私の町 吉備津

藤井高尚って知っている??今、彼の著書[歌のしるべ]を紹介しております。

結搆なる園

2009-10-14 10:14:11 | Weblog
 後楽園の地勢は南と西をやや高くして丘のようにしてあり、樹木が生い茂って深山の趣があり、北と東は平坦で、北は松林が嵡鬱とし、東は操山の峯々が遠望できます。
 此の園を綱政が設けた本来の目的は、藩主の遊楽のための施設と言うより、むしろ、演武の場であったり、諸般の武芸の演習のためのものであったり、藩主の農民の艱難辛苦を体験をするための田畝であったりするための施設であったのです。

 できた最初は「茶屋屋敷」と呼ばれていたようですが、後には単に「後園」と言われたようです。
 明治4年の廃藩置県以後、今の「後楽園」と呼ばれる様になったのです。それが明治17年になって、当主の池田章政侯が岡山県に納め、県民全体の公園として保存されることになったのです。
 
 [・・園中の光景殊に、叡慮に副ひ、県民も深く其結構を歎美し、これより名園の称、四方の聴え、知ると知らざると、岡山の後楽園の名を聴て、皆な其観望に富むことを思わざるなし・・・・・」
 と、この詳誌の筆者は記しています。

 なお、後楽園を詠んだ詩はたくさんありますが、その内の一つを記します。

 木村桐陽と言う人が 
 「霊沼霊台結搆全 乾坤別闢十洲仙 長渠短閘高低水 嫩草平沙青白羶・・・」
と、後楽園を詩っていますが、まさにその通りです。

 これが後楽園です。
 
 ちょっと、今日訪ねてみたのですが、先日、言ったようにはフランス語があちらからもこちらからもというわけではありませんでした。ほとんどが日本人でした。丁度、今日から十一月三日の菊花展の準備が始まっていて、特に、造園業者が多く見られました。
 園に入ってすぐ園全体を見渡します。やっぱり唯心山と烏城の組み合わせが絶景であることには間違いありません。流石がだなあと、思いながら、そのお城の向こうに立つ操山を見ると、そこにはうすぼんやりとですが、ようやく秋の気配を醸し出しているようでした。
 これが十月半ばの後楽園の風景です。「霊沼霊台結搆全」です