goo blog サービス終了のお知らせ 

河童の歌声

歌声喫茶&キャンプ&ハイキング&写真&艦船

最多の同型艦を誇った駆逐艦

2024-09-15 07:58:25 | 軍艦


第二次大戦中、アメリカには最多の同型艦を誇った駆逐艦がありました。
フレッチャー級駆逐艦、その数は175隻という信じられない数でした。

1942年建造、排水量2110トン、全長115メートル、全幅12メートル。
速力38ノット(時速70キロ)航続距離15ノット(時速28キロ)で12000キロ。
12,7センチ(5インチ砲)5門、5連装魚雷発射管2基。
堂々たる性能を誇る、完成された駆逐艦でした。

第一次大戦中には、フラッシュ・デッカー型と言われる1918年製、
1090トンの小型駆逐艦があり、その同型艦は何と279隻でしたが、
全部が同型ではなく、大きくは3種類でした。
また時代と共に第二次大戦までに104隻が廃艦になり、
第二次大戦まで169隻が現役として残っていました。





それに対し、日本には特型駆逐艦と言われた、
吹雪型、陽炎型といわれた優秀な駆逐艦が生まれましたが、それでも38隻でした。



その全部が沈没する最前線で、たった1隻だけ生き延びた奇跡の駆逐艦が、雪風でした。
第二次大戦中に、世界中の軍艦が戦い散っていった中で、
これほどの奇跡がまさか起ころうとは、本当に信じられません。
数多の大海戦に出撃した中、殆ど死者も無く、深い損傷を受ける事無く生き延びたのです。

とは言っても、たった1艦が戦争の行方に係れる訳もなく、
フレッチャー級駆逐艦175隻の前には、なすすべありません。
大戦中に17隻が沈没しましたが、残った艦は、世界中の国に貸与されました。
日本の海上自衛隊にも2隻が貸与され、「ありあけ型」護衛艦となりました。



私が、海上自衛隊観艦式で初めて乗った護衛艦「あおくも」も、
殆どフレッチャー級駆逐艦と同じ大きさで、
私がその事にどれほど感激したことか。



余談ですが、私が最も好きな海戦映画に、1957年のアメリカ映画「眼下の敵」があります。
アメリカ駆逐艦と、ドイツ潜水艦との息詰まる戦いの映画です。
あの時のアメリカ駆逐艦はエヴァーツ型、1192トンの護衛駆逐艦です。



日本海軍、連合艦隊司令長官は、山本五十六大将でした。
山本はアメリカ留学経験もあり、アメリカという国をよく知っていました。
175隻という信じられない数の駆逐艦を造ってしまうアメリカ。
クリスマスには最前線で戦う息子にクリスマスケーキを送って来る母親が普通に居るアメリカ。
3人の息子が戦死した母親の為に、たった一人だけ残っている4男をアメリカに帰国させろと、
まるで砂漠の中から1本の針を見つけ出す様な、
ノルマンディーから、その息子を探せと命じる司令長官。



そういった国がアメリカである事を知っている山本五十六は、
戦争開始を命じられると「半年か、1年間は暴れてみせましょう」と、
ハワイ真珠湾への突撃を命令します。
山本五十六は、「絶対に勝てない、負ける」と百も承知で行かざるを得ない立場。
悲しかったでしょうね、やるせなかったでしょうね。



コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

軍艦とディーゼルエンジン

2024-09-12 07:12:13 | 軍艦
ディーゼルエンジンは、1892年、ドイツのルドルフ・ディーゼルが発明しました。
 ガソリンエンジンが、霧化したガソリンを圧縮して、高圧になった瞬間に、
 点火プラグの発火によってガソリンを爆発させるのと違って、
ディーゼルは重油。自動車の場合は軽油(これは本来はしてはいけないのですが、
石油ストーブに使う灯油、サラダ油でも回るのです。しかし、長く使うと噴射ポンプが壊れる。)
 ディーゼルエンジンはシリンダー内を、ガソリンエンジンより更に高圧縮にして、
 そこに霧化した重油を吹き付ける事で爆発させます。
 その為に点火プラグといった電気的な部品は要らないのです。
 電気的部品が要らないのは、安定感、安心感に繋がります。

しかし、ガソリンエンジンより高い圧縮をする事で、
大きな爆発力が生じる為に、大きな爆発音、大きな振動が生まれます。
私が自家用車にディーゼルエンジンを好まないのは、
その振動と、大きな音(ガラガラガラ)が不快だからです。
私は静かな車が好きなんです。

ディーゼルエンジンは勿論、船舶にも使われました。
しかし、その信頼性にまだまだ不安があり、主に小型船にしか使われませんでした。



ディーゼルエンジンを大型艦に初めて搭載したのは、
ドイツの小型(ポケット)戦艦、シュペー号級でした。
シュペー号は、ドイッチュラント級戦艦の3番艦です。
1番艦はドイッチュラント。(後にリュツォーに改称)
2番艦は、アドミラル・シェーア。
そして3番艦が最も有名になった、アドミラル・グラーフ・シュペー号です。



1939年12月、ドイツのポケット戦艦シュペー号は、
南米ウルグアイ沖で、イギリスの巡洋艦3隻と交戦し、深く傷を負います。
中立国ウルグアイのモンテビデオ港に入港し、修理をしますが、
規定時間内の修理には限りがあり、シュペー号は外海に出て再び交戦する事を断念し、
自沈(自ら爆沈)する道を選び、沈没して行きました。
この有名な海戦は映画「戦艦シュペー号の最後」となりました。

第一次大戦に敗れたドイツは、ベルサイユ条約により、
排水量1万トン以内、主砲は11インチ(28センチ)以内という枠内での軍艦しか造れません。
ドイツ海軍はこれを忠実に守り(実際は1,2万トン)という条約違反でしたが、隠し通します。
この3艦の目標は、軍艦同士の海戦ではなく、
通商破壊(貨物船などを撃沈し、敵の補給線を断つ)為でした。
その為には敵を求めて燃料補給なしで長い航海が出来る、航続力が重要です。
それに最適だったのが、燃料消費率が良い、ディーゼルエンジンだったのです。

それまでの軍艦のエンジンは蒸気タービンでした。
しかし、理論的にはジェットエンジンと同じ、蒸気タービンは、
高速力は抜群にいいのですが、とにかく燃料の大飯食いなのです。
同じ重さの軍艦の航続距離が平均6000~7000海里(12000キロ)なのに、
シュペー号は1万海里(18000キロ)もあるのです。
作戦の途中で燃料補給に戻らなくても作戦は継続できます。
ドイツ海軍はこの長所が欲しかったのです。

しかし、初のディーゼルエンジンには欠点もありました。
振動が大きかったのです。
何とか直せないかと色々調べ、ある程度までは改良されたのですが、
結局、根本的な解決には至りませんでした。
日本の潜水艦もディーゼルエンジンだったのですが、
あの音の大きさは異常で、
アメリカ軍からは「日本の潜水艦は太鼓を叩きながらやって来るのですぐ分かる」と、
言われ、全く日本海軍は間抜けな事をしていたんですね。

今では、ディーゼルエンジンの完成度も上がり、
船舶は安心してディーゼルエンジンを使っています。
燃費は良いし、蒸気タービンみたいに、煙がモクモクなんて出ないのです。
ですから、昔みたいな巨大な煙突など、要らないのです。
煙突があっても煙の排出以外の目的に使われる事が多くなっています。

でも、私の車でのディーゼルエンジン嫌いは、まだまだですね。
昔よりずっと良くなっていて、ベンツなどでも平気でディーゼル車なんですが、
果たしてどうなんでしょう?
でも音の大きさは・・
世界一静かと言われるトヨタの高級車などに比べると・・どうなんでしょう?




コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

世界最速の駆逐艦

2024-09-08 11:03:07 | 軍艦
世界最速の軍艦、それは駆逐艦と言われる艦種に在ります。

1864年、イギリス人のロバート・ホワイトが魚雷を発明しました。
魚雷は年々発達を遂げ、1発でも大型艦を撃沈できる恐るべき兵器になって行きました。
この魚雷を攻撃兵器として開発されたのが水雷艇です。
排水量300トン程度で、速力は27ノット(時速50キロ)前後。
それが各国の魚雷艇の平均的なものでした。

この小うるさい、それでいて高速力の水雷艇を駆逐する為に造られたのが、
後の駆逐艦です。
駆逐艦の世界標準レベルは、1200~2000トンくらいの艦でした。
しかし、高速力の水雷艇を駆逐する為には、それより高速でないと役に立ちません。
その為に駆逐艦は高速にならざるを得ずに、各種軍艦の中でも、最も高速力がありました。
特に、フランス、イタリアの2国は、そのスピードに血道をあげたのです。



イギリス海軍の駆逐艦スウィフトはあらゆる船舶の中で、
世界最初の40ノット(時速74,08キロ)を記録した船舶です。
排水量1700トン、全長107,8メートル。
蒸気タービン出力5万馬力。
この高出力エンジンを積む為に武装は異例の軽装備で、
10,2センチ(4インチ)単装砲4門。魚雷発射管2門だけでした。



日本には2代目に当たる「島風」、という駆逐艦が40,9ノット(時速75,6キロ)を記録し、
日本最速艦を誇ったのです。
排水量2894トン、全長129,5メートルの大型駆逐艦で、
12,7センチ(5インチ)連装砲3基、6門、53センチ魚雷発射管6基、15本、
の重武装でしたが、建造が複雑で手間がかかる事から、1艦のみの製造で終わってしまいました。
世界最大の戦艦、大和の22分の1の重さで、その馬力は大和の半分もあったのです。

しかし、フランスとイタリアの2国はスピード競争でしのぎを削っていました。
イタリア海軍のスピード狂は有名ですが、
世界一弱いイタリア海軍と、早々と降伏してしまったフランス海軍が、
スピードなど競っても、意味ない感じがしますね。

イタリアは1928年に、ナヴィガトリ級駆逐艦を建造します。
排水量1900トン、5万馬力で、38,7ノット(時速71,67キロ)
を出しましたが、それがイタリア駆逐艦の最速記録でした。



イタリアに対し、フランスも黙ってはいません。
ル・ファンタクス級駆逐艦を建造します。
排水量2569トン、全長132,4メートル。74000馬力。
13,8センチ(5,4インチ)砲5門。3連装魚雷発射管3基という重武装。
1935年4月、5番艦のル・テリブルは45,02ノット(時速83,37キロ)を出します。
この驚愕的記録は、通常形態の艦船が記録した世界最高速度で、
現在に至るもこの速力を破った艦船は存在しません。

しかし、世界最大の戦艦大和が、
65000トン、全長263メートル。15万馬力、速力27ノット(時速50キロ)
だというのに、これらの高速駆逐艦は、
1900トン~2600トンしかないのに、その馬力は戦艦大和の半分というのですから、
船体内部の殆どをエンジン(タービン)で占められているという化け物です。





現代になると、こういった通常形態とは違ったスタイルの高速船がありますが、
それでもル・テリブルの時速83キロは容易には超せません。
全長132メートル、2569トンの軍艦が、
荒波を立ててぶっ飛ぶ姿は、さぞ迫力があるのでしょうね。


コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

グナイゼナウ

2024-08-15 15:14:56 | 軍艦


ドイツ戦艦、グナイゼナウは、
世界一美しい軍艦と言われた、戦艦シャルンホルストの2番艦として生を受けました。
2番艦と言われながら完成はシャルンホルストより早い、1938年5月。
シャルンホルストは1939年1月。
ただ、進水はシャルンホルストの方が早かったので、1番艦になったのかも知れません。

基準排水量は約32000トン。全長230メートル。全幅30メートル。
兵装も全く同じで、11インチ(28センチ)砲3×3で9門。
速力は31ノット(時速57キロ)m

この2艦は、まるで双子みたいに似ているので、
私もハッキリ言って見分けがつきません。
普通、どの国の同型艦であっても、多少の違いがあって、
詳しい人だと簡単に艦名を言い当てたりするのですが、
グナイゼナウとシャルンホルストに関しては、かなり難しいですね。
後部マストの位置が違っていたりするみたいなのですが、
それも改造されて・・分からないのです。

2隻の初陣は1939年11月で、
アイスランド南方で仮装巡洋艦を撃沈。
1940年4月にはノルウェー攻略作戦に参加し、
巡洋戦艦レナウンと交戦したり、
駆逐艦や空母グローリアスを撃沈する戦果を挙げています。
12月から翌年1月にかけては22隻の商船を撃沈しています。

その後2艦はフランスのブレスト港に停泊していましたが、
空襲が激しくなり母国ドイツへの脱出を図ります。
1942年2月、グナイゼナウ・シャルンホルスト、重巡プリンツオイゲンの3隻は、
6隻の駆逐艦を引き連れて狭いドーバー海峡を真昼間に突破するという、
大胆不敵なチャンネルダッシュ(ドイツ名、ツェルベルス作戦)を試み、
その作戦に成功し、イギリス軍の鼻柱を叩き折り、
イギリス軍はその情けなさ、悔しさに激怒したのですが、全ては「後の祭り」でした。

しかし、ドイツ本国への帰還を果たしたグナイゼナウの命運はここで絶たれます。
イギリス軍の空襲で大きな被害を受け、
戦艦の効力を疑問視するヒトラーの命令により爆破処分されてしまいます。

一方シャルンホルストは北極海に面したフィヨルドでひっそりと息を潜めていました。
3か月間動かなかったシャルンホルストは、
1943年12月ソ連に向かう輸送船団を攻撃すべく出港して行きました。
シャルンホルストの出港を知ったイギリス軍は、
戦艦デューク・オブ・ヨークと4隻の巡洋艦に出撃を命じます。

戦艦デューク・オブ・ヨークは14インチ砲10門。
シャルンホルストは11インチ砲9門。
非力な11インチ砲は14インチ砲のイギリス戦艦に歯が立たず、
艦長のエーリッヒ・パイ艦長はヒトラーに、
「シャルンホルストは全弾打ち尽くすまで戦う」と連絡して撃沈されました。

一方、イギリス軍のフレイザー提督は、
「この海戦は勝利に終わったが、もし自分達が圧倒的に不利な状況になったら、
今日のシャルンホルストの様に勇敢に戦ってほしい」と、
ドイツ戦艦シャルンホルストの勇敢な戦いを讃えています。

それに比べ、グナイゼナウに華はありませんでした。
同じ姉妹ながら、シャルンホルストが何時も目立ち、
グナイゼナウは影の存在ばかりでした。
ヒトラーにその気があれば立ち直れたかもしれないのに、
いつからだったかヒトラーは大型戦艦の効力を疑問視する様になり、
傷ついたグナイゼナウに引導を渡してしまったのです。

グナイゼナウには「私だって姉ちゃんみたいに戦いたかった」と思っていたでしょう。
しかし、願いは叶わず最後まで悲しい妹のままで終わってしまいました。


コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

幻の巨大空母、信濃の悲劇

2024-08-09 18:45:08 | 軍艦


日本に信濃という巨大な航空母艦があった事は、殆どの日本人は知りません。
世界最大の戦艦に、大和と武蔵がありました。
しかし、この2艦は徹底的な秘密主義で建造された為、
ごく一部の海軍関係者しかその存在を知らず、
日本人の大多数は戦後になって、初めて日本に世界最大の戦艦があった事を知ったのです。

この戦艦・大和、武蔵には実は3番艦があったのです。それが、戦艦、信濃でした。
更に、4番艦に予定されていたのは、戦艦、紀伊でしたが、これは建造中止になりました。
しかし、真珠湾攻撃の開戦からたった半年後の、昭和17年6月、
太平洋のど真ん中ミッドウェー諸島で始まったミッドウェー海戦で、
日本海軍は虎の子の正規空母(初めから航空母艦として設計された空母)4隻。
赤城、加賀、飛龍、蒼龍の4隻全部を沈められるという大敗北を喫します。
海軍はあまりの事態に、色を失い呆然自失。
この時点で戦争の勝敗は決したと言っても過言ではなかったのです。
太平洋戦争が、アメリカには絶対に勝てない事を知っていた、
山本五十六大将が言った「1年間は暴れてみせましょう」は不可能に終わりました。

海軍は、大型空母の無くなってしまった航空戦力を立て直す絶対的な必要に迫られ、
大和級戦艦の3番艦であった「信濃」を航空母艦に造り直す事になりました。

世界最大の戦艦が、空母になるのですから、その巨大さは世界最大です。
アメリカ最大の空母レキシントンが36000トンだったのに比べ、
信濃は66000トン、全長266メートル、全幅40メートルでした。

戦艦大和は広島県、呉で建造され、
武蔵は長崎での建艦。
そして信濃は横須賀で建艦されました。
3隻とも厳重な国家機密だったので、ドックが超大型艦用に深く掘り下げられ、
横に不要な建物を建てたりして、ベールで覆い隠されました。



何しろ、戦艦として万全の防御板を持った船体が、航空母艦になるのですから、
不沈空母と言ってもいい鉄壁な空母でした。
飛行甲板も従来の空母からは考えられない分厚い装甲が施され、
これが海戦に乗り出していったら、アメリカの攻撃機もきっと戸惑ったと思います。
戦艦大和や、武蔵が10本、あるいはそれ以上の魚雷が打ち込まれても中々沈まずでしたから。
こうして信濃は、重防御の強力な空母だったのです。

完成は昭和20年3月の予定でした。
しかし、19年6月のマリアナ沖海戦で再び強力な空母を失い、
海軍は信濃の完成への圧力をかけ、完成を催促したのです。
昭和19年10月、信濃は完成しました。

しかし、軍艦を完璧な形で完成させるには、各種の試験が絶対に必要なのです。
連日の突貫工事と戦争による熟練工の損失などが重なり、
信濃での試験は最小限となり工事促進が優先されたままでした。
そんな状態のまま、信濃は最後の艤装工事をする為に呉に回航する事になりました。



昭和19年10月28日、信濃は3隻の駆逐艦に護衛され、
横須賀から呉へと向かいました。
しかし、信濃はアメリカの潜水艦がその後をつけていたのに気づきませんでした。
翌、29日未明、4本の魚雷が信濃の船体を射抜きました。
そして被雷から7時間半たった頃、信濃は徐々に沈んでいったのです。

信濃の防御力から言えば、同じ船体を持った武蔵は20本以上の魚雷で沈んだ。
大和も武蔵ほどでは無いが、多数の爆弾攻撃まで受けて沈んだ。
それが何で、たった4本の魚雷で沈んでしまったのか?

やはり完成を急ぐあまり、各種試験の省略。
そして最も失敗だったのは気密試験の省略。
気密試験は艦内各区画の防水性を保つには絶対に必要だったのです。

信濃は完成(厳密には未完成)からたった10日後に沈没しました。
世界最大、世界最強の航空母艦は、
日本国民の大多数に知られる事なく、10日間の幻の巨大空母だったのです。
その為に1435名の命が失われていきました。



コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする