私の町 吉備津

藤井高尚って知っている??今、彼の著書[歌のしるべ]を紹介しております。

鶴鳴館

2009-10-18 16:05:51 | Weblog
 後楽園十勝には入ってはないのですが、此の園一の広さを持つ建物が、現在の正門を入ったすぐ右側にあります。ここは明治初年の岡山県議会の議会場になったぐらいの大きさです。その建物が鶴鳴館です。その玄関には「鶴鳴館」と言うが古ぼけた扁額が掲げられていますが、それは、時の県令高崎某が書いて掲げたのだそうです。なかなか立派な字だと思いますが。
    
   
 なお、この鶴鳴館の入口付近に、昔は「平四郎の松」が植えられていたのですが、今では記念碑だけを残しているに過ぎません。
   
 「平四郎の松」の平四郎とは、貞享4年、藩主綱政が津田永忠に命じて、ここに庭園を造らしたのですが、それ以前、ここらあたりに住んでいた者の名前です。 その平四郎の庭にあった松を、そのままそこに残したから[平四郎の松]とばれたのだそうです。
 又、当時、その平四郎の納屋に使われていた柱も、この鶴鳴館の玄関の一部に使われて残っていたのだそうです。
 後楽園には、そんな歴史を物語る多くのもが残っていたのですが。そんなものは一切合財、総て前の戦争がきれいさっぱりと持って行ってしまって、今は、何も残っていません。ただ、言い伝えだけが、350年後の今日に残っているのです。
 
 この平四郎という人物がいかなる人であったかと言う事は、皆目、何も分かってはいません。それこそ「名のみ残る」です。
 川の中洲に住む農民です。毎年ぐらい洪水に見舞われる、それこそ貧乏水呑み百姓だったことが予想されます。
 そんな貧しい百姓の、それも納屋の柱をです。檜とかそんな高級材木ではなかったはずですが、そんな粗末な、多分、松材であればいいほうですが、納屋にあった柱を、敢て、この鶴鳴館の玄関の柱に残したのです。いったい津田永忠は何を思って、こんな粗末な柱を残したのでしょうか。
 「もしかしたら」という言葉を使わしてもらうなら、藩主たち岡山藩の為政者に
農民の心を何時も知らしめるべく、そんなん粗末な柱や松の木を、それも園の中央にです、残したのだと思いうのですが?。
 そこら当たりの永忠の心は記録にも何もありませんが、現代のここを訪れる者は、心して見学しなくてはいけないのではないでしょうか。
 
 こんなことを考えながら回るのも、後楽園を楽しむ一つの方法でもあるのです。十勝だけが後楽園ではないのです。老婆心ながら。