goo blog サービス終了のお知らせ 

河童の歌声

歌声喫茶&キャンプ&ハイキング&写真&艦船

軍艦と一般船舶との違い

2024-05-31 16:24:05 | 軍艦
軍艦というのは、字のごとく軍(軍隊)(戦う)為の船舶であり、
その為の強力な(兵器)を備えています。
一般船舶とは、戦う事と無縁な船舶全体を言います。
あらゆる貨物船、客船、など広範囲に及びます。

軍艦が大砲、魚雷、ミサイルといった兵器を備えている事は、みんなが知っている事と思います。
かたや軍艦が兵器を備えている以外に、
一般船舶と圧倒的に異なっている点・・それは知らない人が殆どだと思いますが、
軍艦には防御力があるのです。
防御力とは何なんでしょう?
それは装甲板を備えているという事です。

格闘技をやっている人が、そんな事とは無縁の、ただ体格がいいだけの男だったら、
彼をやっつける事など簡単な事です。
しかし、相手がいくら小さい男でも、格闘技を経験している男だったら、
彼を倒すには難儀するでしょう。

一般船舶は装甲板などまるで備えていませんから、
敵からの攻撃(大砲、魚雷、ミサイル)を撃ち込まれると、簡単に沈没してしまいます。
例え20万トンの豪華客船であろうが、たった1本の魚雷で沈没してしまうのです。
しかし、これが軍艦だと装甲板の存在によって、簡単には沈まないのです。



よく言われる例えに、
「現代のミサイル艦と、戦艦大和が戦うとどっちが強いか?」があります。
戦艦大和の主砲弾の到達距離は42キロです。
かたやミサイルの到達距離は、その比ではない遠距離です。
ミサイル艦は、戦艦大和から攻撃される42キロの射程外から大和を攻撃できます。
それは一方的なワンサイドゲームです。
しかし、ミサイルは遠距離を正確に攻撃できる能力はあっても、戦艦大和を撃沈する事は出来ません。
ミサイルの破壊力では戦艦大和の防御板を撃ち抜く事が出来ないからです。
戦艦大和の防御力の凄さは圧倒的でミサイルでは歯が立ちません。
逆に42キロ以内のミサイル艦だったら、簡単に大和に撃沈されてしまいます。
が、それほど近づく前に、ミサイル艦は高速力で逃げてしまいますから、海戦にはなりません。



軍艦の中で最も強い防御力を持つのは戦艦ですが、
逆に最も低い軍艦に駆逐艦があります。
駆逐艦は日本海軍では(ブリキ艦)と呼んでいましたが、
これはアメリカ海軍も同じ様に(ブリキ艦)と呼んでいたのです。
なにせ、駆逐艦の船体は厚さ数ミリという薄い部分もあり、
拳銃で沈める事ができると言われるほど、軟弱、使い捨ての軍艦だったのです。
日本海軍の「軍艦」の艦首には、菊のご紋章がありますが。
駆逐艦にはこれがありません。
つまり日本海軍は、駆逐艦を正式な軍艦としては認めていなかったのです。



戦艦大和が出現する前に、欧州最強、世界最強と言われたのが、ドイツ戦艦ビスマルクでした。
42000トンのビスマルクは、その39パーセントを防御力にしていました。
16380トンが防御の為に使われているのです。
ドイツ艦は攻撃力より、防御力を重視していましたが、39パーセントという数字はトップです。



世界最大の戦艦・大和の防御力はビスマルクには及ばず、33パーセント。
しかし、65000トンの33パーセントですから21450トンだったのです。
戦艦大和から防御板を取り省いたら、
全長263m、全幅38,9mの船体は43550トンとなってしまうのです。
この防御板の厚みは、船体の真横で41センチという分厚い物でした。



また大和の、世界最大の18インチ(46センチ)主砲の前面の防御板の厚みは、
65センチもありました。
この砲塔1基で3000トン、一般的な駆逐艦(2000トン)の、
1,5倍の重さがあるのですから、物凄いものですね。



また大和には鐘楼(最も高い塔の部分)の下の方には、装甲司令塔があります。
普段はもっと高所にある艦橋で指揮を執りますが、
いざ海戦が始まると、装甲板の無い艦橋は危険なので、
下部の装甲司令塔に指揮官たちは入り、そこから指揮を執るのです。
そこは厚さ50センチの鋼板に覆われて安全なのですが、
細くて狭いのぞき窓から周囲を見渡すので、指揮を執りにくいという欠点があります。



日露戦争の最終決着、日本海海戦では、
東郷平八郎司令長官は、そういった装甲司令塔の欠点を嫌がり、
部下たちが「長官、司令塔へ行きましょう」という助言に反して、
露天艦橋(吹き曝しの丸裸状態)に立ち続け、世紀の大海戦の指揮を執ったのです。


有名な、戦艦ビスマルク追撃戦では、
ドイツ戦艦ビスマルクと、イギリス戦艦プリンス・オブ・ウェールズ、
それと巡洋戦艦フッドとの1対2の海戦が勃発しました。





ここで(巡洋戦艦)という艦種が登場します。
これはイギリスのフィッシャー提督が提唱した「速度は最大の防御なり」から造られた艦種です。
最高のスピードを出す為には最高出力のエンジンを積まなければなりません。
そのエンジンは高価格であり、広いスペースを必要とします。
そのスペースを確保する為に、防御板を薄くして重量を浮かせたのです。
それが失敗であった事は歴史が証明する事になりました。

第一次世界大戦最大の海戦、ジュットランド海戦で、イギリスの提督ビーティーが、
「私らの艦はどこかがおかしい」と言わせた原因が、巡洋戦艦の防御力の弱さでした。
イギリスの巡洋戦艦はドイツ艦からの攻撃に、簡単に撃沈されていったのです。

そして巡洋戦艦フッド。
彼女もビスマルクからの攻撃に、たった1発の主砲弾命中により薄い防御板を撃ち抜かれ、
火薬庫が大爆発を起こし、轟沈してしまいました。



フッド無き後、残された戦艦、プリンス・オブ・ウェールズですが、
彼女の艦橋に装甲司令塔はありませんでした。
そこにビスマルクの主砲弾が命中し、艦長以外の殆どが死傷し、
まともな指揮が出来なくなってしまいました。
重傷を負って逃げ去るプリンス・オブ・ウェールズをビスマルクは追いませんでした。
これが第二次大戦中、最も惜しかった点だと断定する専門家もいます。
もし追撃していれば、彼女は生き残れなかった筈です。


護衛空母という第二次世界大戦中に新しく出来上がった艦種があります。
設計から新しく造り上げる正規空母と違って、
現存する一般船種(貨物船だったり客船だったり)を改造して造るのですから、
建造費は安く、建造期間も短く、簡単に建造できたのです。
しかし、この防御力を持たない空母(もどき)が、歴史を塗り替える大活躍をしたのです。
いくら防御力が無かろうが、使い方で大活躍をした事には、驚愕です。

軍艦という艦種は(全部ではないですが)防御力を持っています。
それが一般船舶とまるで違っている点なのです。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

日本にしか無かった、航空戦艦

2024-03-17 06:42:18 | 軍艦
軍艦の中で最強を誇るのは、
敵艦との激しい殴り合いに耐える事の出来る、戦艦が最強です。
しかし、最強の戦艦であっても、空母には敵いません。
空母と言う艦種は防御が脆弱で、戦艦との殴り合いには、
全く弱く歯が立ちません。
ですが、空母から発進する航空機の威力は、
桁外れの強さを持ち、戦艦はそれには敵わないのです。

だったら、最強の戦艦と、それ以上の能力を発揮する、
空母を一体にしたら、もう手が付けられない強さとなるでしょう。



戦争物の漫画とかには、如何にもそれっぽい航空戦艦が描かれています。
果たして、航空戦艦は本当に最強の軍艦だったのでしょうか?
その答えを知っているのは、実際に航空戦艦を持っていた日本だけです。



1915年、日本初の超ド級戦艦、扶桑が完成しました。
しかし、この戦艦は日本海軍の大失敗作だったのです。
36センチ砲、2門×6基で12門という攻撃力を誇りました。
しかし、6基もあるという点が、ボイラー面積を奪い、低速戦艦となってしまったのです。
これを4基にして高速力を持った方が良かったのです。

これより少し前に造られた、イギリス製、戦艦金剛がこれでした。
ですから金剛型はその高速ゆえに第二次大戦で大活躍できたのです。

さて、扶桑型戦艦は2番艦として山城が造られ、
3番艦は伊勢、4番艦は日向だったのですが、
扶桑型の失敗を見た軍は、伊勢と日向を扶桑型とは少し違った設計にしました。



主砲の配置を、2+1+1+2=6基だったのを、
2+2+2=6基としました。
これでボイラー面積を稼ぎ速力アップにしたのですが、
それほど劇的アップにはならず多少はまし程度でした。
逆に兵員の居住スペースが狭くなって、兵員たちを苦しめる事になったのです。

1942年(昭和17年)
日本軍はミッドウェー海戦で大敗北を喫し、虎の子の大型空母4隻全部を失ってしまいました。
色を失った海軍は、急遽大型空母を建艦しなければならなくなったのですが、
資金も時間もそんな余裕は何処にもありません。
そこで目を付けたのが戦艦伊勢・日向でした。
あまり役にも立っていなかったからです。
最初は戦艦としての構造物全てを撤去して、完全なる航空母艦にしようとしたのですが、
それには1年半くらいの時間が必要です。
そういった状況の時、ミッドウェー海戦の少し前、
戦艦日向が射撃練習中に5番砲塔で大事故を起こし、使用不能になっていたのです。
海軍はそれを見て、伊勢、日向の2艦の主砲6基のうち、後部2基を撤去し、
航空甲板にして航空戦艦にする事を決定しました。



資金も工期も短縮されて、一応は空母としての活躍が期待されました。
しかし、見て分かる様に航空甲板は短く、航空機がこの短い甲板から飛び立てるとは思えません。



発進はカタパルトと呼ばれる、火薬の爆発力による急激な発射で行われました。
カタパルトは2基あったので、比較的短時間で全航空機の発進を行う事ができました。
ところが、困った事に、飛行甲板の短さは、
出撃していった攻撃機を自艦に着艦させる事ができないのです。
ではどうするか?
他の空母の甲板を借りて着艦するか、陸地の飛行場まで飛んで行くしかないのです。
しかし、そういった問題は全く起こりませんでした。
というか考えようにも、考える必要が無かったのです。

と言うのは、この限られた短いスペースに最適の航空機は、
限られた機種しかありません。
「彗星」と「瑞雲」でした。
しかし、これらの開発が遅れたのと、搭載される前に、台湾航空戦が始まり、
彗星と瑞雲はそれに駆り出されて居なくなってしまったのです。

搭載機が1機も無いままに、2隻の航空戦艦はフィリピン沖海戦に出撃したのです。
結局これが彼等の最後の戦闘になり、以後は呉軍港から動けないままでの終戦。

無駄など出来ない時間と資金を注ぎ込んでやっと造ったのに、
結局は航空戦艦の意味は全く発揮できないままの、悲劇的な末路でした。

戦艦の攻撃力、防御力。航空母艦としての航空機の活躍。
絵に描いた餅だったのです。
航空戦艦は、やはり漫画の世界の絵空事だったのですね。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

世界の戦艦、そのお国柄

2024-03-14 12:51:32 | 軍艦
戦艦という艦種は、あらゆる軍艦の頂点に立つ軍艦です。
しかし現在は航空母艦が、軍艦の頂点にと変わっています。
しかし、航空母艦という艦種は、己の能力が頂点というのではなく、
そこから飛び立つ航空機の能力が桁違いに強力である故な頂点なのです。

軍艦という、船としての頂点はやはり戦艦なのですが、
それは絶滅危惧種であり、現在生き残っている戦艦もあるにはありますが、
もはや過去の遺物状態です。

軍艦好きな私には、やはり第二次世界大戦時の戦艦こそ憧れであり、
巨砲を空に向けた勇ましい姿は、航空母艦の強さとは別物に感じるのです。
そういった戦艦なのですが、
そこには各国の思い入れ、お国柄といったものを感じます。

戦艦を持っていた国というのは意外に少ないのです。
イギリス・アメリカ・ドイツ・日本・フランス・イタリア・ソ連・
トルコ・ギリシャ・ブラジル・アルゼンチン・チリ・この12国だけなのです。
ーーーーーーーーーー
まずはイギリス。
この国こそ様々な画期的な戦艦を生み出した最先端を行く国でした。
ドレッドノート、これは第一次世界大戦前に生まれた戦艦で、
第二次大戦時にはもうありませんでしたが、
この戦艦があまりにも画期的過ぎて、時代を変えてしまったほどでした。



ウォースパイト、これは第一次大戦時に生まれた旧式戦艦でしたが、
その大活躍は、第二次大戦最高と讃えられた幸運な戦艦です。



ネルソン級は、ワシントン軍縮条約(35000トン)をきちんと守った戦艦ゆえ、
主砲の全てを前方に集中するという、不格好なスタイルとなったのです。



キングジョージ5世級も軍縮条約を忠実に守ったのですが、
ドイツのビスマルク級に対しては非力は否めませんでした。

イギリスは実質的で手堅い戦艦だったと思います。
ーーーーーーーーーー

次にアメリカ。


ノースカロライナ級



サウスダコタ級
これはノースカロライナ級戦艦と同じ攻撃力ながら、
全長を短くして防御力を強力にした戦艦でした。



アイオワ級、これがアメリカ最後の戦艦で、
その攻撃力、防御力は大和とどっちが強いかと議論対象になったりします。
そして全体的なシルエットが大和と似ていると言われます。

アメリカは攻撃力、防御力共に優れた戦艦を生みました。

ーーーーーーーーーー

ドイツ。


シャルンホルスト級



ビスマルク級

ドイツ戦艦は攻撃力より防御力を重視していたので、
敵からの攻撃に非常によく耐え抜きました。
そして、流麗なスタイルを誇っていました。

ーーーーーーーーーー

フランス


ダンケルク級、中型戦艦。



リシュリュー級、大型戦艦。

フランスは2級共に、主砲を前部に集中するという戦艦でしたが、
早々とドイツに降伏してしまったので、活躍の場はありませんでした。

ーーーーーーーーーー

イタリア。


コンテ・ディ・カブール級中型戦艦



リットリオ級大型戦艦

イタリアは丸っこいスタイルで、あまり強そうに見えないのですが、
実際、イタリア海軍ほど弱い海軍はありませんでした。

ーーーーーーーーーー
ソ連


マラート。
ソ連には第一次大戦時の旧態然としたマラートだけでした。
戦艦大和にも匹敵する様な超大型戦艦を立ち上げたのですが、
当時のソ連の造艦技術では、完成は無理だったとも言われています。
この艦は結局完成を見ませんでした。

ーーーーーーーーーー

日本


山城(扶桑級2番艦)



金剛級3番艦、榛名

日本の戦艦が世界の戦艦と大きく異なるのは、鐘楼の高さです。
とにかく高過ぎる、違法建築と言われる所以です。
そして防御力より攻撃力を主体に考えられていました。



世界最大の戦艦・大和についてはあまりにも有名なので、今更です。
晴天時にこれに敵う戦艦はいませんでした。
荒天時になるとレーダー能力でアメリカの方が上でしたから。

ーーーーーーーーーー

さて、残りの5か国、
トルコ・ギリシャ・ブラジル・アルゼンチン・チリについては、
イギリス、ドイツ、アメリカなどから購入した戦艦。
それも旧態然とした能力の低い艦ばかりです。
そういった意味ではソ連も同じですから、
第二次大戦を戦える戦艦を持っていたのは、6か国しかなかったのです。

その中で、今でも戦える能力を持つ戦艦がある国は、
アメリカ1国だけになっています。
それも、あと何年生き延びる事ができるか?
まぁ時間の問題でしょうけど。


コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

軍艦の名前

2024-02-22 05:43:36 | 軍艦
第二次大戦時、日本軍艦の名前はどういったルールから名付けられたのでしょうか。

「戦艦」・・・・これは旧国名から採っています。

     第二次大戦前、日清戦争や日露戦争時の戦艦名は、
     松島・厳島・橋立(この3艦は三景艦)と呼ばれていました。    
     そして、富士・八島・敷島・朝日・初瀬・三笠・河内・摂津などがありました。

     しかしそれ以後は旧国名から名付けています。
     
     金剛(1913年製・・これが最後の外国製戦艦でした)
     比叡・榛名・霧島
     これら4艦は旧国名ではなく、山の名前が付けられています。
     それはこの4艦は、本来、巡洋戦艦として設計された物だったからです。  
     「巡洋戦艦」という艦種は、戦艦と同じサイズの軍艦ですが、
     (イギリスのフィッシャー大将が提唱した、速力は防御力になり得る)
     に基づいて造られた戦艦でしたが、後にこの考えが誤りであった事が証明されます。
     
     扶桑(1915年製)・・・最初に設計された戦艦ですが、扶桑という名前は、
          日本国の異称であり、国名とは違っています。
          それだけ日本がこの戦艦にかける期待が大きかったのです。
          同型艦に山城がありますが、これは旧国名です。
          しかし、この2艦は明らかな失敗作となってしまいました。
     伊勢・日向(1917年製)・・・扶桑・山城の失敗を改善しようとしたのですが、
          この2艦も前作と似たような失敗作でした。
     長門・陸奥(1920年製)
          この2艦が以後、長く国民の期待を一身に受けた大戦艦でした。
     大和・武蔵(1941年製)
          世界最大の戦艦ですが、この2艦を国民は知りませんでした。
          それを知ったのは終戦後だったのです。

重巡洋艦・・・・これは山岳名を名付けます。

     古鷹・加古(1926年)
        加古は山岳ではなく河川です。
        これはワシントン軍縮条約が当時からんでおり、
その為に変則的になったしまったのです。
     青葉・衣笠(1927年)
     妙高・羽黒・那智・足柄(1928年)
     高雄・愛宕・摩耶・鳥海(1932年)
     最上・三隈・鈴谷・熊野(1935年)
       この4艦は軍縮条約の為に、軽巡洋艦として設計された為に、
       山岳ではなく河川名となりましたが、
       いざとなったら主砲を大きな物に変換して重巡洋艦にすればいい、
       というズルをしたのです。
     利根・筑摩(1938年)
       この2艦も河川名ですが、やはり条約の為の名前になりました。

軽巡洋艦・・・これは河川名です。

    天龍・龍田(1919年)
    球磨・多摩・大井・北上・木曽(1920年)
    長良・五十鈴・名取・由良・鬼怒・阿武隈(1922年)
    川内・神通・那珂(1923年)
    夕張(1922年)  たった1艦だけ造られた画期的な試験艦。
    阿賀野・矢矧・能代・酒匂(1942年)
    大淀(1943年) 艦隊旗艦を任された。
    香取・鹿島・香椎(1940年)
     この3艦は本来、練習艦であり、艦名も神社名となっています。

駆逐艦・・・一等駆逐艦(大型)は、天象、気象、海洋、季節に関連する名前。
      峯風、沢風・・・
      二等駆逐艦(小型)は、植物名。
      
空母・・・神話などに登場する空を飛ぶ動物。
     鳳・龍・鶴・鷹のどを付けました。
     改造空母に、
     赤城(巡洋戦艦から改造)加賀・信濃(戦艦から)
     千歳・千代田(水上機母艦から)
     信濃は世界最大の戦艦大和の3番艦でしたが、空母に改造され、
     100%完成とまでいかない輸送中に悲劇的な最期を遂げました。

    鳳・・・・鳳翔・龍鳳・翔鳳・瑞鳳・大鳳・
    龍・・・・龍譲・蒼龍・飛龍・雲龍・
    鶴・・・・翔鶴・瑞鶴・
    鷹・・・・飛鷹・隼鷹・大鷹・雲鷹・沖鷹・神鷹・海鷹・
    山・・・・天城・葛城(昭和18年より山岳名が追加された)
    
  日本は開戦(1946年12月)からわずか半年後、
  ミッドウェー海戦で、虎の子である主力空母4隻(赤城・加賀・飛龍・蒼龍)
  全部を失う大敗北を喫し、以後の戦争続行は、ほぼ不可能になっていたのです。
  世界最大の戦艦、大和・武蔵などは無用の長物となっていたのですから。

これとは全然違う話ですが、
日本の船名に(丸)を付ける伝統の由来は、まるで分からないそうです。
外国からも「丸シップ」として日本船である印にもなっているのに、
その由来が歴史的にも分からないというのは意外ですね。




     
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

地震被災地へ駆けつけた軍艦

2024-01-13 20:05:50 | 軍艦
元日に起きた能登半島地震。
海上自衛隊から自衛艦などが被災地へ行っているようですが、
100年前に起きた関東大震災の時にも、同じ事が起きていました。



戦艦、長門(同型艦、陸奥)は、
1920年(大正9年)竣工は、関東大震災の2年前に完成したばかりの、
新進気鋭、当時世界最大、世界最強の戦艦であり、
帝国海軍の誇りでもあり、国民もみな、長門、陸奥が世界一と信じていました。
排水量33800トン。
その後数度の大改装を経て最終的には39000トンの大戦艦となりました。



長門・陸奥から約20年後に完成したのが、世界最大の戦艦・大和、武蔵。
その存在を知る国民は誰もなく、一部の海軍軍人しかその存在を知らずに、
それが世界最大である事を知っている軍人も、ほとんど居ませんでした。
その全てが明らかになったのは戦後になってからでした。
敵国アメリカをあざむく為に、海軍は国民までもあざむいていたのです。

さて、戦艦、長門、陸奥。
そしてそれらの戦艦より少し前に完成していた、戦艦、伊勢・日向。



排水量31200トン。
それらは、関東大震災の時、
中国旅順、大連といった地で訓練や、各種任務に就いていました。
地震から3時間後くらいになって、東京に大変な事が起きたという一報が入りました。



関東大震災、それが起きたのです。

海軍は急遽訓練などを取りやめ、
船足の速い、巡洋艦、駆逐艦などを日本へ向かわせ、
戦艦4隻は9月4日、九州の志布志湾に到着、支援物資の積み込みをします。
長門はただ1隻だけ他の戦艦に先駆けて東京を目指しました。

ただひとつ気がかりな事がありました。
戦艦、長門、陸奥は世界に向けて、最大船速は23ノット(時速42,5キロ)と発表していました。
所が緊急時である為に、スピードを緩める訳にもいかず、
最大船速が26,5ノット(時速49キロ)である事がバレてしまったのです。



長門の後方2キロを、イギリスの軽巡洋艦ダーバン(だと言われている)が、
ピッタリと日本まで張り付いて来たのです。
(倒産したアパレルメーカーの紳士服ダーバンの名は、この軍艦から採っています)
イギリスは日本の同盟国であるし、敵対行為をしている訳でもないので、
追い払う事も出来ずに、海軍が世界に対し、嘘つきである事がバレてしまいました。

9月5日、全ての艦艇が品川沖に到着。
ここまで海軍大臣からの正式な許可は無く、独断先行行為でした。
その後、正式な許可が降り、
11月15日までの2か月半にわたり支援に従事したのでした。

全ての機能が素早く、充実している現在より、
あらゆる面で劣っていた時代の方が、今よりやる事が全然早いと思いますね。




コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする