私の町 吉備津

藤井高尚って知っている??今、彼の著書[歌のしるべ]を紹介しております。

吉備って知っている  108 平賀元義⑦

2009-02-23 10:39:39 | Weblog
 元義は33歳の時岡山藩を去っています。その原因は女性問題だと思う人がいるかもしれませんが。扶持離れの原因は、奇癖詩人のことですから、窮屈な宮仕に辟易して自ら藩籍を脱して退去したのだと言う人もいます。また、彼の同僚の妬み謗りによるものだという説もあるし、はたまた、ある日途上で友人のために人を切り殺したのが原因だという説もあったとか。どれが真実かは分かりません。
 藩籍を脱した時に読んだ歌も残っています。

  すみなれし 真菰かられて 明日よりは 
                 どこに蛍の 身を隠すべき

 と詠んでいる所を見ると、「やれやれこれで窮屈な武士の生活を離れて自由に生きられるのだ」という何か大きな意気込みたいなものがこの歌の中に感じられます。まあ、考えてみると、彼は生来じっと一か所に留まって、静かに手枷足枷の隠忍自重の生活に絶えると言った性格の持つ主ではなかったのですから、当然のことだと言えばその通りであると思われます。
 このようにして、ともかく自由な身になってから、彼は岡山を離れます。山陰や隠岐に、また、四国にと思いのままの放浪の旅が続きます。が、数年の後、再び、岡山に戻り、それからは播州や三備の村々を徘徊して半醒半酔の生活を十数年も続けております。
 行く所々で本当に元義らしい自由奔放な生活があったようですが、中でも今も記録に残っている逸話の一つをご紹介します。
 備前の香登村で、ある夜、門人の家に泊ったのだそうです。例によって、酔うて夜中に厠に行く時、丁度、その家が造作か何かの最中だったものですから、その縁の側に溜めておいた土壁用の泥の中に落ちたのだそうです。落ちた元義はその土壁用の泥の中で悠然と「梅の花云々」歌って、辺りにあった梅の花を見て平然としていたというのです。
 この梅の花の後のことばは伝わってはいませんが、本当に自分の思いのまま生きた人です。泥の中からでも歌が浮かんでくるのですから相当なものだと思われます。普通なら、決して、できっこでないようなことを平然とするのですから驚かずにはいられません。
 彼の歌の中に、次のような歌が残っていますから、その時の彼の思いを想像してみるのも一興ではないかと思います。

    あかねさす ひるにみつれど いもがそのの 
             うめはつきよに みるにしかずも

 漫画になりますよね。

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