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河童の歌声

歌声喫茶&キャンプ&ハイキング&写真&艦船

旅行に生きた女性・兼高かおる

2021-07-25 11:02:58 | 旅行
ビクター・ヤング 80日間世界一周


兼高かおる 1928年(昭和3年)~2019年(平成31年)享年90歳
日本旅行作家協会名誉会長



神戸市に生まれ、その後東京に移住、香蘭女学校卒業。
(香蘭女学校は洗足の我が家から直線で200メートルに在りました)
その後渡米し、ロサンゼルス市立大学へ留学。



1958年(30歳)
 スカンジナビア航空が主催した世界早回りに挑戦し、
 73時間9分35秒の(当時の)新記録を樹立しました。

1959年(昭和34年)31歳より、
 TBSのテレビ番組「兼高かおる世界飛び歩き」
 後に「兼高かおる世界の旅」のレポーター、プロデューサー、兼ディレクターを務める。

1986年(58歳)
 横浜・山下公園にある(人形の家)館長を2006年(78歳)まで就任。

簡単に書くとこれが兼高かおるの人生でした。

兼高かおる世界の旅 OP


TBSテレビが日曜日の午前中に放送した「兼高かおる世界の旅」は、
1959年から1990年までの31年10か月放送され、
日曜日のまどろんだ朝はこの音楽、映像を観ないと始まらない、
そういった年月はいつまでも変わらない家庭風景でした。

彼女が世界を旅した国は150か国を超え(現在の国数は196か国)
その全行程は721万キロ(地球180周)にも及びました。
これは空前絶後の数字だと思われます。
今後、彼女の記録を破る事はまず不可能だと思います。



と言うのは、男性ならいざ知らず、
女性だと結婚して子供でも居たらまず無理。
(彼女は生涯独身でした。10代の頃中国人男性とのロマンスもあったとか)
しかし、その後彼女は、結婚の意味が分からないと言ったとか。

また、何か他の仕事をして世界を駆け巡ろうが、
旅行そのものが仕事であった彼女には所詮敵いません。
そして何より、テレビ局が31年間の長期に渡って、
今後そういった番組を作るかとなると、甚だ疑問ですね。



彼女が移動した距離721万キロを超える人は何人も居ます。
飛行機のパイロットです。
ですが、世界一と言われるらしいパイロットは、
最大飛行時間は2万5000時間。
2万時間を超えるパイロットは殆ど数えるほどしか存在しないみたいですが、
仮にジェット旅客機の巡航速度を時速900キロと仮定すると、
2万5000時間では、その距離は2250万キロ。
地球を562周しますが、それは単に移動した距離であり、
諸外国を歩いた訳ではないのです。

なので兼高かおるの世界150か国以上は、
今後も破られる事はほぼあり得ない金字塔かと思われます。

世界旅が始まった当初。
当時の日本人にあまり馴染みの無かった世界を駆け巡り、
その風俗、文化、歴史などを海外取材番組などありませんでした。
兼高かおるは、非常に美しい日本語を話し、
海外の人達に日本の文化の伝承者として素晴らしい存在の女性でした。

協賛は今は無き、パンアメリカン航空。
懐かしいですね、海外旅行の華やかな世界を代表する存在だった航空会社でした。



しかし、彼女は嫌味のない、やや高貴な香りのする、
まっしぐらな、それでいてインド人とのハーフというエキゾチックな顔の美人。
胸をときめかせた男性は星の数ほどいたのでしょうね。

とても素晴らしい番組だったし、とても素晴らしい女性でした。
あの「80日間世界一周」のメロディーを聞くと、
日曜日午前中の、夢の様だった世界旅行を思い出します。


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金色夜叉

2021-01-23 06:21:40 | 旅行
金色夜叉 ♪東海林太郎・松島詩子




歌声バス旅行で熱海へ行ったのは2013年6月でした。
ホテルに泊まった翌朝、
数人の仲間達と、熱海の海岸へ散歩に行きました。

熱海の海岸と言えば、
これぞ「観光地・熱海」の一枚看板(寛一お宮の像)があります。
熱海と言えば、誰もが知ってる(寛一お宮の像)





寛一お宮は、尾崎紅葉の代表作「金色夜叉」の主人公。
しかし今、金色夜叉という言葉の意味をどれだけの人が知っているのでしょうか。
金色というのは(お金)の意味であり、
夜叉は、亡者(もうじゃ)・・金銭に取り付かれた人。

寛一の恋人お宮は、金銭の為に寛一を捨てて金持ちの下に嫁いで行った。
怒り狂った寛一はその無念さを、
「今月今夜のこの月を俺の涙で曇らせてみせる」と、
自分を金の亡者にさせ、金の為なら何でもする鬼となって金持ちになり、
自分を見捨てたお宮を見返すのでした。

この本の著者は、尾崎紅葉(1868~1903)であり、
1897年(明治30年)から1902年(明治35年)まで、
新聞に連載され、大人気となります。
しかし尾崎紅葉は胃がんに侵され、35歳の若さで亡くなってしまいます。
金色夜叉は未完のままで終わってしまったのでした。



熱海と言えば金色夜叉。
金色夜叉と言えば、寛一お宮、とまでは知っていても、
その先の事は殆ど知らないという人が多いのではないでしょうか?
でも、そういった事はよくある事ですね。

先日のブログ「坂田山心中・天国に結ぶ恋」もそうなんですが、
時代ですね、これは明治時代だからこそであり、
これを現代に当てはめ様としても、中々理解されないと思います。

この明治時代の名作「金色夜叉」を現代の人がどれだけ読むでしょう?
この時代の文学書は実に読みにくいのです。
私も、名前だけはよく知っていても、この本を読む事はないでしょう。

一時は凋落する観光地の代表みたいに言われた熱海ですが、
最近は昔とは違った楽しみ方が見直されて、息を吹き返している様ですね。



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みどりの雨

2020-12-06 15:15:15 | 旅行
みどりの雨(昭和28年)藤山一郎


私の提案で、母と二人で1泊の箱根旅行に行ったのは、
私がまだ結婚してなかった頃だったので、
多分、30代半ばくらいだったのかも知れません。
何しろ最初の結婚は40歳という超晩婚でしたから。

当時は横浜に住んでいたので、
よく覚えていないのですが、湘南電車のグリーン車に乗ったのは覚えています。
母は私より30歳上なので、60代半ばという事です。

芦ノ湖畔を歩いていたら母がいきなり口ずさんだのが、この歌でした。
私はそのメロディーだけは知っていましたが、
唄った事などなく、歌詞も知る由がありません。
でも、母が「息子との二人旅」を楽しみ悦んでいる事が嬉しかった。

何で車で行かずに電車でいったのかは覚えていません。
多分、電車のボックス席の方が「旅」をゆっくり楽しめると思ったのでしょう。

その旅の写真が在ったのかどうか?
整理などしていない古い写真を探せばあるのかも知れません。
ただ、箱根旧街道で撮った写真を覚えているのです。

タクシーをフルに活用しての箱根路でした。
遊覧船に乗ったのかな~?
何処の宿だったかも全然記憶になし。
同じ部屋で母と寝るのも、何か懐かしさみたいな感覚があって良かった。

翌日は、何故か鎌倉に行きました。
文学館みたいな所に行ったな~。
今だったら写真を沢山撮ったと思うのですが、
三脚など持って行かなかったし、殆ど撮っていなかったみたいで。


歌声喫茶で、ある時この歌が載っているのに気づき、リクエスト。
みんなで唄ったのですが、
「みどりの雨」と聞いて、殆どの人が「どんな歌だろう?」
唄い始まると、「この歌聞いた事がある」といった人もいましたが、
あまりヒットした歌ではなかったみたいで、
それほどは受けませんでした。

私も自分では殆ど唄った事がないので、
歌詞づけが出来ていなかったりですが、
何十年も前の母との箱根を思い出して、とても懐かしい気持ちになります。



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五右衛門風呂

2020-10-09 12:36:50 | 旅行
五右衛門風呂を知らない人・・多分知らない人の方が多いと思います。
私は一度だけ入った事があるのです。

もう40年くらい前だったか、
義兄に頼まれて義兄が育った家(熊本・阿蘇)へ、
紫檀の家具などを引き取りに行った時でした。
義兄の話では、今ではあまり見る事も無くなった紫檀の家具は高価で、
恐らく数百万円はするだろうという事でした。

何日か前に福岡のレンタカー会社に、
〇〇日に車を借りに行くから手配をよろしくと電話をして、
当日、私は飛行機で福岡に行きました。
所が行ったら車の手配をしていないというチョンボ。
既に横浜から飛行機で来てしまっているので、
大あわてで車を準備していました。



荷物は大きく、数もそれなりに多いので、
こういったワンボックスを借りました。
それに乗って熊本まで九州自動車道で向かったのですが、
関東と違ってあまりの交通量の少なさには驚きました。

今と違ってナビなど無いのですから、
あらかじめ義兄に詳しい地図を描いてもらったのを見ながらの走行。
何とか辿り着いたのは阿蘇外輪山の内側に位置する、
確か、高森という場所でした。

家は昔ながらのとても古い造りでした。
家人が遠い横浜から来た初対面の私を歓迎してくれたのですが、
もうあまり記憶が無いのです。



夜になって、さあお入り下さいと言われて入ったのが五右衛門風呂。
こんなタイル貼りの新しい造りではなく、古色蒼然たる造り。
風呂に浮いている板は外すのではなく、
それを踏んずけて入らないと足の裏を火傷してしまうんだそうです。
しかし、周囲の鉄はそんな心配はないのですね。
いい経験でした。
今後、五右衛門風呂に入る事なんか絶対に無いと感じていましたから、
ゆっくり味わいながら入らせて頂きました。







黒ずんだ家の壁に、
誰の物なのか、昔着ていたと思われるセーラー服が掛けてありました。
それは実に写真的に写欲をそそられるシーンで、
私は角度を替えて何枚も写真を撮りました。

家の庭には4.5メートル四方の池があり、
こんこんと水が湧き出ています。
義兄の父親は戦争から帰還した時に、
ものも言わずに、その湧き水をガブガブと飲み続けたそうです。

翌日、家具類一切の積み込みを終わった私は、
川崎行きのフェリーが出る、宮崎県・日向港を目指しました。





途中、立ち寄ってボートに乗ったのが有名な、高千穂峡。
素晴らしい所でした。



宮崎・日向港から乗った船は、
今とは写真も違っていますが、12000トンくらいの、
大型のカーフェリーでした。
夜に出港して翌日に川崎に到着です。
外洋に出ると噂通りの快速、24ノット(時速44キロ)
かなり速いなと感じました。

船に弱い私は酔い止め薬を買うのも忘れていたのですが、
全然、船酔いする事無く川崎へ着いてしまいました。

さて、その翌日、
車の家具類を横浜高島屋の査定員に見て貰いました。
数百万円になる筈だったのに、
現実は厳しく、百万円にも行かなかったのでした。
査定員に「いい物を見せてもらいました。またありましたら宜しく」
などと慰めともつかない言葉をかけられたのでした。
まあ、そういったもんですね、よくある事です。




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宮古島のコータ君は今・・

2020-09-08 12:23:04 | 旅行
14.11.15.おじい自慢のオリオンビール・エイサー太鼓


ユーチューブをあちこち観ていたら、たまたま知った宮古島の民謡居酒屋うさぎ屋。
これは面白い、この店に是非行ってみたいと、
はるばる飛行機で行ったのは、2014年11月の事でした。







夕方になってホテルから歩いて5分の、うさぎ屋に行きました。
すると、居ました居ました、ユーチューブで観た、重ちゃんが。
体重140キロの名物歌い手です。
その隣に居た細身の若い男性がコータ君。

高校の修学旅行で沖縄に来た時に、民謡居酒屋うさぎ屋を知ってから、
虜になってしまい、矢も楯もたまらずに、
高校卒業と同時に宮古島うさぎ屋に飛び込んでしまったという、
情熱的な、神奈川は津久井湖だったかの近くで育った男性でした。

14.11.15.仲間由紀恵のいとこヒデちゃん・うさぎ屋


またコータ君と一緒に太鼓を叩いていたのは、
仲間由紀恵さんのイトコだというヒデちゃん。
指笛が上手い、これも若い男性。

しかし、最近のうさぎ屋の動画を観ると、
コータ君の姿はなく、ヒデちゃんも2年くらいまえから姿を観ません。
どうしているんだろうな~、コータ君は。
お店から遠くない海のそばのチョッと高いマンションに入ったと言ってたけど、
彼女が出来て結婚でもして職を変わったのだろうか?
それとも地元・神奈川に帰っているのだろうか?







あの思い出深い宮古島へもう一回行ってみたいけど、
現実的にはもう行く事はないだろう。
でも、ホントにコータ君が気になるのです。



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