私の町 吉備津

藤井高尚って知っている??今、彼の著書[歌のしるべ]を紹介しております。

吉備って知っている  100

2009-02-10 21:12:09 | Weblog
 さて、「吉備って知っている」も、なにやかにやと書き綴ってまいりましたが、今日で100回を数えます。
 捜せばいろいろな人物が現われたり消えたりしながら歴史が巡っているということが分かります。果たして、人間とは偉いものなのでしょうか、それとも、とんでもない神様の思い違いで、こんなくだらない動物を生んでしまったのでしょうか。
 「脱税だ」「虚偽だ」と、今夜も、そんなニュースが華々しく報道されています。それこそ正義なんてものは、とっくにこの世の中から消え去ってしまっているのではと思えます。
 何かこましゃくれた人だけがこぞって悪いことをするのが当たり前であるごとくに、分からなければ、「それはしても許されるのだ」と、いうように、おおっぴらに堂々と不正を行っています。
 それらの人々に共通しているのが、すぐ後では、ばれるのですが、ようもこんなに平気で臆面もなく「私はやってない。私は正義だ」と言いえるなあと、見ている私にすら思えるような発言をしています。「ぬかす」という方がこの場合は適切ではないかとも思もえるのですが。
 昔、小西とか何とかいった人が「何と言いましょうか」と言っていましたが。将にそんな気持ちになる昨今で、開いた口もふさがりません。
 次から次へと、ようもこんな嘘を固めた世の中が続くもんですな。
 「悪いことをしなくては損だ」と、国民みんな思っているのではと、錯覚するようにも思えます。
 「20億円」なんてお金の単位が、われわれ庶民の生活とが無関係に辺りを飛び回っています。恐ろしい世の中ですね。
 どいつもこいつもお金儲けにしか人生の意義を見いだせないないような社会になり下がってしまっています。「正義」「仁義」「責任」などといった人として当然重んじなくてはならない道徳なんか、とっくに昔になくなってしまっているのでしょうか。

 いやはやとんでもない世の中になってしまったようですな。

 吉備の国にも、こんなしょうもない世の中を、江戸末期の時代をどう思っていたのかはわからないのですが、気ままに、それこそ、無責任を絵に描いたように自由奔放に生きた一人の奇人がいます。その人を3,4回にわたってご紹介します。

吉備って知っている  99 小野春風

2009-02-09 15:19:18 | Weblog
 5日間ほど、ちょっと愚妻と旅をして来ました。保則が出向いた出羽の国の真っ白な景色が見たくなって、渡島などアイヌの国を覗いて来ました。
 
 「藤原保則」は、もう10回を数え、長くなりました。これを皮切に、次へと思ったのですが、旅の車窓から眺めた駒ヶ岳などの渡島の山々を見ていますと、どうしてかは分からないのですが、この風景を、蝦夷反乱軍の陣中に、ただ一騎で堂々と入って行った鎮守府将軍「小野春風」のことが気になって仕方ありません。彼もまた、きっと波高い津軽の海峡を渡って来て、この風景は見たのではないかという気になります。
 帰ってきて早速「春風」とはどんな人だろうかと、あらためて探してみました。
 彼は、当時(平安中期の天慶年間)、日本一の「驍勇(ぎょうゆう)-強くて勇猛な」な武人だったと、歴史の中に記録されています。でも、意外なことに、彼は、単に勇猛さだけの武人だったわけではありません。驚くこと勿れ、また、豊かな深い教養をも兼ね備えた文武両道の人でもあったのです。
 古今和歌集の中にも取り上げられる程の歌読みでした。
 その一首に、
   天彦の おとずれじとぞ 今は思ふ
            我か人かと 身をたどる世に
   恋人からの手紙がきて、心がときめいている様子をうたった歌です。天彦というのは、山彦のことで音の枕詞です。
             
 この歌を作った時、春風は、左近将監という役職を、讒謗(ざんぼう)によって解かれた時のことです。さぞや意気消沈していただろうと思われるのですが、あにはからんや、そうではないのです。女からの手紙で有頂天になっているのです。
 彼の物事にこだわらないさっぱりした磊落な気持ちがよく表れている歌です。
 古今集には、この他にもう一首、彼の歌が取り上げられています。この方も言わずもがなですが、やっぱり恋の歌です。
 
 平安期の武人ってとっても魅力ありますよね。

吉備って知っている  97 藤原保則⑬ 市会議員に物申す

2009-02-03 08:51:29 | Weblog
 この保則については、ほんの4~5回と思っていたのですが、つい今日で13回にもなってしまいました。
 つい先日、新聞で「岡山市会議員の代表がオーストラリアなどの国に視察に行った。経費は総額500万円だ」という記事を読みました。
 「一体、こいつら、なにゅうかんがよんなら」と言いたい気分になりました。100年に一回の未曽有な危機であるという時にです。「ほどほどにせえ」という気分になります、あらしゅうて本気で怒る気にもなりません。こんな時こそ、その総額500万円という数字を、もっと有効な他に転用して、今確実に困っている人の救済に充てるなんて芸当ができないのでしょうか。市会議員と言うのは、そんな「正義」も何も無い、いや知らない、うつつぬかしのへこたれバカ殿の集まりででしょうか。それとも、とっくの昔に、そんな言葉をどこかへほっぽり出してしまっているような情けない人に落ちぶれてしまったのでしょうか。
 「何と情けない議員ども」
 と、わが市会議員殿に申し上げたい。
 その500万と言うお金があったるなら、もっと違った所への使い道があるのではないでしょうか。オーストラリヤなどは今どうして行かなければならない所なのでしょうか。それこそ陋習そのものではないのでしょうか。そんなことも分からない輩の集まりであれば、市会議って市長も含めて本当に情けないところであるような気がしてなりません。それでいて「政令都市だ」と、のさばっていていいもんでしょうか。
 
 まあ、そんな気持ちも少しはあって、「社会正義」の鑑でもある藤原保則の事を、ああでもない、こうでもないと、少々しつこく深く掘り下げましたが、その議員たちも今日にでもご帰還あそばすとか。
 

 いやはや前置きが随分と長くなりましたが、この視察に行った議員達のことも頭に於いて、まあ、最後の保則の逸話をお聞きください。これが為政者の正義だと思うのです。爪の垢でも飲ませたいものです。

 さて、貞観17年、秩満ちて京に帰る保則を見送ろうとして、あふれんばかりの両備の人たちは、悲号して路にはいつくばっていたのだそうです。そんな道を進んでいた保則の前に、一人の白髪のみすぼらしい老人が進みでて、酒肴を捧げ持ちて、  
 「ありがとうございました。国主様、あなたのご恩は決して忘れません。、お別れに、この濁り酒と誠に粗末な肴を用意しました。どうぞ一口でいいのです飲んでください。それで私の国主様とのお別れがしとうございます。冥土の土産に、どうぞお受け取りください」
 「折角の志ありがたく頂戴つかまつる」
 と、保則は、旅の歩を休めて、白髪の老人が差し出すお酒を飲んだという。するとどうでしょう、後から後からその老人のように酒肴を奉った両備の人が並んだと言います。
 「老人の志を見過ごすことはできない」
 と、保則は、そこに数日間も、留まったて最後の別れをしたという。
 最後の別れのため、なけなしの金をはたいてまで去りゆく国主様にと酒肴を差し出した老人も老人なら、それをありがたく旅を止めてまで飲んだ、また、その予定までを変更してでもその場にとどまった、保則の機を見る目の敏に驚かずにはいられません。
 そんなことを考えていると、今度の、市民の多くの人々の思いを振りきってまで出発した者どもの心の違いを思わざるにはいきません。
 ちょっと、また、横道にそれました。
 そのようなお礼に来るものが後から後からと無限に続くかと思われます。仕方なく保則は、密かに、「方上津(片上港)」に着きます。
 そこで最後のお別れのため待ち受けていた備前の郡司(土豪の武士)たちが見たものは、保則が持っていた持ち物(10年ばかり務めた国司の京へ帰るための荷物)のあまりにも貧弱な少なさです。「どうしてこれだけなのか」「もっとたくさんあるはずだ」「何でこれっぽちなの」と、てんでに驚きが隠せません。それからすぐにそこにいた郡司らは白米200石を持ちより、去りゆく国主保則の帰りの船に積んだのです。それを知った保則は
 「今、私の船の中に妖しげな不吉な影が立っている、前途がいたって怪しい。願わくば国分寺の僧を率いて、方上津の埠頭で般若心経を誦して私の航行の安全を祈ってほしい」
 と、いうのです。早速、大勢の僧侶が集められ、津頭で保則の船の安全を祈ったのだそうです。それもたった一回きりの般若心経をです。その読経が済むと、保則は、郡司たちの心ばかりの200石をことごとく読経の御礼と称して、国分寺の僧侶に与えます。そして、「夜中、帆を挙げて去る」とあります。
 多分、天心の月明かりのなかを静かに船出していったのだろうと思います。誰かが別れの横笛でも吹いておれば、もっと絵になるのにと、勝手に自分一人で、このお話しを楽しんでいます。
 さて、保則は、どうして国分寺の僧侶に、特に、読経させたのか、それも般若心経をたっ一回きりか、詳しくはわからないのですが、多分、当時、備前の国分寺に何かが起こっていて、財政的に困っていたので、その助けの一部にでもなればと考えてのことだろうと想像しています。再建か何かのために、という予想もできます。
 余りにも少ない荷物に、せめてのお餞別として送った郡司からの特別な物さへ一粒たりとも自分のものとしなかった保則の人物ってなんでしょう。公私をはっきりとわきまえていた人す。知れば知るほど魅力を感じる人でもあるのです。
 この保則という、たった短い一時の僥倖を両備の人はつかんだのです。それをいつまでもという気が長い行列の別れの挨拶になったのです。この僥倖は、日本の歴史の中でも100年に一回どころの話ではありません。1000年に一回あるかなしかの話であるかのように思われます。

 まあ大変な名君だと思われます。今、自分は、自分のためではない、公のために何をすべきか、何時も、常に考えて、それを実行に移していた政治家ではないかと思われます。
 「つめあか」もんですよね。・・・・・ まそれもよかですか。人生いろいろですもの。
 

2月です。

2009-02-02 09:42:25 | Weblog
 「いよいよ」と言うべきが、「はやくも」というべきが?まあ兎に角、時間が経つのがこんないはやいとは、驚き以上のものとして、今、実感している二月です。

 さて、この二月を少々。

 初めに、型通りに「如月(きさらぎ)」についてです。
 ご存じの通り二月は、「余りの寒さのため、もう一枚着物を重ねて着る」、「着更着」「衣(きぬ)更着」ということから「きさらぎ」になったのだとか。
 この他に、「時気(節季)が更に来る」ということから「きさらぎ」だ、とするのもあるようですが、前の説が今では一般化されているようです。

 この「節季」と言う言葉はもう死語になってしまっていますが、私の祖母たちはよく12月の終わりごろから
 「もう節季もちけえけえ、障子もはらにゃあならんし、つけもんもつけにゃあならんし。いそがしゅうなるど」
 と言う会話が、日常の生活の中で、どんどん絣の着物と一緒に使われていたように覚えています。しかし、たまに訪れる私の田舎でも、今は、どこに行っても耳にすることすらありません。まして、あれほどぽポプピュラーであった着物なんか目にすることは皆無なのです。たった5、60年しか経ってないのですが、時代の変化とは、また、恐ろしいものですね。

 そんなことはどうでもいいのですが、本論に立ち返ります。
 この2月を意味する「如月」では、いつ頃からあったのかと言いますと、日本書紀の「神武紀」に
 「東征五年戊午(つちのえうま)春二月(はるきさらぎ)丁酉(ひのととり)・・」
 と、二月(きさらぎ)がででいます。
 でも、古事記には、天武天皇の条に
 「歳次大梁、月夾鐘踵・・」とあり、この「夾鐘(きょうしょう)」と言うのが二月の意味なのだそうです。
 更に変わったところでは。「伎佐良芸月」は「久佐伎波里(くさぎはり)月」で草や木の芽が張り出す月だということから付けられたというのです。
 なお、「夾鐘」の「夾」は草木が皮を破って生え出てくること、「鐘」とは草木がその姿を現すという意味なのだそうです。

 さていよいよ二月。寒さに負けにいで頑張りたいものです。


 あ、そうそう2月と言えば、
 「ひてえしょうがつ」
 と、言う言葉知っていますか。
 「一日(ひとひ)正月」だと言う人もいますが、私は「一重」〈ひとえ〉正月が一回りしたと言う意味ではないかと思っています。二月一日に、最後の正月を祝わったのです。今は、これも完全なる死語になっていますが。娯楽の少ない冬、何回目かの正月を、昔はこんな日をわざわざこしらえて、飲んだり食ったりして、楽しんでいたのでしょう。これでいよいよ正月ともお別れです。小正月と並んで、昔の百姓の食べて楽しむ他なかった冬の生活の残骸のようなものです。働く場所を在所の自分のちっぽけな田畑にしか持ち得なかった当時の百姓の貧しさが如実に表われた行事だと、言ってもいいと思います。

孫娘からのお礼の返事がありました

2009-02-01 10:28:40 | Weblog
 昨夜のブログに孫からお礼が届きました。
 「40万年も前の事をどうして知っているのかな?。もしかして、おじいちゃんは40万歳じゃないのか」というのです。

 そこで、また便りを載せました。

 「30~50万年も前のことでも、今ははっきりとわかるのですよ。人が見つけた火を使うと、真っ黒なすすが、いっぱいそこらあたりにくっつきます。このいろいろなものについたあのまっくろい「すす」から、それがついたのは、いつごろかということがよくわかるのです。ちょっとむずかしいのですが、この「すす」は時間がたつと、だんだんと、もとあった「すす」ではなくて、ちがう「すす」に変(か)わっていくのです。それを測(はか)る道具を、今の人が、ああでもないこうでもないと、考えてついに測る機械(きかい)をみつけたのです。だから、いまではこれはいつごろ出来(でき)たものか、10年前か、それとも1000年前か、40万年前か知ることができるようになったのです。
 今まで分(わ)からなかったことでがわかるようになることを、「科学(かがく)の進歩(しんぽ)」というんだよ。
 花奈のお父ちゃんも、この科学の進歩のためのお仕事(しごと)をしているのだよ。どんなお仕事が一度見学(けんがく)させてもらったらどうかな。

 この科学の進歩のおかげで、おじいちゃんも、だから39万年も長生きしなくても、昔(むかし)のことが手に取るように分かるのだよ。
       
         

 これは何だか知っていますか? 
 今から2000年くらい前の人が使っていた土器です。岡山大学の辺りから掘り出したものです。これもこの土器が使われていた時代を測る機械(きかい)にかけて測ってもらいました。正かくには、1985~2000年ぐらい前に作られたものだということが分かりました。もし今測っていただくとさらにくわしい時代がわかるのですが。
 「科学(かがく)」っておもしろいでしょう。
 科学というのは、地球だけでなく宇宙の中にあるいろいろな物のでき方やそのきまりを調べるお勉強なのです。
 そのお勉強の中で、一番すぐれた働きをした人がもらえるのが「ノーベル賞」なのです。毎年、全世界の中からえばれます。今年は日本から4人も(正しくは3人だそうですが)の人がもらったよね、知っているでしょう。

 勉強のしっかりしてく、えらい科学者になる夢をもってはどうかな。

 なお、土器の下にしいてある本は今から200年ほど前にできた本です。これは機械ではかったものではありません。本にはいついんさつしたか書かれているからはっきりといつかということが分かります。文化14年(1817年)に出た本です。古いことを調べてみることもおもしろいですよ。
 おじいちゃんは今そのなかにはいりこんでいます。

  はなへ     
                       おじいちゃんより