
第二次大戦中、アメリカには最多の同型艦を誇った駆逐艦がありました。
フレッチャー級駆逐艦、その数は175隻という信じられない数でした。
1942年建造、排水量2110トン、全長115メートル、全幅12メートル。
速力38ノット(時速70キロ)航続距離15ノット(時速28キロ)で12000キロ。
12,7センチ(5インチ砲)5門、5連装魚雷発射管2基。
堂々たる性能を誇る、完成された駆逐艦でした。
第一次大戦中には、フラッシュ・デッカー型と言われる1918年製、
1090トンの小型駆逐艦があり、その同型艦は何と279隻でしたが、
全部が同型ではなく、大きくは3種類でした。
また時代と共に第二次大戦までに104隻が廃艦になり、
第二次大戦まで169隻が現役として残っていました。


それに対し、日本には特型駆逐艦と言われた、
吹雪型、陽炎型といわれた優秀な駆逐艦が生まれましたが、それでも38隻でした。

その全部が沈没する最前線で、たった1隻だけ生き延びた奇跡の駆逐艦が、雪風でした。
第二次大戦中に、世界中の軍艦が戦い散っていった中で、
これほどの奇跡がまさか起ころうとは、本当に信じられません。
数多の大海戦に出撃した中、殆ど死者も無く、深い損傷を受ける事無く生き延びたのです。
とは言っても、たった1艦が戦争の行方に係れる訳もなく、
フレッチャー級駆逐艦175隻の前には、なすすべありません。
大戦中に17隻が沈没しましたが、残った艦は、世界中の国に貸与されました。
日本の海上自衛隊にも2隻が貸与され、「ありあけ型」護衛艦となりました。

私が、海上自衛隊観艦式で初めて乗った護衛艦「あおくも」も、
殆どフレッチャー級駆逐艦と同じ大きさで、
私がその事にどれほど感激したことか。

余談ですが、私が最も好きな海戦映画に、1957年のアメリカ映画「眼下の敵」があります。
アメリカ駆逐艦と、ドイツ潜水艦との息詰まる戦いの映画です。
あの時のアメリカ駆逐艦はエヴァーツ型、1192トンの護衛駆逐艦です。

日本海軍、連合艦隊司令長官は、山本五十六大将でした。
山本はアメリカ留学経験もあり、アメリカという国をよく知っていました。
175隻という信じられない数の駆逐艦を造ってしまうアメリカ。
クリスマスには最前線で戦う息子にクリスマスケーキを送って来る母親が普通に居るアメリカ。
3人の息子が戦死した母親の為に、たった一人だけ残っている4男をアメリカに帰国させろと、
まるで砂漠の中から1本の針を見つけ出す様な、
ノルマンディーから、その息子を探せと命じる司令長官。

そういった国がアメリカである事を知っている山本五十六は、
戦争開始を命じられると「半年か、1年間は暴れてみせましょう」と、
ハワイ真珠湾への突撃を命令します。
山本五十六は、「絶対に勝てない、負ける」と百も承知で行かざるを得ない立場。
悲しかったでしょうね、やるせなかったでしょうね。