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河童の歌声

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東洋の真珠・香港の黄昏

2020-07-01 11:31:33 | 旅行




香港が遂に国家安全法を施行する事になりました。
国家安全法という法律は、
日本に戦前あり、悪法の名と欲しいままにした、
(治安維持法)・・それの再現でしょう。
国家に背いた奴らを根こそぎ逮捕して、強制的に口を封じ込め、
黙らせてしまうという、まさに恐怖政治。

香港がイギリスの植民地から99年間の契約通り、
中国に返還されたのは1997年でした。

それから23年を経て、とうとう香港は完全な共産国家となりました。
最近、起こった香港のデモなどから、
共産化は避けられないとは感じていましたが、
やはり、と言うか、いよいよと言うか、
来るべき(時)は遂に来てしまいました。
残念ですが私達外国人には、どうにもなりません。

昔、香港は「東洋の真珠」と呼ばれていました。
東洋という世界の片隅の一点にしか過ぎないちっぽけな存在。
それだけに、光輝く存在であった香港を(真珠)と呼ぶ気持ちも判ります。







返還される前の香港は、本当に輝いていました。
あの狭い国は、ゴチャゴチャして、人によっては汚い国と思ったかも知れません。
しかし、そこにはどこか人を魅了する不思議なパワーがありました。







私は個人的には、あのゴチャゴチャした香港が好きでした。
大都会だとは思うのですが、
東京とは全然違った魅力がありました。
欧米の洗練された都市には、あまり魅力は感じないのですが、
如何にも東南アジア的なあの雰囲気が大好きでした。



腕時計だとかのブランド品を日本語で「にせもの・・にせもの」と、
あからさまに売ってくる、あの逞しい商魂が中国人的な発想で、笑えました。

香港の人達はみな、資本主義が好きで、
ある意味好き勝手に生きてきた人達ばかりです。
生まれてこの方、資本主義の世界で、生き馬の目を抜く人生をやってた人に、
今から共産主義をやれと言ったってそんなものは無理に決まっています。

本当に中国の共産主義は、どう仕様もないですね。
国家は大きければ大きい程いいと未だに信じている。
それこそがダメなんだという事が全然分っていない。

私は中国に1ヵ月あまりは滞在しましたが、
あの共産主義の中で生きなければ、生きられない人達の悲哀を、
痛いほど感じる事ばかりでした。
華南の広州や、華中の上海などはまだいいのですが、
華北の北京や天津のガチガチの共産主義には息が詰まりそうでした。

華北は(愛国)華中は(出国)華南は(売国)
北が国を愛していても、華中では、気に入らなければ国を出ればいい。
ところが華南では、気に入らない国など売り飛ばしてしまえ、ですからね~。
そのくらい同じ中国人と言っても気質は、まるで別国家みたいに違います。

国というものは、同じ主義の、一緒に住んでいて気持ちのいい人達と、
同じ生活をするのが最も理想的なんだという事を判ろうともしない。
香港の人達は一緒に住んでいて、気持ち良く暮らしていたんですね。
それを根底から覆して、今までとはまるで違う生き方をしろと命令しても、
そんなのは無理に決まってる。

折角、香港と言うある意味、理想的とも思えるちっぽけな世界。
それこそが最も理想的であった今までの香港という世界。
これをがんじがらめの共産国にするメリットなんか無いでしょう。

東洋の真珠は、そこらにある石ころに成り下がってしまいました。
もう香港に行く魅力などありません。
行くなら台湾が最も、古き良き中国を思う場所かもしれませんね。






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拝啓、建礼門院さま・・京都大原、寂光院

2019-12-04 18:49:26 | 旅行


今回の京都旅行は、
2019日本のうたごえ祭典京都に参加する為ですが、
私の心の中では、(建礼門院に逢いに行く旅)でもあったのです。

11月30日、
朝5時50分に家を出ました。
朝焼けの京王線・武蔵野台駅から、いざ京都へ。
日本のうたごえ祭典は別記の通りですが、



明日はいよいよ大原へ、
胸がときめきます。



ホテルを出ると河原町通りの街路樹が色づいていました。

大原へは、地下鉄で国際会館前下車。
そこからバスで25分の道のりです。
京都駅からは直線距離で15キロくらいありそうです。
帰りは大原から京都駅まで、ずっとバスで帰りましたが、
渋滞や乗降客の多さで1時間20分かかりました。
平安時代では、その距離は気が遠くなるくらい遠かったと思います。





道の脇にはこんな可愛い狸がいました。

寂光院といえば建礼門院(平徳子)

時の最高権力者は平清盛。
その最高権力者から、蝶よ花よと溺愛された徳子ほど、
我が世の春を謳歌した女性は居なかったでしょう。
その当時の身分制度からいっても、我が世の春なんて人物は誰一人も居なかったと思います。

建礼門院は17歳の時に6歳年下の高倉天皇と結婚します。
権力者たちの結婚に恋愛結婚などあり得ません。
6歳年下というのが政略結婚という事を示しています。

7年後ようやく子供が生まれました。
それが安徳天皇です。

しかし、最高権力者である父親の平清盛が、
建礼門院26歳の時に急死してしまいました。
それからが、建礼門院の地獄を見る悲しい人生となるのです。
それは、まさに天国と地獄を生きながら味わう悲劇となったのでした。

一の谷の戦い、屋島の戦いに敗れ、
平家はとうとう本州最西端、下関の壇ノ浦まで追い詰められ、
背水の陣で最後の戦いに臨みますが、
戦の天才、源義経に攻められ、断末魔を迎えます。







敗戦を悟り、いよいよ最後を迎えた平家一門はことごとく海に身を投げます。
建礼門院の母親、時子に抱えられ、安徳天皇は海に身を投げますが、
安徳天皇に「これから何処に行くのですか?」と問われた時子は、
「海の下にも都はございます」と言って最期を迎えます。

殆どが死んで行った中で、
建礼門院は身に着けていた衣服(十二ひとえか?)が浮力があった為に、
なかなか沈まずに源氏の手にかかって引き上げられてしまいます。

引き揚げられた建礼門院は、最初、京都の市街地の寺に預けられますが、
そこは騒がしくて静かな心になれないという建礼門院の願いで、
京都から遠く離れた大原の山里にある寂光院へ移ります。



建礼門院はお付きの女性幾人かと、この景色を見ながら、
細いあぜ道を傷ついた重い心で歩いていったのですね。



振り返れば京の都が見える(気がした)・・・
たった5年前には、自分は天国を謳歌していたのに、
今の自分には誰一人として身内は居なく、
ことごとく死んでしまったという耐えがたい事実のみ。
そして、これからの自分はそれを独りっきりで生きて行くしかないという現実。
29歳の若い女性には耐えられなかったでしょうね。
彼女の心を想うと本当に悲しい気持ちがしました。



寂光院の山門の前で。



寂光院前の柴漬け屋さん。
柴漬けは建礼門院が地元の人が差し入れてくれた漬物を気に入り、
柴漬けと名付けたという伝承があるそうです。





寂光院の境内です。



寂光院は2000年に心無い人の放火により本堂が消失してしまいましたが、
その後見事に再建され、
本堂の中には新しい建礼門院像が復元されていました。



境内で(お抹茶)を頂きました。
美味しかったというより、建礼門院の心に些かでも触れられたのかな?





苔が綺麗でしたね。



境内にある建礼門院ゆかりの井戸だそうです。



境内の鐘・・諸行無常の鐘。



寂光院への道には、こんな泉がありました。





道すがらは紅葉していました。



この庭を見ながら彼女は、全滅していった平家一門の人達を、
安徳天皇を弔いながら生きるしかなかったのでしょうね。



庭には可愛い合掌地蔵が居ました。





帰りがけに、このお店で昼食を。
妻は田舎御膳、私はキノコ蕎麦を・・



大原女(おはらめ)という装束がありますが、
大原は薪の原産地なので、薪を頭に乗せて京の都まで売りに行った衣装みたいですが、
また、建礼門院に仕えた阿波内待が山仕事をした時の衣装だとも言われているそうです。



1186年、平家が滅亡した1年後、
後白河法皇が突然、寂光院を訪れます。
後白河法皇は策略の限りを尽くした大天狗。
つまり海千山千の底知れぬ狸オヤジ。

平家滅亡の引き金となった法皇の突然の訪問に建礼門院は最初それを拒絶しますが、
ついにはそれを受け入れ法皇と最初で最後の対談をしました。
いわゆる(大原御行)です。
時に後白河法皇は59歳。
建礼門院は31歳でした。

建礼門院は39歳で亡くなったという説と、
58歳だったか(?)に亡くなったという説があるみたいですが、
真実は全て歴史の闇に埋没して真相はわかり様がありません。

祇園精舎の鐘の声で始まる平家物語は、
後白河法皇の大原御行があり、
建礼門院がこの世の無常を悟るところで終わっています。

祇園精舎の鐘の声。諸行無常の響きあり。
沙羅双樹の花の色、盛者必衰の理をあらわす。
奢れる人も久しからず、ただ春の夜の夢の如し。
猛き者も遂には滅びぬ、偏に風の前の塵に同じ。

たった数年の間に、天国から地獄へと突き落とされた若き女性、建礼門院。
彼女の心は如何ばかりだったでしょう。
語り合える身内、親族をみな失い、これからを生きねばならない人生。
その彼女の心を偲ぶ旅でもありました。




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大原三千院・恋に疲れた女が・・

2019-12-04 14:20:20 | 旅行
♬ 京都大原三千院・・と聞いて
そんな歌知らないという人の方が少ない、と思わせる、
それほど有名な歌だと思います。

作詞・・永六輔
作曲・・いずみたく

作曲の巧みさは言うまでもありませんが、
「恋に疲れた女がひとり」
の歌詞が良かったんだと思うのです。

そんな女なんて居ないよ。
そんな女がたった独りで京都の寺を訪れる・・ウッソー!
でしょ、普通はね。

歌というのはね、そういった現実とは異なった、
あり得ない世界を、ひょっとしてと思わせるという点が、
それが凡人の煩悩を狂わせるんだよね。

何かの標語と同じ、
チョッとしたひと言が審査員の心をくすぐるんだよ。
このコツさえ飲み込めば、標語募集で合格なんてカ~ンタンだよ、貴方。



ホテルから京都国際会館まで地下鉄で行き、バスへ乗り換え。
京都はこういったバスが走っているんだね。



京都国際会館からバスで大原に向かいます。
バス停から双眼鏡で見たら、向こうの山にはケーブルカーが見えました。
家に帰ってから調べたら、その山は比叡山でした。
そうです、比叡山延暦寺で有名な山だったんです。

そのバス停で、私は生まれて初めての経験をしました。
何だと思いますか?

バスを待つ行列で、私の前にいた女性・・身長180センチ超え。
私の後ろにいた女性・・身長180センチ超え。
どちらも中国人女性でした。
私は急に自分がとっても小っちゃく感じたんですね~。アハハ。



大原に行くバスでは、こんなバス停がありましたよ。
(野村別れ)
さて、いったいどんな物語が隠されているのでしょうね?
京都って歴史が歴史ですから、こういった言葉ひとつにも、思いを馳せてしまいますね。



途中「女ひとり」の歌碑がありました。
あまり目立たない歌碑には、
作詞者の永六輔の写真が貼ってありました。



三千院への道では紅葉がありました。





そして、何より土産物店が凄く多かった。
これが寂光院とは大違い。

さて三千院に着くと、恋に疲れた女が(着物に痩せぎすの女が)
たった一人でいましたとさ。
どこだどこだッ、出てこい女め(苦笑)





実は、大原観光は寂光院を先に行ったのですが、
寂光院が如何にも京都の風情を漂わせていたのに反して、
三千院はあまりにも、当節はやりの外国人が大挙しての今風だったので、
心情的にこっちを先に書いてしまいたくなったのです。





こういったのが「恋に疲れた女がひとり~」のイメージだよね。



なのに、太目の女がいくら一人っきりだったにせよ・・・
あ・・ゴメンね我が愛妻殿!



俺は、別に痩せぎすの憂いに満ちた女でなくても、
お前がいればいいと思ったのです。



フェイスブック友達の渡辺さん(なべちさん)が、
愛妻と息子さんの十数年前の写真を添付してくれましたが、



3年前、ガンで58歳の人生で亡くなってしまった渡辺明美さんの、
あの誰からも愛された笑顔を三千院の庭園を見ながら私は思い浮かべていました。
本当に、あんな素敵な女性が、三千院には最も相応しい女性でしたね。







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観光地ペナント

2019-11-13 05:52:30 | 旅行


NHKの人気番組「チコちゃんに叱られる」で、
先日、観光地でよく売っていたペナントの話をしていました。

実は私はそのペナントを若い頃は集めていたのです。
集めていたというか、初めての場所に行くと必ず買ってきたのです。

20代の頃は日本中をよく独り旅していましたが、
行くと必ず買いましたね~。
何がきっかけでそうなったかは覚えていないのですが、
段々と、ペナントを集めるのが楽しくなっていました。
買ってきては小さな私の部屋の壁にセロテープで、
ペタペタと部屋中に貼りまくって、それを眺めるのが大好きでした。



「チコちゃんに叱られる」で、
ペナントの歴史を初めて知りました。

昭和31年、公務員を脱サラしてタオル製造会社を設立した男がいました。
しかし、世間はそんな甘いものではなく、会社は倒産寸前。

そんな時、昭和33年、
たまたま行った野球場にたなびくペナントを見て彼はひらめいた。
彼が絵柄に選んだのは東京タワー。
これが大ヒットし、以後、観光地に土産物として定着していったそうです。
まあ、当時はカメラさえあまり持っている人は少なかった時代ですから、
カメラ替わりに人々は買ったみたいです。



ペナントが土産物屋から姿を消したのはいつだったのか?
今では完全に見なくなってしまいました。

絶滅した原因はカメラ(スマホ)の普及と、
部屋の壁がペンキ塗りから壁紙へ変わった事があった様です。

私の部屋のしっくいの壁にセロテープでペナントを貼っていたのですが、
それを剥がすとセロテープの跡が壁にしっかりと刻まれていました。
その痕跡は見苦しい様になって残りました。

しっくいが壁紙に変化すると、
もうセロテープでは粘着度の関係で、簡単には貼れないでしょうね。

私は多分、100枚以上は持っていたと思います。
数えた事はある筈なんですが、もう忘れてしまいました。
積み重ねると高さは50センチはあったと思います。
しかし、ペナントを集めると、
部屋中が金粉だらけになるのです。
ペナントというのは、あちこちの絵柄に金粉がまぶしてあるのですね。

まあ、ある意味、一世を風靡した土産物ではありました。
とっても懐かしい思いで、若き日の独り旅を思い出します。



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伊豆・今井浜のペンション

2019-02-26 11:11:34 | 旅行
下田の歌声に泊りで行こうとなったのですが、
そうなると、まずは宿の確保です。



私達がネットで探して(ここに泊まりたい)と思ったのが、
花と貸し切り温泉の宿・・ビーチサイド100でした。
ここは人気の河津町からひとつ東京寄りの(今井浜海岸)駅。
そこから山に登っていった場所です。
何がそんなに気に入ったのでしょう?
謳い文句にある様に、まずは貸し切り風呂と食事です。



貸し切り風呂は3か所あり、これは展望風呂。
この隣にも同じ造りの風呂があり、どちらも広かった。



こちらは展望はありませんが、花が売りでしょうか。





夕食はやっぱり良かったですね。
金目鯛はトロトロで、本当にとろけそう。
追加料金で更に豪華料理もありますが、
私達の歳になると、もうこれ以上は食べきれませんね。



これが私達の泊まった部屋ですが、
他のペンションに比べて灯りがとても明るい。明る過ぎるくらい。



部屋からは海が見えました。



ロビーにあった七福神。可愛いね。



朝食はパンの洋食です。
レストランは海を眺めながらの明るい部屋でした。

ペンションの回し者みたいなブログですが、
ここは本当に良かった。
オーナーの婦人は、亡くなられたご主人が40年くらい前だったかに、
脱サラでペンション経営を始められ、
御主人が亡くなられた後は、娘さん夫婦と共に経営されているそうです。

その家族たちが実にソフトで心の温かさがよく分かるのです。
何度もペンションには泊まりましたが、
みな、どこでも一生懸命やっているんですが、
人手が足りなくて対応に不備があったりとかも中にはありました。
たった2人でやっていて、客との会話がまるで至らない所もありました。

そういった体験を積んできましたが、ここはやっぱり良かったな~。
また来れるかどうかは分かりませんが、
もし伊豆に来る事があるなら、またここに泊まりたい。






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