私の町 吉備津

藤井高尚って知っている??今、彼の著書[歌のしるべ]を紹介しております。

おせん 31

2008-05-18 14:35:30 | Weblog
 暫らくして、平蔵は伊予へ向かって旅立ちます。その留守の間、大旦那様のたってのお頼みで、お園は、平蔵とは別の形で、舟木屋の門をくぐることになります。全く考えても見なかった奉公です。人様に仕えるということはどういうことだということもよく考えないで、「平どんが留守の間に、ちょっと、孫の話し相手になってもらえんやろか。気楽にきてもらえれば」という大旦那様の言葉に従って、おせんさんの元にやってきました。
 舟木屋の当主徳太郎お由夫妻も、お園のことを大旦那様から聞き、藁をも掴むような気持ちで待ってくれておりました。
 「近頃はずっと家に引きこもりきりで、一歩も外へ出しまへんねん」
 と、娘を思う御寮んさんに案内されて、初めてお園はおせんに逢います。
 大坂でも指折りの大店です。敷地も広く、おせんのいる部屋は、お店よりやや奥の植え込みのある離れに一人で寝起きしているのです。
 「勝手口から、直に、ここへこれますさかい」
 と、明日からの道も教えてくれます。
 「おせん、お園さんどす。おじいさまがよくお世話になっている備中の宮内の立見屋さんから、お店の平どんのおよめさんにおなりになって、このたびお出でどした。おじい様が、おせんのことをそれはそれは心配なさって、お園さんをおせんのお相手にと、お頼みしたのっどす。」
 前から、おせんには言い聞かせていたのでしょう。それでも、怪訝そうな目つきをして部屋の真ん中ぐらいに座ったまま、ぺこりと、それこそ型通りの挨拶はします。
 「お園です。このたびこいさんの身の回りのお世話をさせていただくために上がりました。どうぞよろしくお願いします」
 深々と頭を下げます。
 おせんはそんなことを総べて無視しているかのように、どこか魂の抜けた人形さんみたいに視点の定まらない瞳を一方に向けたままで、母親やお園が其処にいるのさへ分らないように無表情に座っています。
 ぼつぼつホトトギスも鳴こうかという時期でもあるのですが、障子は締め切ったままで、部屋には、どことなく生気のない陰鬱な空気が流れています。
 「以前は、こんな事はおまへんでしたが、最近になってこんな調子なのどす。何を聞いても何にも言わしまへん。お医者はんに診てもろうたのどすが、どうもようわからんのどす。・・・・困っとりますねん。」
 嫁入り前の一人娘です。心配で心配で夜も眠れないという。「母親ですさかい。・・・・」と涙声で話され。「よろしゅうお頼みいたします」と深々と頭をお下げになり、御寮ンさんは腫れ物に触るようにそっと部屋から出て行かれます。


最新の画像もっと見る

コメントを投稿