私の町 吉備津

藤井高尚って知っている??今、彼の著書[歌のしるべ]を紹介しております。

暫軒の風

2009-10-15 16:03:58 | Weblog
 後楽園には、現在、人口にはあまり上らなくなっているのですが、特別の景勝の場所、十っ所を選んだ[後楽園十勝]があります。
 その一つが「暫軒の風」です。
 記録によりますと、この園を造らせた藩主池田綱政侯は、この暫軒風について、次のような歌を作っています。

    暫(しば)しとて 憩ひしものを 夏の日も
                はや暮れかかる 軒の川風

 この「暫軒」と呼ばれる建物は、鶴見橋を渡った所にある北門のすぐ左側にあったのだそうです。窓を開ければ直下に旭川があり、その北に長嶺なる姿美しき半田、滝口の諸山眸中に落ち、吹き寄せる川風の心地良さに、つい時の過ぎるのも忘れるほどであったという。避暑に最もよいこと筆舌をつくせずです。そんな悠長とした夏の時の経過を詠んだ歌なのだそうです。
 今までの日中の風とはちょっと違った、幾分ではありますが冷ややかな川風がどこからともなく藩主の頬を撫で通ります。「おや」と見上げる北嶺の空には静かに夕焼け雲が押しかかっています。
 「はや・・・夕暮か・・・」
 藩主は、けだるそうにそれだけです。
 静寂な悠久の時の中に身をゆだねる己の幸せにうっとりしている姿がこの歌の中から伝わってきます。

 そんな場所が暫軒なのです。その風が十勝の一つに数えられたのです。

 でも残念なことですが、今は、この暫軒の建物はありません。絵でしか見ることができません。明治二十六年の十月の大水害のために流失してしまいました。現在は。そこに堤防ができているそうです。礎石も何も残ってはいないのです。
 この絵の中にある大門の左側に、大樹の影に隠れるようにして、そっと佇んでいるのか暫軒の建物だそうです。
    

 

結搆なる園

2009-10-14 10:14:11 | Weblog
 後楽園の地勢は南と西をやや高くして丘のようにしてあり、樹木が生い茂って深山の趣があり、北と東は平坦で、北は松林が嵡鬱とし、東は操山の峯々が遠望できます。
 此の園を綱政が設けた本来の目的は、藩主の遊楽のための施設と言うより、むしろ、演武の場であったり、諸般の武芸の演習のためのものであったり、藩主の農民の艱難辛苦を体験をするための田畝であったりするための施設であったのです。

 できた最初は「茶屋屋敷」と呼ばれていたようですが、後には単に「後園」と言われたようです。
 明治4年の廃藩置県以後、今の「後楽園」と呼ばれる様になったのです。それが明治17年になって、当主の池田章政侯が岡山県に納め、県民全体の公園として保存されることになったのです。
 
 [・・園中の光景殊に、叡慮に副ひ、県民も深く其結構を歎美し、これより名園の称、四方の聴え、知ると知らざると、岡山の後楽園の名を聴て、皆な其観望に富むことを思わざるなし・・・・・」
 と、この詳誌の筆者は記しています。

 なお、後楽園を詠んだ詩はたくさんありますが、その内の一つを記します。

 木村桐陽と言う人が 
 「霊沼霊台結搆全 乾坤別闢十洲仙 長渠短閘高低水 嫩草平沙青白羶・・・」
と、後楽園を詩っていますが、まさにその通りです。

 これが後楽園です。
 
 ちょっと、今日訪ねてみたのですが、先日、言ったようにはフランス語があちらからもこちらからもというわけではありませんでした。ほとんどが日本人でした。丁度、今日から十一月三日の菊花展の準備が始まっていて、特に、造園業者が多く見られました。
 園に入ってすぐ園全体を見渡します。やっぱり唯心山と烏城の組み合わせが絶景であることには間違いありません。流石がだなあと、思いながら、そのお城の向こうに立つ操山を見ると、そこにはうすぼんやりとですが、ようやく秋の気配を醸し出しているようでした。
 これが十月半ばの後楽園の風景です。「霊沼霊台結搆全」です

後楽園の園庭総叙

2009-10-13 14:36:32 | Weblog
 旭川(後楽園真景及詳誌には曦川とあります)は全長三十余里で、源は美作の竜王の池に発して、吉備高原を嵌入蛇行して、岡山市街を貫き、そして、終には児島湾に流れ込んでいる大河です。
 その旭川が岡山に入ると、すぐその西岸に烏鵠城の雄姿が高く天に聳えています。その北の流れを隔てた中洲に、一区を画して、東西南北竹林に囲まれた場所が目につきます。それが日本三公園の一つである、名高き岡山後楽園です。

 この園は、今は昔、貞享三年(一六八六)備前岡山藩主 左少将池田綱政朝臣がその家臣 津田重次郎永忠(つだぢんぢろうながただ)に命じて造園の準備に入り、その翌年、貞享四年十二月から工事は始められました。
 着工してから幾度か拡張のための工事も行われ、ついに、元禄三年(1700)三月に、現在のような大名庭園が出来上がったのです。
 その総面積は27,013坪で、園の中央から計ると、東西200間(360m)、南北120間のある広大な庭園です。その中を蛇行して流れる曲水の長さは350間(640m)にも達しています。

 

 この図は、明治初年の岡山後楽園の平面図です。
 

七十五膳据えの神事

2009-10-12 13:34:32 | Weblog
 吉備津神社の秋のお祭りです。我々のでは朝から千載楽やそのための料理の調整などのための準備に大忙しです。
 お宮でも、これまた、早朝から七十五膳据えの神事のための準備におおわらわです。

 ここで、この神事について、ちょっとばかりくわしく、そのお祭りの様子を書いておきます。
 貞享5(1678)年の吉備津神社の「御祭礼行列之次第」によりますと、このお祭りは江戸時代には陰暦九月の申の日に行われた大饗会(だいきょうえ)です。毎年備中の諸郷からその年に出来た新穀や果物や魚藻などをこの神社に献納して、五穀豊穣を感謝するお祭りです。備中の新嘗祭なのです。

 祭りの翌日から回廊の端にある御供殿(ごくうでん)で世話人の人が集まって七十五の神に捧げるお膳を作るのです。
 膳の形は御掛盤(おかけばん)や平膳や高杯や瓶子などがあります。それらのお膳にはお米を炊いて円筒形(富士山を形)に形作った「御盛相(おもっそう)」と呼ばれるご飯を中心にして、その他鯛、昆布、その他野菜や果物などが盛られます。総て黒漆の五・七の桐のご紋の立派なお膳です。
 御掛け盤は二人の人で運ばれます。平膳などは一人の人で運ばれます。
 その他、子どたち(男の子は鉄砲、女の子は鳥かご)も参加します。弓矢、鉾、太刀、五色幣などを持った村人たち百数十人の長い列が粛々と神殿まで運びます。
 昔は巫子さんによる神楽舞もあったように伝わっていますが、今は行われてはいません。
 約二時間に渡る端雅で幽玄な吉備津神社ならでのお祭りです。
 なお、このお祭りの「七十五」と言う数字はどこからきているのか、はっきりしたことは分からないのですが、一説によりますと、備中の諸郷が75あって、そこからの新嘗を献納したからだと言われていますが、実際は備中には72しかありませんが、吉備津宮が直接管理していた宮内など3郷があったので75になったのだと言われていますが。
 でも、この75と言うお膳の数は、不思議なことですが、備前の一宮のお祭りの中にもみられる数ですから「郷」と言うのも怪しいものだと思われます。
 まあ、そんな意味からも大変珍しいお祭りなのです。岡山県下の三大祭りの一つに数えられています。ちなみに、後二つは、加茂大祭と吉川八幡宮当番祭のお祭りです
     

明日は吉備津神社の秋のお祭りです

2009-10-10 18:28:54 | Weblog
 吉備津神社の秋のお祭りです。お祭りだ、と云っても宵祭りもありません。6時にはいつもの通り神社の門は閉じられます。したがって、祭囃子も何も社からは聞こえてはきません。ただ、昼前に、子どもたちによる天狗とお獅子が各戸の戸口を回って、家内安全を願う、そんな吉備津地域だけの独特の行事があるだけです。静かな静かな里の秋の小さな行事です。
 一方、われわれ大人はと言いますと、明日の千載楽の度御のための吉備津神社の神官による神輿のお祓いを受ける行事があります。吉備津地区に9あるのですが、神輿を出すのはたった4だけです。本当に何もない吉備津のあ祭りです。
 お神輿を出す我が「向畑」では、女性の方々が、明日の神輿度御のための賄い方の準備に大わらわです。男性側と言いますと、神輿のお払いが済んで、簡単な事前のお祝いをします。一年に一回の町内の親睦です。2、30代の若い男性の出席が皆無で、その点で寂しい感はしますが、来年こそは若い人たちにバトンたちしなければと、毎年ながら、話題はそこまで進むのですが、「いざ、いかに」という段になると、猫の首に鈴になるのです。60代後半の者ではなかなか、新しい企画は出来かねますので、ぜひ若者をと思うのですが、現実が厳しうございます。
 しかし、神輿を担ぎ手の小学生のお父さん方がたくさん参加してくれますので、結構、当日は勇ましく賑やかです。
 こんな吉備津の秋祭りです。お宮では明日は七十五膳据えの神事が行われます。大変珍しい神事です。

 このお祭りについては前回紹介しましたが、また明日も。

 これは付録ですが、我が家の祭り寿司と玄関の祭り飾りをお見せします。
 

後楽園  序

2009-10-09 13:07:19 | Weblog
 後楽園について、先人の思いは如何にか、その概要の前に触れてみたいと思います。
 「後楽園真景及詳誌」には、まず、当時の侍従長徳大寺実則氏の歌を載せています。
     つくりけん こころも見えて 国民の
              後に楽しむ 園そゆかしき 
 と。

 また、後楽園の美しさを備中の人三島中洲も、山陽一の名園だと、次のように詩に詠っています。
 
 「園中の花木の燦爛、泉水の清冽、巖石の雄抜、三櫂山(?)の巍峨(高く険しいさま)など、目に触れる物、悠遠の楽の窮る所を知らず」
 と。

 


 その他、和歌にも漢詩にも、沢山詠われています。その内の一首を挙げておきます。戸田則素と言う人の歌です。

   世のうさに さきたつひとの 後れきて
              ともにたのしむ そのはこの園
                         
 

岡山でのフランス語

2009-10-08 09:21:24 | Weblog
 昨今、岡山では、フランス語の会話があちらこちらでよく聞かれると云うのです。それは、フランス人観光客が、わんさとまではいかないのですが、その旅先を、わざわざ、岡山まで伸ばしているからだそうです。
 フランスでは、今、「後楽園を見る」というのが、ちょっとしたブームになっていて、そのための後楽園観光なのです。
 フランスの何という雑誌かは知らないのですが、(パリで有名な雑誌だそうです)その記事に、日本の岡山にある「後楽園」の特集が紹介されたのがきっかけとなって、フランスからの観光客の足が、今、後楽園に向いていて、その為にフランス語を聞くチャンスが、岡山で多くなってきた原因なのです。

 フランス人がわざわざ見に来る、岡山の「後楽園」です。日本の皆さんも、是非、一度見てください。大変美しい公園です。日本三大名園の一つです。明治になってからですが、その美しさを[後楽園十勝]として紹介しています。その一つずつ紹介していきます。(後楽園真景及詳誌より)


 

後楽園

2009-10-07 10:35:25 | Weblog
 私は岡山後楽園の本を持っています。

   

 この本は明治24年に出版されたのですが、私の持っているのは明治31年に出た第7版発行です。
 ちなみに値段は23銭です(大工一日の賃金と同じぐらいですから、今日的に言うと、まあ2万円程度の値段です)から、この本も、また、相当高い値段だと思います。
 前に、ご紹介した菊池大麓の「数理釈義」は1円80銭です。それから比べると安いといわれるかもしれませんが、本は、現在と比べたら一般的に高価な物だったのです。
 なお、県立図書館には初版本(明治24年)もありますから興味のある人は見てください。

 この本に書かれている後楽園十勝を、明日から、順次ご紹介していきます。

鳩山由紀夫と緒方貞子

2009-10-06 10:25:58 | Weblog
 緒方竹虎と言う人をご存じないお方がたくさんおられると思います。戦後の日本政治の場で活躍し、鳩山一郎内閣では副総理となった人物です。

 この人の祖父に「大戸郁蔵」と言う人がいます。井原市簗瀬に生まれています。江戸に留学した時、たまたま緒方洪庵を知り、深く交わります。後に、洪庵が大阪で「適塾」を開いたと聞き、大阪に馳せ参じ、その創立に深く関わり、最初の塾頭にもなっています。そんなことから洪庵と、義兄弟の杯を交わし、自分も洪庵の姓[緒方]を貰い、「緒方研堂」と名乗ります。
 この研堂の孫が緒方竹虎なのです。 その竹虎の子、四十郎と結婚したのが、犬養毅木堂の孫娘貞子、あの世界の「緒方貞子」なのです。
 
 

 考えてみれば、寶泥氏のおっしゃるように、吉備って本当に書く材料はいくらでもありますね。探せばですが。
 鳩山由紀夫と緒方貞子、全然関係はないように思えるのですが、その線を辿っていけば、こんな繋がりがあるのです。それも吉備を通してです。
 まあ、なんと言いましょうか、これも歴史の面白さを表す一側面ですね。

緒方竹虎の椅子

2009-10-05 20:03:03 | Weblog
 鳩山春子さんのことも知らない内に大変長くなりました。ここらで、あの寶泥氏からご指摘のあった「音羽御殿」のことに話題を変えます。
 
 この洋館には半身不随だった一郎首相の来客用のためのお屋敷があり、その一室には、今でも、主(あるじ)の椅子と六つの来客用椅子が並べてあるのだそうです。その来客用椅子を使った人の中に、緒方竹虎がいたと朝日新聞の天声人語氏は言っています。

 この緒方竹虎も吉備の国と大いに関係があります。そこらあたりを少し覗いてみたいと思います。

 そもそも「緒方」と言えば、そうです。あの緒方洪庵をすぐに思い出すはずです。
  

 洪庵は「我が町吉備津」のすぐ隣の町「足守」で生まれています。後に江戸や長崎で勉学に励んでいます。父は、足守藩の下級武士で佐伯瀬左衛門と言う人です。
 だから、洪庵も、初めは佐伯と言う姓を名乗っていたはずです。ちなみに「緒方」と言う姓に変えたのが25歳頃と言われています。長崎でニーマンと言うオランダ人に、医学を学んでいた頃です。
 何故、佐伯から緒方に改姓したのか疑問が残るのですが、祖先に緒方三郎維栄と言う人がいたと言う事からだと、歴史家の永山卯三郎は言っています。

大山巌とダンス

2009-10-04 17:30:47 | Weblog
 吉備の国とは全然関係はないのですが、鳩山春子の鹿鳴館にまつわるお話を探していますと色々と面白い裏話が見つかります。その一つを付け加えておきます。

 明治20年の鹿鳴館時代に、大川捨松が脚光を浴びたのですが、その夫も、また、別な意味で一時鹿鳴館の噂に上りました。
 そのダンスがうまかったのか下手だったのかは分からないのですが、ある時、ここで奇妙な一組のダンサーが踊りに興じていました。一人は力士のような大男とこれに引きかへ一方は人一倍痩せ細ったヒョロ男が一生懸命に踊っています。その組み合わせがとてつもなく滑稽だったので、そこにいた総ての人が、この奇妙な組合せのダンサーのダンスに、踊るのをやめて注視したのだそうです。
 この大男こそ、時の陸軍大臣、大山巌だったのです。あの捨松の夫だったのです。
 もう一人の痩せこけた男は東京府知事の松田道之と言う人だったそうです。

 こんなたわいもない事もして、参加した人たちは、本来の日本の欧米化を知らしめるという国家目的から外れて、ダンスそのもの自体も大いに楽しんでいたのです。それも決まって毎週月曜日にです。
 鹿鳴館には、こんな裏話もついて回っています。
 
 また、これも、記録にはあらわれてはいないことなのですが、当時、まだ政府高官たちの女性たちはダンスを十分に知らない人が多く、その為、出席だけはしても踊ることができなかったのだそうです。その為、女性の踊り手が絶対的に不足します。そこで、急きょ芸者にダンスを教えて、参加した男性諸君のお相手を務めたのだそうです。その為のトラブルもあったように聞いています。中には、それがきっかけとなって、良家の奥方に納まったちゃっかり者の芸者もいたと、云う噂もありました。

 

 これは、フランス人の漫画家ビゴーが書いた、鹿鳴館に集まった俄かダンサーにしつらえられた芸者の絵です。お行儀の悪いことこの上ありません。当時の日本人は、こんな漫画がフランスの新聞に載ったことなど少しも知りませんでした。

 こんな歴史の裏話も、この鹿鳴館の時代にも沢山生まれています。歴史とは、まあ、面白いものですね。

山川捨松(鹿鳴館の裏話)

2009-10-03 11:21:00 | Weblog
 春子たちまでも動員してまで開いた、華族会館(鹿鳴館)での毎月曜の舞踏会を、当時の先進欧米各国の外交官たちは[滑稽なおどり」と、嘲笑していたと言うのです。
 体に合わない燕尾服や窮屈そうな夜会服を四苦八苦して着て、覚えたてのぎこちないダンスに興ずす姿を見て、「失笑せざるを得ない」と、日記に書いている外国の外交官もいたというのです。

 小川治平と言う画家がいます。この人が、覚えたてのぎこちないダンスに興じる絵を残しています。
 
 スマートさがありません。腰の引けた「ぎこちない」踊り姿を巧みに表現しています。

 一方、この舞踏会で、花形女性ダンサーとして一躍名を成さしめた日本女性もいました。山川捨松という女性です。男性ではないのですよ、念のために。津田梅子たちと一緒にアメリカに留学した才女です。
 24歳までアメリカにいて、大学にも通ったのです。当然、英語は勿論、フランス語・ドイツ語まで自由に操り、踊りは勿論、欧米の諸習慣にも精通していていました。当時、そんなん彼女が帰国していて、この舞踏会にも参加させられます。野暮ったい日本女性の中にあって一人、踊りや所作などアメリカで身に付けた振る舞いに、その場にいた欧米の外交官達の目を見張らせた事は言うまでもありません。そんなん超モダンガールだったのです。
  
 この写真のように、とっても美人で有名でした。津田梅子達が明治4年渡米する時に写した写真を前に載せましたが、山川捨松は一番左に写っている人です。この人がこんなに変身しています。比べながらご覧ください。どう思われますか。

 捨松は、当時、大山巌と結婚にしていて(とても近代的な結婚をしています)、姓も大山と変わっていました。明治20年のお話です。これも鹿鳴館時代の歴史の裏話なのですが。
 
 そんな中での、鳩山春子はどうだったのでしょうかね。嘲笑の対象の中には入っていなかったのだと思いますが。そのあたりのことについては、残念ですが、この手記では何も語ってはいません。

学校でもダンスを教える。

2009-10-02 17:27:42 | Weblog
 春子は、明治14年に、どんな経緯があったのかは分かりかねますが、鳩山和夫と結婚しています。20歳の時です。
  
 これが春子の晩年の写真です。そう言えば、なんとなく、鳩山由紀夫に似ているでありませんか?。というよりも、弟の邦夫の方に似ているのかな?どうでしょう。
 
 まあ、そんなことはどうでもいいのですが、明治17年に、春子は、お茶の水師範学校の先生になっています。その時は、既に、一郎など2児の母親となっていました。その時の手記に
 
 「・・・条約改正の準備のため華族会館(鹿鳴館)で毎月舞踏会があるごとに、私は加藤きん子さんと出かけて洋風なダンスをしました。学校でも、高尚な優美な体操として生徒にダンスを教えたのであります。・・・」
 とあります。
 日本中を挙げて、欧州の人たちに、日本の西洋化を印象付けようとした歴史が、ここにも生々しく伺われることができます。
 更に、手記は続いています。
 「・・・・井上毅さんが大臣になられると・・・・西洋人の教師を解雇し、洋風をやめさせるようにする等、極端から極端に走るので、その度毎に、学校の方針がかわるので生徒も教師も困ることが多かったのです。」

 当時の、政府の政策のしばしばの変更に春子みたいな直接政治と関わりのないような人にまで、強い影響を及ぼしたかが、この一文からもよく分かります。

 それから見ると、このたびの選挙によってもたらされた民主党の政権交代劇を見ると、明治の政府が行ったような、従来の政策が真反対になると云った極端な政治変更ではなかったようです。あまり驚くべきことではと思えます。

 歴史とは、こんな裏話の中にこそ真実が隠されているのではと、この手記を読んで思いました。

春子の留学

2009-10-01 21:14:34 | Weblog
 第一回女子留学生に内定した春子は、英会話を始め、洋食の食べ方、洋服の着方など多方面に渡って準備します。ところが、当時の文部省の中に、女子の留学に強く反対する人があって、留学を見合わせることになったのだそうです。

 留学が決まってすぐ、そんな晴れがましい姿(文部省からの留学生として)を見せたいと、松本にいた姉たちを東京に呼んで大騒ぎしたのです。所が、突然の中止です。
 春子たちの驚きはいかばかりであったでしょう
 「私は残念でたまりませんでした」
 と、春子はその手記に書いています。本人は勿論のこと、親まで了承し留学が亡くなったのです。
 この中止には、特に、文部省の男たちが大いに反対したと言うのが原因でした。
 [二十歳前の大和撫子をアメリカに一人旅させるなんて、オオカミの群れの中に小羊を置くようなものである。危険極まりない。到底容認するわけにはいかん」
 と、言うのです。
 そうでなかったら、政府内で決まった事が、そう易々とひっくりかえるようなことはないと思います。自民党から民主党に政権が変わったのでもないのですから。

 明治12年です。まあ、当時の文部卿の影響が、特に、大きかったのではないでしょうか?
 文部卿とは大臣制度が出来上がる前の(内閣制度ができていません)長官なのです。
 
 まあ、そんなことで、その役所の長官の考え一つで、しばしば政策は変更されるのが当たり前の政治体制でした。

 その為に、二十前の若い娘ごが、当時の政治にいいように翻弄されたのです。
 その思いが「残念でたまりませんでした」という文章の中に強く表されています。