「楽しく生きる」~あなたに和みのひとときを

日々のつれづれ・アート・音楽・衣食住。好きな言葉はゲーテ「いきいきと生きよ」デグジュペリ「大切なことは目に見えない」。

吉良邸跡・都指定旧跡

2009-04-30 | 東京散歩・外食・近郊おでかけ

江戸東京博物館に行き、お昼にお蕎麦をいただいたあと両国散歩。歌舞伎「仮名手本忠臣蔵」のモデルになった、赤穂浪士に討ち入りをされた吉良上野介義央の屋敷跡に行ってみました。当時の86分の1の大きさですが、近隣の有志が土地を買い取って東京都に寄付したそうです。

赤穂市のHPに討ち入りの経緯が詳しく説明されています。

浅野内匠頭が吉良上野介に斬りかかった理由は、浅野内匠頭が朝廷の接待を江戸幕府に申しつけられた際に付け届けをしなかったために吉良上野介から指導を受けられず嘘を教えられたりの嫌がらせに加え、各大名の面前で侮辱されたというもの。

実際には別の説もあります。
浅野内匠頭はとても短気で、かつ精神障害があったといういいつたえもあり、病気のために吉良上野介に斬りかかった可能性もあります。・・となると吉良上野介は逆恨みをされた不運な人ということになります。といっても心の病になったのは吉良の嫌がらせによるもの、とも考えられますが・・・。

浅野内匠頭は取り調べもなく即日切腹(これには、当時の将軍綱吉の朝廷との政治的駆け引きが絡んでいる由)、浅野家はお取りつぶしとなりました。
大石内蔵助らは、「喧嘩両成敗」の原則のもと、吉良上野介の処分と浅野家の再興を願い出ましたが、その望みは叶いませんでした。

赤穂浪士たちは約2年後、浅野内匠頭の祥月命日3月14日(現4月21日)の雪の日に吉良を討ち、結局幕府から全員切腹を命じられました(切腹してよい=名誉の死を選んでよい。罪人の場合は縛り首)とのことなので、幕府としても同情するところがあったのでしょうか。実際、吉良家は刃傷事件のあと次第に没落してゆきます。

それを裏付けるものとしては、浅野内匠頭の事件のあと、吉良家の屋敷に討ち入ると噂がたったため、周りの大名が苦情を申し立て、この両国の地(当時としては郊外)に引っ越しを命じられたとか。それでぐっと討ち入りがしやすい立地になったとのことです。
うがった見方ですが、幕府のある勢力は吉良上野介が権力を持っていることを好ましく思っておらず、あえて赤穂浪士を動かした・・とも想像できます。

また、赤穂浪士、というと大石内蔵助はじめ47名の「義士」といって祭り上げられることが多いですが、吉良邸跡赤穂浪士の討ち入りに応戦し命を落とした吉良家の家臣をまつった小さな祠もあり、じつはその人たちも立場は同じではないかと考えさせられました。

一方、吉良上野介義央は領地(三河の吉良)では善政をしく賢主として知られ、塩田事業の開発や、治水工事による豊作に大いに貢献があったとか。

歴史は、見方によってさまざまな「事実」があるのだと改めて思いました。近代史、まだ今現在でも、「声が大きい側、国」の主張が本当に一方的に正しいのか、マスメディアの報道だけによるのではなく私たちが自分で考えなくてはならないですね。

次は、吉良邸跡近くのお菓子屋さん「大川屋」の吉良まんじゅう のご紹介。

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コメント
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