私の町 吉備津

藤井高尚って知っている??今、彼の著書[歌のしるべ]を紹介しております。

渡辺数馬報讐始末の事 2

2010-10-07 06:36:17 | Weblog

 あの渡辺数馬の事件について、「常山紀談」でも、取り上げてあります。

 そもそもの事件の発端は、寛永七年七月二一日、岡山の城下の大手にて、をどりが興行されたことによります。その夜、数馬は、何の用事だっかはそれについては何も記されていませんが、兎に角、自分の家にはいませんでした。妻の父親津田の家に行っており、家には、数馬の弟源太夫がいたのだそうです。そこに河合又五郎が、これ又、何の用事かは、常山は書いてないのですが訪ねていきます。
 それまで源太夫と又五郎は顔見知りで、随分と親しかったようです。しかし、それが、話がどう転んだのかも、またまた、分からないのですが、この河合又五郎主従四人が、事もあろうに、数馬の弟源太夫を切り殺してしまう結果になるのです。その時、この又五郎は、よっぽど、この殺傷事件に驚いたのか、自分の脇差の鞘をその場に落としたまま、どこに姿を隠くしてしまいます。
 数馬の下部(しもべ)岩佐作兵衛は、その日、体の調子が悪く、自分の家で臥せっていたのですが、数馬の家の騒ぎを聞きつけ、急いで、路地を飛び出します。すると、その時、路地の奥より、血刀を下げた者が、急に飛び出してくるのに出会います。丁度、そこに徒目付、「遠山才兵衛」が現われます。この人も、相当腕に自信があったと見えて、河合又五郎の従者三人を悉く取り押さえています。従者と云うのは小間使いような百姓上がりの人であったのではないかと思うのですが取り押さえています。

 さてと、これがあの荒木又衛門の伊賀上野での三七人切りの始まりなのです。

 なお、この「常山紀段」には書かれてはないのですが、数馬の弟源太夫と云う人は大変なイケメンだったらいいのです。そのイケメン源太夫に、この河合又五郎が大層懸想して、常日頃いい寄っていたのだそうです。当日、源太夫の家には、兄数馬も留守です。彼一人しかいません。それをよいことに、この河合又五郎が近づたのだそうです。そもそも、これが、このいざこざが源であるとされているのが真相らしいのです。私にはわからないのですが、男色と云うのは、そんなに、いいもんでしょうかね。


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