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河童の歌声

歌声喫茶&キャンプ&ハイキング&写真&艦船

揺れない船

2021-02-21 07:47:29 | 船舶
船舶の最大の欠点はなんでしょうか?
それは、沈没する事もあるという事です。
それは飛行機でも同じで、それは墜落するかも知れない事。
自動車も同じで衝突するかも知れない事。

では、そういった事故は考えずに、
船に対し人々が最も気になる事は・・船酔いですね。
私も本来あまり乗り物酔いに強い方ではなく、
その中でも船は一番恐れる乗り物なんです。

前妻は、乗り物酔いを経験した事がないという憎たらしい妻でした。
また現在の妻も同じで、ほぼ乗り物酔いの経験はないそうです。

以前の知り合いの男性で、
彼は船の部品の設計の仕事をしていて、
自分の設計した物の完成度を見る為に、船に乗る事があり、
それは荒れる事で有名な、九州の玄界灘に試験航海に出たりするのですが、
その日の海は過去に経験が無い程の大荒れで、
並みいる海の男たちも流石に船酔いをしていたのですが、
その彼は全く何の変化も感ぜずにシラーっとしていたそうです。

かと思えば、歌声喫茶で有名な男性は、
子供時代から乗り物酔いが激しく、
リヤカーに乗せられただけで車酔いをしてたそうです。
こういった人は現代社会では生きにくい人ですね。


さて、人々のこういった不安を解消すべく、
一人の男性が決定的な解決策を講じた船を造りました。

1860年にイギリスのベッセマーという人が、
画期的な「揺れない船」を提案しました。
彼が考案した原理は、
日本でも古くから使われていた照明器具の「ガンドウ」の原理です。



手に持ったガンドウが、どの様に動こうが、
内部のロウソクは水平に保たれているという構造を、
船に置き換えた物でした。



遊園地にある4人乗りのブランコ。
これは外側の4本足の支えが傾いても、
中の座席は水平を保っていられます。
この原理で試験船を造りました。
船体を二重構造にして、前後に支点を造り、
その支点にブランコを吊るして、遊園地のブランコと同じにしたのです。
外側の大きな船体がいくら揺れても中側に吊るした小さな船体は水平のまま。

そして客室や乗組員室、機関室などは全部、中側の船体に収めたのです。
ただ、この構造は船体の横揺れだけを考えたものであり、
縦揺れに対しては何の効果もないという事です。
つまり、船酔いは横揺れが全ての原因であるという前提でした。

ベッセマーの造った試験船の内部船体は130トンでした。
そこに人々は乗り組んで船は出発しました。
その船の横揺れは極めて少ない事が分かりました。

ところが一旦縦波を受けると、船は縦揺れを始め、
それと共に、内部船体は縦揺れと同時に横揺れを始めたのです。
そして横揺れは全く止まる事はなく、
まるで遊園地のブランコの様に揺れ続けたのでした。
そしてブランコを止めようとしても、それを止める方法がありません。

内殻船体の横揺れは縦揺れが起きる度に増幅され、
普通の船の横揺れとは全く違う激しいものとなったのです。
試験航海が終わって下船してきた人々の顔は蒼白だったそうです。
まさにこの世のものとは思われない恐怖を味わったのでした。

試験船は、大失敗でした。



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ポンポン蒸気船

2021-02-06 06:03:46 | 船舶
懐かしい!「ぽんぽん船」のエンジン音


ポンポンポンとリズミカルで独特の排気音を轟かせて走る小型船。
それがいつの日にか消えて無くなっていました。
それに気づいたのは無くなってからかなり経ってからだった思います。



私は、あの船の事を(ポンポン蒸気)と、勝手に名付けていました。
私達ではなく、あくまでも個人的な(私)です。
というのは、ポンポン蒸気船の事など友人たちと話した記憶など無いからです。
あんな物は川や海で、当たり前にポンポンと言いながら走っていたからです。
それはまるで空気の様な存在で、誰も気にも留めなかった、そういう感じでした。



中学校への通学路は目黒川にかかる橋を渡って行ったのですが、
その頃はまだ、ポンポン蒸気船がこういった艀(はしけ)を何艘も、
引っ張って行く風景を見ていました。
あれは一体いつから居なくなってしまったのでしょう?


そもそもポンポン蒸気って何なんでしょう?

あれは、「焼き玉エンジン」と言います。
それは知っていました。
で、それはどういった仕組みで動くのでしょうか?



この絵を見て、分かる人はもう全部、分かっちゃったと思います。
赤く丸いのが、焼き玉。
これを熱く熱する事で、ガソリンエンジンなら点火プラグの役目をしています。
左側から送られてきた燃料が焼き玉で熱せられ、爆発。
そのエネルギーはシリンダー内のピストンを押し下げ、
その下にあるクランクを回して回転運動に変えて、スクリューを回すのです。
仕組みとしてはディーゼルエンジンと同じなんですね。

Hot-bulb engine 焼玉エンジンとは(農業用小型発動機)Small Japanese ball 2 cycle engine.


エンジンをかける為には、まず焼き玉を熱します。
その為には焼き玉の上にある蓋を外して焼き玉を取り出します。
焼き玉には取り出しやすくする為に穴が開いているのもありました。

燃料は軽油なんですが、実は重油が使えたのです。
これが凄いメリットでした。
燃料の噴射圧力は低く、シリンダー内圧よりやや高い程度。
焼き玉に噴射するというより、垂らすといった感じでした。

焼き玉は熱をもっており、その熱とシリンダーの内熱により、
気化、発火し燃焼が始まります。
燃焼時の熱の一部で焼き玉は熱せられ、次の燃焼の火種になります。
不純物が混じった粗悪な燃料でも動き、構造が簡単な為に、広く使われました。

小型の焼き玉エンジンでは、焼き玉を取り出して過熱しましたが、
大型になるとそれは出来ないのでバーナーで加熱しました。
過熱にかかる時間は10~15分程度でした。

焼き玉エンジンが画期的だったのは、
それまで使い道のなかった重油が使えた事です。

石油から精製した灯油、軽油、ガソリンなどは、
気化器を使って霧状に出来る為、シリンダー内に供給して着火する事が出来ました。
しかし、それらを精製した残りで出来る重油は、
粘性(粘り気)が高く、気化器で気化する事が難しかったのです。
そこで液体のまま焼き玉に直接噴射して爆発させる方法が考え出されたのです。
重油が安価だった事もあり、焼き玉エンジンは、
ディーゼルエンジンが普及されるまでの間、広く使われました。

焼き玉エンジンは1897年(明治30年)頃から広まりました。
それは長い間、主に小型船の主エンジンとして使われていました。
1919年(大正8年)、
日本初のディーゼルエンジンが船舶用に製造されます。
その運転費用が焼き玉エンジンの70%だった為に、
当時の漁船界に一大センセーションを巻き起こします。
これ以降、ディーゼルエンジンを搭載する船が増えてゆきます。

しかし、燃費は劣るものの、ディーゼルエンジンに比べて本体価格が安く、
取り扱いが容易だった為に、小型船では相変わらず焼き玉エンジンが使われていました。
1923年(昭和8年)に、ヤンマーディーゼルが世界初の小型ディーゼルエンジンを完成させ、
1926年(昭和11年)になると水産庁が小型漁船をディーゼル化する方針を打ち出し、
焼き玉エンジンの命運は、風前の灯火となってしまいます。

だが、第二次世界大戦の勃発が焼き玉エンジンを延命させる事になります。
ディーゼルエンジンの生産ラインは軍用に振り向けられ、
焼き玉エンジンが再び大型漁船にも使われる様になったのです。

戦後になっても日本は物資不足だった為に、
焼き玉小型船は珍重され、1949年(昭和24年)まで増加していました。
しかし、その後はディーゼル船の割合は年々増加し、
1958年(昭和33年)には焼き玉エンジンを追い越し、
1969年(昭和44年)にはディーゼルエンジンが80%に達しました。
翌1970年には焼き玉エンジンの占有率は1%を切り、
2000年(平成12年)を最後に、焼き玉エンジン船は姿を消しました。

もう、あの懐かしいポンポンという音を聞く事はなくなってしまいましたが、
海や川に行くと当たり前に響いていた、あの音は何かほのぼのとしますね。
ぽんぽん蒸気には、そんな話があったのでした。





コメント (2)
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加山雄三と光進丸

2021-02-02 15:20:44 | 船舶
加山雄三と言えば、光進丸。
光進丸と言えば加山雄三、というくらい日本人には有名な船です。







写真は3代目となる、最後の光進丸です。1982年製造。
全長25.6メートル。全幅6.61メートル。104トン。910馬力×2基。
速力14ノット(26キロ)定員18名。



しかし、加山雄三の分身の様な存在だった、
3代目・光進丸は2018年4月に火災で失われてしまいました。
既に81歳となっている加山雄三には、
もう4代目の光進丸を造る余裕は無いと思われます。
それだけに、光進丸を失った時の彼の落ち込みは激しいものでした。


加山雄三が大の海好きである事を知らないという人はまず居ないでしょう。
彼は小学校の時の家庭教師が、東京商船大学の学生で、
海や船の話を聞いているうちに、
「自分でも船を造りたい」と思う様になったそうです。

自分で船を設計したのは10隻くらいあるそうで、
光進丸も彼の設計による船でした。







初代・光進丸は1964年の完成。
映画「海の若大将」に登場しました。





これは2代目の行進丸。
1969年(昭和44年)完成。
全長15.35メートル。全幅4.12メートル。36.35トン。
速力24ノット(44キロ)定員12名。
初代に比べてスピードアップが凄いですね。
「光進丸」の歌のモデルになったのは、この船だそうです。

私が若い頃、江の島ヨットハーバーで見たのは、
この船だったと思います。
沢山のファンが眺める中を、加山雄三がデッキを歩き回ったりしていました。

2016年10月に妻と西伊豆旅行に行ったのですが。
堂ヶ島には「加山雄三ミュージアム」がありました。





雄ちゃんと一緒の記念写真だったのですが、ひたいが眩しかった(涙)



彼は4代目の行進丸も設計し、試作モデルも造っていたみたいです。
しかし、この船の完成はまずあり得なくなってしまいましたね。

しかし、加山雄三というスターは凄い才能の持ち主ですね。
俳優・歌手・船の設計・作曲・絵画・・出来ない事はありません。
男と生まれたからには、こういった男になりたいと・・・
そりゃみ~んなそう思っていますけどね、現実がね(笑)


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大勢の目の前で失われた1810人の命

2020-09-17 14:23:09 | 船舶




1915年2月15日の早朝、
アメリカ船舶史上最悪の遭難事故が五大湖のミシガン湖で起こりました。

死者の数は1810人(3年前に起きたタイタニック号遭難事故より多い)に達し、
世界の船舶史上でも最悪の犠牲者を出した事故でした。
しかし、これは海上ではなく内陸の湖で起きた事故だけに、
世界の海難記録には掲載されていないのです。
その為にこの事故を知る人はとても少ないのだそうです。

シカゴ市内を流れるシカゴ河の河口はミシガン湖に流れ込んでおり、
河口付近は五大湖最大の港として発展しています。



大型遊覧船イーストランド号(1961トン)は、
地元でも指折りの大会社ウェスタン・エレクトリック社の社員とその家族の、
慰安ピクニック行事の為に貸し切られていました。
この年はピクニックの参加者が7000人に達していた為に、
5隻の遊覧船を借り切っていました。
その中でイーストランド号が最大で、
1900人が乗船する予定になっていました。
(船腹の下の方に2か所の乗船口が見えていますね)
この乗船口と水面との間隔は、たった60センチです。

早朝の6時30分には乗船が開始されました。
イーストランド号の乗船は5か所に設けられた出入り口から行われました。
先に乗船した家族連れたちは一斉に上甲板のホール階段を上り、
我先にとプロムナードデッキのラウンジ、
あるいは食堂や喫煙室の椅子を占領しました。

そして後から乗船して椅子にあぶれた人達はプロムナードデッキを占領し、
更に上の展望甲板の椅子を占領し、あらゆる場所を確保して、
目的地までの展望を思う存分楽しもうとしたのです。
しかも、彼等、彼女ら、子供たちのほぼ全員が、
埠頭とは反対側の眺めのいい右舷側に集まってしまったのです。

イーストランド号は五大湖を就航する客船としては標準的な大きさで、
大海と違い波浪も発生しない環境なので、重心が高い構造をしていました。
最初は653名定員の船でしたが、
何回か所有者が代わる毎に定員が増えてゆき、
最高時には2570名にもなっていました。
例え湖の遊覧船であるにしても、これはあまりにも危険だという事で、
一時は1542名に削減されたのですが、
事故当時には何故か2000名まで戻されていたのです。

しかし、定員いっぱいで運行している時には、
乗組員たちは船体が不安定な動揺をする事を指摘し、
転覆の危険性を感じていたのです。

さて、全ての客の乗船が終わった時点で、
乗組員たちは渡り板を外し、乗船口のドアを閉めました。
そして港の係員たちは岸壁に繋いでいたロープを外しました。

その途端にイーストランド号はゆっくりと岸壁とは反対側に傾き始めたのです。
イーストランド号の乗客たちも港の係員も、一斉に悲鳴を上げましたが、
悲鳴を残したままイーストランド号はたちまち傾斜を深め、
わずか数十秒で船体は横倒しになり、
そのまま船底を上にしてグルリと転覆してしまったのです。
その間4分にも満たなかったのです。

岸壁にいた見送りの家族や港湾作業員や周囲に居た観光客たちは、
信じられない光景を目の当たりにして、しばし呆然としましたが、
その後は阿鼻叫喚の大混乱となったのでした。

目の前の悪夢に、多くの人達が救助活動を始めましたが、
船内に取り残された多くの婦女子・子供は外に出る事も出来ずに絶望でした。
犠牲者の数は1810人に及び、大多数が亡くなってしまいました。
これは、タイタニック号の犠牲者より300人も多く、
その後70年間、この記録が破られる事はなかったのです。

この未曽有の大事故はアメリカ中を震撼させ、
その責任問題やらで裁判沙汰にもなります。
これはその後30年にも及びますが、
第二次世界大戦の勃発や人々の高齢化などで、
いつの間にかこの事件はウヤムヤの中に終息してしまったのです。


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アメリカまで流された漁船の悲しい末路

2020-09-13 14:30:17 | 船舶
【怪談朗読】「良栄丸遭難事故」 都市伝説・怖い話朗読シリーズ


1927年(昭和2年)10月31日。
アメリカ北西部のシアトル港を出港した貨物船、マーガレット・ダラー号が、
太平洋に出て間もなく、一隻の小型船を発見しました。
ダラー号の船長は小型船の動向から、その船が遭難して漂流していると判断し、
小型船に乗り込んで捜索しましたが、
生存者はおらず、白骨化した死骸が転がっていただけだったのです。
そして文字などから、船は明らかに日本の漁船と判断できました。

このニュースは翌日の新聞の一面記事として扱われたのですが、
船の中は多数の白骨が転がり、人肉事件が起こっていた可能性があると、
猟奇的事件として大々的に取り上げたのでした。

しかし船内捜索の結果航海日誌に書かれた漂流の記録、
乗組員全員の覚悟の遺書が発見されると、
最期まで生きる望みを捨てなかった、悲しみに満ちた悲劇の漂流船として、
人々の涙を誘う事になったのでした。

この漁船は和歌山県、和歌村田子港を母港とする、
マグロはえ縄漁船でした。
全長16メートル。全幅3.6メートル。19トン。

良栄丸は船長以下12名乗り組み。
毎年10月から翌年3月までは神奈川の三崎漁港を基地として、
伊豆諸島から小笠原諸島にかけてのマグロはえ縄漁をしていました。
良栄丸は無線装置は備えておらず、六分儀やクロノメーターも有りませんでした。
航海は長年の経験とカンだけだったのです。

良栄丸は1926年(大正15年)12月7日銚子港を出港して漁場に向かい、
その後消息を絶ちます。
良栄丸はエンジンとスクリューを結ぶプロペラシャフトが折れてしまい、
航行を帆に頼りますが思う様にならず、海流に乗ってアメリカ方面にどんどん流されてしまいます。
彼等は元号が大正から昭和に変わった事を知らず、
航海日誌などは全て大正〇〇年と記載しています。

翌1927年3月6日。
とうとう死を覚悟した船員たちは、まだ元気なうちにと遺書を書きます。
人間が遂に死を覚悟せざるを得ない状況下で書いた遺書は、
あまりにも悲しく、切なく、その心情を察すると涙を禁じ得ません。

航海日誌は5月11日が最後になっています。
その後、船長と松本源之助がいつまで生きていたのかは分かりません。

良栄丸はその後シアトルで焼却され、
乗組員たちの遺書類は地元、和歌山に戻され供養されています。
三鬼船長の地元である和歌山県に良栄丸の遭難慰霊碑が現在も残っていて、
地元の人々の慰霊が絶える事はないそうです。




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