goo blog サービス終了のお知らせ 

河童の歌声

歌声喫茶&キャンプ&ハイキング&写真&艦船

海のロマン・・ゼーアドラー号の冒険

2022-01-19 07:42:26 | 船舶




ゼーアドラー号(海の鷲)は、
第一次世界大戦で活躍したドイツの帆船(仮装巡洋艦)です。
いくら昔の話とはいえ、1914年~1918年当時には、
帆船は既に時代遅れになっていた古い船でした。
その時代錯誤の帆船が敵を相手に大活躍した事、それは、
活躍というより「冒険」と言った方が相応しく、それは又ロマンでもありました。



艦長は、フェリクス・フォン・ルックナー伯爵。
1881~1966(84歳)

ルックナー伯爵家に生まれた彼は、幼い頃から海軍士官になる事を望み、
アメリカ大陸に渡る事を願っていた少年でした。
13歳の時に家出して、偽名で帆船の乗組員になります。
それから7年間、様々な職業を転々として過ごしました。
しかし、その大半は水夫として過ごしていました。

1903年(22歳)ドイツへ帰国したルックナーは航海士の訓練学校へ入学。
1905年(23歳)海軍士官になった彼は10年ぶりに故郷へ帰ります。
行方不明になり、とっくに死んでいたと思っていた両親は、
息子の10年ぶりの帰還に狂喜したそうです。
(そりゃそうだよな、「息子よ、何で連絡ひとつ寄こさなかったんだバカタレ」だよね)

それから彼は船長になる為の勉強をして試験に合格します。
そして、ドイツ~アメリカ航路の船で働いていましたが、
そんなルックナーに海軍への勤務を命ずる辞令がある日届きました。
その辞令に応じて1913年、南アフリカでの砲艦配属になりますが、
その時にドイツ人実業家の娘、ルイスに出会いひと目惚れ。
ドイツに帰国後に二人は婚約しました。
(な~んか、お前さんて、いい風にいい風に行ってる気がする)
(実業家の娘さんに一目惚れって・・ズルい)

1914年、第一次世界大戦が勃発します。
イギリスに対し劣勢になったドイツは、潜水艦などによる、
通商破壊戦(商船を沈め手足をもぎ取るやり方)に移行しますが、それは容易ではありません。
そこで商船に化けた(時代錯誤の)帆船なら敵の目をくらませる事が、
出来るのではないかと考え、帆船の経験が長く、
語学も堪能なルックナーに白羽の矢が立ったのでした。

仮装巡洋艦には拿捕(だほ)したアメリカの3本マストの船が選ばれ、
改造して使用する事になりました。
2門の105ミリ砲、2挺の重機関銃が外からは分からない様に装備され、
1916年12月、63名の乗組員と共に、
ゼーアドラー号はドイツを出港し、大西洋に乗り出して行きました。

ゼーアドラー号は敵を発見すると、空っとぼけて接近し、
不意にドイツ国旗を掲げて威嚇射撃。
(お前な~、お前ってホントにズルいんだよな)
敵を停船させてから敵船の乗組員全員を捕虜にしてゼーアドラー号に収容。
それからおもむろに敵船を爆薬などで沈めるのでした。
捕虜達には、船の航行の邪魔をしない限りは船内で自由にする事が許されました。
(エッ、お前あんまりズルくないじゃんか)
捕虜になった人々にゼーアドラー号と船長ルックナーを悪く言う人がいないのは、
この騎士道精神と彼の人徳によるものと思われます。
(ズルいどころか、いい奴じゃんか)

ある日、イギリス船籍のホーンガース号を発見します。
ホーンガース号には5インチ砲が備えられ、無線装置も備えられています。
正面からの撃ち合いでは勝目はないので、計略を使います。
まず、煙を盛大に噴出させて火事に見せかけます。
そして、ここからが面白い(笑っちゃう)
女装させた童顔の船員を甲板に立たせて救いを求めさせます。(あっれ~、たすけて~)
まんまと計略に引っかかって近づいて来たところで、すかさずドイツ国旗を掲げ、
大砲の狙いを無線室に定めて発砲、無線を破壊します。
しかし、イギリスとてこんな事にめげずに戦う意思は充分にあります。
ここからが、ルックナー船長の頭の良さが冴え渡るのです。
彼は声の大きい船員にこう叫ばせるのです。
「魚雷発射用意」と。(いえね、魚雷なんて全然持ってないんですよ)
これを聞いたイギリスは恐怖のあまり降伏したのです。(爆笑)
(お前はな~、ホントにズルい奴ちゃ)

捕虜の収容人数が限界に近づいたゼーアドラー号は、
フランスの帆船を捕獲すると、それに捕虜全員を乗せ陸地へ向かわせます。
ルックナー船長は捕虜達に日数分の給料を支払い、
更に、お土産にシャンパンなどを持たせて送り出したのでした。(感涙)

捕虜たちの話から、ゼーアドラー号の存在が判明し、
イギリスはゼーアドラー号を追い求めます。
それに対し、ルックナー船長は予備のボートにゼーアドラー号と記入して、
海に流し、その内の数隻がイギリス船に拾われ、
ゼーアドラー号は沈没したと発表され、ゼーアドラー号の追撃は中止されます。



ゼーアドラー号は大西洋から太平洋へと乗り出しました。
太平洋ではアメリカ・イギリス・日本の軍艦が網を張っているので、
中々思う様な行動が取れず、その内、食料や水も欠乏してきたので、
リーワード諸島に到着。しばしの休息になりましたが、
津波に遭遇してしまい、船は暗礁に乗り上げて航行不能になってしまいます。

8月2日。ルックナーは代わりの船を調達しようと小舟で脱出。
様々な場所で様々な体験をしながら流れ流れて行きますが、
そんな間に第一次世界大戦が終結しました。

1919年7月。彼はドイツに帰国を果たしました。
ルックナーの業績は広く知られていた為に、ドイツでは大歓迎を受けたのです。
リーワード諸島に取り残されていた船員たちも様々な体験をしつつ、
生きてドイツへの帰国を果たし、
1920年1月、ルックナー船長らと彼等は再会を喜び合ったのでした。

世界中が大騒ぎして戦争やってるってのに、
俺達は戦争なんて知らんみたいな顔して、ちゃっかり戦争やってる。
そんでいて敵の捕虜達からは、その人望を讃えられ「時の人」になっちゃう。
負けたとはいえ、一応は戦争やってた(らしい)
それで後世の人からは、時代錯誤の船で立派な業績をあげ、
あれは戦争じゃなくロマンだったなどと讃え祀られちゃうなんて、
全くいいとこ取りのズルい奴で、憎い奴であり、憎めない奴だったな。

やっぱり、お前はズルい!!

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

樅山(もみやま)艦船模型製作所

2022-01-16 19:44:53 | 船舶


皆さんは、こういった船の精密模型をどこかでご覧になった事があるでしょうか。

私は、それが何処だったのか?
でも、まるで本物みたいな船の模型に見入った記憶が何度かあります。
そして、その模型はきっと「樅山艦船模型製作所」が作った物だと思われるのです。



樅山艦船模型製作所とは、どういう会社なのでしょう?



樅山艦船模型製作所は1912年(明治45年)に、
写真左側の、樅山作次郎が創設した会社です。
写真の1886年(明治19年)に作次郎は生まれました。



父親が海軍に所属していた事で、幼年期から海軍艦艇に興味を示し、
そのうち、軍艦模型を組み立てる楽しみを覚えるようになりました。
20歳を過ぎた頃、作次郎が最初に作ったのは、軍艦「薩摩」でした。
それは1/300の縮尺、全長40センチ程度の小品。
まだ工作技術も稚拙で、個人が自宅で、しかも本格的な工作機械も持たずに製作するには、
その程度が限界であったのでしょう。
しかし、それを見た海軍の方が「これは凄い、ひとつ献上してみたら」と勧められ、
東郷平八郎元帥からの賛辞を貰い、そんな事から趣味から本職へとなっていったのです。

かつて、船が完成すると造船会社が模型を製作し、
船主に贈る事が習わしになっていました。
そうした公式模型をビルダーズモデル、あるいは竣工模型と称し、
樅山艦船模型製作所は、トップブランドでした。



確認できる最古のビルダーズモデルは1692年の和船で、
それ以降、延々とその慣習が続いてきたのでした。
1800年代半ばの記録では、
この頃より縮尺は1/48になっています。
1/48はヤードポンド法時代の標準規格のようなものであり、
後にメートル法が導入された後は、1/50や1/100が基本となりました。



記念すべき第一作は、巡洋艦「平戸丸」で、
これは現在も長崎県平戸市にある、松浦史料博物館に保存されています。



これは明治時代の、戦艦「敷島」で、
横須賀に保存展示されている、戦艦「三笠」と同型艦です。



これは戦艦「伊勢」純銀製という、国宝級と言ってもいいくらいの珍品です。
そして、どこの方なんでしょう?個人で持っている方がいるのですね。
戦艦・伊勢は第二次大戦後期に、航空戦艦・伊勢に改造され、
それは同型艦「日向」と共に、世界に2隻しかないという珍しい軍艦になりました。





樅山模型最大の作品が、戦艦「扶桑」でした。
1/16。全長12,8メートルに及ぶ巨大かつ超精密、緻密な模型で、
広島県、江田島の海軍兵学校内の「扶桑講堂」に設置されていましたが、
敗戦後に連合軍兵士によって破壊され、運び出され永遠にその姿を消してしまいました。



樅山模型の凄さは、こういった甲板の部品ひとつひとつまで、
手抜きされる事無く、忠実に再現されているのです。



スクリューの製作でもこの様な考えられない緻密な手法で作ります。
銀蝋(ぎんろう)という手段は実に難しい方法で、
今ではそんな手法で作る人、会社は皆無と思われます。



銀製の戦艦武蔵。
戦艦武蔵は、あの、戦艦大和の2番艦で、世界最大、最強の戦艦ですね。





樅山模型は高度な技術、出来る限り接着剤を使わず、
妥協を許さない完成度の高い手法を特徴として、
こういった軍艦、船舶の世界的な最高傑作を次々と生み出しましたが、
戦後になると、
船の建造の徹底した合理化、経済性が追及されるようになり、
造船所が模型を製作する慣習も形骸化し、
模型製作もしない時代になっていったのです。





造船所からの発注が無くなった樅山模型でしたが、
1974年、東京、台場に「船の科学館」が出来る事で、
再び発注が入る様になりました。
しかし、それが完結した後は、きっと先細りになっていったのかもしれません。

1993年、樅山艦船模型製作所(その頃は艦船という言葉ではなく、船舶になっていましたが)
81年間に渡る栄光の足跡に終止符を打って消え去って行ったのでした。



コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

後世まで語り伝えられたイギリス人魂

2021-10-26 07:38:49 | 船舶
1852年2月26日、
イギリスの兵員輸送船バークンヘッド号は、
南アフリカ大陸南端のディンジャー岬の岩礁に乗りあげて沈没し、
630人中、420人が亡くなるという遭難事件がありました。

この種の海難事故はこの時代にはありふれた出来事でした。
しかし、この事故の顛末はイギリスだけでなく、
世界の海員のシーマンシップの根幹として長く伝えられる事になったのです。

その教訓とは、
「全ての海員はいかなる海難に直面しても、
不統率な行動によって自らや乗船員全員を窮地におとしいれる事は許されず、
また自分だけが生き残る権利を主張する事も許されず、
海員は第一にとるべき行動とは、
婦女子などの弱者を救助する事を第一にしなければならない。」
という現在に伝えられる海難時の救助の厳正な秩序を厳守することである。

当時、南アフリカでは、
新たな領土獲得を目指すイギリスと先住民族との激しい戦闘が起こっていた。
これを支援する為に陸軍のセント大佐らがバークンヘッド号に乗り込んだ。

この時の乗船員は、兵士480名。
その一部家族(婦人7名、子供13名)別部隊の将校6名。
一般乗客50名。そしてバークンヘッド号の乗組員130名の、合計686名だった。

バークンヘッド号は1845年製の鉄製(鋼鉄ではない)の帆船で、
一部には蒸気機関を備えていました。
1918トン。全長64メートル。
途中のケープタウンで一部が下船し、630名になります。

ケープタウンを出港した時は午後6時。
バークンヘッド号の艦長は経験豊かなサモンド海軍中佐です。
彼は夜間航海にも自信を持っていました。
しかし、念の為にスピードを落としていましたが、
午前2時10分、突然、大音響と共に船は未知の暗礁に乗り上げてしまったのです。
それは全く不運でした。

船は後進をかけて暗礁からの離脱を計りますが、
乗組員からの報告で艦長は船の沈没をさとります。
サモンド艦長は海軍と陸軍との違いはありますが、
階級はひとつ上のセトン大佐に対し全ての将兵の後甲板への集合を要請します。

セトン大佐は、直ちにこれからは全員が自分の命令に従う事を厳命し、
勝手に退船する様な秩序を乱すような行動を厳重に戒めたのです。
セトン大佐のこの命令に対し、全将兵は誰一人として命令に違反する者はなく、
この命令とそれに対する服従こそ、その後の部隊の厳正な行動を決定したのです。

大佐はまず沈没を少しでも遅らせるように、不要な重量物の海上への廃棄。
100頭の軍馬の追い出しと、エサの束の廃棄。
乗組員は船底に潜り込み、排水ポンプを作動させて海水の排水作業を行ったのです。
この作業は沈没を遅らせ、艦からの脱出時間を稼ぐのに極めて有効に作用したのです。

サモンド艦長は救命艇を降ろし、まず婦女子を乗せ脱出させます。
沈没迫る船体からの脱出はそう甘くはありません。
そのうち救命艇も無くなってしまいました。
この事態になっても将兵たちは誰一人あわてる者はなく、大佐からの命令を待っていました。

この状況で皆が勝手な行動を取れば艦上は大混乱になり、
無用な犠牲者を出す事は間違いありません。
大佐は、「そこを勝手に動くな。私の命令に従え」と命令し、
「各自協力しあって浮遊物を探せ、それらにつかまって互いに励ましあって、
海岸へ向かえ、海岸は遠くはない」と命じました。

セトン大佐は一人になって沈みつつある後甲板にたたずんでいました。
そこへ一人の将校が近ずき「陸地でまたお逢いしましょう」と言うと、
大佐は苦笑しながら「それは無理だと思うね。実は私はカナヅチなんだ」
それがセトン大佐の最期でした。


バークンヘッド号の遭難と、その時に展開された厳正な行動の話は、
たちまちイギリス本国に伝わり、
全イギリス国民の知るところとなりました。
イギリス国民は、この行為こそ自分達の誇りであると感じ、
みなが深い感銘を受けたのです。

一方、海軍はおろか商船界でも、
最悪な事態に直面しても、秩序を乱さず、服従の精神を失わず、
婦女子の救助を第一にするという海員魂の根幹を貫く伝統が、
ここで確立されたのでした。





それとは全く逆だったのが、
2014年の、韓国セウォル号の沈没。
船員たちは若い高校生たちを見殺しにし、
船長などは、一般乗客を装って逃げ出す見苦しさ。

同じ人間でありながら、こうまでも違うものか。
私だったら・・



コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

バルバス・バウ

2021-10-10 02:50:50 | 船舶
バルバスバウとは、船の造波抵抗を打ち消すために、
喫水線下の船首に設けた球状の突起物で、球状船首・船首バルブとも言います。



バルバスバウには、それを示すマークが印されていて、
水面下の出っ張りに物が衝突するのを防ぐ役割をしています。



従来の普通の船体が造る波と、バルバスバウの造る波とが打ち消し合い、
船のスピードアップと馬力の低減に役立ちます。
ただ、設計通りの喫水であれば高い造波抵抗軽減になりますが、
積み荷が空で船体が浮かび上がり、バルバスバウが水面上に出ている場合は、
むしろ逆効果となります。





バルバスバウに似た形をした物に、衝角(しょうかく・ラム)があります。
古代ギリシャのガレー船に取り付けられていた武器で、
敵艦の横腹に体当たりをして船体に大穴をうがち、沈没させるのです。





この衝角は20世紀初頭の軍艦にも、まだ取り付けられていました。
横須賀に記念艦として保存されている、
日露戦争(日本海海戦の立役者)戦艦・三笠にも付けられています。

第二次大戦でも敵艦に体当たりをした例はありますが、
その多くはやむにやまれずに体当たりをしたというのが実情の様です。



そもそもバルバスバウは、1911年(明治44年)にアメリカ海軍の造船官であった、
デヴィット・ワトソン・テーラー少将(1864~1940)が考案したものです。
彼の著書に「船舶の抵抗推進」があり、その功績は大きく、
世界中の船舶設計者は、その中のチャートにより設計するのが普通になっています。



アメリカでは空母レキシントンにこれを取り付け、
日本では最初に付けたのは、空母・翔鶴でしたが、
これらの軍艦は真横から見てもその出っ張りは殆ど感じられず、
喫水線下の部分がいくらか膨らんでいる、そんな感じです。





バルバスバウを最も有名にした(と思われる)のは、
世界最大の戦艦であった、あの(戦艦大和)ではないでしょうか。
これは明らかに喫水線下が出っ張っています。
これによって大和はスピードアップと、
船体の軽量化(約300トン)になったのです。



現在、バルバスバウは常識となっていて、
こういった小型の船にも当たり前の如くに取り付けられています。




コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

海上の力持ち・クレーン船

2021-09-04 07:22:43 | 船舶
海翔 【タイムラプス】日本最大の起重機船による新町川橋梁架設工事。Floating crane Kaisho Performance to lift 4100 tons


海の世界では、湾を繋ぐ橋を架けたり、
沈没船を引き上げたり、様々で大規模な工事が多数あります。
その時になくてはならないのが、クレーン船と言われる船です。



クレーン作業というとよく見かけるのが、深田サルベージという会社。
深田サルベージには、武蔵と呼ばれるクレーン船があります。
その吊り上げ能力は3700トン。
全長107メートル、全幅49メートル、深さ8メートル。重量12267トン。



武蔵を上回る日本最大のクレーン船は、海翔と呼ばれる船で、
持ち主は深田サルベージではなく、寄神建設という会社です。

武蔵の12267トンを上回る、14548トン。
全長120メートル、全幅53メートル、深さ7,5メートル。
その吊り上げ能力は4100トンに達します。



こういった海上自衛隊の護衛艦も、海翔にかかれば吊り上げられてしまうのです。



しかし、世界は広い。
彼等など足元にも及ばない、とんでもない吊り上げ能力を持つのが、
世界最大・中国の振華30号。
その吊り上げ能力は何と12000トン。





この程度のクルーズ船を軽々と吊り上げてしまいます。

振華30号は、
全長201,6メートル、全幅88,4メートル、深さ49,5メートル、重量は何と25万トン。
もうお化けとしか言い様がありません。

世界ではこういった特殊な船舶が無い事には完成しない仕事もあるのですね。
その使用料金は一体いくらになるのでしょう?
あまり参考にはならないかもしれませんが、
吊り上げ能力700トンのクレーン船で、
一日の使用料金は320万円だそうです。
4100トンの海翔は・・??

これとは別に、日本海軍では特殊な船を造った事があります。



それは(樫野)と名付けられた1万トンの船でした。
全長135メートル、全幅20メートル。





それは世界最大の戦艦大和に積まれる、これまた世界最大の主砲。
18インチ(46センチ砲)の主砲を運ぶだけの為に造られた特殊船だったのです。



戦艦大和の主砲1基は3000トンを超えます。
この程度の海上自衛隊の護衛艦1隻と同じくらいの重量なのですね。

世界にはまだまだ特殊過ぎてビックリする艦船はいくらでも在ります。
クレーン船の大きいのも一度は見てみたいものです。




コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする