私の町 吉備津

藤井高尚って知っている??今、彼の著書[歌のしるべ]を紹介しております。

小宰相の恋、細谷川の丸木橋

2006-11-18 15:22:19 | Weblog


     
 
 成親卿の墓を後にして、しばらく急峻な坂道を下ると、有木別所の高麗寺の山門の跡だと言われています礎石が見えます。
 そこを少し下ると、細谷川に差し掛かり、「細谷川の丸木橋」と刻まれた標石があります。ご丁寧に、朽ちかけた丸木橋までちゃんとしつらえてあるではありませんか。
 この「細谷川の丸木橋」と言う言葉は、どうも、当時、都での流行り歌の一つとして、人々の間で歌われていたらしく、その言葉を利用して、平 通盛という平家の公達が、自分の恋を達成させようとして使ったのが、平家物語の中に出てきます。
 その物語によりますと、 
 平家の公達の中でも優男と言われた平 通盛は、当代一の美女とうわさされていた上西門院(鳥羽天皇の第二皇女)の女房、小宰相という人に深い思いを募ら、3年もの間、恋の手紙を出し続けていたそうです。でも、彼女からの色よい返事は届かなかったそうです。
 これを最後にして、もし思いが通じなかったなら、我恋は諦めようとして手紙を書きました。でも、その気のない小宰相は、手紙の置き場に困り、直ぐそこに捨てるのもと思い、内懐に入れていたのですが、事もあろうか、女院の部屋に落として、それも女院に拾われてしまったそうです。

 その手紙の中に書いてあった歌が
   わがこひは 細谷川の丸木橋 
          ふみ返されて ぬるる袖かな
 でした。
 
 この手紙をお拾いになられた女院は、甚く、通盛に同情されて、小宰相に代わって返事を出して上げられたそうです。

 その中で、女院が戯れにお書きになった歌が
   ただ憑め 細谷川の丸木橋
         ふみ返しては 落ちざらめやは
 と言うのだそうです。
 
 でも、これが縁となって、二人に恋が芽生え、後には人もうらやむ程の相思相愛の夫婦になるのです。
 でも、この恋は、結局、悲劇に終わります。
 通盛は一の谷の合戦で戦死し、それを聞いた小宰相は、船から海に身を投げ死んでしまいます。
 
 話は変わりますが、小宰相を、通盛と同じように「是非、我が物に」と思った当時の平家の公達は多くいたようです。建礼門院右京太夫の恋人、平 資盛もそのうちの一人だと言う事です。

                        


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