「楢山節考」などを著した作家の深沢七郎によると「友達とは季節に咲く花」だそうです。
昨日、久しぶりにある友人と会いました。
彼女は、ずっと「親友」だと思っていた人がいたけれど、そう思っていたのは自分だけで相手は彼女に利用価値がなくなったら去っていった、という話を悲しそうにしていたので、
深沢七郎を久しぶりに思い出して「友達は季節に咲く花」っていう言葉知っている?と話題に出しました。
以前読んだ「人生滅亡的人生相談」。だれも言わないようなことがずばずば書いてあり驚きました。以下はその一節です。
もちろん全文を覚えているわけではなかったのですが、当時かなり衝撃を受けて抜書きしてあったのでそれを記します。
つまり「人が去っていったとしても悲しむことはない。"季節”が終わっただけだから」。また最初からそういうものだと思っていれば、楽しい時間を共有できて(花を咲かせられて)よかったねと思えるということかと思います。
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友達というものは花のようなものです。例えば、幼稚園のときの友達、小学校のときの友達、中学、高校、大学の友達、それは、春には春の花が咲き、夏には夏の花が咲くのと同じです。そのとき、そのときの時季、状態で友達はそこにあるから眺めたり、飾りものにするのです。
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深沢七郎はそれほど好きな作家ではないのですが、超個人主義を展開するユニークな人だなあと思いました(一方でラブミー牧場というふざけた名前の牧場を運営し共生生活を推奨したりもしていたようですが)。
徹底した人間不信・諦観から導き出される突き抜けた明るさ・ユーモアが漂います。
以前KREVAの「スタート」という曲についても書きましたが、きっかけがあろうとなかろうと「そんなこともあるさ。しかたない」と割り切るほうが気が楽になることも多いのでは。
紀元前のギリシャの哲学者エピクトテスが言うように、コントロールできるのは自分の心だけ(=自分の心はコントロールできる)ですから!
・・・と書いてはいますが、私はもともとくよくよ思うたちで、今でも疎遠になった人について自分が思い入れがあったぶん、悲しく思ったり自分の失敗した点を反芻してしまいます。
でもこちらは裏切られたと感じても、相手からしたら「所詮、利用するだけの相手/その場だけかかわる相手」だったかもしれません。だったら勘違いしたほうも悪いのでしょう。この「人生滅亡的人生相談」を読んでからは、その時点ではネガティブな感情に支配されても、少し時間がたてば「あの時のお花はきれいだったな」という気持ちに少しはなれるようになりました。
それに、気づかないうちに自分も同じことを他者にしていないとも限りません。また人は時とともに多少は変化(成長/退化)するものですし、まさにその時々の花の季節が終わったのだなと言うしかないのだと思います。逆に、たとえば単なる顔見知り程度だった人とも友達づきあいが始まることもあるので「種から苗を育て花を咲かせる」楽しみもあるのでは。そう考えると気が楽になりませんか?
そういう話をつらつらしていたら友人も「ああそうかもね」とちょっと表情が変わってきました。
もちろん、永遠に四季咲きの花が咲き続けるのが一番だとは思いますが、ただそれはなかなか得られないこと。
彼女が「では私たちは・・・」というので「2~3年に1回しか会わないけど20年以上つきあっているから花じゃなくて常緑樹かもね」「まあ花って柄でもないし・・」と笑ってさよならしました。
写真は、先週季節はずれに咲いたベランダのミニバラ。いつでも花は咲くものです。
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