永山卯三郎の「岡山県通史」によると、江戸期における吉備の歌読みは、専ら専門家のみによって歌われたんのではないらしいのです。
『彼の、花になく鴬、水に住む蛙の声聞けば、生とし活る物、何れか歌を読まざりける有様にて武人武蔵、名君光政綱政は言わずもがな。釈寂厳も、古松軒も、台山雲鵬、順蔵、洪庵、鉄石、大西祝、の如く医者も僧侶も画家も哲学者も皆歌を詠ぜざるものなし。実に和歌は人の心をたねとして萬のことのはとぞなれける。・・・・・』
として、山田貞芳選の吉備百種を載せています。
その百種の中に元義の歌もやはり出ています。
大君の みかど国もり まなリ坂
つきおもしろし われひとりゆく
という歌です。
この歌が出来た由来も、また、なかなか面白いのでご紹介しておきます。
この元義先生、お知らせしたとおりの、なかなかの変人です、髪の形も一風独特だったらしいのです、
「丈長くして大いなる方、たしかに一物ある風姿をそなへ・・・」とあるように、誰でも簡単にかの先生の異様なる髪を結う床屋さんはなかったのです。でも、一軒だけ、御野村八坂(岡山市一宮)に元義のお気に入りの床屋があったのだそうです。
「巧緻にしてこの奇人の意を満たしめた」と、ものの本に記しています。
この床屋は岡山から道程およそ一里あまりの所にあったのですが、元義は、散髪にこの床屋へは、いつも夕方掛けて出かけて行ったという。
ある時、月明かりに乗じて出かけて行ったのだそうです。そんなに遅く行ってもこの床屋はいやな顔一つせず、開けてまってくれていたという。この床屋さんもまた相当な奇人だったようです。
その道中が大層気に行って、即ち歌ったのが、この歌「大君の・・」という歌なのです。
「みかど」「くにもり」「万成坂」というのはこの道中の地名なのです。
元義先生は
「歌はつくるものにはあらずしてよむものなり」
と、常々言っていたのだそうです。この歌もまさにその通りです。自然と口を衝いて出てきたものなのです。見た通りが歌になるのです。
文字をこねまわしして、作り上げ、造り上げしている今の歌を、元義先生はどうおもわれるでしょうか?
『彼の、花になく鴬、水に住む蛙の声聞けば、生とし活る物、何れか歌を読まざりける有様にて武人武蔵、名君光政綱政は言わずもがな。釈寂厳も、古松軒も、台山雲鵬、順蔵、洪庵、鉄石、大西祝、の如く医者も僧侶も画家も哲学者も皆歌を詠ぜざるものなし。実に和歌は人の心をたねとして萬のことのはとぞなれける。・・・・・』
として、山田貞芳選の吉備百種を載せています。
その百種の中に元義の歌もやはり出ています。
大君の みかど国もり まなリ坂
つきおもしろし われひとりゆく
という歌です。
この歌が出来た由来も、また、なかなか面白いのでご紹介しておきます。
この元義先生、お知らせしたとおりの、なかなかの変人です、髪の形も一風独特だったらしいのです、
「丈長くして大いなる方、たしかに一物ある風姿をそなへ・・・」とあるように、誰でも簡単にかの先生の異様なる髪を結う床屋さんはなかったのです。でも、一軒だけ、御野村八坂(岡山市一宮)に元義のお気に入りの床屋があったのだそうです。
「巧緻にしてこの奇人の意を満たしめた」と、ものの本に記しています。
この床屋は岡山から道程およそ一里あまりの所にあったのですが、元義は、散髪にこの床屋へは、いつも夕方掛けて出かけて行ったという。
ある時、月明かりに乗じて出かけて行ったのだそうです。そんなに遅く行ってもこの床屋はいやな顔一つせず、開けてまってくれていたという。この床屋さんもまた相当な奇人だったようです。
その道中が大層気に行って、即ち歌ったのが、この歌「大君の・・」という歌なのです。
「みかど」「くにもり」「万成坂」というのはこの道中の地名なのです。
元義先生は
「歌はつくるものにはあらずしてよむものなり」
と、常々言っていたのだそうです。この歌もまさにその通りです。自然と口を衝いて出てきたものなのです。見た通りが歌になるのです。
文字をこねまわしして、作り上げ、造り上げしている今の歌を、元義先生はどうおもわれるでしょうか?