提督はまるで動じずに動きません。
幕僚たちは東郷提督の沈黙にいら立っています。
砲兵たちは、「まだですか、まだですか」
「撃たせてください、撃たせてください」と必死に頼みますが、
発射命令が出ない事にはどうにもなりません。

距離が8000メートルを切った時に、
東郷提督の右手が高く上がりました。
幕僚たちは固唾を呑んでその行方に注視しました。

東郷提督のその手は左側に振り降ろされます。
その意味を悟った幕僚たちは、唖然としました。
あり得ない、信じられない事を東郷提督は命令しているのです。

敵を目の前にした今、東郷提督は左に急旋回し、
敵の眼前を横切って自艦の弱点である横腹を見せようとしているのです。

艦長が「取り舵(左旋回)ですか?」と幕僚長に訊きます。
そんな事していいんですか?嘘でしょ、という気持ちなんですね。
「そうだ取り舵だ」
そう言った幕僚長も、本当は信じられなかったのです。

敵に横腹を見せるというのは、
最大の弱点を敵にさらす、そういう事なのです。
それは絶対にやってはいけないとされていた事なのです。
それは、それまで海軍関係者だったら誰でも知っている、
誰もが、そう信じて疑いもしなかった事なのです。

「敵前大回頭」いわゆる「東郷ターン」が始まったのです。

日本海海戦を語るという事は、
このあり得ない「敵前大回頭」を語るという事でもあります。






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日本海海戦・・➃

2020-05-01 15:57:55 | 歴史
アフリカ喜望峰を回った本隊と、
スエズ運河を通った支隊とが合流できたまでは良かったのですが、
その間に中国では203高地が日本軍により占拠され、
203高地の眼下にある旅順のロシア軍も陥落してしまいました。

そうなると、日本軍と一戦を交えるのは、
バルト海からはるばるやって来るバルチック艦隊しかありません。
ロシアはその事態を憂慮して、
更にネボガトフ少将を司令官とする第三艦隊を、
ロジェストヴェンスキー中将の第二艦隊と合流する様に指示します。

それは、一刻も早くに日本軍との決戦に挑みたいと考えていた、
ロジェストヴェンスキー中将にとっては耐え難い命令でした。
しかし、本国、ニコライ二世の命令に逆らう事はできません。

2月15日。
ネボガトフ少将指揮の太平洋第三艦隊が、
バルト海のリバウ港を出港しました。

4月14日。
ロジェストヴェンスキー中将の第二艦隊はベトナムのカムラン湾に着きます。
その途中にはシンガポールがあり、
そこには沢山の日本人が駐留していました。
彼等は眼前を通過する、初めて見るロシアの大艦隊の姿に茫然として立ちすくみ、
こんな大艦隊に日本が勝てる筈がないと色を失ったそうです。
港から悄然として帰って行く日本人たちの姿を、
シンガポールの人達は哀れんだ目で見送ったそうです。

最初、ロジェストヴェンスキー中将は第三艦隊がこちらに着くには、
5か月はかかると踏んでいましたが、
意外に早く、
5月9日に第二、第三艦隊は合流を果たします。

バルト海を出港してから、7か月近くを、
アフリカの熱帯や、慣れない長期間の果てしない航海、
過酷な石炭補給の激務を過ごしてきた第二艦隊の兵士達は、
その頃、本国ロシアで芽吹き始めたロシア革命の噂などで、
疲れ切って士気は最悪でしたが、
それに比べ意気軒高な第三艦隊の出現に刺激され、
第二艦隊の兵士達の顔にも生気が蘇ってきました。



さて、ベトナム・カムラン湾から、
ロシアの軍港、ウラジオストックに行くには、3つのルートがあります。
➀ 日本と朝鮮の間の対馬を通る、対馬海峡ルート。
➁ 本州と北海道の間の津軽海峡ルート。
➂ 北海道と樺太の間の宗谷海峡ルート。

これの何処を通るのか、ロジェストヴェンスキー中将は、
ほんの数人の幕僚にしか教えませんでした。
各艦の艦長は誰もそれを知らなかったのです。
ロジェストヴェンスキー中将は、他人の言に耳をかすことはせず、
自分一人の判断で決定する事が司令長官としての自分の姿勢であり、
自分の頭脳と戦術思想に強い自信を持っていたのです。

勿論、日本軍でも、バルチック艦隊が何処を通るのかが、
最大の論点でした。
日本艦隊を3つに分ける、それは(敵に勝つ)為には無理です。
艦隊全部が一か所に集中して攻撃しなければ、
簡単に勝てる数の敵ではないのです。

しかし、東郷平八郎の気持ちは決まっていました。
周りの参謀などが心配になって東郷に尋ねても平気だったみたいです。

東郷平八郎は、あまりにも遠すぎ、あまりにも過酷な、
そして、あまりにも多くの艦船を率いてやってくる、
ロジェストヴェンスキー中将の気持ちを鑑みると、
おのずと答えは、最短ルートの対馬海峡以外はあり得ないと考えていたのです。

そして、その考えが間違っていなかった答えが、ありました。
バルチック艦隊の石炭補給船が上海に入港してきたのです。
それはロジェストヴェンスキー中将が最初に犯した失敗でした。
遠くの津軽海峡や、宗谷海峡を通る為には、
石炭補給は絶対に必要なのです。
その補給船を手放したという事の答えは、
最短ルートの対馬海峡を通るという事なのです。


ある日、沖縄・宮古島の漁師が船で釣りをしていました。
その近くをバルチック艦隊が通ったのです
バルチック艦隊からも、その釣舟を見ていたのですが、
日本人と思わず、中国人と見誤って何もしなかったそうです。

その漁師は「これがあのバルチック艦隊か」と、仰天し、
急いで宮古島に帰ってそれを報告しました。
宮古島は蜂の巣をつついた様な大騒ぎになりましたが、
それを日本軍に知らせる為には無線のある石垣島まで行かなければなりません。

5人の屈強な若者が選ばれ、石垣島まで約100キロ以上を、
15時間漕ぎまくり、港に着き、そこから更に30キロの山道を走って、
無線施設のある所まで行ったそうです。



かれらの勇気はその後、陽の目を見て、
宮古島に彼等を讃える(久松五勇士)の碑が建てられました。



しかし、彼等の勇気は無駄だったというと、気の毒なのですが、
対馬海峡周辺に張り巡らせていた多くの哨戒船の一隻、仮装巡洋艦・信濃丸が、
「敵艦見ゆ」の第一報を日本軍に知らせていたのです。

時に、5月27日、午前4時45分でした。

日本軍は対馬海峡周辺の無人島など200か所以上に監視員を置き、
海が荒れて食料補給が叶わずに、中には餓死した場所もあったそうです。



朝鮮半島南の鎮海湾に待機していた、
東郷平八郎率いる連合艦隊にいよいよ出撃の時がきたのです。

「敵艦見ゆとの警報に接し、連合艦隊は直ちに出撃、これを撃滅せんとす」
「本日天気晴朗なれども波高し」

有名な一文ですが、最後に「天気晴朗なれど・・」の一文を書き加えたのは、秋山真之。



「坂の上の雲」の主人公である真ん中白い服。
後に、この海戦の作戦立案者として名をあげた、参謀の秋山真之(さねゆき)中佐です。
この最後の一文を付け加えた事で、この言葉はとみに有名になりました。







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日本海海戦・・➂

2020-04-29 16:43:11 | 歴史


ロシア軍は段々うかうか出来ずに安全ではなくなった旅順港から、
自国の港であるウラジオストックへ艦隊を移動させようとしますが、
日本軍はそれを阻止しようとします。

日本海海戦の主役として登場する東郷平八郎大将の艦隊は、
1904年8月10日。
ロシア第一太平洋艦隊(旅順艦隊)と、黄海で海戦となります。(黄海海戦)



ウラジオストックを目指すロシア艦隊に日本軍は挑みますが、
お互いに撃ち合うとの東郷平八郎の見込みは外れ、
ロシア艦隊はウラジオストックに行く事しか頭には無かったのです。
日本艦隊は逃げるロシア艦隊を必死で追いかけます。
ようやく日本軍の射撃が功を奏し、旗艦に損傷を与えます。
それでウラジオストックに行く事をあきらめたロシア艦隊は旅順港に引き返したのです。
東郷平八郎の海戦にあたっての目論見は外れました。
この結果に東郷平八郎は満足してはいませんでした。

ウラジオスットック行きは阻止できたものの、
東郷平八郎は、この時の時の失敗を深く反省し、
後の日本海海戦では、その失敗を二度とせぬようにと頭に刻みこんだのでした。



日本軍に海でも陸でも負け続けるロシアは、
バルト海(スカンジナビア半島に囲まれた)のリバウ港から、
第二太平洋艦隊(バルチック艦隊)を遠い東洋のウラジオストックに送る事にします。

それは歴史上初めてとなる大艦隊の長距離遠征です。
地球の2/3を回る大航海なのです。
今までにそれほどの大艦隊がそんな遠くまで遠征した事などなかったのです。

しかも、当時の軍艦の燃料は石炭であり、
現在の重油(液体)と違って固体ですから、
燃料の補給には人海戦術でスコップでやるしかないのです。
それは大変な重労働です。



1904年10月15日。
バルチック艦隊はバルト海のリバウ港を出港しました。
司令長官は、ロジェストヴェンスキー中将。

しかし、バルチック艦隊にすぐに来られては困る日本軍は、
イギリスで製造した日本の水雷艇が、さも今にも攻撃するかの様な風説を流します。



こういった水雷艇は、100トンに満たない小艇ですが、
魚雷での攻撃力には例え戦艦といえども、あなどれないのです。
ロシア軍はこの風説にすっかり騙され、戦々恐々で、
安心して夜もゆっくり眠る事ができませんでした。

バルト海を出港してから、それほど経っていないある夜。
バルチック艦隊はイギリスの漁船群が操業中だった所を、
日本軍の水雷艇だと思い込み、漁船に向かって砲撃をしました。
漁船1隻が撃沈されてしまいました。

イギリスはこれに激しく抗議し、国際問題となります。
司令長官のロジェストヴェンスキー中将は、この事件に仰天しました。
しかし、元々仲の悪かったロシアとイギリスは関係を更に悪化させてしまいました。

11月3日、地中海入り口のタンシェで、
アフリカの喜望峰を回る艦隊と、スエズ運河を回る艦隊とに分かれます。

普通だったらスエズ運河を通れる筈の軍艦なのですが、
航海があまりにも長く、石炭を積めるだけ積み込んでいるので、
重みで喫水が下がって運河を通る事ができなかったのです。
スエズ運河を回る船は比較的軽い船だったのですね。

ロジェストヴェンスキー中将は、なるべく早くにウラジオスットックに着きたいと考えていました。
それは黄海海戦などで損傷しているであろう日本艦隊の、
修理が終わらないうちに戦いを挑みたかったからです。

1905年1月9日。
喜望峰を回った本隊と、スエズ運河を回った支隊は合流します。
本隊と支隊が地中海入り口で2つに分かれてからほぼ2か月。

ロジェストヴェンスキー中将の第二艦隊は、
後から来る第三艦隊を待つ為に、
アフリカの右側(東)のマダガスカル島で約2か月間をむざむざと過ごします。
寒い北国出身のロシア兵にはマダガスカルは耐えられない暑さでした。
脱走兵は出るし、発狂者は出るしで散々だったのです。

おまけに石炭補給には反ロシアのイギリス港が多くて近寄れません。
フランスも様々な事情でロシアの肩を持つ事は出来ず、
彼等は洋上で船から船への力仕事をせざるを得ませんでした。
これは兵士には過酷な仕事でした。

しかも、ロジェストヴェンスキー中将という人物は、
気に入らないと兵士の頭を長靴で蹴飛ばし怪我をさせる事など、
何とも思わないという性格の持ち主なのです。

当時のロシア軍は、上官と兵士の格差が著しく、
上官は威張りくさっているのが当たり前みたいな軍律でしたが、
そういった中でもロジェストヴェンスキー中将は恐れられていたのです。






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