「わが方へ味方せよ」
という信長よりの御請に対して、宗治の返答は、次のようであったと言う。
『折角の信長公よりの御意ではありますが、私は数年来毛利家に随い、天下境目の守護を任され真心のある志(懇志不ゝ浅)を受けております、この大恩を忘れて、毛利家に背いたならば、これほどの恥はないと存じます(屍の上の恥辱也)。例え備前備中両国を賜り、我家の栄華となりましょうとも、武士の面目は何処にありましょうや』
という書状を堀家掃部に渡します。
その書状を見て、再度、秀吉は宗治中島宛に使いを遣ります。
秀吉の書状には
『あなは「屍の上の恥辱」と申されるが、この戦いは天下国家のため戦いであるのです。織田信長という一武将の単なる好奇心のための戦いではないのです。もしこの戦いに勝利するなら、貴殿たちを信長公も大国の国主として迎えられることになりましょう。どうぞ味方ください』
と。
これに対して清水宗治は、再び
『累年の懇意浅からず候。たっての秀吉公のお頼みとは言え、毛利家に忠節を尽くす事が、我家の面目、死後の名誉となりましょう。「貞女両夫に見えず。賢臣二君に仕えず」と聞き及んでいます、吾等忠孝こそ未だ成り難たしといえども、信長公方へのお味方は到底致しかねます』
という書状を秀吉へ渡すよう使いの者に託したという。
この宗治の言葉を伝え聞いた毛利方・織田方双方の兵士達は、みんな『これぞ武士の鑑である』と褒め称えたそうです。
秀吉も
「武将たらん者 かくありたけれ。忠義の名は世に不ゝ朽と」
と宣うと。
一度断られても、臆面もなく再度遣いを派遣して、更に、説得を試みる、このあたりの秀吉の心配り、周りへの配慮が、織田家に代わって、全国統一を成し遂げ豊臣政権の誕生を見る歴史的要因になっているのではと思われます。
こう考えてみると、江戸以降の歴史は、歴史学者も誰も言ってはいないのですが、この「高松城の合戦」から始まったといっても決して言い過ぎではないと思います。
という信長よりの御請に対して、宗治の返答は、次のようであったと言う。
『折角の信長公よりの御意ではありますが、私は数年来毛利家に随い、天下境目の守護を任され真心のある志(懇志不ゝ浅)を受けております、この大恩を忘れて、毛利家に背いたならば、これほどの恥はないと存じます(屍の上の恥辱也)。例え備前備中両国を賜り、我家の栄華となりましょうとも、武士の面目は何処にありましょうや』
という書状を堀家掃部に渡します。
その書状を見て、再度、秀吉は宗治中島宛に使いを遣ります。
秀吉の書状には
『あなは「屍の上の恥辱」と申されるが、この戦いは天下国家のため戦いであるのです。織田信長という一武将の単なる好奇心のための戦いではないのです。もしこの戦いに勝利するなら、貴殿たちを信長公も大国の国主として迎えられることになりましょう。どうぞ味方ください』
と。
これに対して清水宗治は、再び
『累年の懇意浅からず候。たっての秀吉公のお頼みとは言え、毛利家に忠節を尽くす事が、我家の面目、死後の名誉となりましょう。「貞女両夫に見えず。賢臣二君に仕えず」と聞き及んでいます、吾等忠孝こそ未だ成り難たしといえども、信長公方へのお味方は到底致しかねます』
という書状を秀吉へ渡すよう使いの者に託したという。
この宗治の言葉を伝え聞いた毛利方・織田方双方の兵士達は、みんな『これぞ武士の鑑である』と褒め称えたそうです。
秀吉も
「武将たらん者 かくありたけれ。忠義の名は世に不ゝ朽と」
と宣うと。
一度断られても、臆面もなく再度遣いを派遣して、更に、説得を試みる、このあたりの秀吉の心配り、周りへの配慮が、織田家に代わって、全国統一を成し遂げ豊臣政権の誕生を見る歴史的要因になっているのではと思われます。
こう考えてみると、江戸以降の歴史は、歴史学者も誰も言ってはいないのですが、この「高松城の合戦」から始まったといっても決して言い過ぎではないと思います。
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