私の町 吉備津

藤井高尚って知っている??今、彼の著書[歌のしるべ]を紹介しております。

渡辺数馬報讐始末の事 3

2010-10-08 18:06:03 | Weblog
 さて、、弟源太夫を殺されたと聞いた渡辺数馬は義父の一緒に急いで家に帰ります。犯人が河合又五郎だと聞き、大急ぎで、又五郎の父親の河合半左衛門宅へ行き、「これこれしかじかで、ぜひ対面したい」と、大声で叫んでも、門を堅く閉ざして入る事も出来なかったのです。そこに、役人荒尾、加藤と云う人も、半左衛門宅へ駆けつけてきます。どのような説得があったのか、此の紀段には何も書いてはいませんが、荒尾某と云う重臣が中に入り、一応、半左衛門を預かる形になって、菅権之介と云う重役に一任します。そして、又五郎を、素直に役人に差し出し、直ちに切腹させるように説得するのですが、
 「自分には与り知らぬ事ゆえ、知らん。そちらで、どうにでもしてくれ」
 と、けんもほろろに断ります。
 その間に、密かに、又五郎を江戸に逃げさせます。それを助けた人の名前も分かっています。安藤治左衛門と云う人だそうです。
 そうこうしているうちに、藩主の池田忠雄が疱瘡を患い死に、その忠雄の従兄弟である阿波の松平忠英が藩主となって岡山に来ます。そして、寛永九年七月備前と因幡の国替えが行われ、池田光政が備前の藩主になります。
 その間、数馬は、弟源太夫の仇打ちせんと、児島に於いて、仇、河合又五郎を探します。
 そこら辺りの詳しい様子は何にも記されてはいません。

 多分、岡山藩では藩主の死亡と云う火急の用件が勃発して、そんな藩士の仇打ちにかまけているような余裕はなかったと思います。しかし、当時の社会思想からして、数馬は、どうしても仇又五郎を討ちはてなくては、渡辺家の存続が危ぶまれるような危機に晒されていたのです。この数馬は、如何してかは分からないのですが、児島に引きこもって、懸命に、数馬は又五郎のその後の行方を捜すのです。しかし、ようとしてその消息は依然として知れませんでした。
 

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