私の町 吉備津

藤井高尚って知っている??今、彼の著書[歌のしるべ]を紹介しております。

おせん 92  須磨の浦波

2008-08-05 20:05:38 | Weblog
 白露も過ぎ漸く秋を身の近くに感じる頃となりました。お店では収穫の秋を控えて小忙しく猫の手も借りたいほどです。平蔵はかねての打ち合わせ通り伊予に旅立ちます。その平蔵の出発に合わせて、おせんたち3人の備中宮内への旅が行われることになりました。この度の平蔵の旅は播磨の室津から船で讃岐に渡り讃州高松を経て伊予に行く予定です。室津までは4人旅になります。備前児島を経てと御寮ンさんお由はしきりに進めたのですが、少しでも早く伊予に尽きたいという平蔵の希望もあって室津から船旅となったのです。
 須磨の旅籠では、大旦那様の独壇場です。お得意の源氏物語の場面をそれは詳しく恰も浄瑠璃をきいているかのようにお語りになられます。
 「須磨には、いとど心づくしの秋風に、海はすこしとほけれど、行平の中納言の、「関ふき越ゆる」と言いけむ浦波、夜々は、げに、いと近う聞こえて、またなく、あわれなるものは、かかる処の秋なりけり・・・・・・恋ひわびて 泣く音に紛ふ 浦波は 思う方より 風や吹くらん・・・遠い遠い雅の世界に生きた人たちも物語りでおす。でも、今ここに聞こえてくる浦波も、そのときと同じ憐れに聞こえてくるのがどうじゃ。紫式部というお人はとてつもなく奥深くものを見る目が確かなお人であったということができるのじゃが。この歌でも分るじゃろ・・・あの浦波のものがなしは何に例えんじゃ・・・・」
 じっと耳を澄まして聞いていると、障子の外から遠くかすかに聞こえてくる寄せ手は返す波の音の何ともいえない哀愁を帯びたこの須磨でしか味わえな浦波の音が、大旦那様の説明なさる光源氏の幻影と重なるようにして心の中に響いてきます。
 おせんは思うのです。あの須磨の浦波の音は、おせんにとっては、この歌のように自分の泣く音であるはずがありません。いくら恋詫びてもあの人は決して自分のもとには来る事はありません。余りの悲しさのため泣く事すら忘れてしまっている今なのですもの。あの人はもういないのですから。そんなおせんの心を知ってかしらでか、静かに大旦那様の秋の夜長の物語が続きます。
 おせんには、遠くから聞こえてくる幽かな須磨の浦波は、泣く音に紛うというより、「辛い、会いたい、辛い、会いたい」そんな風に叫んでいる今の自分自身の心の声のようにむなしく聞こえてくるのでした。
 須磨の夜も更けていきます、浦波の音とともに。




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