私の町 吉備津

藤井高尚って知っている??今、彼の著書[歌のしるべ]を紹介しております。

吉備って知っている  110 平賀元義⑨

2009-02-25 10:24:58 | Weblog
 元義も次第に年を重ねてくると、越し方の自分の生きざまを見つめるようになったと言われます。しかし、依然として彼の生活には、酒にまつわるさまざまな狂態な暮らしぶりはなかなか治らなかったようですが、それでもある時から、どうしてそうなったのかは分からないのですが、磐梨郡稲巻村の神社の巫女と一緒に暮らすようになり、2人の子までなしたのだそうです。
 この2人の男の子はそれぞれあまり出来が良くなく、長男の方は、後に窃盗などを働き官憲に捕えられますし、また、末の子も、とんでもない放蕩息子で、元義が書き残した吉備の地理歴史等の本や歌集など、この家にあったものは全て売り払ってしまい、どこに行ったのか行方不明になっています。

 そんな中、元義は邑久郡に住む藤井高尚の高弟業合大枝を訪ねたことがあるのだそうです。当時、大枝は岡山藩主池田候の要請を受けて岡山でいろいろな階層の子弟に、神道について教えていました。その大枝を頼って、再び、岡山城下でという思いがあったのではと思えますが、どっこい、大枝は用事があるとかなんとか言って、決して、この元義には会おうとしなかったそうです。
 その時、読んだ歌が残っています。
  
   弓柄とる ますら男子(おのこ)し おもうこと
              とげずほとほと かえるべきかも
 という歌です。
 ああ、やっぱり会ってくれないか。それもいたしかたないか。それにしても世の中は誰も彼も何と攣れないのだろうか。それもまたいいか。なるようにおなるさ。ケセラセラさと、鷹揚な心で帰って行ったとするならば、たいしたものですが、恨めしく思ったとするならば、これもまた人としての元義として認めざるを得ないのですが。皆さんはどちらだと思われますか。

 「ほとほと」という言葉から、まあ、私は、「これもまた人生か」と、怨みつらみではなく、やっぱり大枝でもそうかと、いう何かサバサバした心で帰ったのではと思っています。その言葉が彼の人生のすべてを物語っているようでもあります